松島竹島芋山を鬱陵島と称し東国文献備考
投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/09 14:16 投稿番号: [8220 / 9207]
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[1-11]竹島問題
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そして鬱陵島が問題となるのは1881年5月22日、江原道監詞が鬱陵島捜討官(朝鮮は1696年以後、
3年に一度巡察使を、当時無人島であった鬱陵島に派遣)からの報告を受け、
日本人7名が鬱陵島で木材を伐採していると、報告した事から始まっている。
この時朝鮮は日本の外務省に抗議し、
併せて副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して鬱陵島に派遣する事になった。李奎遠が鬱陵島に赴くのが1882年4月。そこで李氏朝鮮の第26代国王・高宗は、彼に対し、「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」と下問している。
この高宗の質問に対して李奎遠は「芋山島は即ち鬱陵島にて、芋山は古(いにしえ)の国都の名なり」とし、
「松竹島は即ち一小島にて、相距たること十里(今の2Kmに相当)、その産するところは即ち檀香と簡竹」と、答えている。『成宗実録』1年8月条に記された、
「鬱陵島の傍らに小島あり」の小島と同じく、何れも鬱陵島より東に2Km程度離れた現在の鬱陵郡蔚陵邑道洞里竹島のことで、今の竹島とは全く関係が無いのである。
『東国輿地勝覧』の于山島鬱陵島条には松島、竹島の文字が無く、松島、竹島、芋山島の三島を鬱陵島と称したのは『東国文献備考』に基づく知識だったからである。
その高宗の不確かな鬱陵島理解に対して李奎遠は、「或いは松島、竹島と称して鬱陵島の東に在りとす。而(しか)してこれ松竹島以外に別して松島、竹島あるに非ず」と答え、
松竹島(現道洞里竹島)以外に松島や竹島と言う島は存在しないと、高宗の誤りを正している。
この高宗と李奎遠の鬱陵島に対する認識の差は、『東国文献備考』の記述を通じて鬱陵島周辺の地理を認識していた高宗と、実際の鬱陵島の様子を伝聞し、現実的な鬱陵島像を確立していた者との違いといえる。<引用終わり
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『東国輿地勝覧』の于山島鬱陵島条には松島、竹島の文字が無く、1770年の『東国文献備考』に基づく知識だったからである、つまり1882年の高宗王は書籍を勘違いしていたのですね、どうやら朝鮮による「松島」呼称は安の供述かららしい事がこれでやや見えてきたな。
これは メッセージ 8215 (ninnikumanx さん)への返信です.
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