南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
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悪いけどその程度のことは
投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/14 12:30 投稿番号: [3024 / 41162]
最初から考えて言っている。
あんたが言っていることは、半分正しく半分間違い。
これ以上言うとojによけいな知恵をつけることになるから
今はやめておく。
>※「馬鹿の鼻息…」とか言っても、ojさんに横槍入れるsennenさんの「鼻息」も相当荒いと思いますね。ただ、逆質問は論拠のなさを露呈するだけだと思いますよ。健闘をお祈りします。
安全な審判者の立場から偉そうに物を言うって、
とってもいやらしいって知ってる?
これは メッセージ 3023 (beatnix_a_gogo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3024.html
その論法だと、sennenさん自身も……
投稿者: beatnix_a_gogo 投稿日時: 2004/09/14 09:00 投稿番号: [3023 / 41162]
>>>>n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎
>>>これ自体が、嘘だった訳ね
>>具体的に「嘘だった」という具体的な根拠を言ってみなさい、sennen_no_sippoさん。さあさあ。
>では、逆に聞くが、
そこで逆質問しても、9/13 16:02の時点で断定したことの根拠になりませんよ 。
sennenさんはMsg3012の時点で「嘘だった訳ね」と断定したのだから、9/13 16:02 の時点でojさんの発言が「嘘」だという「根拠」を持っている必要があります。
その時点で根拠を持っていないのなら、9/13 16:02にsennenさんは「断定できないことを断定した」ことになります。
それはsennenさんのいう「断定できないことを断定したら嘘になるんだろ」論法に基づけば、「嘘」になるわけですね。
ということで、いまの時点ではsennenさんの選択肢は3つです。
・9/13 16:02の時点で断定した根拠を提示し、その根拠をもって「ojさんが嘘をついたと証明する」
・証明できないのなら、ojさんを「嘘だった訳ね」と断定した同じ論法に基づいて「sennenさん自身の発言も嘘だと認める」
・ojさんの発言に対する「嘘だった訳ね」という発言を撤回する
いずれかでしょう。
※「馬鹿の鼻息…」とか言っても、ojさんに横槍入れるsennenさんの「鼻息」も相当荒いと思いますね。ただ、逆質問は論拠のなさを露呈するだけだと思いますよ。健闘をお祈りします。
これは メッセージ 3019 (sennen_no_sippo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3023.html
抗日独立戦争の英雄
投稿者: st300gakitahi 投稿日時: 2004/09/14 08:48 投稿番号: [3022 / 41162]
金日成。北朝鮮の教科書によると「縮地法」とかいう瞬間移動の超能力で日本軍を翻弄したんですよね。彼は、分身の術も使えたようですよし。
これは、逆立ちしたって勝てませんな(笑)
これは メッセージ 3021 (oityantyan さん)への返信です.
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日本語読めませんか? スリカエ?
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/14 06:24 投稿番号: [3021 / 41162]
単純なお方にこのような書き込みが多いですね。
ついに、切れましたか?
おかわいそうですね。
お元気で、、、
>>朝鮮はいつ日本と独立戦争を戦いましたか?
抗日独立運動をしたからこそ、現在の朝鮮、韓国があるのですよ。
それとも、金日成が日本軍として連合国軍や中国軍と戦ったとでも思われているのでしょうかね?(笑)
抗日独立戦争の英雄でしょう、、違いましたか、、、?
>>フィリピンはいつアメリカと独立戦争を戦いましたか?
どうもいわれていることが、子供地味ていますね。
独立することは無料ではないと言っているのですが、、理解できないようです。
アホに理解を求めるほど間抜けではありませんよ。
スリカエとは意味をご存知か?
蚊の一種と間違えてはいませんか?
あ〜〜〜ほ〜〜〜と言いたくなりますね。
これは メッセージ 3006 (fighter8823 さん)への返信です.
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去年の話、覚えてる?
投稿者: kokoroikjtaj 投稿日時: 2004/09/14 06:07 投稿番号: [3020 / 41162]
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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根拠を言ってあげるね、鼻息君
投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/14 00:09 投稿番号: [3019 / 41162]
これは メッセージ 3017 (oj_simpsan さん)への返信です.
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関羽ではなく項羽では?
投稿者: etranger20012001 投稿日時: 2004/09/13 22:06 投稿番号: [3018 / 41162]
関羽は、後漢末期の武将です。
降伏した秦の兵士を生き埋めにした。いまから2000年前以上の話しだし、大げさな話しの好きな中国人の事なのでどこまで本当やら。史記には、他にも似たような数の話しもある。
これは メッセージ 3016 (hinekurwmono さん)への返信です.
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根拠を言いな、sennen_no_sippoよ
投稿者: oj_simpsan 投稿日時: 2004/09/13 21:46 投稿番号: [3017 / 41162]
>>n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎
>これ自体が、嘘だった訳ね
具体的に「嘘だった」という具体的な根拠を言ってみなさい、sennen_no_sippoさん。さあさあ。
>結局、嘘つきの妄想野郎はoj_simpsan か
具体的に根拠を言ってみなさい、sennen_no_sippoさん。
根拠が言えないのなら、sennen_no_sippoはデマ野郎という結論でよろしいな?
これは メッセージ 3012 (sennen_no_sippo さん)への返信です.
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本当にそうです。
投稿者: hinekurwmono 投稿日時: 2004/09/13 21:36 投稿番号: [3016 / 41162]
例えば、万人杭は劉邦と関羽の歴史か
ら在りますね。
関羽が劉邦の軍を生き埋めにした数は
確か30万人とかあった様に記憶した
が。
コピペ出来なくて済みませんが。
私は古代より何ら価値観が変わらない
まま中国は来ていると思っています。
未だに中華野郎事大主義の国。
嫌な国としか思えません。
これは メッセージ 3013 (sennen_no_sippo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3016.html
n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎(3
投稿者: oj_simpsan 投稿日時: 2004/09/13 21:36 投稿番号: [3015 / 41162]
>第20師団の歩兵大隊は南京に行きましたね。
南京攻略戦に第20師団は参加していない。
n_o_i_s_e_m_a_nよ、なんでそのような真っ赤なウソをつくの(笑)
↑第20師団の件、「n_o_i_s_e_m_a_nの嘘」第3号として数えておこう(笑)
これは メッセージ 3009 (n_o_i_s_e_m_a_n さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3015.html
n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎(続
投稿者: oj_simpsan 投稿日時: 2004/09/13 21:35 投稿番号: [3014 / 41162]
>>>現実問題として、私が恐れを抱くのは、この占領された南京に日本兵の恰好をした朝鮮兵がいたことです。
で、史料の提示を求めたら、
>この資料は
>「朝鮮人が南京攻略戦に従軍していた。」(しかも志願して)
>ということを示したものです
何
す
り
替
え
て
る
の
?
お前、「南京にいた」と書いたのだろうが。
君の提示した史料から確認できたことは、
【南京攻略戦に従軍したことが確認できる朝鮮兵の数=1名】
ということだけ。
しかもこの人は南京に入る前に負傷しているから
【占領された南京に入ったことが確認できる朝鮮兵の数=0】
だよな。
1名も確認できていないのに、何が「朝鮮人がいた」だ、この嘘吐きの妄想野郎。
>ぱいかる号の記事で分かるとおり、
しっかり「動員されている」ということです。
ばいかる号の記事のどこに
朝
鮮
人
が
動
員
さ
れ
た
と書かれているんだよ(嘲笑)
志願した朝鮮人通訳(南京に入る前に負傷)が1名いたと書いてあるだけだ(笑)
↑ばいかる号の件、「n_o_i_s_e_m_a_nの嘘」第2号として数えておこう(笑)
これは メッセージ 3007 (n_o_i_s_e_m_a_n さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3014.html
この蛮行は、
投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/13 19:52 投稿番号: [3013 / 41162]
中国が、南京大虐殺の証拠として出してくる写真や
万人杭の残虐さとそっくりだな(笑)
【チベット120万人大虐殺 。まさにホロコースト】
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http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/9947/travels/tibet/abouttibet.html1959年の「ラサ決起」の後、中国側は叛徒の徹底的な弾圧に乗り出した。この前後に行われた虐殺行為については国際法律家委員会のメンバーが現地人の証言をまとめ、「チベットと中華人民共和国」というレポートを出している。
中国がまず標的にしたのは「富裕階級」「地主」「村などのリーダー」だった。それらの人々は公衆の面前で銃殺されたり、焼き殺されたりしたという。「財産を公開しない」という理由である者は溺死させられ、ある者は生き埋めにされた。
密告制度が導入され、人民裁判、つまり、公衆の面前で個人を卑しめたり、その罪状を糾弾させる行為が行われた。これにより、子供は親の罪状を、親は子供の罪状をあげつらわなければならなくなった。子供に自分の親を射殺させるなどの行為も行われた。
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中国は、3階級の処刑が終わると、今度は僧侶の処刑と寺院の破壊に着手した。抵抗した僧侶らのうち、ある者は縄で絞め殺された。その際に、縄で首をしめる道具として仏像が使われたという。
腹を切り裂く、撲殺する、糞尿を食わせる、生きたまま焼き殺したり生体解剖を行ったりと、残虐を極めた行為で次々と僧侶たちを処刑していく。経典はマットレスやトイレットペーパーに使われた。
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中国が殺したのは富裕階級と僧侶だけではない。
新婚の女性は産婦人科で知らぬうちに不妊手術を受けさせられた。「検査」と称し強制的に連行された男性は、生殖器に何らかの手術を施され、それ以降、性的欲求をまったく感じなくなったという。
子供たちは「中国本土で教育を受けさせる」という名目で連れ去られたまま、二度と戻ってくることはなかった。
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チベット亡命政府の発表によると、「解放」の美名のもとに中国によって殺されたチベット人は1950年から84年までの間で120万人以上。チベット人口600万人のうち、実に5分の1以上になる。内訳は以下の通り。
・戦いや蜂起によるもの・・・・・・・・43万2705人
・餓死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34万2970人
・獄死、強制労働収容所での死・・17万3221人
・処刑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15万6758人
・拷問による死・・・・・・・・・・・・・・・・9万2731人
・自殺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9002人
合計・・・120万7387人
中国側は決してこの数字を認めようとしないが、虐殺は現在も続いている。
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【参考文献】「チベット入門」(ペマ・ギャルポ著)、「チベット、わが祖国」(ダライラマ著)、「ダライラマ自伝」(ダライラマ著)、「地球の歩き方」(ダイアモンド社)、「旅行人ノート・チベット」
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3013.html
結局、嘘つきの妄想野郎はoj_simpsan か
投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/13 16:02 投稿番号: [3012 / 41162]
>n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎
これ自体が、嘘だった訳ね。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3012.html
>スリカエ
投稿者: curry_flavor1943 投稿日時: 2004/09/13 15:13 投稿番号: [3011 / 41162]
親日派の存在を否定して反日派の主張だけ取り上げても
平行線になるだけだと思いませんか?
これは メッセージ 3004 (oityantyan さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3011.html
訂正
投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/13 12:18 投稿番号: [3010 / 41162]
>第20師団の歩兵大隊は南京に行きましたね。
すいません。「二十連隊」でした。
これは メッセージ 3009 (n_o_i_s_e_m_a_n さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3010.html
金錫源陸軍少佐は
投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/13 11:43 投稿番号: [3009 / 41162]
これは メッセージ 3008 (n_o_i_s_e_m_a_n さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3009.html
当時の朝鮮人志願兵の状況
投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/13 11:21 投稿番号: [3008 / 41162]
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/sakushu.html
『4.熱狂的な志願兵の応募
1937年支那事変の勃発により、内地から戦場に出動する日本軍の大部分が、朝鮮半島を汽車で通過した。それに伴い、沿線の主要駅での湯茶の接待や、慰問品の受け渡しを、朝鮮人も日本人と一緒に行った。各駅は連日連夜、万歳の声が轟くようになった。軍隊に通訳その他で随伴していく朝鮮人の軍属も少なくなく、送る者、送られる者の美談は数知れず、涙と笑いの交歓が何ヶ月も続いたのである。
丁度その頃金錫源陸軍少佐は、千名の日本人部下を指揮する大隊長として、支那の大軍を、山西省で木っ端微塵に撃破し、朝鮮人として始めて「金鵄勲章功三級」が授与された。少佐クラスでしかも生存者での「功三級」は全く破格でした。このビッグニュースは朝鮮の新聞に連日、「金部隊長奮戦記」「戦塵余談」等がでかでかと紹介された。日本兵を率いて、支那を撃つというのは、朝鮮人にとって夢みたいな事だったのである。
支那派遣軍を駅で送る歓声と旗の波、それに金大隊長の賛歌で、自然に朝鮮人のボルテージが上がった。それと共に朝鮮人は自信と誇りを持ち、内鮮一体の空気が強まった。民族主義者尹致昊、天道教の崔麟等の大物が朝鮮神宮に参拝し、戦勝祈願祭の式典をあげ、総督府のお偉方を驚かされたのもこの頃であった。このような雰囲気で1938年実施された志願兵制は、400人の採用に対し、3千人も応募があった。この倍率は年々増加し、1942年には62倍を超えたのである。翌1943年の応募者数は30万人で、恐らく朝鮮人男子の18才から22才位迄の健康な青年の大部分が応募したと思われる数字です。(当時の人口約2400万)これは現在の日韓双方の青年は信じられない事だと思います。
後の駐日韓国大使、崔慶禄も志願兵の一人であった。彼は陸士への合格が決まっていたにも関わらず、所属部隊がニューギニアへ出征が決まったとき、「学校で何年も過ごしていては、第一線でご奉公の時を失する」と言い、第一線へ出征したのである。兵役を嫌った人がいたであろうことは否定しないが、このように日本人と同じように、自ら進んで兵役についた人も多数いたのである。これらの状況から朝鮮にも1944年徴兵制が敷かれたのである。
徴兵制を敷くことは朝鮮人の忠誠心を信じなければ出来ないことである。反日的なムードの中では、彼らに持たせた銃の筒先がいつ自分に向けられるか分からない。
朝鮮人指導者は相次いで朝鮮人青年の奮起をうながした。各指導者の共通した主張として、朱燿翰(後の韓国国会議員)の「ルーズベルトよ、答えよ」と題する演説の一部を紹介する。
「正義の仮面をかぶり、搾取と陰謀をほしいままにしている、世界の放火魔、世界第一の偽善君子、アメリカ大統領ルーズベルト君。君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、人種差別撤廃文面を挿入しようとした時、これに反対、削除したのはどこの国か。黒人と東洋人を差別待遇して、同じ席につかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りを、あたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国の者であったか。しかし君らの悪運は最早尽きた。一億日本同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦の勇士とならん事を誓う!」と朝鮮青年に訴えましたが、アパルトヘイトに言及しているのが共通した特色である。』
志願制が”正式に”制度化されたのは、第二次南京事件以後とされる1938年ですが、それまでもせっかくの志願者を断ったわけではありません。
日本軍が志願制を導入した経緯は、日本の独断などではなく
「朝鮮人の自発的な志願」に押されてのことだったのです。
(正規兵になれずとも軍属としてでも「ともに戦おう」とする朝鮮人は多かったということです。)
これは メッセージ 3007 (n_o_i_s_e_m_a_n さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3008.html
南京攻略戦に従軍していたということです
投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/13 09:42 投稿番号: [3007 / 41162]
> n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎
この言い回しは左翼(特に朝鮮系)の人によくあるやり方ですね。
>つまり南京事件時には朝鮮人の動員はなかったし、志願兵制度もない。
ぱいかる号の記事で分かるとおり、
しっかり「動員されている」ということです。
>確認できるのは、たった1名。しかもその1名も南京に入る前の11月22日負傷だから、占領された南京に入っていない
この資料は
「朝鮮人が南京攻略戦に従軍していた。」(しかも志願して)
ということを示したものです
これは メッセージ 2981 (oj_simpsan さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3007.html
日本語読めませんか? それともスリカエ?
投稿者: fighter8823 投稿日時: 2004/09/13 09:04 投稿番号: [3006 / 41162]
これは メッセージ 3004 (oityantyan さん)への返信です.
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感謝。
投稿者: etranger20012001 投稿日時: 2004/09/13 00:13 投稿番号: [3005 / 41162]
前々からアジア諸国の歴史の教科書に興味がありましたが、なかなか見る機会がないでしたが、その一部をのせてくださったことに心より感謝します。
しかし、なぜそれらの国が独立戦争をしたかは理解出来ません。独立戦争の概念が人それぞれ違うのでしょうかね?
それはおいといて、歴史の教科書はその国の立場によって書かれるモノと思います。独裁者がいれば独裁者の都合のいい歴史の教科書なると思います。アジア諸国の場合もその国の指導者の意識を反映した歴史の教科書になると思っています。
あなたの言い方なら、その国の人々はそれを代々語り継ぐと言うことになるんでしょうね。
本題です。あなたは、これらの教科書に書いてあることがすべて事実とお思いなんでしょうか?あなたは、私と違って歴史に詳しいから、これらを事実と認識して掲載しているのでしょうね。私は、無知で疑い深いで、歴史の教科書を信じる気にはならない。
ところで、アジア諸国の歴史の教科書にはヨーロッパの植民地支配はどのようにかかれていますか?
これは メッセージ 3004 (oityantyan さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3005.html
日本語読めませんか? それともスリカエ?
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 14:38 投稿番号: [3004 / 41162]
アホか?
だろね!
これは メッセージ 3000 (fighter8823 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3004.html
タイ、インドネシアと日本の関係の真相
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/12 11:58 投稿番号: [3003 / 41162]
私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです
http://www.geocities.co.jp/Bookend/9304/daitoua.htmアリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)
ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)
我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。
ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)
日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。(中略)
インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。
ククリックド・プラモード
(タイ国元首相
)
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )
これは メッセージ 3002 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/3003.html
インドネシア独立に深く関わった日本の真相
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/12 11:44 投稿番号: [3002 / 41162]
インドネシアのムルデカ(独立)広場中央に聳える高さ137mの独立記念塔。この地下1階に、インドネシアの「三種の神器」(独立宣言書・独立時に掲揚された国旗・国章)が奉納されています。「第一の神器」は、スカルノ(初代大統領)とハッタがサインした独立宣言書なのですが、ここに記された日付は「05年8月17日」。インドネシアが独立したのは西暦1949年。なのに、日付に記された年は「05」年。実は、この「05」年は、当時、「昭和」と共に日本で使われていた「皇紀」(神武天皇の即位した紀元前660年を元年とする)で、「2605」年が略されたものなのです。
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結論を言えば、インドネシア人は、近年の歴史において、初めて自分たち自身の将校を擁した、自分たち自身の軍事組織――日本人指導官によって監督されてはいたが――の中で戦闘員として訓練されたのである。なるほど、軍事訓練を受けることそれ自体は新しいことではない。それまでにも、何千名ものインドネシア人が戦前の蘭印軍に勤務していたのである。しかしハッタの次ぎの指摘のように、これまでとの違いが1つあった。即ち、蘭印軍の兵士は、国内の敵に対して戦うべく訓練された“傭兵”であったのに対し、義勇軍兵士は、外敵に対して戦うべく訓練された“祖国防衛兵”であった。ジャワ義勇軍やスマトラ義勇軍のインドネシア兵士は、ただ単に戦うために訓練され武装化されたのではない。新しい理論的根拠をも注ぎ込まれていた。即ち、彼らの祖国インドネシアを守るために戦うということである。ナスティオン将軍が適切にも観察しているように、防衛義勇軍(ペタ)には民族主義的な基礎を与えられていたのである。そして、その後、より多くの新兵が訓練され、さらに多くの大団が設立され、インドネシア人の軍事的能力が開発され、自信が強まるにつれて、その基礎はさらに強化されていったのである。
ジョージ・S・カナヘレ著『日本軍政とインドネシア独立』
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2605年8月17日インドネシア独立秘話
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/indonesia.html(一部抜粋)
さて、ジャワを占領した日本軍はこの地で一体何をしたのでしょうか?
第一になされた事は「民心の安定」でした。それは、今村司令官の発した「布告第1号」に見る事が出来ます。
1.日本人とインドネシア人は同祖同族である
2.日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
3.同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する
当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものでした。なぜなら、欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。ところが日本軍は開口一番、「共存共栄」を唱えたのですから、住民が驚いたのも無理はありません。しかし、今村司令官の布告は終戦まで、決して破られる事はなかったのです。
これは メッセージ 3001 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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タイと日本は良き関係だった
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/12 11:33 投稿番号: [3001 / 41162]
日本軍の対タイ進駐作戦
坪上大使は、日本軍のタイ領侵犯はやむをえなかった次第を申し述べた後、逼迫した国際情勢と日本軍のタイ領通過の必要性及び即時停戦処置を要する理由を説明し、(1)軍隊通過の承認
(2)防守同盟
(3)攻守同盟
(4)三国同盟加入
の4条件の中のいずれかをタイ政府と協定の上条約を締結したい旨申し入れた。これに対しタイ国政府側は単純な軍隊通過協定を選ぶとして、12月8日正午頃、単なる軍隊の通過のみの協定が成立、午後3時ごろ正式に調印された。
(中略)
当初、日タイ間には日本軍通過の承認に関する協定だけであったが、その後、真珠湾空襲におけるアメリカ側の甚大な被害、南太平洋全域にわたる日本軍の攻撃の成功、さらに12月10日英戦艦プリンス・オブ・ウェールス及びレパルスが日本軍により撃沈されるなどの戦況から、日タイ間の交渉は急速に進み、12月10日夜半、攻守同盟決定、12月11日11時攻守同盟仮調印、日タイ同盟条約の正式調印は1941年12月21日に宮殿内の寺院で行われた。更に、この日タイ同盟条約に基づく日タイ共同作戦に関する協定は1942年1月3日に成立している。
主な引用参考文献:
・
『マレー進攻作戦』
(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、1969年12月)
http://www.mekong.ne.jp/directory/military/thaishinchu.htm
これは メッセージ 2989 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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日本語読めませんか? それともスリカエ?
投稿者: fighter8823 投稿日時: 2004/09/12 08:05 投稿番号: [3000 / 41162]
【は?】
2004/ 9/11 7:43
メッセージ: 2979 / 2999
投稿者: fighter8823
朝鮮はいつ日本と独立戦争を戦いましたか?
フィリピンはいつアメリカと独立戦争を戦いましたか?
スリランカ(セイロン)はいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?
ブルネイはいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?
これは メッセージ 2982 (oityantyan さん)への返信です.
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アジアの教科書では、、ね 5
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:41 投稿番号: [2999 / 41162]
あなた方が戦時中に行った日本軍の蛮行をいかに正当化しようとしても、現地で被害を受けた民衆はその被害の大きさを忘れてはいませんよ。
永遠にその行為は語り次がれて行くでしょう。
日本人は過去を正当化するのではなく、真摯に見つめ、認める勇気を持つ、必要があるのではないでしょうかね?
諸国の政治家が戦後、外交辞令とも受けとれるようでもあり、また、歴史学者が人ごとのように述べるがごとき、歴史認識を披露していますが、その中身について直接の被害者を代弁した意識とはかけ離れたモノであると考えるべきでしょう。
結果良ければ全てよし、とはならないでしょうね。
美辞絶句に踊らされることなく、しっかりと加害責任を認識すべきだと思います。
だからと言って、戦後生まれが実行犯でも、意識の共有者でも無いのですから、過去の戦争に対しての責任が在るわけはありませんよね、しかし、知らない、しらなかなったでは通りませんよね。
まして、ねつ造、歪曲することは許せませんよね、、と思います。、、、ね
もっと
アジアの教科書を読みたいですか?
紹介しましょうか、、、ね。
これは メッセージ 2998 (oityantyan さん)への返信です.
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インドネシアの教科書では、、ね4
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:29 投稿番号: [2998 / 41162]
インドネシア民族に対する日本の圧制は実に非人間的なものであった。
自然資源と労働力の搾取は徹底的に行われた、民衆はわが国の歴史に例のない苦難を体験した。
指導者たちは民衆の立場に立って闘い続け独立を達成sるために民衆の闘争精神を育てたのである。民族主義者たちは表立っては日本軍政府と対立はしなかった、それは大変危険であり、闘争を有利にはしなかったからである。日本軍は抵抗する者は誰であろうと遠慮せず殺した。
地下活動を行う。
政党が解散させられた後、指導者達は地下活動を行った、勢力を結集し民族団結の地下活動を続けた。
反乱がインドネシア各地で勃発した。
1. アチェにおける反乱=1942年11月10日指導者はシャリル(日本軍に狙撃される)
2. 西部ジャワのシンガパルナでの反乱1944年2月25日指導者はザエナル・ムスタファ(逮捕
死刑)
3. 西部ジャワ
インドラマユでの反乱
カプロガン村の全民衆が蜂起他の村村に飛び火する。(日本軍の鎮圧)
4. 西部ジャワ
ロッベヌルでの反乱日本の残酷な行為を座視する事が出来ず武器を取って抵抗した、マドリャリアスの指導による。
5. 西部カリマンタン、ポンティアナックの反乱1943年10月16日に日本に対する反乱を計画する秘密会議が開かれた。がしかし、事前に情報が漏れ、多くの人々が逮捕され,殺害された。
6. 郷土防衛義勇軍による反乱
aフリタルにおける郷土防衛軍の反乱ショウーダンチュ(小隊長)のスプリヤディに指導された100人の兵士はカウィの山に立てこもり抵抗し、その後投降、逮捕、死刑に処せられた。
bアチェにおけるトゥウクハミドの反乱
ギユー軍の2小隊を指揮して日本に抵抗した。ハミドの家族全員が人質となりやむなく投降した。
cパンドラにおけるギユー軍兵士の反乱
日本軍が鎮圧
dチラチャップのグミリールでの郷土防衛義勇軍の反乱
この反乱はかなり強烈なものであった、スディルマン将軍、後にインドネシア独立後国軍大将となる
これらの反乱はいずれも日本軍に鎮圧されてはいるが、成果は、連合国軍の攻撃と戦っていた日本軍の力を削いだ事にある。
5へ続く
これは メッセージ 2997 (oityantyan さん)への返信です.
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インドネシアの教科書では、、ね3
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:28 投稿番号: [2997 / 41162]
その他の物資の搾取
くず鉄は古い鍬や鎌
庭の鉄柵まで取り壊して差し出さねばならなかった.
労組動力の搾取
社会の階層を問わず,いたるところで行われた、もっともひどい目にあったのは強制労働者(ロームシャ)にするために動員された人々であった.彼らは田舎の出身で,一般に文盲であった.そのロームシャ太刀は橋,幹線道路、飛行場、防空壕といった日本防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された.そのような壕が今でも残っている、カリウラン(ジョクジャカルタ)にあるのはその一つだ.。ジャワ島、の各地から集められた数千のロウムシャはマラヤ,やビルマ、インドシナなど、国外でも労働させられた、ロームシャの待遇はきわめて残酷であった、彼らが労働中にすこしでも不注意だったりすると、平手で叩かれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これに抵抗した者は殺された。
彼らの健康は配慮されなかった。衣服は満足に支給されず、食料は与えられはしたが、米の飯ではなく、タピオカの粉の粥であった、それも一日一回であり、量もきわめて限られたものであった。
その結果何千人ものロームシャは2度と故郷に戻ることは無かった。働かされていた森林でこの世を去ったのであった。
この事実を目のあたりにして、村の若者は姿を消した。これは地方の農業に悪い結果をもたらさざるを得なかった。
1943年以降、日本軍は行きずまり、連合国軍の攻撃に備えてインドネシアの青年を利用しようとした、日本は青年団をつくり、隊員は14歳から22歳までの青年から成っていた。目的は「自力で国土の防衛が出居るように青年達を教育,訓練する」ことであった。日本軍政府はこのように言っていた。しかし、本当の目的は来襲する国連軍に立ち向かわせようとする準備であった。
また、ケーボーダンあるいはボーゴダン(警察補助隊)フジンカイを作った。
ジャワ、ホコーカイ=1944年ジャワ民衆の動員を強化する為ジャワ忠誠会を作った。大東亜戦争の勝利のため民衆を駆り立て日本への全面的な献身をさせる事、会員は14歳以上で米、宝石、くず鉄などの物資を集める為民衆を動員する役割をさせられた、集めた物資は全て日本軍政府に引き渡された。
その他ヘイホ(日本補助兵)シュイシンタイなど1943年に設けられた。
国土義勇軍=1943年10月3日に結成された。インドネシア防衛のため、日本軍から軍事訓練をうけた。郷土防衛義勇軍の指揮官はインドネシア人であった。彼らは指揮官に就任する事を認められる前に士官候補生として教育を受けた。士官たちの教育はボゴールで行われた。インドネシア独立後、彼らの多くがインドネシア国軍の指導者となって活躍した。その中に故スディルマン将軍、カトッ・スブロフ将軍、アフマドヤニ将軍らがいる。
日本の占領政策は民族主義闘争に利用された。
4へ続く
これは メッセージ 2996 (oityantyan さん)への返信です.
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インドネシアの教科書では、、ね 2
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:26 投稿番号: [2996 / 41162]
*天然資源と食糧の搾取
原材料は戦争が必要とする工業材料を得るために使われた.食糧の供給は特に軍人による消費の為の備蓄に向けられた.価格も日本軍政府によって決定された.それはモルッカ諸島でのオランダ東インド会社による香料の独占と、変わりの無いものであった.
戦争にあまり役たたないものの栽培は制限されたり,完全にやめさせられた.
例えば
スマトラでの煙草の栽培は壊滅させられ、ヒマの栽培にかえさせられた.ヒマは飛行機の潤滑油の材料として非常に重要であった.
必要性があるため依然として耕作が続けられたものにはキニーネ、ゴム,砂糖きびがあった.
森林は農地として利用するという理由で伐採された.森林伐採はジャワ島だけで50万ヘクタールにおよんだ.
農地造成のための場当たり的な森林伐採は結局のところ食糧増産にはつながらずそれどころか逆に収穫は減少した.思慮を書いた森林伐採は土地の侵食と洪水の原因となった.侵食は土地の肥沃度を低下させ,灌漑に不可欠な水源を涸れさせた、洪水は稲作を破壊した.
日本軍政府は軍隊の消費の為家畜を大量に殺した、その結果家畜の数は次第に減少し、田畑を耕すための家畜が居なくなってしまった.
民主は各自の庭でヒマの栽培する事を義務付けられた、その収穫は日本軍政府に引き渡さねばならなかった.これはオランダ東インド政府時代の強制栽培とどこがちがうのだろうか.結果的に耕地は減少し,農地で働く時間が不足してきた.
多くの民衆がロームシャ(強制労働者)にされた.こうして田を耕す労働力が減少していった.農業生産は減少したにもかかわらす,収穫の80%を日本軍政府に引き渡すように強制された.この結果民衆の間では食糧が大変不足し,飢餓の危機がいたるところで発生した.栄養失調で腹ばかりが膨れた多くの人々が死んでいった.
3へ続く
これは メッセージ 2995 (oityantyan さん)への返信です.
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インドネシアの教科書では、、ね 1
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:25 投稿番号: [2995 / 41162]
アジアの教科書
インドネシア
中学校用
「社会科分野.歴史科第5分冊」
マルトノ著
ティガスランカイ社
3.日本占領時代
1939年ころヨーロッパの情勢は非常に緊張していた.その原因は次のようなものであった.
ドイツは第一次大戦で敗北した相手国、とりわけフランスに対して「レバンシェ」(報復)することを切望していた.
ドイツは第一次大戦で奪われた植民地を奪還する野望をもっていた.
ドイツはヨーロッパで強国になることを強く望んでいた.
イタリアもまた、大イタリアという意味である「リソルジメント」建設の理想を持っていたので植民地を拡大したいと思っていた、その動きの一環として北アフリカの国、アビシニア(エチオピア)を侵略した.
ヨーロッパ諸国は互いに軍備拡大を競っていた.
世界平和を脅かす大国の行動を国際連盟は抑えることが出来なかった.
同じころアジアでも緊張が発生していた.
先進的な近代国家に成長していた日本が拡張政策を実行する野望を抱いたのだ.すでに日本は満州と華北を侵していた.中国全土にも日本による侵略の危機が迫っていた.
植民地の拡大という目的を共有するドイツ、イタリア、日本は協力して、その敵に対抗する為の同盟を結んだ.
世界の諸地域ですでに長く植民地を所有してきた帝国主義諸国、特にイギリス、フランス、オランダ、アメリカはこれに脅威を感じ、そこでまた、共同の敵に対する為に連合を形作った..
1939年9月1日ドイツはポーランドに侵攻した.逆に9月3日にはいぎりす、フランスがドイツを攻撃した.すぐさま連合国はイギリス、フランスに追随した.ここに、第二次世界大戦が勃発した...
本質的には第二次世界大戦はドイツ,イタリア,日本対イギリス、フランスおよびその連合国との植民地獲得戦争であった.ポーランド侵攻は戦火を燃え上がらせる口実となったに過ぎなかった.
第二次世界大戦は2つの部分に分けることが出来る
ヨーロッパと北アフリカの戦場、太平洋の戦場である.
1941年12月8日日本はパールハーバーを攻撃した.日本の攻撃はきわめて突然であった、ワシントンで日米交渉中の事だった.日本に対抗するためアメリカはABDACOM連合軍をつくった.その総司令部はバンドンに近いレンバンに置かれた、その他ABCD戦線も組織された.
日本は中国大陸、東南アジアへの進撃さらには太平洋上のソロモン諸島に至る当方への侵攻を電撃的なすばやさで行った.
これは次のような結果をもたらした.
*中国大陸が日本に支配された.
*ビルマ、マラヤ、シンガポールにおけるイギリス帝国主義の支配が打倒された
*インドシナにおけるフランス帝国主義の支配が倒された.
*フィリピンにおけるアメリカ帝国主義の支配が打破された
オランダ東インド政府は日本の攻撃に対抗する力が無く、無条件に降伏した.
降伏文書はオランダ東インド総督トゥチャルダ.ファン.シュタルケンボルクスタショーウェルの立会いの下オランダ東インド軍司令官テル、ポールテン中将によって調印された.日本側は今村均将軍であった.(第16軍司令官)
インドネシアは日本の戦争を支える為に資源および人力を提供させられた.
当初、日本軍到来はインドネシア民族に歓迎された.インドネシア民族は長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した.
どうして、このような期待をもったのだろうか?それは日本がやって来てまもなく次のような宣伝を展開したからである.
**日本民族はインドネシア民族の兄である.日本が来た目的はインドネシア民族を西洋の植民地支配から解放する事である.−日本は「大東亜共栄圏」のために開発を実施する.**
その実態はどうであったか、日本時代にインドネシアの民衆は肉体的にも精神的にも並外れた苦痛を体験した.日本は結局、独立を与えるどころかインドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ.その行為は強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった.資源とインドネシア民族の労働力は日本の戦争のために搾り取られた.
日本の占領時代のインドネシアでは軍政がしかれ,ジャワ島、スマトラ島は陸軍が,その他の地域は海軍に支配された.
2へ続く
これは メッセージ 2994 (oityantyan さん)への返信です.
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タイの教科書には、、ね 、、2
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:17 投稿番号: [2994 / 41162]
セーニー・プラモート駐米大使は明らかにその一例である。彼はアメリカ政府に対して、タイ国はやむを得ず連合国側に宣戦布告したが、連合国との協力により「自由タイ運動」の手はずを整えている、と説明した。アメリカ国内の不自由タイ運動はアメリカ政府の支援を得て順調に事を運んでいた。
イギリスではスパサワトウォンサニット・サワディワット親王が自由タイ運動の指導者となった。在英タイ人留学生の大部分はこの運動に参加し、イギリス政府の援助を受けた。アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリディ・パノムヨン摂政はタイ国内に抗日地下部隊を設立した。そして、アメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡をとり、さまざまな行動を起こした。たとえば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、破壊活動によって日本軍の通行を妨害したり、また、日本軍を拘引したりして連合軍を援助した。
日本軍が敗北した仏暦2488年(1945)8月16日プリディ・パノムヨン摂政は国会の同意にもとずき、仏暦2485年(1942)1月25日の対英米宣戦布告は無効であると宣言した。
また、日本がタイに譲渡した英領マラヤやビルマをイギリスに返還すると提案した。(日本が譲渡したサイブリ、ケランタン、トレンガヌ、プルリスのマラヤ4州=煮日音政府がマラヤより割譲した4州これらはイギリスがタイよろ譲り受けたビルマのシャン族の領土である,仏暦2489年(1946)タイに返還された)アメリカ政府はタイの宣戦布告が無効であることを即時に認めた。
そのため講和条約に署名する必要はなくなった。こうしてタイは対米宣戦布告の責任から逃れた。
一方イギリス政府はタイが日本に協力したので日本がマラヤ、シンガポールで容易く勝利を収めたとみなしていた。そして再びイギリスがビルマを支配する為の軍事基地としてタイを利用しようとした。
イギリスはタイに多項目にわたる要求を提出した。アメリカ政府の介入する所となり、イギリス政府に対して要求を減らすよう申し入れがなされた。
交渉終結は仏暦2489年(1946)1月1日シンガポールでタイと大英帝国およびインドとの間の戦争状態終結という完全合意の調印をもって行われた。
重要項目の要約
1. タイは第二次大戦中に獲得した英領マラヤとビルマをイギリスに返却する。
2. タイはイギリスに対して150万トンの精米を無料で提供すること。
3. タイはクラ地峡にタイ湾とインド洋をつなぐ運河をイギリス政府の事前承諾なしに建設してはならない。
4. イギリスとインドはタイが国際連合に加盟することを支援する。
5. 戦争中にタイに押収され、損害を与えられたイギリスの財産を賠償すること。
これについでタイはオーストラリア(仏暦2489年4月3日)フランス(仏暦2489年11月17日)オランダ(仏暦2490年1月30日)とも平和合意に調印した。フランスとの平和合意により、東京平和条約によって得ていたインドシナ領土をフランスに返却しなければならなかった、その結果タイの国際連合加盟に反対はしないこととなった。
これは メッセージ 2993 (oityantyan さん)への返信です.
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タイの教科書には、、ね 1
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:15 投稿番号: [2993 / 41162]
中学2年生用
社会科教育読本
「歴史学
タイ2」(タイ語)
教育委員会編
5.タイ国と第二次世界大戦への参画
仏暦2482年(1939)9月3日
ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。
ソンクラーム陸軍元帥を首相とするタイ政府は中立的立場をとることを表明した。
日本がドイツ、イタリアと同盟関係を結び(三国同盟)枢軸国となって以来、タイは戦争が近づきつつある危険を感じていた。そこで、領土保全のため、友好条約に調印し、日本と相互友好関係を保った、同時にタイはイギリス、フランスとも相互不可侵条約を結んだ。(1940年タイ・日友好和親条約、タイ・日相互不可侵条約)
ヨーロッパでの戦闘は当初、ヒットラー率いるドイツが電撃戦でフランスを打ち破った。そしてついにパリと北フランスを占領し、勝利を収めた。ペタン政府はドイツとの停戦条約調印を承認し、政府を南フランスのビシーに移さねばならなかった。タイ政府はペタン政権に文書を送る機会を得て、以前タイが割譲した仏領インドシナのルアンプラバーンとチャンパーの領有権を手に入れようと、国境の変更を要求した。(メコン川東岸地域)=両地域は仏暦2440年にフランスに割譲した領土でタイとフランスの間で国境論争があった。)
要求は自然なものであり、公正なものであると思われていた。フランス政府はタイの要求を拒否した。仏暦2483年11月28日タイと仏領インドシナとの国境で衝突が起こった。
当事
日本は東南アジアに指導力を有し、影響力をもっていた(1940年9月、日本はすでに北部仏印に進駐していた)そこで、調停役としての義務を行使したのである。タイとフランスは東京(トンチン)での会議に代表を送り,ともに東京条約に調印した。(タイ・仏印平和条約)
タイは要求とおりに返却された領土とプラタボーン、スリーソーパン、シャムラートも合わせて手に入れた。その後タイと日本は二国の相互援助と東南アジアの平和維持に努めるという内容の文書に調印した。お互いの同盟関係強化を推進し、二国の経済的結束を固めることになった。領土返還に満足した、タイ国民は日本に対して大いに気を良くした。
仏暦2484年(1941)12月8日日本はハワイ諸島のアメリカ軍基地である真珠湾を攻撃した。同時にフィリピン群島、シンガポール、マライにも電撃戦で進軍し攻撃した。それ以前に日本はタイに兵を派遣しタイを通過するつもりであった。駐タイ日本大使は英領(マラヤ,ビルマ)侵攻のため、日本軍のタイ国領土内通過を要求した。翌朝、仏暦2484年(1941)12月8日日本は軍勢を率いてタイ国内のいたる所に上陸した。プラチュアプリキカン、ナコンシータマラート、、ソンクラーのタイ軍は堅固な日本軍に抵抗して闘った。そのころ、タイ政府はイギリス政府と連絡をとっていた。イギリス政府はタイが自衛手段に訴えても構わない、と返答した。ピブン・ソンクラーム陸軍元帥率いるタイ政府はタイが日本軍に抵抗し得るかを審議した。結果、軍事力が十分でないことから、政府は日本軍のタイ国内通過と、秘密条約調印を承認した。(日本軍がタイ南部に上陸してから締結した「タイ国領土内通過に関する協定」。タイ日攻守同盟条約)
タイは日本と同盟関係を結び、アメリカ、イギリスとの戦争において日本を支援することとした。
日本は失われたタイ国領土がイギリスから返還されるよう働きかけた。そこでイギリスと、アメリカはタイを攻撃し始め、雲行きが怪しくなってきた。
仏暦2485年(1942)1月25日タイはイギリスとアメリカに対して宣戦布告し、枢軸国の盟友として第2次世界大戦に参加することになった。
タイ人の多くは日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。
タイ人のグループの中には日本と同盟関係を持つという政府の方針に反対するものもあった。これら一般民衆グループには連合国側から遣わされたリーダーがいたものと思われる。
2へと続く
これは メッセージ 2990 (oityantyan さん)への返信です.
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なるほど
投稿者: restoration_gogo 投稿日時: 2004/09/12 01:03 投稿番号: [2992 / 41162]
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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フィリピンはかわいそうなんだ。
投稿者: donchan5656 投稿日時: 2004/09/12 00:34 投稿番号: [2991 / 41162]
横からごめん
アジア諸国の中でフィリピンだけが日本軍がアメリカにたたきつぶされるのを見たんですよ。
対してインドネシアは見ていない。
これでこの2国の命運が決まってしまった。
インドネシアは「何だ、偉そうにしてた白人なんてこんなもんか。俺たちだって武器さえ持てばやれる」って考え、
フィリピンは「やっぱり白人にはかなわない」って感じた。
当時のアメリカにはフィリピンにはすでに戦略的価値はなかったんですけど、
マッカーサーが自分のメンツにこだわり、
アメリカの基本的な方針に逆らって、あえてフィリピンの日本軍を攻撃したんですよ。
哀れフィリピン人は白人に頭が上がることなく、今も英語を使っています。
そのマッカーサーも戦後日本に来て日本の立場を理解し・・・・・・
この話を信じるも信じないも勝手です。
今や日本の政治家のトップににも
同じようにアメリカに頭の上がらない人もいますのでね・・・・・
おじゃましました。
これは メッセージ 2990 (oityantyan さん)への返信です.
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ブルネイの教科書には、、、
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 22:15 投稿番号: [2990 / 41162]
初級中学校用
「ブルネイの歴史」(英語)
ブルネイ言語.図書委員会編
三部
21日本のブルネイ占領
1938年日本は「東亜新秩序」を宣言した。(1938.11.03近衛声明)
それは日本が蒋介石政府を倒し、中国を掌中に収めるためのものであった。
また,新秩序は東アジアにおける全ての西洋列強を排除することも目的とした。
日本のスローガンは「アジアのためのアジア」であった。
日本軍は東アジア本土への第一回目の攻撃を陸から開始した。(マレー半島のこと)攻撃を加えながらブルネイにも日本陸軍は上陸していた。
1941年12月16日
日本軍はクアラ.べライトに上陸し、直ちにセリア油田を占領した。(ブルネイの西部、サラワクのミリと並ぶ「英領ボルネオ」の有数の油田地帯)
6日後の1941年12月22日ブルネイ市は日本陸軍により、占拠され、ブルネイ政府のイギリス将校全員が捕虜となった。
日本陸軍は
その後すぐ新秩序の宣伝を始めたが乱暴かつ横暴だった為に、ブルネイの人々の歓迎を受けなかった。クアラ.べライトの住民は油田の労働に狩り出され、村人は穀物の生産を強いられた。また、日本の軍事規律を無視した者達に対して行われた大量処刑を目の前で見させられた。
商売の取引も行われなくなってしまった。2〜3の小売業者のみが配給係としてその商売を続けることが許された。
ブルネイの住人にとって幸いなことに、政府が第二次世界大戦勃発前に、大量の米の輸入を貿易業者に命じていた。ヨーロッパの戦況から察して極東における輸送ルートがマヒするだろうということを考慮に入れて、このような行動をとった。日本が占領した初めのころは食料不足は無かった、がしかし、十分であった食料の全ても、貯えも1943年の終わりまでには使い果たされてしまった。日本軍も食料の欠乏に困窮していた、収穫の時期がくると、日本軍はほとんどの穀類を奪っていった、そのためブルネイの人々は食料不足に陥った。
日本軍はブルネイを占領すると病院を管理下に置いた。当時
薬品を手に入れるのは困難な事だった。マラリアが流行していたのに、日本陸軍はその蔓延を予防しようとはしなかった。
日本陸軍は道路、排水、灌漑の管理に留意しなかった。彼らが修復したのはわずかなブルネイートゥトン間とブルネイーウアラ間の道路のみであった。
この2つの道路もムアラまでの石油のパイプラインを引く為のものであった。
日本陸軍がセリア油田を占有していた時には159万4千英トンもの石油を確保していた(1英トン=1016kg)
日本陸軍が退却する時、日本陸軍の手で破壊された(1945年)
1945年6月10日連合国軍がムアラに上陸した、そのころ日本陸軍は自分達の施設を壊し、セリア油田を焼失させるのに余念が無かった。
退却する前、反日運動を組織したと思われる人たちを殺した。
日本陸軍がブルネイから立ち去ると、新政府がイギリス軍政の下に置かれた。
食料、衣料が全住民に無料配布された。病人は病院での看護が受けられるようになった。住民の健康は次第に快方にむかい、貿易も徐々に再興した。
1945年7月6日ブルネイの統治は民政の手に移った。
これは メッセージ 2987 (oityantyan さん)への返信です.
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フィリピン独立の真相
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/11 21:11 投稿番号: [2989 / 41162]
人物探訪:リカルテ将軍
〜フィリピン独立に捧げた80年の生涯
わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、その星条旗の下に帰ろうとは思わない。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog156.html(一部抜粋)
昭和15(1940)年、ケソン大統領は訪米の帰途、横浜に立ち寄り、自らリカルテを訪ねて、帰国を求めた。リカルテはこう答えた。
「わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、その星条旗の下に帰ろうとは思わない。わしが祖国に帰る日は、祖国が完全に独立し、むかしわれわれが立てたあの革命旗が、堂々とだれはばかることなく立てられる日だ。」
その翌年、大東亜戦争が勃発し、リカルテは参謀本部の要請を受け、占領後の独立の約束をとりつけた後、75歳の老躯を駆って祖国に戻った。群衆は歓呼してリカルテ将軍を迎えた。
1943(昭和18)年10月14日、日本軍の軍政が撤廃され、正式に「フィリピン共和国」として独立の日を迎えた。対スペイン独立戦争時から愛唱されてきた歌を国歌として制定し、その演奏とともに、アギナルドとリカルテが革命旗をもとにデザインされた国旗を掲げた。(これらの国号、国旗、国歌は現在まで引き継がれて、この時に就任したラウレル大統領は、現在でも第2共和国の大統領として、マラカニアン宮殿に歴代大統領と並んで肖像画が飾られている。)
米国の反撃が始まると、山下奉文大将はリカルテ将軍に日本への再亡命を勧めたが、将軍は「わしは最後の一人となるとも、アメリカと戦うつもりだ。わしの80年の生涯は、ただこのためにあった。」と断った。
これは メッセージ 2988 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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フィリピン独立の真相
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/11 21:10 投稿番号: [2988 / 41162]
有害図書は気にせず、フィリピン独立の真相を紹介します。
―――――――――――――――――――
フィリピンの場合、その併合数年を出ずして、比島領有の最初にして最も熱心な唱導者であったセオドア・ルーズベルトがもはや幻滅を感じて、自分が音頭をとったことを後悔し、厄介者から逃れたいと望んでいたことが想起される。
結局我々は1930年代に比島の解放を決定し、最近になってこれを実行した。だが、我々の考えておかなければならないことは、それは決してフィリピン人のためを思ってではなく(気の毒に思ったり、或は彼等が独立の用意が出来たと考えたり、また我々が独立を許す義務をもっていると感じたではなく)、寧ろ、彼等が我々自身にとって一寸した厄介者であることが分ったからであり、我々の領有下において当然予期された比島との経済的接近が、我国における強力な私的利益にとって面白くないものであることがはっきりしたからである。
つまり、「白人の重荷」という言葉によって表現されるこれらの初歩的な犠牲すら、我々として長い間我慢する用意を持たなかったからなのである。
ジョージ・F・ケナン著『アメリカ外交50年』
―――――――――――――――――――
つまり、アメリカにとってフィリピンは厄介モノとなったために、分離、切り捨てを決定した訳です。
ところが、アメリカに怨みを持つフィリピン人は、そう簡単に「ハイ、そうですか」と言う訳にはいきませんでした。
(つづく)
これは メッセージ 2979 (fighter8823 さん)への返信です.
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まずフィリピンからにしようか、ね、、6
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:31 投稿番号: [2987 / 41162]
フィリピン
小学校4年生読本
「歴史」(タガログ語)
コンコルディア・C・フロレンチアB.バウティスタ編
レックス
フックストア発行
フィリピンの歴史におけるくらい時代は私達の国を日本国が占領した時です。
日本軍は来たばかりのころは自分達はフィリピン人の友達だといい、フィリピン人と日本人を結びつけるためアメリカを敵としました。
日本人はアメリカと関係のあるもの全てをとり除きました。英語の代わりに日本語にしました。
彼らは人々の食糧や家財道具をはじめ乗り物や大きな家々をも取り上げました。
多くの人々が生活に困り、お腹を空かせていました。しかし、フィリピン人はマッカーサー将軍が戻ってくるのを信じていました。将軍がそう約束したからです。ゲリラ活動をしていた人、日本人と一緒になるのを嫌がった人たちは山にこもりました。ゲリラはしばしば日本軍と戦い、人々の希望となりました。
日本人はスパイがゲリラとみなした人々にとても残忍でした。捕らえた者たちを拷問し、閉じ込め,仲間の名前を言わせました。罰せられ殺された人達の中にはアバド・サントス裁判官、ウェンセスラオ・Q・ビンソン氏、ホセファ・リャネス・エスコーダ夫人、ラモン・ラントス医師らがいます。
マッカーサー将軍は約束を守りました、戻って来て、私達の国を日本人から救ってくれました。
*今日でもハポン(日本)
サカン(蟹股)は「悪」の代名詞になっていることを認識しておくべきでしょう。
サマット山頂に戦争記念館がある。
バターン半島の突端に「死の行進」を示す記念碑がある。
はい、、フィリピンは終わり。
次はブルネイへいってみようかね。
最後まで飽きずに読めましたか?
これは メッセージ 2986 (oityantyan さん)への返信です.
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まずフィリピンからにしようか、ね、、5
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:29 投稿番号: [2986 / 41162]
アメリカ軍の帰還
自由の道は長く険しかった、オーストラリアのアメリカ軍は日本軍の手に陥っていた島々を取り戻していった。1944年9月アメリカ軍はフィリピンにいた日本軍に対し容赦のない砲撃を加えた。10月レイテ島にアメリカ軍は上陸した。1945年2月3日マニラに進行
第8軍はバタンガスに上陸、カビテ、リサルへと進行した、日本軍は退却の途中村に火を放ち焼いた、マニラの町の半分は日本軍に焼かれ、残り半分はアメリカ軍に破壊された。4月完全な勝利を収めた。4月12日ルーズベルト大統領の死にフィリピン人やアメリカ人のみならず自由世界の全ての人々が彼の死を悼んだ。
日本の降伏
1945年7月26日連合国の3カ国
イギリス、アメリカ,ソ連、、は日本に無条件降伏を要求する最後通告を発表した。この際ご通告はアメリカ大統領、イギリス首相、ソ連書記長による、ドイツ,ポツダムでの会議期間中に書かれたため「ポツダム宣言」として知られている。日本はその最後通告を無視した。日本をついに降伏させたのは原子爆弾であった。戦争に初めて使われたこの爆弾は8月6日広島市に落され広島市の60%を破壊し、一瞬にして7万8千人の日本人を殺戮した。一万人以上の人が跡形もなく消えた。3万7千人の日本人が重い傷に苦しんだ。何千人もの人々が放射能による後遺症で病んだ。8月9日第二の被爆が長崎市にもたらされた。長崎市の40%が破壊され10万人の人が殺された。6日後の1945年8月15日日本は無条件降伏をした。日本に亡命していたラウレル大統領は1945年8月17日日本に支えられていた「フィリピン共和国」を解体した。
戦争の被害
東南アジア諸国のなかで、フィリピン人が一番激しく、長く戦ったので、フィリピンが戦争によってもっとも破壊された。フィリピン人全体で111万1938人が戦死した。この中には戦場や日本の捕虜収容所で死亡した兵士達、また、日本軍によって虐殺された市民(男性,女性、子供たち)が含まれている。
6へ続く
これは メッセージ 2985 (oityantyan さん)への返信です.
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まずフィリピンからにしようか、ね、、4
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:28 投稿番号: [2985 / 41162]
フィリピン行政委員会
日本軍最高司令部はケソンが大マニラ市の市長に指名したホルヘ・B・バルハスに新政府を速やかに組織するように命じた。フィリピンはフサッフェが倒れ、日本の征服者のなすがままになっていた。
1942年1月23日バルハスと31人の協力者は日本軍最高司令部にあてて、「平和と秩序を維持し我が国民に幸福を推し進める為に」に日音軍の命令に従う決意をした。
日本製フィリピン共和国
東条英機首相はフィリピン国民の好意を得るために、フィリピンの独立を認める約束をした。東京からの命令に従いフィリピン独立準備委員会(PCPI)がラウレル博士のもとで来るべき「共和国」の憲法を制定する為に設置された。
この憲法は1943年9月4日PCPIのメンバーによって署名された。
この憲法は「フィリピン共和国」の為に制定されたものであり行使するにあたり大統領がその執行権を有する、副大統領はいなかった。立法権は一院制国民会議に属した。司法権は最高裁判所および下級裁判所に属していた。権利の宣言はありはしたが市民の権利よりも、その義務が強調されていた。この憲法で関心を引くのは国語としてタガログ語を適用したことである。9月7日117名の代表者で構成された議会により「批准」された。
1943年10月14日「フィリピン共和国」がマニラで発足した。ラウレル博士が大統領として、その任務の宣誓をした。ベニグノ・アキノ議長が努める国民会議によって選出された。
フィリピン国民は彼らの新しい「共和国」を歓迎することには熱心ではなかった。それが本物ではないことを彼らは知っていた。あざけるようにPCPIを「どうぞ、フィリピンの独立を放棄してください」と叫んでいたくらいである。
宣伝活動機関
あらゆる手段を使ってフィリピン人を日本化するか、あるいは少なくとも彼らの同意を得ようと試みた。さまざまな講習会が国民に「精神的躍動」を与える為に設置された。これらの講習会のなかにはGETI(政府雇用訓練講習会)元ユサッフェの兵士のための講習会、新フィリピン文化講習会、政府留学生派遣準備講習会などがある。また、日本の隣組を真似た隣人協会が占領下のフィリピンの市町村に設置された。日本の指導的な宣伝機関はカピサナン・サパグリリンフコド・サ・バゴンゴ・ピリピナス(新生フィリピン奉仕団)婦人互助会、カリバピ指導者会、労働協会がある、カリバピは日本軍当局によって許されたフィリピンでただ一つの政治集団であった。
5へ続く
これは メッセージ 2984 (oityantyan さん)への返信です.
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