「〜60年目の夏(2)」
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:00 投稿番号: [1596 / 7270]
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99年05月10日
■■ ノモンハン・60年目の夏(2) ■■ 作家 岩田玲文
▼ 地図を身ながら ② ▼
4万余の血を吸った大地に
日本の白い蕎麦の花を
私には、司馬さんの代わりにノモンハンを書こう、などとそんなおおそれた気持はさらさらない。司馬さんと私とは、ノモンハン事件についての考えが、ほんの少し違っているように思うし、仮に同じだったとしても、とてもとても司馬さんのように書けるものではないからだ。
また「戦史」ものとしてのノモンハンを書くつもりもない。それは、半藤一利さんの力作『ノモンハンの夏』を越える作品を書く力が、私にあるとは思えないからだ。
「じゃノモンハンの何を書くつもりかい?」
と聞かれたら答えに窮する。私はノモンハン事件が起きた年、小学校に上った許りだった。だから事件のことを知ったのはかなり後のことで、それも
「ノモンハンという満州とモンゴルとの国境でロシアと戦争をして、日本はこてんぱんに負けたらしいぞ」という、噂としての悲報であった。なぜ悲報かというと、私が生まれたのは、満州国の建国宣言がなされた年で、遊び仲間に満州男や満州子が多勢いて、満州やモンゴルの草原が、私たちの夢を限りなく増幅させてくれる場であったからだ。
(それじゃもうゴビの砂漠の夕陽は見られないだろうなァ)と私たちは悲しんだのである。その時の悲しみが還暦を過ぎたある日突然に蘇ったのである。
私は憑かれたようにモンゴルのあちこちを旅し、モンゴルの人や馬や歴史や、とにかくモンゴルのあれこれにふれ、驚き、怒り、悲しみ、ある時は少年の日の夢を取り戻せた喜びに浸りながら、二年半にわたり本紙上に『天馬の国へ』を書きつづけてきた。
本稿はその続編であり完結編である、と思っていただけばいい。
実は私は今、六十年目の夏のノモンハンに日本の白い蕎麦の花を咲かそうと、一所懸命になっている。私が蕎麦屋をやろうというのではない。蕎麦の商売をしようというわけでもない。私はただ、日本人とモンゴル人とロシア人の、四万余の血を吸った大地に、蕎麦の白い花を咲かせたいと願っているだけである。
この話をしたら、友人たちはとても喜んでくれて、山梨から目黒源友君が、鹿児島から永松範夫君が、熊本から田中千洋君と坂本武美君が、そして長野から宮本政秀君が、六十余㌔の種子を送ってくれた。
私はその種子を担いで、せっせとモンゴルに通った。今年になって二月と四月、酷寒のモンゴルを訪ねたのだから、せっせと通った、と云ってもよさそうな気がする。
蕎麦のことだけではなく、馬の話もあった。
ツェルン村の子供たちが、日本の障害を持った子供たちに、馬と楽しく遊んで欲しいからと、五十頭の馬を貰って欲しいというのである。それに八月十五日のウランバートルの日本人墓地で、慰霊のコンサートを行う企画もあって、とにかく大忙しで、国中が雪に埋もれた、零下四〇度のモンゴルの二月を、私はあちこちと走り廻った。そして、旧暦の元旦を、ツェルン村に住むオクトの家族と一緒に過ごすべく、私はウランバートルから七時間、ジープに揺られて村を訪ねた。そしてそこで、オクトが一週間前に急死したことを知らされるのである。
オクトは、私の義理の息子だった。
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99年05月10日
■■ ノモンハン・60年目の夏(2) ■■ 作家 岩田玲文
▼ 地図を身ながら ② ▼
4万余の血を吸った大地に
日本の白い蕎麦の花を
私には、司馬さんの代わりにノモンハンを書こう、などとそんなおおそれた気持はさらさらない。司馬さんと私とは、ノモンハン事件についての考えが、ほんの少し違っているように思うし、仮に同じだったとしても、とてもとても司馬さんのように書けるものではないからだ。
また「戦史」ものとしてのノモンハンを書くつもりもない。それは、半藤一利さんの力作『ノモンハンの夏』を越える作品を書く力が、私にあるとは思えないからだ。
「じゃノモンハンの何を書くつもりかい?」
と聞かれたら答えに窮する。私はノモンハン事件が起きた年、小学校に上った許りだった。だから事件のことを知ったのはかなり後のことで、それも
「ノモンハンという満州とモンゴルとの国境でロシアと戦争をして、日本はこてんぱんに負けたらしいぞ」という、噂としての悲報であった。なぜ悲報かというと、私が生まれたのは、満州国の建国宣言がなされた年で、遊び仲間に満州男や満州子が多勢いて、満州やモンゴルの草原が、私たちの夢を限りなく増幅させてくれる場であったからだ。
(それじゃもうゴビの砂漠の夕陽は見られないだろうなァ)と私たちは悲しんだのである。その時の悲しみが還暦を過ぎたある日突然に蘇ったのである。
私は憑かれたようにモンゴルのあちこちを旅し、モンゴルの人や馬や歴史や、とにかくモンゴルのあれこれにふれ、驚き、怒り、悲しみ、ある時は少年の日の夢を取り戻せた喜びに浸りながら、二年半にわたり本紙上に『天馬の国へ』を書きつづけてきた。
本稿はその続編であり完結編である、と思っていただけばいい。
実は私は今、六十年目の夏のノモンハンに日本の白い蕎麦の花を咲かそうと、一所懸命になっている。私が蕎麦屋をやろうというのではない。蕎麦の商売をしようというわけでもない。私はただ、日本人とモンゴル人とロシア人の、四万余の血を吸った大地に、蕎麦の白い花を咲かせたいと願っているだけである。
この話をしたら、友人たちはとても喜んでくれて、山梨から目黒源友君が、鹿児島から永松範夫君が、熊本から田中千洋君と坂本武美君が、そして長野から宮本政秀君が、六十余㌔の種子を送ってくれた。
私はその種子を担いで、せっせとモンゴルに通った。今年になって二月と四月、酷寒のモンゴルを訪ねたのだから、せっせと通った、と云ってもよさそうな気がする。
蕎麦のことだけではなく、馬の話もあった。
ツェルン村の子供たちが、日本の障害を持った子供たちに、馬と楽しく遊んで欲しいからと、五十頭の馬を貰って欲しいというのである。それに八月十五日のウランバートルの日本人墓地で、慰霊のコンサートを行う企画もあって、とにかく大忙しで、国中が雪に埋もれた、零下四〇度のモンゴルの二月を、私はあちこちと走り廻った。そして、旧暦の元旦を、ツェルン村に住むオクトの家族と一緒に過ごすべく、私はウランバートルから七時間、ジープに揺られて村を訪ねた。そしてそこで、オクトが一週間前に急死したことを知らされるのである。
オクトは、私の義理の息子だった。
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これは メッセージ 1595 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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