Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記6
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 02:21 投稿番号: [9602 / 41162]
不可解なおわびではないか。
読みようによっては、写真についてはミスだったが、日記は現存するのだ、と朝日が逆攻勢に出てきたと受け取れなくもない。
朝日のそもそもの記事によれば、写真と日記は二進一体のものだったはずである。
例の記事には、「写真はアルバム3枚残っていた。・・・・・・生前家族に「南京大虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという。・・・・・・生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという」と書かれているのである。
写真と日記には切り離せないものと考えるのが自然であり、それでもなお日記には信憑性があると強弁するのは、居直り強盗と同じたぐいではないか。
それでも、一方の柱であった写真はデッチあげとわかった。
残るは日記の信憑性である。
すでに述べたように、中村支局長の弁によって、日記は河野美好氏のものではないとわかった以上、該当者は宇和田弥一氏以外な考えられない。
どう調べても、他に該当者はいないのだ。
連隊会では数度にわたって未亡人に接触したが、反応は思わしくなかった。
未亡人は「朝日新聞は取っていませんし、朝日新聞社の方と会ったこともない」と繰り返し、ついには「主人の持っていた日記も写真も、昭和57(1982)年7月の洪水の折に納屋が土砂に埋まり、読めなくなったので焼却してしまった」と言い出す始末。
終始一貫、朝日との接触を認めようとはしなかった。
昭和61(1986)年1月25日、朝日新聞宮崎支局2階会議室において、連隊会と朝日西部本社との間で会談がもたれた。
出席者は連隊会5人に対して、朝日側3名。
この会談は、どこまでいっても平行線だった。
「日記も嘘である。日記についての詫びがなされない限り、和解は出来ない」とする連隊会側に対して、朝日側は「写真についてのお詫びで終止符を打っていただきたい」と主張。
「日記を白日のもとにさらせば解決する」と迫れば、「そうなったら日記提供者の氏名が判明して、本人に迷惑が掛かる」と取材源の秘匿を楯に応じようとしない。
押し問答のすえ、「日記は見せられないが、ご指摘の箇所を読み上げることはできる」となり、連隊会側が指摘の部分を宮本次長が読み上げることになったのである。
これは大きな収穫であった。
宮本次長が読み上げた日時のうち、7月27日と12月10日の分が、先述した「都城歩兵23連隊戦記」に引用した宇和田日記の中の日時とたまたま一致し、その内容もほぼ同一であることがわかったのだ。
朝日の所持している日記は宇和田弥一氏の日記に間違いはない。
そして、読み上げられた日記の内容を細かく検討することによって、日記の信憑性に多大の疑問があることも分かってきた。
例えば昭和12年7月27日の日記に、
《午后3時、突如師団からの電報により動員下令。将校集合のラッパ。週番司令から各中隊週番士官に通達された》
とあるが、一兵士の身で師団から電報がきたことがどうしてわかるのか。
午後3時とあるが、その時刻には将校は全員在営中で(午後5時まで勤務)、連隊長が将校全員に直接命令を下すはずだ。
週番司令は連隊長の帰営後に警備のために勤務するもので、動員令のような重大な命令を伝達する権限はない。
また、11月3日から5日にかけての杭州湾上陸の状況も問題である。
11月4日の日記にはこう書いてあるという。
《・・・(不明)・・・の命により、軍は上海南方80里の・・・(不明)・・・地区に先ず第5師団をもって敵前上陸を敢行。F第一線を占領し・・・・・・》
こういう事実を一兵卒がどうやって知り得たのだろうか。
私の連隊は第6師団に属していたかなど、中隊長の私でさえ知る由もなかった。
先述したように、私は昭和49年に歩兵23連隊の戦記編纂の責任者となり、その時初めて旧日本軍の公刊戦史を見て、第5師団が来ていたことを知ったのである。
それを一上等兵が、しかも当日の日記に書くことなどあり得ない話ではないか。
さらに、日記の中に「F」という言葉があるが、これは「敵」を意味し、将校たちが図上演習の際に用いる略語である。
あとからテープを聞いてみると、読み上げた朝日の宮本次長も「これは何だろう」とひっかかりながら読んでいるし、聞いている連隊会もピンときていない。
そんな用語が、なぜ上等兵の当時の日記に書いてあるのか。
(続く)
読みようによっては、写真についてはミスだったが、日記は現存するのだ、と朝日が逆攻勢に出てきたと受け取れなくもない。
朝日のそもそもの記事によれば、写真と日記は二進一体のものだったはずである。
例の記事には、「写真はアルバム3枚残っていた。・・・・・・生前家族に「南京大虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという。・・・・・・生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという」と書かれているのである。
写真と日記には切り離せないものと考えるのが自然であり、それでもなお日記には信憑性があると強弁するのは、居直り強盗と同じたぐいではないか。
それでも、一方の柱であった写真はデッチあげとわかった。
残るは日記の信憑性である。
すでに述べたように、中村支局長の弁によって、日記は河野美好氏のものではないとわかった以上、該当者は宇和田弥一氏以外な考えられない。
どう調べても、他に該当者はいないのだ。
連隊会では数度にわたって未亡人に接触したが、反応は思わしくなかった。
未亡人は「朝日新聞は取っていませんし、朝日新聞社の方と会ったこともない」と繰り返し、ついには「主人の持っていた日記も写真も、昭和57(1982)年7月の洪水の折に納屋が土砂に埋まり、読めなくなったので焼却してしまった」と言い出す始末。
終始一貫、朝日との接触を認めようとはしなかった。
昭和61(1986)年1月25日、朝日新聞宮崎支局2階会議室において、連隊会と朝日西部本社との間で会談がもたれた。
出席者は連隊会5人に対して、朝日側3名。
この会談は、どこまでいっても平行線だった。
「日記も嘘である。日記についての詫びがなされない限り、和解は出来ない」とする連隊会側に対して、朝日側は「写真についてのお詫びで終止符を打っていただきたい」と主張。
「日記を白日のもとにさらせば解決する」と迫れば、「そうなったら日記提供者の氏名が判明して、本人に迷惑が掛かる」と取材源の秘匿を楯に応じようとしない。
押し問答のすえ、「日記は見せられないが、ご指摘の箇所を読み上げることはできる」となり、連隊会側が指摘の部分を宮本次長が読み上げることになったのである。
これは大きな収穫であった。
宮本次長が読み上げた日時のうち、7月27日と12月10日の分が、先述した「都城歩兵23連隊戦記」に引用した宇和田日記の中の日時とたまたま一致し、その内容もほぼ同一であることがわかったのだ。
朝日の所持している日記は宇和田弥一氏の日記に間違いはない。
そして、読み上げられた日記の内容を細かく検討することによって、日記の信憑性に多大の疑問があることも分かってきた。
例えば昭和12年7月27日の日記に、
《午后3時、突如師団からの電報により動員下令。将校集合のラッパ。週番司令から各中隊週番士官に通達された》
とあるが、一兵士の身で師団から電報がきたことがどうしてわかるのか。
午後3時とあるが、その時刻には将校は全員在営中で(午後5時まで勤務)、連隊長が将校全員に直接命令を下すはずだ。
週番司令は連隊長の帰営後に警備のために勤務するもので、動員令のような重大な命令を伝達する権限はない。
また、11月3日から5日にかけての杭州湾上陸の状況も問題である。
11月4日の日記にはこう書いてあるという。
《・・・(不明)・・・の命により、軍は上海南方80里の・・・(不明)・・・地区に先ず第5師団をもって敵前上陸を敢行。F第一線を占領し・・・・・・》
こういう事実を一兵卒がどうやって知り得たのだろうか。
私の連隊は第6師団に属していたかなど、中隊長の私でさえ知る由もなかった。
先述したように、私は昭和49年に歩兵23連隊の戦記編纂の責任者となり、その時初めて旧日本軍の公刊戦史を見て、第5師団が来ていたことを知ったのである。
それを一上等兵が、しかも当日の日記に書くことなどあり得ない話ではないか。
さらに、日記の中に「F」という言葉があるが、これは「敵」を意味し、将校たちが図上演習の際に用いる略語である。
あとからテープを聞いてみると、読み上げた朝日の宮本次長も「これは何だろう」とひっかかりながら読んでいるし、聞いている連隊会もピンときていない。
そんな用語が、なぜ上等兵の当時の日記に書いてあるのか。
(続く)
これは メッセージ 9600 (deliciousicecoffee さん)への返信です.