侵略国日本は国際社会の前科者

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アメリカの日本人虐殺・名古屋大空襲

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/23 09:50 投稿番号: [8297 / 8458]
昭和19年(1944)12月、東区の三菱重工業発動機製作所がB29に爆撃され、名古屋でも本格的な空襲が始まった。空襲の目標は当初軍需工場であったが、翌年からは市街地にも広がった。空襲による名古屋市の被害は、建物面積の40%を焼失、死者約8,000人であった。空襲から児童を守るため学童疎開も実施され、地方に親戚などがないものは、集団で疎開させられた。

1945年3月12日から5月にかけて、名古屋市街地はアメリカ軍による焼夷弾爆撃を受けた。被害は死傷者1万8,500余、被災家屋13万6,500余を数え、市域の24%の3,860haが焼土化した。
12日の夜、名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、市街の5%が焼失したとされる。死者602人。

3月19日の午前2時頃、B-29爆撃機230機(310機との説もあり)による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われた。この空襲により一夜にして151,332人が被災し(死者1037人)、家屋39,893棟が焼失したとされる。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅の焼け焦げた姿が遠くからでもよく見えたという。

6月9日には熱田空襲が行われ、約2,000人の死者を出した。その後も空襲は行われ、名古屋市は日本の他の大都市と同様に壊滅的に破壊された。
終戦後、更地同然となった名古屋市中心部には100m道路と呼ばれる久屋大通・若宮大通が造られた。

愛知県には東京より多い爆弾、焼夷弾が降り注ぎ、愛知県だけで空襲による死者は1万3千人に上る。
(B29が愛知県下に投下した通常爆弾・焼夷弾の総量は計1万9569トン。東京より約100トン多いらしい)
理由は、愛知・岐阜・三重で、日本の戦闘機および戦闘機エンジンの全生産の40−50%前後を占めると分析していて、 日本の航空機産業の最大中心地ととらえていた。
攻撃目標として、名古屋市の三菱重工の工場など4カ所、岐阜県各務原市の川崎航空機の工場など2カ所があった。
東京大空襲よりひどい空襲を名古屋が受けていたのに、有名でないのはナゼだろうか。名古屋人は田舎人で昔から我慢強いからだろうか。

アメリカの日本人虐殺全記録1945年3月

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/21 22:10 投稿番号: [8296 / 8458]
1945年1月27日:【東京空襲   死者449人】 米軍のB29爆撃機72機が東京・有楽町、銀座地区を空襲。有楽町駅は民間人の死体であふれた。

3月10日:【東京大空襲   死者約10万人】 カーチス・ルメイの指揮する米軍のB29爆撃機325機が東京を空襲。午前0時7分東京湾上すれすれの低空から江東地域の爆撃が開始され、午前0時20分には浅草地区でも爆撃が開始された。まず人口密集地帯の周囲を火の壁で包囲し、逃げ道を失った人びとの頭上に、連続波状攻撃をかけた。投下された爆弾は高性能焼夷弾など約38万発、総計約1,700トンであった。 5、6時間で26万戸の家屋が焼失し、死者約10万人、重軽傷者約11万人、罹災者の数は89万人にのぼりその多くが非戦闘員だった。130回にも及んだ東京への空襲の中でも、1945年3月10日に行われたものは、その被害の甚大さから言って、人類史上にも残るホロコースト(大量虐殺)でした。
世界戦史上、わずか数時間で10万人が戦死したという記録は他にない。


http://www.youtube.com/watch?v=cT1HEQP_Dh0&feature=related

アメリカの日本人虐殺全記録1944年

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/19 10:50 投稿番号: [8295 / 8458]
1944年6月15日:【八幡空襲】 米軍のB-29爆撃機が初めて北九州を空襲。中国・成都基地から北九州の八幡製鉄所へ飛来・爆撃した。
8月:疎開船「対馬丸」が撃沈された。
1944年8月22日【対馬丸事件   死者1476人】
7月にサイパン島が玉砕陥落したことにより、アメリカ軍は同島からB-29爆撃機を出撃させることで、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになった。これを受けて政府は、沖縄県知事泉守紀に宛てて本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開させよとの命令を通達した。対馬丸は、この命令により疎開活動に当たっていた船団の1隻であった。
沖縄から本土に疎開する学童など1788人を乗せた学童疎開船「対馬丸」(6754トン)が、鹿児島県沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。対馬丸記念館(那覇市)によると、名前が判明しているだけで、779人の学童を含む1476人が犠牲になった。

10月10日:【十・十空襲(那覇空襲)死者255人】 米海軍機のべ900機(日本側発表500機)が沖縄県全域に対しての空襲。米軍が焼夷弾を初めて戦闘に使用した。那覇市では市街地の9割が焼失して市は壊滅した。本土初の本格的都市空襲。
10月25日:【大村大空襲   死者約500人】 東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を空襲。
11月24日:【東京空襲】 東京・武蔵野町(現=武蔵野市)の中島飛行機工場に対する空襲が行われた。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/07/16 12:10 投稿番号: [8294 / 8458]
そろそろ、福島のすべてが、「ダメ」だってことが、日本全国に知れ渡りはじめた。
当然、東北・北関東もアウト。
静岡茶が、フランスで門前払いなのだから、当然と言えば、当然。。。
「安全安全」って嘘をつく時代は終わりはじめていると感じる。
本当の不況がくるだろう。。。(-_-;)

アメリカの日本人虐殺全記録1942年

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/16 11:57 投稿番号: [8293 / 8458]
1942年4月18日:【初の本土空襲(ドーリットル空襲)死者87人】 米軍が、東京の約800km東に停泊した空母から発艦のジミー・ドーリットル中佐率いるB25爆撃機16機が東京市、川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市、神戸市を奇襲攻撃。初の日本本土空襲。
日本側には死者87名、重軽傷者466名、家屋262戸の被害が出た。このうち9名は日本軍高射砲の破片によると認められている。国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃に至った機もあり、葛飾区にある水元国民学校高等科の少年 石出巳之助が機銃掃射を受け死亡した。この学童には「悲運銃撃善士」という戒名が与えられた。朝日新聞社は『鬼畜の敵、校庭を掃射』等を報じている。また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。ただし、このB-25(3番機)は学校屋上に設置されていた防空監視櫓を見て軍事施設と誤認した可能性が高い。14番機は名古屋病院を爆撃したが、これは第三師団司令部を狙った攻撃がそれたためである。16番機は他のB-25に比べて積極的に機銃掃射を行った。

アメリカの日本人虐殺全記録・序章

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/16 05:50 投稿番号: [8292 / 8458]
まず最初に言っておく。アメリカの犯罪を持ち出すとすぐに中国における日本軍の犯罪を言う人がいるが、日中戦争(といっても、この戦争はいつも中国側が先に仕掛けている)において、日本軍が意図的にまたは組織的に一般民間人を狙って殺したことはない。
国家や軍が意図的に用意周到に準備して、大仕掛けにそして大規模に一般民間人だけを狙って大量殺戮した国は、世界戦史上アメリカが最初である。
ユダヤ人大虐殺の思想がヒトラーの発明であるとすれば、一般市民大虐殺の思想はアメリカの発明である。しかも両者の意識の根底には人種差別の思想が存在している。

第2次世界大戦でアメリカ軍を主体とする連合国軍が日本本土に対する空襲を行った。B29戦略爆撃機による本格的空襲は1944年6月より北部九州に対して中国大陸の基地から行われた。マリアナ諸島が陥落すると、日本本土の大半が爆撃圏内にはいり、1944年末頃から空襲は熾烈化した。

当初は軍需工場が主たる目標となっていたが、カーチス・ルメイ少将の登場以降、民家や一般市民そのものを標的にした無差別爆撃へと移った。日本全国の主要都市のほとんどが灰燼に帰し、特に主要な都市は大規模空襲にあった。京都は原爆投下目標の候補の一つであったため大規模空襲にあわなかった。空襲は終戦当日まで続いた。また、末期には機動部隊艦載機や硫黄島から飛来する単発機による爆撃や機銃掃射も行われた。  

非戦闘員に対する卑劣な戦法で戦時国際法に反するが、アメリカが戦勝国のためは裁かれることはなかった。日本政府は、 サンフランシスコ講和条約(1952年)により賠償請求権を放棄した。

Re: サイパン島玉砕の悲劇

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2011/07/12 22:06 投稿番号: [8291 / 8458]
これ、アメリカ人に教えて遣りたい。

シナ人と一面同じ価値観の欧米人。世界を植民地にして、その地に住んでいた人々を惨殺して当たり前の行為ですね〜。

アメリカ軍の日時別日本人虐殺数のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/12 21:11 投稿番号: [8290 / 8458]
1945年7月
7月1-2日 【熊本大空襲 死者数469人】
午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表)[3]市街地の約20%を焼失。負傷者数552人、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人。
7月1日-2日 【呉市空襲 死者3,700人】B29・150機。
7月2日 【下関空襲 死者324人】B29・143機。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。
7月3日 【姫路大空襲 死者324人】
深夜から4日未明にかけ、B29・約107機。罹災者45,182人。姫路城は焼失を免れる。
7月4日 【高松空襲 死者1359人】
B29・116機。罹災人口86,400人、罹災家屋18,913戸。高松市の約80%が焦土と化した。
7月4日 【徳島大空襲   死者約1,000人】
B29・129機   けが人は約2,000人、被災者約70,000人。徳島市(当時)の62%が焦土と化した。
7月4日 【高知大空襲   死者401人】B29・120機   罹災家屋約12,000戸。
7月6日 【千葉空襲 死傷者1,679人】B29・124機。
7月6日 【甲府空襲 死者1,027人】B29・131機。全焼17,920戸。
7月7日 清水大空襲(現在の静岡市清水区)
7月9日 【和歌山大空襲 死者約1200人】B29・約100機。
7月9日 【堺空襲 死者1860人】B29・約100機。焼失18,000戸。
7月9日 【岐阜空襲 死者約900人】B29・約130機。
7月10日 【仙台空襲 死者828人】B29・124機。負傷者385人。焼失家屋23,956戸。詳細は項目記事を参照。
7月12日 【宇都宮大空襲 死者628人】B29・133機、焼夷弾12,704発。負傷者約1,150人。焼失家屋9,490戸。【鹿沼空襲 死者9人】
7月12日 【敦賀空襲 死者109人】負傷者201人。日本海側初の空襲[6]
7月14日 釜石艦砲射撃。一回目。少なくとも死者515人。
7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2,000機による空襲。被害は北海道全土に及んだ。
7月15日 【室蘭艦砲射撃。死者436人】室蘭は前日にも空襲を受けたばかりだった。
7月16-17日 大分空襲 16日夜半頃B29編隊(約30数機)が襲来、市の中心部を約6,000発の焼夷弾爆撃。2,358戸が焼失。
大分はこの他にも4月21日、5月5日、8月10日など本土空襲での米軍の通り道であったため度々空襲を受けた。また公式記録には残っていないものの、別府市浜脇地区も被弾したといわれている。一連の空襲での死傷者は1,193人。
7月16日 【平塚大空襲 死者343名】B29・136機 焼夷弾10,961発、
海軍火薬廠、日本国際航空工業、第二海軍航空廠平塚分工場、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場がターゲットであったとされ、人的被害は比較的少ないが大規模な爆撃。当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。
7月17日 沼津大空襲
7月17日 桑名空襲
桑名は7月24日にも空襲を受けた。
7月17日 【日立艦砲射撃。死者317人】
7月18日 野島崎(千葉県白浜)艦砲射撃。死者6人。巡洋艦4隻、駆逐艦9隻によるもの。
7月19日 【福井空襲 死者1,576人】B29・120機。
7月19日 【日立空襲 死傷者2,199人】B29・127機。
7月19日 【銚子空襲 死傷者1,181人】B29・91機。
7月19-20日 【岡崎空襲 死者203人】B29・126機。
7月24日 【半田空襲 死者269人】B29・78機。中島飛行機半田製作所を標的とした攻撃。
7月24日、28日 【津大空襲 死者1,239人】旧市街の全域、及び、橋北地区の工場地帯が焼失。
7月24日、28日 【呉軍港空襲 死者780人】米艦載機950機、B29・110機 航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没。
7月25日 保戸島空襲(大分県津久見市)
米軍グラマン戦闘機が投下した3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)を直撃し、【児童125人、教師2人が即死】し、70数人の児童が重軽傷を負った。
7月25日 串本艦砲射撃。潮岬も含め、周辺は何度となく艦砲射撃を受けている。
7月26日 【松山大空襲 死者・行方不明259人】
B29・128機による午後11時から2時間10分に及ぶ夜間空襲。負傷者把握不可の大惨事となった。全戸数の55%である14,300戸を焼失。全人口の53%の62,200人が罹災し、市のシンボルである松山城へも焼夷弾攻撃を受けたが、大天守は焼失を免れる。米軍機の損失はなかった(「アメリカ軍松山爆撃報告書」による)。
7月26日 平空襲
7月26日 【徳山空襲 死者482人】B29・約100機。負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。
7月27日 2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。

アメリカ軍の日時別日本人虐殺数のつづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/12 04:14 投稿番号: [8289 / 8458]
7月28日 【青森大空襲   死傷者1767人】
B29・61機。焼失家屋18,045戸(市街地の88%)。新型のM74六角焼夷弾が使用され、東北地方では最大の被害を出した。青函連絡船第2青函丸、第3青函丸、第6青函丸、翔鳳丸、飛鸞丸が航行中に撃沈された。
7月29日 【浜松艦砲射撃   死者177人】周辺の被害も含む。
7月29日 【大垣空襲   死者50人】負傷者約100人、全半壊家屋約4,900戸、罹災者約30,000人。大垣城、開闡寺などが焼失。
7月31日 【清水艦砲射撃   死者44人】7隻の駆逐艦によるもの。

1945年8月
8月1日 【水戸空襲 死傷者1535人】B29・99機。
8月1日 【八王子空襲 死傷者2450人】B29・169機。焼失家屋14,000戸。罹災人口77,000人。
8月1日 【長岡空襲 死者1470人余】B29・125機。焼失家屋11,986戸。
8月2日 【富山大空襲 死者2737人】
B29・174機。負傷者7900人。焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害。
なお、8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。

8月5日 【前橋・高崎空襲 死傷者1323人】B29・92機。
8月6日 【広島原爆投下 死者14万人】
8月7日 【豊川海軍工廠空襲 死者2477人】
8月8日 【福山大空襲 死者354人】
B29・91機。負傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
8月8日 【八幡大空襲。死者2952人】
B29・127機。焼失家屋数14,380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。
8月9日 【長崎原爆投下   死者7万人】
8月9日 【大湊空襲   死者129名】
負傷者300名以上。敷設艦常磐などが大破。
8月9日 【釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人】爆音は秋田市まで響いたという。
8月10日 花巻空襲、熊本空襲
8月11日 【久留米空襲 死者212人】焼失家屋4506戸。
8月13日 長野空襲 長野市、上田市に艦載機62機による空襲。
8月14日 【熊谷空襲 死傷者687人】B29・82機。
8月14日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
8月14日 【山口県光市 死者738人】光海軍工廠空襲
8月14-15日 【小田原空襲 死者30〜50人】
8月14-15日 【土崎大空襲 死傷者300〜400人】B29・132機。最後の空襲。

アメリカ軍の日時別日本人虐殺数のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/12 03:49 投稿番号: [8288 / 8458]
1945年7月
7月1-2日 【熊本大空襲 死者数469人】
午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表)[3]市街地の約20%を焼失。負傷者数552人、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人。
7月1日-2日 【呉市空襲 死者3,700人】B29・150機。
7月2日 【下関空襲 死者324人】B29・143機。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。
7月3日 【姫路大空襲 死者324人】
深夜から4日未明にかけ、B29・約107機。罹災者45,182人。姫路城は焼失を免れる。
7月4日 【高松空襲 死者1359人】
B29・116機。罹災人口86,400人、罹災家屋18,913戸。高松市の約80%が焦土と化した。
7月4日 【徳島大空襲   死者約1,000人】
B29・129機   けが人は約2,000人、被災者約70,000人。徳島市(当時)の62%が焦土と化した。
7月4日 【高知大空襲   死者401人】B29・120機   罹災家屋約12,000戸。
7月6日 【千葉空襲 死傷者1,679人】B29・124機。
7月6日 【甲府空襲 死者1,027人】B29・131機。全焼17,920戸。
7月7日 清水大空襲(現在の静岡市清水区)
7月9日 【和歌山大空襲 死者約1200人】B29・約100機。
7月9日 【堺空襲 死者1860人】B29・約100機。焼失18,000戸。
7月9日 【岐阜空襲 死者約900人】B29・約130機。
7月10日 【仙台空襲 死者828人】B29・124機。負傷者385人。焼失家屋23,956戸。詳細は項目記事を参照。
7月12日 【宇都宮大空襲 死者628人】B29・133機、焼夷弾12,704発。負傷者約1,150人。焼失家屋9,490戸。【鹿沼空襲 死者9人】
7月12日 【敦賀空襲 死者109人】負傷者201人。日本海側初の空襲[6]
7月14日 釜石艦砲射撃。一回目。少なくとも死者515人。
7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2,000機による空襲。被害は北海道全土に及んだ。
7月15日 【室蘭艦砲射撃。死者436人】室蘭は前日にも空襲を受けたばかりだった。
7月16-17日 大分空襲 16日夜半頃B29編隊(約30数機)が襲来、市の中心部を約6,000発の焼夷弾爆撃。2,358戸が焼失。
大分はこの他にも4月21日、5月5日、8月10日など本土空襲での米軍の通り道であったため度々空襲を受けた。また公式記録には残っていないものの、別府市浜脇地区も被弾したといわれている。一連の空襲での死傷者は1,193人。
7月16日 【平塚大空襲 死者343名】B29・136機 焼夷弾10,961発、
海軍火薬廠、日本国際航空工業、第二海軍航空廠平塚分工場、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場がターゲットであったとされ、人的被害は比較的少ないが大規模な爆撃。当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。
7月17日 沼津大空襲
7月17日 桑名空襲
桑名は7月24日にも空襲を受けた。
7月17日 【日立艦砲射撃。死者317人】
7月18日 野島崎(千葉県白浜)艦砲射撃。死者6人。巡洋艦4隻、駆逐艦9隻によるもの。
7月19日 【福井空襲 死者343名】B29・120機。
7月19日 【日立空襲 死者343名】B29・127機。
7月19日 【銚子空襲 死者343名】B29・91機。
7月19-20日 【岡崎空襲 死者203人】B29・126機。
7月24日 【半田空襲 死者269人】B29・78機。中島飛行機半田製作所を標的とした攻撃。
7月24日、28日 【津大空襲 死者1,239人】旧市街の全域、及び、橋北地区の工場地帯が焼失。
7月24日、28日 【呉軍港空襲 死者780人】米艦載機950機、B29・110機 航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没。
7月25日 保戸島空襲(大分県津久見市)
米軍グラマン戦闘機が投下した3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)を直撃し、【児童125人、教師2人が即死】し、70数人の児童が重軽傷を負った。
7月25日 串本艦砲射撃。潮岬も含め、周辺は何度となく艦砲射撃を受けている。
7月26日 【松山大空襲 死者・行方不明259人】
B29・128機による午後11時から2時間10分に及ぶ夜間空襲。負傷者把握不可の大惨事となった。全戸数の55%である14,300戸を焼失。全人口の53%の62,200人が罹災し、市のシンボルである松山城へも焼夷弾攻撃を受けたが、大天守は焼失を免れる。米軍機の損失はなかった(「アメリカ軍松山爆撃報告書」による)。
7月26日 平空襲
7月26日 【徳山空襲 死者482人】B29・約100機。負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。
7月27日 2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。

アメリカ軍の日時別日本人虐殺数のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/12 02:55 投稿番号: [8287 / 8458]
主要地方都市
1944年
1944年6月15日 八幡空襲   中国大陸の基地から初めてB29が本土を空襲した。
10月10日 十・十空襲 沖縄県全域に対しての空襲。那覇市街での被害が大きかったため、那覇空襲とも呼ばれる。
10月25日 【大村大空襲 死者約500名】当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を狙った空襲。
11月21日 熊本初空襲
1945年3月
1945年3月18日朝 大分空襲 航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。
3月18日朝 鹿児島初空襲 グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町にある海軍航空隊を急降下爆撃。
3月19日 アメリカ軍機動部隊、室戸岬沖80キロの近海に来襲。米艦載機350機が呉軍港空襲を敢行。航空母艦3巡洋艦2敷設艦2が大破沈没。これに対しての日本軍の反撃で、九州沖航空戦が生起した。
3月27日 小倉大空襲
1945年4月
4月8日 玉野空襲
4月15日 【川崎空襲 死者約1000人】、負傷者15,000人。罹災人口10万人。全半壊33,361戸。同工場287戸。川崎は7月13日、25日、8月1日、13日にも空襲を受けた。
4月21日   鹿児島空襲 鹿児島市電上町線の一部区間が被害を受けた。時限爆弾が投下され、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けたため、熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった。
1945年5月
5月10日 【徳山大空襲 死者500人以上】第三海軍燃料廠を狙った空襲。B29・約800機。負傷者約1000人。
5月29日 【横浜大空襲 死者3787人】
B29・475機、P51・約100機。重傷者1554人。軽傷者10,837人。罹災人口323,000人。焼失約3万戸。その後の調査で、死者は8千〜1万人にのぼることが確実と考えられている。
5月31日 【台北大空襲 死者約3000人】B24・117機日本統治時代の台北市。
1945年6月
6月1日 【尼崎空襲 死者231人】
6月10日 【日立空襲 死者1200人】
6月10日 【千葉空襲 死者152人】B29・約100機。
6月17日 【鹿児島大空襲 死者2,316人】
B29・117機、焼夷弾810トン。負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
6月18日 【浜松空襲 死者1720人】焼失家屋15,400戸。
6月18日 【四日市空襲 死者736人】B29・89機。負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
6月19日 【福岡大空襲 死者902人】B29・239機。罹災人口60,599人、罹災家屋12,693戸。
6月19-20日 【静岡大空襲 死者1,952人】
B29・137機。   罹災人口127,119人   焼失家屋30,045戸。静岡市(現在の葵区・駿河区)は、計26回の空襲を受けたが、それ以外にも数えきれない程の機銃掃射や空襲とは呼べない小規模な爆撃を受けている。
6月19-20日 【豊橋空襲   死者624人】B29・136機。
6月22日 【姫路空襲   死者341人】(川西航空機姫路製作所とその周辺)   B29・約60機、罹災者10220人。
6月22日 【水島空襲   死者11人】(現倉敷市) 重軽傷者46人。
6月22日 【各務原空襲   死者169人】(現航空自衛隊岐阜基地付近)B29・44機。
6月22日 【呉空襲 死者1600人】工廠への爆撃
6月28日 呉大空襲
6月29日 【佐世保大空襲 死者約1300人】
B29・141機。焼夷弾約1200トン。罹災人口約65,000人。当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突き深夜に空襲された。
6月29日 【岡山空襲 死者1737人】
B29・137機。罹災人口12万人。罹災家屋25,000戸。(『岡山市史』)空襲警報が出されずまったくの不意打ちであったため被害が増大した。

アメリカ軍の日時別日本人虐殺数

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/12 02:21 投稿番号: [8286 / 8458]
主要大都市
東京
1942年4月18日 ドーリットル空襲
1945年2月15日 米空母機動部隊艦載機による本土初空襲。関東の軍需工場が標的。
3月10日 【東京大空襲 死者約8万〜10万名】
負傷4万〜11万名。焼失26万8千戸。
4月13日 【城北大空襲 死者2459名】
B29・330機。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
4月15日 【京浜空襲 死者841名】
B29・202機。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた。
5月24日【 死者762名】
B29・525機。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
5月25日【死者3651名】
B29・470機。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。
東京は1944年11月14日以降、上記の大空襲を含む106回の空襲を受けた。

名古屋
1944年12月13日以降、名古屋は軍需工業地帯が集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受けて【死者8630名】、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。実際には死者は1万名以上にのぼるとみられる。

1945年3月12日 【名古屋大空襲   死者602名】
B29・288機。負傷者1238名。全焼2万9千戸。
3月19日 【死者1037名】
負傷者2813名。焼失3万6千戸。
5月14日 B29・480機。この日の空襲で名古屋城が焼失した。
6月9日 【熱田空襲   死者2068名】
B29・43機。負傷1944名。
6月21日 【死者426名】B29・120機。負傷者327名。

大阪
空襲後の大阪市街大阪は1945年1月9日以降、 下記の大空襲を含む33回の空襲を受けた。

1945年3月13日 【大阪大空襲 死者3115名】B29・279機。焼失13万2459戸。
6月1日 【死者3150名】B29・474機。焼失6万戸
6月7日 【死者1594名】B29・250機。負傷者4967名。焼失5万6千戸。
6月15日 【死者418名】B29・469機。負傷者1842名。焼失4万9千戸。
6月26日 【死者592名】B29・約100機。負傷者1102名。焼失約9千戸。
7月24日 【死者187名】B29・約400機を含む大小二千機。負傷317名。焼失554戸。
8月14日 【死者173名】B29・約100機。負傷89名。焼失二千戸。大阪城にあった砲兵工廠が目標であった。

神戸
神戸は1945年1月3日以降、下記の大空襲を含む83日・128回、【死者8841名】、負傷18404名、焼失12万8千戸の被害を終戦までに受けた。同年3月17日の大空襲で旧市街地の西の地域を中心に焼失する。

1945年3月17日 神戸大空襲 【死者2598名】
B29・309機。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名。
5月11日 【死者1093名】B29・92機。負傷者924人。
6月5日【死者3184名】 B29・481機。負傷者5824名。全焼5万5千戸。罹災人口21万3千名。

京都
京都は1945年1月16日以降、合計20回以上の空襲を受けて【死者302人】、負傷者561人の被害を出した。

1945年1月16日 【死者41人 】
3月19日
4月16日
5月11日 京都御所へ空襲。
6月26日 【死者43人】、負傷者66人、被害家屋292戸(全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸)。被災者850名

アメリカ軍の日本本土空襲のつづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/10 22:26 投稿番号: [8285 / 8458]
7月28日 青森大空襲 B29・61機。死傷者1767人。焼失家屋18,045戸(市街地の88%)。新型のM74六角焼夷弾が使用され、東北地方では最大の被害を出した。青函連絡船第2青函丸、第3青函丸、第6青函丸、翔鳳丸、飛鸞丸が航行中に撃沈された。
7月29日 浜松艦砲射撃。死者177人。周辺の被害も含む。
7月29日 大垣空襲。死者50人、負傷者約100人、全半壊家屋約4,900戸、罹災者約30,000人。大垣城、開闡寺などが焼失。
7月31日 清水艦砲射撃。死者44人。7隻の駆逐艦によるもの。

1945年8月
8月1日 水戸空襲 B29・99機。死傷者1535人。
8月1日 八王子空襲 B29・169機。死傷者2450人。焼失家屋14,000戸。罹災人口77,000人。
8月1日 長岡空襲 B29・125機。死者1470人余。焼失家屋11,986戸。
8月2日 富山大空襲 B29・174機。死者2737人。負傷者7900人。焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害。
なお、8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。

8月5日 前橋・高崎空襲 B29・92機。死傷者1323人。
8月6日 広島原爆
8月7日 豊川海軍工廠空襲 死者2477人。
8月8日 福山大空襲 B29・91機。死者354人、負傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
8月8日 八幡大空襲。B29・127機。死者2952人、焼失家屋数14,380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。
8月9日 長崎原爆
8月9日 大湊空襲。死者129名、負傷者300名以上。敷設艦常磐などが大破。
8月9日 釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は秋田市まで響いたという。
8月10日 花巻空襲、熊本空襲
8月11日 久留米空襲 死者212人。焼失家屋4506戸。
8月13日 長野空襲 長野市、上田市に艦載機62機による空襲。
8月14日 熊谷空襲 B29・82機。死傷者687人。
8月14日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
8月14-15日 小田原空襲 死者30〜50人。
8月14-15日 土崎大空襲 B29・132機。死傷者300〜400人。最後の空襲。

アメリカ軍の日本本土空襲のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/10 22:17 投稿番号: [8284 / 8458]
1945年7月
7月1-2日 熊本大空襲
午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表)[3]市街地の約20%を焼失。死者数469人、負傷者数552人、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人[4]。
7月1日-2日 呉市空襲 B29・150機。死者3,700人。[5]
7月2日 下関空襲 B29・143機。死者324人。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。
7月3日 姫路大空襲 深夜から4日未明にかけ、B29・約107機。死者173人、罹災者45,182人。姫路城は焼失を免れる。
7月4日 高松空襲 B29・116機。死者1359人、罹災人口86,400人、罹災家屋18,913戸。高松市の約80%が焦土と化した。
7月4日 徳島大空襲   B29・129機   死者約1,000人、けが人は約2,000人、被災者約70,000人。徳島市(当時)の62%が焦土と化した。
7月4日 高知大空襲   B29・120機   死者401人、罹災家屋約12,000戸。
7月6日 千葉空襲 B29・124機。死傷者1,679人。
7月6日 甲府空襲 B29・131機。死者1,027人。全焼17,920戸。
7月7日 清水大空襲(現在の静岡市清水区)
7月9日 和歌山大空襲 B29・約100機。死者約1200人。
7月9日 堺空襲 B29・約100機。死者1860人。焼失18,000戸。
7月9日 岐阜空襲 B29・約130機。死者約900人。
7月10日 仙台空襲 B29・124機。死者828人。負傷者385人。焼失家屋23,956戸。詳細は項目記事を参照。
7月12日 宇都宮大空襲 B29・133機、焼夷弾12,704発。死者628人、負傷者約1,150人。焼失家屋9,490戸。鹿沼空襲 死者9人。
7月12日 敦賀空襲 死者109人。負傷者201人。日本海側初の空襲[6]
7月14日 釜石艦砲射撃。一回目。少なくとも死者515人。
7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2,000機による空襲。被害は北海道全土に及んだ。
7月15日 室蘭艦砲射撃。死者436人。室蘭は前日にも空襲を受けたばかりだった。
7月16-17日 大分空襲 16日夜半頃B29編隊(約30数機)が襲来、市の中心部を約6,000発の焼夷弾爆撃。2,358戸が焼失。
大分はこの他にも4月21日、5月5日、8月10日など本土空襲での米軍の通り道であったため度々空襲を受けた。また公式記録には残っていないものの、別府市浜脇地区も被弾したといわれている。[要出典]一連の空襲での死傷者は1,193人。
7月16日 平塚大空襲 B29・136機 焼夷弾10,961発、死者343名
海軍火薬廠、日本国際航空工業、第二海軍航空廠平塚分工場、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場がターゲットであったとされ、人的被害は比較的少ないが大規模な爆撃。当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。
7月17日 沼津大空襲
7月17日 桑名空襲
桑名は7月24日にも空襲を受けた。
7月17日 日立艦砲射撃。死者317人。
7月18日 野島崎(千葉県白浜)艦砲射撃。死者6人。巡洋艦4隻、駆逐艦9隻によるもの。
7月19日 福井空襲 B29・120機。死者1,576人。
7月19日 日立空襲 B29・127機、死傷者2,199人。
7月19日 銚子空襲 B29・91機。死傷者1,181人。
7月19-20日 岡崎空襲 B29・126機。死者203人。
7月24日 半田空襲 B29・78機。死者269人。中島飛行機半田製作所を標的とした攻撃。
7月24日、28日 津大空襲 死者1,239人。旧市街の全域、及び、橋北地区の工場地帯が焼失。
7月24日、28日 呉軍港空襲 米艦載機950機、B29・110機[7] 航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没 死者780人。
7月25日 保戸島空襲(大分県津久見市)米軍グラマン戦闘機が投下した3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)を直撃し、児童125人、教師2人が即死し、70数人の児童が重軽傷を負った。
7月25日 串本艦砲射撃。潮岬も含め、周辺は何度となく艦砲射撃を受けている。
7月26日 松山大空襲 B29・128機による午後11時から2時間10分に及ぶ夜間空襲。死者・行方不明259人、負傷者把握不可の大惨事となった。全戸数の55%である14,300戸を焼失。全人口の53%の62,200人が罹災し、市のシンボルである松山城へも焼夷弾攻撃を受けたが、大天守は焼失を免れる。米軍機の損失はなかった(「アメリカ軍松山爆撃報告書」による)。
7月26日 平空襲
7月26日 徳山空襲 B29・約100機。死者482人、負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。
7月27日 2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。

アメリカ軍の日本本土空襲のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/10 22:10 投稿番号: [8283 / 8458]
主要地方都市
1944年
1944年6月15日 八幡空襲   中国大陸の基地から初めてB29が本土を空襲した。
10月10日 十・十空襲 沖縄県全域に対しての空襲。那覇市街での被害が大きかったため、那覇空襲とも呼ばれる。
10月25日 大村大空襲 当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を狙った空襲。死者約500名。
11月21日 熊本初空襲
1945年3月
1945年3月18日朝 大分空襲 航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。
3月18日朝 鹿児島初空襲 グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町にある海軍航空隊を急降下爆撃。
3月19日 アメリカ軍機動部隊、室戸岬沖80キロの近海に来襲。米艦載機350機が呉軍港空襲を敢行。航空母艦3巡洋艦2敷設艦2が大破沈没。これに対しての日本軍の反撃で、九州沖航空戦が生起した。
3月27日 小倉大空襲
1945年4月
4月8日 玉野空襲
4月15日 川崎空襲 死者約1000人、負傷者15,000人。罹災人口10万人。全半壊33,361戸。同工場287戸。川崎は7月13日、25日、8月1日、13日にも空襲を受けた。
4月21日   鹿児島空襲 鹿児島市電上町線の一部区間が被害を受けた。時限爆弾が投下され、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けたため、熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった。
1945年5月
5月10日 徳山大空襲 第三海軍燃料廠を狙った空襲。B29・約800機。死者500人以上、負傷者約1000人。
5月29日 横浜大空襲 B29・475機、P51・約100機。死者3787人。重傷者1554人。軽傷者10,837人。罹災人口323,000人。焼失約3万戸。その後の調査で、死者は8千〜1万人にのぼることが確実と考えられている。
5月31日 台北大空襲 B24・117機日本統治時代の台北市、死者約3000人。
1945年6月
6月1日 尼崎空襲 死者231人。
6月10日 日立空襲 死者1200人。
6月10日 千葉空襲 B29・約100機。死者152人。
6月17日 鹿児島大空襲 B29・117機、焼夷弾810トン。死者2,316人、負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
6月18日 浜松空襲 死者1720人。焼失家屋15,400戸。
6月18日 四日市空襲 B29・89機。死者736人、負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
6月19日 福岡大空襲 B29・239機。罹災人口60,599人(うち死者902人)。罹災家屋12,693戸。
6月19-20日 静岡大空襲 B29・137機。死者1,952人   罹災人口127,119人   焼失家屋30,045戸。静岡市(現在の葵区・駿河区)は、計26回の空襲を受けたが、それ以外にも数えきれない程の機銃掃射や空襲とは呼べない小規模な爆撃を受けている。
6月19-20日 豊橋空襲   B29・136機。死者624人
6月22日 姫路空襲(川西航空機姫路製作所とその周辺)   B29・約60機、死者341人、罹災者10220人。
6月22日 水島空襲(現倉敷市) 死者11人、重軽傷者46人。
6月22日 各務原空襲(現航空自衛隊岐阜基地付近)B29・44機。死者169人
6月22日 呉空襲 工廠への爆撃[2] 死者1600人。
6月28日 呉大空襲
6月29日 佐世保大空襲 B29・141機。焼夷弾約1200トン。死者約1300人、罹災人口約65,000人。当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突き深夜に空襲された。
6月29日 岡山空襲 B29・137機。死者1737人。罹災人口12万人。罹災家屋25,000戸。(『岡山市史』)空襲警報が出されずまったくの不意打ちであったため被害が増大した。

アメリカ軍の日本本土空襲

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/10 22:00 投稿番号: [8282 / 8458]
主要大都市
東京
1942年4月18日 ドーリットル空襲
1945年2月15日 米空母機動部隊艦載機による本土初空襲。関東の軍需工場が標的。
3月10日 東京大空襲 死者約8万〜10万。負傷4万〜11万名。焼失26万8千戸。
4月13日 城北大空襲 B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
4月15日 京浜空襲 B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた。
5月24日 B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
5月25日 B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。
東京は1944年11月14日以降、上記の大空襲を含む106回の空襲を受けた。

名古屋
1944年12月13日以降、名古屋は軍需工業地帯が集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受けて死者8630名、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。実際には死者は1万名以上にのぼるとみられる。

1945年3月12日 名古屋大空襲 B29・288機。死者602名。負傷者1238名。全焼2万9千戸。
3月19日 死者1037名。負傷者2813名。焼失3万6千戸。
5月14日 B29・480機。この日の空襲で名古屋城が焼失した。
6月9日 熱田空襲 B29・43機。死者2068名。負傷1944名。
6月21日 B29・120機。死者426名。負傷者327名。

大阪
空襲後の大阪市街大阪は1945年1月9日以降、 下記の大空襲を含む33回の空襲を受けた。

1945年3月13日 大阪大空襲 B29・279機。死者3115名。焼失13万2459戸。
6月1日 B29・474機。死者3150名。焼失6万戸
6月7日 B29・250機。死者1594名。負傷者4967名。焼失5万6千戸。
6月15日 B29・469機。死者418名。負傷者1842名。焼失4万9千戸。
6月26日 B29・約100機。死者592名。負傷者1102名。焼失約9千戸。
7月24日 B29・約400機を含む大小二千機。死者187名。負傷317名。焼失554戸。
8月14日 B29・約100機。死者173名。負傷89名。焼失二千戸。大阪城にあった砲兵工廠が目標であった。

神戸
神戸は1945年1月3日以降、下記の大空襲を含む83日・128回、死者8841名、負傷18404名、焼失12万8千戸の被害を終戦までに受けた。同年3月17日の大空襲で旧市街地の西の地域を中心に焼失する。

1945年3月17日 神戸大空襲 B29・309機。死者2598名。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名。
5月11日 B29・92機。死者1093名。負傷者924人。
6月5日 B29・481機。死者3184名。負傷者5824名。全焼5万5千戸。罹災人口21万3千名。

京都
京都は1945年1月16日以降、合計20回以上の空襲を受けて死者302人、負傷者561人の被害を出した。

1945年1月16日 死者41人
3月19日
4月16日
5月11日 京都御所へ空襲。
6月26日 死者43人、負傷者66人、被害家屋292戸(全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸)。被災者850名

米軍の

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2011/07/10 11:28 投稿番号: [8281 / 8458]
日本人大虐殺は事実有った。同じようにシナ軍の日本人大虐殺も事実有った。
敗戦により、それらを打ち消すが如く、南京大虐殺が捏造された。これらの事実を広めましょう〜。

サイパン島玉砕の悲劇

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/09 05:44 投稿番号: [8280 / 8458]
サイパン島の話が出たのでもう一度掲載しておく。

その前に、あなたに忠告しておきたい。
ここの掲示板は、カテゴリ名が日中関係、トピックのタイトルが「侵略国日本・・・」となっているので、私はこの表題に対して応答しているだけなのである。ところが、あなたの話題は原発問題やバカな強姦男の話ばかりで、ここの表題とは関係が無い。そんな話がしたいのなら、他にいくらでもそのような掲示板があるからそこへ行けばよい。
「侵略国日本・・・」というタイトルが出てくるから、私は応答し続けているだけなのである。


サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した
  昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したいわゆる“バンザイ・クリフ事件” 実は米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが生々しい自殺説として『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著に綴られていた。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。
その手記の一部であるバンザイ・クリフ事件の項を紹介する。

「いまだにジャングル内に残っている日本の兵隊さん、住民に告ぐ。いまかけた歌は、なんと懐かしい歌ではありませんか。みなさんの幼い頃を思い返してください。一日も早く、平和な日が訪れるのを、故郷の父母が待っていることを忘れないでください」
  そしてさらに、「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」   投降を勧める放送は再三くり返された。   投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。
  我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。
  そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。   幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。
  その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。
  やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。   絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。   ……なんたることをするのだ!   小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)
  婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。
あの投降勧告はー体なんだったのか。常夏の大空をこがさんぱかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。
  残虐な行為は凄絶をきわめた。火から逃れようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴りとばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。「ギヤッー!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまた裂きにされ殺されていく……。彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。
『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著からの抜粋

Re: 中国兵のなすがままの非行

投稿者: tototogisuhoho 投稿日時: 2011/07/07 10:50 投稿番号: [8279 / 8458]
中国兵に置き換えれば納得。日本兵は教育度が高く中国兵
とは違う。現実の中国人の蛮行と残虐性を見れば分かりそう
なものを。
日本人は品行方正。今も昔も変わらず。

全国の日本人よ!別冊正論15号必読

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/06 21:39 投稿番号: [8278 / 8458]
只今発売中の『別冊正論』15号(「中国共産党   野望と謀略の90年」)をすべての日本人に読んでもらいたい。

ここに実証主義に基づいた本当の日中間の歴史が書いてある。
いわゆる中国側の一方的な「ウソとデタラメで塗り固められた日中の歴史」ではない、最新の重要資料と証拠に基づいた日中間の歴史の真実が解き明かされている。

この別冊正論15号(産経新聞社)を読めば、すべての日本人の中国に対する歴史観が変わるはずである。

中国共産党 野望と謀略の90年

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/06 10:07 投稿番号: [8277 / 8458]
「南京大虐殺」宣伝の裏に共産勢力

「『南京大虐殺』という戦時プロパガンダが行われた経緯を解明する新たな糸口になるかもしれない」。
発売中の『別冊正論』15号(「中国共産党   野望と謀略の90年」)の編集を終え、そんな期待が膨らんできました。

中国の国民党が主導したと考えられてきた「大虐殺」の宣伝に、中国共産党またはソ連が大きく関与していた可能性が、論文筆者たちの指摘で浮かび上がってきたのです。

虚実不明の「南京大虐殺」を初めて世に紹介したのは、英マンチェスター・ガーディアン紙特派員、ティンパーリーが1938(昭和13)年に刊行した『戦争とは何か』です。
ティンパーリーは当時、国民党中央宣伝部顧問で、資金提供も受けていたことが北村稔・立命館大教授らの研究で判明しています。
同著の出版をはじめとする「大虐殺」宣伝は、世界中で反日世論を高める戦時プロパガンダだったのです。

『別冊正論』15号では、3人の筆者が、このプロパガンダへの中国共産党またはソ連の関与を示す根拠を提示しています。
(1)『戦争とは何か』中国版の序文を書いた有名文化人の郭沫若(かくまつじゃく)は、日中戦争勃発にあわせ、亡命先の日本から中国共産党やコミンテルン(戦前〜戦中の国際共産主義運動指導組織。本部・モスクワ)の支援で極秘帰国し、戦時宣伝を担当した(中西輝政・京大教授)
(2)同著の日本語版序文を書いた青山和夫こと黒田善治という人物は、コミンテルン秘密工作員とともに中国で活動していた(近現代史研究家、長塩守旦氏)
(3)「大虐殺」の証拠の一つとされた『ラーベ日記』筆者、ジョン・ラーベは、ソ連の大物スパイ、ゾルゲの活動を上海で支援していた赤軍諜報部員の友人だった(江崎道朗・日本会議専任研究員)−。

『戦争とは何か』英語版にコミンテルンの影が見え隠れすることは、北村教授も著書『「南京事件」の探究』で指摘しています。
「大虐殺」宣伝に国際共産主義勢力が積極的にかかわっていたとすれば、相当の規模をもった対日宣伝戦だったことを意味します。
アメリカでは近年、第二次世界大戦前後のルーズベルト政権内にソ連と通じた秘密共産党員が多数潜入して政策に影響を与えていたという実証研究が進み、共産主義の世界革命戦略が当時の情勢分析に欠かせないという見方が強まっています。
「大虐殺」宣伝もその中に位置づけられるとしたら…。
今後の検証が待たれます。
(産経新聞   2011.6.23   正論副編集長   小島新一)

Re: 人肉焼き

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/07/02 13:11 投稿番号: [8276 / 8458]
「崖」   石垣りん

戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。あの、
女。

Re: 人肉焼き

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/06/30 21:13 投稿番号: [8275 / 8458]
夫婦喧嘩は「犬も喰わない」w

中国が着々と太平洋をわが物にしている証拠

投稿者: taiheiyo_saikonee 投稿日時: 2011/06/30 17:49 投稿番号: [8274 / 8458]
中国が着々と太平洋をわがものにしている証拠

http://blogs.yahoo.co.jp/saipan_is_number1/60721184.html

Re: 人肉焼き

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/06/28 23:25 投稿番号: [8273 / 8458]
日本軍が人肉食った

人肉焼き

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/26 21:27 投稿番号: [8272 / 8458]
中国人は人の肉を焼いて食べる。
生の人肉も食べるかもしれない。
→(人肉ユッケ)

この日の桐嶺中学校は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家製の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
「7月2日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた」
・・・7月2日午後5時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやのそばに置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぽで、はらわたも流れ出していた。

「食人宴席−抹殺された中国現代史」
鄭義著・黄文雄訳
(P104〜P106)

Re:脳みそ生ジュース

投稿者: sjdmajaasu 投稿日時: 2011/06/24 22:12 投稿番号: [8271 / 8458]
なんと!
生々しい!!!

脳みそ生ジュース

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/23 20:53 投稿番号: [8270 / 8458]
中国人は人の脳みそを生で飲む。

ある老婆は人間の目玉を食べると、目がよくなるというので、彼女は一日中あちこちを歩き回り、糾弾集会を見ると、すぐ人群れの中に入り、待っていた。被害者が地面に倒れると、、彼女はすぐ竹かごの中から鋭いナイフを持ち出し、目玉だけをえぐり取ってすぐ逃げ去って行った。数人の年寄りは人の脳みそを専門に食う。頭蓋骨をたたき割るのは非常に難しい。だから彼らの経験は、人それぞれ、細い鉄の管を用意して、その管の先を鋭く磨き、人々が肉を切りつくしてから去っていく間にゆっくりと、だれも奪っていない脳を目がけて、頭蓋骨の上からくぎを差し込むように打ち込み、地面に伏せて鉄鋼の管から脳みそを吸い取ったのだった。やしの実やヨーグルトを吸うような格好である。ある婦人は子どもを背負って来て、また、ある小さい子どもは親孝行のために人肉を家まで持って帰っていったのである。

「食人宴席−抹殺された中国現代史」
  鄭義著・黄文雄訳
(P122〜P123)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/06/22 20:40 投稿番号: [8269 / 8458]
根本的な問題として、まず、東京電力を解体しないことには、
被災者はもちろんの事、国民は納得しない。
東京電力が残るということは、東京電力は補償をしないということになり、
つまりは、ほぼ全額を国民が負担する事を意味するからだ。

何十年も、自分の故郷に帰れない事。
静岡の産業の根幹を、壊滅させてしまった事。
これらは、補償=金に換算できるものではないのだけれど、
「東電が生き残っている」とすれば、我々は死ぬに死に切れない。
刺し違えるくらい考えるやつが出てきて普通である。

東京電力は、福島原発事故収束段階まで、維持し、その後解体する。
東京電力をいくつかのブロックにわけ、企業に買ってもらう。
まともな経済の原理に晒されれば、東電社員も少しはマシになるだろう。

アメリカが世界に誇る三大日本人虐殺

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/21 21:24 投稿番号: [8268 / 8458]
第1位   広島原爆投下
    (当時の死者数14万人)

第2位   東京大空襲
    (当時の死者数10万人)

第3位   長崎原爆投下
    (当時の死者数7万人)

この三つは瞬時にして10万人規模の大虐殺を行なった事件である。
ナチス・ドイツがアウシュビッツで10万人のユダヤ人を殺すのにも何ヶ月もかかった。
毛沢東やスターリンが自国民を10万人殺すのにも何ヶ月もかかったであろう。
ということは、この三つは世界三大虐殺ということになる。
しかもこの三つのすべてが、アメリカが日本人に対して行なった虐殺なのである。
アメリカは今でもアメリカ人を守ったとして、この三大日本人虐殺を世界に誇っている。

アメリカの日本人虐殺・長崎原爆投下

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/20 22:59 投稿番号: [8267 / 8458]
昭和20年8月9日午前11時02分、9600メートル上空から投下された原爆は、長崎市の北部にあたる松山町の上空役500メートルで炸裂した。大きな火球が発生し、0.2秒後に火球の半径は200メートル、表面温度は7,000〜9,000度に達した。強烈な熱線と放射能が四散した。
火球の周辺の空気は熱で急速に膨張し、すさまじい爆風となって町に吹き下ろした。
爆発により空中に発生した大火球からの熱線(赤外線)により、爆心付近の人々はほとんど即死。爆心地から1.2キロメートル以内にいた人々には致命的な熱線被害によって、数日内におびただしい数の人たちが亡くなった。
4キロメートル以内の人たちの露出した皮膚にも火傷を負わせた。生き残った人たちも原爆ケロイドの深い傷跡をのこした。
続いて起こった爆風により、建物や人が吹き飛ばされた。
1キロメートル以内の建物は全壊し、熱線を逃れた人たちも、爆風や建物の倒壊によりほとんどが即死。
4キロメートル以内の木造家屋や建物も全壊または半壊、壊れた建物で圧死した人たちがたくさんいた。
さらに、各所で火災が発生し、これにより市域の3分の1が全壊した。

被爆した長崎の街

1945年8月9日の長崎市

人口約240,000人

原子爆弾による被害者数(1945年12月末までの推定)

死者 73,884人
負傷者 74,909人

人的被害当時の人口約24万人のうち

死者 73,884人
負傷者 74909人
罹災した人 120,820人
物的被害罹災戸数 18,409戸
全焼した家 11,574戸
全壊した家 1,326戸
半壊した家 5,509戸
焼失した土地 6,702,300平方メートル

長崎型原爆:ファットマン(ふとっちょ)

長さ 3.25m
直径 1.52m
重さ 4.5t
爆発力 TNT火薬21kt相当
周りのプルトニウムを内側に爆縮して核分裂を起こす。

熱線による物的被害

爆心地近くでは熱線により、燃えるものが全て火をふいた。
解けたガラスや、沸騰して泡立った瓦、焦げて黒くなった石などが激しさを物語っている。
爆心地から遠ざかるにつれて熱線は弱まっていたが、それでも2キロメートル以内では、衣類、電柱、樹木などの表面が燃えたり焦げたりしていた。

熱線による人的被害

熱線による高熱は人々の皮膚に浴びせられ、熱線のすさまじさは通常の火傷では考えられないほどの被害をもたらした。
爆心地からの距離によって負傷の度合いは異なるが、重症になると皮膚が焼け爛れ、剥がれ落ち、皮膚の下にある組織や骨までが露出した。
1・2キロメートル以内では熱線だけでも致命的で、爆心地付近では高熱によって一瞬で体が炭化して、内臓の水分まで蒸発したと考えられている。

火災による被害

熱線と爆風による被害は、火災によってもっと増大した。
爆風の被害が家屋の半分ですんだところも、後に起きた火災のために結果的には全焼した。
全焼壊家屋は12,900戸。半焼壊家屋は5,509戸にのぼる。
火災による犠牲者も多く出た。
倒れた家屋の下敷きになっても、火災が起きなければ助かった人は多い。

爆風による被害

爆心地より1キロメートル以内のところでは、一般家屋は原型をとどめていないほどに破壊された。
鉄筋コンクリートの建物などが少し残ったが、どれも建物とは言いがたいほどに無残な状態だった。
このようなすさまじい爆風に人々は吹き飛ばされて、散弾のような沢山のガラスや、木片を全身に浴びることになった。

放射線による人体の被害

原爆の放射線は人体を通り、そのとき色んな細胞をも破壊する。
損傷の度合いは。被爆した量により異なる。爆心地から1キロメートル以内で被爆した人のうち、外傷がなくても、多くの人が死亡している。
放射線の破壊力はそれほど強烈だった。
人体に及ぼす害は爆発の時だけではなく、放射線は体の奥を傷つけて、時とともにいろいろな症状を引き起こす。

http://www.youtube.com/watch?v=gJG_BVHF8ak

アメリカの日本人虐殺・沖縄戦のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/20 04:20 投稿番号: [8266 / 8458]
太平洋戦争の末期、沖縄本島および周辺島嶼・海域で行われた戦闘。

1945年3月末に連合軍が侵攻し、4月1日に本島に上陸。6月23日の日本側司令官の牛島中将の自決によって主要戦闘は終了するが、以後も戦闘は続き、一部部隊は終戦まで残存している。当時の沖縄には40万を超える住民が存在しており、これを巻き込む形で戦闘は展開、十万以上と言われる多数の民間人犠牲者が出たことでも知られる*1。

期間:1945年3月23日〜6月23日*2
場所:沖縄本島、慶良間諸島、伊江島および周辺海域
参加兵力:
日本軍:陸軍第32軍ほか約10万。他、海軍第2艦隊、航空出撃延べ8500機余*3など。
連合軍:総兵力54万8千(正面戦力18万3千。米第10軍麾下の7個師団)。各種艦艇約1500隻*4。

背景

沖縄戦は日米双方にとって本土上陸のモデルケースであり、その意味においては「決戦」であった。

沖縄に先立つ台湾沖航空戦とレイテ沖海戦によって、日本海軍の戦闘力は事実上消滅していた。太平洋の戦いが島嶼と水上交通路を巡る戦いであったことからすれば、この時点で戦争の勝敗は確定していた。

しかし、日本側は講和を求められるような国内事情になく、アメリカ側としてはさらなる戦果が必要であった。こうして立案された沖縄攻略作戦であるアイスバーグ作戦*5は、日本本土への上陸作戦を行うための基地を確保するとともに*6、日本の本国領土を占領することによる政治的な効果も視野に入れたものだった。

一方の日本側にとっても事情は同じであり、陸上作戦を展開できるだけの地積を有する沖縄本島での戦闘は「来るべき」本土決戦の雛形となるものだった*7。ここで大きな出血を強要することで米側に本土決戦への躊躇を与え、(講和における)なんらかの条件を得られる可能性があると考えられていた*8。

http://www.youtube.com/watch?v=pbo1fyeaZ9s

アメリカの日本人虐殺・沖縄戦

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/20 03:52 投稿番号: [8265 / 8458]
最終的な陸軍の沖縄守備軍の数は86,400人で、このほかに海軍陸戦隊が約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計116,400人がいた。陸海軍の戦闘員には、兵力不足から現地で急ぎ調達された予備役などが多く含まれ、全戦闘員中約2万人は現地で徴兵・召集された17歳から45歳までの者であった。

1945年に入り、米軍の沖縄上陸が必至な情勢となった時、沖縄防衛の第32軍司令部は、戦闘の支障にならないように、また軍民一体となった「玉砕」を防ぐために、島内に残っている老幼婦女子を半強制的に北部山岳地帯に疎開させようとした。多くの人々はわずかな食糧と身のまわりの品を持って避難をしたが、それでも激戦地になるであろう中南部には数十万人の住民が避難せず踏みとどまっていた。これは、台湾沖航空戦の誤報による影響が大きいとされる(疎開の詳細については#住民犠牲についてで後述)。

http://www.youtube.com/watch?v=iq6kgRDA8-Y

日中全面戦争の隠された真相のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/18 10:27 投稿番号: [8264 / 8458]
「赤いモグラが日中戦争の引き金を引く」

それでも蒋介石は宣戦布告には慎重であった。日本との戦争を自滅と見ていたからだ。日本も交戦地域を北支に限定し、動こうとはしなかった。では、なぜ全面戦争となったのか。「交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画」が進行中であったからだ。その首謀者は、実は蒋介石ではなく、ほぼまちがいなくスターリンであったという。
この問題を論じた第十九章「赤いモグラが日中戦争の引き金を引く」Red Mole Triggers China-Japan War   は圧巻であった。赤いモグラとは張治中のことで彼は上海南京戦区司令官であると同時に、蒋介石の国民党軍の中枢に潜り込んだ共産党スパイであった。
張治中は「攻撃開始については命令を待つように」という蒋介石の制止を無視し続ける。そして八月九日、虹口飛行場近くで大山中尉と斉藤要蔵一等水兵を虐殺する事件を仕組んだのであった。その後も英米仏伊四国公使の斡旋で締結された上海停戦協定に違反して次々と正規軍を上海に入れ、十三日に陸戦隊を攻撃する。十四日、五万の中国軍が五千の日本陸戦隊を包囲攻撃し、空軍も日本海軍の「出雲」や総領事館を爆撃するや、張治中は総攻撃を命じた。
蒋介石は「攻撃するな。命令を待て」と張治中を制する。しかし八月十五日、張治中は記者会見して「日本海軍、上海を砲撃」とウソを発表した。その結果、一気に反日感情が高まった。蒋介石は追いつめられ、十六日「翌朝総攻撃」と命令せざるを得なかった。こうして十七日の朝は交戦状態となったが、十八日に蒋介石は攻撃中止を命令する。それでも「張治中は命令を無視して攻撃を拡大した」。そのため日本軍が救援部隊を投入するに及んで、日中全面戦争となったのである。
スターリンから起こされた張治中が、「上海で全面戦争を起こして日本を広大な中国の内部に引きずり込むーすなわちソ連から遠ざける手を打った」と言ってよいであろう。
長い間、日本が中国を侵略したと言われてきたが、日中全面戦争の引き金を引いたのは実は共産党スパイの張治中であった。

日中全面戦争の隠された真相のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/18 10:24 投稿番号: [8263 / 8458]
「日本は文字通り戦争に押し込まれた」

日本が中国を侵略したという見解を根本的に疑い出したのは、江藤淳『忘れたことと忘れさせられたこと』(昭五十四)の巻末付録に収められていた富桝・外務省資料課嘱託の「『太平洋戦争史』論」を読んだときからである。これは連合軍総司令部の「太平洋戦争史」を批判したものであった。富桝は、ニューヨークの『ヘラルド・トリビューン』のヴィクター・キーンズ特派員の「南京にいる無謀者たちによって発端は開かれた」という言葉を紹介する一方、「日本は文字通り戦争に押し込まれた」という『ニューヨーク・タイムズ』のハーレット・アーベンツ特派員の見解をも引用していた。
「日本ハ第一上海事件ヲ繰返スヲ好マズ忍耐、隠忍以テ極力事態ノ悪化ヲ防止セント努メタルモ、支那二於ケル外国権益ヲ渦中二引込ムヲ企図シタル支那人二依リテ日本ハ文字通リ戦争二押込マレタルナリ」
拙著『「南京虐殺」の徹底検証』にも引用したように、フランスのパリから上海にやってきたエドアール・エルセイ特派員も、南京で蒋介石にインタビューした「支那事変観たまま」という現地報告のなかで、第二次上海事変は蒋介石政府の計画的な出来事であったと伝えていた。
当時の上海はフラソス総領事のほぼ独裁下にあるフランス租界と、同じく日英米の共同租界と、上海特別市の二行政区域に分かれる国際都市であった。自国民を守るため上海には米国軍二七五〇人、英国軍二五九〇人、日本海軍陸戦隊二五〇〇人、フラソス軍二〇五〇人、イタリア軍七七〇人がいた。五力国軍は勝手に土足で踏み込んだのではなかった。数十年間の歴史に由来する法的権利に基づいて駐留していた。
そのような状況のなかで書かれたエルセイやアーベンツの記事は、日本の中国侵略という見解を覆す貴重な資料であった。ところがエルセイやアーベンツの見解をも覆し上海事変の決定的な真相を明らかにする研究書が出る。それが冒頭に紹介した『毛沢東―知られざる物語』である。

毛沢東と蒋介石とスターリンの三国志

エルセイやアーベンツは第二次上海事変は蒋介石政府の計画的な出来事であったと伝えていた。ところが甦に裏の裏があった。その背後にはスターリンと毛沢東と蒋介石の、覇権獲得と、奪権の、戦略があった。スターリンも毛沢東も二十世紀を「三国志」の目で見ていたのだが、それを史料的に明確にしたのが毛沢東―知られざる物語』である。
蒋介石が監禁された西安事件から見てみよう。西安事件は張学良の思いつきであったが、そうするよう煽ったのは毛沢東であった。監禁された蒋介石を、毛沢東は殺すよう画策したがついに成功しなかったのは、スターリンが張学良を非難し、蒋介石支持を明確にしたからだ。スターリンは、「中国を使って日本を中国の広大な内陸部へおびきよせ、泥沼に引きずり込み、そうして日本をソ連国境から遠ざけること」を狙っていた。中国の分裂は中国の抗日戦争を困難にするから、蒋介石を中心に、「中国の統一を保ったまま日本を全面戦争に引きずり込みたい」と、スターリソは考えていた。
しかし蒋介石は日本との戦いを自滅への道と見て、抗日戦争は考えていなかった。ところが監禁から解放される直前、一転して同意する。それはスターリンと蒋介石の取引の結果であった。蒋介石は、人質同然で十一年間もモスクワにいる息子の蒋経国の帰国を強く望んで交渉したが、スターリンの同意はなかなか得られなかった。ところがスターリンがそれに同意したという大ニュースを携えて、クリスマスの日に、周恩来が西安の蒋介石のもとへやってくる。蒋介石は息子のいのちと引き替えに抗日戦に同意したのであった。

日中全面戦争の隠された真相

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/18 10:18 投稿番号: [8262 / 8458]
2006年08月16日
昨日の東中野修道氏「戦没者追悼祈念講演会」で、日支事変は日本が停戦交渉をしていたのになぜ拡大していったかを言われていました。
これは、支那事変直後に書かれたラルフ・タウンゼント「アメリカはアジアに介入するな」「暗黒大陸中国の真実」、K・カール・カワカミ「シナ大陸の真実   1931〜1938」にも同じように書かれています。
簡単に言えば停戦協定を結んだとしても、支那側がすぐ破って敵対行為をするために戦いに引きずり込まれたと言うのが真相です。

「日中全面戦争の隠された真相」
亜細亜大学教授   東中野修道

平成十(一九九八)年ごろ大学時代の友人A氏(M新聞編集局長)と会ったときのこと、自他共に保守派と目されていたA氏から強い口調で「日本が中国に土足で踏み込んで戦争をしたのは否定できない事実だ」と主張されたことがあった。その主張にたいする決定的に明確な反証は私にはなかった。
このような、日本は中国に進出したのではなく侵略したのだという、そのような歴史認識が徐々に広がっていったのは、昭和五十七(一九八二)年夏の「教科書誤報事件」からであろう。文部省が高校歴史教科書の検定にさいして「侵略」を「進出」に書き換えさせたと全国紙が一斉に誤報を発して以来、このような歴史認識が今ではほぼ完全に定着しつつある。
ところが英国で衝撃的な本が戦後六十年の昨年に出た。ユン・チアンとジョン・ハリデイの『毛沢東―知られざる物語』(邦訳は最近発行の=マオー誰も知らなかった毛沢東)全二巻)である。冷戦構造の崩壊により国際政治の枠組みが劇的に変化して以来、モスクワの公文書館などから貴重な資料が多数出ているが、そのような膨大な記録やあまたの証言を基にしてチアンとハリデイが十余年をかけて書き上げた、八百頁の大作である。
衝撃的というのは、二十世紀の中国史の常識を根底から覆す多数の事実が発掘されているからだ。本書は、「日本が中国に土足で踏み込んで戦争をしたのは否定できない事実だ」という歴史認識に、初めて明確な反証を提供することとなった。
連合軍総司令部編「太平洋戦争史」が原点であった今日言われている中国侵略という歴史認識は、昭和二十年十二月八日に全国紙に発表された連合軍総司令部の「太平洋戦争史」に基づいている。日本軍と中国軍が衝突した廬溝橋の紛争で終わっていたのならば日中全面戦争にはならなかったのに、日本が中国の軍事と経済の中心である上海で戦争をしたことから日中全面戦争へと発展していったと、「太平洋戦争史」は主張していた。つまり、廬溝橋の紛争、上海事変(第二次)という一連の出来事こそが、日本の中国侵略の証拠だというのである。
一方私が日本の中国侵略という見解に疑問を抱いたのは、次の根拠に基づいてのことであった。廬溝橋事件は中村粂教授や秦郁彦教授の研究により日本が先制攻撃したのではないことは、もはや疑問の余地なく論証されていたからである。昭和十二年七月七日二十二時四十分、日本軍は条約上の権利に基づいて演習中の廬溝橋で、日本軍は中国軍の第一撃を受けたが、それでも七時間も隠忍自重し、視界明瞭な翌日の午前五時半に第四撃を受けてから、ようやく反撃に転じたのである。
その後も日本軍は、三週間にわたって「不拡大主義」に立ち、交戦区域を限定し、解決に向けて腐心していた。ところが、八月九日に、廬溝橋の隣ではなく、南へ一一〇〇キロも離れた上海の虹口飛行場の近くで、日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉らが中国軍に虐殺されるという事件が起きる。これこそ第二次上海事変の始まりであった。何度も攻撃されて、ついに日本軍は自衛の反撃に出た。そう、私は理解していたが、しかしそれ以上のことは分からなかった。

Re:日本兵のなすがままの非行

投稿者: jikkararu 投稿日時: 2011/06/17 10:47 投稿番号: [8261 / 8458]
↑↑↑
シナ国で講演して講演料を稼いではどうだ。
日本でも稼げるかもね講演して見たら。

Re: 日本兵のなすがままの非行

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/16 03:16 投稿番号: [8260 / 8458]
この記事はデタラメである。
南京事件のトピックをよく読みたまえ。
ちょうど12月1日になっているからちょうどよいタイミングだ。

日本兵のなすがままの非行

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/06/15 17:25 投稿番号: [8259 / 8458]
大虐殺というそのもの以上に酷かったのは、日本兵らによる強姦、略奪、放火などの不軍規だった。捕虜や敗残兵、便衣兵や婦女子幼児を含む一般市民・避難民の虐殺と平行して、日本兵のなすがままの非行が繰り広げられた。日本兵の蛮行は南京市内に突入という同時に行われた。市内や周辺部で戦闘が続いている状態でもおかまいなしだった。日本兵は市内へ入ると市民の住宅,商店、学校や官庁・役所などの公共機関のあらゆる場所を襲撃し、略奪が行われた。その略奪の過程で市民が抵抗すれば殺害し、欲しいがままに略奪した。倉庫や工場の財産、金銀財貨、文化財や骨董品、避難民の食糧や   病院の医薬品や布団、農民の家畜に至るまで奪われなかったものが一つもなかった。そして、日本兵たちは市街のいたるところに放火をしはじめた。日本兵は略奪した家屋や建物に火を放った。市民や避難民を押し込めて、火と放ち建物もろとも焼いたこともあった。多くの南京の家屋が焼け、全市の半分近くがほとんど灰尽に帰したという。何よりも、目を覆いたくなるのは婦女への強姦である。日本兵は婦女を見つけたり遭遇すると同時に、獣欲を剥き出しにし、欲しいがままに集団で婦女に襲いかかった。そして強姦し、輪姦した。場合によっては、部隊単位で協力して陣地、兵舎や建物に拉致・監禁の上、集団レイプや輪姦に及ぶことも多々あった。幼児・児童から老婆にいたるまで強姦され、占領から3ヶ月後には南京にもはや非処女はになかった。強姦につぐ、強姦、強姦、強姦で日夜問わず行われた。強姦した婦女を口封じのため銃剣で下腹部を突き刺し殺害するという強姦殺人行為も頻発した。強姦したのちに、殺害する場合、幼児や児童、妊婦であれ、容赦はなかった。殺害を免れても、日本兵に見つかるたびに何度も女性は強姦された。強姦を行う日本兵は理性の欠片もない獣兵であった。頻度の軽減こそ、あれ日本兵の婦女強姦に関しては放火や略奪、殺人、虐殺行為が止み、治安が回復した後も続き、ついに敗戦の45年8月15日まで止むことはなかった。便衣兵狩りと称する兵士・捕虜・市民への無差別殺戮、一般市民や避難民への集団あるいは個々での殺傷、放火、略奪、強姦および強姦殺人と日本軍の残虐行為には枚挙に暇がない。その規模の大きさ、被害人数・犠牲者数の多さ、持続期間の長さ、殺人手段の残虐さにおいて、人類史上、例のないものであった。では、シンガポールではどうだったのか?

広島原爆投下のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/14 02:10 投稿番号: [8258 / 8458]
<被爆直前>

○前夜(8月5日)…1945(昭和20)年8月5日の夜から6日の早朝にかけて、警戒警報・空襲警報がたびたび出され、市民は不安な一晩を過ごしました。6日の朝になってようやく警報が解除されて、街には職場に急ぐ人びと、疎開作業に動員されて現場に向かう人びとなど、月曜日の朝のふだんの生活にもどっていました。

○街並み…2つの川(本川と元安川)にはさまれたこの地区は、幕末から明治・大正期にかけて市内の繁華街・歓楽街の中心で、中島本町通り商店街には大きな店舗が並んでいました。木材の集散地であった材木町・木挽(こびき)町、商店街としての天神町・元柳(もとやなぎ)町・中島新町、そこには歴史の古い寺院も多く立っていました。しかし、当時は空襲を警戒して天神町、木挽町、中島新町は、建物疎開がすすんでおり、中島や本川国民学校の児童たちの一部は、郡部に疎開していました。

○空襲…1945(昭和20)年になると米軍はB29大編隊による夜間の無差別焼夷弾(しょういだん)攻撃を始め、全国各地の中小都市にまで攻撃を繰り返していました。広島は空襲らしい空襲を受けていませんでしたが、大規模な空襲に備えて火災の延焼防止と避難空地をつくるために木造家屋を取りこわし、また、町内会や家庭ごとに防空壕(ごう)をつくって、消火訓練や避難訓練などをしていました。

<被爆直後>

○被爆(8月6日)…1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、それまでの広島は絵にかいたように美しく、静かな街でした。次の瞬間、目をくらますほどの閃光(せんこう)が走り、ドカーンという大音響とともに、たった1個の爆弾が広島の街を焼きつくしました。街全体が、一瞬にして破壊されました。爆心地から半径2キロメートル以内にいたほとんどの人々が亡くなり、建物も破壊されました。その年の終わりまでに、推定14万人前後の人々が亡くなるか行方不明となり、その数は、当時の市民約35万人の内のおよそ半分に相当します。

○火葬…どこのだれとも見分けがつかなくなった、おびただしい数の焼けた遺体は、その場で火葬するしかありませんでした。その間も死者は増えていきました。昼も夜も、市内のいたる所で遺体の上にまた遺体が積み上げられ、そして火葬されました。

○焼け野…見わたすかぎりの焼け野原となった広島では、広島駅から宇品の港が見えたと言われています。市外から身内の安否を気づかって、または救援活動のため市内に入った人々が、残っていた放射能の影響を受け汚染されました。さらにこの年の秋、原爆の悲劇に追い打ちをかけるように枕崎(まくらざき)台風が広島を襲い、街は水びたしになり大きな被害を受けました。


http://www.youtube.com/watch?v=1V9s9FY8gQA
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