紫陽花亭日乗

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韓国人の「醜さ」の映した日本の大震災

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/21 21:10 投稿番号: [361 / 735]
【東日本大震災】韓国ネットユーザーの反応
「韓日戦ゴールより嬉しい・そのまま沈め」 2011-03-12 20:39:38

分別ない韓国ネットユーザー、日本大地震に皮肉
韓国速報 11/3/12

  11日、隣国日本が史上最大規模の地震の衝撃で苦しむ中で、
一部インターネットユーザーが分別のない反応を見せて顰蹙を買っている。

  彼らはインターネット主要ポータルサイトに掲載された地震関連記事に
悪口コメントを付けるなどの行為で眉をひそめさせている。

  「韓日戦同点ゴールよりうれしい。うっとりする」(tkfflaRns)、
「久しぶりに温かい便りだ。さっぱりする」(福徳)、

「以前、関東大地震や神戸大地震のように、まん中に大きく一発
さく烈してくれれば、今晩はよく眠れるだろう。
火山爆発に8.8大地震で終わらせてやる」(I'll be back)
等、悪口コメントが続いた。

  これ以外にも、「この程度で喜ぶとは。明朝まで待ってみろ。
まだ喜ぶのは早い」(Ace)、

「こういう難しい時世で、やる気も出ないが、久々に温かい話が聞こえてきた。
そのまま沈めばという感じだ」
(aaa)等の書き込みもあった。

  こうした一部の分別ない書き込みに、大部分のインターネットユーザーは
思慮深くない行動を叱り、日本国民が体験している大型災難に遺憾を表わしている。

  「いくら日本が憎くても、こういう状況で悪口コメントを付けるのはないと思う。
これ以上ケガ人が出ないよう、よく収拾されるように願います」(シルバーレーン)、

「悪口コメント付けるやつらは見よ。君たちが日本人たちより、
さらに悪いやつらだ。憎くても、かわいくても、みな隣人だ。
今は忘れてしまい前へ行こう」(珍島犬)、

「悪口コメント付ける人間たちよ、頼むから今回だけは耐えろ。
同じ韓国人なのが恥ずかしいほどだ。私たちにも起きうる自然災害だ。
今回だけは我慢して、大きい人命被害がなくなるのを祈ろう」
(ハローコント)等の反応が出ている。

韓国速報 11/3/12

つづく

Re: 中国人の「醜さ」の映した日本の大震災

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/21 21:07 投稿番号: [360 / 735]
  ずっと前に、台湾の著名作家である栢楊氏が『醜い中国人』という本を書いた。
その本は中国人の間でも大きな話題になった。
時を越えて、今もその本の観点で中国人を照り合わせる人が多い。
日本の大地震で、中国人はみっともない「醜さ」を世間にさらした。
人の不幸を喜ぶ「醜さ」、死を恐れてびくびくする「醜さ」などは
あまりにも見るに忍びない。

日本人と中国人の全体的な素養の差は「雲泥の差」である。
日本の大地震はまさに鏡のように中国人の醜い一面を映した。

  最近、中国政府でも、民間でも誇らかに「大国堀起」を歓呼している。
しかし、今度の東日本大地震で演じた役は余りにも拙劣である。
人の不幸を喜ぶ仕業や食塩を買い占める仕業から、中国社会と現代文明社会
との距離がいまだにはるかに遠いということを実感させられた。
しかし、このことで民衆を責めるわけではない。
民衆の素養は社会制度と離れられない関係で結ばれている。

国の体制を改革しない限り、政府の公信力を引き上げない限り、
将来にわたって中国人の「醜さ」が後を絶たないのは明らかである。
この意味で、東日本大地震は中国人にもう一歩進歩できるチャンスを
与えてくれたのかもしれない。(編集担当:祝斌)

【関連記事】
【中国ブログ】東北関東大地震が醜い中国人の姿を浮き彫りに
【中国BBS】日本での地震を見て日中の「民度の違い」を実感
災害時でも整然と並ぶ日本人の冷静さに中国が感動
ジャスミン革命騒ぎに過剰反応、中国が警察国家の醜態さらす―独誌
「中国人」は「民度の低さ」の代名詞、反省が必要…メディア呼びかけ
最終更新:4月4日(月)16時18分

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★柏楊さんは台湾の著名な評論家です。去年か一昨年かに亡くなられた。
『醜い中国人』は学生時代に読みました。
そのなかで印象に残っている話。

ある日、中国人は急に犬が食べたくなった。
そこで飼っている犬を食べることにした。
犬の四肢をひもで垣根にしばりつけた。
犬は、新しい遊びだと思って飼い主を疑わず喜んでいる。
飼い主はその犬の平気で殺して食べた。」

食文化は民族固有のものだから、感情では嫌悪しても
理性では非難することを抑制する。
がしかし、犬肉を食べるなら、飼い犬以外の犬にしろよな、と思う。
またしかし、日本でも鶏を飼っていて、そのニワトリを食べるしと思う。

高島俊男先生はどこかで以下のように書いておられた。
中国人は、飼い犬に人糞を食べさす。(実は朝鮮半島も)
犬がまるまるとふとってきたら殺して食べ、また新しい犬を飼う。
リサイクルと環境衛生の面でなんちゃらかんちゃら・・・。

人間は罪深い。
福島の一時帰宅した被災者のかたの話。
「家に戻ってみたら、犬小屋のなかで親犬と小犬が抱き合って死んでいた」、と。
ああ、たまらない、耳をふさぎたい。
その川内町は、二ヶ月放置した物品からは、
問題になる放射性物質の数値は出なかったという。  
民主党政権が人も犬も牛も猫も鶏もあらゆるものを苦しめている。


5987, 5988

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中国人の「醜さ」の映した日本の大震災

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/21 21:02 投稿番号: [359 / 735]
鏡のように中国人の「醜さ」の一面を映した日本の大震災
サーチナ 4月4日(月)10時16分配信

  この何年かの間、世界的な範囲で大地震が頻繁に発生している。
2011年3月11日に東日本を襲った東北地方太平洋沖地震の発生の前日、
中国雲南省盈江でもマグニチュード5.8の地震が発生した。
発生した当初は、中国のマスコミは相当な注目を集めていたが、
日本で恐れるべき震度の大地震が発生したことをきっかけに、
中国国内でも地震に対する注目が東日本大地震に移った。

  日本の大地震の発生後、国際社会は迅速に国際的な援助に取り組んだ。
中国政府も救援隊を派遣し、物資の援助を行っている。
世界中のたくさんの国々と人々は日本の地震と津波の被害に対して驚きと同情を表した。
しかし、中国人の中には、まったく異なる二つの反応があった。
一つは同情の反応で、また一つは喜びの反応であった。
筆者は、日本大地震発生の当日、QQ群ごとに日本に大地震発生を喜ぶ二枚の
写真が出ているのを見た。一枚は「おめでとう、日本地震」というタイトルの
PS写真で、ほかの一枚は「日本地震、いい気味だ」と言いながら
笑っているお婆さんたちの写っている写真である。

  ウェブサイト「鳳凰網」は日本大地震直後にすぐ日本大地震についての
反応に対する調査を行った。調査の結果、80%の人は日本に対する人道的な
援助に賛成していることが分かった。
「鳳凰網」は言論の幅も広いし、ネットユーザーの素養も高いので
その結果は当然であると思う。信用できる調査結果であった。

  しかし、左派系サイト「中華網」「烏有之郷」などには、喜びの声が充満した。
評論家諸氏はそのような人の不幸を喜ぶ文章に対して反論したが、かえって
強い反発を浴びた。「新浪」「騰訊」「捜狐」などのミニブログにも数多くの
日本大地震を喜ぶ文章が載っていた。
その後、サイト管理人によって削除されるようになった。

  前世紀90年代、台湾に大地震が発生した時も、大陸の多くの中国人は
喜び勇んでいた。台湾と大陸は同じ民族でありながらも、そのありさま
だから、歴史的にあつれきのあった日本に対してはいうまでもない。

  もし、日本の被害が大地震と津波だけで、事態が原子力発電所の事故にまで
発展していなかったら、今も喜び続けている中国人がたくさんいたかもしれない。
原発への対応がうまくできなかった場合、被害を受けるのは日本だけではない。
中国を含む周辺国も巻き添えを食う。
その面から、喜んでいる中国人も問題の深刻さを感じ、次第に喜ぶ気持ちを
変え始めた。その上、他人の不幸を喜ぶ行為に対する文章の批評と教育の
影響で、いまのネットでは日本の大地震を喜ぶ声は少なくなった。

  それに、不思議なのは日本の地震で慌てふためくのは日本よりも中国のほうである。
中国では放射性物質のデマが飛び交う一方で、専門家が中央テレビなどのマス
コミでヨードやヨード添加塩が放射性物質防止の効果があるとほのめかした。
3月16日、沿海の浙江省からヨード添加塩の買い占めが始まった。
3月17日には、ヨード添加塩の買い占めが全国に広がった。
スーパーや店舗では塩が売り切れ、全国的な大騒ぎになった。
日本の地震で日本は泰然自若として対応しているのに
中国のほうがかえって大騒ぎをしている。


つづく

【墓碑銘】『週刊新潮』2010年7月15日号

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 21:37 投稿番号: [358 / 735]
【墓碑銘】『週刊新潮』2010年7月15日号より

行動する保守派論客・中村粲さんが取り戻した「歴史」

  行動派の学者のなかでも、中村粲さんの活動は突出していた。
獨協大学で教鞭を執る身で、朝日新聞社の前で中国寄りの偏向報道を
糾弾したり、台湾の立場を守れと、街宣車の上で日の丸を持ち、
外務省にデモをしかけたり――。

  外交評論家の田久保忠衛さんは言う。
「純真な人で黙ってはいられない。
歴史には言い分があるのに、具体的な検証もせずに他国の主張に基づき、
日本が悪いと刷り込む報道が、国民を骨抜きにすると危機感をおぼえたのです」

  『正論』編集長の上島嘉郎さんも振り返る。
「東京裁判による自虐史観から、内省したうえで日本の歴史をどう解釈する
かを日本人の手に取り戻そうと、中村先生は力を尽くされました。
他国の押しつけを踏まえなければ歴史を書けないとは、真の独立ではない
とのお考えでした」

  昭和9年、東京生まれ。東京大学では英文学を学んでいたが、
万葉集など日本文化に関心が移ってゆく。
さらに、愚かな戦争をしたと傍観者のように冷笑する風潮を、
歴史を担った人々への冒涜と感じた。
これが戦争に至る歴史の流れを検証したいと志す原点となる。

  34年に卒業、都立高校の英語教師となるが、
日教組や校長とぶつかり4年で退職、獨協大学に移る。
報道批判を始めたのは45年頃からだ。
後に『正論』に『NHKウオッチング』を連載し、終生警鐘を鳴らし続けた。

  「主人は、最初はガリ版刷りの冊子をひとりで作って配っておりました」
(妻の貴美子さん)

  韓国併合は侵略ではないと韓国の歴史学者に平然と述べ、
激昂されたこともある。
「国が弱いことが波乱を招く原因となる。弱いことは歴史に対して大きな
責任があると、当時の清や朝鮮にも反省すべき点を指摘したのです。
(田久保さん)

  平成2年には、8年をかけて著した『大東亜戦争への道』(展転社)を上梓。
明治から日米開戦に至る通史である。
650ページを越えるが、現在も版を重ね読み継がれている。

  「中村さんのようにアメリカの極東での門戸開放政策や共産主義の
拡張を、戦争の元凶として通史で言及するのは注目された」
(拓殖大学前総長の小田村四郎さん)

  東京大学名誉教授の小堀桂一郎さんや東京裁判の傍聴を続けた富士信夫
さんらと、東京裁判で却下されたり未提出の弁護側資料を収集し、
苦心の末、7年に全8巻にまとめた。この活動で菊池寛賞を受けている。

  「本来は政府がすべき仕事をしたのです。
平成8年に昭和史研究所を設立したのも
政府が検証なく戦争謝罪を重ねることへの批判からです。
戦争体験者の聞き取りを続け、南京やインドネシアにも出かけています」
(弁護士の高池勝彦さん)

  東京大学総長を務めた林健太郎さんと、3年にわたり論争が続いたこともある。
憂国の思いから時に論より情念が先走る面もあった。

  殺害の脅迫を受け、日本刀を持って演説したことも。

  「60歳を過ぎてもデモの先頭に立つほど邪知のない人で、
人の意見を聞きました」
(現代史家の秦郁彦さん)

  「長男の謙之さんは禅僧、次男の友之さんは弁護士として活躍していた。

  「子供の成長を写真に収め続け、言葉を添えたアルバムがたくさんあります。
憲法記念日以外は国旗を掲げることを自然に教えていました。
子供達とは歴史や哲学の話を楽しそうにしていました」(貴美子さん)

  昨年7月、次男の友之さんを急性骨髄性白血病のため、37歳の若さで失った。
「悲しみを振り払うかのように主人は原稿を書き続けていました」
(貴美子さん)

  しかし、自身も今年1月に進行した肺癌が見つかる。
亡くなる3日前にも会合に出席する意欲を見せていたが、
激痛でかなわなかった。

  6月23日、76歳で逝去。

  偏向報道に異議を唱える活動は仲間が続けてゆく。


4340

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Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 21:15 投稿番号: [357 / 735]
桜と木槿(むくげ)を座間味島に

  それからお願いしたいことがあるんです。
私は座間味島に木槿と桜の木を植えたいと思ってます。
何人かは協力すると云う人もいます。
だが、そのカンパのお金を頂いたのは中村先生が初めてなのです。

だが私が中心になって代表として桜と木槿を植えたくありません。
私は島の人に憎まれているからです。
私が植えたとなれば伐り倒される惧れがある。
何故かと云えば、私は久米島に慰霊塔を作っていますが、この慰霊塔には
誰もお参りする人がいないようです。これは私が作ったからです。

何故慰霊塔を私が作ったか。
久米島の朝鮮人を殺したのは沖縄人なんです(会報130号参照)。
沖縄人の日本軍であり、村の青年であり、学校の先生なんです。
だから今私が元気であれば、自分で作った朝鮮人の慰霊塔なので
掃除もしたいが、体力もないから行けません。

  そうなってはいけないから、私は自分が代表として
座間味島に桜の木と木槿の木を植えようとは思ってません。

  私の願いとしては、出来ることなら東京では中村先生が代表となり、
大阪では梅南劇場のママが代表となって桜と木槿の木をあの座間味島に
植えて欲しいのです。

  御免なさい。一寸体調も悪いのでこれでテープを切りますが、
中村先生、私は今カンパ運動もしていません。
はっきりした責任者、会計を置かなければ運動は出来ません。
私は座間味島に桜と木槿が咲いて欲しい。
咲かせるのは私の力では出来ません。
皆さんの協力があれば、毎年あの座間味島に
桜の木と木槿の木を咲かせてあげたいのが私の願いです。

  今日は久しぶりに人からお酒をご馳走になって呂律も余り良く
ありませんから、これで録音を終らせて頂きます。申し訳ありません。
今は14日午前2時頃です。
今日ヘルパーさんにこの録音を送らせますから聴いて下さい。
私が一云えば、富村が何を云わんとしているのか、
中村先生は百も千も理解して下さると思います。
体調が悪いので思ったことを十分にお話しできません。
どうぞ御判断なさって下さい。有難う御座居ました。(終)

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Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 21:14 投稿番号: [356 / 735]
  亡くなった赤松さんは自分のことを話すことが出来ません。
どうすれば、今赤松隊長の生き様を公表出来るか。
島の人の話では、赤松隊長は軍人向きではなかったというんです。
隊長でありながら、防衛隊に敬語を使っていたようです。
だから赤松隊(ママ)は軍人向きではないと島の人は云うのですが、
私もその通りだと思います。

  何故ならば、宜野湾のあの公園で十一万人の集会がありました。
座間味島や渡嘉敷島の人は参加してないと私は思うのです。

と云うのは9日(11月)に大阪地裁に車椅子で裁判(岩波・大江健三郎裁判)
を傍聴しに行った時に、来ているメンバーを見たんです。
私は中村先生の仲間はよく判りません。
だが、大江さんの支援者は私の顔なじみが多かったんです。
関西で大江さんを支援していた人は私はよく知ってます。
大阪自治労と教職員組合の人なんです。
この裁判後、私の家にも二回ほど来ました。

「富村さんはどこの味方ですか」
「どこの味方でもない。沖縄戦をありの儘に話してるだけだ」
と返事しましたが、嫌がらせが一杯ありました。
配達された新聞が朝失くなってしまう。
散々嫌がらせがあるので、今私は寝る前に電話の受話器を外しています。
自分で自分の身を守らなくてはいけませんから、精神的にも一寸参ってます。

  私はいつ何時、口が利けなくなる人間になるかも分りません。
私は人の戦争体験より私の戦争体験を話したいんです。
皇民化教育から教え子達を志願兵とした先生が、戦争が負けると一夜に
してアメリカのデモクラシーがいいと云い、山に生き残った日本兵を
おびき寄せて殺させたり(会報130号参照)、また親を亡くした教え子に
売春婦をさせたり、戦後の沖縄は今の北朝鮮と同じではないかと思います。

米や食べ物は全部無償で配給でした。
無論役場の人や学校の先生が配給係なんです。
自分達は沢山取って一般の村民には少なく配る。
故に飢えて蘇鉄を食べて死んだ沖縄人も沢山居ます。

  何度も繰返しますが、亡くなった赤松さんは法廷で大江に
反論することは出来ません。私の口惜しいのはそこなんです。

  間違った沖縄戦記を子供達に教えてほしくない。
よいか悪いかは人によって判断は違うでしょうが、有りの儘の
沖縄戦記を語って、人がどのような解釈をしようと御自由だと思います。


つづく

5980

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 21:13 投稿番号: [355 / 735]
優しかった赤松隊長

  「赤松隊長は軍人向きではなかった。
島民にも優しいが部下にも優しかったようです。また部隊に於ても、
自分の部下である年上の兵隊に敬語を使ったことがあるようです。

  そのような赤松さんが、今悪者とされて本で公表されている。
赤松さんは戦後、渡嘉敷島の慰霊祭の日に渡ろうとして那覇の港まで
来たんだが、追い返された。赤松さんは何も悪いことやっていないから、
一人で島に行っても誰も暴力を振わないだろうとの自信があるからこそ、
一人で沖縄に来たのではないか。富村さん、どう思うか。
そういう人にナチやヒットラーのような扱いをするのは困るねえ、富村さん」
と灰谷さんも口惜しがってました。

  私もそう思います。
もし赤松隊長が本に書かれているような悪いことをしているなら、
一人で沖縄には来られません。
赤松隊長御本人が「俺は島に渡っても大丈夫なんだ。
島で犠牲になった島民や部下達の霊を慰めに来たんだ」
と云うのですが、もし赤松隊長が島に来て真実を云われた場合、
沖縄側はどう仕様もなくなったのです。


ペンで殺された両隊長

  灰谷さんの云うには、
「渡嘉敷島の戦記を書くには、ルポライターや物書きが一日や二日やって来て
書けるものではない。長く住みついて四方山話の中で何気なく出てくるのが
島の戦記なんだ。島の人は他所(よそ)から来た者には簡単には口を割らない」
と私に話してました。

  「今後、富村さんもルポをする場合には、二、三時間や二、三日で戦記を
書こうとしたら大きな間違いですよ。私はこの島に来て何年にもなるが、
まだ十分に知らない。
  ペンは人の心の奥深く傷つける場合があります。
梅沢隊長や赤松隊長はペンによって殺された。
しかしそれはペンによって生かすことも出来る。
ペンはペンで仕返しするんです。
富村さん、今度本を書く場合には、今私がした話も書いて下さい。」
と私は灰谷健次郎さんに頼まれました。


〔註〕富村氏の著書『隠された沖縄戦記』(昭和54年刊)には赤松隊長や
曽野綾子に対する激しい非難の言葉が記されて居り、そのことで富村氏
は灰谷健次郎から叱責されたと、後日電話で中村に語った。(中村)

つづく

5979

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 21:12 投稿番号: [354 / 735]
ペンは武器よりも怖い

  私は友と灰谷さんと三人で約二時間、話し合いました。灰谷さんが、
「富村さん、ペンというものは時と場合によっては武器より怖いものですよ。
ペンも人を殺すことが出来るんです。
梅沢隊長や赤松隊長はペンで殺された。
お互い、今度物を書く場合には気を付けましょう。
私も『私が出会った子供たち』という本に富村さんのことを書きました。
御免なさい」
と謝ってました。

私は灰谷健次郎さんが童話作家ということは知ってました。
が、会うのは初めてでした。
私より歳も若い。灰谷さんが私に対して
「富村さん、なぜ沖縄の物書きは口を揃えて梅沢隊長や赤松隊長を
悪く書くのか判らない。何故そのように捏造した本を書くのか。
その原因は何処にあるのですか」
と訊くので、私もすぐには返事が出来ませんでした。

「実は灰谷さん。何処の民族でも心の文化というものがありますよ。
沖縄人の精神文化を知るには沖縄の諺があります。いま代表的な諺に
「ヌチルタカラ(命が宝)」というのがあります。
この諺は戦後のものではない。
薩摩藩が沖縄に来た場合に琉球王が云った言葉なんです。
「戦の世のなかももう終った。動揺してはいけませんよ。
(ナビクナヨシンカ)命が大事なんです。
(ヌチルタカラ)」これは琉球王が琉球の民族に発した言葉なんです。

また沖縄では「カマシシルワガスルメ(物を呉れる人がわが殿様)」
と云う諺がある。沖縄は英語て云えばgive-me民族。
唐の時代から沖縄は物を貰っていた訳です。
沖縄の歴史を見ると薩摩藩に騙されて琉球は物を取り上げられたという
風になってますが、沖縄から薩摩藩に上げたのは薩摩芋だけなんです。
薩摩藩から多くの米も貰ったんです。
故に沖縄では「物を呉れるのがわが殿様」と云うのです。

  三番目。「昇る太陽は沈むが、沈む太陽は拝んではいけない」
――それが沖縄なんです。
故に沖縄人は米軍が上陸すると一夜にして日本の敗戦と共に自分の考えを
変えたんです。それが沖縄人なんです。
沖縄の精神文化は沖縄の諺を見れば判るんではないですか」
と私は灰谷さんに話したんです。

  灰谷さんは「富村さんは小学校も出てないのに、よく諺なんか精神文化
として話が出来ますね」と吃驚した様子だったんです。


つづく

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Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 20:53 投稿番号: [353 / 735]
漁師が語った赤松隊長

  灰谷さんは次のような話をしました。
「実は私は島に来てから長い。島の戦記を書くために居るんではありません。
この島で骨を埋めたい。だから戦記は書きたくありません。
その理由は、私が書く沖縄戦記はマスコミ関係者が一日か二日滞在して
村民から聞いて書く戦記ではありません。
長い間島に住み込み、四方山話をする中にポッと出る戦記が本当の戦記だと思う。
私は島に住んでから、多くの友達が出来ました。
野菜を持ってくる人、あるいは魚を持ってくる人が沢山居ます。

  ある日のこと、浜辺に坐り込んで沖を眺めている漁師が居ました。
その人は時々僕の所にお魚を持って来ます。
一人しょんぼり胡坐をかいて砂浜に坐っているので、『どうしたんですか』
と訊いたところ、その漁師が『今から40年前のことを思い出しているんです』
と云って話し出したのです。

  『私が小学校二年の時にこの渡嘉敷に敵が上陸しました。
その四、五日前に塩がなかったので、お母さんが海水を汲んで来いと一升瓶
を持たされました。私が海水を汲んで避難場所へ帰ろうとした時、山の上には
赤松隊長が部下の四、五人を連れて沖にいる敵の軍艦を眺めていました。
私を見るなり隊長が「どうしたんだ。艦砲が激しい。危ないじゃないか。
何してるんだ」と訊くので「塩がありませんので、塩の代わりに海水を
汲みに来ました」と話したところ、赤松隊長さんが「倉庫に塩と粉醤油が
あるんじゃないか。この少年に持てるだけ持たせてやりなさい」
と云われたのです。』

  その少年は袋に入った塩とブリキの一斗缶に入った粉醤油を貰ったということです。
当時の少年は粉醤油というものがあることを知らなかったようです。
この一斗缶の粉醤油と塩を持って、島民が避難している壕へ帰り、
塩や粉醤油を皆で分け合って食べたようです」
           ◇
  「このような優しい赤松隊長が島民に対して、
自分の作った芋や野菜も勝手に取ってはいけない、と云ったと本に書いてある
とは悲しいじゃありませんか、灰谷さん」とその漁師は嘆いていたといいます。

  そのような四十数年前のことを漁師は思い出して灰谷健次郎さんに話したようです。
灰谷さんがそのことを沖縄タイムスの牧港さんという方に話していました。
私は二人に背を向けて坐って飲んでいるので私とは知らなかったんでしょう。
話を聞くうちに後ろを向いて
「灰谷さん、富村です。今の話の輪に私も入れて下さい」と云ったら、
牧港さんは吃驚した様子で
「えっ、富村さん ? 」
「そうです。私も話の輪に入れて下さい」と云ったら、牧港さんと一緒に
来た新聞記者と思われる若い人が黙り込んでうつ向いて(ママ)しまったのです。
それから一、二分経ったと思われますが、牧港さんが
「灰谷さん、他に待ち合わせする人が居ますので帰ります。
またタイムスに寄って下さい。私は今、タイムスに毎日出勤してはいません
が、どうぞ寄って下さい」と云って牧港さん達は帰って行きました。


つづく

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◆謝謝台灣!【ありがとう台湾】

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 20:52 投稿番号: [352 / 735]
◆謝謝台灣!【ありがとう台湾】from日本感謝台灣援助日本大地震的災民
http://www.youtube.com/watch?feature=fvwp&v=60Id_FFyUd4&NR=1


◆台湾・高雄市が都内でバナナ配布、募金呼びかけ

. 巨大地震

特産のバナナなどを手渡し、募金を呼び掛ける高雄市の陳副市長(右)

台湾南部の高雄市が18〜20日、東京・汐留の日本テレビ本社前で、
特産のバナナとアンスリウムの花を無料で配り、
来場者に東日本大震災の義援金を募るイベントを行った。

  日テレが20〜21日に放送するチャリティー番組「24時間テレビ」
の募金と合わせ、被災者支援などに役立てる。

  高雄市は、市長が全職員に1日分の給料を寄付するよう呼び掛けるなど
被災者支援に熱心。
このイベントのためにバナナとアンスリウムを約2000セット用意した。
陳啓イク副市長は、「2年前の台風被災の際の日本からの支援に感謝している。
復興の道は長いが、アンスリウムの花言葉である『情熱と思いやり』を
被災者の皆さんに届けたい」と話していた。(蒔田一彦)
(イクは上が「日」、下が「立」)

(2011年8月20日19時54分 読売新聞)


◆アジアの良心・台湾は、韓流を規制します。
http://getnews.jp/archives/133216

.

Re: 紫陽花亭日乗

投稿者: sennin_194012 投稿日時: 2011/08/20 17:30 投稿番号: [351 / 735]
ajisai110701 さん

ご回答、有難うございました。

私の場合、投稿には、通常、URLが含まれていました。
 
故に、15分、待たねばならなかった訳が解りました。

Re: 紫陽花亭日乗

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 15:38 投稿番号: [350 / 735]
こんにちわ。
いつもロムしてくださって有難うございます。


たぶん、経験からの判断ですが・・・

★URL を含んでいない投稿は、一回に連続五つまで可能。

★URL を含んだ投稿と、URL を含んでいない投稿とで、一回に二つ可能。

★URL を含んだ投稿は、連続して投稿できない。

投稿制限にかかったら、15分待機。


ということだと思います。


一分おきの投稿は、ワードや他トピに原稿があるからコピーの手間だけ。


でございます、
上手に組み合わせて投稿なさってくださいませ。

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Re: 紫陽花亭日乗

投稿者: sennin_194012 投稿日時: 2011/08/20 14:34 投稿番号: [349 / 735]
ajisai110701 さんに質問!

0:24〜0:28迄、一分置きに、連続投稿出来るのは如何してですか?
 
私の場合、連続投稿するには、大体15分待たねば出来ませぬ・・・

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 00:28 投稿番号: [348 / 735]
灰谷健次郎と出会う

  今私は毎日、点滴を打ちながら病院へ行って生活してますが、
体は不自由でもまだ頭だけは自分自身でボケてるとは思ってません。
故に先生に今、ベッドの上からテープレコーダーを枕元におき、録音して
生の声で先生にお伝えしようと思って、テープレコーダーを回しています。
毎日午前も午後もヘルパーさんが来て、世話してますが、
私はいつ何時口が利けなくなるか分かりません。
故に自分の思ったこと、体験したことを包み隠さず、
中村先生に申し上げようと思います。

  梅沢隊長はお元気で、法廷で御自分の考えや様々なことをお話することが出来ます。
だが赤松隊長はもうこの世の人ではありません。
弟さんが法廷に立つだけなんです。
故に今日は赤松隊長のことについてお話しようと思います。

私も赤松隊長にはお目に掛ったことはありません。
梅沢隊長には何十回も会いました。お宅にも三回ほど行きました。
私が大阪難波高島屋の前に居ると、梅沢さんは何十回もお見えになって
おりました。色々な話もしました。
故に今日は、赤松隊長のことについて私の知る限り申し上げたい。

  私は今は、自分の思ったこと考えることを十分には言葉で云い表す
ことは出来ません。だが、私が一云えば、中村先生は富村が何を云わんと
しているか、百も承知して下さるものと思って今録音を取ってます。
           ◇
  今から十七、八年前と思います。何月何日とは記憶していません。
丁度、沖縄名護市の市長選挙のあった時です。
当時の市長は渡口(とぐち)という革新系の市長さんでした。
三期目の立候補ということで、一般市民や文化人の話では、渡口さんが
当選するということでしたが、蓋を開けてみると渡口さんが落選して、
自民党の比嘉さんが、当選しました。
その翌日に私は那覇市の「うりずん」という居酒屋に友達と二人で行きました。
この店は左翼系の文化人が常連客です。

行ってみると、その方々は渡口さんを支援した方々ばかりで、沖縄の文化人ばかりでした。
予想に反して落選したので、反省会というか、残念会というか、そんな話でした。
私は選挙には興味がなかったので友と二人で二階に上がり、
入り口に背を向けて坐っていると三人の客が来ました。

  入るなり、一人の方が
「灰谷さん、渡嘉敷島に長くお住まいですね。住み良いですか」
と云ったところ、灰谷さんという方が
「牧港先生、渡嘉敷は住み良いですよ。遊びにいらっしゃい」
と云いました。すると牧港という方が、
「もう沖縄タイムスの方は後輩に任せて私は隠居だ。その中に渡嘉敷島に
行きますよ」と云う風な話でした。

  牧港さんという方がタイムスを後輩に任したいと云うのを聞いて、
「あっ、この人は沖縄タイムスの牧港さんか」と思いました。

〔註〕牧港(篤三)は『鉄の暴風』執筆者。

  そして話相手が童話作家の灰谷健次郎ということも知りました。
私が背を向けているので向こうも私の顔を見ない。
だから誰か判らなかったのでしょう。

その中に、沖縄タイムスの牧港さんが
「曽野綾子さんが書いた本をお読みになりましたか」と聞いたところ、
灰谷健次郎さんが「渡嘉敷島の戦記には私は触れたくありません。
島に永住したい。私の聞いた話と他の文筆家の書いた話と全く違う」
と話してました。

私が耳を澄まして聞いていると沖縄タイムスの牧港さんが
「灰谷さん、貴方は渡嘉敷島に来て長くお住まいです。
色々なことを聞いたでしょう。是非渡嘉敷島のことを書いて欲しい。
曽野綾子さんの書いた本を参考にして欲しい」というような内容の話でした。

〔註〕曽野綾子著『ある神話の風景   /   沖縄・渡嘉敷島の集団自決』
(昭和48年5月文藝春秋社刊)を指す。
現在は『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実   /   日本軍の住民自決命令は
なかった ! 』と改題してワック株式会社から出版されている。


つづく

5976

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 00:27 投稿番号: [347 / 735]
ひとりで咲いて散る花に

  戦後六十年も経ち、沖縄戦体験者も少なくなりました。
体験した人達がいても、自分達沖縄人に都合のいい沖縄戦記しか書かない。

  私は沖縄戦を振り返ってみて、中国のあの南京事件、何十万、何百万
という中国の一般市民を日本兵が殺したという話を何度も本で読みましたが、
それも嘘ではないのか。中国も自分達の都合のいい戦記を書いていた
のではないか――と信用しなくなりました。
故に私は沖縄戦や様々なことで人を信用しなくなり、
人を信用しないという人生は、悲しい人生だと思います。

  だが私は、人に見せる花を咲かす必要もないと思います。
人生の花は、人に見せる花ではなく、自分で見て納得する花を
咲かせた方がいいと思います。

横浜でホームレスをしていた時に、コンクリートの裂け目から、
名も知らぬ一輪の花が咲いてました。
周囲には草一本もない。誰もそこに花があるということを知らない。
花が咲いているとも知らない。その名も知らぬ花は、人や他の花に見せる
花ではなく、自分ひとりで咲き、自分ひとりで散ったと思います。
私は何日間か、その横に寝ていたことがありますが、物云わぬその花から、
このような花もあるんだよという、人生の歩み方を教わったような気がします。

  私が真実の沖縄戦を語るようになってからは、多くの煩悩を叩き出しました。
今私には、金はなくても何一つ不足はありません。

私は知性と社会知識が乏しい。
それは小学校にも行ってないし、余り独学もしてないからだと思います。
私は四十歳まで新聞も読めませんでした。
その後、様々な人と出会い、多少なり(テープ切れる)

(以上は平成19年11月30日受け取ったテープによる。
以下は12月18日に受け取ったテープの談話である)


スラム街に相談相手として

  中村先生、お早うございます。
只今、14日(平成19年12月)の午前1時を回ったところです。
きのう13日、先生からのお手紙とお金の三万円を頂きました。
有難うございます。

  ご存知と思いますが、今私の住んでる町は大阪の西成区、愛隣地区という
町でスラム街です。多くの日雇い労務者がいますが、
今は仕事もなくホームレスになる人が沢山います。

毎日のようにホームレスが私の家に来ます。
きのう13日、5時頃ホームレスが来て、
「富村さん、郵便受けに手紙が入ってますよ」
と郵便受けから中村先生から来た手紙を私が寝ているベッドの横の
テーブルの上に置きました。実は、私は今、目も悪いのです。
余り字も読めません。故に「封筒を開けて読みなさい」と云ったら、
彼が「中にお金も入ってるよ」とかざしてました。

  いま私は愛隣地区というスラムの街に居ますが、特に最近は体を動かすと
ドキドキ息切れがして吐き気もするのでベッドに寝たきりです。
だが様々な問題でホームレスや困っている方々が、よく相談に来ます。
アルバイトをして生活保護を受けさせたり、あるいは色々の方面に於て口だけ
で以て、ホームレスや仕事にあぶれて困っている方々の相談に乗ってます。

  そのような訳で、実は今日先生が送ってきて下さったお金は、座間味島に
木槿(むくげ)の木を植えるカンパのお金であることは十分に知っておりましたが、
彼がお正月を目前にしてドヤ銭も払うことが出来ない、妻や子をどうすれば
いいか困ってる、と云うので、私は先生から送って下さったお金を、
申し訳ありませんが、彼に渡しました。
おそらくそのお金は返ってこないと思います。
私は今まで座間味島に木槿の木を植えたいと何人かの人に話したことはあります。
お金を頂いたのは先生が初めてです。
そのようなお金を困ってる人に渡して申し訳ないと思っています。
済みませんです。


つづく

5975

沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」④

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 00:26 投稿番号: [346 / 735]
沖縄集団自決の真実
「沖縄人の見た沖縄戦」④
――灰谷健次郎が島民から聞いた赤松隊長の実像――

ルポライター(沖縄県国頭郡出身)     冨村順一(大阪市西成区78歳)

平成20年4月10日    昭和史研究所会報   第132号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  富村順一氏略歴
=昭和5年沖縄県国頭郡本部町に生まれる。
12年国民学校初等科2年の時、奉安殿に最敬礼を拒否して放校される。
29年那覇刑務所暴動に参加。
45年東京タワー特別展望台で米人宣教師を人質に、沖縄問題、
天皇の戦争責任追及を訴え立てこもる。
48年出獄と同時に久米島で虐殺された朝鮮人の慰霊塔建設を呼びかけ、
独力で運動を開始。
50年座間味島集団自決の真相究明活動開始。
52年関根清氏に会い、梅沢裕氏の無実と健在を聞き、梅沢氏と会って確認。
座間味に渡り宮城初枝女に真相を伝える。その後、アジア平和集会で
座間味戦の真実を訴え嘘の平和運動と決別、犬をパートナーに
沖縄戦の真実を訴える全国行脚に出る。
平成2年大阪西成で暴動を起こす。また新宿駅西口や大阪難波の高島屋前で
路上生活をしながら座間味戦の真実を訴える。
平成6年夏、東京練馬区で、左翼グループに急襲殴打され、車椅子生活の身となる。
平成19年11月9日大江岩波裁判には不自由な身体を押して大阪地裁に赴き、
両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。
その直後、中村代表が呈した書簡に対して11月30日と12月18日に
テープレコーダーに録音して送られてきた氏の返事を文字化したのが本連載である。
  目下、座間味で日本軍将校と自決した朝鮮人慰安婦のために
同地に桜と木槿を植樹する運動を提唱している。
  著書に『わんがうまりや沖縄』『最敬礼拒否の足跡』『琉球慰安婦』
『沖縄戦語り歩き』『隠された沖縄戦記』他多数。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

つづく

5974

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 00:25 投稿番号: [345 / 735]
捏造記事を書いた人々

  私は何十年もこらえて来ましたが、梅沢さんの一件で、沖縄タイムスの社長
新川明(あらかわあきら)さん、牧港さん、また由井さん張本人にも抗議し、
本にも書きました。
私は由井さんに対して、「私は強姦などした覚えはない。強姦はお前がされた
のか。ならば仕方ない。何故そのような記事を書いたのか」と追及したところ、
「警察から聞きました」と云うので「その警官は誰か」と訊くと
「その警官はもう死んで居ません」。

  警官がそのようなことを話す訳がないし、沖縄タイムスはいかにして
私を抹殺し、時によっては自殺へ追い込もうとした計画的な捏造した
個人批判だと思ってます。


薩摩を悪者にする沖縄

  故に私は、自分個人の問題から今まで泣き寝入りしてきた訳ですから、
我慢も出来ますが、沖縄戦とは沖縄の歴史であり、日本の歴史でもあります。
この歴史の一ページを変えるには私のような社会的地位の乏しい者の
一存や力ではどうすることも出来ません。
故に中村先生は、ご多忙とは思いますが、是非いま一度沖縄戦記を
全面的に見直して欲しいと思います。

  ただ沖縄戦記だけでなく、沖縄の戦後はどうあったかということも大切
ですが、廃藩置県以前から薩摩が物や税金を取ったとか云うのも嘘です。

沖縄には取られるものはありません。
薩摩から様々な物を頂き、あるいは中国から物を頂いていることは
沖縄の諺を見れば分かります。

何故沖縄人があのような捏造を書いたのか、
沖縄人の心の文化であると思いました。

私の考えが間違っているか分かりませんが、心の文化は何十年何百年という
先輩達の生き方だと思います。
沖縄の諺に「上ってくる太陽は沈むが、沈む太陽は拝まない」というのがあります。
沖縄語で「ヌブルティーラヤウガムシャ   サガルティーラヤウガマン」
と云います。それから「物を呉れる人こそ我が殿様」という諺があります。
これらは沖縄の心の文化を表す代表的なものではないかと思います。


捏造本が大城明君を死へ

  色々先生にお話したいが、このテープがいつ切れるか分かりません。
もし中途半端なテープになった場合には、また様々なことを思い出し、
自分の歩んで来た人生や、現在車椅子に乗って何が目的で生きているのか、
お伝えしたいと思います。

  繰り返し申し上げて誠に申し訳ありませんが、私は梅沢さん、赤松さんの
濡れ衣を晴らすだけではない。捏造した本は今もあり、それが原因で
戦後六十年経ってから死んだ大城明さんという人もいるのです。
実は大城明さんは有名な歌手の従兄弟です。
余り公言したことはありませんが、奄美大島出身の南沙織という歌手が居ります。
お母さんがフィリッピン人です。
そのお母さんのお姉さんは糸満に結婚して来ました。
大城君のお母さんである女(ひと)は漁師の息子さんと結婚して
大城明さんが生まれました。


座間味に木槿(むくげ)が花咲く日

  朝鮮人女性が、もとは慰安婦であっても従軍看護婦となり、
日本女性として軍人のお供をして自殺して行った。
そのことを子供達に教えたい。
このようなことをこそ副読本にすべきではないかと思います。

  中村先生、その野戦看護婦である朝鮮人女性は、
言葉では云えない大きな愛国心があったと思います。
彼女は、今は韓国でも死ぬ時は日本人だったのです。
ただ父母が朝鮮人というだけで、心は日本人です。
だからこそ日本軍人のお供が出来たのです。
私は座間味の島に木槿の木を植え、
花が咲くのを一日見てから人生の終着駅に着こうと思います。


5973

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Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/20 00:24 投稿番号: [344 / 735]
ペンが人を殺すことも

  私の第一の目的は、従軍看護婦だった金木槿さんの素晴らしい愛国心を
歴史の一片に残したいことです。

また戦争というのは、ただ武器で殺すだけでなく、戦争が終ってもペンで
人を殺す活字メディアも多くあるということ。

大城明君は沖縄タイムス、朝日新聞、沖教組他の活字メディアのペンに
よって自殺へ追い込まれたのです。
故に私はペンの殺し屋の恐ろしさを身を以て知りました。
テープもあと長くないと思います。
いつ録音が切れるか分かりませんので宜しくお願いします。


『社会新報』で家庭崩壊

  私が梅沢さんのことを語りはじめてから散々嫌がらせを受けました。
沖縄タイムスの論説委員にまでなった女性由井さんという人が居ますが、
彼女は東京の支局長でもありました。

私のことを強姦、誘拐、人身売買――。
殺人以外の罪を全部犯して沖縄から逃げたと報道したことがあります。
そのことが書いてあったのが『社会新報』でした。
私は四、五年経ってもそれに気付きませんでした。
女房と離婚して四、五年経ってから娘はもう中学一年生です。
差出人の名もない一通の手紙が来ました。
娘宛の手紙ですから、いくら親であっても私は開けることを致しませんでした。
その手紙を読むなり、娘は部屋に行って狂ったように泣いていました。
いくら理由を聞いても教えない。その晩に娘は居なくなったのです。
友達の家にもよく泊りに行ったことがあるので、そうかと思い、
警察にも届けませんでした。

  すると翌日、東京の児童福祉保護センターという処の方が来て、
娘をお預かりしてますということでした。
「どうしたんですか」と聞いたらその理由を云わないのです。
娘を預けて下さいと云うだけでした。
意味が分からなければ預けないと云った処、新聞の切り抜きと手紙を見せました。
この新聞を送った人は、おそらく私に反対する元左翼の仲間です。

「あなたのお父さんはこの新聞にある通り、誘拐、強姦、人身売買をやった。
あなたも大きくなったらお父さんに売り飛ばされる。今のうちに逃げた方がいい」
という内容の手紙でした。これでは娘が逃げたのも当たり前だと、
返す言葉もなく、「宜しくお願いします」と申しました。

  あれから三十年、私は娘に会っていません。
今は娘は結婚して母となっているかも分かりませんが、
いまだにあの新聞どうりと思っています。
私はその記事が『社会新報』ということを調べて、沖縄タイムスの東京支局長
だった女性由井さんが書いたことを知って、沖縄まで行って坐り込みの
抗議をしたこともあります。だから私にとっては、
自分の家庭を破壊したのもこの人々の沖縄戦記と思ってます。

つづく

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Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/19 01:01 投稿番号: [343 / 735]
毎日考える金木槿(きむむくげ)さん

  さて先生に、私はお願いがあります。
座間味島で慰安婦が従軍看護婦となり、負傷兵の看病をしたこと、
そして負傷兵のお供をして自決した金木槿さんの信念といっていいのか、
その心を全ての日本人に知って欲しい。

故に私は、体が回復すれば、座間味島に木槿の木と桜の木を植えたいのが念願です。
彼女は日本人としての教育を受け、更に慰安婦として負傷兵のお供をした
訳ですから、私は朝鮮人とは見ていません。心に国境を作りたくありません。
今私は、そのことを考えながら録音していますが、金木槿さんのことを
考えると、いつの間にか涙が頬を濡らします(声を詰まらせて)。

  沖縄で慰安婦となり、戦場では従軍看護婦として日本軍人のお供をして
逝った金木槿さんのことを日本人が知っているならば、教科書に取り上げて
子供達に人間の心の美しさを教えるのがよいのではないかと思います。
  金木槿さんがどのような心で死んで行ったのか、考えない日はありません。


心に国境を作らず

  前後区別もつかぬ話を録音いたしましたが、
先生は私のことをきっと理解して下さると思っています。
私は一人間として、心に国境を作らず、壁を作らず、教育はどうあるべきか、
歴史はどう伝えるべきかを考えています。

この儘では沖縄に居た日本兵が、ナチス・ドイツのような軍隊のように
思われる教育がされています。
沖縄人の多くの人々が日本人として自決しました。
その方々の魂に報いるには包み隠しのない沖縄戦記を子供達に教えるのが
真の歴史かと思います。

だが沖縄でそのようなことを語れば、村八分になります。
十一万人の集会があったと新聞やテレビで見ましたが、その十一万人は本当なのか。
あの公園には十一万人の人は収容できないと思います。
私はあの宜野湾市の会場は知ってますが、到底十一万人は収容できません。
よく集っても二、三万だと思います。


学校が握り潰した手紙

  あの集会で読谷(よみたん)高校の二人の高校生が高校生代表として話してました。
「私達は本当のことを知りたい。おじい、おばあは嘘を云ったのでしょうか」
という風に訴えていました。

私は早速ヘルパーの代筆でその二人の高校生に二十枚近くの便箋で沖縄戦の
真実を書き送りました。その中に返信用の封筒も入れましたが、全く返事が
ありませんので、ヘルパーさんに読谷高校の電話番号を調べてもらい、
校長先生に話したところ、その手紙は本人の手に渡っていませんでした。

  私は校長先生に電話し、「何故私の出した手紙を本人に渡さないのか」
と抗議しました。
沖縄代表の二人の高校生が「本当のことを知りたい、おじい、おばあは嘘を
云ったんでしょうか」と訴えたのに対して私は、
「嘘を云ったおじい、おばあは沢山いますよ」と本当のことを書いて送った
のですが、その手紙さえ高校生の手に届いていませんでした。


つづく

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沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」③

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/19 01:00 投稿番号: [342 / 735]
沖縄集団自決の真実
「沖縄人の見た沖縄戦」③
――「嘘を云ったお祖父(じい)やお祖母(ばあ)は沢山いる――

ルポライター(沖縄県国頭郡出身)     冨村順一(大阪市西成区78歳)

平成20年3月10日    昭和史研究所会報   第131号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。
これは本来国家のなすべき事業なのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

刑務所暴動の後本土へ

  私は昭和30年の3月に、沖縄からくり舟を漕いで一人で日本にやって
来ました。それは、刑務所で暴動を起こして逃げて来たのです。
米軍が上陸して最初に作ったのが刑務所なんです。
戦争で親兄弟を失った少年少女が沢山いましたが、皆米軍キャンプへ行き、
盗み食いをしていましたが、少年刑務所という風な区別はなく、
少年も大人も全員一緒でした。

  だが刑務所の看守も今のように試験制ではなく、村のあんちゃん達が
刑務所の看守をやつたために、囚人に充てるべき米を全部猫ばばして
持って帰り、飢えた状態であったのです。
また他の様々の原因があり暴動が起こりましたが、
その時に暴動が起こったのが昭和29年の11月7日です。

11月7日と云えばロシア革命記念日です。
当時那覇市長だった瀬長亀次郎。
当時の人民党の委員長である瀬長亀次郎は刑務所に入っていましたが、
私の向かいの独房にいました。
毎日不平不満を私が職員に云い、抗議をするので、瀬長さんは私が勉強して
その上で刑務所の職員に抗議するのだと勘違いしたようです。
瀬長さんに唆されて私は刑務所の囚人を駆り立てて暴動を起こしましたが、
実はその張本人も本来ならば瀬長亀次郎ですが、彼はその責任を全部
私達に負わせ、自分は法の網をくぐった訳です。

  それ以来私は人を信用しなくなりました。
そして私は本土に逃げて時効になり、日本全国を渡り歩きました。今は
このような生活をしてますが、本土に来てから様々な事件を起こしました。

  先ず東京タワー事件。
大阪西成区の暴動事件。また大阪難波の千日前の交番焼打ち事件を起こして
ますが、その時は若く体力もあったので出来ましたが、今はその力もない、
何一つ抗議することも出来ない。もし私が若くて体力があれば、
朝日新聞などは私に何らかの方法で仕返しされたと思います。

  私は色々な問題で朝日新聞に抗議したことがありますが、朝日新聞は何一つ
解決方法はなく、自分達が捏造した沖縄戦記を書いても全く反省の色がありません。


つづく

5970

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/19 00:59 投稿番号: [341 / 735]
日本兵を殺した沖縄人

  さて、自分のことも云わなければなりませんが、米軍が本部(もとぶ)
半島や今帰仁(なきじん)に上陸すると同時に、本部村と今帰仁村の村民は
米軍によって全て今の名護市、もとの久志村に収容されました。

故に久志村に行った人々は飢えてましたが、今帰仁や本部は無人の村となり、
芋をはじめとする食べ物が沢山ありましたので、私達は久志村の山を越えて、
四、五日おきに本部や今帰仁の畑に芋堀りに行ってましたが、久志村の山では
南部から生き延びてきた日本の敗残兵が四、五人ずつグループをつくり、
二百人近くいました。私達が歩いていると、飢えた日本兵がよく
「芋を下さい」と云って私達少年に頭を下げてきました。

  ある日のこと、元学校の先生が、「山には日本兵がいるでしょう。その
日本兵にこの手紙を渡して下さい」と私達四、五人の少年が手紙を預りました。
手紙の内容はよく分りませんでしたが、私達は本部に芋堀りに行く時に、
途中の山に立て篭もっている日本兵に渡したのです。
  その翌朝、午前三時頃、激しい機関銃の音がするので、夜が明けてから
行ってみると、きのう私達が手紙を渡した日本兵です。後で知ったこと
ですが、私達に手紙をことづけた元学校の先生は手紙に「食べ物は
あるから村まで取りにお出で」というような内容を書いていたようです。

  翌朝、自分達がきのう手紙を渡した日本兵が田圃の中で死んでいました。
昭和21年の秋でした。沖縄は年に二度米が取れますが、
二回目の稲が青々と茂ってましたので、秋だと私は思ってます。

  沖縄人は物欲しさに、山に隠れている日本兵をおびき寄せ、米軍に
狙い撃ちさせ、そのご褒美に食べ物を貰った人達も沢山います。
私もその一人です。だがそのような沖縄戦記を書く人は沖縄には居ません。

だが私は『沖縄戦語り歩き』という本に書いてます。
私が一番今でも悲しい思いをしているのは、
四、五十人の村人が大きな壕に避難してました。
一番奥には学校の先生や村の有志たちが一番安全な所に坐り、
子供達お年寄りは弾除けのように壕の入り口に坐っている訳です。
そのようにして犠牲になった子供お年寄りが沢山います。

  また或る日のこと、元学校の先生が、或いは村の有志が、
私達十二、三歳の少年達に「喉が渇いたので砂糖黍を取って来い」
と云ったので、私達は三人で取りに行きました。
その時に二人の少年は、米軍によって艦砲射撃で殺されましたが、
それがきっかけで、私は村人の壕に帰らず、
一人で居るハンセン氏病のお爺さんと沖縄戦を生き延びたのです。

  戦後四、五年の沖縄の現状は、今の北朝鮮と同じだったのではないか
と私は思ってます。終戦後、金は通用しません。
全ての食べ物は米軍からの無償配給です。
故に公平に分配すべきですが、この分配する係りになったのが元学校の
先生や村の偉い方々です。その人達が他の一般の人達の何十倍も横取りして、
飢えた人達は蘇鉄を食い、命を落とした人も沢山居ます。
中毒死する蘇鉄も、食える蘇鉄もありますが、その見分けはつきませんでした。
  故に人間は、いくら知識や知恵があっても、飢えた時には狼になると思います。

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Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/19 00:58 投稿番号: [340 / 735]
島を救った元隊長さん

  どのようにして話してよいか、前後区別もつかなくなり、
何度も録音を取り直しましたが、自分の云いたいことを録音できません。

  私は人間を余り信用しません。
と云うのは、座間味戦記を書いた、中村先生御存知の宮城晴美さん、あの
『母の遺したもの』は、梅沢さんが自決命令を出してないと断言しています。
だが彼女は法廷ではその立場を覆した。
そのようなことを新聞で読んだことがあります。
自分の書いたものにも責任が持てない。それは無論他人事だけではなく、
私も赤松隊長について間違ったことを聞き、書いたことがあります。
これは謝罪すべきです。何れ本が書けるようになれば、本で間違ったことを
訴えているのなら、また本で謝罪をしたいと思ってます。

  私は嘘を云って遺族年金をごまかした人間が一方的に悪いとは思っていません。

  もし梅沢隊長や赤松隊長に濡れ衣を着せなければ、今の座間味島や
渡嘉敷島はあのような仕合わせな島にはなってはいません。
宮城初枝さんが嘘の沖縄戦記を書いたために、多くの本土の方々は
宮城初枝さんから捏造した沖縄戦記を聞き、その家に泊り(宮城初枝さんは
民宿を経営していた)、帰る時には余分な金まで置いて行ったために、
宮城初枝さんの三人のお子さんが大学に進学出来た訳です。
また本土から平和教育のために多くの中高校生が行ってます。
その語り部が宮城初枝さんなんです。

  亡くなられた赤松隊長には申し訳ありませんが、
濡れ衣を着てくれたお蔭で島の人が仕合わせになったとお考えなされば、
気も休まれるんではないかと私は思ってます。

故に沖縄の座間味島、渡嘉敷島の戦後の困難を救った方が、
濡れ衣を着た梅沢隊長であり、赤松隊長だと思います。
そのようにお考えになれば、多少なり心が安らぐことがあるのではないでしょうか。

「沖縄出身の日本兵」のこと

  さて、私が沖縄戦を語る時、ただ座間と渡嘉敷ではありません。
久米島でスパイ容疑で殺された朝鮮釜山出身の具仲会さんのこともあります。
戦前、具仲会さんは沖縄で鍋や薬缶(やかん)などを修理する鋳掛け屋さんを
していました。その方は標準語を使っていたので、日本人だと思ってました。
あとで韓国人だと判りましたが、その家族七人がスパイ容疑で
生後三ヶ月の赤ちゃんまで殺されました。

  その日本名谷川昇、具仲会さんは三年間私の面倒を見て下さった方です。
何故私が具仲会さん一家にお世話になるようになったかと申しますと、
具仲会さんは鍋や薬缶、釜の修理をしながら、
朝鮮飴とスクラップの物々交換をしてました。

私はその朝鮮飴を全部盗んだのです。
具仲会さんに捕まってしまい、盗んだ理由を話すと、「ならば家(うち)に居なさい」
と云う訳で、私は具仲会さんと一緒に具さんの大八車の後(あと)を押して、
三年間沖縄本島を渡り歩きました。
その一家が私にとっては命の恩人であり、また具仲会さん夫婦は
私にとっては三年間、お父さんでもあり、お母さんでもあった訳です。

  長男坊に私より二つ歳下の一夫君がいましたが、一夫君が米軍の缶詰を
持っていると山の部隊に報告したのは一夫君の先生なんです。その先生が
カズオ君が米軍と会っていたとか、様々なことを部隊に報告した訳です。

  また朝鮮人一家だけでなく、23人の町民もスパイ容疑で殺されましたが、
そのリストを作ったのは学校の先生であり、女性で初めて県会議員に
なった上江洲(うえす)トシさんです。
そのことは私は『隠された沖縄戦記』という本に書いていますが、
事実であるから上江洲さんは私を訴えることは出来ません。

  また島民を殺した日本兵と云えば、皆本土出身の日本兵と思うでしょうが、
本土出身の日本兵は沖縄の地形はよく知らず、同じ沖縄人をスパイ容疑で
殺したのは現地で入隊した防衛隊であり、護郷隊です。
沖縄出身の日本兵です。
だから沖縄の作家達は、沖縄戦記を書く場合には、「沖縄出身の日本兵」
とは書かないのです。
ただ「日本兵」と書けば、日本人は「本土出身の日本兵」と考えるでしょう。
  このように沖縄人は、自分達に都合のいい沖縄戦記を書いています。


つづく

5968

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/19 00:57 投稿番号: [339 / 735]
桜と木槿(むくげ)を座間味の島に

  私はその女性と約束したことがあります。
いずれ一緒に力を合わせてあの座間味の島に木槿だけではなくて、
日本の桜も植えようではないか。
一緒に自決した軍人は桜に譬え、木槿は韓国の花であるから、二つ一緒に並べて
植えれば、天国の二人も喜ぶのではないか、というような話をしたこともあります。

  だがそれから私は高島屋の前に出られなくなって、その小母さんと会うことが
出来なくなりましたが、たしか大阪の生野区にいらっしゃるという風に話してました。
  もし自決した慰安婦が日本人であったならば、大和撫子として誉め称えられたと思う。

  今度の裁判(集団自決冤罪訴訟――中村)は元部隊長を支援するだけではありません。
元部隊長の無実を明らかにすることで教科書を正しく直すことも私の目的の一つです。

  また仮(たと)え朝鮮人慰安婦であっても、戦場で従軍看護婦となり、負傷
した日本軍人のお供をして自決したとなれば、放っておいてはいけません。

日本人として日本の教育を受け、少なくとも大和魂があったからこそ、
自決したと私は思ってます。
私は大和魂には余り賛成しませんが、彼女はそう信じて日本軍人のお供をした訳
ですから、私は日本政府だけでなく国民もその慰安婦に感謝すべきだと思います。

  自決した沖縄出身の大城明さんにとっては六十年経ってもまだ戦争は
終っていなかった訳です。その自決に追い込んだのは『沖縄タイムス』、
沖教組、関係者が捏造した本が原因です。これでは大城明君も報われない。

また野戦看護婦として自決した金木槿さんも浮ばれない。
いま私は、いずれ体が回復すればあの座間味島に木槿の木と桜の木を
植えたいのが願望です。そのことについて協力して下さるという方々も
いらっしゃいます。私は一日も早くそれが実現出来るようにいま努力しています。
彼女は日本の教育を受け、私の想像では大和撫子の魂をもって自決し、
お供したと思います。

押しかけて来た大江派

  話は変りますが、今大江(健三郎)先生を支援している方々の中には私の知人が
沢山います。(11月)9日の裁判を傍聴に行き、多くの知人と会いました。
それらは皆大江さんを支援する人達でした。
沖縄からはフォークシンガーも来ていました。
その人と私はレコードを出したこともあります。

  実は去年(平成18年)10月に私は堺市の阪南病院という精神病院に
一晩泊められたことがあります。
大江支援者が何度も私の家に押しかけ、私と口論となり、
私はその人達を木刀で叩き、大怪我をさせたことがあります。
その連中は何遍も私の家に押しかけてきて、また私の留守中に出版物や
名詞などを盗んでいくために私は犯人は判かっていました。
大江先生を支援するグループと知ってましたから、警察に訴えましたが、
警察は対応しませんでした。
仕方なく私は、今度来たらひどい目に遭わせてやろうと思って枕元に
黒檀の木刀を置いてありました。その木刀は朝日新聞で拳銃で自殺なさった
野村秋介さんから頂いた木刀で、今手元にあります。


つづく

5967

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/18 01:27 投稿番号: [338 / 735]
オモニーが語る木槿(むくげ)さん

  話は違いますが、私が高島屋前の軒下で五年以上、
雨の日も風の日も路上生活していた頃、月に二、三回私の所に
ホルモン焼きやキムチの漬物を持ってくるお婆ちゃんがいました。

時々私が訴える話をじっと聞いていましたが、ある日のこと
「実は座間味島に木槿(むくげ)の花を植えたいのですが」と、訊いたところ、
「一年足らずであったが座間味に居りました。
金木槿(きむむくげ)という友達が座間味島で戦死をしました。
実は私は木槿さんと一緒にお仕事をしていました」と話されたのです。

木槿と同じ釜山の出身で、座間味島に来たようです。
金木槿さんとは隣近所で、朝鮮人に騙されて日本に来てくれと云われ、
慰安婦にさせられたと云うことです。

「木槿の家もよく知ってますが、名前と同じような木槿の木を
彼女のお父さんが庭に植えていて、毎年その花は咲いてます。
私はその木槿の花を見るのが辛くて、また日本にやって来ました。」

  余り詳しくは語りませんでしたが、座間味島で日本兵と共に自決した
金木槿さんの友であり、戦場の慰安婦でもあり、また看護婦でもあった女性でした。


朝鮮人に騙され慰安婦に

  その女(ひと)は釜山の中学校を卒業してます。
木槿(むくげ)さんは大正生まれで、
日本人として生まれて日本人として学校に行ったそうです。
そうして朝鮮の病院で見習い看護婦をやっていたのですが、同じ朝鮮人に、
日本に病院の仕事があるからと騙されて日本に連れて来られたのです。
強制連行されたのではありません。これはそのオモニーの話です。

  そのオモニーは奥さんを亡くした韓国人の後妻になってホルモン焼き屋を
していたんです。難波にお店があったようで、一週間に一遍来てくれました。
そして私が梅沢さんと相談して書いた座間味の看板を見て話しかけてきたのです。
私はあんな達筆の看板は書けない。私が頼んで梅沢さんが公園で書いたんです。

  私が高島屋の正面玄関の前でそんなことが出来たのは、
野村秋介さんのお蔭でもあるんです。
野村秋介さんが山口組の南一家のヘンジャンテさんに頼んでくれたんです。
東京でも野村秋介さんが、やくざ者に妨害されないように紹介状を書いてくれ、
木刀まで買いました。

つづく

5966

沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」②

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/18 01:26 投稿番号: [337 / 735]
沖縄集団自決の真実
「沖縄人の見た沖縄戦」②
――座間味に咲けよ   桜と木槿(むくげ)――

ルポライター(沖縄県国頭郡出身)     冨村順一(大阪市西成区77歳)

平成20年2月10日    昭和史研究所会報   第13
0号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。
これは本来国家のなすべき事業なのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  富村順一氏略歴
=昭和5年沖縄県国頭郡本部町に生まれる。
15年国民学校初等科2年の時、奉安殿に最敬礼を拒否して放校される。
29年那覇刑務所暴動に参加。
45年東京タワー特別展望台で米人宣教師を人質に、
沖縄問題、天皇の戦争責任追及を訴え立てこもる。
48年出獄と同時に久米島で虐殺された朝鮮人の慰霊塔建設を呼びかけ、
独力で運動を開始。
50年座間味島集団自決の真相究明活動開始。
52年関根清氏に会い、梅沢裕氏の無実と健在を聞き、梅沢氏と会って確認。
座間味に渡り宮城初枝女に真相を伝える。
その後、アジア平和集会で座間味戦の真実を訴え嘘の平和運動と決別、
犬をパートナーに沖縄戦の真実を訴える全国行脚に出る。
また新宿駅西口や大阪難波の高島屋前で路上生活をしながら座間味戦の
真実を訴える。
平成6年夏、東京練馬区で、左翼グループに急襲殴打され、車椅子生活の身となる。
平成19年11月9日大江岩波裁判には不自由な身体を押して大阪地裁に赴き、
両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。
  目下、座間味で日本軍将校と自決した朝鮮人慰安婦のために同地に
桜と木槿を植樹する運動を提唱している。
  著書に『わんがうまりや沖縄』『最敬礼拒否の足跡』『琉球慰安婦』
『沖縄戦語り歩き』『隠された沖縄戦記』他多数。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

つづく

5965

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/18 01:24 投稿番号: [336 / 735]
嘘の平和運動と訣別

  その何ヶ月か後、沖縄でアジアの平和集会という集会があり、
それを新聞で知って参加いたしました。
主催者は、中村先生も御存知の渡嘉敷島出身の方です。
大江訴訟の沖縄出張裁判で証人に立たれた金城重明さんです。
沖縄キリスト教短大の学長をなさって、現在は那覇の聖教会の牧師を
なさっている方です。
その方々が平和集会を主催したのです。
私も参加して、手を挙げて座間味戦記の話をいたしました。
そこには教職員組合、社会党、共産党といった錚々たるメンバーがいて、
多くの新聞記者もいました。

  私が沖縄タイムスの『鉄の暴風』や他の沖縄戦記の捏造した部分を
声張り上げて訴えたところ、ある知人に呼ばれました。
「お前みたいに本当のことを云っていたら平和運動は出来ない。
平和のためには多少の嘘は云ってもいいんじゃないか」
と云ったので私は「嘘を云って平和運動するなら、あんたなんかと共に
行動する必要はない。あんた達と平和運動するより犬をパートナーに一
人でいいから全国行脚をして沖縄の真実を訴える」と大衆の面前で叫び、
二匹のシェパードを連れてフェリーで沖縄を出発し、
鹿児島に着き、そこから歩いて全国を一周いたしました。

  私が沖縄戦記を訴える以前は、殆どの知人友人は左翼関係でした。
座間味戦記を捏造だと訴えはじめてからは、今までの仲間であった
運動家達は全部私の前から遠ざかり、私は一人孤立することになりました。


将校と自決した慰安婦

  実は私は約五年間、大阪の高島屋の前で路上生活をしながら沖縄戦を
訴えてました。梅沢隊長は何十回も私の所へ来て下さいました。

  一番悲しいのは、慰安婦から従軍看護婦になった女性のことです。
一人の将校が重傷を負い、慰安婦だった朝鮮人女性が野戦看護婦となり、
看病に当たった。
重傷の将校は意識が朦朧としたのか、「お母さん、お母さん」と叫ぶので、
その看護婦は自分の乳房を将校の口に含ませたようです。
すると二、三分は唸り声も治まるが、また繰り返す。

その野戦看護婦はそばに居た衛生兵達に
「外へ出て下さい。わたしがお伴します」
と云って、自分の乳房を将校に含ませた儘、手榴弾を爆破させ、
自爆したということです。

この朝鮮人慰安婦は当時朝鮮は日本だったので、日本の皇民化教育を受け、
日本の女性として誇りを以て、負傷した将校と共に自決したのだと思います。


5964

.

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/18 01:23 投稿番号: [335 / 735]
『梅沢隊長は健在だ』

  その中の一人、埼玉県大宮の関根清さんという衛生兵に出会うことが
出来ました。
関根さんは「家には妻や子もいるし、ここではそんな悲しい話は出来ない。
外で話そうじゃないか」と仰有ったので大宮の駅の前のお寿司屋さんに
入りました。お寿司が出ても関根さんは二、三分、うつむいた儘
何も話そうとはしませんでした。溜め息をつきながら、

「実は富村さん、自決命令はなかったのだ。
梅沢隊長は自決命令を出して朝鮮人慰安婦と爆死したと沖縄戦記には
書いてあるが、梅沢さんはお元気である。自決命令は出てない」
と云ってまた溜息をつきながら、

「実は自決に関係しているのはこの私なんだ。
村の村長や校長先生、郵便局長、女を交じえた四、五人で梅沢隊長に
自決する手榴弾を下さいとお願いに行ったのだが、梅沢隊長に断られ、
そのため、よく部隊に出入りしていた女性がある衛生兵に顔なじみがいて、
その衛生兵に頼んだところ、当時島にいた従軍慰安婦が米軍上陸前に
梅沢隊長の命令によって、野戦看護婦になったようです。
その野戦看護婦が自決用として持っていたと思われる手榴弾を衛生兵が
取り上げて、宮城初枝さんに渡したということです。
その衛生兵が私です。
もしそのことが世間様に知られると、私の妻や子がどのような悲しい思いを
するかと思えば公表も出来ない」と云って涙を浮かべてました。

〔註〕宮城初枝や梅沢裕元隊長の手記によれば、隊長を訪ねた村の代表は
村役場助役兼兵事主任兼防衛隊長・宮里盛秀、同収入役・宮平正次郎、
国民学校校長・玉城政助、村役場吏員・宮平忠達、女子青年団長・
宮平(のち宮城)初枝の五人。
盛秀が隊長に要求したのは宮城初枝によれば弾薬。
梅沢元隊長によれば爆雷で殺して欲しい。
それが駄目なら手榴弾か小銃弾を頂きたいということであった。(中村)


宮城初枝さんの驚き

  梅沢隊長は生きていると聞かされた私は、
「では手榴弾を関根さんが渡したことは公表しないから、
梅沢さんの家を教えてくれ」
とお願いしても、
「すぐには出来ない。梅沢さんに断ってから教える」
と約束しました。

何日か後に電話で梅沢さんの住所を教えてくれました。
私は梅沢隊長に連絡し、関根さんと共に大阪に行き、食事をしながら
様々なことを話し合いました。

  死んだ筈の梅沢さんが生きていることを先ず最初に伝えるべき人は、
座間味島で是非正しい戦記を伝えて欲しいと私に頼んだ宮平のお爺ちゃん
であると思い、座間味島にお爺ちゃんを訪ね、梅沢隊長のお元気なことを
話したところ、お爺さんは「その話を一番知りたがってる人がいる。
一寸待ってくれ」と立って行かれ、宮城初枝さんを連れて来ました。

  宮城初枝さんは入って来るなり
「富村さん、梅沢隊長は本当にお元気ですか。それは本当ですか」
と云うので「間違いありません」と話したところ、
しゃがみ込んで泣いてました。

  「富村さん。私一人で勝手に文章を書いて『家の光』に投稿した訳では
ありません。
村の有志の方々に頼まれて仕方なく私は(隊長が自決を命じたと)書いたのです。
本当に梅沢隊長には申し訳ない。済みませんです。
今度会ったら、私がお詫びしていたとお伝えして下さい。そして島に来て下さい」
と話してました。

  このように謝る女性に話す言葉もなく、翌日、母の住む宜野湾市に
帰ったところ、宮城初枝さんの娘さんの晴美さんが、沖縄でたった一つの
月刊誌『青い海』の編集長をしていました。
お母さんから電話があったそうで、「梅沢さん、本当に生きていますか」
と私に訊くので「生きています」といったところ、確かめたいから
住所を教えてくれというので、私は晴美さんに梅沢さんの住所を教えました。

  この話がどのように伝ったのか、三日後に『沖縄県史』の編集長島力
(しまつよし)さんがまた私の家に来て、
「富村、梅沢さんは本当に生きているのか」と訊くので
「生きてます」と答えた。

  「もし梅沢さんが健在であれば確認したいし、自決命令も出てないとなれば、
『沖縄県史』も直さなければいけない。是非梅沢さんの住所を教えて欲しい」
という風に話がありましたので、私は『沖縄県史』の編集長である島力さんに
梅沢さんの住所を教えたので、梅沢さんと連絡が取れ、『沖縄県史』に
梅沢さんの手記が載るようになりました。


つづく

5963

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/18 01:23 投稿番号: [334 / 735]
座間味との出会い

  私が座間味島に行ったのは
座間味戦記を書くことが目的ではありませんでした。

1960, 70年頃、私は東京の練馬区にいました。
当時私は、愛犬を連れて毎日、朝早く練馬の駅の前を散歩してましたが、
駅の前に『世界日報』という新聞が箱に入れられ、
「三十円を入れて、自由にお取り下さい」と張り紙がありました。
幼い時から余り良い人生を送ってないので、三十円の金を入れずに毎
日のようにその新聞を読んでいました。

ある日のこと、沖縄出身の宮平という牧師のことが記事になりました。
その牧師がインドネシアに於いてインドネシア解放、独立のために
日本軍から武器を譲り受け解放戦線に渡し、
その先頭に立ってインドネシア軍と共に戦ったという記事でした。

  私はそのような素晴らしい沖縄人がいたかと思い、連載されたその記事を
読み、いつかそのことを本に書いてみたいと思い、座間味島に行きました。

  役場に行き宮平牧師を捜したところ、親戚の宮平さんという方で島一番の
お年寄りの家を訪ねて行きました。
私が宮平牧師のことを話すと、そのお爺さんは「あゝ、あの中野無線〔注〕か。
あいつがインドネシアで日本軍から武器を引き取り、
解放軍と共に戦ったことはよく知ってる。
中野無線のことだからオランダ軍のこともよく知ってる。
だから彼は解放軍の一指揮官として戦った。

そのインドネシアのことよりは、この座間味戦記を書いてくれ」
と話しながら、お爺ちゃんは押入れから四冊の本を取り出してきました。

『鉄の暴風』『家の光』『沖縄県史』、沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』。
この四冊の本をテーブルの上に置き、手拳を振り上げて本を叩き、
「この四冊の本は嘘なんだ。
梅沢隊長が自決命令を出したというのはまるっきり嘘、
自決は我々村の有志が決めたものなんだ。
このようなことを書かれたのでは、お国のために日本の勝利を願い自決して
いった校長や村長郵便局長の魂が浮かばれない。

何とか真実を公表できないものか。
座間味戦記が小中高校の副読本になって嘘の教育をさせられてきた。
それが大きな問題だ。
君に頼みたいことがある。
賢い人が出来なくても、余り賢くない人が出来るものがある。
君は学校へも行ってない。が、失うものもない。
何でも云うことを云ってきた。書いてきた。
是非真実の座間味戦記を書いて欲しい。
そうでなければ死んだ人は浮かばれない。

梅沢隊長は慰安婦と爆死したとどの本にも載っているが、爆死した
梅沢隊長を見た人はいない。場合によっては生きているかも分からない。
ここに復員名簿がある。これをお前にやるから、これをもって暇のあるときには
訪ねて行き、島の戦記を聞いて欲しい」と頼まれました。
そうして封筒に足代として十万円ほどの金を入れて私に下さいました。

  あの宮平のお爺さんの、怒っているのか悲しんでいるのか判断のつかぬ
顔を見た時に、もしかしたら自決命令はなく、捏造された戦記ではないかと
考え、東京に帰ってから、暇な時には、復員軍人の名簿を頼りに
約30人の復員軍人の家を訪ね歩きました。

〔註〕中野無線・・・中野学校のこと。同校は「陸軍通信研究所」の
門札を掲げていた。宮平牧師が中野学校出身なのでこう呼んだ。(中村)


つづく

5962

Re: 沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/18 01:05 投稿番号: [333 / 735]
大城明さんの自殺

  私はここ十四、五年間、大衆の前へ出たことがありません。
故に梅沢さんはじめ私の知ってる方には、
私が死んだという噂が飛んでいる現在です。
何故、そのような私が今頃、大江裁判傍聴に行こうと思ったのか、
訳があります。

  一昨年(平成17年――中村)の10月1日、大阪西成区の津守公園で
大城明さんという沖縄出身の方が自殺いたしました。
彼は若い頃、ベトナム戦争反対、基地反対、部落開放運動なんかに
首を突っ込んでました。また非常に読書家でもありました。

  彼が自殺一週間前、突然私の家に来たのです。私の家に来るなり跪いて
「富村さん、本当に申し訳ありませんでした。
富村さんが練馬区の元町公園で二匹の犬と野宿しているときに、
夜六人の仲間と一緒に襲い、二匹の犬を殺し、富村さんに怪我をさせ、
富村さんが車椅子の生活をするようになったのは私達です。
私がそのリーダーでした。
その理由は、富村さんが書いた「座間味戦記 / 梅沢隊長は生きている
――自決命令はなかった」という『隠された沖縄戦記』を読みました。
沖縄には沖縄の偉い大学の先生や文化人が書いた『鉄の暴風』、
沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』、『沖縄県史』がある。
それらは何れも自決命令で、梅沢隊長は従軍慰安婦と爆死したことになっている。

だが富村さんは「隊長は生きている」と云う。
富村さんは右翼から金を貰って嘘の本を書いたに違いない。
このような沖縄人はいない方がいい。
二度と本を書けないようにしてやろうと、富村さんを襲い、袋叩きにしたのは
私達で、そのリーダーが私でした。本当に申し訳ありませんでした」
と云いながら鞄から一冊の本を取り出しました。

宮城晴美さんが書いた『母の遺したもの』という本でした。
十年以上も本と縁がなく、新聞も余り読みませんでしたので、
この本が出ていることも全く知りませんでした。

その本をテーブルの上に置き、「梅沢さんは自決命令を出していない、
ましてや、死んだといわれた梅沢さんが健在であることを知りました。
自分たちは取り返しのつかないことをしてしまった。
富村さん、本当に申し訳ありませんでした」と跪いて詫びたのです。

余りに突然のことで、私も宮城晴美さんが本を出したことも知らず、
どのように大城君に返事をしていいやら、言葉を失い、黙っていると、
大城君が
「富村さん、近い中に私は本を読めない所へ行くんだ。
富村さん、この眼鏡はフランス製です。いい眼鏡です。
もしレンズが合わなければ、レンズだけ替えてお使い下さい」
と眼鏡をテーブルの上に置きました。
彼は読書家でもあったので、私は「じゃあ、お前は好きな本を読まないのか」
と云ったところ、「本を読めない所へ行くんだ」と――。

  私はその意味をすぐには理解できませんでした。
それから一週間ほど経って、彼の友人が私の家に訪ねてきました。

  「実は大城明さんが自殺しました。
彼の部屋に富村さん宛の手紙がありました」と云いました。
彼はその手紙で何度も何度も「申し訳ありませんでした」と詫びていました。
またお母さん達にも、富村さんに迷惑をかけたから、お詫びするようにと
遺言があったようです。
その後、大城君のお母さんやお姉さんからも電話がありました。
「申し訳ない。何か困ったことがあったら連絡下さい。
可能なことはして上げます」ということでしたが、
私は「何も困っていません」と申し上げてお断りいたしました。

  私は大城さんの自殺を考へ(ママ)た場合、まだ沖縄戦は終わって
ないんだと思うと同時に『鉄の暴風』や沖教組が捏造した
座間味戦記を書かなければ、このような自殺は出なかった訳です。
故に私は仮(たと)え手足が不自由でも、車椅子で外へ出かけることが出来る、
今度の大江裁判でも傍聴して、可能であれば事実を訴えようと思い、
裁判所へ行きましたが、残念ながら、傍聴出来ず帰ってきました。

  その後、大阪の関係者から二回ほど話を聞きに来ましたが、初対面であり、
どのような方かよく分からないので一部始終は話していません。
だが、先生のお手紙を読み、劇場のママからも、知ってること思ってる
ことを全部包み隠さず先生にお伝えするようにと云われておりますので、
私も知ってることを包み隠さず先生にお話しようと思います。


つづく

5961

沖縄集団自決 「沖縄人の見た沖縄戦」①

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/18 01:04 投稿番号: [332 / 735]
★故中村粲教授が配布された資料です。
必要な方はコピーをとっておいてください。★



沖縄集団自決の真実
「沖縄人の見た沖縄戦」①
――座間味戦の裏側にあるもの――

ルポライター(沖縄県国頭郡出身)     冨村順一(大阪市西成区77歳)

平成20年1月10日    昭和史研究所会報   第129号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。
これは本来国家のなすべき事業なのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔解説〕
平成19年11月9日、大阪地裁。大江・岩波裁判の日。
傍聴券を求める人々の中に車椅子の人物がいた。
この人が配布したA4判3頁の文書は、梅沢・赤松両元隊長の無実を訴え、
大江健三郎に謝罪を求める切々率直な内容のものであった。

この人こそ誰あろう。
かつては左翼反戦平和運動に携わりながら、梅沢裕隊長の「自決命令」の
なかったことを知るや、翻然梅沢氏弁護の運動を開始し、それが宮崎初枝
女史の告白を決意させ、また神戸新聞に「梅沢隊長の命令なし」の記事
を掲載させるきっかけをつくった冨村順一氏(『隠された沖縄戦記』などの著者)だ。

いわば梅沢隊長の冤が晴れる大きな一歩を刻んだ富村氏の正直で義に
強い人柄に、かねて中村は敬服していたが、大江裁判の折に氏の配布した
文書を読んで感銘を新たにし、氏に二、三の質問を含んだ書簡を送った。

それに対して11月30日、氏からテープレコーダーに録音した
委曲を尽した返事を頂戴した。貴重な体験と証言を含む内容なので、
一部を割愛して掲載させて頂くことにした。(中村)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔註〕「中村」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B2%B2

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★以下、富村順一氏のテープおこしの本文です。★
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  中村先生、今晩は。
先生からの御手紙を拝読し、直ぐに手紙を出そうと思いましたが、
何分にも手足が不自由で遅れたこと申し訳ありません。

話は違いますが、近所に梅南座という芝居小屋があります。
そこの主は沖縄出身の渡口さんというお婆ちゃんです。
このお婆さんは、娘さんやお孫さんも毎日のように私の家に来て
よく私の面倒を見てくれます。
そのような方ですから、私は先生から来た御手紙を劇場のママに見せました。
ママが「返事を書いたのか」と聞くので、ヘルパーに代筆を頼んで、
毎日四、五枚づつ書いていると話したところ、「このように大切なことは
ヘルパーの代筆では駄目だ。貴方は手足は不自由でも口は利ける。
録音を取って生の声を包み隠さず、テープで差し上げなさい」と仰有った
ので、「テープレコーダーがありません」と話したところ、ママが
「じゃ、買えばいいんじゃないか」と仰有ったので、「そのようなお金は
ありません」と云ったところ、「じゃ、金は私が出すから録音テープで
自分の気持を先生に伝えた方がいい」と仰有って金を置いて行って下さった
ので早速テープレコーダーを買い、録音で先生に座間味戦記のことを
お伝えしようと思っています。


つづく

5960

Re: 馬鹿のお話あれやこれ

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/16 23:25 投稿番号: [331 / 735]
★「現在の大学生の八割が大学に来てはいけなかった人たち」であれば、
おそらくこの先生も仕事を失う。
天に唾する、とはこういうことを言うのでしょう。
お怒りのお気持ちはよくわかりますが。

ただ、自分でも身に覚えがありますが、何か学んで少しわかってくると
(実は全然わかっていないからこそ)得意げにあれこれ論評してみたくなる。
知識を披露してみたくなる。
これはその道の大家からみると非常に滑稽なことであろうと思われます。
いつも自分がいかにモノを知らないかということを認識して自戒する必要が
ありますね。
研究会なんかのとき、講師に質問する人の多くが、教授を仰ぐというより、
講師や公衆の面前で自分の知識を披露したいだけの人のように思われます。
その多くがたいしたことはない知識であるのが痛々しいです。

★池田先生の鋭い舌鋒はとどまることを知りません。

■「文部科学省の推進するゆとり教育によって
『バカ化にはさらに拍車がかかるに違いない』とみ通した」
「私がムダだと思うのは、少しでも硬い本を自らすすんで一冊も
読むつもりもなく、大学に入学してくる人々である」
「この人たちの多くは、自分がそれに価する能力もないのに、
高校や大学や大学院に行くことを不思議だと思っていない」
「典型的なバカである」

★ま、それでもいいじゃないですか。ザルに水を通しても数滴の水は
ザルの目にひっかかっているでしょう、とわたしは思う。

「この数年、学生たちのバカ化はさらに進んだように思われる。
インターネットとケータイの普及に原因の一端はありそうだ」

■上記に関連しての、小谷野敦先生の言。「大衆社会を裏返す」
<現在の「大衆社会」が、それまでのものと異なるのは、
以前は「バカが大学へ入っている」程度で済んでいたものが
「バカが意見を言うようになった」点である>

★ははは。耳が痛い。まあ、しかし最初にPC なりケータイなりを買えば、
あとは一銭もかからない安上がりな娯楽なのであります。お許しくだされ。

■高島俊男先生のご感想
<(池田)先生の文中「バカ」はたびたび出てくるが、この
「バカが意見を言うようになったのである」
が一番すごい、と小生感銘した。迫力がある。
言われてみれば小生も、新聞の投書欄なんか見ていて、
「なんでこんなのをのせるのかなあ」
とけげんに思うことがよくあるのであるが、
「そうか、バカが意見を言うようになっているのか」
と、何やら納得したことでありました>

★紫陽花の感想
そのバカの意見を選択して新聞に掲載している新聞社の担当者も
ともにバカなのであります。
世の中一億総バカ化しているのは間違いのない現象なのであります。

.

Re: 馬鹿のお話あれやこれ

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/16 23:22 投稿番号: [330 / 735]
その他、「おこがましい」の語源となる「をこ」を語源とする説もあるが、
「をこ」から「ばか」という音変化は考え難い。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★ここで「をこ」と言っているのは「尾籠」のことです。
もともとは「やまとことば」なのですが、カッコつけて「尾籠」という字を
あて「ビロウ」と音読する人が出てきました。「おこの沙汰」なんていいますね。

========================================== =

バカにつける薬はない
バカも休み休み言え
バカとハサミは使いよう
バカの一つ覚え
バカの大足、間抜けの小足
バカを見る
バカていねい。ここのところのバカ陽気。バカさわぎ。
専門バカ
バカにも一芸
ねじがバカになる
馬鹿貝の略

★ちょっと辞書の「馬鹿」の項目をひいてみて、他の本にも少しあたってみました。
わたしが一番おかしく思ったのは、最後の「馬鹿貝の略」というところでした。

「バカも休み休み言え」などという日本語を外国語に直訳しても
まったく意味はとおりません。日本語の面白いところです。

昔、テレビのコマーシャルで「バカが多くて疲れません ? 」
というのもありました。
桃井かおりでしたか。キャラがピタリと合っていて感心しましたが、
苦情が多く寄せられて中止されたそうで残念です。
もっとおおらかであってもいいのではないでしょうか。

しかし、バカという言葉をタイトルに関した本は非常によく売れるそうです。
『バカの壁』なんてのもありました。
自分がバカだたとは誰も自覚していないので、楽しく読めるのでしょう。

★わたしは高島俊男先生の大ファンです。
以下は高島俊男著『お言葉ですが』⑧「百年のことば」を参考にして、
直接間接に引用して書いています。
★印がついているのは、わたしdue_reoni のコメントです。

■「日本の大学生の大半は知への憧れも畏れも皆無である。
さらに言うならば、自分がものを知らないことを恥じる気配がまったくない。
しかし、エゴだけは肥大しているから、意見は一応エラそうに言う。
こういう人たちを指して、バカというコトバ以外に言うべきコトバを
さしあたって私は知らない。はっきり言って、現在の日本の大学生の八割は、
大学に来てはいけなかった人たちなのである」
山梨大学教授・池田清彦先生「加速するバカ化」より

★ということでありますが、「意見は一応エラそうに言う」のは、
戦後そのように教育してきたからでしょう。
奥床しくしていては押し出しの強い外人に負けてしまう。
言わなければわからない。
何でもいいから言っといタレ、なんてモンで、これは非難できない。

つづく

Re: 馬鹿のお話あれやこれ

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/16 23:21 投稿番号: [329 / 735]
■「馬鹿」という言葉の由来について

『史記』「秦始皇帝本紀第六」。瀧川資言『史記會注考證』より

八月己亥、趙高欲爲亂、恐羣臣不聽、乃先設驗、持鹿獻於二世曰馬也。
二世笑曰。丞相誤邪。謂鹿爲馬。問左右。左右或黙。或言馬、以阿順趙高。
或言鹿者。高因陰中諸言鹿者以法。後羣臣皆畏高。

〔訓読〕
八月己亥(きがい)、趙高、亂を爲さんと欲し、羣臣の聽かざるを恐れ、
乃ち先ず驗を設るに、鹿を持して二世に獻じて曰く「馬なり」と。

二世、笑いて曰う。丞相、誤まれるか。鹿を謂て馬と爲す。
左右に問う。左右   或は黙す。或は馬と言い、阿を以て趙高に順う。
或は鹿と言う。
高、因りて陰(ひそか)に諸々の鹿と言いし者に、中(あ)つるに法を以てす。
後に羣臣、皆高を畏る。

〔解釈〕
八月己亥(きがい)の日。趙高は謀反を起こそうと思ったが、家来たちが
聽きいれないのではないかと心配して、まず一計を案じた。

鹿を持ってきて二世皇帝に獻上して「馬でございます」と言った。
二世皇帝は笑って「丞相、間違いであろう。鹿をさして馬としておるぞ」
と言って左右にいた家臣たちに尋ねた。

左右の者たちは、或る者は沈黙した。
或る者は馬だと言って趙高に阿り順った。
また或る者は鹿だと言った。

趙高はひそかに、このときに鹿と言った者たちに処罰を加えた。
その後は、羣臣は皆、趙高を畏れるようになったのである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★上記はよく知られている話ですが、これは「馬鹿」の語源ではありません。
「ばか」という言葉に、このエピソードから「馬鹿」という
漢字二文字を持って来てあてたのではないかと思われます。

★URL 省略。「語源」で検索。★

■馬鹿
馬鹿とは、愚かなこと(人)。知能の働きがにぶいこと(人)。莫迦

馬鹿の語源・由来
馬鹿は、サンスクリット語で「無知」や「迷妄」を意味する「baka」「moha」
の音写「莫迦(ばくか)」「募何(ぼか)」が転じたとされる。

日本では、鎌倉時代末期頃から「ばか」の用例があり、室町中期の
「文明本説用集」には、馬鹿の異表記として「母娘」「馬娘」「破家」をあげ、
「とんでもない」の意味で「狼藉之義也」と説明している。

以上のことから、「ばか」を「馬鹿」と書くのは、当て字と考えられる。

馬鹿の語源の俗説として、
「鹿をさして馬となす」(「史記(秦始皇本紀)」の故事から)がある。

これは、秦の趙高が二世皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。
群臣は趙高の権勢を恐れ、「これは馬です」と答えたが、
「鹿です」と答えた者は暗殺された。

このことより、自分の権勢をよいことに矛盾したことを押し通す意味として
使われているといったものだが、「鹿」を「か」と読むのは大和言葉で、
漢文では「ばろく」と読む。
そのため、この故事が「馬鹿」の語源であるとは考え難く、
「馬鹿」の字が当てられた由来として考慮するにとどまる。

つづく

馬鹿のお話あれやこれ

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/16 23:20 投稿番号: [328 / 735]
◆1月8日付   編集手帳
  司馬遷の『史記』に、皇帝をもしのぐ権勢を誇った秦の高官、趙高の逸話がある。
幼少の皇帝に、「馬です」と言って鹿を献上した。
皇帝は笑って左右を見渡したが、居並ぶ重臣たちは趙高を恐れ、口々に「馬です」
と述べ合ったという
◆恐れ、おもねる者たちが権力者を取り巻く組織では、黒いものも「白い」で通ると
いうことだろう。誤りを強引に押し通す
〈鹿を指して馬と為(な)す〉の慣用句はこの故事から生まれている
◆資金管理団体の土地購入を巡り、参考人として事情聴取に応じるよう、
東京地検が小沢一郎・民主党幹事長に要請した
◆代金4億円の素性が謎であること、土地購入と同じ時期に、中堅ゼネコン幹部
が小沢氏側に現金5000万円を渡した、と供述していること――などを
考え合わせれば、「馬だ」(政治資金はすべて公開してきたぞ)として詳細を
語ろうとしない小沢氏の姿勢は誠実と言いがたい
◆党内から、「鹿に見えますがねェ…」(ほんとうに隠し事はないのかな?)
という疑問の声ひとつ上がらないのはなぜだろう。
趙高の王宮ではあるまいし、不思議を通り越して不気味である。

(2010年1月8日01時24分 読売新聞)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
11月20日付   編集手帳
  〈秋風やひとさし指は誰の墓〉は寺山修司の句である。
天に向けてひとさし指を立てて「この指とまれ」、
遊び仲間を募った子供の頃を思い出す人もあろう

◆秋風ならぬ木枯らしのなかで、中国政府が「この指とまれ」と指を立てた。
12月10日に開かれるノーベル平和賞の授賞式典に出席しないよう、
各国のノルウェー駐在大使にもとめている

◆民主活動家、劉暁波氏の受賞が面白くないのなら、
自分だけが欠席すればいいものを、徒党を組むとは奇妙な国である。
ロシアやキューバなど5か国が“指”にとまって欠席するといい、
日米など36か国が出席、16か国が態度を保留している

◆司馬遷の『史記』に、皇帝をしのぐ秦の権力者・趙高(ちょうこう)が
皇帝に「馬です」と言って鹿を献上した話がある。
他の重臣たちは彼の権勢を恐れて「そう、馬です」と、おもねった。
中国政府も故事にならい、経済大国の権勢にどのくらいの国々がひれ伏し、
横車に付き合うか、指1本で確かめようとしているらしい

◆服役中の劉氏本人だけでなく、家族も中国当局に監視されて
式典に出られないとか。ひとさし指は「人権」の墓だろう。

(2010年11月20日01時15分 読売新聞)


つづく

日本の誠意

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/16 23:00 投稿番号: [327 / 735]
【産経抄】
8月14日
2011.8.14 02:44
  昭和20年8月14日、つまり終戦の日の前日、
東郷茂徳外相はアジア各地駐在の外交機関あてに暗号の緊急電を発した。
日本の敗戦で、大東亜会議に参加した親日国の要人は厳しい立場に置かれる。
もし望むなら日本への「移行」に便宜をはかれとの内容だった。

  ▼「敗戦国日本に呼び寄せたあとの対策や見通しがあったとは思われないが…
日本なりに誠意を示したのであろう」。
親日政権のひとつ、汪兆銘政権を追った『我は苦難の道を行く』の中で
上坂冬子さんはそう書いている。
確かに敗戦前夜の国とは思えないような「気遣い」である。

  ▼「亡命」を打診されたひとりが中国・南京政府の陳公博代理主席だった。
汪兆銘亡き後、同政府を率いていた。陳主席は当初、申し出を断る。
だが自分が南京に残れば蒋介石軍と衝突が起き市民に犠牲者が出ると判断、
25日に日本へ向かうことになる。

  ▼一行7人の引導兼警護役を任されたのが小川哲雄陸軍主計中尉だった。
拓殖大を卒業、中国語に堪能で南京政府の軍事顧問などをつとめていたからだ。
南京から飛行機で青島に向かうと見せかけ、海を渡り一気に鳥取県米子の
空港に着陸、「亡命」は成功する。

  ▼その後も小川中尉らの努力で京都に入り、金閣寺に潜伏する。
だが戦勝国側の圧力の前に、日本政府による保護には限界があった。
中国・重慶政府の「帰国命令」には抗しきれず、
陳主席は10月初めに帰国、翌年銃殺刑に処せられる。

  ▼敗戦国が亡命を受け入れるなどしょせん無理という見方もあるだろう。
だが国も我が身もどうなるかわからない中で誠心誠意、他国の要人のために
働いた日本人がいた。そのことは誇りとして語り継いでいきたいものである。

.

Re: 佛説阿彌陀經

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 16:16 投稿番号: [326 / 735]
舎利弗、如我今者称讃諸佛不可思議功紱、彼諸佛等、亦稱説我不可思議功紱、
而作是言、釈迦牟尼佛、能爲甚難希有之事。能於娑婆國土、五濁悪世劫濁、
見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁中、得阿耨多羅三藐三菩提、爲諸衆生、
説是一切世間難信之法。舎利弗、當知。我於五濁悪世、行此難事、
得阿耨多羅三藐三菩提、爲一切世間、説之難信之法。是爲甚難。


舎利弗よ、
我れ今、諸佛の不可思議の功紱を称讃する如く、彼の諸佛らも、
亦た我が不可思議の功紱を稱説して、是の言を作(な)す、釈迦牟尼佛は、
能(よ)く甚難、希有の事を爲したまえり。能く娑婆國土の、五濁(ごじょく)の
悪世たる劫濁(こうじょく)、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁(みょうじょく)
中に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸々(もろもろ)の衆生の爲に、
是の一切の世間に難信の法を説きたまえり。舎利弗よ、當に知るべし。
我れ五濁の悪世に於いて、此の難事を行じ、阿耨多羅三藐三菩提を得て、
一切の世間の爲に、此の難信の法を説けり。是れ甚だ難(かた)きことと爲す。


舎利弗よ、
わたしが今こうして、諸佛が不可思議だという阿弥陀の功紱を褒め称える
のと同じように、他の諸佛らも、またわたし(釈迦)の不可思議の功紱を
褒め称えていて、このように言っている。

釈迦牟尼佛は、甚だ困難なこと、めったにあり得ないことでもやってのける。

この我々の普通に生きている世界の、
五つの汚れた極めて良くない時代というものがある。

それを分類すると、
劫濁(こうじょく)、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁(みょうじょく)が
満ち満ちているこんな世の中に於いて、仏となる悟りを得て、
あらゆる衆生のために、このすべての世の中に信じ難い仏の法を説かれた。

舎利弗よ、
よく知っておけ。

わたし(釈迦)はこの五つの汚れに満ち満ちた悪い世の中でありながら、
このたいへん困難な事業をやりとげ、立派に仏となる智恵を身につけて、
あらゆる世界の人々のために、信ずることさえ難しいこの阿弥陀経という
法を説いたのである。これくらい困難なことはないのである。



佛説此經已、舎利弗、及諸比丘、一切世間、天人阿脩羅等、聞佛所-説、
歓喜信受、作礼而去。佛説阿彌陀經。


佛、此の經を説き已(おわ)るや、舎利弗及び諸々の比丘(びく)、
一切の世間の天・人・阿脩羅等は、佛の説く所を聞き、歓喜、信受して、
礼を作(な)して去りぬ。佛説阿彌陀經。


仏がこの阿弥陀経について説きおわると、舎利弗及び諸々(もろもろ)の
仏教修行者、ありとあらゆる子の世の中の天上世界の人も人間も阿脩羅
というような人たちまで皆、佛の説かれたことを聞いて、歓喜し信受して、
深々とお釈迦さまにお辞儀をして去って行った。

以上が佛の説きたまいし阿彌陀經である。


     ――了――


2131

Re: 佛説阿彌陀經

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 16:12 投稿番号: [325 / 735]
★ここに、南無阿弥陀仏と唱えると救ってもらえるという
信仰の大本があります。
阿弥陀経の中に阿弥陀さまの御名を唱えよ、阿弥陀経を大事にしなさい、
それだけで阿弥陀さまと同じように諸々の仏さまからたいせつにされる
存在となる。そして仏の悟りの世界に入って再び後戻りのないところに
行けるのだ、と説いています。




舎利弗、於汝意云何。何故名爲一切諸佛所護念經。
舎利弗、若有善男子善女人、聞是諸佛所説名及經名者、是諸善男子善女人、
皆爲一切諸佛共所護念、皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提。
是故、舎利弗、汝等皆當信受我語及諸佛所説。
舎利弗、若有人、已發願、今發願、當發願、欲生阿彌陀佛國者、是諸人等、
皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提、於彼國土、若已生、若今生、若當生、
是故、舎利弗、諸善男子善女人、若有信者、應當發願生彼國土。


舎利弗よ、
汝の意(こころ)に於いて云何(いか)に。
何が故に名づけて、一切の諸佛に護念せらるる所の經と爲すや。
舎利弗よ、若(も)し善男子善女人有りて、是の諸佛の説く所の名及び經の
名を聞かば、是の諸々(もろもろ)の善男子善女人は、皆、一切の諸佛と共に
護念する所と爲り、皆、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)
より退転せざることを得んが爲なり。
是の故に、舎利弗よ、汝等皆、當(まさ)に我が語及び諸佛の説く所を信受すべし。
舎利弗よ、
若し人有りて、已に發願し、今發願し、當に發願し、阿彌陀佛の國に
生まれんと欲せば、是の諸々の人等、皆、阿耨多羅三藐三菩提
(あのくたらさんみゃくさんぼだい)より退転せざることを得て、
彼の國土に於いて、若しくは已に生まれ、若しくは今生まれ、
若しくは當に生まれん、
是の故に、舎利弗よ、諸々の善男子善女人にして、若し信有らば、
應當(まさ)に彼の國土に生まれんと發願すべし。


舎利弗よ、
おまえの心の中でどう思うか。信ずることができるか。

どうしてこの阿弥陀仏について書いたお経のことを、あらゆる仏さまに
守られ大切にされているお経という言い方をするのか。それがわかるか。

舎利弗よ、
もしも仏教を信ずる男女がいて、この多くの仏さまから語られている
阿弥陀さまというお名まえ及び阿弥陀経という経の名を聞いたならば、
この阿弥陀経を唱えるだけで、すべての善男子善女人は、皆、
すべての仏さまたちから大切にされる存在となるのであり、皆、
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)(仏の悟り)より
入って二度と戻ることはない。

したがって、舎利弗よ、
おまえたちは皆、わたしの語った阿弥陀経及び
他の仏さまたちが説いた阿弥陀経を信じて受けいれよ。

舎利弗よ、
もしも誰かここに人が有ったとして、
もうとっくの昔に阿弥陀さまのところに行きたいと願った人、これから
すぐに發願した人、きっといつか仏のところに行きたいと願い始める
であろう人たちは、阿彌陀佛の國に生まれたいと發願しさえすれば、
これら諸々の人たちは皆、仏の悟りの世界からもう後戻りすることは
なくなって、阿弥陀の極楽において、過去に願った人は已に往生し、
もしくはこれからすぐ願おうと思っている人は、これからすぐ極楽に
往生し、やがていつか願うだろうという人は、やがていつか往生するであろう。

だから舎利弗よ、
わたしの話を喜んで聞いている信仰のある人々は男も女も、
もしも信ずる心が有るのならば、まさに阿弥陀さまの國に
生まれかわりたいと願を起こすべきである。


★「已」「今」「當」という言葉で、「過去」「現在」「未来」が語られています。
けれども厳密に言えば、「今」という時はないのです。
「今」であった瞬間、「今」は「過去」になっています。


つづく

2130

Re: 佛説阿彌陀經

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 16:05 投稿番号: [324 / 735]
舎利弗、下方世界、有師子佛、名聞佛、名光佛、達摩佛、法幢佛、持法佛、
如是等恒河沙數諸佛、   各於其國、出廣長舌相、&#24487;覆三千大千世界、
説誠實言、汝等衆生、當信是称讃不可思議功紱一切諸佛所護念經。


舎利弗よ、
下方(げほう)世界に、師子佛、名聞佛、名光佛、達摩佛(だつまぶつ)、
法幢佛(ほうどうぶつ)、持法佛、是(かく)の如き等(とう)の恒河(ごうが)の
沙(すな)の數の諸佛有りて、各々其の國に於いて、廣長(こうじょう)の
舌相(ぜっそう)を出(いだ)し、&#24487;(あまね)く三千大千世界を覆いて、
誠實(じょうじつ)の言を説きたもう、汝等(ら)衆生よ、當に是の不可思議の
功紱を稱讃する、一切の諸佛に護念せらるる所の經を信ずべしと。


〔訳〕は「東方世界」に準ずる



舎利弗、上方世界、有梵音佛、宿王佛、香上佛、香光佛、大焔肩佛、
雑色寶華厳身佛、娑羅樹王佛、寶華紱佛、見一切義佛、如須彌山佛、
如是等恒河沙數諸佛、   各於其國、出廣長舌相、&#24487;覆三千大千世界、
説誠實言、汝等衆生、當信是称讃不可思議功紱一切諸佛所護念經。


舎利弗よ、
上方世界に、梵音佛(ぼんのんぶつ)、宿王佛、香上佛、香光佛、大焔肩佛、
雑色寶華厳身佛(ざっしきほうけごんしんぶつ)、娑羅樹王佛、寶華紱佛、
見一切義佛(けんいっさいぎぶつ)、如須彌山佛(にょしゅみせんぶつ)、
是(かく)の如き等(とう)の恒河(ごうが)の沙(すな)の數の諸佛有りて、
各々其の國に於いて、廣長(こうじょう)の舌相(ぜっそう)を出(いだ)し、
&#24487;(あまね)く三千大千世界を覆(おお)いて、誠實(じょうじつ)の言を
説きたもう、
汝等(ら)衆生よ、當に是の不可思議の功紱を稱讃する、
一切の諸佛に護念せらるる所の經を信ずべしと。


〔訳〕は「東方世界」に準ずる

2129

Re: 佛説阿彌陀經

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 16:02 投稿番号: [323 / 735]
舎利弗、西方世界、有無量寿佛、無量相佛、無量幢佛、大光佛、大明佛、
寶相佛、浄光佛、如是等恒河沙數諸佛、各於其國、出廣長舌相、
&#24487;覆三千大千世界、説誠實言、汝等衆、當信是称讃
不可思議功紱一切諸佛所護念經。


舎利弗よ、
西方世界に、無量寿佛、無量相佛、無量幢佛(むりょうどうぶつ)、大光佛、
大明佛、寶相佛、浄光佛、是(かく)の如き等(とう)の恒河(ごうが)の
沙(すな)の數の諸佛有りて、各々其の國に於いて、廣長(こうじょう)の
舌相(ぜっそう)を出(いだ)し、&#24487;(あまね)く三千大千世界を覆いて、
誠實(じょうじつ)の言を説きたもう、汝等(ら)衆生よ、當に是の不可思議の
功紱を稱讃する、一切の諸佛に護念せらるる所の經を信ずべしと。


〔訳〕は「東方世界」に準ずる

★無量寿佛・・・阿弥陀仏の別名。自画自賛でしょうか ?


舎利弗、北方世界、有焔肩佛、最勝音佛、難沮佛、日生佛、網明佛、
如是等恒河沙數諸佛、   各於其國、出廣長舌相、&#24487;覆三千大千世界、
説誠實言、汝等衆生、當信是称讃不可思議功紱一切諸佛所護念經。


舎利弗よ、
北方世界に、焔肩佛(えんけんぶつ)、最勝音佛(さいしょうおんぶつ)、
難沮佛(なんそぶつ)、日生佛(にっしょうぶつ)、網明佛(もうみょうぶつ)、
是(かく)の如き等(とう)の恒河(ごうが)の沙(すな)の數の諸佛有りて、
各々其の國に於いて、廣長(こうじょう)の舌相(ぜっそう)を出(いだ)し、
&#24487;(あまね)く三千大千世界を覆(おお)いて、誠實(じょうじつ)の言を
説きたもう、汝等(ら)衆生よ、當に是の不可思議の功紱を稱讃する、
一切の諸佛に護念せらるる所の經を信ずべしと。


〔訳〕は「東方世界」に準ずる



つづく

2128

Re: 佛説阿彌陀經

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 15:45 投稿番号: [322 / 735]
★次からはリフレインです。
音楽でもリフレインは心地いい。
お経も一種の音楽といってさしつかえないかもしれません。

東西南北、下方、上方について同じことを言っています。

全世界は、八方(東・西・南・北・北東・北西・南東・南西)と
上下の十方ですが、この場合、四隅は省略してあるものの、
やはり全世界についてカバーしていると解釈します。

猶、中国では、方角は東・南・西・北というふうに時計回りの順でいいます。
麻雀やる方はご存知ですね。日本では東西南北の順ですから、
たとえば「西南戦争」のように、南より西が先にきます。


舎利弗、如我今者讃歎阿彌陀佛不可思議功紱、東方亦有阿&#38310;<革卑>佛、
須彌相佛、大須彌佛、須彌光佛、妙音佛、如是等恒河沙數諸佛、各於其國、
出廣長舌相、&#24487;覆三千大千世界説誠實言、汝等衆生、
當信是稱讃不可思議功紱一切諸佛所護念經。


舎利弗よ、
我れ今者(いま) 阿彌陀佛の不可思議の功紱(くどく)を讃歎する如く、
東方にも亦た阿&#38310;<革卑>佛(あしゅくびぶつ)、須彌相佛(しゅみそうぶつ)、
大須彌佛、須彌光佛、妙音佛、是(かく)の如き等(とう)の恒河(ごうが)の
沙(すな)の數の諸佛有りて、各々其の國に於いて、廣長(こうじょう)の
舌相(ぜっそう)を出(いだ)し、&#24487;(あまね)く三千大千世界を覆いて、
誠實(じょうじつ)の言を説きたもう、汝等(ら)衆生よ、當に是の不可思議の
功紱を稱讃する、一切の諸佛に護念せらるる所の經を信ずべしと。


舎利弗よ、
わたしが今、阿彌陀佛の極楽浄土のすばらしさについてお話したことと
同じように、東方にもまたた阿&#38310;<革卑>佛(あしゅくびぶつ)、
須彌相佛(しゅみそうぶつ)、大須彌佛、須彌光佛、妙音佛はじめこれらの
ガンジス河の砂の数ほどの無数の諸佛がいまして、各々其の國に於いて、
廣長舌(こうじょうぜつ)の相(すがた)になられ、東方のあまねく
三千大千世界(すべての世界)を覆(おお)いつくして、誠の言を説きたもう。

だからわたしの話は虚構ではなく真実である。

おまえたち衆生よ、
さあ、阿弥陀さまの不可思議な功徳(すばらしさ・立派さ)を褒め称えよ。
ありとあらゆる諸佛に護り念ぜられているのがこの阿弥陀経であり、
この阿弥陀經を信じなさい。


舎利弗、南方世界、有日月燈佛、名聞光佛、大焔肩佛、須彌燈佛、
無量精進佛、如是等恒河沙數諸佛、各於其國、出廣長舌相、
&#24487;覆三千大千世界、
説誠實言、汝等衆生、當信是稱讃、不可思議功紱一切諸佛所護念經。


舎利弗よ、
南方世界に、日月燈佛(にちがつとうぶつ)、名聞光佛(みょうもんこうぶつ)、
大焔肩佛(だいえんけんぶつ)、須彌燈佛、無量精進佛、是(かく)の如き
等(とう)の恒河(ごうが)の沙(すな)の數の諸佛有りて、各々其の國に
於いて、廣長(こうじょう)の舌相(ぜっそう)を出(いだ)し、&#24487;
(あまね)く三千大千世界を覆(おお)いて、誠實(じょうじつ)の言を説きたもう、
汝等(ら)衆生よ、當に是の不可思議の功紱を稱讃する、
一切の諸佛に護念せらるる所の經を信ずべしと。


〔訳〕は「東方世界」に準ずる


つづく

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