まずフィリピンからにしようか、、ね 1.
投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:24 投稿番号: [2982 / 41162]
フィリピンの教科書だよ。
よく読んで、意味を噛みしめてね。
高等学校用
「フィリピン国の歴史」(タガログ語)
テオドロ・A・アゴンシリオ著
ナショナル・ブックストア発行
第17章 太平洋戦争
マッカーサーと軍隊
1939年ヨーロッパで戦争が始まった時フィリピンの国情は必ずしも悪い状況では無かった。
しかし、マヌエル・ケソン(国民党党首)はフィリピンの美しい空に暗雲が立ち込めるのではないかと感じた。民族主義者で作家で知識人そして国会議員でもあるクラロ・M・レクトは日本が一番危険ではないかと考えた。
1930年代に日本と中国が戦争を始めたときから日本は極東アジアを征服したがっていたらしい。もし、アジアで戦争が起こったならばドイツが太平洋にある列強の植民地を奪ったように日本もアメリカからフィリピンを奪うのではないかという恐れを抱いた、ケソンは戦争が起こりそうな情報を受けていたので、マッカーサーにフィリピンを守るように要請した。つまり毎年4万人の兵隊を訓練することを提案した。5年間に20万人のフィリピン軍の動員を計画し,ルーズベルト大統領はフィリピンとアメリカの軍隊を合体して指揮官にマッカーサーを任命した、フィリピン軍13万とアメリカ軍隊の連合隊をユサフェ(アメリカ極東軍)といった。
宣戦布告
1940年9月日本はドイツ・イタリアと同盟関係を結んだ。これらの国を枢軸国という。1941年7月日本はインドシナ(ベトナム)に侵攻した。アメリカはその侵攻に脅威を感じ、フィリピンも危険と考えたアメリカは主権を持った国家同士であることで日本に対して相互に理解し合おうと提言した、しかし 日本はそれを拒否した。2国間の関係改善のため日本は来栖三郎を野村駐米大使の協力者としてアメリカに派遣した。しかし、両者がハル国務長官と交渉している間に日本はパールハーバーを攻撃した。日本は宣戦布告をしないでアメリカの軍事施設を奇襲したのである。奇襲の結果アメリカ海軍将校 兵士計5000名が死傷した。ここに太平洋戦争が始まった。
日本の侵略
真珠湾攻撃の数時間後、日本はフィリピンに侵攻した。それは1941年12月8日である。アバリ・ダバオ・バギオ・タルラ・タルラックなどを攻撃を仕掛けてきた。夜にはマニラが爆撃された。と同じくして日本はアパリ・リンガエン・アティモナン・ラモン湾に上陸した。12月9日ルーズベルトの声をラジオで聞いた「我々は戦争のただ中にいる、この戦いは帝国主義的戦争への復讐のためにあるのではない、危険の無い世界をつくり、この国とその全てのものが、子供達のために自由であるようにするのだ」
12月26日「私はフィリピンの人々にフィリピンの自由を回復しその主権を守ることを誓う、アメリカはこの誓いを果たす為に人と物を使い力を尽くす」
マッカーサー バターンへの退却
アパリとリンガエンに上陸した日本軍はマニラへ向かった。この軍事展開によってマッカーサーは一時バターンへ退却し、最後まで闘うことを決意した。彼の意図は戦争の被害から民間人を守り総力を集中して再び日本軍と戦うことにあった。
フィリピン軍は軍人と民間人との両者から組織されたものだったが、全員バターンへ退却するよう命じられた。従って日本軍は容易にマニラに侵入することが出来た。1942年1月2日マニラは制圧された。
フィリピンの敗北
日本軍はバターンを攻撃し、その総力を集中し、本間雅晴司令官ら日本軍の最高幹部は攻撃に幾たびもの失敗をした。ユサッフェには被弾して多数の死傷者が出たが降伏はしなかった。日本軍も死傷者は多くまた、マラリアに苦しむ者も多かった。本間はマッカーサーに降伏を勧告したがしかし、マッカーサーはそれを無視して戦い続けた。ルーズベルトはマッカーサーにオーストラリアに転戦するように命じた。バターンの防衛軍は食糧と武器不足のため弱体化し4月9日バターンは陥落した。
5月6日コレヒドール陥落、フィリピンは敗北した。
亡命政府
ケソンがワシントンに到着してすぐに亡命コモンウェルス政府(独立準備政府)が樹立された。
ケソンの閣僚のほとんどはフィリピンに残ったが彼についてきた者には重要なポストが与えられた。バシリオ・バルデス将軍は国防大臣、マヌエル・ニエト大佐は通商農業大臣、ハイメ・ヘルナンデスは大蔵大臣 住宅相にはホアキン・エリザルデが任命された。彼らは太平洋戦争会議のメンバーとなり、国際連合設立の為の文書に署名をした。
2へつづく
よく読んで、意味を噛みしめてね。
高等学校用
「フィリピン国の歴史」(タガログ語)
テオドロ・A・アゴンシリオ著
ナショナル・ブックストア発行
第17章 太平洋戦争
マッカーサーと軍隊
1939年ヨーロッパで戦争が始まった時フィリピンの国情は必ずしも悪い状況では無かった。
しかし、マヌエル・ケソン(国民党党首)はフィリピンの美しい空に暗雲が立ち込めるのではないかと感じた。民族主義者で作家で知識人そして国会議員でもあるクラロ・M・レクトは日本が一番危険ではないかと考えた。
1930年代に日本と中国が戦争を始めたときから日本は極東アジアを征服したがっていたらしい。もし、アジアで戦争が起こったならばドイツが太平洋にある列強の植民地を奪ったように日本もアメリカからフィリピンを奪うのではないかという恐れを抱いた、ケソンは戦争が起こりそうな情報を受けていたので、マッカーサーにフィリピンを守るように要請した。つまり毎年4万人の兵隊を訓練することを提案した。5年間に20万人のフィリピン軍の動員を計画し,ルーズベルト大統領はフィリピンとアメリカの軍隊を合体して指揮官にマッカーサーを任命した、フィリピン軍13万とアメリカ軍隊の連合隊をユサフェ(アメリカ極東軍)といった。
宣戦布告
1940年9月日本はドイツ・イタリアと同盟関係を結んだ。これらの国を枢軸国という。1941年7月日本はインドシナ(ベトナム)に侵攻した。アメリカはその侵攻に脅威を感じ、フィリピンも危険と考えたアメリカは主権を持った国家同士であることで日本に対して相互に理解し合おうと提言した、しかし 日本はそれを拒否した。2国間の関係改善のため日本は来栖三郎を野村駐米大使の協力者としてアメリカに派遣した。しかし、両者がハル国務長官と交渉している間に日本はパールハーバーを攻撃した。日本は宣戦布告をしないでアメリカの軍事施設を奇襲したのである。奇襲の結果アメリカ海軍将校 兵士計5000名が死傷した。ここに太平洋戦争が始まった。
日本の侵略
真珠湾攻撃の数時間後、日本はフィリピンに侵攻した。それは1941年12月8日である。アバリ・ダバオ・バギオ・タルラ・タルラックなどを攻撃を仕掛けてきた。夜にはマニラが爆撃された。と同じくして日本はアパリ・リンガエン・アティモナン・ラモン湾に上陸した。12月9日ルーズベルトの声をラジオで聞いた「我々は戦争のただ中にいる、この戦いは帝国主義的戦争への復讐のためにあるのではない、危険の無い世界をつくり、この国とその全てのものが、子供達のために自由であるようにするのだ」
12月26日「私はフィリピンの人々にフィリピンの自由を回復しその主権を守ることを誓う、アメリカはこの誓いを果たす為に人と物を使い力を尽くす」
マッカーサー バターンへの退却
アパリとリンガエンに上陸した日本軍はマニラへ向かった。この軍事展開によってマッカーサーは一時バターンへ退却し、最後まで闘うことを決意した。彼の意図は戦争の被害から民間人を守り総力を集中して再び日本軍と戦うことにあった。
フィリピン軍は軍人と民間人との両者から組織されたものだったが、全員バターンへ退却するよう命じられた。従って日本軍は容易にマニラに侵入することが出来た。1942年1月2日マニラは制圧された。
フィリピンの敗北
日本軍はバターンを攻撃し、その総力を集中し、本間雅晴司令官ら日本軍の最高幹部は攻撃に幾たびもの失敗をした。ユサッフェには被弾して多数の死傷者が出たが降伏はしなかった。日本軍も死傷者は多くまた、マラリアに苦しむ者も多かった。本間はマッカーサーに降伏を勧告したがしかし、マッカーサーはそれを無視して戦い続けた。ルーズベルトはマッカーサーにオーストラリアに転戦するように命じた。バターンの防衛軍は食糧と武器不足のため弱体化し4月9日バターンは陥落した。
5月6日コレヒドール陥落、フィリピンは敗北した。
亡命政府
ケソンがワシントンに到着してすぐに亡命コモンウェルス政府(独立準備政府)が樹立された。
ケソンの閣僚のほとんどはフィリピンに残ったが彼についてきた者には重要なポストが与えられた。バシリオ・バルデス将軍は国防大臣、マヌエル・ニエト大佐は通商農業大臣、ハイメ・ヘルナンデスは大蔵大臣 住宅相にはホアキン・エリザルデが任命された。彼らは太平洋戦争会議のメンバーとなり、国際連合設立の為の文書に署名をした。
2へつづく
これは メッセージ 2979 (fighter8823 さん)への返信です.