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>韓国の掲示板からかな?

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/07 16:05 投稿番号: [1634 / 7270]
>これを知った<丶`∀´>たちの反応

女房にうそをつくなら、自分が死んでもバレないか、もしくは女房が死ぬまでうそが突き通せる覚悟があれば、うそをついてもいいと自分では決めています。

で、いままでにうそをついたことがあるかといえば、それは秘密です(笑

私としては本当にことを言うより、うそをつくほうが労力といいますか、コストがかかる気がしてます。


当時の事情は色々とあったことはある程度承知していますが、なかなかいえなかったんでしょうかね。せめて、ソウルオリンピック開催のあたりで言えれば、よかったのかなぁ・・・

オリンピックが開催できるんだから、少なくてもひどい貧しさと決別できたはずですからね・・・

まあ、それでも少し遅きに失した感はあるりますが、遅くなればなるほど自我の崩壊に拍車がかかることを考えれば、よしとするしかないでしょうか。

それにしても、KBSの報道も簡単に信じるなと日本人側がアドバイスしているのが、なんとも妙な感じですね。

ま、さすが朝日や道新に鍛えられいるだけのことはありますね。妙に感心してしまいました(苦笑


>「脱東亜入(太平)洋」でございますです。

山田く〜ん、座布団もってっておくれ、じゃなくて、三枚持ってきて(笑

冗談はともかく、特に台湾とは友誼を深めていくべきでしょうね。もちろん他のシーレーン上の国も大事ですが、歴史的、距離的な重要さを考えたらねぇ・・・

>「論語よみの、論語知らず」←これ、いつ頃の時代の何処の諺なんでしょうね

知りません。

どういうわけか学術文庫の諸橋轍次先生の「中国古典名言集」なんてのが本棚にあるのですが、これがお値段1300円。この前本屋で見てきたら2000円になっていましたから、発行年月日を見てみると・・・

1992年になっとります。12年も前に買っといていまだ全部は読んではおりません。

ですから、論語も読んでない論語知らずなんですが・・・(少しは読んだけど

>>孔子は神様なれなかったのか・・・

このテーマは今しばらく考えてみたいと思っておりますです。ハイ。

韓国の掲示板からかな?

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/07 02:34 投稿番号: [1633 / 7270]
  他カテでリンクがあったのですが

  ↓「〜自我が崩壊の危機」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=SP&action=m&board=1834688&tid=4z9qa4dba4aa44a4ma47&sid=1834688&mid=893

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  これを知った<丶`∀´>たちの反応

http://aibonware.com/thread?b=8&id=879412

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  ↓リンク先トップの全文です「これが事実なら」
http://aibonware.com/thread?b=8&id=879412&c=1&s=0&e=0

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これが事実なら....... 韓 spiritcorea 08/13 04:31 [289]
その間知られなかった限り・イルヒョブゾング関連文書が来る 15日午後 8時放送される KBS ドキュメンタリー ‘日曜スペシャル’を通じて最初に公開される. KBS 製作陣は 2000年アメリカで渡されて国史編纂委員会から保管して来たアメリカ国務省及び中央情報局(CIA) 秘密文書と, 日本東京大学東洋学縁旧ソが保管して来た 1960年代限り・一回談議事録を放送に先立って 12日公開した. この文書によると日本政府は韓国の戦争被害者に個別的に償うと申し入れたが, 韓国政府がむしろ直接出て一括処理すると阻んだことで現われた.
限り・イルヒョブゾング過程でアメリカが協定妥結を慫慂して支援金金額調整に関与するなど主導的役目を担当したという事実も明かされた. 限り・一回談議事録によれば日本側は韓国に “被害者実態調査後個別補償をする”と言う提議をしたが韓国政府は “政府次元で一括支払ってもらって国内で分かって措置する”と主張したことで明かされた. しかし韓国政府は日本から経済協力支援禁鳥で受けた 3億ドルの資金の中で 95億ウォンのみを実際被害者に配って残りは他の用途で使ったという製作陣の説明だ.
KBS ‘日曜スペシャル’は “アメリカが限り・イルヒョブゾング締結過程に露骨的に介入して支援金金額調整に決定的な役目をした”と言う事実も初めて公開する. 米国務省が韓・日両国の米大使館に行かせた秘密文件によれば, アメリカは交渉妥結を慫慂したし支援金金額を 3億ドル(当時 1億7百60億ウォン)で 3億5千万ドルの間で提示するなど交渉に深く介入したことで現われた. また一緒に公開された CIA 特別報告書によると日本の 6個会社が 4年間にわたって 6千6百万ドル以上を民主共和党の政治資金で提供したことに把握された. 一方 KBS ‘日曜スペシャル’ 製作チームは “韓・日交渉でお金をもらったりアメリカが介入したという話はありえない事で捏造された話”というキム・ジョンピル前自民連総裁の反駁主張も一緒に放送する.

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>15日午後 8時放送される KBS ドキュメンタリー

  掲示板は最終13日7時台です。番組放送後の反応はどんなものだったか?

  この頃はNHKBSもオリンピック放送の編成だったのでKBSのニュースもやってなかったか・・な?
  (そういえば、97年のアジア通貨危機の時も長野五輪でアジアニュースは全滅してたっけ・・)


  >背骨が大陸からの圧力で曲がって

   あちらにかかずらわっての「ギックリ腰」はもう御免・・


  >樺太、日本列島、沖縄、台湾・・・

   まさに見事なシーレーン。


   加えて、タイ、ベトナム、インドネシア、マレーシア、
   オーストラリア、ニュージーランド、ミクロネシア・・・

   「脱東亜入(太平)洋」でございますです。


>思うに、なんでキリストは神様になれて〜

  カテずれですが。

  イエスさんがお釈迦さんのような穏やかな死に方だったら、
  もう少し穏やかな(その後の宗教戦争の苛烈さとか・・)世界になったんじゃないかと
  その昔、親父が何度か言っておりました。

>孔子は神様なれなかったのか・・・

  ただの、思いつきですが、

  「教義」(経典かな)が科挙で「試験問題」の「暗記物」になったから・・・とか?
  「論語よみの、論語知らず」←これ、いつ頃の時代の何処の諺なんでしょうね(笑・・・えない)

>嫌かもしれないけれど、付き合わなければならない

  話があちこち飛び\xA4

2001年7月 朝鮮日報過去記事リスト

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/06 15:54 投稿番号: [1632 / 7270]
2001年7月   朝鮮日報過去記事リスト
http://the.data-room.info/0900/0100/8101/3101/200107.htm

朝鮮日報過去記事リスト   一覧
http://the.data-room.info/0900/0100/8101/3101/

>ショボーン

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/05 21:26 投稿番号: [1631 / 7270]
>「大陸」の[中華」だからかなぁ。ショボーン

一つ試して見て下さい。世界地図を広げて・・・普通に見ると・・・

アジア大陸に押しつぶされそうな日本列島・・・

可愛そうに、背骨が大陸からの圧力で曲がってしまった・・・

視覚的な効果でしょうか・・・

上から下へ、左から右へ・・・

自然に物の動きを人間の頭はそう予想してイメージするそうです。

日本列島からみる大陸。まさに地図の通り、上からの圧力の塊として見えます。


でも、ちょっと地図を180度ひっくり返して見ると・・・

アレー???

大陸に覆いかぶさる日本列島・・・

樺太、日本列島、沖縄、台湾・・・

まさに見事なシーレーン。

中国が大洋国家になれない訳は、ああ、なんて邪魔な日本列島。

文化宗主国の面子のみならず、アジア的朝貢システムとか、白人の植民地支配まで壊してしまった生意気な似たような顔色の人間が住まう列島・・・

日本列島に住まう似たような顔色の人たちも、矜持を保って生存するためには、好むと好まざると関わらず、色々と蹴散らしていかなければならぬ時代もありました・・・

あれからどれほどたったのか・・・指折数えて、幾星霜・・・

今も大陸に住まう人たちがそれほど変わったとは思えず・・・

いずれ光は見えるのか、そととも厭きもせずやがては自らの闇に没していくのか・・・

>なんでまた繰返すんだか・・

それが解れば苦労はしないと知りつつも、ついつい愚痴のひとつやふたつ・・・

思うに、なんでキリストは神様になれて、五百年も前に生まれた孔子は神様なれなかったのか・・・

何故だか考えると頭が痛くなってくるけれど・・・

それでもようやく考えた挙句、お互いに嫌かもしれないけれど、付き合わなければならないことだけは解ってきたようで・・・ショボーン

>〜腐敗が蔓延 (亀レスです)

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/05 02:05 投稿番号: [1630 / 7270]
>次のオリンピックまでもつんでしょうか.

  「〜中国人民が一年間に作り出した財の三分の一がレントシーキングの対象となり、
   賄賂を受ける官僚の収入になる計算である。〜」

  素人なんでよく判りませんけれども、
  いつ崩れてもおかしくない状況に思えてしょうがないんですが・・・

  独立して、文化大革命とかがあって、4人組のなんとかがかんとかで、
  経済開放があって、天安門事件があって・・
  また、「文革」並の大事(おおごと)が起こるころなんでしょうか。

  となりの「巨大時限爆弾」、どうにかならんもんかなぁ・・・やっぱ「東は凶」だぁ。

  大陸も半島も、役人官僚の腐敗で国を滅ぼしたってのを、何度も経験しているはずなのに
  なんでまた繰返すんだか・・「大陸」の[中華」だからかなぁ。ショボーン

毎日新聞 IAEAを攻撃

投稿者: japansenkakutakesima 投稿日時: 2004/09/03 21:38 投稿番号: [1629 / 7270]
IAEA:
韓国の未申告問題   総会で討議される可能性も
  【ウィーン会川晴之】韓国がウラン濃縮実験を秘密裏に実施したことについて国際原子力機関(IAEA)関係者は核不拡散を定めた保障措置協定違反との見方を強めている。微量とはいえ高濃縮ウランの抽出実験を行うことができる施設はIAEAに事前申告が必要で、実験もIAEAの承諾が必要との認識があるためだ。IAEAは13日から開く定例理事会の冒頭にエルバラダイ事務局長が同問題を報告するが、理事会や20日から始まる総会で討議される可能性も出ている。

  韓国側は、実験は今年2月に批准した追加議定書で義務付けられた冒頭報告を作成する過程で判明したものと説明している。しかしIAEA関係者は、追加議定書を批准する以前の段階である保障措置協定の段階でも「報告義務がある」との認識を示している。

  韓国の疑惑が表面化したことに「時期があまりにも悪すぎる」(西側外交筋)との指摘も多い。IAEAは13日からの理事会でイランの核疑惑問題を中心に協議する予定だが、「平和利用」を強調するイランに理解を示す非同盟諸国側が韓国問題を引き合いに出して論議が紛糾する可能性が出てきたからだ。

  IAEAの決議を無視する形でイランがウラン濃縮施設の組み立てを再開する中、米国は「イランは核兵器開発を目指している」と主張、国連安保理への付託を強く求めている。しかし、「核兵器開発を目指したものではない」との韓国側の説明は、イランの「平和利用が目的」との主張と重なるため、イランへの風当たりを和らげるため韓国問題を引き合いに出す動きも想定される。

  IAEAは「すべての施設の査察が終了しない段階では、軍事転用の疑いがある」との性悪説を前提とした組織。日本が「軍事転用の疑いがない」とのお墨付きを得たのは、追加議定書批准から4年以上経過した今年6月だったことを見ても、最終結論が出るには時間がかかりそうだ。

毎日新聞   2004年9月3日   21時00分
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/afro-ocea/news/20040904k0000m030076000c.html

韓国を追求するIAEAに韓国を弁護したい毎日新聞が逆切れ

【IAEAは「すべての施設の査察が終了しない段階では、軍事転用の疑いがある」との性悪説を前提とした組織。】

そもそも査察というのは疑ってかからなければ出来ないこと
IAEAを性悪説と呼ぶのは毎日新聞が韓国を性善説で報じるのと同じくらい愚かなこと

韓国の核兵器製造疑惑

投稿者: kou_taku_minn 投稿日時: 2004/09/03 21:32 投稿番号: [1628 / 7270]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040903-00000003-yom-int

韓国は原爆をどこへ落とすのか?

安倍訪韓 これが政治家らしい外交

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/03 15:12 投稿番号: [1627 / 7270]
【主張】安倍訪韓   これが政治家らしい外交

  自民党の安倍晋三幹事長は韓国の盧武鉉大統領との会談で、歴史問題などで韓国政府と異なる自民党の考えをはっきり伝えた。日本の政治家として当然の対応である。

  この会談には、与党訪韓団として同行した公明党の冬柴鉄三幹事長も同席した。盧大統領が、「両国民の感情を左右する最大のものは相手が平和を守る勢力かどうかだ」と歴史問題への懸念を表明したのに対し、安倍氏は、「日本が平和を守る勢力かどうかは日本の戦後史をみれば分かる」と反論した。

  また、冬柴氏が「次の臨時国会で永住外国人の地方参政権付与法案を提出する」と述べ、これに盧大統領は感謝の笑みを浮かべたが、安倍氏は同調せず、「参政権付与は自民党では憲法違反との考え方が多数だ」と話した。同じ与党でも、自民党と公明党でこれだけの違いがあることを、韓国側ははっきり認識したのではないか。

  安倍氏は野党・ハンナラ党の朴槿恵代表との会談でも、朴氏が扶桑社の教科書を東京都が採択したことを「憂慮している」と述べたのに対し、「扶桑社の教科書は問題があるように誇大に宣伝されているが、検定を経て穏当なものになっている」と反論した。日本の検定制度を説明し、韓国でのいわれなき批判を暗に戒めた発言である。

  日本の政治家や閣僚が中国や韓国を訪問する場合、歴史問題や靖国問題などで相手の言い分にただ同調するケースが多い。聞くことは必要だが、たとえ相手に耳の痛い言葉であっても、日本の立場をはっきり主張することが、もっと大事である。同じことは日本の外交官にも言える。

  盧大統領は昨年六月の小泉純一郎首相との日韓首脳会談で、過去の問題に触れず、未来に向けたパートナーシップを強調した。今年七月、済州島で行われた首脳会談でも、盧大統領は「私の任期内には(歴史問題や靖国問題を)公式的に争点として提起しない」と重ねて強調した。韓国政府はこの約束を忘れたのだろうか。

  韓国は、拉致事件や安全保障などの問題で日本と協力していかねばならない重要な隣国である。しかし、竹島問題など主張が対立する問題では、日本の立場を明確に相手に伝えることが真のパートナーシップである。

産経新聞 2004.09.03

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

あいまいなことを言うより、いうべきことをちゃんと言った方がいい。相手もむしろその方が方針を立てやすくなると思う。

それにしても、公明党はなんだろうか。自民党は一日も早く「公明依存症」から抜け出さないと、大変なことになると思う。

むしろ公明党と組むことにより、健全な保守層が離反してしまい、かえって票が集まらないという指摘もあるくらいだから、よく考えて欲しいですね。

それにしても、

>盧大統領は「私の任期内には(歴史問題や靖国問題を)公式的に争点として提起しない」と重ねて強調した。韓国政府はこの約束を忘れたのだろうか。

こんなことは、毎度おなじみのことだと素直に思っている自分が少し怖いです(苦笑

昭和20年〜現代

投稿者: dylake2r5j1 投稿日時: 2004/09/03 10:59 投稿番号: [1626 / 7270]
現代においても

20〜40代の高学歴者たちが韓国を離れていく
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=040000&biid=2004083124608

海外で不法滞在中の韓国人35万人

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/09/03/20040903000002.html

こういった傾向があるわけですから、当時は尚更でしょうね。
より豊かな生活を求めて日本を目指す人が、当時の朝鮮に大勢いたのは当然でしょう。

色々あってあたりまえですか・・・

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/03 08:48 投稿番号: [1625 / 7270]
小泉さんじゃないけど、「〜も色々」ですね。

まあ、住んでいる場所や、生い立ち、その他もろもろの環境の違いで、個人の意識はそれぞれ違っているし、差が有ってあたりまえですが・・・

まあ、頻繁に「戦争」を意識しなければならない環境とそうでない環境の違いが、当然、切迫感に対する違いを作る・・・

まあ、当然といえば、当然のことを改めて気がついたということですね。言ってみりゃうコロンブスの卵って奴ですか(違うかな・・・苦笑

ただ、昔のことを考えるにしても、漫然としているとごくごくあたりまえのことが解らない場合があるんですね。

例えば、記事なるように事件はある意味日常とかけ離れた特異なことですよね。それは記事になるからあとで今の時代の人間がそれを読んで知ることができる。

でも、当時の常識的なことなんてのは案外記事になっていないから、気がつかないこと多いんじゃないでしょうかね。

まあ、過去を知るという事は、過去の常識を知ることでもあるわけで、事件や特異なことばかり追っかけていては、時代の本質にたどり着けないのかなぁ〜、なんて思いましたね。

そういう意味では「切迫感」というキーワードはいい視点を提供してくました。(謝謝

>そうなんですか、なんぞの時(そんなの御免ですが)の参考によく憶えておきます。

身を隠す場所が近くにない場合ですが。ようするに、相手を背にして逃げてしまうと射手は相手の動きが予想しやすくなるわけですし、相対速度も遅くなってより狙いやすくなる。

肝心なことは、相手に逃げる先を予測させないことなんですよね。だから、背を向けて逃げるより、単純に飛行機に向っていった方が、相対速度も早くなり、動きが予想しづらくなるらしい・・・あくまでも、らしいですから、責任は負いかねますが(苦笑

>数年前かもう少し前に新聞で読んでびっくりしたです。

道新あたりですか(笑

まあ、冗談はさておき心にブックマークしておきまして、見つかったら報告します。

>昭和20年の朝鮮半島って

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/03 08:25 投稿番号: [1624 / 7270]
>情報を交換していました。

あ〜、このあたりは身につまされると言おうか、でも、色々と理不尽なことはあったかと思いますが、情報交換とかして、少しでも自分の生活を良くしようとしていたなら、それなりに人生前向きに考えていたとも言えますね。


>高収入目当ての朝鮮人も本土を目指しました。

で、これが本音でしょう。それでこれが出来たのだから、「日帝の七奪」なんていわれるとかなり違和感を感じます。

>そのときに衝撃を受けたのは米軍による空襲と、戦争に疲れ果てた日本人の姿だそうです。朝鮮にいるときには戦争を身近には感じていなかったのです。

考えてみれば、大陸は満州、太平洋は日本列島と、防火壁に囲まれいたわけで、すこぶる安全な位置にいたとも言えますね。まあ、戦争に対する切迫感がないのは、ある意味当然とも言えるかもしれません。

>ちなみに本土が焦土と化しているとき、在支日本人の中にも緊迫感のない者が多くいました。祖母は大原近郊に住んでいましたが、敗戦まで全く平和で軍人たちの仕事は伎楼にあがることといっても過言でないほどだったそうです。

このあたりの話は興味がつきませんね。いいとか、わるいとかは少し置いといて、妙なフィルターかけずに少しずつでもいいから、調べてみたいですね。

それにしても、

>仕事は伎楼にあがること

とは、さすがにイタイ話ですね(苦笑

>〜矛を収めた

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/03 02:55 投稿番号: [1623 / 7270]
>「本職」が比較的早く矛を収めたのに対して(特に後者はものの見方が比較的に冷静だった)

  「次に備えて」どうするかの感覚があったということでしょうか。

  「帰ろう。帰ればまた戻ってこられる」でしたっけ?(「キスカ」)

 え〜と、え〜と・・・

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/03 02:41 投稿番号: [1622 / 7270]
  うまくまとまらない・・・(´・ω・`)

  話がずれてしますかもしれませんが、御容赦下さい。

>例えば、この当時なら近親や知り合いが召集されたとか戦死したなんて話もあちこちにあったはずですよね。

  国民の三大義務は「納税・選挙(投票だったかな)・徴兵」とあったと記憶してます。
  で、明治政府以降最初の「負け戦」がこの前の戦争な訳で・・・、
  「今回の戦は(今までと)違う」と実感として人々が思い始めた時期に、
  地域差(町と村とかで)があったんじゃなかろうか〜
  いえね、ただ「どうだったんだろうなぁ」と思っただけなんですけど、

 
  学業なかばで出征して行く知人が大勢いた中高等教育を受けられる環境に近かった人にとってと
  中学進学が少数派の環境にいる人にとっての召集では受け止め方が違っていたと思います。

  戦前か戦中の兵隊からの聞書きを集めた中の(TVの高校講座でちらっと聞いただけですが)
  「軍隊ほど良い所はありません。三度、三度飯食わせてもらえて、
   夜になったら寝かせてもらって、朝は明るくなるまで寝させてもらえる〜」
  ここだけやけに印象に残っています。メディアでは「軍隊はひどい所」ってイメージが強かった気がしてたもので。

  昔のどこか(東北かな?)農山村での生活の厳しさと軍隊生活のどちらが大変だったか・・
  で、軍隊で給料も出て勉強もさせてもらえて(経理とか、資格もとれたとか・・今の自衛隊みたいだ)
  あ!「のらくろ」読むとわかりそうだ。タガワスイホウでしたっけ?手に入るんだろうかな?

  どうも、脈絡のない文で、すみません。
 
  えーと、それでですね。明治以来、内実はともあれ「勝ち戦」が続いていたわけですから、
  「出世のチャンス」って感覚もあったんじゃないでしょうか「秀吉」とか「武蔵」とか(ちょっと違うかな?)   
 
>でね、食糧事情は大きいですね。

  生活の「変わり方の度合」って大きいと思います。
カフェやダンスホールがあって、握りがいつでも食えてたのに、街ゆく女性は「もんぺ」姿、
その上「雑炊〜」に「行列」となったら、「違う戦」の切迫感は、目にも腹にもひしひしひし・・

  で、はじめからカフェも握りも縁がない地域はそういう切迫感はないですし、
都会からの「買出し」のお陰で逆に以前より経済的に良くなった地域とか・・・

>そういえば、飛行機から地上に対して機銃掃射をしてきたら、飛行機に向って逃げろと教えられた・・・

  そうなんですか、なんぞの時(そんなの御免ですが)の参考によく憶えておきます。
 
  半島じゃありませんが、軍事教練も学校によって色々だったようです。

  教官曰く「おまえたちは、死んではならん!」で、弾にあたらない前進の訓練やってた(東京市内)と聞きました。

>これ岩波の年表に出てないですね

  数年前かもう少し前に新聞で読んでびっくりしたです。
逮捕された実行犯二人の内の一人が裁判所かどこかへ護送中に逃走して捕まらなかった事から、
裁判所の審理かなんかの「手続き」が捕まるまで「延期」になり、
そのままずっと「引継事項」だったのを「打切り」にしたとの小さい記事でした。
  理由は、逃走者の年齢からもう見つからないとの判断から打切ったというものでした。
  裁判所の手続って几帳面だなぁ(司法の大本が大雑把じゃ困るけど・・)

  大臣も犯人も名前が載ってたんですが、忘却の彼方でございます(苦笑)

引き上げ

投稿者: nishina3777 投稿日時: 2004/09/02 22:57 投稿番号: [1621 / 7270]
  戦後も日本軍が治安を維持していたみたいだし、当地の中国人も親日的だったみたいで、帰国時に全財産を置いてこなくてはならなかったこと以外は別にそれほどひどくはなかったようです。引き上げといってもかなり地域差があるみたいで、蒋介石が懸命に日本人の「戦争犯罪」を賞金付きで募集しても全く応じる中国人がいなかった河南地区のようなのもあります。引き上げ者の悲劇はソ連の入った満州が特に酷かったです。
  ちなみに支那浪人の祖父は昭和16年には日本の敗戦を予想していたようです。17年に結核で亡くなりましたが。

>昭和20年の朝鮮半島って

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/02 22:02 投稿番号: [1620 / 7270]
>ちなみに本土が焦土と化しているとき、在支日本人の中にも緊迫感のない者が多くいました。

引き上げで辛酸を嘗めることになるとは,予想だに
されてなかったでしょうね.

貴重なお話を有難うございました.

>>>昭和19年の朝鮮半島って

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/02 21:59 投稿番号: [1619 / 7270]
>19年(もしかしたら20年に入ってたかも)の時点でも本州より物資が豊富との理由で
>   樺太に移る家族が連絡船の待合室にいたって話がありまして、ただ、「聞いてた」だけなんで、資料が・・・

そういえば,新千歳空港で樺太写真展をやっていました.サハリン
就航3周年なんだそうです.王子製紙の工場を中心に瓦屋根(甍の波)
が並んでいて,綺麗な町並みでした.

昭和20年の朝鮮半島って

投稿者: nishina3777 投稿日時: 2004/09/02 21:55 投稿番号: [1618 / 7270]
  本土と比べればかなり平和であったようです。
  朝鮮人の間では、朝鮮と違い多くの公私立学校があり、朝鮮人でも入学が容易でうまくすれば奨学金ももらえることが出来るということで本土「留学」を目指すことが多かったようです。
  また現在の中国人留学生と一緒で本土は求人にあふれているのでお給金も良くて、お金が無くても働きながら学校に通うことが出来るというのも魅力だったようです。もちろん高収入目当ての朝鮮人も本土を目指しました。
  また将来の就職を考えても、朝鮮の学校を出るよりも本土の学校を卒業した方が有利との考えも普及していたようで、朝鮮人間ではどこどこの学校だと朝鮮人でも入学できて飛行士になれるらしいとか、どこどこの学校では教員免許をとれるらしいとか情報を交換していました。
  今度ドラマになる陳昌弦の「海峡を越えたバイオリン」によれば、日本人の恩師を尊敬していた彼は教員になることを目指し(父は警察署長になって欲しかった)、お金が無くても学校に通え、教員免許が取れると言う事で、昭和20年に博多に渡って仕事をしていた腹違いの兄を頼って渡日しました。
  そのときに衝撃を受けたのは米軍による空襲と、戦争に疲れ果てた日本人の姿だそうです。朝鮮にいるときには戦争を身近には感じていなかったのです。

  ちなみに本土が焦土と化しているとき、在支日本人の中にも緊迫感のない者が多くいました。祖母は大原近郊に住んでいましたが、敗戦まで全く平和で軍人たちの仕事は伎楼にあがることといっても過言でないほどだったそうです。

なぜ中国で腐敗が蔓延するのか

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/02 21:48 投稿番号: [1617 / 7270]
兔亀さんに紹介頂いた中国関連論文のサイトですが,面白いですね.
まとめて携帯端末に移しといて,暫く出張のお供になりそうです.

で,今日は表記記事を読んでいたのですが,余りの凄まじさに言葉
を失いました.

------------------------------------ -
レント価値の計算は、レントシーキング研究の一つの重要な内容である。アメ
リカのスタンフォード大学教授、 IMF の筆頭副専務理事である A ・クルーガー
は、1974 年に「レントシーキング社会の政治経済学」という有名な論文を発
表した。そのなかで、彼女は、世界で最も腐敗が深刻だと思われた二つの国―
インドとトルコ―のレント総額をそれぞれ GDP の 7.3% と 15% と推計した。
それ以降、この比率が国の腐敗の度合いを表す一つの指標と見なされるように
なった。

クルーガーの方法に基づいて、中国の経済学者胡和立と万安培は、中国の年別
のレント総額を計算した。その結果は、トルコとインドより高く、実に驚くも
のであった。彼らの計算によると、中国のレント総額の対 GDP 比は、 1987 年
が 20 %、1988 年が 30 %、1992 年が 32.3 %であった。つまり、中国人
民が一年間に作り出した財の三分の一がレントシーキングの対象となり、賄
賂を受ける官僚の収入になる計算である。これさえ理解できれば、 1990 年代
初め、中国から毎年、海外へ流出した資金が何百億ドルにも上ったか、それほ
ど高級ではない官僚でさえもが、海外で豪邸を購入し、自分の家族を移住させ
ることが可能になった理由は、簡単に理解できる。
------------------------------------ -
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/030714kaikaku.htm

GNP の3割が,不労汚職犯罪者に掠め取られる国.

次のオリンピックまでもつんでしょうか.

>>>昭和19年の朝鮮半島って

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/02 16:36 投稿番号: [1616 / 7270]
>この「開き」についてなんですが、戦時下の「切迫感」の違いという見方はどうでしょう?

これはあるでょうね。解りやすく比較すると、朝鮮に住む日本人と、内地に住む朝鮮人の一般的な切迫感を比べたら、内地に住む朝鮮人の方が切迫感は持っていたかもしれないですよね。

例えば、この当時なら近親や知り合いが召集されたとか戦死したなんて話もあちこちにあったはずですよね。で、戦争に行っている人間が身近にいない環境と比べたら、切迫感が違うのは当然でしょうね。

確かに戦闘自体は遠くで行われていたから、内地にいても空襲が頻繁になるまではかなりのんびりしていたかもしれませんが、それでも半島よりは切迫した感じが強かった気がします。

そういえば、飛行機から地上に対して機銃掃射をしてきたら、飛行機に向って逃げろと教えられた・・・なんて話を聞きました。半島ではどうだったんでしょうか。

>小樽の街ではまだ寿司屋で握りが食べられた。

でね、食糧事情は大きいですね。私なんかは特に影響されそうですね。

>大戦末期の昭和20年、大臣に切りかかった朝鮮系「憂国の士」がいたくらいには同化してたのではないでしょうか。

これ岩波の年表に出てないですね。通州事件なんかをとぼけとスルーしている年表だからかなぁ(苦笑

その違いとは

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2004/09/02 09:10 投稿番号: [1615 / 7270]
>大戦末期の昭和20年、大臣に切りかかった朝鮮系「憂国の士」がいたくらいには同化してたのではないでしょうか。

なるほど。
加えて、「これだけ腹を括って日々邁進してきたのに、今更講話=チャラとは、一体何事か?」という憤りだったかも知れないと思いました。


これは、(私が本でよく目にする光景では)例えば航空部隊で海兵卒や、予科連出身の「本職」が比較的早く矛を収めたのに対して(特に後者はものの見方が比較的に冷静だった)、学徒出身者が反乱を起こしたりとか。
学徒出身者にしてみれば、前述の大臣を襲った朝鮮人「国士」同様、「こっちは決死の思いで、それも私心を捨ててかかったんだ。今更『やっぱりダメでした。戦争やめます』で済むか!」という憤りではなかったかなと、思った次第です。

>>昭和19年の朝鮮半島って

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/02 02:01 投稿番号: [1614 / 7270]
>>昭和19年の日本国民の思考とは思えません.

>当時でも、皇民としての意識や民度などは内地とまだまだ開きがあったように思います。

  この「開き」についてなんですが、戦時下の「切迫感」の違いという見方はどうでしょう?

  19年(もしかしたら20年に入ってたかも)の時点でも本州より物資が豊富との理由で
  樺太に移る家族が連絡船の待合室にいたって話がありまして、ただ、「聞いてた」だけなんで、資料が・・・

  で、19年の小樽の様子にこんなのがあるのですが。

http://home.g03.itscom.net/nvillage/frm-otarujigokuzaka-no-mokuji.htm#小樽地獄坂
http://home.g03.itscom.net/nvillage/jigokuzaka-no-mokukji.htm

  ↓「第一巻」

______________________________________

すでに東京の食糧事情は極度に悪くなっており、雑炊食堂に

行列をするというのに、小樽の街ではまだ寿司屋で握りが食べ

られた。樺太航路もある港には船があふれ、荷役の者や軍人等で

活気に溢れ、見るもの聞くもの、東京から来た私にとって新鮮で

あり、希望に満ちた毎日であった。

______________________________________
 
  「雑炊食堂に行列」の日常と「にぎり」の食える日常。
  やっぱ食い物で「非常時」実感するのってリアルだなぁ。
  (札幌は小樽より食料事情は悪かったけれど、食う物はあったそうです)
 

>中には同化しつつあったのもそれなりにいた・・・

  大戦末期の昭和20年、大臣に切りかかった朝鮮系「憂国の士」がいたくらいには同化してたのではないでしょうか。
  (講和推進派大臣の暗殺未遂事件があったそうなんですが、肝心の大臣の名前忘れちまって・・・ショボン)

>すばやい

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/01 18:32 投稿番号: [1613 / 7270]
ここだけの話ですが、実はこのすばやさがリニューアルの隠れた目玉なんです・・・
なんちゃつて。なんでも早けりゃいいってもんでもないですが(苦笑

>はっきり言えば,あんた嘘ついてない? という疑惑を
感じてるわけですが.

で、今一章の半分を読んだんですが、これって被害者の証言だけで裁判起こしたんですかね・・・

まあ、信憑性うんぬんは今の段階ではなとも言えませんが、それほど明確に自信があるならば、加害者を特定して何人かは引っ張り出すこともできるんじゃないのかなぁ・・・

おっと、まだ中途半端にしか読んでないであれやこれや言っても始まりませんね。

では、では。

ユスラ様

投稿者: ddg_yamayuki 投稿日時: 2004/09/01 18:29 投稿番号: [1611 / 7270]
19時までにメール、しておきます。

すばやい

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/01 18:26 投稿番号: [1610 / 7270]
>で、資料室風に少し読みやすくアレンジしてみます。

おお,早速.すばやいですね.しかも僕専用のデータ室
みたいになってる(笑)

>統治の実態をもっとよく調べないとなんともいえませんが、当時でも、皇民としての意識や民度などは内地とまだまだ開きがあったように思います。

「日本国が無くなるかもしれない」という恐怖を共有するのが,
そもそも無理な話ですしね.

それにしても,戦時下の発想としても違和感が有りますよね.

はっきり言えば,あんた嘘ついてない? という疑惑を
感じてるわけですが.

>昭和19年の朝鮮半島って

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/01 17:44 投稿番号: [1609 / 7270]
http://law.leh.kagoshima-u.ac.jp/STAFF/uneme/senngo1.htm

ごっつい資料ですね。

で、資料室風に少し読みやすくアレンジしてみます。実は文献データベースには今は未公開ですが、検索機能があるので、テキスト化してページ化しておくと、後で調べる時、楽なんですよね。

で、ついでに、読みづらいのでこれから読みながらですが、適宜改行をいれておきます。
http://devs.data-room.info/cgi-perl/cont/serv.cgi?CHOICE=P&ID=1000720121012101

>昭和19年の日本国民の思考とは思えません.

統治の実態をもっとよく調べないとなんともいえませんが、当時でも、皇民としての意識や民度などは内地とまだまだ開きがあったように思います。

つまり、こちらが思っているほど、同化なんかしていなかったのではないでしょうか・・・

なにせ、小中華を自認している民族ですから、中国人の習性から導き出すと、同化しているフリをしていたのかなと・・・

でも、中国人よりは少し素直かもしれませんから、中には同化しつつあったのもそれなりにいた・・・

ん〜、まだよく解りませんね、このあたりは。

むしろ、半島に住んでいる日本人の朝鮮人化の方が色々と問題を引き起こしたようにも思えるのですが。

で、今行政組織を少し調べてますが、中枢院なんてのがあってかなり慣習法についても考慮した跡がありますよね。

わずか35年程度で同化できるものなら苦労はしないのかもしれませんね。

昭和19年の朝鮮半島って

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/01 16:41 投稿番号: [1608 / 7270]
どんな雰囲気だったんでしょうか.ちょっと考え込む
資料を最近目にしました↓

------------------------------ -
【女子挺身隊原告】
(一)原告柳賛伊、同朴小得、同朴順福
(1)原告柳賛伊は、昭和三年(一九二八年)、現韓国の馬山で出
生し、父は早くに亡くなり、母と兄三人とで暮らしていた。同女は、
国民学校の三年生まで通った後、同女の兄が経営する雑貨屋の手伝
いをしていた。
  同女が満一六歳の昭和一九年(一九四四年)五月ころ、朝鮮人の
区長が同女の家を訪れ、日本人が持ってきたという工場の写真を同
女に見せた。その写真には、日本の女学生が働いているところや、
生け花をしているところが写っていた。区長は、同女にその写真を
見せながら、「日本に行けば勉強もさせてくれるし、給料も高い。」、
「生け花、ミシンも教えてくれる。」などと述べ、同女の女子勤労
挺身隊への加入を勧誘した。同女は、習い事とか勉強ができ、お金
を儲けることができるということだったので、どこの工場でどんな
仕事をするのか聞かなかったが、右の勧誘に応じた。
------------------------------ -
http://law.leh.kagoshima-u.ac.jp/STAFF/uneme/senngo1.htm

>「日本に行けば勉強もさせてくれるし、給料も高い。」、
>「生け花、ミシンも教えてくれる。」

国家総動員法が制定され,内地では1月に学徒動員が決まった
年ですよ.勿論,内地の学生には選択の自由が最初から無かった.

------------------------------ -
同女は、習い事とか勉強ができ、お金を儲けることができる
ということだったので、どこの工場でどんな仕事をするのか
聞かなかったが、右の勧誘に応じた。
------------------------------ -

昭和19年の日本国民の思考とは思えません.
どういうことなんでしょうか.

あらら・・・、残念!

投稿者: ddg_yamayuki 投稿日時: 2004/09/01 16:05 投稿番号: [1607 / 7270]
せめて、土曜日までご滞在なら・・・。うーん、残念・・・。

またの機会に楽しみにしております。

首都ですが

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/01 16:02 投稿番号: [1606 / 7270]
残念ながら日帰りなんですよ.金曜日も午前中から外せない
用事が有るもんですから.

でもいずれ何とかしてチャンスは作りたいと思ってます.

>残暑ですか.

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/01 15:58 投稿番号: [1605 / 7270]
>明日は内地に行くので,涼しくなってるといいなあ.

あ"〜それは、それはご愁傷さまでございます。

もう、本当に笑ってしまうくらい暑いです。いや、熱いです・・・


>ところで,朝鮮日報の記事リンク,いいですね.

一度に沢山の記事をリストしても、読みづらいと思いますので、一週間に一度くらいの割合でリストを追加していく予定です。

>残暑ですか

投稿者: ddg_yamayuki 投稿日時: 2004/09/01 15:54 投稿番号: [1604 / 7270]
内地ってもしかして、首都にお越しになるのでは?

残暑ですか.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/01 15:51 投稿番号: [1603 / 7270]
明日は内地に行くので,涼しくなってるといいなあ.

ところで,朝鮮日報の記事リンク,いいですね.
あの記事どこだったかなあ,と見つからないことが
多いんですよ.

>気がつけば・・・♪

投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/01 15:48 投稿番号: [1602 / 7270]
>別に1600狙っての連続投稿ではなかったんですが

まあ、よくここまで持ちましたね。

>好きな数で

ホント号としては好きな距離なんですが・・・

って勿論自分で走ったりするわけじゃなくて、お馬さんが走る距離なんですが(笑

さて、さて、兎亀さんのコーナーが少し変わりました。立読みコーナーはちょっとネーミング的に長いので・・・

兎亀さんのコーナー
http://devs.data-room.info/cgi-perl/cont/serv.cgi?CHOICE=S&ID=10000201

ノモンハン・60年目の夏
http://devs.data-room.info/cgi-perl/cont/serv.cgi?CHOICE=D&ID=100002016401

これは底本がないので、タイトルの分類などがうまくできているか少し自信がないのですが・・・

まあ、妙だったら指摘してください。

で、一括表示とページ毎の表示が出来ますから、どこかにリンクを貼り付ける時少しは便利だと思います。

それにしても、暑いですね。( ̄⊆ ̄;)

残暑でざんしょなんて洒落ているばあいじゃないざんしょ・・・(くどい

気がつけば・・・♪

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:38 投稿番号: [1601 / 7270]
  あの・・・

  別に1600狙っての連続投稿ではなかったんですが

  正方形っぽくて好きな数で・・・♪♪×10

「〜60年目の夏(15)」

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:26 投稿番号: [1600 / 7270]
______________________________________
                     99年07月19日

■■   ノモンハン・60年目の夏(15)   ■■   作家   岩田玲文

▼   冬そしてノモンハン   ④   ▼

耳障りでない日本語で意見

雑談を真摯に聴く学生たち
  いますこし、雑談風講義の雑談をつづけたい。

  学生たちが真摯に私の雑談を聴いてくれるから、つい話に熱が入る。

  日本語科の学生たちだから、通訳無しだ。私も学生たちに分かるように、なるべく平易な言葉で話すように心掛けているが、平易な日本語というのが、これがなかなか難しい。ときどきブルガン先生が、「今の言葉はこういう意味ですか?」と訊く。ブルガン先生がよく分からないということは、学生たちにはまったく分からないということだから、私はそこで、さらに易しい日本語を探すということになる。例えば、

  「近現代史−というのは、近代史と現代史を一緒くたにした言い方です。日本史の場合、明治維新から大東亜戦争(第二次世界大戦)の終結までを近代史、終戦から今日までを現代史、というように区分しているけど、世界史でいう近代史は近世と同じ意味で、封建社会のあとにはじまる資本主義社会を指し、現代史は第一時世界大戦終結から今日までの歩みです。モンゴルの歴史区分がどうなっているのか、私にはよく分かりませんが、私は自分流に、独立運動のはじまりから社会主義国家の時代を近代史、人民革命党(共産党)の独裁放棄と、それからの民主化への歩みから今日までを現代史、というように分けています。つまり近現代史というのは、近代史と現代史の二つをひとまとめにした歴史区分です。分かりましたかな?」

  と、まあこんな調子で雑談が続くわけである。

  ひとりの学生が手を挙げた。決して流暢とはいえないがしかし、確かな日本語で、

  「先生、これはあくまでも僕個人の意見なんですが、あの友好の塔はいろんな意味で、あのまま残しておくべきだと僕は思います。先生が先程申されたように、僕たちの国が現在こうしてモンゴル人の独立国として、国際連合の加盟国として在るのは、ソビエト・ロシアのお陰です。この恩を忘れてはいけないと思います。と同時にまた、ソビエトの隷属国として七十年間、モンゴル人のモンゴル国は完全に封印されたまま、ただ『モンゴル人民共和国』という紙に書いた国名だけが、地図の上にぺたりと貼られていた、ということも決して忘れてはいけないことだと思います。ですからこの二つのことを忘れないために、あの友好の塔はあっていいと思います」

  日本の学生のように(それデェー)(だかラァー)(つまリィー)と、やたら語尾に力を入れて強調し、自分の意見をいやらしく押しつけてくる、あの耳障りな口調でない日本語でそう言った。私は思わず拍手した。ブルガン先生も拍手し、他の学生たちも拍手した。拍手された学生は大いに照れて、小さく何度も何度も頭を下げて会釈した…。

  私は、そんな情景を想い出しながら、二百五十四段の石段を登り詰め、塔の内に入って行ったのだが…モザイクの壁画はそのままだった。しかしいつか、そう遠くない日に、壁画の中から土足で踏みつけられている旭日旗が消える日が来る、と私は信じているのである。塔の上空では冬の風が鳴っていた…。

______________________________________

「(14)」(自国の国歌・国旗への敬愛)

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:23 投稿番号: [1599 / 7270]
______________________________________
                    99年07月17日
■■   ノモンハン・60年目の夏(14)
■■   作家   岩田玲文

▼   冬そしてノモンハン   ③   ▼

自国の国歌・国旗への敬愛

まともな人間の行為
  「ザイサン丘の友好の塔の壁画で、ソ連とモンゴルの兵士にへし折られ、踏みつけられている旗は、日の丸ではなくあれは旭日旗です。旭日旗は国旗ではないけど、モンゴルの国章と同じものです。モンゴルの国章も太陽ですが、日の丸も旭日旗も太陽です。私はモンゴルの国章が、太陽であることに親しみを覚えます。太陽は遥か宇宙の彼方から、この地球上の生きとし生けるもの全てに、貴重なエネルギーを、惜しみなく贈りつづけてくれています。命あるものすべてに分け隔て無く平等に、限り無く|です。

  私は日の丸を国旗とし、君が代を国歌としている以上、日本人たる者、太陽のごとき慈しみの心をもって、君が代の幸福を祈りなさい。でなければ真物の日本人ではありませんぞと、いつもそう自分に言い聞かせています。ですから国歌や国旗は私にとっては大へんに大切です。それはみなさんが、モンゴルのそれを大切に思われるのと同じです。

  自分の国の国歌や国旗を愛し、大切に思うとき、そこに他国の人にとってもまた、その国の国歌や国旗は大切なものなんだという理解が生まれます。それを足で踏みつけたり、火をつけて燃やしたりするのは、これは真面な人間のする行為ではない。たとえいか様な恨みや鬱憤があろうとも、他国の国旗を足で踏みつけたり、燃やしたりすることは、人間として決して、してはいけません。なぜなら、もし自分たちの国旗が、他国の人に土足で踏みつけられたり、燃やされたりしたら、貴方たちはどんな気持ちがしますか?   いい気持ちはしない筈です。

  正直言って私は、共産主義者や独裁者によって統治されている、現在の支那中国や北朝鮮という国は好きではない。好きでないと言うより、嫌いです。でも私は、中国や北朝鮮の国旗を足で踏みつけたり、火をつけて燃やすようなことは決してしません。それは私が(人間でありたい)と思っているからです。私に一人の若いモンゴルの友人がいます。みなさんと同じ年頃の青年です。ある日、彼が私にこう言うんです。

  <僕は夜一人でザイサン丘に登って、あの壁画を黒いスプレーで塗り潰してきます。>って。私は、それは足で踏みつけたり、燃やしたりするのと同じ線上の行為だからやめなさいと言って止めました。問題はそんなことではないんです。一人だけのことではなく、モンゴル人みんなの心の問題です。

  この二十世紀のはじめ、支那中国に統治されていたモンゴルは、国ごと丸裸にされて苦境に喘いでいた。その苦しみから逃れ独立するために、ロシアに助けを求めた。その肝心のロシアは、帝政から共産革命政府へと変貌したが、とにかくモンゴルが、支那中国の鎖を断ち切って独立するのに力を貸してくれた。そしてそれと引き替えにモンゴルは、ロシアに次ぐ世界で二番目の社会主義国として独立した。

  が|やがて、ソビエト連邦の十六番目の共和国、と言われるまでに、完全にソビエト連邦に隷属し、『モンゴル人民共和国』という名ばかりの独立国として、七十年の歴史を歩むことになった…。しかし、モンゴル人たちは、例え名ばかりであっても『モンゴル』という国と領土を守り抜いて、それを次の世代に渡さなければ|と歯を喰いしばって頑張った。と、私はモンゴルの近現代史をそう理解しています」

「〜60年目の夏(13)」(「旭日旗〜」)

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:16 投稿番号: [1598 / 7270]
______________________________________

                     99年07月05日

■■   ノモンハン・60年目の夏(13)   ■■   作家   岩田玲文

▼   冬そしてノモンハン   ②   ▼


旭日旗折り踏みつけた壁画

日本人に気持のよくない塔
  その日、ウランバートルに着いたのは、夜半の二時過ぎだった。

  熱いシャワーと、ほどよく暖房の効いた部屋で休めることに(有難い)と感謝したせいか、翌朝は日が天空に昇るまでぐっすり熟睡した。

  朝の珈琲がうまい。うまい珈琲を飲みながら(二百五十四段の石段は大へんだが、今日はザイサンの丘に登ろう)と思った。

  丘はウランバートルの市街地から南へ二㌔のところにあり、頂上に白い塔が聳え建っている。「ソ連・モンゴル友好の塔」である。

  「ソ連戦士の記憶は、空の太陽のように永遠であり、大地の燃える火のように神聖である」と、キリル文字で刻んだ碑が丘の入り口にあって、市街が一望出来る。

  今どき(ソ連戦士は太陽のように永遠で、火のように神聖だ)と思っているモンゴル人が、どれだけいるのか私にはわからないが、少なくとも日本人にとってこの塔は、あまりいい気持のものではない。私がはじめて丘に登ったのは二年ほど前だが、塔の内側にぐるりと描かれた、両国人民の歴史的友好を讃いあげた、モザイクの壁画を見たとき私は(モンゴル人って一体どんな精神構造をしているのだい)と腹立たしく思ったものである。

  ソ連とモンゴルとの友好を嫉妬したわけではない。モンゴルがどこの国と仲良くしようがそれを、日本人である私がとやかく言うことはない。それぐらいのことは心得ている。だが、その友好の印にソ連とモンゴルの兵士が堅い握手を交わしている靴下に、へし折られ踏みつけられているのが、日本の旭日旗ということになると、そうはいかない。

  ある時、私は学生たちに言った。学生たちというのは、外国語大学の日本語科で、ブルガン先生の日本文学史と日本語会話を受講している学生たちだ。私はモンゴルを訪ねるたびに、そこで週六時間の補習講義をすることにしている。

  講義というと大そうに聞こえるが、雑談風に日本文化・文学史を語るという程度のもので、勿論無料奉仕である。

  「私は、日本の国歌(君が代)と国旗(日の丸)をこよなく愛しています。私はと念を入れたのは、君が代を歌い日の丸を掲げると戦争になる、と思っている日本人もいるからです。(『新古今集』についての授業だったから)君が代の本歌は今日の新古今集にある恋の歌です。君というのはあなたです。日本人で私以外の人はみんな君、あなたです。そのあなたである君の象徴が大君で、つまり天皇です。国歌君が代の君は、大君を中心としたすべての日本の君なんです。君が代でなくわが世の方がいい、という人もいます。しかし、わが世では駄目なんです。わが世だと自分の幸福だけを祈ることになります。それでは自分だけで終わってしまいます。大切なことは、すべての君の幸福を祈ることです。すると祈りは無限に拡がって行きます。いつまでもいつまでも君の幸福を祈るという、国歌(君が代)は祈りの歌なんです。そして日の丸もまたそうなんです−」

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(略、3〜11)「〜60年目の夏(12)」

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:11 投稿番号: [1597 / 7270]
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                     99年07月03日

■■   ノモンハン・60年目の夏(12)   ■■   作家   岩田玲文

▼   冬そしてノモンハン   ①   ▼

死んだら星になり天へ

大地に寝ころび見つめる
  なぜ死んだと   寒芒にまた独り言


  寒芒が、季語になるのかどうかよく分からないが、冬の夜空に、寒そうに瞬いている星が、寒芒である。子供の頃の一時期私は、人は死んだらいつか星になって天に帰るのだと信じていて、あの人はあの星、この星、と懸命になって探したことがあった。ふとそのことを想い出して、私は車を停めてもらい草原に立った。

  そして、うすく雪の降り積もった大地に、仰向けに寝ころんで寒天を見た。ツェルン村からウランバートルへ帰る道すがらのことだ。オクトの死に、いささか尋常心を失っていたのか、そんなことはないと思うが、背中の雪が、刻々体温を奪って行くのを覚えながら、格別のことを思うでもなく、ただ私は天を見つめた。

  (オクトの奴は、モンゴルからの電報がそう簡単には私のところに届かないことを知っていた筈なのに、なぜ電報を打ってくれって言ったのだろうか、私に何を伝えたかったのだろうか、それにしても、電文は一体何語で打ったのだろう…)

  身近に雪の軋む音を聞いて、私は頭をもたげた。いつの間に来たのか、足許のところにブルガンが私と同じように、仰向けになって寝ころんでいた。しばらく、私たちは黙って天を見ていた。

  光も音も色も、すべて純粋に冴えていた。それにしても寒い−寒極って水が凝る寒さを(寒冱)というが、もうとっくに零下二十度を越しているのだから(寒冱)ではなかろう。厳寒、酷寒、極寒、祁寒…私は知る限りの、それなりの言葉を探したが、ぴったりこれというものはなかった。とにかく素適な寒さというよりない寒さに、私は震えた。

  「おい風邪を引くぞ、車に戻っていなさい」声を掛けるとブルガンは、

  「大丈夫です、私はブリヤート人ですよ、それに貴方の活力源、仙人力にんにく卵黄を二粒づつ飲んでいますから、風邪など飛んで行けです」

  とおどけた口調で答えた。そのとき風が吹いて、雪が舞った。舞った雪は周りをすっぽり包んで、風に連れ去られて行った。

  「貴方のあの『怪談』の雪女のシーンに似ていますね。舞っている雪の中から雪女が姿を見せてくれそうな感じ…」

  ブルガンが(貴方のあの怪談)と言ったのは、映画『怪談』の製作に私が係わっていたのを知っていたから、そう言ったのである。

  「私は子供のころね、人は死んだら星になって天に戻るんだと思っていた。だから、こんな可愛いい妹は世界中にいない、と思っていたその妹が死んだとき、夜になると妹の星を探して庭に立ちつくした。その頃の日本の空はモンゴルの空に負けないくらいに美しかった…」

  「見つかりましたか?」

  「うん見つかった。でも今はそれがどの星だったのか、どうしても想い出せないのだ。なにせ半世紀も前のことだから…」

______________________________________

「〜60年目の夏(2)」

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:00 投稿番号: [1596 / 7270]
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                     99年05月10日
■■   ノモンハン・60年目の夏(2)   ■■   作家   岩田玲文

▼   地図を身ながら   ②   ▼

4万余の血を吸った大地に

日本の白い蕎麦の花を
  私には、司馬さんの代わりにノモンハンを書こう、などとそんなおおそれた気持はさらさらない。司馬さんと私とは、ノモンハン事件についての考えが、ほんの少し違っているように思うし、仮に同じだったとしても、とてもとても司馬さんのように書けるものではないからだ。

  また「戦史」ものとしてのノモンハンを書くつもりもない。それは、半藤一利さんの力作『ノモンハンの夏』を越える作品を書く力が、私にあるとは思えないからだ。

  「じゃノモンハンの何を書くつもりかい?」

  と聞かれたら答えに窮する。私はノモンハン事件が起きた年、小学校に上った許りだった。だから事件のことを知ったのはかなり後のことで、それも

  「ノモンハンという満州とモンゴルとの国境でロシアと戦争をして、日本はこてんぱんに負けたらしいぞ」という、噂としての悲報であった。なぜ悲報かというと、私が生まれたのは、満州国の建国宣言がなされた年で、遊び仲間に満州男や満州子が多勢いて、満州やモンゴルの草原が、私たちの夢を限りなく増幅させてくれる場であったからだ。

  (それじゃもうゴビの砂漠の夕陽は見られないだろうなァ)と私たちは悲しんだのである。その時の悲しみが還暦を過ぎたある日突然に蘇ったのである。

  私は憑かれたようにモンゴルのあちこちを旅し、モンゴルの人や馬や歴史や、とにかくモンゴルのあれこれにふれ、驚き、怒り、悲しみ、ある時は少年の日の夢を取り戻せた喜びに浸りながら、二年半にわたり本紙上に『天馬の国へ』を書きつづけてきた。

  本稿はその続編であり完結編である、と思っていただけばいい。

  実は私は今、六十年目の夏のノモンハンに日本の白い蕎麦の花を咲かそうと、一所懸命になっている。私が蕎麦屋をやろうというのではない。蕎麦の商売をしようというわけでもない。私はただ、日本人とモンゴル人とロシア人の、四万余の血を吸った大地に、蕎麦の白い花を咲かせたいと願っているだけである。

  この話をしたら、友人たちはとても喜んでくれて、山梨から目黒源友君が、鹿児島から永松範夫君が、熊本から田中千洋君と坂本武美君が、そして長野から宮本政秀君が、六十余㌔の種子を送ってくれた。

  私はその種子を担いで、せっせとモンゴルに通った。今年になって二月と四月、酷寒のモンゴルを訪ねたのだから、せっせと通った、と云ってもよさそうな気がする。

  蕎麦のことだけではなく、馬の話もあった。

  ツェルン村の子供たちが、日本の障害を持った子供たちに、馬と楽しく遊んで欲しいからと、五十頭の馬を貰って欲しいというのである。それに八月十五日のウランバートルの日本人墓地で、慰霊のコンサートを行う企画もあって、とにかく大忙しで、国中が雪に埋もれた、零下四〇度のモンゴルの二月を、私はあちこちと走り廻った。そして、旧暦の元旦を、ツェルン村に住むオクトの家族と一緒に過ごすべく、私はウランバートルから七時間、ジープに揺られて村を訪ねた。そしてそこで、オクトが一週間前に急死したことを知らされるのである。

  オクトは、私の義理の息子だった。

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「ノモンハン・60年目の夏(1)」

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/08/31 23:55 投稿番号: [1595 / 7270]
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                    99年05月08日

■■   ノモンハン・60年目の夏(1)
■■   作家   岩田玲文

▼   地図を身ながら   ①   ▼

4ヵ月に及ぶ惨劇的戦い

日本を考えさせられた事件
  この高原の国は、北をぐるりとロシアに、そして、南はさらにながながと、中国と直に国境を接しているから、どこにも出口がない。もちろん入口もなく、まったく閉塞の地である。

  両大国に挟まれ、ふて腐れてごろりと寝転んだ羊の姿で、この国が在る。西が頭で東が尻尾だ。とすると、北のロシアに短い足を投げ出し、南の中国に、頑固にその丸っこい背中を向けたこの羊、なかなかのもののように見える。

  そう見えるのは私だけかも知れないが、地球上に在る国で、ただ一筆でその国の型が描ける、数少ない国の一つであることだけは確かだ。

  一九九二年まで『モンゴル人民共和国』を名乗っていたこの国は、人民共和国を消し、今はただの『モンゴル国』である。その方がすっきりしていていい、と私は思う。××民主主義人民共和国などと、とんでもない国名を持つ国もあるが、そんなものに真者があった例がないからだ。

  モンゴル国というと(なァんだチンギス汗の国か)と、ほとんどの日本人は、すぐに納得する。だが、それでおしまいだ。それ以上の知識の持ち合わせは、残念ながらない。

  「いやそんなことはない」という人もいるが、それとてせいぜい「旭鷲山や旭天鵬が生まれた国だろう」で話が終わる。たまに、「確か神戸の大震災の時、最初に救援物資の毛布数千枚を送ってくれた国ですよね」と云ったり、「領土面積百五十六万六千五百・・はおよそ日本の四・一倍、人口(二百四十万人弱)は日本の五十分の一、首都はウランバートルで、社会主義を放棄したチベット仏教の国でしょう」と云ってくれる人もいたりするがしかし、そんな人は極く極く稀である。そんな極く稀な人や、私と同世代以上の古強者には、表題の「ノモンハン」について、くどくどと語る必要はないのだが、しかし、「ノモンハン?それって何?」と聞き返す人に、いささか押しつけがましい気がしないでもないが、ぜひ「ノモンハン」を知って欲しいという思いが私にはある。

  それはノモンハンで、ソビエト・モンゴル連合軍と日本の関東軍とが、およそ四カ月に及ぶ惨劇的な戦いを交えてから、今年で六十年目を迎えるからだ。六十年前の夏、ノモンハンは戦場だった。

  「いったい日本とは何だろうということを、最初に考えさせられたのは、ノモンハン事件でした。昭和十四年(一九三九年)私が中学の時のことでした。こんなばかな戦争をする国は、世界中にもないと思うのです」

  と司馬遼太郎さんは『昭和という国家』の中でそう語っている。話しはなお「ノモンハンには、実際に行ったことはありません。その後に入った戦車連隊が、ノモンハン事件に参加していました。(略)私は、ノモンハン事件のことを調べてみたかったのです。ずいぶん調べました。資料も集めました。人にも会いました。会いましたけれども、一行も書いたことがないのです。それを書こうと思っていながら、いまだに書いたことがなくて、ついに書かずに終わるのではないか、そういう感じがします」

  とつづいている。そしてその言葉通り、司馬さんはとうとう書かずじまいで、この世を去った。

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「日本人は執着心が強い」

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/08/31 23:50 投稿番号: [1594 / 7270]
  中国語での「執着心」のニュアンスは日本語とは少し違うようですね。
  (日本語だと否定的な意味合いが強いような・・・私の周辺だけかな?)

  林思雲博士の記事に遺骨収集のことが出ていましたので、
  トピずれですがノモンハン関連の記事をご紹介します

  ↓   1999年放映のドキュメンタリーの取材記録を記事にしたもののようです。
    (なぜかリンクが貼れなかった・・)
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                        99年12月27日
■■   ノモンハン・60年目の夏(45)   ■■   作家   岩田玲文

▼   夏そしてノモンハン   6   ▼ 草原で語り合う日のために  

  夕日の中の2つのイス

  尻切れ蜻蛉のまま、この物語もいよいよ最終回を迎えてしまった。

  このことは、初めにお断わりしたかと思うが、私には、ノモンハン事件の戦史を書くつもりはまったくなく、ノモンハンの戦地を巡礼しながら、草原に眠る英霊と語り、ビルワさんと語り、私なりのノモンハンを歩いて、この二年半ほど書き続けてきた「天国の国へ」の結末のようなものにしようと思っていた。だがその辻妻を合わせる前に、この回で鉛筆を置くことになってしまった。

  読者のみなさんには何とも申し訳ないのだが、虫のいい詫び言を聞いて頂けるならば、大晦日の夜七時から九時まで、二時間にわたって放映される『ノモンハン事件と蕎麦の花』(スカイ・パーフェクト・テレビ三七〇CH、デレク・テレビ六二六CH)レッツトライ放送を是非に御覧いただきたいのである。

  番組は(草原の国モンゴルは、東アジアの北限に在る)と、この物語の冒頭と同じ語りで始まる。そして最後の六分間は、ただ一言の語りもなく、三牧可奈さんのピアノと田中藍さんが奏でるヴァイオリンによる(望郷のバラード)の曲と、映像のみが流れて、完る。賢明なる諸兄妹にはそれだけで、ノモンハン事件のことも、日本人捕虜のことも、モンゴルのことも、私がこの物語で語りたかったことなども、それぞれに感応していただけるのではないかと、いささか自負しています。

  ここに一通の葉書があります。友弘国雄さんに頂いたものだ。友弘さんのことは『ノモンハン事件と蕎麦の花』の中でもご紹介させて頂いているのだが、昭和二十年八月の終戦時に、満州で不法にもソ連軍によって拉致され、シベリアからモンゴル国へと送られた、一万四千余人の日本人捕虜の中の一人で、モンゴルで強制労働を課せられての俘虜生活を送るうちに、凍傷により両足を切断、義足などあろう筈もなく、それからの二年を躄のまま生き抜いて、日本に帰って来た人である。

  ここで友弘さんのことを語るのは、私の作品が、それが活字にせよ映像にせよ、再びみなさんのお目にとまるようなことがあるとすれば、それは恐らく春日幸雄さん(友弘さんと同じくモンゴルで捕虜生活を送られた軍医)と、友弘さんのことについて、私が語る時だろうと思うからだ。

  ノモンハン事件は、あの東京裁判に於て、日本帝国主義の侵略戦争という裁定を下されたまま、まさに風化せんとしている。そして日本人捕虜の話は、人にその事実さえも知られないまま、さらに極悪の条件に耐えられず命果てた英霊たちの墓地は、今はもう詣でる人とてなく、草原に消えようとしている。いうまでもなく、その英霊たちが帰り行く祖国はこの日本である。ならば今、その祖国日本に生きている者たちは、祖国のために何を為すべきか…。そのことを私はこれからも自らに問いかけながら、生きて行きたいと思う。

  忘れられたように置かれている、夕陽の中の二つの椅子は、若しいつか、あなたとモンゴル草原で語り合える日があるとき、そのときのためにフイ高地に私が置いてきたものです。
(おわり)
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  45回連載の最終回です。

  元モンゴル兵士との話や「国旗」など興味深いエピソードが多いので、
  順次ご紹介したいと思っているのですが・・かまわないでしょうか?

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