Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記2
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 01:45 投稿番号: [9597 / 41162]
「新聞は嘘つかん」
報道から2週間後の8月19日、連隊会は宮崎市で第1回対策協議会を開いた。
調査のため北郷村に人を派遣することになったが、たまたま当時の第2中隊長だった坂元昵氏から、私が行くとの申し出があった。
氏は生存者の中では最高責任者で、その時86歳という高齢を顧みず、8月24日、自分の息子に車を運転させて、わざわざ鹿児島から出てこられた。
途中、宮崎で中山有良事務局長を乗せ、北郷村に到着したのである。
何よりもまず、日記の主が誰であるかを突きとめねばならない。
問題の記事によれば、日記を書いた兵士は当時23歳の上等兵で「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という。
坂元氏らは、北郷村に住む数名の生存者に訊ねたが、誰にも記憶が無い。
続いて郵便局に行き、年金や恩給の受給関係書類から見つけようとしたが、これも無駄骨だった。
お手上げかなと思ったところで坂元氏が妙案を出した。
「お寺を回ろう。過去帳があるはずだ。」
北郷村には3つの寺があり、2度空振りあと、最後に回ったお寺で、ようやく49年に腎臓病で死亡した元兵士を探し当てたのである。
名前は河野美好―――。
ところが翌朝、河野未亡人に電話してみると、何とも意外なことに、
「主人は日記などつけたことはありません。日記を書くような教養はありませんでした。それから写真機を持つような、そういう贅沢な身分ではありません」
との返事である。
この時点で調査はいったん暗礁に乗り上げてしまう。
昭和59年9月22日。
連隊会の一行5名が朝日新聞宮崎支局に第1回の抗議に出向いた。
対応に出たのは中村大別支局長で、双方にはおおむね次のような激しいやりとりがあった。
連隊会「まずお伺いしますが、本件は東京の本社が取材されたのでしょうか」
支局長「いや、当宮崎支局の取材です」
連隊会「宮崎支局の取材とは驚いた。取材には万全を期しておられるか」
支局長「万全を期している」
連隊会「それなら、なぜ事前に連隊会に照会されなかったのか」
支局長「日記帳や写真が出てきたから、照会の必要はないと思った」
連隊会「日記には23連隊の何中隊と書いてあったか」
支局長「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
連隊会「その兵士の名前は」
支局長「いや!それは言えない。本人に迷惑がかかるから」
連隊会「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわかなんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
支局長「・・・・・・・・・」
連隊会「貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
支局長「その通りだ」
連隊会「新聞記事によると、その日記は1月1日から12月31日まで、毎日1日も欠かさず記入されているとのことだが、本当か」
支局長「その通りだ。表紙はボロボロになっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して昭和12年に記載されたものに間違いないと判断した」
連隊会「それはおかしいではないか。戦争をしている兵隊が毎日毎日、日記がつけられると思いますか!それに鉛筆書きならいざしらず、インクとは恐れいった。当時は、ペン書きするにはインク瓶からスポイトでインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するなど考えられない。ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校ですらカメラを携行したものは1人もいない。
支局長のポストを就任されるだけの学識あるあなたが、1日も欠かさず日記が記入されているということだけで、これはおかしいと思い、カメラ携行とあれば、これは臭いな、となぜお考えにならなかったか。貴方ご自身の方が余程おかしいと私たちは思うのですが、いかがですか」
(続く)
報道から2週間後の8月19日、連隊会は宮崎市で第1回対策協議会を開いた。
調査のため北郷村に人を派遣することになったが、たまたま当時の第2中隊長だった坂元昵氏から、私が行くとの申し出があった。
氏は生存者の中では最高責任者で、その時86歳という高齢を顧みず、8月24日、自分の息子に車を運転させて、わざわざ鹿児島から出てこられた。
途中、宮崎で中山有良事務局長を乗せ、北郷村に到着したのである。
何よりもまず、日記の主が誰であるかを突きとめねばならない。
問題の記事によれば、日記を書いた兵士は当時23歳の上等兵で「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という。
坂元氏らは、北郷村に住む数名の生存者に訊ねたが、誰にも記憶が無い。
続いて郵便局に行き、年金や恩給の受給関係書類から見つけようとしたが、これも無駄骨だった。
お手上げかなと思ったところで坂元氏が妙案を出した。
「お寺を回ろう。過去帳があるはずだ。」
北郷村には3つの寺があり、2度空振りあと、最後に回ったお寺で、ようやく49年に腎臓病で死亡した元兵士を探し当てたのである。
名前は河野美好―――。
ところが翌朝、河野未亡人に電話してみると、何とも意外なことに、
「主人は日記などつけたことはありません。日記を書くような教養はありませんでした。それから写真機を持つような、そういう贅沢な身分ではありません」
との返事である。
この時点で調査はいったん暗礁に乗り上げてしまう。
昭和59年9月22日。
連隊会の一行5名が朝日新聞宮崎支局に第1回の抗議に出向いた。
対応に出たのは中村大別支局長で、双方にはおおむね次のような激しいやりとりがあった。
連隊会「まずお伺いしますが、本件は東京の本社が取材されたのでしょうか」
支局長「いや、当宮崎支局の取材です」
連隊会「宮崎支局の取材とは驚いた。取材には万全を期しておられるか」
支局長「万全を期している」
連隊会「それなら、なぜ事前に連隊会に照会されなかったのか」
支局長「日記帳や写真が出てきたから、照会の必要はないと思った」
連隊会「日記には23連隊の何中隊と書いてあったか」
支局長「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
連隊会「その兵士の名前は」
支局長「いや!それは言えない。本人に迷惑がかかるから」
連隊会「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわかなんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
支局長「・・・・・・・・・」
連隊会「貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
支局長「その通りだ」
連隊会「新聞記事によると、その日記は1月1日から12月31日まで、毎日1日も欠かさず記入されているとのことだが、本当か」
支局長「その通りだ。表紙はボロボロになっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して昭和12年に記載されたものに間違いないと判断した」
連隊会「それはおかしいではないか。戦争をしている兵隊が毎日毎日、日記がつけられると思いますか!それに鉛筆書きならいざしらず、インクとは恐れいった。当時は、ペン書きするにはインク瓶からスポイトでインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するなど考えられない。ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校ですらカメラを携行したものは1人もいない。
支局長のポストを就任されるだけの学識あるあなたが、1日も欠かさず日記が記入されているということだけで、これはおかしいと思い、カメラ携行とあれば、これは臭いな、となぜお考えにならなかったか。貴方ご自身の方が余程おかしいと私たちは思うのですが、いかがですか」
(続く)
これは メッセージ 9596 (deliciousicecoffee さん)への返信です.