東京大空襲のつづき3
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/07 11:32 投稿番号: [8250 / 8458]
1945年3月9日以前の空襲 [編集]
空襲を行ったB-29戦略爆撃機1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、サイパン島などマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土空襲の基地となった。同年11月24日、軍需工場である北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲が行われた。それ以降、空襲が続き、1945年1月27日には有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。
この頃の爆撃はレーダー照準を用いた高度精密爆撃であったが、爆撃失敗も多かったため、後に夜間低空爆撃へと変化していった。
3月10日の空襲 [編集]
焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人(民間の調査では10万人)以上といわれている。(石川光陽撮影)
母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない(石川光陽撮影)
鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)
それまでの爆撃とは異なり、3月10日の大空襲は低高度・夜間・焼夷弾攻撃であった。その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団であった。
1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来した。22時30分(日本時間)にはラジオ放送が中断され警戒警報が発令された。ところが、その警戒警報は一旦解除される。同編隊が房総半島沖に退去して行ったためである。これにより生じた軍民双方の油断を突くかのように、3月9日から3月10日へと日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。爆撃は325機ものB-29爆撃機(うち爆弾投下機279機)によるもので、0時7分に深川地区へ初弾が投下されたのを皮切りにその後城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)に対する爆撃も開始された。爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速50m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた。
アメリカ軍が東京大空襲の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日であることと、3月10日が日本の陸軍記念日である事に因んでいるという説が有力である。ただしこのことがアメリカ側の資料で確認されているわけではない。[要出典]
東京大空襲の爆撃のために各B-29には通常の約2倍の搭載量である6tもの高性能焼夷弾が搭載されていた。ほぼ全ての機銃および弾薬を爆弾投下機の多くから降ろしてまで、焼夷弾の搭載量が最優先されたのである。その背景には、その時点で日本には貧弱な防空能力しか残されていないことが見抜かれていたことが挙げられる。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにものぼった。 午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除された。
空襲を行ったB-29戦略爆撃機1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、サイパン島などマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土空襲の基地となった。同年11月24日、軍需工場である北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲が行われた。それ以降、空襲が続き、1945年1月27日には有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。
この頃の爆撃はレーダー照準を用いた高度精密爆撃であったが、爆撃失敗も多かったため、後に夜間低空爆撃へと変化していった。
3月10日の空襲 [編集]
焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人(民間の調査では10万人)以上といわれている。(石川光陽撮影)
母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない(石川光陽撮影)
鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)
それまでの爆撃とは異なり、3月10日の大空襲は低高度・夜間・焼夷弾攻撃であった。その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団であった。
1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来した。22時30分(日本時間)にはラジオ放送が中断され警戒警報が発令された。ところが、その警戒警報は一旦解除される。同編隊が房総半島沖に退去して行ったためである。これにより生じた軍民双方の油断を突くかのように、3月9日から3月10日へと日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。爆撃は325機ものB-29爆撃機(うち爆弾投下機279機)によるもので、0時7分に深川地区へ初弾が投下されたのを皮切りにその後城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)に対する爆撃も開始された。爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速50m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた。
アメリカ軍が東京大空襲の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日であることと、3月10日が日本の陸軍記念日である事に因んでいるという説が有力である。ただしこのことがアメリカ側の資料で確認されているわけではない。[要出典]
東京大空襲の爆撃のために各B-29には通常の約2倍の搭載量である6tもの高性能焼夷弾が搭載されていた。ほぼ全ての機銃および弾薬を爆弾投下機の多くから降ろしてまで、焼夷弾の搭載量が最優先されたのである。その背景には、その時点で日本には貧弱な防空能力しか残されていないことが見抜かれていたことが挙げられる。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにものぼった。 午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除された。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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