侵略国日本は国際社会の前科者

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アメリカ軍の日本本土空襲のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/10 22:17 投稿番号: [8284 / 8458]
1945年7月
7月1-2日 熊本大空襲
午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表)[3]市街地の約20%を焼失。死者数469人、負傷者数552人、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人[4]。
7月1日-2日 呉市空襲 B29・150機。死者3,700人。[5]
7月2日 下関空襲 B29・143機。死者324人。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。
7月3日 姫路大空襲 深夜から4日未明にかけ、B29・約107機。死者173人、罹災者45,182人。姫路城は焼失を免れる。
7月4日 高松空襲 B29・116機。死者1359人、罹災人口86,400人、罹災家屋18,913戸。高松市の約80%が焦土と化した。
7月4日 徳島大空襲   B29・129機   死者約1,000人、けが人は約2,000人、被災者約70,000人。徳島市(当時)の62%が焦土と化した。
7月4日 高知大空襲   B29・120機   死者401人、罹災家屋約12,000戸。
7月6日 千葉空襲 B29・124機。死傷者1,679人。
7月6日 甲府空襲 B29・131機。死者1,027人。全焼17,920戸。
7月7日 清水大空襲(現在の静岡市清水区)
7月9日 和歌山大空襲 B29・約100機。死者約1200人。
7月9日 堺空襲 B29・約100機。死者1860人。焼失18,000戸。
7月9日 岐阜空襲 B29・約130機。死者約900人。
7月10日 仙台空襲 B29・124機。死者828人。負傷者385人。焼失家屋23,956戸。詳細は項目記事を参照。
7月12日 宇都宮大空襲 B29・133機、焼夷弾12,704発。死者628人、負傷者約1,150人。焼失家屋9,490戸。鹿沼空襲 死者9人。
7月12日 敦賀空襲 死者109人。負傷者201人。日本海側初の空襲[6]
7月14日 釜石艦砲射撃。一回目。少なくとも死者515人。
7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2,000機による空襲。被害は北海道全土に及んだ。
7月15日 室蘭艦砲射撃。死者436人。室蘭は前日にも空襲を受けたばかりだった。
7月16-17日 大分空襲 16日夜半頃B29編隊(約30数機)が襲来、市の中心部を約6,000発の焼夷弾爆撃。2,358戸が焼失。
大分はこの他にも4月21日、5月5日、8月10日など本土空襲での米軍の通り道であったため度々空襲を受けた。また公式記録には残っていないものの、別府市浜脇地区も被弾したといわれている。[要出典]一連の空襲での死傷者は1,193人。
7月16日 平塚大空襲 B29・136機 焼夷弾10,961発、死者343名
海軍火薬廠、日本国際航空工業、第二海軍航空廠平塚分工場、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場がターゲットであったとされ、人的被害は比較的少ないが大規模な爆撃。当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。
7月17日 沼津大空襲
7月17日 桑名空襲
桑名は7月24日にも空襲を受けた。
7月17日 日立艦砲射撃。死者317人。
7月18日 野島崎(千葉県白浜)艦砲射撃。死者6人。巡洋艦4隻、駆逐艦9隻によるもの。
7月19日 福井空襲 B29・120機。死者1,576人。
7月19日 日立空襲 B29・127機、死傷者2,199人。
7月19日 銚子空襲 B29・91機。死傷者1,181人。
7月19-20日 岡崎空襲 B29・126機。死者203人。
7月24日 半田空襲 B29・78機。死者269人。中島飛行機半田製作所を標的とした攻撃。
7月24日、28日 津大空襲 死者1,239人。旧市街の全域、及び、橋北地区の工場地帯が焼失。
7月24日、28日 呉軍港空襲 米艦載機950機、B29・110機[7] 航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没 死者780人。
7月25日 保戸島空襲(大分県津久見市)米軍グラマン戦闘機が投下した3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)を直撃し、児童125人、教師2人が即死し、70数人の児童が重軽傷を負った。
7月25日 串本艦砲射撃。潮岬も含め、周辺は何度となく艦砲射撃を受けている。
7月26日 松山大空襲 B29・128機による午後11時から2時間10分に及ぶ夜間空襲。死者・行方不明259人、負傷者把握不可の大惨事となった。全戸数の55%である14,300戸を焼失。全人口の53%の62,200人が罹災し、市のシンボルである松山城へも焼夷弾攻撃を受けたが、大天守は焼失を免れる。米軍機の損失はなかった(「アメリカ軍松山爆撃報告書」による)。
7月26日 平空襲
7月26日 徳山空襲 B29・約100機。死者482人、負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。
7月27日 2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。

アメリカ軍の日本本土空襲のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/10 22:10 投稿番号: [8283 / 8458]
主要地方都市
1944年
1944年6月15日 八幡空襲   中国大陸の基地から初めてB29が本土を空襲した。
10月10日 十・十空襲 沖縄県全域に対しての空襲。那覇市街での被害が大きかったため、那覇空襲とも呼ばれる。
10月25日 大村大空襲 当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を狙った空襲。死者約500名。
11月21日 熊本初空襲
1945年3月
1945年3月18日朝 大分空襲 航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。
3月18日朝 鹿児島初空襲 グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町にある海軍航空隊を急降下爆撃。
3月19日 アメリカ軍機動部隊、室戸岬沖80キロの近海に来襲。米艦載機350機が呉軍港空襲を敢行。航空母艦3巡洋艦2敷設艦2が大破沈没。これに対しての日本軍の反撃で、九州沖航空戦が生起した。
3月27日 小倉大空襲
1945年4月
4月8日 玉野空襲
4月15日 川崎空襲 死者約1000人、負傷者15,000人。罹災人口10万人。全半壊33,361戸。同工場287戸。川崎は7月13日、25日、8月1日、13日にも空襲を受けた。
4月21日   鹿児島空襲 鹿児島市電上町線の一部区間が被害を受けた。時限爆弾が投下され、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けたため、熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった。
1945年5月
5月10日 徳山大空襲 第三海軍燃料廠を狙った空襲。B29・約800機。死者500人以上、負傷者約1000人。
5月29日 横浜大空襲 B29・475機、P51・約100機。死者3787人。重傷者1554人。軽傷者10,837人。罹災人口323,000人。焼失約3万戸。その後の調査で、死者は8千〜1万人にのぼることが確実と考えられている。
5月31日 台北大空襲 B24・117機日本統治時代の台北市、死者約3000人。
1945年6月
6月1日 尼崎空襲 死者231人。
6月10日 日立空襲 死者1200人。
6月10日 千葉空襲 B29・約100機。死者152人。
6月17日 鹿児島大空襲 B29・117機、焼夷弾810トン。死者2,316人、負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
6月18日 浜松空襲 死者1720人。焼失家屋15,400戸。
6月18日 四日市空襲 B29・89機。死者736人、負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
6月19日 福岡大空襲 B29・239機。罹災人口60,599人(うち死者902人)。罹災家屋12,693戸。
6月19-20日 静岡大空襲 B29・137機。死者1,952人   罹災人口127,119人   焼失家屋30,045戸。静岡市(現在の葵区・駿河区)は、計26回の空襲を受けたが、それ以外にも数えきれない程の機銃掃射や空襲とは呼べない小規模な爆撃を受けている。
6月19-20日 豊橋空襲   B29・136機。死者624人
6月22日 姫路空襲(川西航空機姫路製作所とその周辺)   B29・約60機、死者341人、罹災者10220人。
6月22日 水島空襲(現倉敷市) 死者11人、重軽傷者46人。
6月22日 各務原空襲(現航空自衛隊岐阜基地付近)B29・44機。死者169人
6月22日 呉空襲 工廠への爆撃[2] 死者1600人。
6月28日 呉大空襲
6月29日 佐世保大空襲 B29・141機。焼夷弾約1200トン。死者約1300人、罹災人口約65,000人。当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突き深夜に空襲された。
6月29日 岡山空襲 B29・137機。死者1737人。罹災人口12万人。罹災家屋25,000戸。(『岡山市史』)空襲警報が出されずまったくの不意打ちであったため被害が増大した。

アメリカ軍の日本本土空襲

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/10 22:00 投稿番号: [8282 / 8458]
主要大都市
東京
1942年4月18日 ドーリットル空襲
1945年2月15日 米空母機動部隊艦載機による本土初空襲。関東の軍需工場が標的。
3月10日 東京大空襲 死者約8万〜10万。負傷4万〜11万名。焼失26万8千戸。
4月13日 城北大空襲 B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
4月15日 京浜空襲 B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた。
5月24日 B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
5月25日 B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。
東京は1944年11月14日以降、上記の大空襲を含む106回の空襲を受けた。

名古屋
1944年12月13日以降、名古屋は軍需工業地帯が集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受けて死者8630名、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。実際には死者は1万名以上にのぼるとみられる。

1945年3月12日 名古屋大空襲 B29・288機。死者602名。負傷者1238名。全焼2万9千戸。
3月19日 死者1037名。負傷者2813名。焼失3万6千戸。
5月14日 B29・480機。この日の空襲で名古屋城が焼失した。
6月9日 熱田空襲 B29・43機。死者2068名。負傷1944名。
6月21日 B29・120機。死者426名。負傷者327名。

大阪
空襲後の大阪市街大阪は1945年1月9日以降、 下記の大空襲を含む33回の空襲を受けた。

1945年3月13日 大阪大空襲 B29・279機。死者3115名。焼失13万2459戸。
6月1日 B29・474機。死者3150名。焼失6万戸
6月7日 B29・250機。死者1594名。負傷者4967名。焼失5万6千戸。
6月15日 B29・469機。死者418名。負傷者1842名。焼失4万9千戸。
6月26日 B29・約100機。死者592名。負傷者1102名。焼失約9千戸。
7月24日 B29・約400機を含む大小二千機。死者187名。負傷317名。焼失554戸。
8月14日 B29・約100機。死者173名。負傷89名。焼失二千戸。大阪城にあった砲兵工廠が目標であった。

神戸
神戸は1945年1月3日以降、下記の大空襲を含む83日・128回、死者8841名、負傷18404名、焼失12万8千戸の被害を終戦までに受けた。同年3月17日の大空襲で旧市街地の西の地域を中心に焼失する。

1945年3月17日 神戸大空襲 B29・309機。死者2598名。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名。
5月11日 B29・92機。死者1093名。負傷者924人。
6月5日 B29・481機。死者3184名。負傷者5824名。全焼5万5千戸。罹災人口21万3千名。

京都
京都は1945年1月16日以降、合計20回以上の空襲を受けて死者302人、負傷者561人の被害を出した。

1945年1月16日 死者41人
3月19日
4月16日
5月11日 京都御所へ空襲。
6月26日 死者43人、負傷者66人、被害家屋292戸(全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸)。被災者850名

米軍の

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2011/07/10 11:28 投稿番号: [8281 / 8458]
日本人大虐殺は事実有った。同じようにシナ軍の日本人大虐殺も事実有った。
敗戦により、それらを打ち消すが如く、南京大虐殺が捏造された。これらの事実を広めましょう〜。

サイパン島玉砕の悲劇

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/09 05:44 投稿番号: [8280 / 8458]
サイパン島の話が出たのでもう一度掲載しておく。

その前に、あなたに忠告しておきたい。
ここの掲示板は、カテゴリ名が日中関係、トピックのタイトルが「侵略国日本・・・」となっているので、私はこの表題に対して応答しているだけなのである。ところが、あなたの話題は原発問題やバカな強姦男の話ばかりで、ここの表題とは関係が無い。そんな話がしたいのなら、他にいくらでもそのような掲示板があるからそこへ行けばよい。
「侵略国日本・・・」というタイトルが出てくるから、私は応答し続けているだけなのである。


サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した
  昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したいわゆる“バンザイ・クリフ事件” 実は米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが生々しい自殺説として『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著に綴られていた。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。
その手記の一部であるバンザイ・クリフ事件の項を紹介する。

「いまだにジャングル内に残っている日本の兵隊さん、住民に告ぐ。いまかけた歌は、なんと懐かしい歌ではありませんか。みなさんの幼い頃を思い返してください。一日も早く、平和な日が訪れるのを、故郷の父母が待っていることを忘れないでください」
  そしてさらに、「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」   投降を勧める放送は再三くり返された。   投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。
  我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。
  そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。   幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。
  その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。
  やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。   絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。   ……なんたることをするのだ!   小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)
  婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。
あの投降勧告はー体なんだったのか。常夏の大空をこがさんぱかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。
  残虐な行為は凄絶をきわめた。火から逃れようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴りとばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。「ギヤッー!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまた裂きにされ殺されていく……。彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。
『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著からの抜粋

Re: 中国兵のなすがままの非行

投稿者: tototogisuhoho 投稿日時: 2011/07/07 10:50 投稿番号: [8279 / 8458]
中国兵に置き換えれば納得。日本兵は教育度が高く中国兵
とは違う。現実の中国人の蛮行と残虐性を見れば分かりそう
なものを。
日本人は品行方正。今も昔も変わらず。

全国の日本人よ!別冊正論15号必読

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/06 21:39 投稿番号: [8278 / 8458]
只今発売中の『別冊正論』15号(「中国共産党   野望と謀略の90年」)をすべての日本人に読んでもらいたい。

ここに実証主義に基づいた本当の日中間の歴史が書いてある。
いわゆる中国側の一方的な「ウソとデタラメで塗り固められた日中の歴史」ではない、最新の重要資料と証拠に基づいた日中間の歴史の真実が解き明かされている。

この別冊正論15号(産経新聞社)を読めば、すべての日本人の中国に対する歴史観が変わるはずである。

中国共産党 野望と謀略の90年

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/06 10:07 投稿番号: [8277 / 8458]
「南京大虐殺」宣伝の裏に共産勢力

「『南京大虐殺』という戦時プロパガンダが行われた経緯を解明する新たな糸口になるかもしれない」。
発売中の『別冊正論』15号(「中国共産党   野望と謀略の90年」)の編集を終え、そんな期待が膨らんできました。

中国の国民党が主導したと考えられてきた「大虐殺」の宣伝に、中国共産党またはソ連が大きく関与していた可能性が、論文筆者たちの指摘で浮かび上がってきたのです。

虚実不明の「南京大虐殺」を初めて世に紹介したのは、英マンチェスター・ガーディアン紙特派員、ティンパーリーが1938(昭和13)年に刊行した『戦争とは何か』です。
ティンパーリーは当時、国民党中央宣伝部顧問で、資金提供も受けていたことが北村稔・立命館大教授らの研究で判明しています。
同著の出版をはじめとする「大虐殺」宣伝は、世界中で反日世論を高める戦時プロパガンダだったのです。

『別冊正論』15号では、3人の筆者が、このプロパガンダへの中国共産党またはソ連の関与を示す根拠を提示しています。
(1)『戦争とは何か』中国版の序文を書いた有名文化人の郭沫若(かくまつじゃく)は、日中戦争勃発にあわせ、亡命先の日本から中国共産党やコミンテルン(戦前〜戦中の国際共産主義運動指導組織。本部・モスクワ)の支援で極秘帰国し、戦時宣伝を担当した(中西輝政・京大教授)
(2)同著の日本語版序文を書いた青山和夫こと黒田善治という人物は、コミンテルン秘密工作員とともに中国で活動していた(近現代史研究家、長塩守旦氏)
(3)「大虐殺」の証拠の一つとされた『ラーベ日記』筆者、ジョン・ラーベは、ソ連の大物スパイ、ゾルゲの活動を上海で支援していた赤軍諜報部員の友人だった(江崎道朗・日本会議専任研究員)−。

『戦争とは何か』英語版にコミンテルンの影が見え隠れすることは、北村教授も著書『「南京事件」の探究』で指摘しています。
「大虐殺」宣伝に国際共産主義勢力が積極的にかかわっていたとすれば、相当の規模をもった対日宣伝戦だったことを意味します。
アメリカでは近年、第二次世界大戦前後のルーズベルト政権内にソ連と通じた秘密共産党員が多数潜入して政策に影響を与えていたという実証研究が進み、共産主義の世界革命戦略が当時の情勢分析に欠かせないという見方が強まっています。
「大虐殺」宣伝もその中に位置づけられるとしたら…。
今後の検証が待たれます。
(産経新聞   2011.6.23   正論副編集長   小島新一)

Re: 人肉焼き

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/07/02 13:11 投稿番号: [8276 / 8458]
「崖」   石垣りん

戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。あの、
女。

Re: 人肉焼き

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/06/30 21:13 投稿番号: [8275 / 8458]
夫婦喧嘩は「犬も喰わない」w

中国が着々と太平洋をわが物にしている証拠

投稿者: taiheiyo_saikonee 投稿日時: 2011/06/30 17:49 投稿番号: [8274 / 8458]
中国が着々と太平洋をわがものにしている証拠

http://blogs.yahoo.co.jp/saipan_is_number1/60721184.html

Re: 人肉焼き

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/06/28 23:25 投稿番号: [8273 / 8458]
日本軍が人肉食った

人肉焼き

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/26 21:27 投稿番号: [8272 / 8458]
中国人は人の肉を焼いて食べる。
生の人肉も食べるかもしれない。
→(人肉ユッケ)

この日の桐嶺中学校は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家製の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
「7月2日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた」
・・・7月2日午後5時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやのそばに置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぽで、はらわたも流れ出していた。

「食人宴席−抹殺された中国現代史」
鄭義著・黄文雄訳
(P104〜P106)

Re:脳みそ生ジュース

投稿者: sjdmajaasu 投稿日時: 2011/06/24 22:12 投稿番号: [8271 / 8458]
なんと!
生々しい!!!

脳みそ生ジュース

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/23 20:53 投稿番号: [8270 / 8458]
中国人は人の脳みそを生で飲む。

ある老婆は人間の目玉を食べると、目がよくなるというので、彼女は一日中あちこちを歩き回り、糾弾集会を見ると、すぐ人群れの中に入り、待っていた。被害者が地面に倒れると、、彼女はすぐ竹かごの中から鋭いナイフを持ち出し、目玉だけをえぐり取ってすぐ逃げ去って行った。数人の年寄りは人の脳みそを専門に食う。頭蓋骨をたたき割るのは非常に難しい。だから彼らの経験は、人それぞれ、細い鉄の管を用意して、その管の先を鋭く磨き、人々が肉を切りつくしてから去っていく間にゆっくりと、だれも奪っていない脳を目がけて、頭蓋骨の上からくぎを差し込むように打ち込み、地面に伏せて鉄鋼の管から脳みそを吸い取ったのだった。やしの実やヨーグルトを吸うような格好である。ある婦人は子どもを背負って来て、また、ある小さい子どもは親孝行のために人肉を家まで持って帰っていったのである。

「食人宴席−抹殺された中国現代史」
  鄭義著・黄文雄訳
(P122〜P123)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/06/22 20:40 投稿番号: [8269 / 8458]
根本的な問題として、まず、東京電力を解体しないことには、
被災者はもちろんの事、国民は納得しない。
東京電力が残るということは、東京電力は補償をしないということになり、
つまりは、ほぼ全額を国民が負担する事を意味するからだ。

何十年も、自分の故郷に帰れない事。
静岡の産業の根幹を、壊滅させてしまった事。
これらは、補償=金に換算できるものではないのだけれど、
「東電が生き残っている」とすれば、我々は死ぬに死に切れない。
刺し違えるくらい考えるやつが出てきて普通である。

東京電力は、福島原発事故収束段階まで、維持し、その後解体する。
東京電力をいくつかのブロックにわけ、企業に買ってもらう。
まともな経済の原理に晒されれば、東電社員も少しはマシになるだろう。

アメリカが世界に誇る三大日本人虐殺

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/21 21:24 投稿番号: [8268 / 8458]
第1位   広島原爆投下
    (当時の死者数14万人)

第2位   東京大空襲
    (当時の死者数10万人)

第3位   長崎原爆投下
    (当時の死者数7万人)

この三つは瞬時にして10万人規模の大虐殺を行なった事件である。
ナチス・ドイツがアウシュビッツで10万人のユダヤ人を殺すのにも何ヶ月もかかった。
毛沢東やスターリンが自国民を10万人殺すのにも何ヶ月もかかったであろう。
ということは、この三つは世界三大虐殺ということになる。
しかもこの三つのすべてが、アメリカが日本人に対して行なった虐殺なのである。
アメリカは今でもアメリカ人を守ったとして、この三大日本人虐殺を世界に誇っている。

アメリカの日本人虐殺・長崎原爆投下

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/20 22:59 投稿番号: [8267 / 8458]
昭和20年8月9日午前11時02分、9600メートル上空から投下された原爆は、長崎市の北部にあたる松山町の上空役500メートルで炸裂した。大きな火球が発生し、0.2秒後に火球の半径は200メートル、表面温度は7,000〜9,000度に達した。強烈な熱線と放射能が四散した。
火球の周辺の空気は熱で急速に膨張し、すさまじい爆風となって町に吹き下ろした。
爆発により空中に発生した大火球からの熱線(赤外線)により、爆心付近の人々はほとんど即死。爆心地から1.2キロメートル以内にいた人々には致命的な熱線被害によって、数日内におびただしい数の人たちが亡くなった。
4キロメートル以内の人たちの露出した皮膚にも火傷を負わせた。生き残った人たちも原爆ケロイドの深い傷跡をのこした。
続いて起こった爆風により、建物や人が吹き飛ばされた。
1キロメートル以内の建物は全壊し、熱線を逃れた人たちも、爆風や建物の倒壊によりほとんどが即死。
4キロメートル以内の木造家屋や建物も全壊または半壊、壊れた建物で圧死した人たちがたくさんいた。
さらに、各所で火災が発生し、これにより市域の3分の1が全壊した。

被爆した長崎の街

1945年8月9日の長崎市

人口約240,000人

原子爆弾による被害者数(1945年12月末までの推定)

死者 73,884人
負傷者 74,909人

人的被害当時の人口約24万人のうち

死者 73,884人
負傷者 74909人
罹災した人 120,820人
物的被害罹災戸数 18,409戸
全焼した家 11,574戸
全壊した家 1,326戸
半壊した家 5,509戸
焼失した土地 6,702,300平方メートル

長崎型原爆:ファットマン(ふとっちょ)

長さ 3.25m
直径 1.52m
重さ 4.5t
爆発力 TNT火薬21kt相当
周りのプルトニウムを内側に爆縮して核分裂を起こす。

熱線による物的被害

爆心地近くでは熱線により、燃えるものが全て火をふいた。
解けたガラスや、沸騰して泡立った瓦、焦げて黒くなった石などが激しさを物語っている。
爆心地から遠ざかるにつれて熱線は弱まっていたが、それでも2キロメートル以内では、衣類、電柱、樹木などの表面が燃えたり焦げたりしていた。

熱線による人的被害

熱線による高熱は人々の皮膚に浴びせられ、熱線のすさまじさは通常の火傷では考えられないほどの被害をもたらした。
爆心地からの距離によって負傷の度合いは異なるが、重症になると皮膚が焼け爛れ、剥がれ落ち、皮膚の下にある組織や骨までが露出した。
1・2キロメートル以内では熱線だけでも致命的で、爆心地付近では高熱によって一瞬で体が炭化して、内臓の水分まで蒸発したと考えられている。

火災による被害

熱線と爆風による被害は、火災によってもっと増大した。
爆風の被害が家屋の半分ですんだところも、後に起きた火災のために結果的には全焼した。
全焼壊家屋は12,900戸。半焼壊家屋は5,509戸にのぼる。
火災による犠牲者も多く出た。
倒れた家屋の下敷きになっても、火災が起きなければ助かった人は多い。

爆風による被害

爆心地より1キロメートル以内のところでは、一般家屋は原型をとどめていないほどに破壊された。
鉄筋コンクリートの建物などが少し残ったが、どれも建物とは言いがたいほどに無残な状態だった。
このようなすさまじい爆風に人々は吹き飛ばされて、散弾のような沢山のガラスや、木片を全身に浴びることになった。

放射線による人体の被害

原爆の放射線は人体を通り、そのとき色んな細胞をも破壊する。
損傷の度合いは。被爆した量により異なる。爆心地から1キロメートル以内で被爆した人のうち、外傷がなくても、多くの人が死亡している。
放射線の破壊力はそれほど強烈だった。
人体に及ぼす害は爆発の時だけではなく、放射線は体の奥を傷つけて、時とともにいろいろな症状を引き起こす。

http://www.youtube.com/watch?v=gJG_BVHF8ak

アメリカの日本人虐殺・沖縄戦のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/20 04:20 投稿番号: [8266 / 8458]
太平洋戦争の末期、沖縄本島および周辺島嶼・海域で行われた戦闘。

1945年3月末に連合軍が侵攻し、4月1日に本島に上陸。6月23日の日本側司令官の牛島中将の自決によって主要戦闘は終了するが、以後も戦闘は続き、一部部隊は終戦まで残存している。当時の沖縄には40万を超える住民が存在しており、これを巻き込む形で戦闘は展開、十万以上と言われる多数の民間人犠牲者が出たことでも知られる*1。

期間:1945年3月23日〜6月23日*2
場所:沖縄本島、慶良間諸島、伊江島および周辺海域
参加兵力:
日本軍:陸軍第32軍ほか約10万。他、海軍第2艦隊、航空出撃延べ8500機余*3など。
連合軍:総兵力54万8千(正面戦力18万3千。米第10軍麾下の7個師団)。各種艦艇約1500隻*4。

背景

沖縄戦は日米双方にとって本土上陸のモデルケースであり、その意味においては「決戦」であった。

沖縄に先立つ台湾沖航空戦とレイテ沖海戦によって、日本海軍の戦闘力は事実上消滅していた。太平洋の戦いが島嶼と水上交通路を巡る戦いであったことからすれば、この時点で戦争の勝敗は確定していた。

しかし、日本側は講和を求められるような国内事情になく、アメリカ側としてはさらなる戦果が必要であった。こうして立案された沖縄攻略作戦であるアイスバーグ作戦*5は、日本本土への上陸作戦を行うための基地を確保するとともに*6、日本の本国領土を占領することによる政治的な効果も視野に入れたものだった。

一方の日本側にとっても事情は同じであり、陸上作戦を展開できるだけの地積を有する沖縄本島での戦闘は「来るべき」本土決戦の雛形となるものだった*7。ここで大きな出血を強要することで米側に本土決戦への躊躇を与え、(講和における)なんらかの条件を得られる可能性があると考えられていた*8。

http://www.youtube.com/watch?v=pbo1fyeaZ9s

アメリカの日本人虐殺・沖縄戦

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/20 03:52 投稿番号: [8265 / 8458]
最終的な陸軍の沖縄守備軍の数は86,400人で、このほかに海軍陸戦隊が約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計116,400人がいた。陸海軍の戦闘員には、兵力不足から現地で急ぎ調達された予備役などが多く含まれ、全戦闘員中約2万人は現地で徴兵・召集された17歳から45歳までの者であった。

1945年に入り、米軍の沖縄上陸が必至な情勢となった時、沖縄防衛の第32軍司令部は、戦闘の支障にならないように、また軍民一体となった「玉砕」を防ぐために、島内に残っている老幼婦女子を半強制的に北部山岳地帯に疎開させようとした。多くの人々はわずかな食糧と身のまわりの品を持って避難をしたが、それでも激戦地になるであろう中南部には数十万人の住民が避難せず踏みとどまっていた。これは、台湾沖航空戦の誤報による影響が大きいとされる(疎開の詳細については#住民犠牲についてで後述)。

http://www.youtube.com/watch?v=iq6kgRDA8-Y

日中全面戦争の隠された真相のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/18 10:27 投稿番号: [8264 / 8458]
「赤いモグラが日中戦争の引き金を引く」

それでも蒋介石は宣戦布告には慎重であった。日本との戦争を自滅と見ていたからだ。日本も交戦地域を北支に限定し、動こうとはしなかった。では、なぜ全面戦争となったのか。「交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画」が進行中であったからだ。その首謀者は、実は蒋介石ではなく、ほぼまちがいなくスターリンであったという。
この問題を論じた第十九章「赤いモグラが日中戦争の引き金を引く」Red Mole Triggers China-Japan War   は圧巻であった。赤いモグラとは張治中のことで彼は上海南京戦区司令官であると同時に、蒋介石の国民党軍の中枢に潜り込んだ共産党スパイであった。
張治中は「攻撃開始については命令を待つように」という蒋介石の制止を無視し続ける。そして八月九日、虹口飛行場近くで大山中尉と斉藤要蔵一等水兵を虐殺する事件を仕組んだのであった。その後も英米仏伊四国公使の斡旋で締結された上海停戦協定に違反して次々と正規軍を上海に入れ、十三日に陸戦隊を攻撃する。十四日、五万の中国軍が五千の日本陸戦隊を包囲攻撃し、空軍も日本海軍の「出雲」や総領事館を爆撃するや、張治中は総攻撃を命じた。
蒋介石は「攻撃するな。命令を待て」と張治中を制する。しかし八月十五日、張治中は記者会見して「日本海軍、上海を砲撃」とウソを発表した。その結果、一気に反日感情が高まった。蒋介石は追いつめられ、十六日「翌朝総攻撃」と命令せざるを得なかった。こうして十七日の朝は交戦状態となったが、十八日に蒋介石は攻撃中止を命令する。それでも「張治中は命令を無視して攻撃を拡大した」。そのため日本軍が救援部隊を投入するに及んで、日中全面戦争となったのである。
スターリンから起こされた張治中が、「上海で全面戦争を起こして日本を広大な中国の内部に引きずり込むーすなわちソ連から遠ざける手を打った」と言ってよいであろう。
長い間、日本が中国を侵略したと言われてきたが、日中全面戦争の引き金を引いたのは実は共産党スパイの張治中であった。

日中全面戦争の隠された真相のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/18 10:24 投稿番号: [8263 / 8458]
「日本は文字通り戦争に押し込まれた」

日本が中国を侵略したという見解を根本的に疑い出したのは、江藤淳『忘れたことと忘れさせられたこと』(昭五十四)の巻末付録に収められていた富桝・外務省資料課嘱託の「『太平洋戦争史』論」を読んだときからである。これは連合軍総司令部の「太平洋戦争史」を批判したものであった。富桝は、ニューヨークの『ヘラルド・トリビューン』のヴィクター・キーンズ特派員の「南京にいる無謀者たちによって発端は開かれた」という言葉を紹介する一方、「日本は文字通り戦争に押し込まれた」という『ニューヨーク・タイムズ』のハーレット・アーベンツ特派員の見解をも引用していた。
「日本ハ第一上海事件ヲ繰返スヲ好マズ忍耐、隠忍以テ極力事態ノ悪化ヲ防止セント努メタルモ、支那二於ケル外国権益ヲ渦中二引込ムヲ企図シタル支那人二依リテ日本ハ文字通リ戦争二押込マレタルナリ」
拙著『「南京虐殺」の徹底検証』にも引用したように、フランスのパリから上海にやってきたエドアール・エルセイ特派員も、南京で蒋介石にインタビューした「支那事変観たまま」という現地報告のなかで、第二次上海事変は蒋介石政府の計画的な出来事であったと伝えていた。
当時の上海はフラソス総領事のほぼ独裁下にあるフランス租界と、同じく日英米の共同租界と、上海特別市の二行政区域に分かれる国際都市であった。自国民を守るため上海には米国軍二七五〇人、英国軍二五九〇人、日本海軍陸戦隊二五〇〇人、フラソス軍二〇五〇人、イタリア軍七七〇人がいた。五力国軍は勝手に土足で踏み込んだのではなかった。数十年間の歴史に由来する法的権利に基づいて駐留していた。
そのような状況のなかで書かれたエルセイやアーベンツの記事は、日本の中国侵略という見解を覆す貴重な資料であった。ところがエルセイやアーベンツの見解をも覆し上海事変の決定的な真相を明らかにする研究書が出る。それが冒頭に紹介した『毛沢東―知られざる物語』である。

毛沢東と蒋介石とスターリンの三国志

エルセイやアーベンツは第二次上海事変は蒋介石政府の計画的な出来事であったと伝えていた。ところが甦に裏の裏があった。その背後にはスターリンと毛沢東と蒋介石の、覇権獲得と、奪権の、戦略があった。スターリンも毛沢東も二十世紀を「三国志」の目で見ていたのだが、それを史料的に明確にしたのが毛沢東―知られざる物語』である。
蒋介石が監禁された西安事件から見てみよう。西安事件は張学良の思いつきであったが、そうするよう煽ったのは毛沢東であった。監禁された蒋介石を、毛沢東は殺すよう画策したがついに成功しなかったのは、スターリンが張学良を非難し、蒋介石支持を明確にしたからだ。スターリンは、「中国を使って日本を中国の広大な内陸部へおびきよせ、泥沼に引きずり込み、そうして日本をソ連国境から遠ざけること」を狙っていた。中国の分裂は中国の抗日戦争を困難にするから、蒋介石を中心に、「中国の統一を保ったまま日本を全面戦争に引きずり込みたい」と、スターリソは考えていた。
しかし蒋介石は日本との戦いを自滅への道と見て、抗日戦争は考えていなかった。ところが監禁から解放される直前、一転して同意する。それはスターリンと蒋介石の取引の結果であった。蒋介石は、人質同然で十一年間もモスクワにいる息子の蒋経国の帰国を強く望んで交渉したが、スターリンの同意はなかなか得られなかった。ところがスターリンがそれに同意したという大ニュースを携えて、クリスマスの日に、周恩来が西安の蒋介石のもとへやってくる。蒋介石は息子のいのちと引き替えに抗日戦に同意したのであった。

日中全面戦争の隠された真相

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/18 10:18 投稿番号: [8262 / 8458]
2006年08月16日
昨日の東中野修道氏「戦没者追悼祈念講演会」で、日支事変は日本が停戦交渉をしていたのになぜ拡大していったかを言われていました。
これは、支那事変直後に書かれたラルフ・タウンゼント「アメリカはアジアに介入するな」「暗黒大陸中国の真実」、K・カール・カワカミ「シナ大陸の真実   1931〜1938」にも同じように書かれています。
簡単に言えば停戦協定を結んだとしても、支那側がすぐ破って敵対行為をするために戦いに引きずり込まれたと言うのが真相です。

「日中全面戦争の隠された真相」
亜細亜大学教授   東中野修道

平成十(一九九八)年ごろ大学時代の友人A氏(M新聞編集局長)と会ったときのこと、自他共に保守派と目されていたA氏から強い口調で「日本が中国に土足で踏み込んで戦争をしたのは否定できない事実だ」と主張されたことがあった。その主張にたいする決定的に明確な反証は私にはなかった。
このような、日本は中国に進出したのではなく侵略したのだという、そのような歴史認識が徐々に広がっていったのは、昭和五十七(一九八二)年夏の「教科書誤報事件」からであろう。文部省が高校歴史教科書の検定にさいして「侵略」を「進出」に書き換えさせたと全国紙が一斉に誤報を発して以来、このような歴史認識が今ではほぼ完全に定着しつつある。
ところが英国で衝撃的な本が戦後六十年の昨年に出た。ユン・チアンとジョン・ハリデイの『毛沢東―知られざる物語』(邦訳は最近発行の=マオー誰も知らなかった毛沢東)全二巻)である。冷戦構造の崩壊により国際政治の枠組みが劇的に変化して以来、モスクワの公文書館などから貴重な資料が多数出ているが、そのような膨大な記録やあまたの証言を基にしてチアンとハリデイが十余年をかけて書き上げた、八百頁の大作である。
衝撃的というのは、二十世紀の中国史の常識を根底から覆す多数の事実が発掘されているからだ。本書は、「日本が中国に土足で踏み込んで戦争をしたのは否定できない事実だ」という歴史認識に、初めて明確な反証を提供することとなった。
連合軍総司令部編「太平洋戦争史」が原点であった今日言われている中国侵略という歴史認識は、昭和二十年十二月八日に全国紙に発表された連合軍総司令部の「太平洋戦争史」に基づいている。日本軍と中国軍が衝突した廬溝橋の紛争で終わっていたのならば日中全面戦争にはならなかったのに、日本が中国の軍事と経済の中心である上海で戦争をしたことから日中全面戦争へと発展していったと、「太平洋戦争史」は主張していた。つまり、廬溝橋の紛争、上海事変(第二次)という一連の出来事こそが、日本の中国侵略の証拠だというのである。
一方私が日本の中国侵略という見解に疑問を抱いたのは、次の根拠に基づいてのことであった。廬溝橋事件は中村粂教授や秦郁彦教授の研究により日本が先制攻撃したのではないことは、もはや疑問の余地なく論証されていたからである。昭和十二年七月七日二十二時四十分、日本軍は条約上の権利に基づいて演習中の廬溝橋で、日本軍は中国軍の第一撃を受けたが、それでも七時間も隠忍自重し、視界明瞭な翌日の午前五時半に第四撃を受けてから、ようやく反撃に転じたのである。
その後も日本軍は、三週間にわたって「不拡大主義」に立ち、交戦区域を限定し、解決に向けて腐心していた。ところが、八月九日に、廬溝橋の隣ではなく、南へ一一〇〇キロも離れた上海の虹口飛行場の近くで、日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉らが中国軍に虐殺されるという事件が起きる。これこそ第二次上海事変の始まりであった。何度も攻撃されて、ついに日本軍は自衛の反撃に出た。そう、私は理解していたが、しかしそれ以上のことは分からなかった。

Re:日本兵のなすがままの非行

投稿者: jikkararu 投稿日時: 2011/06/17 10:47 投稿番号: [8261 / 8458]
↑↑↑
シナ国で講演して講演料を稼いではどうだ。
日本でも稼げるかもね講演して見たら。

Re: 日本兵のなすがままの非行

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/16 03:16 投稿番号: [8260 / 8458]
この記事はデタラメである。
南京事件のトピックをよく読みたまえ。
ちょうど12月1日になっているからちょうどよいタイミングだ。

日本兵のなすがままの非行

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/06/15 17:25 投稿番号: [8259 / 8458]
大虐殺というそのもの以上に酷かったのは、日本兵らによる強姦、略奪、放火などの不軍規だった。捕虜や敗残兵、便衣兵や婦女子幼児を含む一般市民・避難民の虐殺と平行して、日本兵のなすがままの非行が繰り広げられた。日本兵の蛮行は南京市内に突入という同時に行われた。市内や周辺部で戦闘が続いている状態でもおかまいなしだった。日本兵は市内へ入ると市民の住宅,商店、学校や官庁・役所などの公共機関のあらゆる場所を襲撃し、略奪が行われた。その略奪の過程で市民が抵抗すれば殺害し、欲しいがままに略奪した。倉庫や工場の財産、金銀財貨、文化財や骨董品、避難民の食糧や   病院の医薬品や布団、農民の家畜に至るまで奪われなかったものが一つもなかった。そして、日本兵たちは市街のいたるところに放火をしはじめた。日本兵は略奪した家屋や建物に火を放った。市民や避難民を押し込めて、火と放ち建物もろとも焼いたこともあった。多くの南京の家屋が焼け、全市の半分近くがほとんど灰尽に帰したという。何よりも、目を覆いたくなるのは婦女への強姦である。日本兵は婦女を見つけたり遭遇すると同時に、獣欲を剥き出しにし、欲しいがままに集団で婦女に襲いかかった。そして強姦し、輪姦した。場合によっては、部隊単位で協力して陣地、兵舎や建物に拉致・監禁の上、集団レイプや輪姦に及ぶことも多々あった。幼児・児童から老婆にいたるまで強姦され、占領から3ヶ月後には南京にもはや非処女はになかった。強姦につぐ、強姦、強姦、強姦で日夜問わず行われた。強姦した婦女を口封じのため銃剣で下腹部を突き刺し殺害するという強姦殺人行為も頻発した。強姦したのちに、殺害する場合、幼児や児童、妊婦であれ、容赦はなかった。殺害を免れても、日本兵に見つかるたびに何度も女性は強姦された。強姦を行う日本兵は理性の欠片もない獣兵であった。頻度の軽減こそ、あれ日本兵の婦女強姦に関しては放火や略奪、殺人、虐殺行為が止み、治安が回復した後も続き、ついに敗戦の45年8月15日まで止むことはなかった。便衣兵狩りと称する兵士・捕虜・市民への無差別殺戮、一般市民や避難民への集団あるいは個々での殺傷、放火、略奪、強姦および強姦殺人と日本軍の残虐行為には枚挙に暇がない。その規模の大きさ、被害人数・犠牲者数の多さ、持続期間の長さ、殺人手段の残虐さにおいて、人類史上、例のないものであった。では、シンガポールではどうだったのか?

広島原爆投下のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/14 02:10 投稿番号: [8258 / 8458]
<被爆直前>

○前夜(8月5日)…1945(昭和20)年8月5日の夜から6日の早朝にかけて、警戒警報・空襲警報がたびたび出され、市民は不安な一晩を過ごしました。6日の朝になってようやく警報が解除されて、街には職場に急ぐ人びと、疎開作業に動員されて現場に向かう人びとなど、月曜日の朝のふだんの生活にもどっていました。

○街並み…2つの川(本川と元安川)にはさまれたこの地区は、幕末から明治・大正期にかけて市内の繁華街・歓楽街の中心で、中島本町通り商店街には大きな店舗が並んでいました。木材の集散地であった材木町・木挽(こびき)町、商店街としての天神町・元柳(もとやなぎ)町・中島新町、そこには歴史の古い寺院も多く立っていました。しかし、当時は空襲を警戒して天神町、木挽町、中島新町は、建物疎開がすすんでおり、中島や本川国民学校の児童たちの一部は、郡部に疎開していました。

○空襲…1945(昭和20)年になると米軍はB29大編隊による夜間の無差別焼夷弾(しょういだん)攻撃を始め、全国各地の中小都市にまで攻撃を繰り返していました。広島は空襲らしい空襲を受けていませんでしたが、大規模な空襲に備えて火災の延焼防止と避難空地をつくるために木造家屋を取りこわし、また、町内会や家庭ごとに防空壕(ごう)をつくって、消火訓練や避難訓練などをしていました。

<被爆直後>

○被爆(8月6日)…1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、それまでの広島は絵にかいたように美しく、静かな街でした。次の瞬間、目をくらますほどの閃光(せんこう)が走り、ドカーンという大音響とともに、たった1個の爆弾が広島の街を焼きつくしました。街全体が、一瞬にして破壊されました。爆心地から半径2キロメートル以内にいたほとんどの人々が亡くなり、建物も破壊されました。その年の終わりまでに、推定14万人前後の人々が亡くなるか行方不明となり、その数は、当時の市民約35万人の内のおよそ半分に相当します。

○火葬…どこのだれとも見分けがつかなくなった、おびただしい数の焼けた遺体は、その場で火葬するしかありませんでした。その間も死者は増えていきました。昼も夜も、市内のいたる所で遺体の上にまた遺体が積み上げられ、そして火葬されました。

○焼け野…見わたすかぎりの焼け野原となった広島では、広島駅から宇品の港が見えたと言われています。市外から身内の安否を気づかって、または救援活動のため市内に入った人々が、残っていた放射能の影響を受け汚染されました。さらにこの年の秋、原爆の悲劇に追い打ちをかけるように枕崎(まくらざき)台風が広島を襲い、街は水びたしになり大きな被害を受けました。


http://www.youtube.com/watch?v=1V9s9FY8gQA

広島原爆投下のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/14 01:47 投稿番号: [8257 / 8458]
▽広島が原爆投下目標に選ばれた理由▽
1945(昭和20)年春から、アメリカは投下目標都市の検討を始めました。投下目標は、原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8km)以上の市街地を持つ都市の中から選び、空襲を禁止しました。7月25日には目標都市の広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに対する投下命令を下しました。広島を第1目標とする命令を出したのは、8月2日。それは目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたためです。
また、終戦までに日本の主要都市は米軍の空襲でほとんど壊滅状態でした。そのなかで、広島はまだ決定的な被害を受けていませんでした。広島が原爆投下の目標に選ばれた理由には、次の2点も考えられます。
・都市の大きさや山に囲まれた地形が、原爆の破壊力を探るのに適していたため。広島はまだ空襲を受けておらず、原爆の威力を確認しやすかった。
・広島には軍隊、軍事施設、軍需工場が集中しており、それらがまだ破壊されずに残っていた。8月6日、広島の天気は晴れ。広島の運命は決まりました。

①入念に行われた投下目標の検討
投下目標は、軍人と科学者で構成する目標検討委員会で、軍事的観点から検討されました。1945(昭和20)年4月27日の第1回会議で目標地域の選定基準が決まり、17地域が研究対象として選ばれました。その後、投下目標の選定は、爆風で効果的に損害を与えることができるなどの条件で進められました。5月11日の第2回会議で、京都、広島、横浜、小倉の4つの目標が選ばれました。

②投下目標都市への空襲の禁止
アメリカ軍による日本本土への本格的な空襲は、1944(昭和19)年11月から始まりました。翌年3月からは、東京など大都市への無差別爆撃が始まりました。5月28日には、原爆の効果を正確に測定できるよう、同規模の都市が空襲を受ける中、投下目標都市に対する空襲が禁止されました。

③警告無しの使用の決定
アメリカのトルーマン大統領の承認の下、19455(昭和20)年5月に暫定委員会が設置されました。6月の会議で、原爆の使用について、「労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無し」で行われるべきだと決められました。これに対し開発に携わった科学者の一部は、無警告の原爆投下に反対しました。

④原爆の模擬爆弾の投下
原爆はそれまでの爆弾と投下方法が異なるため、アメリカ国内の砂漠などで、繰り返し投下訓練が行われました。さらに実戦面の訓練として、地理に慣れ、目標へ確実に投下するため、1945(昭和20)年7月から8月にかけて目標都市の周辺地域に原爆の模擬爆弾(通称「パンプキン」)を投下しました。

⑤第1目標に選ばれた広島
原爆の投下命令は、1945(昭和20)年7月25日付で発令されました。それには、8月3日ごろ以降、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆を投下するよう記されていました。その後、新潟を除外し、8月2日付で、攻撃日を8月6日、第1目標は「広島市街地工業地域」とする命令が出されました。これは、目標都市の中で唯一、広島に連合国軍の捕虜収容所がないと思われていたからです。

⑥広島の運命を決定した好天
原爆投下は、当時最も信頼された目視で行うこととされていました。1945(昭和20)年8月6日未明、マリアナ諸島のテニアン島から気象観測機が広島、小倉、長崎に向かい、その後原爆を搭載した「エノラ・ゲイ」と科学観測機、写真撮影機の計3機のB29が離陸しました。第1目標が好天との連絡を受けた「エノラ・ゲイ」は、広島に向かいました。照準点は市内中心部にあるT字型の相生橋。午前8時15分に投下された原爆は、相生橋の南東約300メートルにある島病院の上空約600メートルでさく裂しました。

▽原爆投下目標にされた都市▽
<投下目標の変遷(1945(昭和20)年)>
4月27日   投下目標の研究対象として、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保の17地域を選定
5月11日   京都、広島、横浜、小倉を選定
5月28日   京都、広島、新潟に対し空襲を禁止
6月14日   小倉、広島、新潟を選定
7月25日   8月3日ごろ以降、速やかに広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ原爆を投下する命令
8月 2日   8月6日に投下する命令。優先順位は広島、小倉、長崎
8月 6日   広島へ原爆投下(ウラン爆弾)
8月 8日   8月9日に投下する命令。優先順位は小倉、長崎
8月 9日   長崎へ原爆投下(プルトニウム爆弾)

アメリカの日本人虐殺・広島原爆投下

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/14 01:25 投稿番号: [8256 / 8458]
■なぜ広島に原爆が投下されたのか■
▽マンハッタン計画▽
●原子力の発見と第二次世界大戦
1938(昭和13)年12月、ドイツで原子の核分裂が発見され、その後、核分裂の際に大量のエネルギーを放出することが確認されました。原子力の発見です。翌年9月に始まった第二次世界大戦は各国とも国を挙げた総力戦となり、科学の進歩とともに兵器の開発も目覚ましく、航空機などの性能は飛躍的に向上しました。こうした中、原子力は爆弾に利用されました。

●新型爆弾の開発に着手
ナチス・ドイツの迫害から逃れるためアメリカに亡命したユダヤ系科学者のレオ・シラードらは、ドイツが核分裂を利用して新型爆弾を開発しているのではないかと恐れました。このため、著名な科学者であるアルバート・アインシュタインの署名をもらい、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に新型爆弾の研究を促す手紙を送りました。ルーズベルトはこれを認め、1939(昭和14)年10月、アメリカは原爆の研究に乗り出しました。

●太平洋戦争のぼっ発
1941(昭和16)年12月、日本軍はマレー半島へ上陸するとともに、ハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃して、太平洋戦争が始まりました。日本は開戦後しばらくの間優勢でしたが、翌年6月から次第に劣勢となりました。

●マンハッタン計画
1942(昭和17)年8月、「マンハッタン計画」と名付けられたアメリカを中心とする極秘の原爆製造計画が始まりました。軍と科学者と産業界を総動員して進められた巨大軍事開発事業でした。44年9月にはこの新兵器を日本に対して使用することを決めました。
3年の歳月と20億ドルの経費をかけて原爆は完成し、45年7月16日、西部ニューメキシコ州の砂漠地帯にあるアラモゴード実験場で、世界最初の原爆実験を成功させました。人類は、原子力を用いた武器を手にしたのです。広島に原爆が投下される、ほんの3週間前の出来事でした。45年5月までに、ドイツは無条件降伏し、戦況は連合軍の圧倒的な勝利に傾いていました。
 
▽急がれた原爆投下▽
1943(昭和18)年5月、アメリカが原爆投下の対象に想定していたのはドイツではなく日本でした。翌年9月、アメリカとイギリスの首脳は日本への原爆使用を合意しました。米国が原爆投下を急いだ理由は、次の3点にあると思われます。
・日本をできる限り早く降伏させ、米軍の犠牲を少なくしたかった。
・1945(昭和20)年の米、英、ソ連の首脳によるヤルタ会談で、ソ連はドイツの降伏から3カ月以内に日本に参戦することを極秘に決めていた。米国はソ連の対日参戦より前に原爆を日本に投下し、大戦後世界でソ連より優位に立ちたいと考えていた。
・アメリカは原爆という新兵器を実戦で使い、その威力を知りたかったと同時に、膨大な費用を使った原爆開発を国内向けに正当化したかった。

主体思想と日教組、ついでに共産党

投稿者: jikkararu 投稿日時: 2011/06/12 05:43 投稿番号: [8255 / 8458]
6.日教組と北朝鮮
6.2.主体思想との関連
北朝鮮の公式政治思想である主体思想を信奉する団体日本教職員チュチェ思想研究会全国連絡協議会では日教組関係者が歴代会長職を務め、、、、、
…………………
日教組は北朝鮮の
独裁政権がお好きらしい。
共産党はシナ独裁政権がお好きらしい。

Re: 東京大空襲のつづき5

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/06/11 21:53 投稿番号: [8254 / 8458]
ひどい話です

Re: アメリカの日本人虐殺・東京大空襲

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/06/07 20:49 投稿番号: [8253 / 8458]
これには同感です。

東京大空襲のつづき5

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/07 17:22 投稿番号: [8252 / 8458]
歴代のアメリカ政府は、広島・長崎に原爆を落としただけでなくし、今日に至るまで「原爆投下によって戦争終結が早まり、米軍の犠牲者が少なくなった」と開き直ってきました。

130回にも及んだ東京への空襲の中でも、1945年3月10日に行われたものは、その被害の甚大さから言って、人類史上にも残るホロコースト(大量虐殺)でした。米軍は325機のB29爆撃機を動員して約36万発の焼夷弾を東京・下町の密集地帯に投下し、荒れ狂う炎はあっと言う間に町中を覆い尽くし、老若男女を問わず、わずか2時間半で10万人以上が犠牲となったのです。米軍はまず、町を囲む円を描くように焼夷弾を投下し、炎の壁を作って逃げられないようにした上で、中にいた人々を焼き尽くしたと言われています。

当時、学徒兵として、10万人の遺体の処理作業についていた須田卓雄さんは、1970年12月29日付朝日新聞で自らの体験を発表されました。それをご紹介します。この文書は、『写真版   東京大空襲の記録』(新潮社)のP113でも紹介されています。

花があったら

昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。

午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。
頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。

着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

その人は赤ちゃんを抱えていた。さらに、その下には大きな穴が掘られていた。

母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。

どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。

赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。
だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。

わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。
どの顔も涙で汚れゆがんでいた。

一人がそっとその場をはなれ、地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。

若い顔がそこに現れた。
ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。

これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。
人間の愛を表現する顔であったのか。

だれかがいった。
「花があったらなあ――」

あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。
私たちは、数え十九才の学徒兵であった。

この東京大空襲のみならず、全国諸都市の焦土作戦の直接指揮をとってカーチス・E・ルメー将軍は、1964年に天皇と日本政府から勲一等旭日大綬章を与えられたそうです。
理由は、「日本の自衛隊の育成に貢献した」とのこと。

戦争で10万人の日本人を殺しても、日本政府から勲章がもらえる・・・
戦争と国家の本当の姿をこれほど端的に示す事実はないでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=5yJLhZescY8

東京大空襲のつづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/07 11:39 投稿番号: [8251 / 8458]
当夜の被害が拡大した原因は、以下の各要因が複合したものであった。とりわけ強い冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(空っ風)は直接・間接に大きな影響を及ぼした。

もともと精度に劣る防空警戒用レーダーの精度がますます低下していた。強い季節風によってレーダーのアンテナが揺さぶられたためである。これにより、編隊の確実な捕捉、編隊の企図の把握に支障が生じ、空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分)。なお、アメリカ軍機はウインドウを大量に散布するなどしてレーダーによる捕捉に対抗した。
「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾が投弾された。その閃光は、攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃にくらべて高いものであった。
さらに後続する編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げた。当初の投下予定地域ではなかった荒川(当時は荒川放水路)周辺やその外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が一層拡大した。これは、早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では、火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。
投下された爆弾(焼夷弾)が当時の日本家屋を焼き払うために最適化されたものであった。
強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長された。
これら複数の要因が重なり被害が拡大した。

なお、この爆撃において投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した新型の集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などである。有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50cmの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。この焼夷弾は、投下時には各容器が一つの束にまとめられており、投下後に空中で散弾のように各容器が分散するようにされていたため、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼ばれた。

使用された焼夷弾は当時の平均的な爆弾とは異なる構造のものであった。つまり、通常の航空爆弾では、瞬発または0.02〜0.05秒の遅発信管が取り付けられており、破壊力は主に爆発のエネルギーによって得られる。しかし木造の日本家屋を標的にそのような爆弾を用いても、破壊できる家屋が爆風が及ぶ範囲のものに限られ、それを免れた家屋は破壊されず散発的な被害にとどまってしまう。そこでアメリカ軍は、市街地を火災により壊滅させるため、爆発力の代わりに燃焼力を主体とした焼夷弾を用いることとし、その焼夷弾も日本家屋に火災を発生させるために新たに開発した。

爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし、火災の規模が常識を遥かに超えるものであったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだ。そのため、避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息(ちっそく)によって命を奪われた人々も多かった。また、川に逃げ込んだものの冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。

被害規模 [編集]当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。

死亡:8万3793人
負傷者:4万918人
被災者:100万8005人
被災家屋:26万8358戸
なお人的被害の実数はこれよりも多い。上記の被害数の死者数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在するためである。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われる。
わずか一回の空襲で東京市街地の東半分、実に東京35区の3分の1以上の面積(約41km&sup2;)が焼失した。
ちなみにアメリカ側の損害は、撃墜・墜落が12機、撃破が42機であった。

東京大空襲のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/07 11:32 投稿番号: [8250 / 8458]
1945年3月9日以前の空襲 [編集]
空襲を行ったB-29戦略爆撃機1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、サイパン島などマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土空襲の基地となった。同年11月24日、軍需工場である北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲が行われた。それ以降、空襲が続き、1945年1月27日には有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。

この頃の爆撃はレーダー照準を用いた高度精密爆撃であったが、爆撃失敗も多かったため、後に夜間低空爆撃へと変化していった。

3月10日の空襲 [編集]
焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人(民間の調査では10万人)以上といわれている。(石川光陽撮影)
母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない(石川光陽撮影)
鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)
それまでの爆撃とは異なり、3月10日の大空襲は低高度・夜間・焼夷弾攻撃であった。その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団であった。

1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来した。22時30分(日本時間)にはラジオ放送が中断され警戒警報が発令された。ところが、その警戒警報は一旦解除される。同編隊が房総半島沖に退去して行ったためである。これにより生じた軍民双方の油断を突くかのように、3月9日から3月10日へと日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。爆撃は325機ものB-29爆撃機(うち爆弾投下機279機)によるもので、0時7分に深川地区へ初弾が投下されたのを皮切りにその後城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)に対する爆撃も開始された。爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速50m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた。

アメリカ軍が東京大空襲の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日であることと、3月10日が日本の陸軍記念日である事に因んでいるという説が有力である。ただしこのことがアメリカ側の資料で確認されているわけではない。[要出典]

東京大空襲の爆撃のために各B-29には通常の約2倍の搭載量である6tもの高性能焼夷弾が搭載されていた。ほぼ全ての機銃および弾薬を爆弾投下機の多くから降ろしてまで、焼夷弾の搭載量が最優先されたのである。その背景には、その時点で日本には貧弱な防空能力しか残されていないことが見抜かれていたことが挙げられる。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにものぼった。 午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除された。

東京大空襲のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/04 19:56 投稿番号: [8249 / 8458]
1945年3月10日午前0時8分(米軍記録7分)、東京の下町上空に侵入した米軍B29爆撃機が、大量の焼夷弾による爆撃を開始。マリアナ諸島を発進したB29は300機を超え、それまでの「昼間高高度精密爆撃」から、「夜間低高度無差別爆撃」に作戦を変更し、高度約2000メートルから日本の家屋用に開発したM69焼夷弾でじゅうたん爆撃した。
現在の墨田、江東、台東区などにあたる当時の本所、深川、城東、浅草の各区などで大火が発生した。2時間余りの爆撃で、死者は約10万人、負傷者約4万人、被災家屋約27万戸。米軍調査によると、焼失面積は41平方キロに上り、米軍機の損失は14機に過ぎなかった。
読売社説[東京大空襲]「明らかに『戦争犯罪』だった」(2005/03/10)
「もし、われわれが負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」
60年前の3月10日未明、東京の下町を焦土と化した大空襲の指揮をとったカーチス・ルメイ米司令官が、後年語った言葉である。

東京大空襲は、初めから一般市民を主目標とした大量虐殺作戦だった。明らかな国際法違反である。軍事関連施設に目標を絞った爆撃で戦果を上げることができなかった米軍は、焼夷(しょうい)弾を使って市街地を焼き払い日本国民の戦意をそぐ作戦に転じていた。
木造住宅密集地が火の海となり、約10万人の生命が奪われた。犠牲者は、欧州最大規模の英米によるドイツ・ドレスデン爆撃を上回る。
東京大空襲で“成功”した米国は、3月12日に名古屋、13、14日には大阪へと軍民無差別爆撃の対象を広げて行く。終戦までに150前後の都市が空襲され、犠牲者は50万人に上った。

東京大空襲を戦争犯罪と認めているのは、ルメイ将軍だけではない。
「ルメイも私も、戦争犯罪を行ったのだ。もし負けていればだ」ベトナム戦争介入責任者の一人だったロバート・マクナマラ元国防長官が、昨年日本公開されたドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー」で、こう述べている。
マクナマラ氏は当時、ルメイ将軍の下の中佐として“効率的”な焼夷弾爆撃の作戦計画作成に手腕を振るっていた。

日本の政治・軍事指導者を戦争犯罪人として裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)とは、いったい何だったのか。改めて考えさせられる述懐である。

1992年、ドレスデン爆撃を指揮したアーサー・ハリス将軍の銅像がロンドンの中心部に建てられた際、ドイツ政府は強く抗議した。
対照的に、日本政府は1964年、ルメイ将軍に勲一等旭日大綬章を贈っている。航空自衛隊の育成に協力した、という理由だった。“東京裁判史観”の呪縛がいかに強く日本社会の歴史認識をゆがめたかを示す、象徴的な現象である。

産経新聞・社説「東京大空襲   勝者の非人道性も検証を」(2005/03/10)
この空襲を指揮したカーチス・ルメイ少将が戦後、「航空自衛隊の育成に貢献した」として日本政府から勲一等旭日大綬章を受けたのは、皮肉なめぐりあわせである。
無差別爆撃は東京大空襲の後も、名古屋、大阪などの大都市で続けられ、広島、長崎の原爆を合わせると、犠牲者総数は五十万人を超える。戦争とはいえ、これだけの民間人を組織的、計画的に殺害した行為は、あまりにも非人道的である。
米軍の無差別爆撃、原爆投下とともに忘れてならないのは、終戦直前、旧ソ連軍が日ソ中立条約を破って満州に侵入した行為である。関東軍将兵ら六十万人がシベリアなどに抑留され、うち六万人が強制労働で死亡した。満州や朝鮮半島から引き揚げる途中、ソ連兵の暴行などで死亡した日本人は二十万人を超える。
近年、ヨーロッパでも、第二次大戦中の戦勝国の非人道的な行為を検証しようという試みが始まっている。
先月十三日、ドイツ東部の古都、ドレスデンで、大空襲六十周年の式典が催された。東京と同様、米英空軍の焼夷弾による無差別爆撃(ドレスデン空爆)を受け、数万人の一般市民が死亡したといわれる。戦後、ドレスデンは東独に属し、ホロコーストへの負い目もあって、連合国への批判が控えられてきたが、六十周年の式典では、五万人の市民がロウソクをともし、犠牲者を追悼した。
ポーランド政府は、旧ソ連が自国の将校ら二万人以上を虐殺した「カチンの森」事件(一九四〇年)の真相解明に着手している。

戦争はいつの時代も、勝者の側から見た歴史だけが語られがちである。戦後六十年を機に、敗戦国日本の側からも冷静に戦争を見つめ直したい。
保守系新聞が同じような「東京裁判史観」批判をしていることは興味深い。

アメリカの日本人虐殺・東京大空襲

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/04 17:57 投稿番号: [8248 / 8458]
1945年(昭和20年)3月10日はアメリカ軍による無差別攻撃、無差別殺戮の東京大空襲日である。   日本人は広島、長崎と共に忘れてはならない日である。

1944年7月、サイパンなどマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土に対する空襲の基地となった。   この年の11月に本土の空襲が始まった。

最初の頃は軍事工場などのある地域がピンポイントで空爆されていたが、徐々に都市への攻撃へと移っていった。

そして東京、人口密集地域である、下町の城東地区の浅草、本所、深川に飛来したB29が325機、爆弾はM 69焼夷弾 48,194発、1800トンが投下され、

死者 83,793人、
焼けた家屋 267,171軒、
罹災者 1,008,005人、
焼失した面積41平方キロ、
ほぼ東京の3分の1以上にあたると言う。

正確には9日の夜中から10日の早朝と言う事だが、その日の夜は低気圧の通過に伴って30mの強風がふいており、この風が焼夷弾による火災と重なり延焼を広げ、大きな被害をもたらした。

この日、3月10日は1999年に空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として「東京都平和の日」に定められ、永遠に記憶に留める日となった。

筆舌に尽くし難い、一般市民を狙い撃ちにした、許す事のできないアメリカによる戦争犯罪の日である。

死者のほとんどが女性、子供、老人で非戦闘員だった。   アメリカが言う、産業基盤を破壊し、戦意を喪失させるための作戦であれ、許す事の出来ない無差別の民間人殺戮である。
この後、東京は6回の攻撃を受け、名古屋、大阪、神戸と言う大都市への攻撃へと移り、その後、北海道から沖縄の離島までの地方がこの焼夷弾による絨毯爆撃を受け、殺戮された一般市民は30万人以上に及んだ。

そのどめとして広島、長崎への原子爆弾投下へとつながっていく。なんと言う無謀、許すことの出来ない、明らかな戦争犯罪だ。

この市民殺戮を指揮したのはカーチス・E・ルメイで、後にアメリカの検証で、彼は決してモラルの高い人間ではなかった、と言われている。   つまり、殺人が趣味のような人間なのだ。   彼自身も、もしアメリカが戦争に負けていたのなら、私は戦争犯罪者になったであろう、と言っている。

その殺人確信犯に対して、佐藤栄作首相は1964年、勲一等旭日大綬章を贈っている。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/06/03 21:15 投稿番号: [8247 / 8458]
原口   元総務大臣が   総理になれば、
小沢傀儡と   言われるようになる。

もともと   小沢と   管が   対立したのは、
管が   小沢の傀儡になるのを拒否したからだ。

原口は   小沢に近く、次の総理になる確率が高い。
そして、原口政権が成立すれば、   マスコミは   小沢傀儡と   レッテル貼りする。

傀儡というイメージがつけば、おそらく支持率は落ちる。

わたしも、傀儡政権は   支持できないな。

第二次世界大戦は共産主義者が引き起こした

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/05/31 17:55 投稿番号: [8246 / 8458]
朝日新聞など左翼系マスコミは、時の権力と一体となり戦争を全面支持し応援したことは知られている。その理由が理解できるだろう。
米国の情報公開で明らかにされたことだが、あえて掲載する。
我々は、太平洋戦争或いは大東亜戦争は、「軍国主義者」の主導で惹起したと教えられてきた。
中川八洋著に、「近衛文麿とルーズヴェルト」がある。
近衛文麿首相は共産主義者であり、戦争は、マルクス・レーニン主義/ソ連共産党の陰謀だったという内容だ。
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件(七七事変)〜支那事変〜日中戦争〜大東亜戦争にと戦争を拡大していったが、これに、近衛首相は日本を共産国家にするために深く関与していた。戦争責任を感じていた近衛文麿は、巣鴨拘置所に出頭を命じられた昭和20年12月16日、荻外荘(杉並区荻窪 2-43-20)で青酸カリによる服毒自殺した。

最近では米国内の情報公開によって、ルーズベルト政権当時300人からの親ソ・共産主義者がスパイとしてホワイトハウスにいたことが判明している。
その最重要人物の一人は、ハリー・ホワイト財務次官補であり、日本に開戦を強要した「ハル・ノート」を作成した人物その人だった。このことから、米でも「ハル・ノート」の歴史解釈の見直しがあるという。また、ルーズベルト政権は主に共産主義者が政権に荷担していた完全な『共産主義政権』だったことが明らかになっている。そして、日本の真珠湾攻撃の7ヶ月も前に、米国は蒋介石軍に協力して日本爆撃を計画し、陸軍長官、海軍長官、そしてルーズベルト大統領自身が承認のサインを与えた文書も公開されている。
つまり、第二次世界大戦は、コミンテルン(国際共産主義運動の中枢、ソ連共産党)の戦争謀略によって引き起こしたものだ。当然ながら、日本共産党もコミンテルン日本支部として活動していた。(日共は自主独立路線と主張していたが、誰も信じない)

真の共産主義者は正体を偽装すると言われている。「共産主義者」は、今も正体を隠して国家の中枢に入り込み共産化工作している。民主党など政権政党の国会議員、国家公務員ら高級官僚、裁判官等の法曹界、言論・マスコミ界、芸能界等々、国家に影響力のある組織・団体には間違いなく共産主義者がエージェントとして潜入して工作している。

ソ連は崩壊し同時にコミンテルンも解体したが、中国共産党が健在である以上、今もコミンテルンは生きていると見るのが正しい。中国共産党の日本の友党が民主党だ。そうすると、民主党幹事長小沢一郎ら民主党員が大挙しての中共訪問、夫婦別性、外国人参政権法案など、日本解体につながる民主党の政策が理解出来る。真の共産主義者は正体を偽装しているのだ。それが今の民主党だ。

戦前、朝日新聞等のマスコミは戦争を賛美した論調で積極的推進派だった。現在の殆どのマスコミも、左翼・民主党と価値観が一体と言われ、マスコミ本来の現政権を厳しく監視する役割を担っていない。このような国内事情が、戦争前と良く似ていると言われる理由だ。国民も、左翼政権と、それを支持する左翼系報道機関が手を組んだときが、一番危険な状態だと想像がつくことだろう。それが今であり、極めて危うい状態にある。

世界最初のアジアサミット

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/05/31 11:22 投稿番号: [8245 / 8458]
昭和18年(1943年)11月5日、東京で大東亜会議が開かれました。日本が主催した世界最初のアジアサミットです。残念ながらこの会議に出席できなかった国があります。マレー・インドネシアがあります。この国は独立していなかったためです。仏領インドシナ(現ベトナム)はフランスの植民地のままであり、日本はまだその状態を承認していたため、フランスのヴィシー政権からは参加希望が出ませんでした。

マレー・インドネシアが独立していなかったのは日本の占領地行政の方針と戦争中という事情によるものでした。日本は占領地には軍政を行い、政治状態や歴史的経緯を考慮して独立ないし、自治を与え、軍政を撤廃する方針でした。これでビルマ、フィリピンが独立しています。マレー・インドネシアの独立が遅れたのは参謀本部の反対によるものでした。独立すると軍隊が通過するのにもいちいち相手国に許可を得なければならず、やっかいだったという理由です。占領地だとその手間が省けるわけです。特にインドネシアには石油があり、それをいちいち日本に運ぶのに許可をとっていたのでは間に合わないという事情です。戦争中ですから石油は非常に重要な物資です。もちろん未来永劫、占領地にするつもりなどありません。

大東亜会議のときインドネシアからスカルノ、ハッタが来日しており、正式に参加できなかったところ、天皇陛下が皇居に招きました。インドネシアは日本が解放する前はオランダの植民地でした。インドネシア人がオランダの女王陛下に面会するなどということは絶対にあり得ないことです。しかし日本はそれを許したばかりでなく、昭和天皇はスカルノ、ハッタに会うと陛下のほうからつかつかと二人に歩み寄られて握手したのです。思い浮かべただけでも感動的な場面です。
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