南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

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当時の朝鮮人志願兵の状況

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/13 11:21 投稿番号: [3008 / 41162]
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/sakushu.html

『4.熱狂的な志願兵の応募

  1937年支那事変の勃発により、内地から戦場に出動する日本軍の大部分が、朝鮮半島を汽車で通過した。それに伴い、沿線の主要駅での湯茶の接待や、慰問品の受け渡しを、朝鮮人も日本人と一緒に行った。各駅は連日連夜、万歳の声が轟くようになった。軍隊に通訳その他で随伴していく朝鮮人の軍属も少なくなく、送る者、送られる者の美談は数知れず、涙と笑いの交歓が何ヶ月も続いたのである。

丁度その頃金錫源陸軍少佐は、千名の日本人部下を指揮する大隊長として、支那の大軍を、山西省で木っ端微塵に撃破し、朝鮮人として始めて「金鵄勲章功三級」が授与された。少佐クラスでしかも生存者での「功三級」は全く破格でした。このビッグニュースは朝鮮の新聞に連日、「金部隊長奮戦記」「戦塵余談」等がでかでかと紹介された。日本兵を率いて、支那を撃つというのは、朝鮮人にとって夢みたいな事だったのである。

支那派遣軍を駅で送る歓声と旗の波、それに金大隊長の賛歌で、自然に朝鮮人のボルテージが上がった。それと共に朝鮮人は自信と誇りを持ち、内鮮一体の空気が強まった。民族主義者尹致昊、天道教の崔麟等の大物が朝鮮神宮に参拝し、戦勝祈願祭の式典をあげ、総督府のお偉方を驚かされたのもこの頃であった。このような雰囲気で1938年実施された志願兵制は、400人の採用に対し、3千人も応募があった。この倍率は年々増加し、1942年には62倍を超えたのである。翌1943年の応募者数は30万人で、恐らく朝鮮人男子の18才から22才位迄の健康な青年の大部分が応募したと思われる数字です。(当時の人口約2400万)これは現在の日韓双方の青年は信じられない事だと思います。  

後の駐日韓国大使、崔慶禄も志願兵の一人であった。彼は陸士への合格が決まっていたにも関わらず、所属部隊がニューギニアへ出征が決まったとき、「学校で何年も過ごしていては、第一線でご奉公の時を失する」と言い、第一線へ出征したのである。兵役を嫌った人がいたであろうことは否定しないが、このように日本人と同じように、自ら進んで兵役についた人も多数いたのである。これらの状況から朝鮮にも1944年徴兵制が敷かれたのである。
徴兵制を敷くことは朝鮮人の忠誠心を信じなければ出来ないことである。反日的なムードの中では、彼らに持たせた銃の筒先がいつ自分に向けられるか分からない。

朝鮮人指導者は相次いで朝鮮人青年の奮起をうながした。各指導者の共通した主張として、朱燿翰(後の韓国国会議員)の「ルーズベルトよ、答えよ」と題する演説の一部を紹介する。
「正義の仮面をかぶり、搾取と陰謀をほしいままにしている、世界の放火魔、世界第一の偽善君子、アメリカ大統領ルーズベルト君。君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、人種差別撤廃文面を挿入しようとした時、これに反対、削除したのはどこの国か。黒人と東洋人を差別待遇して、同じ席につかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りを、あたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国の者であったか。しかし君らの悪運は最早尽きた。一億日本同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦の勇士とならん事を誓う!」と朝鮮青年に訴えましたが、アパルトヘイトに言及しているのが共通した特色である。』



志願制が”正式に”制度化されたのは、第二次南京事件以後とされる1938年ですが、それまでもせっかくの志願者を断ったわけではありません。

日本軍が志願制を導入した経緯は、日本の独断などではなく
「朝鮮人の自発的な志願」に押されてのことだったのです。
(正規兵になれずとも軍属としてでも「ともに戦おう」とする朝鮮人は多かったということです。)
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