南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
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証拠隠滅(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/20 23:30 投稿番号: [40879 / 41162]
近年、鳥取市の
鳥取県立公文書館で
敗戦の際に日本軍が
自治体に出した
徴兵関係書類の焼却命令を記録したメモが
確認された。
同県日野郡二部村(現・西伯郡伯耆町)
の
「兵事動員ニ関スル日誌」の
1945年8月15日の項に
はさまっていたのだ。
軍の焼却命令を伝える文書は珍しく、
軍部による
指示の具体的内容を知るうえで
貴重な資料だ。
メモは、はがき大の紙に「連隊区司令部ヨリノ通知」として、
「現在入営並ニ応召者ノ名簿丈ケヲ残シ其他ノ兵事関係書類ヲ
全部至急焼去スル事」
などと書かれていた。
末尾には赤字で
「二部駐在所
津島巡査」
とあり、当時、
村の駐在所に勤務していた巡査(故人)が軍部からの命令を
書き取り、村役場に渡したもの
とみられる。
召集令状の回収・焼却なども
指示されており、その内容は
日誌にも
転記されていた。
日誌の翌16日午前の項には、
「関係一切ノ焼去ヲ実施ス」
との記述が
あることから、
軍の命令通りに
焼却が行われた
とみられる。
戦前、全国の市町村役場には「兵事係」
が置かれ、兵役や
招集など戦時対応に係る
兵事関係書類が
存在していた。
東海大の
山本和重教授(軍隊社会史)によると、現存する
兵事関係書類は、全国で
わずかに
約20町村分だという。
それは、敗戦直後に
陸軍などの命令で、全国の役場などで
一斉に
焼却処分されたためだ。
市町村に対する
兵事書類の全国一斉焼却命令
だけでなく、
軍機関係書類の処分が
敗戦直後に
組織的に
行われた。
吉田裕著『現代歴史学と戦争責任』
(青木書店97年)には
「敗戦前後における公文書の焼却と隠蔽」(P127〜141)
の章で、書類の焼却処分のことが
詳しく
書かれている。
その中には、たとえば
敗戦当時、官房文書課事務官だった
大山正が
「内務省の文書を
全部焼くようにという命令が
でまして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか
判らないから選択なしに全部燃やせということで、内務省の
裏庭で三日三晩、えんえんと夜空を焦がして燃やしました」
と
回想している。
処分されずに残った
記録資料も
進駐してきた米軍に
押収されたため、軍関係資料は
ほとんど
残らなかった。
現在
残されている資料の多くは、兵士などの軍関係者が
個人で
隠し持っていたものや、米国との協定に基づいて
返還を受け、防衛省が保管しているものに
限られている。
これは メッセージ 40878 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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証拠隠滅(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/20 23:29 投稿番号: [40878 / 41162]
南京事件の全容解明を
困難にしている
要因の一つに、
敗戦時に
軍が
多くの書類を
焼却するなど処分したことが
挙げられる。
特に
虐殺事件など戦争犯罪に問われるような
軍にとって都合の悪い
証拠書類の多くは
廃棄されたため、
かろうじて
処分を免れた
断片的な資料から
事件の実相に迫るしか手段がない
というのが現状だ。
事実、敗戦決定から
撤退あるいは占領軍進駐までの期間に
多くの書類を焼却処分した
という記録や証言が
存在する。
一例としては、近年
米国で公開された
資料がある。
これは
米国立公文書館に保管されていたもので、米陸軍省が
大戦中に傍受・解読した日本軍の暗号通信を要約したものだ。
資料によると、指示は45年8月15日午前0時に始まった。
「ご真影や連隊旗、天皇の手によって書かれた
書類を集め、
部隊指揮官は
崇拝の念をもって
焼却せよ――」
と、
陸軍省が
主な野戦司令部に
命令していた。
さらに
玉音放送が
敗戦を告げた
同日午後には、
「陸軍の機密文書と重要書類は、保持している者が焼却せよ」
という命令を
追加している。
前線に近い部隊になるにつれ、処分対象は
具体的になった。
たとえば
同月20日、上海にある
支那方面隊では、
将校の登録簿や
勤務経歴を
「即座に焼却せよ」
とした。
戦争責任を追及される際、誰がどこに配属されていたかが
分からないようにするためだった
とみられる。
インドネシアの
海軍第23根拠地隊では
8月24日、
「化学戦用機材」
や、残酷兵器として
ハーグ会議で
使用禁止が宣言されていた「ダムダム弾」の処分を命じた。
戦後、国際的な批判にさらされることを
恐れたからだ。
軍にとって
何が都合悪いかを
冷静に識別し、組織的に
処分したことが
こうした記録などからも
明確に判る。
敗戦直後から
焼却命令が出されていた
という事実を
裏づける
貴重な証言もある。
一例を
紹介しよう。
「赤紙と徴兵
105歳
最後の兵事係の証言から」
(吉田敏浩著)
には、滋賀県大郷村(現・長浜市)の
元兵事係、西邑仁平さんの告発内容が
収録されている。
「焼却命令には合点がいきませんでした。
村からは
多くの戦没者が出ています。これを処分してしまったら、
戦争に征かれた人の労苦や功績が
無になってしまう、
遺族の方に申し訳ない、と思ったんです」
村人に毎日のように赤紙(召集令状)を届け続けた兵事係、
西邑仁平さん(一昨年105歳で死亡)
は、敗戦の時、
軍から
24時間以内の焼却命令が
出ていたのに背き、
命がけで
大量の兵事書類を
残した。
戦前の徴兵制の運用の詳しい実態が、焼却せずに残した
兵事書類を通じて
明らかにされた
貴重な史料だ。
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◆「南京大虐殺」という史上最大のヨタ話⑤
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/20 22:20 投稿番号: [40877 / 41162]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです
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◆「南京大虐殺」という史上最大のヨタ話④
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/20 22:19 投稿番号: [40876 / 41162]
当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の「世界と日本」の中で次のように述べています。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2〜30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだとされている。
ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。
そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。
すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。
住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。
すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。
それがさ も事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。」
当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しています。
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◆「南京大虐殺」という史上最大のヨタ話③
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/20 22:18 投稿番号: [40875 / 41162]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」
そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。
つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。
一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。
金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。
「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」
日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。
安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。
それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。
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◆「南京大虐殺」という史上最大のヨタ話②
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/20 22:17 投稿番号: [40874 / 41162]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。
<引用>
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-
湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。
城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。
とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。
街には人影がみられない。
それでもどこからか若い女が三人でてきた。
我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。
助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。
我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。
一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。
それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。
体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。
また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。
支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。
夥しい出血で苦しんで訴えている。
すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。
このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------
当時の支那には、政府がありません。
清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。
内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。
そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。
日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。
南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。
そして市民の生活に平安を取り戻した。
なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。
こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。
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◆「南京大虐殺」という史上最大のヨタ話①
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/20 22:16 投稿番号: [40873 / 41162]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。
そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。
日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。
だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。
30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。
機関銃で殺したに違いない?!
バカなことを!
当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。
パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。
お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。
かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」
バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。
加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。
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Re: 目撃者証言(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/20 06:40 投稿番号: [40872 / 41162]
巧みなる戦略により迅速に包囲を完成すると共に忠勇なる将兵は果敢なる強襲報に依り築城地隊を突破し殲滅戦(捕虜及び遺棄屍体六萬を下らず)を敢行す。
↑俘虜が居たんだね、南京俘虜解放の写真も在るよね。
下関対岸浦口に俘虜収容所があった事も記録に残っているよね。
次いでに強姦(本件では強姦未遂)も厳格に処罰されたんだね、中国人の告訴によって。
記録より抜粋
被告人を懲役2年6月に処す
理由
被告人は昭和12年8月25日充員招集により応召肩書き隊に編入の上北支那に出征し更に中支那に転じ各地の戦闘又は警備勤務に従事し同14年2月4日より江蘇省浦口南方約1千米を隔つる揚子江岸所第二碇泊場俘虜収容所監視隊として分遣せられ服務中のものなるところ同年3月22日午後入浴すべく前記浦口所在第二碇泊場司令部船員隊に赴き入浴後同所附近の所属第一水上輸卒隊宿舎に立ち寄り戦友より薦められるる儘日本酒約4合を飲酒し稍酩酊の上前示俘虜収容所に変える途上同日午後五時頃右俘虜収容所南方約六百米地点に差し懸かりたる際附近葦原に於いて薪を採取中の■■■の姿を認るや俄に劣情を催し附近に人無きを幸ひ同女姦淫せんと欲し同女に情交を迫りたるも拒絶せられたるを以て意に従わざれば危害を加ふべき勢威を示し畏怖せしめたる上同女を同所に押し倒し其の着用せる袴を脱し強いて同女を姦淫したるものなり
右の事実は
1.被告人の当公廷に於ける判示同旨の供述
1.陸軍司法警察官の■■■■に対する聴取中判事に照応する被害顛末の陳述記載
1.同官の作成に係る■■■の告訴調書中私は■■■の夫にして判示浦口にある日本軍の船修理工場の苦力を為して居るものなるが判示日時頃苦力頭より私の妻が日本兵に強姦されんとして居ると聞かされ驚き右苦力頭と共に判示現場に駆け付けたるところ私の妻は葦原内に於いて一人の日本兵の為に地面に押し倒され仰向けにせられズボンを膝下附近迄脱がされ両股を開きその間に日本兵がズボンのボタンを外し膝を折り乗り掛からんとして居たたるより私は直ちに憲兵隊へ報告に赴きたるが何卒再び斯かる様な事無き様被告人に対し厳重なる処罰を希望する旨陳述記載
に依り之を認む
法律に照らすに被告人の判示所為は刑法第百七十七条前段に該当するを以て其の所定刑期範囲内に於いて被告人を主文掲記の刑に処すべきものとす
依って主文の如く判決す
昭和14年6月8日
中支那派遣軍軍法会議
裁判長判士陸軍歩兵中佐
■■■■
裁判官陸軍法務官
■■■■
裁判官判士陸軍工兵隊注意
■■■■
右謄本也
同日道庁
陸軍録事
■■■■
これは メッセージ 40865 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 目撃者証言(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/20 05:46 投稿番号: [40871 / 41162]
便衣兵を探し出したのは、国際慰安全委員です。
これは資料にも残っています。
これは メッセージ 40865 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40871.html
Re: 目撃者証言(2)
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/19 23:13 投稿番号: [40870 / 41162]
私が心配しているのは、ゴーストライターという、
はっきり職業名のある、仕事のジャンルがある、ということです。
これは メッセージ 40868 (nan*ka*no*ima さん)への返信です.
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新たなアホー君ですねww
投稿者: seraphim_redeye 投稿日時: 2012/12/19 23:00 投稿番号: [40869 / 41162]
手記なんてのはその時に書かれた事が証明できないと証拠なんかになりませんよwww
ぜひ証明しようアホー君
これは メッセージ 40865 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 目撃者証言(2)
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/19 22:59 投稿番号: [40868 / 41162]
日記類は、個人が特定されて、証言者の身に危険が及ぶのを避ける、
という理由で、
大抵は仮名で登場するようです。
個人が特定されないようになっているらしいのですが、
証言者が特定された例は、どれくらいあるのでしょうか?
井出純二氏は、はっきりその個人が特定されているのでしょうか?
そして、確かにその場所にいた、
ということを証明するものがあるのでしょうか?
また、特定できるなら、人物像を描くのに充分な、資料がありますか?
その資料は、どの程度、確かなものでしょうか?
これは メッセージ 40866 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40868.html
目撃者証言(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/19 20:38 投稿番号: [40867 / 41162]
南京事件否定派の東中野教授は
『南京事件証拠写真を検証する』
という著書で、いくつかの写真を
「検証」
してみせた。
しかし、これは
はじめから
南京虐殺とは関係ない写真ばかりを
引き合いに出し、「証拠とならない」
と言ってみせることで、
事件の証拠はない
と思わせる
トリックに
すぎなかった。
その東中野教授が、「検証」
しようとしない
写真がある。
それは、村瀬守保氏が
撮影した写真だ。
村瀬氏は、当時
目黒輜重連隊
兵站自動車第17中隊に所属し、
補給部隊として
南京戦の後を
辿りながら、貴重な記録写真を
多数
撮影した人物だ。
村瀬氏の
写真は
撮影の日時、場所、
状況などが
はっきりしているが、こうした、信憑性の高い写真を
初めから
除いたうえで
「検証した」
というのは、詐欺だ。
以下、『村瀬守保写真集
私の従軍中国戦線』
から引用する。
南京制圧
第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに虐殺死体が
目立ち始めました。
(略)奥の部屋に踏み込むと、下半身
裸の婦人が、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。
少し奥には、五〜六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。
プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。 (略)
このような虐殺死体は、随所に見られました。 婦人に暴行を
加えて虐殺し、女性の性器に
棒を差し込んでおくような、
残虐な事例も
何回か目にしました。
南京の攻略が
大幅に遅れたので、第一線部隊の
兵隊は、
厳しい命令を受けて、目が血走っていました。
小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは
師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、
酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、何でも
やれるぞ」
と上官からハッパをかけられているのです。
(略)
ようやく足止めが解除されて、ある日荷物受領に揚子江岸の
下関埠頭へ行きました。
すると、広い河岸が一杯に死体で
うまっているのです。 岸辺の泥に埋まって幅十メートル位は
あろうか、と思われる
死体の山でした。
揚子江岸で大虐殺が行われたという
その現場でしょうか、
軍服を着た者は
ほとんどなく、大部分が平服の
民間人で、
婦人や子供も
交じっているようでした。
死体に油をかけて、焼こうとしたため黒焦げになった死体も、
数多くありました。
死臭で息もつけない中を、工兵部隊が
死体を
沖に運んで
流す作業を
やっていましたが、
こんなやり方では、一〜二ヵ月は
かかりそうでした。
補給部隊が
第一線を追っていく途上で、虐殺死体が
第一線に
近づくほど目立っていった
という事実が
記されている。
否定派お得意の“中国軍の自作自演”の可能性については、一言も
述べておらず、「やりたいほうだい、何でもやれるぞ」
いう声を
聞いた事実を記すことで、実行犯が誰かなのかを
示唆している。
例によって南京虐殺否定派は、村瀬氏を
嘘つき呼ばわりするか、
あるいは、村瀬氏が見たのは
戦闘で死んだ
兵士の死体であり、
民間人というのは間違いだ
などと
主張するだろう。
しかし、当時の軍隊生活と
戦場の実体験を有する者の記述を、
現場を見ていない者が
憶測をならべて、ウソや間違いだ
などと
断じるのは、やはり
無理な話だろう。
犯行現場に居た者、目撃した者の証言は、犯罪捜査の場面でも、
また、裁判の場でも、重要な証拠として
採用されるものだ。
これは メッセージ 40866 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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目撃者証言(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/19 20:37 投稿番号: [40866 / 41162]
南京事件否定論は、いずれも「なかったはずだ」「信じられない」
「あったはずがない」
などという
主観論、憶測に
過ぎない。
これに対し、その時・その現場に
居た者の証言は
客観的で、
具体的な供述であり、「直接証拠」
としての価値を有している。
前述の
井出純二氏の手記を
続けて
引用しよう。
私は
彼らが屠所へ引かれる羊のように
おとなしく
追い立てられるのが、ふしぎで
ならなかった。
(中略)
もっとも、その前に北支戦線で
やはり捕虜を日本刀で
処刑する現場を見たことがあるが、このときも観念して
おとなしく
斬られていた。
あきらめのよいのは
中国人の民族性なのだろうか。
(中略)
さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用の
ダンベラを
振りかざす者もいるが、捕虜は
おとなしく
坐りこんでいる。
それを
次々に斬って、水面に
けり落しているのだが、
ダンベラは
粗末な新刀だから
斬れ味は
悪い。
一撃で首をはねることができるのは
かなりの名人で、
二度、三度と
斬りおろして
やっと首が落ちるのが
大多数だが、念入りにやるのも
面倒くさいのか、
一撃して
半死半生のままの捕虜を
けり落していた。
傍まで行くと、四十歳前後の
ヒゲの応召兵が
「戦友○○のカタキ討ちだ。
思い知れ」
と大声で
怒鳴りながら
ダンベラを
ふるっている。
(中略)
その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に
江岸で
数人の兵が
指さしながら
見物しているので、
「何ですか」
と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた
舟を
揚子江の中流まで
漕ぎ出して
捕虜を突き落し、
舟の上から
機銃で
射ち殺しているところだった。
その前後、江岸にたまった死体を
工兵隊らしい連中が、
舟の上からサオとカギを使って流しているのを目撃して、
カメラに収めた。
北支でも
そうだったが、こうした
処刑場面を
第三者の目から
隠そうという気持が、
当事者には
まったく
なかったようだ。
将校か指揮官でもいたら
事情を聞いてみたはずだが
姿は
なかった。
末端の兵隊に掃除させているような
感覚だったのだろう。
(中略)
そのころ
市内の電柱に、日本軍の名で
「兵器修理工場を
つくる。
少しでも
兵器取扱いの経験者は来れ、優遇する」
といった
求人広告が
貼ってあるのを見た。
中国で
兵器取扱いの経験者
といえば、旧軍人とみて
まず間違いなし
というわけで、これも
苦しまぎれの
敗残兵狩出しの
奇策だったようだ。
(1984年発行「増刊歴史と人物
秘史・太平洋戦争」より)
これは メッセージ 40865 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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目撃者証言(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/19 20:36 投稿番号: [40865 / 41162]
容疑者の自白、そして
被害者や
目撃者による
証言は、
犯罪捜査でも
裁判でも、犯行事実を証明する直接証拠となる。
南京虐殺事件に関しても、同様のことが
言える。
被害者や
目撃者の証言は、「直接証拠」
にほかならない。
当時の陸軍航空兵軍曹・飛行第8大隊付従軍記者、井出純二氏も
重要な
証言者の一人だ。
その手記を
以下に引用してみたい。
いわゆる南京虐殺事件は、十七日の入城式と
翌十八日の
慰霊祭を前に、治安の確立を焦った
日本軍が、
市民の間に逃げこんだ便衣兵を、大量に
狩り立てて
殺したのが
主体ではないか
と推測する。
中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における
訓示の中で、特に軍の暴行にふれて
批難、叱責したのも、
今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。
にもかかわらず、それから
十数日経った後、南京埠頭で
私が見た
光景は、なんと
解すべきか。
軍司令官の威令、日本の軍規は、なぜに
そこまで
堕落していたのか。
ましてや
私が見た限りでは、大量、組織的、軍命令による
白昼堂々の
“公的処刑”
としか
見えなかったのは、
いったい
どうしたことなのか。
私は、松井大将の声涙くだる異例の訓示と、この現実との
相関について、いまだに
その解釈に
苦しんでいる。
(中略)
鉄橋の手前で、収容所から
運ばれてきたらしい
二十人ばかりの
中国人捕虜が
トラックから降ろされ、
江岸へ
連行されて行く。
釈放するからと偽って
連れてきたのか、みんな
大きな
フロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を
着ていた。
軍服姿は
見当らなかったが、二十、三十歳代の男が主で、
坊主刈りが
多いので、便衣兵かなあと
眺めていた。
江岸まで200メートルもあったろうか、道路のカーブを
曲ると、江岸の斜面から水際にかけて
処刑された死体が
ゾロゾロと
重なっている。
追い立てられて
よろよろと歩いてきた
捕虜たちは
気づいて
動揺したようだが、ここまで来ると、
もう
逃げ道はない。
井出氏が
中国人捕虜の大量殺害を
目撃した時期は、
日本軍の入城・占領から、すでに
十数日が
経過していた。
当然ながら、すでに「戦闘中」
ではない。
にもかかわらず、
「大量、組織的」
な殺害が
遂行されていた
というのだ。
松井大将が
わざわざ「異例の訓示」で、「軍の暴行」にふれて
「批難、叱責した」
ほどだったが、その訓示と実際に目撃した
光景とは
相反するものであり、理解に苦しむものだった――
これが、
その時、その現場に居た者による
目撃証言だ。
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Re: ハースト キャッスル
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/19 17:14 投稿番号: [40864 / 41162]
ハースト系の新聞のの世論作りは失敗しましたね、然し企業的には一部成功したようです。
今もアホなハースト系新聞ネタを信じている、左巻きが居る事が問題ですね、中国も承知で宣伝して居ますよね。
これは メッセージ 40863 (nan*ka*no*ima さん)への返信です.
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ハースト キャッスル
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/19 16:48 投稿番号: [40863 / 41162]
これは メッセージ 40862 (nya**otyan*dam*n さん)への返信です.
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Re: 『容赦なき戦争』の日本兵日記
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/19 15:06 投稿番号: [40862 / 41162]
この様な事も書いていますね。
昭和八年十一月十八日 在米 特命全権大使 出淵勝@ 外務大臣 広田弘毅殿 日本軍部ノ秘密会議ニ関スル新聞記事ニ関スル件 会テ日本ニ滞在シ海軍大学等ニモ関係セルコトアリ且「メネース、オブ、ジヤバン」ノ著者トシテ知ラレタル「テイモジー、オーコンロイ」ハ日本軍部ニハ荒木陸相ヲ首班トスル四名ヨリ成ル秘密会議アリテ右ハ東洋ノ征服ヨリ世界ノ征服ニ迄進マントシ居レリトノ説ヲ発表シタルカ右ハ当地方ニ於テ「ニユーヨーク、アメリカン」及「ワシントン、ヘラルド」等ノ「ハースト」系新聞ニ甚タ「センセーシヨナル」ナル題目ノ下ニ掲載セラレタリ 何等御参考迄新聞切抜相添ヘ報告ス
これは メッセージ 40859 (nan*ka*no*ima さん)への返信です.
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Re: 『容赦なき戦争』の日本兵日記
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/19 15:04 投稿番号: [40861 / 41162]
この様なものもありますよ。
仏国ノ米国新聞経営者「ウイリアムハースト」退去処分ノ件 公第六三三号 昭和五年九月三日 在仏特命全権大使 芳沢謙吉 外務大臣男爵 幤原喜重郎殿 「ハースト」仏国退去処分ニ関スル件 今般当地ニ来遊セル米国新聞経営者「ウイリアムハースト」ハ九月一日仏国官憲ヨリ退去処分ニ附セラレ即日英国ニ渡航シタルカ右処分ハ先年「ハースト」系新聞紙カ海軍々縮ニ関スル英仏妥協案ニ関スル仏国外務省機密文書ヲ暴露セル事件(昭和三年十一月五日付公第六五九号参照)ニ基因セルモノナル旨二日当地国内閣ヨリ別紙ノ通公表セラレタリ
これは メッセージ 40859 (nan*ka*no*ima さん)への返信です.
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Re: 『容赦なき戦争』の日本兵日記
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/19 14:27 投稿番号: [40860 / 41162]
ハースト系の新聞にはピューリツアーも居たんですよ。
彼らが各新聞ネタは、風聞で在れ、聞き込みで在れ、其の裏付けを取らずに、唯々センセーショナルに書き立てるもだったそうですね。
其の新聞紙の色が黄色だった事より、イェローペーパーと揶揄されたようです。
当時の知識人は相手にしない新聞でしたが、一般大衆には受けたようですね、其のセンセーショナルな書き方が。
以下のように日本も認識はしていたようですよ。
漢口爆撃に関する米国報道 同盟来電 不発表 ニユーヨーク二十九日AP電 昨二十八日敢行された我が海軍機の漢口大爆撃に関する米国新聞の報道左の通り △ハースト系新聞漢口特派員報道 「日本空軍の爆撃機三十九台は二十八日漢口を空襲しその結果漢口郊外に於いて死者一千名を出した。空襲を予期して待構へた五十台の支那機は時を移さず日本軍空襲部隊に立ち向ひ勇戦隊にこれを撃退したが、その際爆撃機十二台、戦闘機六台を撃墜した、支那側が撃墜されたものは唯の三台に過ぎない」
これは メッセージ 40859 (nan*ka*no*ima さん)への返信です.
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『容赦なき戦争』の日本兵日記
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/19 13:36 投稿番号: [40859 / 41162]
今読んでいるジョン・ダワー『容赦なき戦争』平凡社2001のp108にも、
アメリカ政府が公表した、死んだ日本兵の日記の英訳文の話が出てきますが、
これも奇妙な文に見える。
捕虜の飛行士の斬首の模様を記録したものだ、と言うが、
これを、ニューヨークタイムズ他、多くの新聞が報道したそうである。
ダワーは、虚偽報道の可能性など、本では一切書いてない、ように見えるのだが、
私は、確認してみないと何とも言えないだろう、と、思う。
アメリカで、「確認しよう」という動きがなさそうなのが、気になる。
実は、アメリカ映画『市民ケーン』を見て、
イエロー・ジャーナリズムと言われたハーストのことを知りました。
アメリカが、スペインからフィリピンを奪った米西戦争の始まりは、
ハースト新聞のでっちあげ記事も背景にある、と知って、
アメリカの戦時中のメディアのことを知りたくなって、見てみたのです。
これを調べた本はあるのでしょうか?
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Re: 陣中日記(5)
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/19 09:51 投稿番号: [40858 / 41162]
でも笠原先生は、
普通の素人!と思ったらしい私に対して、
丁寧にお返事を下さった方ですから。
これは メッセージ 40857 (nan*ka*no*ima さん)への返信です.
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Re: 陣中日記(5)
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/19 09:39 投稿番号: [40857 / 41162]
「史料批判」の方法に以下のような項目があるのですが、
日記類を読むと、最後の(4)を連想します。
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/rekisitosyoumei.rironnhenn.html1)偽作でないかどうか(真偽の検討)
1. その史料の形式が、他の正しい史料の形式と一致するか。
古文書の場合、紙・墨色・書風・筆意・文章形式・言葉・印章などを吟味する。
2. その史料の内容が、他の正しい史料と矛盾しないか。
3. その史料の形式や内容が、それに関係する事に、発展的に関係し、
その性質に適合し、蓋然性を持つか。
4. その史料自体に、作為の痕跡が何もないか。
その作為の痕跡の吟味として、以下のようなことが挙げられる。
(1) 満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、
その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか (来歴の検討)
(2) その作者が見るはずのない、またはその当時存在しなかった、
他の史料の模倣や利用が証明されるようなことがないか。
(3) 古めかしく見せる細工からきた、その時代の様式に合わない、時代錯誤はないか。
(4) その史料そのものの性質や目的にはない種類の、偽作の動機から来たと見られる傾向はないか。
日記の兵士は自分の残虐行為をしつこく書きますが、
これは「偽作の動機から来たと見られる傾向」に見えます。
平凡社新書編集部経由で、笠原十九司先生からいただいた返信では、
『南京大虐殺を記録した皇軍たち』は、よく読めと書いてあった本ですが、
今井登志喜著の「史料批判」の一文をご存知だったなら、
疑わないのは自らの不明と、
心得ているはずだったのです。
これは メッセージ 40853 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 陣中日記(2)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/19 05:56 投稿番号: [40856 / 41162]
右側支隊左第一線命令
十二月十日午前三時三十分
於
西流鎮中央
一.師団主力ハ下麒麟門ニ進出セリ
第九師団ハ南京城東南部ニ進出シ敵ト対峙シアリ
敵ハ南京城及其ノ付近ニ十五糎級ノ火砲ヲ備ヘ盛ンニ我軍ヲ射撃シツツアリ師団ハ南京攻略ノ端緒ヲ開ク為柴金山方面ヨリ南京城ヲ肉迫スル企図ヲ有ス
右支隊ハ一部ヲ以テ玄武湖東側地区ニ陽動ヲ行ヒ主力ヲ以テ江辺車站方面ニ前進シ敵ノ退路ヲ扼シテ敵ヲ撃滅ス
二.連隊(第二、第三大隊欠)ハ左第一線トナリ本朝午前七時三十分迄ニ普陀寺東側高地線ニ展開シ爾後攻撃ヲ準備セントス第三大隊ハ右第一線トナリ何家辺及其南方無名部落ノ線ニ展開シ攻撃ヲ準備スル筈
第二大隊、迫撃砲隊及工兵小隊ハ旅団予備隊トナリ概ネ現在地点ニ位置スル筈
三.第一大隊(第四中隊欠)ハ午前七時迄ニ普陀寺東側高地ヨリ其ノ南方高地ノ線ニ展開シ爾後攻撃ノ準備スベシ
四.連隊砲ハ午前七時三十分迄ニ観音洞付近ニ陣地ヲ占領シ第一大隊ノ攻撃ニ協力シ得ル如クニ準備スベシ
五.第四中隊、速射砲中隊ハ予備隊トス午前七時三十分迄ニ観音洞東側高地ニ至ルベシ
六.西流付近露営部隊午前六時迄ニ現在地ヲ出発シ諸道路ヲ開放スベシ又失火、屋外露営火等無キ様特ニ消火スベシ
七.野砲兵大隊ハ観音洞付近ニ陣地ヲ占領シ第一線諸隊ノ攻撃ニ協力スル筈
八.攻撃前進ノ時刻ハ追テ示ス
九.速射砲中隊ハ午前八時迄ニ旅団司令部、連隊本部、第一大隊本部間ニ電話連絡スベシ
又第三大隊ト連隊本部間ニ架設ノ準備アルヲ要ス
一〇.余ハ午前七時観音洞高地ニ至ル
左第一線隊長
助川大佐
――――――――――――――――――――――――――――−−−−−
右側支隊左第一線命令
十二月十日午前九時
於
西流西方五〇〇米高地脚
一.当面ノ敵情詳ナラザルモ大ナル部隊ナキガ如シ
二.支隊ハ予定ノ如ク逐次要地ヲ占領シツツ堯化門南北ノ高地線ニ向ヒ進出セントス
三.右第一線ハ当面ノ敵ヲ捜索シツツ堯化門西南方高地(鉄道線路ヲ含ム)ニ向ヒ前進スベシ
四.右第一線ハ左第一線ニ連繋シ堯化門停車場西方約八〇〇米ノ高地線ニ向ヒ前進スベシ
五.砲兵大隊ハ歩兵前進ニ伴ヒ逐次陣地ヲ躍進スベシ
六.予備隊ハ直ニ普陀寺ニ集結シ其ノ歩兵ニ続行し中央後ニ至ルベシ迫撃砲隊ハ下麒麟門ヲ経テ追及スベシ
七.余ハ予備隊ノ一部ト共ニ午前十時現在地ヲ出発普陀寺ヲ経テ右第一線ノ後方ニ至ル
支隊長
佐々木到一
――――――――――――――――――――――――――――−−−−−
左第一線連隊命令
十二月十日午前十時二十分
於
仙鶴門鎮北方五〇〇米高地
一.退却セル敵ハ揚坊山及其ノ以東ノ地区ニ陣地ヲ占領セリ
二.左第一線連隊前面ノ敵ヲ撃破シ銀吼山ニ向ヒ進出セントス第一大隊長(第四中隊ヲ欠)は仙鶴門鎮―堯化門道以南ノ地区ヨリ前面ノ敵ヲ攻撃スベシ
三.歩兵砲ハ仙鶴門鎮北方約五〇〇米ニ陣地ヲ占領シ旅団ノ右第一線及第一大隊ノ正面ノ攻撃ニ協力スベシ
四.第四中隊、速射砲ハ連隊予備隊トス先ズ歩兵砲陣地ノ東方ノ斜面ニ位置スベシ余ハ歩兵砲陣地ニ在リ
連隊長
助川大佐
これは メッセージ 40850 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 陣中日記(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/19 05:49 投稿番号: [40855 / 41162]
師団ノ注意事項
注
意
(一)軍命ニ依リ部隊ハ城壁内ニ入ルヲ禁ゼラル攻撃ノ為ニハ入ルコトヲ許サル城壁ヲ占領シタル時ハ国旗ヲ城壁ニ揚グル事
(二)道路ノ一側ヲ開放スル事ニ注意スベシ
(三)露天ノ焚火厳禁ス敵砲兵ノ攻撃目標トナルヲ以テナリ
(四)南京ニ砲兵在リ放火ニ対スル注意ヲ喚起スルヲ要ス
(五)今日ノ戦闘ノ経験ニ依ル地雷相当アルヲ以テ家屋溢路等ニ入ル時ハ注意スル事
(六)南京攻撃ニ関シ支那軍降伏ノ意志在ラバ本日午後一時迄ニ中山門ヨリ我ガ軍ニ向ヒヲ揚グル軍使ヲ派遣スベキ事ニナリシ在リ右軍使来ル時ハ其ノ方面ノ部隊ハ一時戦闘ヲ中止シ軍使ヲ待ツ事
↑この様な軍命を知らん日本兵は居ないよね。
証言者は自分が行う事以外の事を良く知っているようだが、自分が命令された事をすっかり忘れているようだね。
これは メッセージ 40849 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 陣中日記(5)
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2012/12/18 21:08 投稿番号: [40854 / 41162]
お前、狂ってんじゃねえのかいなぁ〜?
これほど日本国悪しの我が罪ボイス〜。日本人としての権威を貶めている日本人でっか〜?
敗戦迎えて、日本国は断罪された。その上まだ日本人悪しって攻める、極悪民族シナ畜生とチョンコロコロスケ〜。
お前、日本国から出ていきな〜!
これは メッセージ 40853 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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陣中日記(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/18 19:15 投稿番号: [40853 / 41162]
山砲兵第19連隊第3大隊
上等兵の日記の記述は
さらに、次のように
続いている。
拾二月拾五日
晴
南京城外其地に我が拾三師団は休養する事となった、
午前馬糧の徴発に忙しかった、敵首都南京城も助川部隊
が拾三日午前拾時三十分に占領してしまったのである、
城内にも入城する事が出来た。
拾二月拾六日
晴
午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯の目的にて馬風山
方面 に向ふ 、二三日前捕慮せし支那兵の一部五千名を
揚子江の沿岸に連れ出し
機関銃を以て射殺す、
其の后銃剣にて思う存分に突刺す、
自分も此の時ばかりと憎き支那兵を三十人も突刺した事で
あろう。
山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは
鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、
うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も
居る、
一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、
こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった、
(略)
帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。
(『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P350〜351)
次は、山砲兵第19連隊第8中隊の伍長に日記の記述。
〔十二月〕十四日
午前四時起床、直ちに出発する、道路暗くて而も寒い、
前進して午前八時頃敵の降伏兵の一団に逢ひ敗残者の
悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、
更に数団、全部にて三千名に達せん、
揚子江を船で逃げる兵を小銃軽機にて射撃するのも面白し、
目の前に南京城を見て降伏兵の一段を馬上より見下すのも
気持が悪くない、南京牧場宿営、女を混じへた敵兵の姿。
(略)
〔十二月〕十六日
(略)夕方二万の捕慮が火災を起し警戒に行った中隊の兵の
交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日
揚子江畔にて銃殺と決し
護衛に行く、
そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、
断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、
戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、
一生忘るる事の出来ざる光影であった。
この兵士の記録にも、大勢の捕虜を
揚子江の畔に連れ出して
機関銃による銃殺や
銃剣による刺殺によって
殺害したこと、
12月16日には、自分も30人ほどを突き殺したことなどを
記録している。
南京攻略に従軍した日本軍の兵力は約10万。
この兵士だけが特別で異常な存在でなければ、数日間のうちに
何万もの中国人を
殺害するのは、十分
可能だったろう。
これは メッセージ 40852 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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陣中日記(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/18 19:10 投稿番号: [40852 / 41162]
前述した歩兵第65連隊連隊砲中隊一等兵の陣中メモには
12月17日に
捕虜1万数千人を銃殺し、翌18日から
その遺体の片付け作業に日数が費やされたと記録している。
遺体片付けについては、同連隊所属の
別の兵士の日記にも、
次のような
記録がある。
12月18日
入城式も終はって、今度は一時にひまとなった。
朝飯を食してより南京見物に行く。
(中略)
中隊では死体片づけに全員行っている。
夕方になる。
夕飯の準備をしているうちに戦友が真っ黒な顔をして
帰ってくる。
聞いてみれば、煙にて染まったとか。
中隊全員で
朝から夕方までかかって、遺体の片付けに
当たっていた。
もちろん、日本軍兵士の遺体ではない。
次に、同じ時期のことを記録した
山砲兵第19連隊
第3大隊段列・編成
伍長の陣中日記を
引用しよう。
十二月十六日
晴天
南京城外
休養、市内に徴発に行く、(中略)午後四時山田部隊にて
捕いたる敵兵約七千人を銃殺す、揚子江岸壁も一時死人の
山となる、実に惨たる様なりき。
十二月十七日
晴天
南京城外
午前九時宿営地出発、軍司令官の南京入場式、
歴史的盛儀に参列す、
午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、
二日間にて山田部隊
二万人近く銃殺す、各部隊の捕慮は
全部銃殺するものの如し。
十二月十八日
晴天
南京城外
午前三時頃より風あり雨となる、朝起床して見ると各山々は
白く雪を頂初雪となる、
南京城内外に集結せる部隊数
約十ヶ師団との事なり、午後五時残敵一万三千程銃殺す
(『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P373)
次に、山砲兵第19連隊第3大隊
上等兵の日記を引用する。
拾二月拾三日
晴
七時半某地を出発した、揚子江附近の道路を通過する際
我が海軍の軍艦がゆうゆうと進江して居るのがよく見えた
敵の敗残兵は諸所に殺されて居た、午后八時某地に到着
宿営す。
拾二月拾四日
晴
午前三時半出発して前線に進む、(略)
途中敗残兵を
六五にて
一千八百名以上
捕慮にして
其の他沢山の
正規兵で合計五千人の敗残兵を拾三師団にて捕慮にした
全部武装解除をしたのも見事なものである、
命令我が大隊は馬風山砲台を占領して東外村に宿営す、
(略)
捕慮兵は両手をしばられ歩兵に警戒せられて或る広場に
集められて居た、馬風山砲台には日章旗高く揚げられて
万歳を唱へられた、
種々なる感想を浮べて前進を続け東外村に宿営す、(略)
これは メッセージ 40851 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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陣中日記(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/18 19:09 投稿番号: [40851 / 41162]
日本軍兵士たちの陣中日記には、南京戦を
実体験した
当事者が見た、「そのとき」の真実が
記録されている。
次に引用するのは、歩兵第65連隊
本部通信班所属の
有線分隊長・編成
伍長が残した
日記の記述だ。
十二月十四日
未明油座君支那の工兵大尉を一人とらへ来る。
年、二十五才なりと、R本部は五時出発、
吾は第五有線班の撤収をまちて八時半出発。
午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。
敵の銃をひろひて撃てるものなり。
第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり。
天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向かふ、
鹵獲銃は道路に打ちくだく。
一丘をこえて南京の城壁目(間)近に見ゆ。
城壁一千米手前にて彼の工兵大尉を切る、
沈着従容たり、時午後四時也。
午後五時半、R本部に至るも本部未着六時四十分頃着す。
十二月十五日
午前九時朝食、十時頃より×××伍長と二人して徴撥に
出かける、何もなし、唐詩三百首、一冊を得てかへる、
すでに五時なり。
揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、
三四十名づつ一度に行ふものなり。
次は、歩兵第65連隊連隊砲中隊・編成
一等兵の陣中メモ。
〔十二、〕十四
午後五時出発夜頃より敵兵続々と捕虜トス、幕府山要塞を
占領し午後二時戦斗を中止す、廠舎に捕虜を収容し其の前
に宿営警戒す、捕虜数約一万五千。
〔十二、〕十五
今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。
〔十二、〕十六
飛行便の書葉到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、
約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出
銃殺に附す。
〔十二、〕十七
未曾有の盛儀南京入場式に参加、一時半式開始。
朝香宮殿下、松井軍司令官閣下の閲兵あり、
捕虜残部一万数千銃殺に附す
〔十二、〕十八
朝より小雪が降った、銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し
〔十二、〕十九
本日も敵兵の片付に行く、自分は行かなかった。
この記録によれば、12月17日の一日間、同連隊だけで
捕虜の殺害数は
1万数千人にも達したこと、
遺体の処理に日数を要し、小雪が降る季節にもかかわらず
「臭気甚だしい」
という状況だった
ということが判る。
これは メッセージ 40850 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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陣中日記(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/18 19:07 投稿番号: [40850 / 41162]
もうすこし、日本軍兵士の陣中日記を
引用してみよう。
次は、歩兵第65連隊第1中隊・編成
上等兵の日記だ。
十二月十三日
晴
午前六時宿営出発。
余(途)中数十名の敗残兵を
射殺し
十時銃胞(砲)声の中に
入りたるの感あり、
銃胞(砲)声を近くに聞く事始めての我等は、
胸の度きをおぼゆる。いつか一ヶ中隊だけ独立となり、
且、一小隊わ将校斥候に出て居らず、此の附近、
道には地雷を二十米をき位にあり、山わざんごうあり、
鉄条網ありて厳強なる陣地の如し。
午后三時頃はからず烏龍山砲台なるを知り占領。
砲台は主として揚子江に面し陸にはとちかを築き
陣地の補強工事中なり。
十二月十四日
晴
警備。
敗残兵掃蕩のため中隊長准尉一小隊の一分隊と
我四分隊とで砲台に行く。
幾名とも知れず射殺す。
十二月十五日
晴
敗残兵数百降伏し来るとの報に一同出動、約二千米。
山中に小銃約百丁、チェック四、銃重機二其の他多数の
弾薬を置き逃走。右武器を前日占領の自動車にて中隊に
運ぶ。
(略)
十二月十七日
晴
警備。(略)毎日敗残兵の銃殺幾名とも知れず。
毎日、敗残兵を
銃殺した。
その数は、「幾名とも知れず」
という記録だ。
次は、歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充
少尉の日記だ。
十二月十五日
一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す
本日も出発の様子なく警戒に任ず。中隊は衛兵を多数出し
又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。
夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて
捕慮兵の給食は勿論容易なるものでない。
十二月十六日
警戒の厳重は益々加はりそれでも(午)前十時に
第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも
疎の間で午食事中俄に火災起り
非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時
大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を
揚子江岸に引率し之を射殺す、
戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。
参考資料:『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
小野賢二ほか編、大月書店(1996年3月発行)
これは メッセージ 40849 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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陣中日記(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/18 19:02 投稿番号: [40849 / 41162]
盛んに「虐殺事件マボロシ論」
を振り回す
ヤカラの中には、
何十万人もの捕虜を殺害することなど
物理的に不可能だから
大虐殺があったという証言はウソだ、などと
大マジメな顔で
決めつける者もいる。
じつに正直に、みずから
見識の乏しさを
披瀝するものだ。
大量虐殺は、南京城陥落直後の数日間に
限ったことではなく、
長期にわたる攻防戦と
占領後の掃蕩作戦の中で
発生した
事件であることを理解すべきだ。
そして、一部の無法者が犯した行為ではなく、数万にのぼる
武装兵士が、組織的に
実行したのだ。
近代兵装の軍隊が
何万の生命を奪うことは、いたって容易だ。
その実態は、夥しい証言と
記事により
明らかになっている。
一例として
南京戦にあたった将校の陣中日記が現存している。
以下は、歩兵第65連隊第1大隊に所属した
上等兵の日記だ。
◇十二月十四日
朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り
計一万五千名位 。
◇十二月十五日
今日一日捕虜多く来たり、いそがしい。
◇十二月十六日
今日南京城に物資徴発に行く。
捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
◇十二月十七日
今日は南京入城なり(一部分)。
俺等は今日も捕虜の始末だ。
一万五千名、今日は山で。
大隊で負傷、戦死有り。
第65連隊の
第1大隊だけで、しかも
2日間だけで、
捕虜を
1万7500名も
殺害した
という記録だ。
日本軍全体で、捕虜の処理に
何日間もかけたとすれば、
殺害された捕虜の総数は、想像を絶する。
次は、歩兵第65連隊第1中隊・編成
上等兵の日記だ。
拾二月拾七日
(略)午后一時から
南京入場式。
夕方は
大隊と一所の処で
四中隊で
一泊した。
その夜は
敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した。
拾二月拾八日
大隊本部に行った、そして午后
銃殺場所見学した、
実にひどいざん場でした。
やはり、戦闘によって
ではなく、「捕虜」にした敵兵を
大量に
銃殺処分にした
ということを
記録している。
降伏した敵兵、捕虜を
武装解除後に
殺害することは
違法行為であり、それ以前に
人道上許されない蛮行だ。
参考資料:『南京戦史資料集2』南京戦史編集委員会編
(増補改訂版
平成5年12月8日)
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Re: 日本歴史学習事典(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/18 09:31 投稿番号: [40848 / 41162]
南京掃討戦以後、銃撃が行われたという公式の記録は無い。
東京裁判でも其の様な証言はない。
これは メッセージ 40838 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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コピペ屑にレスしても
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/17 22:57 投稿番号: [40847 / 41162]
自分に都合が悪いととことん無視するよこいつは。
大体用意したコピペを貼るだけしか能がない阿呆だし。
昔さんざん私にやられたのを根に持ってるね(笑)
これは メッセージ 40846 (nan*ka*no*ima さん)への返信です.
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Re: 日本歴史学習事典(1)
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/17 22:51 投稿番号: [40846 / 41162]
わだつみさんの話はおかしいです。
出版社が出した辞典類に、事実の証拠となる能力がありますか?
証拠能力があるのは原典史料だけです。
その原典史料の一つが真っ赤なニセモノだとわかり、
その多くの疑問点を、
握りつぶした解読者がいたことがわかりました。
そして「あった派」研究者が、
その偽作史料を掲載した活字本『南京事件資料集』(偕行社)を論拠にして議論し、
原典史料を調査した様子がないのです。
これでは、『南京事件資料集』の原典史料を全部調べないと、
とても信用できないのではないでしょうか。
これは メッセージ 40838 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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Re: 南京事件の手書き現物史料「未確認問題
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/17 21:56 投稿番号: [40845 / 41162]
秦郁彦氏に批判された、
山川出版社の高校教科書の執筆者、加藤陽子氏にも、
サイトがわかったので14日に送信。
現物史料を確認しないままでは、南京事件は書いてはいけない、
という、この私の趣旨は、誰でも納得していただけると思います。
わだつみ氏は、書きまくれば、争点など、ずれていてもかまわない、
と言うわけでしょうか。
これは メッセージ 40844 (nan*ka*no*ima さん)への返信です.
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Re: 南京事件の手書き現物史料「未確認問題
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/17 21:43 投稿番号: [40844 / 41162]
学研のサイトには送信できた。
マイクロ社のサイトは、送信場所がわからない。
平凡社にも送信した。
山川出版社は文字数制限にひっかかって入らない。
中央公論社の本は、古すぎる。
もちろん、読売・朝日・毎日・産経・東京各新聞社には、
14日に送信済み。
産経・東京からは、確認した、との返信あり。
これは メッセージ 40843 (nan*ka*no*ima さん)への返信です.
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南京事件の手書き現物史料「未確認問題」
投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/12/17 21:10 投稿番号: [40843 / 41162]
岩波書店・小学館・弘文堂・三省堂・教育史料出版会、
外務省などに送信。
「南京大虐殺」という項目ですが、
実証された事実であるかのような記事になっているようです。
しかし、左派研究者は、
基本史料に活字印刷物をそのまま使うなど、研究の基本作業を全く欠いたままです。
手書き文献を検討しないままでは、このような記事は載せられない、
と、編集段階で意見を言うべきです。
「南京事件元兵士日記の、偽作の証明に向けての一考察」という論文を、
自分のホームページに載せています。
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/ronnbunn.html秦郁彦『南京事件』中公新書が出て26年、
その間、誰にも「おかしい」と言われなかった、写真版手書き日記ですが、
私はこの日記は「偽作」だと思います。
1937年の南京事件の頃には、
これほどの「草書変体仮名」の書き手は、滅多にいなかっただろうし、
その古そうに見せかけた文字使いに、戦後の新仮名遣い「いる」が混じるのはおかしいし、
日本語としてもおかしければ、用語もおかしい、
という、おかしいだらけの日記です。
実は「古文書学会向け」に6月15日に出してあったのですが、
そのまま全く採否の連絡がなく、
12月13日、やっと学会誌が届いて、不採用がわかった、という次第です。
私の論文は原稿用紙換算でわずか26枚(新聞1ページ)程度ですので、
ご一読いただけないでしょうか。
草書変体仮名の読み手は少ない。
現物の草書変体仮名を最初に解読した人物が、史料の多大の疑問点を、完全に握りつぶしたかのように見えます。
この私の論文内容に、南京事件論争について、問題点の指摘を付け加えるなら、
笠原氏十九司氏も秦郁彦氏も、
○「史料批判」の言葉の意味を間違っていること、
(「史料内容を相互に照合する」
(『歴史の事実をどう認定しどう教えるか』教育史料出版会p220笠原)、
「必要な情報の取捨や評価を、歴史学では「史料批判」と呼ぶ。」
(秦郁彦『南京事件』中公新書p107)
「史料批判」の意味は、以下の私の文、『歴史と証明』理論編に書いてあります。
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/rekisitosyoumei.rironnhenn.html
そもそも、史料に偽作贋作、虚偽・錯誤が極めて多いので、まずそこから疑え、というのが趣旨です。
○基礎史料に、偕行社刊『南京事件資料集』など、「活字印刷物」を使っていて、
手書き史料の現物を全く検討していないこと、
など、研究の基本作業を完全に欠いたままの議論であること、が挙げられるでしょう。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40843.html
日本歴史学習事典(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/17 20:59 投稿番号: [40842 / 41162]
日本で発刊されている主な辞書事典類、歴史専門書などで
南京虐殺事件そのものを否定して
記述しているものは、
一つもないだろう。
いずれも
学術的な書籍だからだ。
純粋な学問とは次元の異なる
イデオロギー、政治思想が
絡んできて、はじめて
「虐殺はウソ」、「捏造」
という
否定論が
持ち出されることになる。
否定論には、「中国の情報戦略」
だとか、反日左翼の策謀
だとか、プロパガンダ
などという、学問とは
関係のない
思想差別や
論者への人格攻撃が
必ず
付きまとっている。
しかし、歴史辞典や
歴史教科書、公文書類は、特定思想や
政治宣伝に関係して編集されるものではない。
したがって
それらの記述は、すべて
南京での虐殺は
事実と記される。
日本で採用されている歴史教科書は、すべて
南京事件を
記載しており、あの「作る会」編集の歴史教科書でさえも
例外ではない。
ただし、「作る会」教科書は
「日本軍
によって民衆にも多数の死傷者がでた」という程度でしか
記述していない。
これでは、まるで偶発的に
民間人が
戦闘にまきこまれて
犠牲になった
という印象をうける。
こうした表現は、じつに
不正確なものだ。
「民衆にも多数の死傷者がでた」
というのは、南京だけに
限ったことではなく、中国大陸各地で
日本軍が行動した
ほとんど
あらゆる戦場で起こったことで、これだけでは
なぜ「南京事件」が
世界的な非難の的に
なったのかが
理解できないだろう。
南京事件が
なぜ特別の注目を集めるかといえば、それは
戦闘中だけでなく、とくに
戦闘終了後も、捕虜や一般の
市民に対する
殺戮行為が
大規模に、しかも
組織的に
行われた点
なのであり、その肝心の事実を
抜きにして
「民衆にも多数の死傷者がでた」
というだけの叙述では
とても
この事件の本質を
知ることはできない。
完璧な人間など、どこにも
存在しない。
ましてや
成長過程では、誰しもが
失敗を経験する。
若気の至りで他人に迷惑をかけたり
試行錯誤を経て
世間から尊敬されるような人格者に
成長していく。
個人同様に
はじめから「完璧な国家」
も存在しない。
あらゆる国家は過去において必ず
あやまちを起こした。
悲しいことだが、高度な民主主義社会に到る過程では
避けられない運命だった。
しかし、ここから先が
その国民の資質と
国家の未来を
決定する。
過去の過ちを
ひた隠そうとする人間は
品性下劣だ。
その程度は低く、他人(他国民)から
信頼されない。
けれども、自分の過ちに気づき、その間違いを自力で
乗り越えるとき、その人間(国家)には
未来がある。
自己の行為を厳しく点検・反省する一連の苦行により
人間(国家)の質が
高められるばかりか、自浄作業
そのものが、他人(他国)の信頼を
かちとるからだ。
自分の犯した間違いを認めようとせず、自画自賛だけ
繰り返す者は、一見、愛国者に見えて、じつは国民の
質を貶め、日本国の名誉を汚し、国際社会から永遠に
この国を隔離しようとする
売国奴である
と思う。
これは メッセージ 40841 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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日本歴史学習事典(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/17 20:58 投稿番号: [40841 / 41162]
辞書や百科事典類は、当然
素人が執筆するものではない。
少なくとも
日本で発行されている
辞書・事典については
専門知識を有すると社会的に公認される
各分野の権威が
相当の研究成果と
学術的根拠に基づいて
編纂している。
たとえば、いま
手元にある『日本の歴史』(中央公論社)
第25巻『太平洋戦争』
の執筆者は、歴史学者の林茂氏だ。
歴史学に
少しでも
縁のある人間ならば、林茂の名前は
おそらく
一度ならず
聞いたことがあるだろう。
しかし、否定派の諸氏では
知らない者も多いと思うので
念のため説明すると、林氏(1912年〜1987年)は、
戦前は
東京帝国大を卒業後、京城帝国大助教授、戦後は
東京大学教授などを歴任した
日本を代表する歴史学者だ。
その林氏が執筆した
「南京占領と虐殺事件」
の解説を、
以下に
引用しておこう。
まず
南京事件の前史について
次のように
語っている。
「上海の防禦陣地を破られたあとは、南京までのあいだには
中国の防禦線はなく、日本軍は日に六、七里というスピード
で進撃を続けた。この間、『軍補給点の推進は
師団の追撃
前進に追随するを得ずして、上海付近より南京に至る約百里
の間、殆んど糧秣の補給を受くることなく、殆んど現地物資
のみに依り、追撃を敢行せり』(『第九師団作戦の概要』)
という状態であり、徴発を名とした掠奪が行われた。同時に
『敗残兵狩り』
という名目で、一般民衆にたいする
虐殺・
暴行がくりひろげられ、それはやがて、世界を驚かせた南京
虐殺事件の前史をなしている」
短い文章だが、この作戦に加わった第9師団の作戦記録で
証拠づけをしながら、記述を
すすめているところなどは、
さすがに
歴史学者の筆だ
と思う。
続けて、南京事件の本史について述べた文章を引用しよう。
「南京城に対する攻撃は、十二月十日から開始され、十三
日には日本軍の手中におちた。
国民党政府は漢口に逃げ
のびていた。
そしてその日から、日本兵は捕虜の虐殺を
はじめた。」
このあと、林氏は
当時の旅団長として
攻撃を指揮した
佐々木到一中将の記述を引用しながら敗残兵虐殺の事実を
記述している。
どうやら、南京事件否定派の
定義では、
林氏も
捏造をたれ流す“反日サヨク”の筆頭になりそうだ。
もちろん
同氏は、学者として
事実を記したにすぎない。
記述は、事件の国際的反響をも含め
次のように続いている。
「その後も、みさかいもなく
一般民衆にたいする虐殺が
つづくのであり、十五日の夜だけで
二万人が殺されたと
いわれる。(中略)
このニュースは世界に大々的に報道
されたが、日本人は、戦後の東京裁判で
追求されるまで、
この事件を知らないでいた」(『太平洋戦争』64頁)
これは メッセージ 40840 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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日本歴史学習事典(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/17 20:58 投稿番号: [40840 / 41162]
平凡社『日本史大事典』第5巻に記述されている南京事件の
項目は、詳細で
かつ
かなり正確な解説だ。
抜粋して
以下に
引用する。
【南京虐殺】
「日中戦争で南京占領に際し
日本軍によって
中国軍民に
加えられた大規模な残虐行為。」
「一九三七年(昭和十二)八月、日中戦争は華北から華中に
拡大、日本軍は上海で
中国軍の激しい抗戦に
直面し、
大きな損害を被った。
十一月上旬
ようやく
中国軍を
退却させると、中支那方面軍(軍司令官松井石根大将)は、
指揮下の
上海派遣軍(軍司令官
朝香宮鳩彦王中将)と
第一〇軍(軍司令官
柳川平助中将)を、与えられていた
任務を逸脱して
国民政府の
首都南京に向かって急進撃
させた。」
「上海戦で疲労し、凱旋の期待を裏切られた
日本軍兵士は
自暴自棄となり、補給がともなわず
現地徴発に頼ったこと、
中国侮蔑感情や戦友の仇を討つという郷党意識にとらわれて
いたことなども加わって、南京への進撃途上で
すでに掠奪・
強姦・虐殺・放火などの非行が
常態化する状況となった。」
「十二月十三日、南京占領に際しては、十七日の入場式に備え、
徹底的な掃討を行い、投降兵・捕虜を長江沿岸などで
大量に
処刑し、多数の一般市民を
その巻き添えにし、略奪・強姦・
放火を重ねた。
さらに
十二月二十二日、佐々木到一少将が
城内粛清委員長に就任、中国兵の狩出しと
処刑を続け、
三十八年二月初めに及んだ。」
「犠牲者数については
中国側の公式見解は三十万人とするが、
戦闘行為による戦死者を除き、上海から南京へ
進撃途中から
三十八年二月初めまでの期間をとれば、十数万人から二〇万人
前後に達するとみられる。(以下、省略)」
以上、平凡社版『日本史大事典』
からの引用だ。
南京大虐殺を事実という者に対し、「サヨク」や
「反日」、
あるいは
「共産主義者の回し者」の類だ、と
悪罵を吐く
ウヨにかかれば、平凡社も
その類に
されてしまうだろう。
だが、平凡社にかぎらず、国内の主要な出版社が
発行する
歴史辞典・百科事典の類は、いずれも
学術的に
証明され、
信用に足る記録と
情報に基づいて
編纂されているのだ。
これは メッセージ 40839 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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