李朝朝鮮

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/13 22:56 投稿番号: [715 / 1329]
>ここらへんについても東亜さんがお詳しいようなので、引き続きご協力お願い致します。

過分なお言葉、痛み入ります。
私も勉強中なのですよ。アジア歴史資料センターを見たり、エンコリに入ったりと。
間違いもあるかと思いますが、自分のできる範囲で資料紹介などをしてゆきたいと思います。

『大君の都』

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/13 22:47 投稿番号: [714 / 1329]
イギリス駐日公使・オールコック卿著   1863年にニューヨークとロンドンで出版した日本滞在記。

日本に侵略する気満々です^^;
朝鮮人から見ても、イギリス人から見ても、日本の都市は賞賛されてますね。
あの時代の日本の都市を直で見れたらと思わずにはいられません。


「将軍の都は心を奪われるほど美しい。冬でさえも。都は広大な谷の間に、危険を避けて身をかがめるように横たわっている。並を打つような兵陵は湾へとゆるやかに傾斜している。その湾の奥深くに、太平洋が磯に砕け散る激しい波を注ぎ込むことはできない。というのは、湾の入口のおよそに20マイル前方に、火山岩が自然の防波堤を積み上げ、入口の両側は緑の丘になっているからである。また湾全体は自然の浅瀬で、船底が20フィートの水深を必要とする戦艦では、砲撃に不可欠な二十海里の近さまで都に接近するのは困難だと思われる。世界の都の中で江戸のように海側から攻撃するのが難しい都市は少ない。
・・・・・・ヨーロッパには、江戸のように沢山の素晴らしい特質を備えている都はない。また町のたたずまいと周囲の風景のこのような美しさを誇れる都もない。そして江戸ほど征服し占領するのが難しい都も他には見当たらない。ペルシャ王クセルクセスの軍隊のような強力な大軍を編成すれば別だが。将軍の居城のある町の中心部の官庁街は、重要な区域であるが、ここはあまりにも広大な地域であるから、仮に占領はできても、その後、安全に確保し続けることはできないだろう。ヨーロッパの指揮官は、誰も江戸のような町を攻撃して占領するだけの自信が無いだろう。敵対心を持った住民のもとでは、町は軍事的に持ちこたえられないだろう。たとえ一つか二つ橋頭堡を築くことができて、そこから町を容易に破壊することができたとしても」

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/13 21:16 投稿番号: [713 / 1329]
同じ東アジアの地域の李朝朝鮮・日本の江戸時代の末期は共に欧米の列強に狙われている状態でした。
なので、李朝の開国の状態と平行して、
しばらく自分の国の日本がそれをかいくぐろうとした詳細を扱えたらなと思っています。

ここらへんについても東亜さんがお詳しいようなので、引き続きご協力お願い致します。

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/11 21:42 投稿番号: [712 / 1329]
>黄文雄本だとなんかニュアンスがいますね。
清が属国としていても、その当の朝鮮国と周囲がそれぞれの思惑で勝手に行動したがってるようで。

ええ。
朝鮮が自主国というのは、清や列強にとって、あくまでも便宜上の方便なんです。
朝鮮が冊封体制からの脱却を図って、自主的に列強に接近するようになるのは、もうちょっと後の時代、日清戦争後ですね。

黄文雄の本は、歴史へのきっかけとしては読みやすいんですが、けっこう間違い・思い込みも多いのですよ。ま、きっかけ・入り口としての使用に留めたほうが無難かと。
あれをソースにして論を構築するのは危ういことだと思います。

私も、先に上げた資料スレを読んで、その辺の事情を勉強したくちです。で、その勉強した結果を消化するために、あのようなマンガスレに再構成したと。

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/11 21:25 投稿番号: [711 / 1329]
>つまり、朝鮮は宗主国である清の指導指令によって「自主国」の姿をとって条約締結を行なっただけの話だったのです。

なるほど。

黄文雄本だとなんかニュアンスがいますね。
清が属国としていても、その当の朝鮮国と周囲がそれぞれの思惑で勝手に行動したがってるようで。

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/11 20:38 投稿番号: [710 / 1329]
>朝鮮が開国すると、日米英露の国々は朝鮮を中国の属国とは認めたがらなくなり、直接朝鮮と密約や条約などを結び、外交関係を持つ国が出てきたため、清国は朝鮮管理を更に強化し、列強に対しては朝鮮は清国の絶対不可欠で永久不分割譲の領土とアピールしていました。

いくら密約とはいっても、朝鮮が真に属国であるなら締結できないものです。
で、朝鮮&清がとった手法が、
「とりあえず、通商条約締結の一件については、朝鮮を自主国と扱う。しかし、それ以外の宗属関係については、他国にツッコミを入れさせない」
というものでした。
清としては、朝鮮と日本が条約を結んだことで、日本の朝鮮に対する影響力が増大することを嫌って、他国とも通商条約を結ばせようとしたわけです。

ここで、こういう史料があります。
1882年、アメリカは朝鮮と修好通商条約を締結します。朝鮮の正使申[木憲]は、条約締結について清都北京へ赴き、李鴻章の指示を仰ぎました。そしてその帰路の戦中でのお話です。

清使馬建忠★全権大官申[木憲]★清船問答(證1冊)(★はハングル)
高宗    19年3月27日
西紀1882年5月14日
往清船問答   壬午三月二十七日
(以下抜粋)
馬曰、前美使在津、与爵相商議、謂貴国久為中国属邦、不若在津与中国定一美好約条、而爵相、答以貴国雖為属邦、内治外交均得自主、美使終不釈然於心、謂難与貴国平行相待、比美使至此、亦屡屡以此為言、彼謂法莫若由貴国王給一照会、与彼国国主、内称貴国雖為中国属邦、而立約一事、自主云云、則何如、美使之意、欲将傳相所議第一款之言、在約外声名(明?)、若列入約内、則有碍両国平行之礼、
(中略)
亦曽定明貴国事大素恭、今日各国通商、時局大変、宜允貴国立約必須平行、方不受他人欺挟。我曰、敝邦服事中朝、垂三百年、偏荷庇覆之恩、此次又蒙爵相穀慈、審度時局、代為画■、期欲立定地歩、不受別人欺挟、万万感服、況両大人親駛兵輸遠臨、為敝邦主持、尤切感悚無已。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1836212&st=writer_id&sw=xiaoke

ようは、アメリカと清の都合により、朝鮮を自主国家扱いにしたというだけのことなんですね。
その結果、朝鮮とアメリカは通商条約を締結します。

■『属国文書』の背景説明
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=3&nid=1790281&st=writer_id&sw=yonaki

この史料のなかほどには、
「大朝鮮国為中国属其一切分内応行各節均与美国毫無干渉派員議主条約外相応・・・」
とあります。要約すれば、朝鮮は清の属国であり、アメリカは通商条約の件以外では宗属関係には干渉無しよ、と釘をさしていますね。

つまり、朝鮮は宗主国である清の指導指令によって「自主国」の姿をとって条約締結を行なっただけの話だったのです。

なお、ドイツとの通商条約締結時にも、朝鮮はドイツに対して、
「清の担当官吏の派遣を請い、その同席・指導のもとで締結しましょう」
と言っております。

■ならば、この道を征こう。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1829038&st=writer_id&sw=yonaki

(テキスト起こしはこのスレ内)
http://soutokufu.s145.xrea.com/index.php?%A5%AF%A5%BD%A5%B9%A5%EC%C3%D6%A4%AD%BE%EC%2Fyonaki%B0%C5%B9%F5%C5%C1

朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/11 19:59 投稿番号: [709 / 1329]
>これは朝鮮が、清のいわゆる属国ではなく、自主国家であり、列強もそれを承認していたことを示すことになるんでしょうかねぇ・・・・・・

当時、日本は国益を考えて、朝鮮を「自主の国」と主張していましたが、清国の圧倒的存在感から宗主国と認めざるを得ませんでした。
1885年、井上外務卿が清国に提出した「朝鮮弁方八条」では仕方なく清国妥協して、「朝鮮の政務を清国と日本で共同統治する」と第一条で提案しています。
しかし、日本は朝鮮半島が自主独立の近代国家へ変わることに期待していました。

日本は1875年(明治8年)の江華島事件で朝鮮に軍事的圧力をかけ、翌76年に日朝修好条規を結び、朝鮮が開国すると、
日米英露の国々は朝鮮を中国の属国とは認めたがらなくなり、直接朝鮮と密約や条約などを結び、外交関係を持つ国が出てきたため、清国は朝鮮管理を更に強化し、列強に対しては朝鮮は清国の絶対不可欠で永久不分割譲の領土とアピールしていました。
日本だけでなく、中国にとっても、朝鮮は外敵を防ぐために必要だったからです。

清朝が朝鮮独立を認めたのは1895年、日本が日清戦争に勝利し、下関条約でのことです。(朝鮮の南北ではこのことは教えられていない?)

参考資料:『韓国は日本人がつくった』黄文雄   P45〜

Re: 通商条約の恐ろしさ

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/11 18:33 投稿番号: [708 / 1329]
>変な人は消えたみたいですね。

お騒がせしました。

>その数年後、日本は朝鮮に無理やり修好条約を結び、いわゆる列強の「国際慣習」に従って、通商条約をはじめ、さまざまなことを取り決めました。

万国公法に拠れば、通商条約などを締結できるのは、主権国家にのみ許された権利でした。
で、1882年に、朝鮮はアメリカやイギリス、ドイツなどの各国と通商条約を結んでいますね。
これは朝鮮が、清のいわゆる属国ではなく、自主国家であり、列強もそれを承認していたことを示すことになるんでしょうかねぇ・・・・・・




と、疑問を投げかけてみるテスト。

Re: 通商条約の恐ろしさ

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/11 13:00 投稿番号: [707 / 1329]
1871年から72年にかけて、明治になった最初の海外使節団が不平等な条約を改正するために
日本が通商条約を交わしている11ヵ国全てを歴訪しました。
50人からなる使節団で、副使は30歳の伊藤博文でした。
結局外交上の何の成果もなく帰国することになるのですが、

その数年後、日本は朝鮮に無理やり修好条約を結び、いわゆる列強の「国際慣習」に従って、通商条約をはじめ、さまざまなことを取り決めました。

日本は西洋的な方法を学び、
開国してわずか20年で鎖国政策をとっていた朝鮮を
自分がされたことと同じ策略で開国させました
そして初代朝鮮総督になったのがあの伊藤博文だったのです。

だから、本当に歴史を知ってる朝鮮人なら、
「アメリカの黒船は日本に余計なことを教えてくれた」と言わなければいけません。

Re: 通商条約の恐ろしさ

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/11 12:24 投稿番号: [706 / 1329]
>>1800年代末に日本は米国の軍艦に降参した。

変な人は消えたみたいですね。
黒船が来て、仕方なく、日本が通商条約を結び、それがどう李朝朝鮮とつながって行くか何も知らないからこんなことが言えるのでしょう。

この通商条約がいかなるものか味わった日本の経験により、朝鮮は亡国の道をたどることになるのがわからないようです。
いずれ、朝鮮もわけもわからず通商条約を日本と結ぶことになるのですから。

インドや中国、日本の西洋に悩まされてる状態から何も学びませんでした。

日本は慎重に通商条約に挑んだのですが、外国と交渉して条約を取り決めると慣れた事をやったことのない幕府は完全に欧米の手中に落ちてしまいます。

治外法権や外国人がある決まった額のお金を日本の通貨に交換する権利
(白人がどの硬貨で受け取りたいか一方的に決めることが出来る不平等なもの)と、
悪事をした外国人を日本人が裁くことができず、その国の領事にまかせなければいけない領事裁判権は日本に混乱をもらたしました。

日本の金と銀の交換比率は1:5だったのに、西洋世界では1:15でした。つまり、同じ銀の量で通常の3倍の金貨が得られることになり、アメリカのゴールドラッシュで集まったならずものの白人が突然何百人も日本に沢山やってくる事態になってしまいました。
多数の白人が犯罪をしても幕府は罰することもできず、治安が悪くなりました。
天皇の勅許を要請しても断られた通商条約で混乱を招いた幕府は弱っていたところに、条約締結6年後、日本が絹と綿の繊維産業で輸出超過を計上すると、
欧米列強は一致団結して欧米から輸入される全ての商品に対する関税の上限を5%とするよう無理やり要求し、それを受け入れた日本は壊滅的な赤字決算となります。

その後、幕府の将軍は政権を返上し、明治の新政府になりましたが、
新政府は辛抱強く、欧米諸国と「5%付帯条項」の破棄について45年間交渉を重ねることとなります。

Re: to 東亜同務

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/10 00:13 投稿番号: [705 / 1329]
>ね、ガイキチでしょ?   やっこさん。

そうですねぇ。ざんねんだなぁ。(棒読み)














じつは、アレの前回の登場時に、程度は知っていたりします。
ピラミッドの話なんかも事前に知っていた上で、泳がせて楽しもうとしたウリは悪人ですか?(苦笑)

to 東亜同務

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/03/10 00:10 投稿番号: [704 / 1329]
ね、ガイキチでしょ?   やっこさん。

この手の笑いは凶悪るで飽きたなぁ。

Re: この長安の墓はbc5000以上の前だ

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/10 00:06 投稿番号: [703 / 1329]
>この高句麗式のビラミッド墓について。。
中国は放送とか新聞とかが絶対に秘密に管理なっているのだ。

秘密になっているなら、BC5000以上前のものだと、どうやってわかったんだい?

>廣開土天帝陛下の碑石は日本でもとても有名するので
説明する必要は無い。。以上

君はきちんと説明できないということだな。客観性の有る証拠を出して、自説を証明することを放棄して逃げるわけだ。はい、終了。

じゃ、約束どおり嘲笑してやるぜ。ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ

この長安の墓はbc5000以上の前だ

投稿者: kundaikun 投稿日時: 2007/03/10 00:01 投稿番号: [702 / 1329]
この高句麗式のビラミッド墓について。。
中国は放送とか新聞とかが絶対に秘密に管理なっているのだ。

このビラミッドは世界最古だから。。

廣開土天帝陛下の碑石は日本でもとても有名するので
説明する必要は無い。。以上

それで

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/09 23:50 投稿番号: [701 / 1329]
この墳墓の年代はどうなっているんだい?(苦笑)

中国に高句麗式の墳墓があったからといって、中国が高句麗であったという証拠になるわけではないぞ。
高句麗及び中国側の文献に、君の主張を裏づける記述はあるのかな?
それらが一致して初めて主張できるわけだがね。

あと、広開土王碑はどうした?

れ: ちなみに百済日本の首都は中国の南京

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/03/09 23:44 投稿番号: [700 / 1329]
>そういう事実は僕ばかりが知ってるのだ。。クスクス

こいつ、正真正銘のキチガイだ…。

ちなみに百済日本の首都は中国の南京

投稿者: kundaikun 投稿日時: 2007/03/09 23:42 投稿番号: [699 / 1329]
そういう事実は僕ばかりが知ってるのだ。。クスクス

Re: http://tong.nate.com/bagagi68/310116

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/09 23:38 投稿番号: [698 / 1329]
>このサイトから
左方から上から下へ3番目。。
そして9番にある。

「ウリナラの歴史」ってところだな。
さっそく確認してみる。

↓下のサイトが高句麗のビラミットだ

投稿者: kundaikun 投稿日時: 2007/03/09 23:36 投稿番号: [697 / 1329]
中国の長安は高句麗の首都だった

http://tong.nate.com/bagagi68/31011653

投稿者: kundaikun 投稿日時: 2007/03/09 23:33 投稿番号: [696 / 1329]
ここに長安pyramidがある。
これは高句麗のビラミッドに同じだ。
だから中国は高句麗の土地だったという証拠だ。
このサイトから
左方から上から下へ3番目。。
そして9番にある。

東亜同務

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/03/09 23:32 投稿番号: [695 / 1329]
>論破というのは早すぎます。

スタートラインに着けないモノ相手ですから、「論破」は早急かもしれませんが、
似たようなものです。

マンゴウ同務

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/09 23:30 投稿番号: [694 / 1329]
論破というのは早すぎます。(苦笑)

まず、彼が論拠となるべき証拠を提示し、それを検討する段階に達して、初めて「議論」のスタートラインにつくことになりますので。
その結果がどうなるかはわかりませんし。

とりあえず、時間待ちです。

れRe: 満州が高句麗の土地〜

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/03/09 23:20 投稿番号: [693 / 1329]
>満州が高句麗の土地だったのは世界が認定してる。
ちょ〜せんだけが「世界」なのかい?
お前は「完璧」に精神病者だなぁ。
東亜同務に論破されてるし。

Re: 満州には多い高句麗の墓たちがある

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/09 23:17 投稿番号: [692 / 1329]
>その高句麗の墓たちと廣開土太王の碑石が証拠だ。

高句麗の墓?ああ、ピラミッド状のヤツか。

>写真の証拠はあるが、このサイトは写真は駄目だので、仕方ない。

その写真のあるサイトのURLを紹介してごらん。

で、広開土王碑のどこが証拠になるんだ?原文を持ってきて解説してみなさい。

満州には多い高句麗の墓たちがある

投稿者: kundaikun 投稿日時: 2007/03/09 23:07 投稿番号: [691 / 1329]
その高句麗の墓たちと廣開土太王の碑石が証拠だ。

そして満州には高句麗の多いpyramid墓があるし。。
中国の長安にもおおい朝鮮のpyramid墓がある。

だから中国の土地も高句麗の土地だったという証拠だ。
写真の証拠はあるが、このサイトは写真は駄目だので、仕方ない。

Re: 満州が高句麗の土地だったのは世界認定

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/09 22:59 投稿番号: [690 / 1329]
>満州が高句麗の土地だったのは世界が認定してる。

証拠となるものを出せ。

証拠もなしに言っているようじゃ、おもいっきり嘲笑してやるぜ。

れRe: 日本のの植民地根性、主犯は米国

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/03/09 22:37 投稿番号: [688 / 1329]
>満州はオランケの土地じゃなくて韓国の高句麗の土地だった。

ほ〜〜ら出た、妄想。
古い地図見たことあるの?   ないんだよなぁ、君は。
ちょ〜せんの妄想地図を見たことは確認できた。

通商条約の恐ろしさ

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/09 22:30 投稿番号: [687 / 1329]
>1800年代末に日本は米国の軍艦に降参した。

黒船が来て、
通商条約をしかたなく結んだってことでしょ。

通商条約の件で負けたのはインド・中国。

それをオランダからの親書で詳細な情報を得て観ていた日本は
慎重に通商条約を結んだ。

西洋人は伝統的に貿易で損することは絶対許さない。

どんなことをしても、益を得ようとする。

西洋のインド征服は、インドの沿岸諸都市に西洋人がアラブに代わって、インドから何か買わせていただきたいと言って、通商条約を結んだことから始まった。インド内部の抗争を自分達の利益のために利用し、300年経って、西洋人はインドを完全に自分の植民地とした。

中国もね、二千年以上から、アヘンが痛みを和らげる薬剤で、嗜癖の危険性があることを知っていた。そんな訳で、18世紀の末まで、中国の悪用する風習は無かった。
茶貿易での格差を埋めるために、中国市場向けに英国は儒教と道教の奉納画を輸出した。それがだめだと、ポルノの画集の輸出に切り換えた。それも中国から規制され、とうとう、インドで栽培したアヘンを売るようになった。
清廉潔白な中国の役人は数日のうちに西洋人のアヘン倉庫を焼き、アヘン戦争となった。3年続いて、中国は降伏し、多額の賠償金を払い、香港を割譲した。

それを観ていた日本は通商条約を結ぶのはどうしようもないことだけど、
なんとか被害を最小限にしようと試みたのが開国だったのです。

Re: 日本のの植民地根性、主犯は米国

投稿者: kundaikun 投稿日時: 2007/03/09 22:29 投稿番号: [686 / 1329]
満州はオランケの土地じゃなくて韓国の高句麗の土地だった。
日本が芿に満州を売りこんだのだ。

もし高句麗の子孫だった加藤キヨマサが知ったら、
とても悲しかったはずだ。

れ: 日本のの植民地根性、主犯は米国

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/03/09 21:17 投稿番号: [685 / 1329]
>韓国はただ満州ばかり中国に奪われただけだ。

北朝鮮の一部をオランケから奪ったことを自慢しないの?

日本のの植民地根性、主犯は米国

投稿者: kundaikun 投稿日時: 2007/03/09 17:56 投稿番号: [684 / 1329]
1800年代末に日本は米国の軍艦に降参した。
そういうくせに李氏朝鮮について口を並べるのか。。
日本は沖縄は米国に、サハリンはロシアに奪われたくせに。。
韓国はただ満州ばかり中国に奪われただけだ。

美の壷

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/08 22:20 投稿番号: [683 / 1329]
谷啓さんがナビゲーターをつとめる美術番組

http://www.nhk.or.jp/tsubo/arc-20060526.html

>李朝家具は、柳宗悦や 白洲正子など日本を 代表する目利きたちを魅了し、今も骨董好きの垂涎(すいぜん)の的です。

>文人であったヤンバンたちの理想、 「清雅(せいが)」そして 「簡潔」という言葉にあります。

まずは「清雅」。ヤンバンは、国の官僚として、常に清らかであり、また貴族として雅であることを求められました。

>文化を支えたのは、 「ヤンバン」と呼ばれる高級官僚たちです。李朝家具の成り立ちにも、このヤンバンが 深く関わっています。


>次に「簡潔」。簡素にして、潔いという意味です。ヤンバンたちは、儒教の教えに従い華美であることを 戒めました。

Re: れ: 韓国伝統の遊戯

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/06 20:52 投稿番号: [682 / 1329]
>水原近くにある「民俗村」で、シーソーもブランコも見ました。

ありましたっけ?(行ったのが高校の時だったから忘れてる?)

でも、土産物店にブランコこぎの女性の絵の財布とかありましたね。
皇なつき「李朝・暗行記」の婚約者ミョンウル(明月)がクネ(ブランコ)の漕ぎ比べをする姿にときめくという場面の美しいイラストを思い出しました。

れ: 韓国伝統の遊戯

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/03/04 00:36 投稿番号: [681 / 1329]
>女性たちはシーソーのような物で飛び上がったり、ブランコに乗ったりして〜

水原近くにある「民俗村」で、シーソーもブランコも見ました。
シーソーでの「曲芸」には、感動させられました。マジ、凄かった。
でも、これは特殊でつね。

韓国伝統の遊戯

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/03/03 18:45 投稿番号: [680 / 1329]
李氏朝鮮時代、女性は家から出ることが許されなかった。
そこで女性たちはシーソーのような物で飛び上がったり、ブランコに乗ったりして塀の外の世界を見ようとしていた。

と聞いたことがある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伝統遊戯に興じる人たち

旧暦1月15日(小正月)を迎え京畿道坡州市の臨津閣で民俗祝祭が開かれ訪れた人たちが伝統遊戯などに興じた=3日、坡州(聯合)

http://file.yonhapnews.net/foreign/newsJP/PhotoAlbum/2007/20070303145237.jpg

(´・ω・`) 全く文化を感じられない・・・

↓これもひどい・・・
韓国伝統の餅つき(聯合ニュース)06/10/06
http://file.yonhapnews.net/foreign/newsJP/PhotoAlbum/2006/20061006154433.jpg

Re: 「八道美人図」

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/02 00:39 投稿番号: [679 / 1329]
>宮中文学?

「両文集は、王妃が実家の子孫を教育するために両親の言行を記録したものだ。」

これは文学かな〜?教育本もしくは家訓なんじゃ(・・?

>>韓国の宮中文学にまた1つ大切な作品が加わった。

加わった・・・って最近そうなったんですか?
文学ってものが少ないから、こんなのでも付け加えておこうかという印象が拭えないのですが。

>国母である前に娘であろうとする王妃の切ない思いも胸を打つ。

実家の教育本を書くのもいいけど、朝鮮国両班子女の教育本なら素晴らしかったと思うけどな。

Re: 元敬王后・閔氏

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/02 00:27 投稿番号: [678 / 1329]
>王位に就いた夫は側室をもち、12人もの側室に12男17女という多数の子供を生ませます。
さらにクーデターの際に手を貸した彼女の弟たちを死罪にして殺してしまうのです。


日本の北条政子の人生の方が勝ち組ですね(^^)v
自分以外の女は追い出すし、実家の北条家は夫の死後栄えるし。

元敬王后・閔氏

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/28 16:59 投稿番号: [677 / 1329]
KBS   WORLD   Radio
歴史の中のすごい女たち   その3. 元敬王后・閔氏
2007-02-21

歴史の中のすごい女たちをご紹介している今月、今日ご紹介する、元敬王后・閔氏(ウォンギョンワンフ・ミンシ)は、朝鮮王朝第3代の太宗(テジョン)の妃で、第4代世宗の母です。
このようにご紹介すると、夫と息子を王様にした、非常に幸せな人生だったようですが、残念ながら後半生は悲劇的でもありました。

彼女が18歳で嫁いだ2歳年下の李芳遠(イ・パンウォン)は、李成桂の5男でした。
そして彼女が嫁いでからちょうど10年目に李成桂(イ・ソンゲ)が朝鮮王朝を建国し、初代王、太祖(テジョ)になったのです。
朝鮮王朝の建国にあたり、彼女の夫の李芳遠(は大きく貢献します。
それも父の代わりにその手を血に染めて反対派を殺していきます。

朝鮮王朝建国後、太祖がその後をすんなり長男に譲っていたならば彼女も控えめな嫁のままで終わっていたかもしれません。
しかし太祖は8人の息子の中でも一番の末っ子、8男に後を継がせようとします。
8人の息子のうち、上の6男は韓氏の子   そして下の二人は康氏の子でした。
腹違いの兄弟、それも当時11歳だった子どもに王座を渡すのを指をくわえて見ているわけにはいきませんでした。

当時、李芳遠ら王子は、それぞれ家に私兵といわれる護衛兵を抱え、当然武器も備えていました。
この私兵と武器を父の太祖が解散するようにといってきた時に、彼女はそっと人目につかぬように隠すことにします。
いつか来るであろう、その日のためにです。

1392年、父の太祖が王位についてから7年目に病の床に就きます。
彼女は夫に今がそのチャンスだと説き、隠していた武器を渡し、実家の弟達とともにクーデターを起こすように勧めるのです。

李芳遠    どうした夫人、そなたが急病だというので病気で臥せっている父上の側を離れてこうして帰ってきたというのに   そなたはいたって元気そうではないか。
  
閔氏     あなたを急に呼び戻したのはこの機会を逃さないでいただきたいと思ったのです。

李芳遠     何のことだ、機会とは?

閔氏      あなたの腹違いの弟達を殺す機会です。
        事を起こすには今ほど絶好のチャンスはありません。
        ここにいる私の弟達があなたを助けますから。

李芳遠    しかし、3人だけでは・・・
       武器も先日差し出してしまい、ないではないか。

閔氏     ご心配ありません。
    武器はご覧のように、槍、刀、鉄砲、ミサイル、タンクと何でもそろっております。
    すべて私のへそくりで準備しておきました。

李芳遠   分かった、そこまで言うなら一つ派手にクーデターを起こそうぞ!!

というわけでおきたクーデターが後に第一次王子の乱と呼ばれるもので、その後もう一度、第二次王子の乱を経て芳遠は、第3代目の王、太宗となります。

ここまでは夫の尻を叩き王座につけるのに大活躍した彼女でしたが、ここからの人生、夫に裏切られることになります。
王位に就いた夫は側室をもち、12人もの側室に12男17女という多数の子供を生ませます。
さらにクーデターの際に手を貸した彼女の弟たちを死罪にして殺してしまうのです。
http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_rainhistory_detail.htm?No=198

Re: チェオク

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/02/25 22:32 投稿番号: [676 / 1329]
ホンキーさんのお話は、いつも面白いですね。
今日は、書棚でこんなのを見つけました。

−二番機−
松山三四三空、三〇一飛行隊、菅野隊長の二番機杉田上飛曹は海軍切っての撃墜王で、この時までに累計一二○余機を、単独及び協同で撃墜していた。
三〇一飛行隊の初陣。
菅野隊長が一機を撃墜した。杉田上飛曹は二機撃墜した。菅野大尉は次の敵機を攻撃中に後方の敵機から射撃を受けて、搭乗機が火災となったので落下傘降下で脱出した。

−狙撃手−
『   橋爪班長は杉田の弾痕を調べて、
「点数が高けりゃいいってものじゃないぞ」
と云った。
「兵隊の射撃はな、競技会用じゃない。十点の部分は文句ないが、九点のを見ろ。弾痕が離れている。十点の上を射っても九点、下を射っても九点、同じ九点だが、この二発は零点に近い。弾が五発とも円内に入らなくてもいい。標的の隅っこでもいい。五発全部まとまって中っている零点の方が、バラバラの九点五発の四十五点よりずっといい。わかるか」
  杉田は実戦向きの射撃が分かったような気がした。端の方でもまとまって入っているのは、偏差を修正すれば正確な命中弾になるわけである。
  帰路、橋爪伍長が杉田の横に来て云った。
「お前、明日から狙撃手訓練をする。」
  狙撃手の任務は、敵の指揮官と有力な火点(たとえば機関銃)を狙撃することである。
  訓練が要求する射撃精度はきびしかった。初歩的には、射程三百の伏的(伏せた人間の頭と両肩を形どった的)に、射弾五発全弾命中は勿論のこと、そのうち少なくとも三発は握り拳大の面積のなかに集中していなければならない。それができるようになると、今度は限秒射撃である。はじめは限秒四秒で、三百メートル彼方のどこに出るかわからない的を射つ。つぎは限秒二秒になる。それが達せられると、防毒面を装面して三十メートル疾走、それから限秒射撃に入る。』

トピずれです。

Re: チェオク

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/02/25 03:34 投稿番号: [675 / 1329]
>隊長機を守るために、二番機には腕利きのパイロットを置くと読んだことがありますが、隊全体の失敗ですね。

これは、ワタシが瑞鶴飛行隊長納富大尉の事をうっすら記憶しているからなんですが(その部分を書いた本がどれだったか思い出せません)、ラバウルの陸上から出撃して、敵艦隊攻撃でしたから、対空砲火にやられたのかも知れませんし、あるいは、敵の上空直衛戦闘機にやられたのかも知れません。
後者だとしたら、高空で待ち構えていたグラマンかシコルスキーに急降下で一撃離脱されたのかも知れず、それであっという間にやられたという例は、よく本で目にしますね。

>陸軍の場合、戦闘帽を被って、士官用ブーツでない場合、(今、写真で確認した限り)、最前線の下級将校は下士官・兵と同様の短靴にゲートル姿がほとんどで、遠目にはそんなに士官と下士官・兵の区別がつかないですね。

そうですね。
また、長靴(ブーツ)が蒸れるとか、または「もったいない」と思ったか、それとも履き潰したブーツの補給がままならず、ゲートルで済ませたなんていうのもあるでしょうね。
確かに、将官でもゲートルという写真は、見たことがあります。

>軍服の品質は、随分と違ったようですが。(笑)

いつからかは分かりませんが、陸軍は下士官・兵が木綿、士官が純毛でしたね。日露戦争の頃などは、下士官・兵も立派なラシャのようですが。
第二次大戦でも、ドイツ軍は、兵卒でもずいぶんと質の良い軍服だったので、連合軍が驚いたなんていう話も聞いた事があります。
日本海軍は、冬の一種軍装(紺)が下士官・兵士も士官も純毛、夏の二種軍装(白)が麻、三種軍装(緑)が下士官・兵が木綿、士官は純毛から麻から木綿から、色々だったそうです。

>これまた南京の航空軍本部にいたGさんに聞いたところでは、終戦直後、中国の国民党軍に協力させるため、専門職の日本軍将校を捜していたらしく、下級将校連中は将校用制服とかは私物入れに隠し、下士官・兵の軍服に着替えて、とぼけた顔をしていたそうです。

台湾でも、国民党軍が、かなりの高給を条件に、日本軍の将兵の再雇用をかけていたみたいですね。
台湾の第205海軍航空隊の飛行長だった故・鈴木實中佐は、終戦直後、かなりの高給で雇うと、日本への留学経験のある国民党軍将校からしつこくアタックされ、進駐していた米軍将校を仲介して、なんとか振り切って日本へ引き揚げてきたと言っています。
余談ながら、鈴木中佐、戦後はまるで畑の違うレコード業界に入り、キングレコード社でレイ・チャールズやカーペンターズと契約して、会社の洋楽部門の黄金時代を作ったとの事です。
この鈴木中佐が、ポートダーウィン上空で、豪州空軍のスピットファイヤ相手に、ほぼ一方的な勝利を収めた零戦隊指揮官でした。

そう言えば、ワシのオジキも「台湾空軍」から声がかかったとかって話です。それを、母親(ワシのバアサン)が泣いて引きとめ、実現しなかったとか。
だとすると、国民党軍側では、日本軍将兵の名簿を、ほぼ完全に集めていたのではないかと思えます。(米軍も同様だった。)

以上、トピズレですた☆☆
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)