真犯人は誰だ?(1)
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2006/05/11 22:32 投稿番号: [9631 / 41162]
福岡日々新聞・三苫幹之介記者の証言
「・・・私が南京支局に勤務している時、南京陥落二周年がめぐってきました。本社では記念特輯を企画しました。福日南京支局では中国人夫妻をボーイとして雇っておりました。二人は戦争中も南京にいて、当時のことを詳しく知っていました。私は匿名を条件でいろいろ聞きただして記事にしました。その記事は福日紙の昭和14年12月10日付第7面に載りました。難民区の有様がよくわかると思いますので、読んでみます。見出しは、
『難民に当時を聞く、
恐怖の拉夫、拉婦、
目に余る中央軍の暴虐』
で、男の名前は黄真民(仮名。27歳)で、南京より南方十里ほど距てた郷土の出身で、中学卒業の学歴があり、女は陳美君(仮名。26歳)で母は蘇州人です。
記者 日本軍がやってきた時君達は何処で如何していたか。
黄 私達夫妻は国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った頤和路の難民区にいました。難民区には三十万人の難民が混雑していました。中央軍の兵士が銃槍を持って夜となく昼となく交る交るやって来て難民を検察し、食料や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも捲上げて行きました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦で独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の横暴は全く眼に余るものがありました。
記者 日本軍がやって来たことはどうして知ったか。
黄 戦争が非常に重要時期にあり危険を感じて難民区に入ってからは屋外には一歩も出ませんでしたが、確か12月11日だったと思います。家の中で友達と話していると、後の方でパン! パン! と銃声が聞こえました。はてな? 可笑しい銃声だなと思わず朋友と顔を見合わせました。
記者 日本軍を見たか。
黄 日本軍を見たのは12月18日でした。日本の憲兵が巡察に来たのを始めて見ました。
記者 難民区の中には支那兵は居なかったのか。
黄 居りました。それは皆発見されて捕らえられていきました。
記者 君は支那兵と間違えられる様なことはなかったか。
黄 手や頭など調べられましたが肌の色が兵士とはちがうし、又私には妻があったので、中国兵でないと云うことがすぐ諒解されました。
記者 すると陳美君は君の生命の恩人だね。喧嘩せぬ様に仲よくしなければいかんよ。
陳 調べられる時は本当にどうなることかと恐うございました。
記者 難民区で君達の食物はあったのか。
黄 難民区が設定されると同時に私はデパートの方を退職し、米二石、油塩その他の食糧品を買込んで妻と二人難民区に避難したのです。最初、難民区には前の居住者は逃げてしまって人は全く居なかったのですが、後には一ぱいに埋まってしまいました。この事務室位の部屋に十二人も一緒に寝ました。
記者 君の郷里は南京からそう遠くないじゃないか。何故郷里へ避難しなかったのか。
黄 それは途中に土匪が多いからです。中央軍も沢山います。
記者 中央軍が居た方が土匪が来なくて都合がよくはないか。
黄 いいえ中央軍も土匪と同じです。金や品物を持って居れば、殺したり、強奪したりするのです。
陳 それで一番安全な難民区へ早くから入ったのです。
記者 君達は殺されたり、強奪されたりする程金銭や品物を持っていたのか。
黄 私達は勤めている時分一家を構えていたので家財道具が沢山ありました。それから私は貯蓄していた金を八百元、妻は四百元持っていました。
記者 それで土匪や中央軍が恐かったわけだネ。
黄 恐いものはもっとあります。
記者 それは何だ?
黄 悪人です。支那には悪人が沢山います。一面識のあった私の朋友が私に金があることを羨んで、悪人に通じたのです。それでその悪人が私を捉えて懐中の八百元を強奪して逃げました。
記者 それは何時頃のことか。
黄 日本軍人進城の時です。その悪い朋友は今は何処かへ姿を晦まして帰って来ませんが、金を奪った悪人はまだ南京にいて時々顔を合わせます。その悪人の被害者は沢山あります。
記者 何故警察に届けぬのだ。
黄 いいえ、それは無駄です。悪人は徒党を組んでいます。私から金を奪った悪人は今は食うものがなくひどく貧乏をしています。
記者 天罰があたったのだネ。陳の四百元もその時一緒に奪われたのか。
陳 私は蒲団の中にシッカリ縫いこんでいましたので見付け出されませんでした。
(以下省略)」
(『「南京事件」日本人48人の証言』 阿羅健一著 小学館文庫)
「・・・私が南京支局に勤務している時、南京陥落二周年がめぐってきました。本社では記念特輯を企画しました。福日南京支局では中国人夫妻をボーイとして雇っておりました。二人は戦争中も南京にいて、当時のことを詳しく知っていました。私は匿名を条件でいろいろ聞きただして記事にしました。その記事は福日紙の昭和14年12月10日付第7面に載りました。難民区の有様がよくわかると思いますので、読んでみます。見出しは、
『難民に当時を聞く、
恐怖の拉夫、拉婦、
目に余る中央軍の暴虐』
で、男の名前は黄真民(仮名。27歳)で、南京より南方十里ほど距てた郷土の出身で、中学卒業の学歴があり、女は陳美君(仮名。26歳)で母は蘇州人です。
記者 日本軍がやってきた時君達は何処で如何していたか。
黄 私達夫妻は国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った頤和路の難民区にいました。難民区には三十万人の難民が混雑していました。中央軍の兵士が銃槍を持って夜となく昼となく交る交るやって来て難民を検察し、食料や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも捲上げて行きました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦で独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の横暴は全く眼に余るものがありました。
記者 日本軍がやって来たことはどうして知ったか。
黄 戦争が非常に重要時期にあり危険を感じて難民区に入ってからは屋外には一歩も出ませんでしたが、確か12月11日だったと思います。家の中で友達と話していると、後の方でパン! パン! と銃声が聞こえました。はてな? 可笑しい銃声だなと思わず朋友と顔を見合わせました。
記者 日本軍を見たか。
黄 日本軍を見たのは12月18日でした。日本の憲兵が巡察に来たのを始めて見ました。
記者 難民区の中には支那兵は居なかったのか。
黄 居りました。それは皆発見されて捕らえられていきました。
記者 君は支那兵と間違えられる様なことはなかったか。
黄 手や頭など調べられましたが肌の色が兵士とはちがうし、又私には妻があったので、中国兵でないと云うことがすぐ諒解されました。
記者 すると陳美君は君の生命の恩人だね。喧嘩せぬ様に仲よくしなければいかんよ。
陳 調べられる時は本当にどうなることかと恐うございました。
記者 難民区で君達の食物はあったのか。
黄 難民区が設定されると同時に私はデパートの方を退職し、米二石、油塩その他の食糧品を買込んで妻と二人難民区に避難したのです。最初、難民区には前の居住者は逃げてしまって人は全く居なかったのですが、後には一ぱいに埋まってしまいました。この事務室位の部屋に十二人も一緒に寝ました。
記者 君の郷里は南京からそう遠くないじゃないか。何故郷里へ避難しなかったのか。
黄 それは途中に土匪が多いからです。中央軍も沢山います。
記者 中央軍が居た方が土匪が来なくて都合がよくはないか。
黄 いいえ中央軍も土匪と同じです。金や品物を持って居れば、殺したり、強奪したりするのです。
陳 それで一番安全な難民区へ早くから入ったのです。
記者 君達は殺されたり、強奪されたりする程金銭や品物を持っていたのか。
黄 私達は勤めている時分一家を構えていたので家財道具が沢山ありました。それから私は貯蓄していた金を八百元、妻は四百元持っていました。
記者 それで土匪や中央軍が恐かったわけだネ。
黄 恐いものはもっとあります。
記者 それは何だ?
黄 悪人です。支那には悪人が沢山います。一面識のあった私の朋友が私に金があることを羨んで、悪人に通じたのです。それでその悪人が私を捉えて懐中の八百元を強奪して逃げました。
記者 それは何時頃のことか。
黄 日本軍人進城の時です。その悪い朋友は今は何処かへ姿を晦まして帰って来ませんが、金を奪った悪人はまだ南京にいて時々顔を合わせます。その悪人の被害者は沢山あります。
記者 何故警察に届けぬのだ。
黄 いいえ、それは無駄です。悪人は徒党を組んでいます。私から金を奪った悪人は今は食うものがなくひどく貧乏をしています。
記者 天罰があたったのだネ。陳の四百元もその時一緒に奪われたのか。
陳 私は蒲団の中にシッカリ縫いこんでいましたので見付け出されませんでした。
(以下省略)」
(『「南京事件」日本人48人の証言』 阿羅健一著 小学館文庫)