1694年張漢相150名騎船二隻汲水船四隻
投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/08 14:21 投稿番号: [8217 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.657
朝鮮の「竹島一件」対応 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2375
02/09/22
日本との鬱陵島紛糾は、政府担当者だけでなく一般人にも関心を呼び起こ
したようである。たとえば、1694年(粛宗20)7月の前武兼宣伝官の成楚[王
行]の上疏がそうしたものであった。
彼は、鬱陵島が国家の要衝で土地が広く肥沃であるにもかかわらず久しく
見捨てられてきており、最近日本が思い切って「求居之計」を出しているので、
ここに僉・制両鎮を特設して日本人をして見下すことができないようにすべき
であると主張した。
必然的に、政府でも問題になっていた鬱陵島備禦策について関心を持ち始
めていた。領議政(総理格、半月城注)の南九万が、三陟僉使を鬱陵島に派遣、
生活状態を調査して民戸を移住させ、鎮を設置することで日本に対備すべきと
する建議をしたのがそれである。
南九万の建議により張漢相が三陟僉使に抜擢された。張漢相はこの年
(1694、粛宗20)9月19日、三陟を出発した。一行は別遣訳官(倭語訳官)
の安慎徽を含み総勢150名で、騎船二隻、汲水船四隻が動員された。
張漢相一行は9月20日から10月3日までの13日のあいだで滞留して、
鬱陵島から10月6日三陟へ戻った。張漢相の鬱陵島審察については『粛宗実
録』にも記録されているが、「鬱陵島事績」により詳しく記されている。
張漢相は鬱陵島審察結果を、山川・道里を記して挿入した地図とともに政
府に報告した。その要旨は、倭人が往来した痕跡はあるが住んではいないこと、
海路が穏やかではなく日本が横占しても除防が難しいこと、土質から〓麦を植
えてきたこと等であった。<引用おわり
これは メッセージ 8216 (ninnikumanx さん)への返信です.
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