日中全面戦争の隠された真相のつづき2
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/18 10:24 投稿番号: [8263 / 8458]
「日本は文字通り戦争に押し込まれた」
日本が中国を侵略したという見解を根本的に疑い出したのは、江藤淳『忘れたことと忘れさせられたこと』(昭五十四)の巻末付録に収められていた富桝・外務省資料課嘱託の「『太平洋戦争史』論」を読んだときからである。これは連合軍総司令部の「太平洋戦争史」を批判したものであった。富桝は、ニューヨークの『ヘラルド・トリビューン』のヴィクター・キーンズ特派員の「南京にいる無謀者たちによって発端は開かれた」という言葉を紹介する一方、「日本は文字通り戦争に押し込まれた」という『ニューヨーク・タイムズ』のハーレット・アーベンツ特派員の見解をも引用していた。
「日本ハ第一上海事件ヲ繰返スヲ好マズ忍耐、隠忍以テ極力事態ノ悪化ヲ防止セント努メタルモ、支那二於ケル外国権益ヲ渦中二引込ムヲ企図シタル支那人二依リテ日本ハ文字通リ戦争二押込マレタルナリ」
拙著『「南京虐殺」の徹底検証』にも引用したように、フランスのパリから上海にやってきたエドアール・エルセイ特派員も、南京で蒋介石にインタビューした「支那事変観たまま」という現地報告のなかで、第二次上海事変は蒋介石政府の計画的な出来事であったと伝えていた。
当時の上海はフラソス総領事のほぼ独裁下にあるフランス租界と、同じく日英米の共同租界と、上海特別市の二行政区域に分かれる国際都市であった。自国民を守るため上海には米国軍二七五〇人、英国軍二五九〇人、日本海軍陸戦隊二五〇〇人、フラソス軍二〇五〇人、イタリア軍七七〇人がいた。五力国軍は勝手に土足で踏み込んだのではなかった。数十年間の歴史に由来する法的権利に基づいて駐留していた。
そのような状況のなかで書かれたエルセイやアーベンツの記事は、日本の中国侵略という見解を覆す貴重な資料であった。ところがエルセイやアーベンツの見解をも覆し上海事変の決定的な真相を明らかにする研究書が出る。それが冒頭に紹介した『毛沢東―知られざる物語』である。
毛沢東と蒋介石とスターリンの三国志
エルセイやアーベンツは第二次上海事変は蒋介石政府の計画的な出来事であったと伝えていた。ところが甦に裏の裏があった。その背後にはスターリンと毛沢東と蒋介石の、覇権獲得と、奪権の、戦略があった。スターリンも毛沢東も二十世紀を「三国志」の目で見ていたのだが、それを史料的に明確にしたのが毛沢東―知られざる物語』である。
蒋介石が監禁された西安事件から見てみよう。西安事件は張学良の思いつきであったが、そうするよう煽ったのは毛沢東であった。監禁された蒋介石を、毛沢東は殺すよう画策したがついに成功しなかったのは、スターリンが張学良を非難し、蒋介石支持を明確にしたからだ。スターリンは、「中国を使って日本を中国の広大な内陸部へおびきよせ、泥沼に引きずり込み、そうして日本をソ連国境から遠ざけること」を狙っていた。中国の分裂は中国の抗日戦争を困難にするから、蒋介石を中心に、「中国の統一を保ったまま日本を全面戦争に引きずり込みたい」と、スターリソは考えていた。
しかし蒋介石は日本との戦いを自滅への道と見て、抗日戦争は考えていなかった。ところが監禁から解放される直前、一転して同意する。それはスターリンと蒋介石の取引の結果であった。蒋介石は、人質同然で十一年間もモスクワにいる息子の蒋経国の帰国を強く望んで交渉したが、スターリンの同意はなかなか得られなかった。ところがスターリンがそれに同意したという大ニュースを携えて、クリスマスの日に、周恩来が西安の蒋介石のもとへやってくる。蒋介石は息子のいのちと引き替えに抗日戦に同意したのであった。
日本が中国を侵略したという見解を根本的に疑い出したのは、江藤淳『忘れたことと忘れさせられたこと』(昭五十四)の巻末付録に収められていた富桝・外務省資料課嘱託の「『太平洋戦争史』論」を読んだときからである。これは連合軍総司令部の「太平洋戦争史」を批判したものであった。富桝は、ニューヨークの『ヘラルド・トリビューン』のヴィクター・キーンズ特派員の「南京にいる無謀者たちによって発端は開かれた」という言葉を紹介する一方、「日本は文字通り戦争に押し込まれた」という『ニューヨーク・タイムズ』のハーレット・アーベンツ特派員の見解をも引用していた。
「日本ハ第一上海事件ヲ繰返スヲ好マズ忍耐、隠忍以テ極力事態ノ悪化ヲ防止セント努メタルモ、支那二於ケル外国権益ヲ渦中二引込ムヲ企図シタル支那人二依リテ日本ハ文字通リ戦争二押込マレタルナリ」
拙著『「南京虐殺」の徹底検証』にも引用したように、フランスのパリから上海にやってきたエドアール・エルセイ特派員も、南京で蒋介石にインタビューした「支那事変観たまま」という現地報告のなかで、第二次上海事変は蒋介石政府の計画的な出来事であったと伝えていた。
当時の上海はフラソス総領事のほぼ独裁下にあるフランス租界と、同じく日英米の共同租界と、上海特別市の二行政区域に分かれる国際都市であった。自国民を守るため上海には米国軍二七五〇人、英国軍二五九〇人、日本海軍陸戦隊二五〇〇人、フラソス軍二〇五〇人、イタリア軍七七〇人がいた。五力国軍は勝手に土足で踏み込んだのではなかった。数十年間の歴史に由来する法的権利に基づいて駐留していた。
そのような状況のなかで書かれたエルセイやアーベンツの記事は、日本の中国侵略という見解を覆す貴重な資料であった。ところがエルセイやアーベンツの見解をも覆し上海事変の決定的な真相を明らかにする研究書が出る。それが冒頭に紹介した『毛沢東―知られざる物語』である。
毛沢東と蒋介石とスターリンの三国志
エルセイやアーベンツは第二次上海事変は蒋介石政府の計画的な出来事であったと伝えていた。ところが甦に裏の裏があった。その背後にはスターリンと毛沢東と蒋介石の、覇権獲得と、奪権の、戦略があった。スターリンも毛沢東も二十世紀を「三国志」の目で見ていたのだが、それを史料的に明確にしたのが毛沢東―知られざる物語』である。
蒋介石が監禁された西安事件から見てみよう。西安事件は張学良の思いつきであったが、そうするよう煽ったのは毛沢東であった。監禁された蒋介石を、毛沢東は殺すよう画策したがついに成功しなかったのは、スターリンが張学良を非難し、蒋介石支持を明確にしたからだ。スターリンは、「中国を使って日本を中国の広大な内陸部へおびきよせ、泥沼に引きずり込み、そうして日本をソ連国境から遠ざけること」を狙っていた。中国の分裂は中国の抗日戦争を困難にするから、蒋介石を中心に、「中国の統一を保ったまま日本を全面戦争に引きずり込みたい」と、スターリソは考えていた。
しかし蒋介石は日本との戦いを自滅への道と見て、抗日戦争は考えていなかった。ところが監禁から解放される直前、一転して同意する。それはスターリンと蒋介石の取引の結果であった。蒋介石は、人質同然で十一年間もモスクワにいる息子の蒋経国の帰国を強く望んで交渉したが、スターリンの同意はなかなか得られなかった。ところがスターリンがそれに同意したという大ニュースを携えて、クリスマスの日に、周恩来が西安の蒋介石のもとへやってくる。蒋介石は息子のいのちと引き替えに抗日戦に同意したのであった。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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