Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記4
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 02:01 投稿番号: [9599 / 41162]
「家族のために助けてください」
双方の都合で延び延びとなっていた朝日との2回目の会談が、昭和60(1985)年2月4日、朝日新聞宮崎支局で開かれた。
連隊会側の出席者は前回と同じく5名、先方は中村支局長である。
この席で、中村支局長は意外にも、
「先般から日記が本件のポイントだとご指摘になっておられるから、今日はその日記をお目にかけます」と言ったのである。
連隊会側は色めきたった。
支局長は後方の棚から、ナイロンの袋に入った日記帳と思われるものを取り出した。
てっきりテーブルの上に置かれるのかと思ったら、そうではなく、手に持ったままテーブルから10歩くらい、およそ5メートルほど離れた位置まで後退して、立ったまま自分の胸の高さのところで日記帳の真ん中あたりを左右に広げて見せたのである。
連隊会の後藤田萬平氏が椅子から立ち上がり、近づこうとすると、支局長はこれを制した。
「近寄ってはいけません。書体がわかると誰が書いたかわかりますから」
5メートルも離れていたのでは、それが日記帳だと判断することさえ出来はしない。
実は私自身も、昨年末に一度だけ日記の"現物"を見せてもらっている。
しかしこの時も3メートルほど離れたところからで、判読はいっさい不可能であった。
朝日のこうした態度は何を意味するのであろうか。
日記が本物なら、なぜ堂々と見せようとしないのか。
よほどやましいところがあると思われても、仕方がないではないか。
ともあれ、会談は結局のところ第1回目の論争の蒸し返しに終始したが、それでも終わり近くでかなりの収穫があった。
連隊会側が、「日記を書いた兵士は、49年に腎臓病で死亡したとの朝日記事を踏まえて調査したところ、河野美好氏であることが判明しました。しかし、未亡人は否定しています。どちらが本当か、支局長と河野未亡人とで対決していただけませんか」
と持ちかけたところ、支局長はしばし間をおいてから、
「いや、その人ではなく、別の人から届けられたものです」と答えたのである。
ここで、日記の主は河野氏でないことがはっきりした。
つまり、49年に死去したという部分は、誤報であることが明らかになった。
小さなこととはいえ、記事全体の虚構性をうかがえるに足る貴重な第一歩となったのである。
4日後の2月8日、都城23連隊会は、朝日新聞宮崎支局長宛に正式な抗議文を提出した、記事取消しを求めるなら、「正式の文書にしてご提出下さい」との中村支局長の強気な発言を受けてのものである。
抗議文を提出してまもなく、当の中村支局長から連隊会の中山事務局長に連絡が入った。
今日ご来社、ただし中山さん1人でおいで下さい、他人には聞かれたくない相談がありますから、との電話であった。
前述した「連隊会だより12号」は、中山事務局長を中心にまとめられたものである。
その「連隊会だより」によれば、中山氏が宮崎支社に赴くと、支局長はひどく低姿勢で2階の会議室へと案内した。
支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、「お詫び」だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」
中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」
中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
支局長「そこのところ何とか」
2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。
事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。
(続く)
双方の都合で延び延びとなっていた朝日との2回目の会談が、昭和60(1985)年2月4日、朝日新聞宮崎支局で開かれた。
連隊会側の出席者は前回と同じく5名、先方は中村支局長である。
この席で、中村支局長は意外にも、
「先般から日記が本件のポイントだとご指摘になっておられるから、今日はその日記をお目にかけます」と言ったのである。
連隊会側は色めきたった。
支局長は後方の棚から、ナイロンの袋に入った日記帳と思われるものを取り出した。
てっきりテーブルの上に置かれるのかと思ったら、そうではなく、手に持ったままテーブルから10歩くらい、およそ5メートルほど離れた位置まで後退して、立ったまま自分の胸の高さのところで日記帳の真ん中あたりを左右に広げて見せたのである。
連隊会の後藤田萬平氏が椅子から立ち上がり、近づこうとすると、支局長はこれを制した。
「近寄ってはいけません。書体がわかると誰が書いたかわかりますから」
5メートルも離れていたのでは、それが日記帳だと判断することさえ出来はしない。
実は私自身も、昨年末に一度だけ日記の"現物"を見せてもらっている。
しかしこの時も3メートルほど離れたところからで、判読はいっさい不可能であった。
朝日のこうした態度は何を意味するのであろうか。
日記が本物なら、なぜ堂々と見せようとしないのか。
よほどやましいところがあると思われても、仕方がないではないか。
ともあれ、会談は結局のところ第1回目の論争の蒸し返しに終始したが、それでも終わり近くでかなりの収穫があった。
連隊会側が、「日記を書いた兵士は、49年に腎臓病で死亡したとの朝日記事を踏まえて調査したところ、河野美好氏であることが判明しました。しかし、未亡人は否定しています。どちらが本当か、支局長と河野未亡人とで対決していただけませんか」
と持ちかけたところ、支局長はしばし間をおいてから、
「いや、その人ではなく、別の人から届けられたものです」と答えたのである。
ここで、日記の主は河野氏でないことがはっきりした。
つまり、49年に死去したという部分は、誤報であることが明らかになった。
小さなこととはいえ、記事全体の虚構性をうかがえるに足る貴重な第一歩となったのである。
4日後の2月8日、都城23連隊会は、朝日新聞宮崎支局長宛に正式な抗議文を提出した、記事取消しを求めるなら、「正式の文書にしてご提出下さい」との中村支局長の強気な発言を受けてのものである。
抗議文を提出してまもなく、当の中村支局長から連隊会の中山事務局長に連絡が入った。
今日ご来社、ただし中山さん1人でおいで下さい、他人には聞かれたくない相談がありますから、との電話であった。
前述した「連隊会だより12号」は、中山事務局長を中心にまとめられたものである。
その「連隊会だより」によれば、中山氏が宮崎支社に赴くと、支局長はひどく低姿勢で2階の会議室へと案内した。
支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、「お詫び」だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」
中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」
中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
支局長「そこのところ何とか」
2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。
事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。
(続く)
これは メッセージ 9598 (deliciousicecoffee さん)への返信です.