侵略国日本は国際社会の前科者

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中国人による日本人虐殺事件・通州事件

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/23 21:54 投稿番号: [8093 / 8458]
盧溝橋事件発生から3週間後の7月29日、北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。
  世に言う「通州事件」である。
  中国に気兼ねする余り、我が国の歴史学者が口を緘(かん)し、教科書も新聞も雑誌も一行すら書こうとせぬこの世紀の大虐殺―――。
  恨みを飲んで殺された200数十名の同胞への鎮魂の気持ちを込めて、この事件を書き留めておこう。
  通州の冀東(きとう)防共自治政府は、昭和10年、親日家の殷汝耕が南京政府から離脱して創設した政権で、1万余の冀東保安隊を有していた。
  この保安隊は、昭和8(1933)年塘沽(タンクー)停戦協定に基づいて置かれたものであったが、所要以上の人員を有し、また銃と剣だけではなく、機関銃や野砲も持ち、保安隊と称し得る以上の戦闘能力があった。
  さて通州の宝通寺に中国第29軍の1個営が駐屯していたが、7月25、26日廊坊、広安門の両事件が発生するに至って、通州特務機関も、この宝通寺部隊の処理を考える必要に迫られた。
  この部隊は日中関係悪化と共に、去就(きょしゅう)すこぶる曖昧(あいまい)になり、放置しておくのは危険と判断されたのである。
  そこで廊坊事件直後の26日、日本側は宝通寺部隊に対して北平(北京)への撤退を求める最後通告を行った。
  だが中国軍からの回答はなく、遂に27日早朝、我が軍は攻撃を開始、正午までに宝通寺部隊は敗走、潰滅(かいめつ)した。
  ところがこの戦闘で、支援のため飛来した関東軍の爆撃機が、誤って宝通寺兵営と隣接する冀東保安隊幹部訓練所に爆弾を投下し、数名の保安隊員が死亡するという不幸な事態が起きたのである。
  保安隊は我が爆撃機が対地戦闘を開始するや、好奇心から隊員一同が訓練所校庭に飛び出して爆撃を見物していたのだが、飛行機には冀察と冀東の境界線も保安訓練所の位置も分からず、脚下で騒いでいる保安隊を29軍の一味と速断したのも無理のない事であった。
  誤爆の報に接するや、細木特務機関長は直ちに冀東政府の殷汝耕長官を往訪(おうほう)し陳謝するとともに機関長自ら現場を視察、遺族の弔問(ちょうもん)に奔走(ほんそう)した。
  更に翌28日には保安隊教導総隊幹部一同に対して誤爆について釈明し、慰撫(いぶ)に努めたのであった。
  調度、事件の起こった27日頃、デマを流すので有名な南京放送(中国国民政府の御用放送)が「盧溝橋で日本軍は29軍に惨敗し、豊台と廊坊は完全に中国軍が奪還した。中央は陸続、華北の戦野んい兵を進めつつあり、日本軍の潰滅も旬日のうちであろう」と事実と正反対の放送を流した。
  南京政府は最後に「軍事会議の結果、蒋委員長は近く29軍をもって大挙(たいきょ)冀東を攻撃し、偽都・通州を屠(ほふ)り、逆賊殷汝耕を血祭りにすることを決議した」と叫んでいた。
  これは我が北平(北京)特務機関が聴取したのである。
  このデマ放送が北京方面の実情に疎(うと)い通州の中国兵に相当の心理的動揺を与えたことは疑いない。
  通州保安隊は張慶余指揮の第1総隊と張研田指揮の第2総隊であったが、早くから人民戦線運動の影響を受けていた。
  「日本軍敗走」「冀東攻撃」という南京のデマ放送は、彼らの抗日態度を決定的ならしめ、日本側に付いているよりも29軍側に寝返った方が有利であるとの誤った判断を抱かせたに違いない。
  折もおり、通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かい、留守部隊は藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、それに憲兵、兵站(へいたん※補給の事)、兵器部その他を合わせて110名程度の微弱な兵力でしかなかった。
  我が部隊の手薄なこの時期を狙(ねら)って、張慶余、張研田の両保安隊は日本軍民への襲撃を開始した。
  夜影に乗じて長官公署を襲って殷汝耕を拉致し、主力は日本軍守備隊を襲撃した。
  我が方の残留兵力は極めて僅少ではあったが、千数百を算する敵の攻撃に対して死力を尽くして戦った。
  守備隊には軽機関銃、小銃、手榴弾があるのみで重火器は無かった。
  保安隊の装備の方が遥かに優れていた。
  守備隊は敵の集中砲火を浴び、死傷者の続出する中で撃退に努めたが、居留民や特務機関まで守る余裕は無かった。
  鬼畜と化した中国保安隊の日本人居留民に対する暴虐は、この間に進行していた。
  また通州特務機関は、1個中隊ほどの保安隊の襲撃を受け、2名の少年給仕(日本人)を含む機関員が死力を尽くして応戦したが、数十倍の敵には抗し難く、遂に全員が壮絶な最期を遂(と)げ、特務機関は全滅した。

人民裁判

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/23 20:31 投稿番号: [8092 / 8458]
人民裁判
  中国共産党の本拠地である延安から若い裁判官がやってきて人民裁判が始まった。日本人には馴染みがないこの様子を紹介する。台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した」。「俺達を殴った」という声が上がる。裁判長が「どうする」と問うと。「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺されたという。また、別の満州引揚者から直接お聞きした話だが、当時小学校で仲良しの女の子がいた。ところが父親が警察官だったため、終戦後、多数の中国人がその家を襲い奥さんと小学生の女の子まで連れ去っていった。同級生の女の子は二度とその家に戻ってこなかった。親子3人が中国人になぶり殺しにされたのである。敗戦国民の悲しさで、誰も助けてあげられなかった。

中国人による日本人大虐殺

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/23 02:23 投稿番号: [8091 / 8458]
★   中国人による日本人大虐殺−『日本女性の悲劇』

『満州開拓史』(昭和41年発行)に、『事件別開拓団志望者一覧』が記載されている。避難の途中、中国軍、ソ連軍、満州軍、中国暴民の襲撃などにより戦闘死又は自決した者の内、ほとんどが“全滅”あるいは犠牲者を出した例を一覧にしたものだ。

置き去りにされ、オオカミの餌食になったと思われる日本人の子供達もいた。栄養失調で死ぬ日本の子供達が続出した。昭和18年に、大陸の花嫁として敦賀港から満州に渡ったK子は、満州での生活にも慣れた頃、日本の敗戦を迎えた。開拓村を出発してまもなく、中国人の匪賊の襲撃を受ける。

「これまで親しくしていた中国人の友人も“匪賊”と化して襲ってきました」妻を、夫を、愛する我が子を交戦の場に残して、人々は逃げ惑った。難民収容所の生活は、塩を入れたトウモロコシの粥だけ。栄誉失調で倒れるものが続出し、治安が収まると、クーリキ(苦力)として働かされた。そして、「『日本人は皆殺しだ!』と宣告され、幼児までが『中国語で話せ!』と強要された」

ソ連軍はもとより、それ以上に残酷で鬼畜な所業は、中国・満州側の軍人と国民が、貧しく無抵抗な「日本開拓団民」を、襲撃し、日本女性を衆人監視の前で強姦し、中国人たちの『性奴隷』として働かせ、赤ん坊のオシメまでもぎ取り、虐待し、虐殺したことだ。

氷の原爆

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/23 02:17 投稿番号: [8090 / 8458]
★   ロシア人(旧ソ連)による日本人大虐殺−『氷の原爆』

残酷なソ連軍(現ロシア)に占領された満州とモンゴル、そして国民党と共産党の中国地域にいた日本人は、軍人であれ民間人であれ、生き残るのが難しかった。特に“ソ連軍による蛮行”は、抑留60万人、虐殺6万人というのが通説になっているが、ロシアのジャーナリスト、アルハンゲリスキー氏が書いた『シベリアの原爆』(邦題:『プリンス近衛殺人事件』、新潮社、2000年)という本によりその実状が暴露された。

この本によると、『ソ連による日本人抑留は約100万人に達し、この内40万人が虐殺されたという』シベリアで虐殺された日本人が、アメリカの原爆で殺された死者より遥かに多い為、アルハンゲリスキー氏は、『氷の原爆』と名づけたという。

日本との中立条約を一方的に破棄し、満州に攻め込み、無抵抗な日本兵、民間人を連行して、シベリアの鉄道建設の労働力として、ラーゲリー(収容所)に抑留した。涙も凍る極寒のシベリアで食料も防寒具もろくに与えられず、(日本人は、夏服しか持っていなかった)重労働を課せられ、実に40万人という、夥しい日本人が死亡していったのです。まさに『氷の原爆』です。しかもソ連は、虐殺された日本人死者の数字を誤魔化すだけでなく、スターリンは、『日本人虐殺の証拠を隠滅する為』に、日本人墓地の破壊までやってのけたのです。

食人宴席

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 20:41 投稿番号: [8089 / 8458]
食人宴席―抹殺された中国現代史 鄭義(ツェン・イー)

内容は、中国の文化大革命時の広西大虐殺事件を扱っている。
文化大革命のときは「覇王別姫」で見るように、文化人、知識人、金持ちたちが階級闘争の名のもとにリンチされたり、虐殺されたりした。裁判も法律も、さらには理由なども関係なく、目をつけられた者は、狂ったように興奮する群集に「殺せ!」と言い立てられて、咎なくて死んでいったのだ。広西ではそれが虐殺に終わらず、人肉を食べる大宴会になった。中国の広西省では文化大革命時に無実の罪で虐殺された人間は9万人にのぼるという。
文化大革命は1966年から10年も続かなかったのだから、毎日毎日何十人も殺されていたのではないか。
鄭義は食人の3段階を記している。まず、処刑された死体を夜にこっそり解体して、肝を盗んで持って帰るこそこそ段階、高潮期には集会を開いてライブで処刑、その場で解体し、おおっぴらに人食いができた。第3段階に入ると、食人大衆運動期で、人肉が目的であるかのように、糾弾集会が開かれ、言い掛かりをつけて多くの人間を殺し、いや、まだ生きていても肉を削がれていった。手際のよい解体方法まで普及した。
胸のところを「人」の字に切り裂いて、下腹部をドンと踏むと、肝臓と心臓(おいしい部分)がピョンと出てくるのだ。群集は毎日、文字通り度胆を抜くリンチで大宴会をひらいていたのだ。

中国では、人を食ってきた歴史が長く食人が一つの文化だと言うのは知っていたが共産革命や文化大革命のときにも多くの『敵』が食われていたとは、、。

中国人民は、共産党が怖くてしょうがなく人を食べたのか、と思いきや嬉々として『ご馳走』をほおばったようだ。

・・・心臓と肝臓を五寸の刀で刺し腹を切り開いて、足で力いっぱい踏むと、心臓と肝臓がたちまち飛び出してきて切り取って持って行かれた。
続いて、人々はどっと襲い、あっと言う間に人肉がすっかり削ぎ取られたのである。・・・・・・P69


『人民の敵』を食べることは人民の敵を『打倒する』という意味になる

『食人宴席』抹殺された中国現代史
鄭義(ツェン・イー)/著   黄文雄/訳   光文社/93年11月初版

通化事件の最終章

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 16:02 投稿番号: [8088 / 8458]
通化事件というのは、大東亜戦争がすでに終結したあと、日本に帰国するために比較的治安のよかった通化市で起こった事件です。

日本に帰国しようとする避難民に対し、支那共産党は略奪強姦の限りを尽くし、我慢の限界を超えた日本人が、武器も持たずに一斉蜂起(2月3日)すると、彼らはこれを鎮圧しました。

そして蜂起とは何の関係もなかった日本人を含め、3千人とも4千人ともつかない日本人を、零下30度の極寒の中で、両手を上げさせて銃剣で追い立て、一部を殺害し、一部を監禁。
監禁された日本人は、せまい部屋に120人ごとに押し込め、さながら満員電車のような身動きできない空間で、酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃って殺した。
5日間にわたって、大小便垂れ流し状態で死体とともに立ったまま部屋で監禁されていた日本人たちは、ようやく息も絶え絶えに部屋から出されると、こんどは朝鮮人たちが、こん棒で好き放題に殴りつけました。ある者は殺害され、生き残った者も手足をぶらぶらさせていました。

一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって、一般の民間人二千人(一説によると数千人)近くが殺された、この通化事件は、支那が捏造している南京事件と異なり、完全な事実です。

しかも、ときは戦時中ではなく、戦争が終わった後、それも武器を持たない一般市民に対して行われた暴虐です。

ちなみにこの事件の際、支那共産党に媚を売り、日本人の密告や財産の強奪の手引きをしていた日本人の共産党工作員がいました。

彼ら工作員は、日本人避難民が乞食同然の生活苦でいたときに、立派な服を着て街を闊歩し、罪のない日本人を売って得意になっていました。

しかし通化事件のとき、その日本人共産党員も、他の日本人と同様、殺され、監禁され、手足の骨を折られています。
悪に魂を売って、一時的な利益を得ても、結局は悪によって滅ぼされる。

通化事件は、たいへんな死傷者を出した大事件です。
記録にもあるように、この事件では、日本人が二千人(一説によると数千人)も殺され、その死体は、夏になっても渾江川に浮かんだ。
大規模な殺害があれば、そういう証拠がいつまでも残るものです。

まして支那や反日主義者が主張するように、南京で日本人が30万人も虐殺を行ったとするならば、その記録や証拠が、いくつも残らなければおかしい。
しかし、そんな証拠はまったくないし、証拠として出されているものも、それが捏造である事実がことごとく暴かれています。

戦後の反日左翼主義者、反日思想家たちは、この通化事件について、日本軍が乱暴狼藉を働いたために、その騒動に一般の日本人民間人が巻き込まれ、たいへんな被害に遭ったと説明しているようです。

しかし、上に述べたとおり、日本人の旧軍人たちが蜂起したのは事実ではあるけれど、彼らは武器すら携帯していなかった。軍刀すら没収されて持っていなかったのです。
そして事件までの半年間、財産を奪われ、家屋に押し入られ、女性たちを強姦され、あるいは殺され、暴行を受け、無理やり共産主義万歳と唱えさせられ、もうどうにもならないところまで追い込まれて、彼ら軍人は、蜂起した。
それに対する支那共産党の報復は、蜂起した軍人の逮捕ではなく、一般人の虐殺だった。
事件が起こったのは、昭和21年です。すでに戦争は終わっています。
日本と支那は、このときすでに交戦状態ではなかったのです。

つまり暴動が起きた、それも武器を持たない市民(旧軍人もこの時点では一般市民)の蜂起であったとすれば、鎮圧は国内の治安維持活動であるはずです。
にも関わらず、支那が行った行為は、暴行であり虐殺でした。
これが非道にあらずして、何をもって非道というのか。

それともうひとつ。
通化事件で、日本人は、たいへんな目に遭いました。

国が亡くなる、支那共産党に支配される。するとどういうことが起こるか。
その実例がこの通化事件にあります。

日本は良くない国だ、という人たちがいます。
支那と仲良くすることが良いことだと言う人たちがいます。
支那、朝鮮、日本を東アジア共同体として、ひとつの国にまとめあげようという人たちがいます。

しかし、実際にそうなったときの実例が、通化事件にあります。

そんなことは何十年も昔の話だろう、という人もいます。

しかし、天安門事件、あるいはウイグル弾圧、チベット弾圧等々。
いまも昔も、支那共産党はなんら変わらない。

通化事件のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 14:53 投稿番号: [8087 / 8458]
この通化事件の情況について

出典は、高崎弥生氏の著書「実録、遥かなる回想」です。

中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、ついに立ち上がった。
この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、2月3日の未明を期して一斉に蜂起した。
この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。

この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。

通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと眼入れされた。市内は恐怖のるつぼと化した。

八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。
この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。

とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。みるみるうちに、ばたばたと倒れた。
重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。
死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。
監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま5日間もの間立ったままにされた。
苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。
しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。
その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。
そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。
やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。
するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。
これが毎日のように行われた。
なんという地獄絵図だろうか。
一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。
手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。
帰ってからも発熱のために苦しむ者。凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。

抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害されました。
殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされました。
また、数百人が凍傷に罹り不具者となりました。
拘束から5日後、部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが、その場で撲殺されました。
撲殺を免れたものの多くは、骨折した手足をぶらぶらさせていました。
その後、支那共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われました。
女性にも多数の処刑がされました。
渾江川の上には、服をはぎ取られた女性の裸の遺体が転がっていました。
男たちが拘束されている間、支那共産党軍の兵士たちは、日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性の中には自殺するものもありました。

通化事件のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 13:47 投稿番号: [8086 / 8458]
支那共産党軍は、ソ連進駐軍の下請けとして日本軍の脱走兵狩りを行い、男性600人を検挙し吉林へ連行してしまいます。
つまり、通化市を、日本人の女子供と老人ばかりにした。
ソ連軍が撤退すると、通化の支配を委譲された支那共産党軍は、通化市の市役所の幹部職員全員を連行し、旧満州人の役人全員を殺害します。つまり日本人社会の行政機能を奪った。

さらに清算運動と称して、旧満州人たち通化市民の家宅に片端から侵入し、民族を問わず金品を掠奪します。

そして昭和21(1946)年9月22日には、支那共産党軍が、公式な連合国軍であった中華民国政府軍に攻撃を仕掛けて、通化市から駆逐してしまいます。
10月23日になると、支那共産党軍の一個師団が新たに通化市に進駐してきます。
11月2日には、支那共産党軍劉東元司令が着任します。
そして同日付けで、支那共産党軍は、17000名を超える日本人遺留民に対して、収容能力5000名以下しかない旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命令します。
移動した日本人遺留民に対し、支那共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)」の設立を命じました。

日解連は、日本人に対する中国共産党軍の命令下達や、日本人への共産主義教育を担当する支那共産党の下請け組織です。
日解連は、日本人のスパイとなり、支那共産兵に、どこぞの日本人宅には、これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を与えた。
しかし、恐怖に縛られ、この手のいわゆる裏切り(分断工作)に応じた人たちも、結局は被支配者であり、しょせんは奴隷にすぎない。
日解連は、支那共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとします。
これに対し、日本人遺留民たちは、正々堂々、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けます。
すると支那共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求します。
そして11月17日には、支那共産党に応じない元満鉄総裁の大村卓一を、満鉄総裁であったことを罪状として逮捕、投獄した。
この間も、支那共産党の兵士たちは、武器捜索を名目に、日本人の家屋に押し入っては、略奪・暴行・強姦を、連日続けています。

12月23日、日解連の通化日本人遺留民大会が、通化劇場で開催されます。
劇場には、中国共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっています。
大会には、劉東元司令を始めとする支那共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいした。そこに日本人遺留民3000人が出席します。
議長は、日解連幹部で元満州国官吏の井手俊太郎が務めます。
彼は、「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と、冒頭に発言した。
日解連幹部たちは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われ、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰です」などと、連日乱暴狼藉を働く支那共産党に媚びた発言がなされます。

しかし発言を求められた日本人遺留民たちは、その席で、日解連を堂々と非難したのです。
そして明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げます。
そして山口嘉一郎老人が、
「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。
会場に、満座の拍手が沸き起こります。
議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。
会場のほぼ全員が起立した。
そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われます。
万歳のあと、山口老人は、
「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれません。ですから徐々に教育をお願いしたい」と述べます。きわめて常識的な発言です。
しかし、その日の翌日以降、大会で発言した者は、全員、支那共産党によって連行され、殺害されてしまいました。

大会から1週間が経過し、年が明けた昭和21(1946)年1月1日、支那共産党の工作員であった内海薫が、殺害されます。犯人はわかりません。

1月10日、支那共産党は、日解連幹部の高級官吏や日本人遺留民の指導者ら140名を、内海薫を殺害した容疑であるとして連行します。
そして全員を抑留した上で、日解連も強制的に解散させてしまった。

1月21日、支那共産党は、日本人4名を市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑します。
日本人たちが見ている前で、彼らは遺体を何度も撃ち、銃剣で突き刺し、ハチの巣にしたうえで、切り刻みます。

日本人遺留民たちの怒りは、徐々に高まっていきます。

そして昭和21(1946)年2月3日、通化事件は起こります。つづく

中国人による日本人虐殺事件・通化事件

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 12:50 投稿番号: [8085 / 8458]
大東亜戦争が終わっても、満洲や朝鮮にいた日本人居留民の引揚者が、無事に日本へ帰ることは容易ではありませんでした。

通化事件(つうかじけん)というのは、終戦の翌年である昭和21(1946)年2月3日に、かつての満州国通化省通化市で、日本人に対して一週間にわたって拷問と銃殺が行われ、あるいは凍死させられ、軍とは何のかかわりもない民間人二千人(一説によると数千人)が殺害された事件です。

加害者は、支那共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)、被害者は日本人です。

通化市というのは、いまの北朝鮮と支那の国境付近にあった市です。

終戦時の通化は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって治安が維持されていたのです。

治安が維持されていたから、満洲の奥地から日本に帰国しようとする多くの在留邦人や引き上げのために集まった日本人、17000名が滞在していました。

男は、満洲にソ連が侵攻した際の戦いに出自し、辺境で命を落としたり、シベリアに連行されたりしています。
命がけで、女子供や老人を逃し、そのために命を犠牲にして戦った。

ですから当時の通化にいたのは、男たちが戦って時間をかせいでいる間に、必死に逃げさせた女性や子供、老人たちだったのです。

しかし、彼女たちや老人たちは、無事に逃げおおせたわけではありませんでした。

落ちる途中で、支那人や朝鮮人たちによって、ようやく持ち出した手回り品やわずかばかりの財産全部を奪われ、暴行を受け、強姦に遭い、厳寒の地で衣類さえも奪われ、麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿で、ようやく一定の治安が保たれている通化にたどり着いたのです。

通化では、在留邦人がそうした日本人避難民に衣服や住居を提供するなどしていたのだけれど、その通化市居留の日本人ですら、家屋や家財を強制的に接取されるなどしていました。

そこに昭和20(1945)年8月24日、ソ連軍の将校20人、兵士200人が進駐し、市内の竜泉ホテルに司令部を設置します。

この連中も悪かった。
日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると、日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるい、殺害しました。

武装解除されたとはいえ、通化市にあった日本軍憲兵隊は、ただ手をこまねいていたわけではありませんでした。

原憲兵准尉は、ソビエト兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付け、女性を救おうと制止してもソ連兵行為を止めないため、やむなく軍刀でその強姦兵を一刀のもとに斬り捨てました。しかしその場で原准尉は、別のソビエト兵に射殺されている。

そしてこの事件以降、日本人は、憲兵といわず民間人といわず、日本刀も没収の対象となっています。

完全に丸腰となり、身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を慰安婦として供出せよと命じてきました。

ご存知の通り、朝鮮半島における従軍慰安婦などというのは、まったくのデタラメな捏造でしかありません。
朝鮮人の女衒たちが、同国人の女性をさらって独身男性が大量にいる日本軍兵舎横で売春宿を開いていただけの話です。
売春が合法だった時代です。

日本兵はちゃんと金を払って彼女たちを買っていました。
ですから、日本兵の給料が将校クラスで25円、兵隊クラスで15円が相場だった時代に、彼女たち売春婦は、2年もすると3〜5万円の貯金ができたのです。
当時のお金で3〜5万円というのは、いまの貨幣価値にしたら3〜5億円の大金です。ですから一家のうちの女の子が日本人相手の売春婦になるというと、当時の朝鮮人は、一族をあげて大喜びした。

しかも日本は、彼女たちによって性病がまん延するのを防ぐために、公費を使って彼女たちの健康診断までしています。
ついでにいうと、当時荒稼ぎできた成功体験から、韓国ではいまでも売春がさかんです。
韓国で床屋に行くと、マッサージ嬢というのが出てくる。売春婦です。床屋でさえ、それが「サービス」になっている。
要するに彼らにとって、売春は成功体験になっている。

偉大なる殺人者・毛沢東

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 10:47 投稿番号: [8084 / 8458]
ギネスブックにも載った、人類史上最大の虐殺を行ったスーパーヒーローだな。
3000万人〜5000万人の自国民を殺せるのは毛沢東しか居ない!
偉大なる殺人者だ!さすが支那畜だ!

世界一の人殺し1位毛沢東・2位スターリン

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 10:15 投稿番号: [8083 / 8458]
「毛沢東はスターリン、ヒトラーに並ぶ永遠の罪人」
「毛沢東記念堂は大虐殺記念館と改称せよ」

中国で人気絶大の歴史教師、袁騰飛氏が4月下旬、ネットにアップされた映像講義で、毛沢東を痛烈に批判、保守派が袁氏バッシングに出るなど波紋を呼んでいる。袁氏の主張は、毛沢東が築いた一党独裁体制批判に通じるため、当局は当該映像の削除を指示、サイト掲示板の書き込みの規制を始めた。

袁氏は北京の私立精華学校高等部の看板教師で、国営中央テレビの教養番組「百家講壇」の講師を務め、出演番組は常に最高視聴率を記録。その人気に着目した動画サイトは、約2年前から教壇での講義をアップ、これも年間数千万のアクセス数を誇る。軽妙な語り口と大胆な解釈が売りで、ネット投票で「中国で最高の歴史教師」に選ばれた。

今回問題になったのは、市内の予備校での講義。
「文化大革命」を論じたが、文革にとどまらず毛沢東の全面批判だ。

「毛沢東の問題点は、独裁者と同時に教祖になったことだ。20世紀の三大暴君は、毛とスターリン、ヒトラーだが、ヒトラーは外国人を殺したのに、毛とスターリンは自国民を殺した」

「数千万の餓死者を出しながら自己の権力のため原爆を製造したのは、今日の北朝鮮と同じだ。彼の息子(毛岸英氏)が(朝鮮戦争で米軍に)殺されてなければ、今日の中国も北朝鮮の金王朝と同じだったろう」

袁騰飛氏は毛沢東時代を「赤色テロの時代、中国で最も暗黒の時代」と呼び「1949年以降、毛沢東が行った唯一の正しいことは、死去したこと」と断じる。政治的に微妙なチベット問題に関しても「ダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞したのは、共産党の武力侵略に抵抗したため」と言い切った。

袁氏は他の講義で、西側の三権分立制ができたのは「絶対的権力は絶対的に腐敗するため」とし、間接的に現体制を批判してもいる。その立場は、2008年に「08憲章」を起草し、懲役11年になった作家の劉暁波氏に近い。

「中国人は人食い人種」異論ありますか?

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 00:09 投稿番号: [8082 / 8458]
まず多くの中国の歴史書に堂々と書かれている。
多くの人間料理法が書いてある。
人間を殺すことを屁とも思っていない。
まさに世界史上唯一の食人文化を持っている国である。

文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、

黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
略)
人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
略)
さらに人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。

デタラメの「中国の教科書」

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/21 07:51 投稿番号: [8081 / 8458]
■中国の教科書こそ歴史を歪曲■

元寇に関する記述が全く無い。→「俺たちは侵略戦争した事が無い」という主張が崩壊するため。

日露戦争に関する記述が全く無い。→日本がロシアに勝って満州の権益を得た事実を隠すため。

第二次大戦で日本は米国ではなく中国共産党軍により敗北させられた、と教えている。

戦後の日本に関する記述は全く無い。→日本脅威論が成立しなくなるため。

戦後、中国軍はチベットやウイグルや内モンゴルや満州やインドやロシアやフィリピンやベトナムに侵攻したのに、自衛以外の戦争はしたことがない、と教えている。

1950年代に毛沢東による大躍進政策で3000万人が餓死した事に関する記述が全く無い。

北朝鮮軍の侵略で始まった朝鮮戦争を「米国と韓国が北朝鮮を侵略したことで始まった」と教えている。

民主化デモを武力弾圧した天安門事件を「騒乱分子が国家基盤を危うくした犯罪行為」と教えている。

東京裁判では130万人とされた日中戦争における中国側の死者数が、今や3500万人にまで増えている。

済南事件のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/21 02:49 投稿番号: [8080 / 8458]
「済南事件で殺された日本人の写真」が「731部隊の被害者」として中国の教科書に掲載
■日本人が虐殺された済南(せいなん)事件とは、1928年(日中が戦争をする9年前)に発生した中国居留の日本民間人に対する中国兵による虐殺事件。

■検死記録(中国政府も同席し確認)
  東条きん(女性・24歳)
  両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。陰部に棒をさしこまれていた。

東条きん氏と思われる検死写真1

※検死記録と完全に一致
※済南病院で1928年5月に撮影(山東省動乱記念写真帖)


■犠牲者の検死写真2

*写真1と医師も助手も場所も同じようだ

要は、「731部隊の人体実験」だという説明の根拠は見つかっていない。
しかし「済南事件の被害者を日本人医師が検死している」というのには上記の根拠がある。

しかしコレを中国人は「日本軍による人体実験の犠牲者」として
国家を上げて捏造・宣伝

中国系アメリカ人女史アイリス・チャンの著書「レイプ・オブ・ナンキン」の写真

中国の歴史教科書にも掲載(翻訳版)

731部隊記念館では蝋人形になって展示

ようするに「中国人に虐殺された日本人」を自ら展示してしまっている。

しょせんこんな国ですよ。

中国側が言う「南京大虐殺」もこのような「中国人に虐殺された日本人」の写真を使ってでっち上げているのである。

おまけに本多勝一もそのでっち上げに加担している。

写真の見たい人は下へどうぞ。

http://brain.exblog.jp/2809948/

中国人による日本人虐殺事件・済南事件

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/20 08:47 投稿番号: [8079 / 8458]
昭和3年(1928年)の4月
済南は山東省の商業都市で人口38万を有し、諸外国人が多くここに住み、
日本人も1810人が居留民としてここに住んでいた。
しかし南軍が北上するにつれ、済南が危機に陥った。
南京事件(1927年に日米英仏の公館が国民革命軍に襲撃され略奪、
婦女暴行、殺戮が行われた事件)のような事件が
また発生するかもしれなかったためだ。
現地からの保護要請を受けた田中首相は居留民保護のため
やむを得ないと決断し、4月下旬に済南に軍を出した(第二次山東出兵)。
日本軍は現地に到着すると済南城に隣接する商業地
(居留民の大部分がここにいた)に、
東西2か所の守備地区を設置して居留民を収容保護した。
しかし北軍が退却した後の5月1日、南軍が入市してくると
恐れていた事態が起こってしまった。

南軍が入市してくると共に日本国旗の侮辱や反日ビラのばら撒きなどで、
もめ事が続発。済南市内は一気に緊迫するようになった。
2日、南軍総司令・蒋介石から治安は自分達が絶対に確保するので
日本軍の警備を撤去してくれとの要請があり、
その言葉を信じて日本軍は警備体制を全て解除した。

「済南事件」はまさに日本軍が警備を撤去した直後の
5月3日の朝に発生した。
その発端は南軍の兵が「満州日報」販売店を襲撃したことだった。
南軍兵は駆けつけた日本人巡査にも暴行を加えたため、
日本軍救援部隊が現場に急行すると、
南軍兵は兵舎に隠れて中から銃撃を加えてきた。

このため本格的に交戦状態に突入し、
中国兵による乱射略奪は一気に市内中に拡大した。
間もなく両軍間に停戦の申し合わせができたが、中国側はこれを無視し、
白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使まで射殺する暴挙に出た。
済南市内は凶暴な中国兵のため地獄と化した。

この事件の結果、日本軍は死者9人、負傷者32人、
そして日本人居留民14人が残虐の限りを以って殺される惨事となった…

済南事件で中国兵が日本人居留民に加えた残虐行為は、
まさに「中国式」で想像を絶する残虐さだった。
事件直後に惨殺死体を発見した南京駐在武官・佐々木到一中佐は
その手記に次のように記した。

「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、
酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、
あるいは滅多切りとなし、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。
わが軍の激昂はその極に達した」(「ある軍人の自伝」より)

この話は嘘でも誇張でもない。
済南の日本人惨殺状況に関する次の外務省公電がこれを立証している。

「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、
顔面上部を切落したるもの、
右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れる者一、陰茎を切落したるもの二、」とある。

日清戦争の時も捕虜となった日本軍兵士達は両手両足を切断していく拷問
(中国ではこれを凌遅処斬とかいうらしい)をうけていたが
上の記録からも中国人の殺人の手口の凄まじいほどの残忍さが分かる。


中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件。
略奪被害戸数136、被害人員約400とある。
中国側も立ち会った、済南医院での日本人被害者の検死結果。
藤井小次郎
頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除。
斎藤辰雄
顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。
東条弥太郎
両手を縛られて地上を引きずられた形跡。
頭骨破砕。小脳露出。眼球突出。
東条キン(女性24歳)
全顔面及び腹部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり。
両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。
鍋田銀次郎
左脇腹から右脇に貫通銃創。
井上国太郎
顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。
宮本直八
胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による 切創。陰茎切除。
多比良貞一
頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。
腹部を切り裂かれて小腸露出。
中里重太郎
顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創。
高熊うめ
助骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。
右脚の白足袋で婦人と判明した。
他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、
人定は不可能であった。

ついでに「尼港事件」について

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/19 18:17 投稿番号: [8078 / 8458]
大正7年、共産ソ連の誕生に対し、各地への共産化防止のため各国軍は共同でシベリアに出兵しました。

黒龍江河口から20キロの地点にある尼港(ニコライエフスク)には当時、日本居留民が約700名、白系ロシア人が約1万5000名、その他朝鮮人などが住んでいました。

シベリア出兵以来、日本軍の2個歩兵中隊(第14師団隷下)が駐屯し現地の居留民保護にあたっており、付近の共産主義武装組織は一時鳴りを潜めました。

ところが大正9年になって勢いを盛り返した武装組織が尼港市街を包囲、守備隊は衆寡敵せず、停戦に応じることとなりました。

2月、尼港に入った武装組織員はまず、白系ロシア人を武装解除し、資本家階級の家族ともども惨殺します(約2400名)。在尼港の石田副領事はこの暴虐に抗議しましたが武装組織は受け入れず、逆に日本側に対し武装解除を要求してきたのです。

武装解除後何をされるかは明らかであったことから、現地の部隊および義勇隊(あわせて110名)は武装組織の本拠を急襲しましたが、衆寡敵せず駐留部隊指揮官石川少佐以下多数が戦死しました。

居留民の多くは領事館に退避しましたが、集まったのはわずか250名で、逃げ遅れて武装組織の手にかかった人も多かったそうです。武装組織は子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺したりと、それは残虐な方法で命を奪ったということです。

一昼夜戦闘が続き、領事館のなかでの生存者も28名となり、弾薬も尽きたため、一同はまず子供を殺し石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。

尼港に残る日本人は河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しなかった民間人140名となりましたが、彼らは武装組織と交渉した上位部隊指揮官からの命で武装組織に降伏し、監獄に入ることとなりました。

春になって、第7師団(旭川)の多門支隊が同地の救援にようやく赴きましたが(武装組織侵攻以後は海面凍結のために派遣できなかった)、そこで見たものは地獄絵図でした。

焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」との武装組織の声明書が残されていました。

「救援部隊来着近し」の報を受けた武装組織は、中国人の妻妾となっていた14名以外全員を虐殺したのです。

唯一生き残った彼女らの話では、犠牲者たちは、両目を抉り取る、5本の指をバラバラに切り落とされて刺殺される、金歯があるものはあごから顔面を裂かれて抜き取られる、女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られるなどの方法で殺されました。

獄舎の壁には血痕、毛のついた皮膚などがこびりついており、被害者の手によると思われる鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれていました。

「シベリア抑留」のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/19 15:40 投稿番号: [8077 / 8458]
「終戦後の戦争」は戦犯裁判だけではなかった。シベリアには60万人もの日本人が抑留されていた。ソ連はまだ有効だった日ソ中立条約を破り、すでに広島・長崎の原爆投下で息も絶え絶えの日本に火事場泥棒的に宣戦、満州で殺戮、略奪、強姦の限りを尽くした。

樺太の真岡には終戦5日後の8月20日にソ連軍が上陸した。真岡郵便局の電話交換手だった17歳から24歳までの9人の女性は、業務を交替できる男性がいないため自ら進んで残留していた。

そして時々刻々の緊急情報連絡と交換業務を続け・・・
ついにソ連軍が押し寄せるのが見えた時・・・

「みなさん、これが最後です」「さようなら」「さようなら」

交換台に向かいその言葉を残し、9人は青酸カリを飲んだ。

ついでに「ロシア人の残虐性」について

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/19 13:17 投稿番号: [8076 / 8458]
「ドイツ人の女性は老女から四歳の女児に至まで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはあまりいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも二五〇人に暴行された少女に出会った・・・・」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著)

「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は九万五千ないし一三万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた一〇万の女性のうち、その結果死亡した人がー万前後、その多くは自殺だった。東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者一四〇万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。全体ではすくなくとも二〇〇万のドイツ女性がレイプされたと推定され、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽるようだ」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜)

  そのソビエト軍の残虐さは我が国国民に対しても同じでした。火事場泥棒のように昭和二十年ハ月九日に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、満州に侵攻を開始し支那、満州、朝鮮にいた我が国国民に襲いかかりました。

  「昭和二十年八月二十日頃であったろうと思う。鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たっていたと思われる頃の出来事だった。・・・・
  そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。十二、三の少女から二十ぐらいの娘が十名程タンカに乗せられて運ばれていた。それはまともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞きとれない。次の女性はモンペだけをはぎとられて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。・・・・・。一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦のみじめさを知った」(「されど、わが満州」p172〜3)

「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた」(「ある戦後史の序章」の中にある石田一郎の手記より西日本図書館コンサルタント協会)

葛根廟事件
ソビエト正規軍が民間の日本人避難民を攻撃し、全滅に等しい被害を与えた事件である。葛根廟はラマ教の僧院で、興安南省と竜江省の省境に近い辺境にあった。当時、葛根廟から二十五キロほど離れた興安の街とその周辺に、約四千人の日本人が住んでいた。ソ連参戦の翌日にあたる一九四五年八月十日、日本人たちは南方に向けて避難を開始した。ハ月十二日、避難の遅れた二千人が、葛根廟駅から列車で奉天に向かうため、葛根廟をめざし、隊列を組んで興安を出発した。ほとんど女性と子供であった。葛根廟が視野に入った、八月十四日午前十一時半、ソ連軍戦車隊と遭遇。突然、機銃掃射が始まり、あたりが血の海となった。生存者はわずか、約百五十人だった。女や子供ばかりの隊列を、日本軍と間違うはずはない。まぎれもない非戦闘員虐殺事件である。

麻山事件
ソ連侵攻直後の同年八月九日、満州東安省鶏寧県庁は、県内在住日本人開拓団に避難命令を発した。それを受けたハタホ開拓団約一千名は、荷馬車で牡丹江に向かった。一行は、日本の統制を離れた満州治安軍の反乱部隊とソ連戦車隊の双方の来襲を受け、「敵の手で辱められるよりは」と、婦女子四百余名が男子団員の銃によって命を絶たれた。

ついでに「シベリア抑留」について

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/19 13:01 投稿番号: [8075 / 8458]
ソ連は一九四五年二月四日から一一日にかけてのヤルタ会談により、八月八日、日ソ中立条約を一方的に破り、対日宣戦布告。翌八月九日は満州、樺太南部、千島列島に侵略を開始した。その結果、膨大な数の日本人民間人がソ連兵の略奪・暴行の餌食となった。軍民も約六〇万人が拉致・連行された後に、強制的な重労働により約六万人が死亡した。「早期に捕虜を本国に送還する」というポツダム宣言に明らかに違反する行為である。
  これらは、朝鮮人がよく言うウソの強制連行ではない。すべて事実である。
  八月二三日にスターリンが発した命令は
「強制労働に耐えうる健康な捕虜五〇万人を選別する。捕虜を一〇〇〇人ずつの建設大隊に編成する。捕虜の被服や寝具は戦利品から調達すること」
という盗人のソ連らしいものであった。捕虜のほとんどは軍人であったが、技術や通訳の能力を持っている軍属・満州国政府や満鉄の日本人職員、そして従軍慰安婦などの女性五〇〇〇人も連行された。それぞれが、重労働に狩駆り立てられ、女性は慰安婦というものを最初から考えていず、現地の女性を強姦するというソ連軍の習性により恥辱の対象とされた。

  ソ連軍が捕虜とした外国軍民は、ドイツや日本をはじめ四一二万人にのぼる。これだけの大量の捕虜を捕獲連行した理由は、戦後復興のためのタダの労働力にするためだった。したがって、このソ連により捕虜という名目で奴隷にされた日本軍民の収容所はシベリアに限らず各地に設置された。モンゴル、中央アジア、ウクライナ、モスクワ近郊を含むロシアそしてヨーロッパ各地である。
  ハーグ陸戦法規やジュネーブ捕虜条約の精神を踏みにじり、捕虜たちは食糧や医療も不十分で極寒の中、危険で厳しいさまざまな作業に酷使された。石炭・石油の採掘、木材の伐採、河川・港湾の整備、鉄道の建設、各種工場での労働、農場での労働などで、ノルマが課せられ、目標を達成できない場合は労働時間の延長、減食などの懲罰に付された。
  平成一二年(二〇〇〇年)一二月一九日に公開された害務省(通名として外務省ともいう)外交文書で、シベリア帰還者の証言が明らかになった。それによると、収容所はバラックや旧囚人収容所。一人当りの居住面積は平均わずか一・三平方メートルで、やっと横になれる程度。衣服や暖房が不十分なため、凍死者があいついだ。食事も重労働に値するものではなく、一日、一九〇〇〜二〇〇〇カロリー、収容当初は一食三〇〇グラムのパンとお茶だけで氷点下四〇〜六〇度のなか労働を強制された例もある。
  抑留者がさらされた恐怖は、重労働だけではない。約三〇〇〇人が弁護人もつかないデタラメな略式裁判で「スパイ罪」、「反革命罪」、「資本主義幇助罪」などに問われ、五年から二五年の強制労働に処せられたのである。
  これら犠牲者の取り調べの模様について、外交文書はこう記している。
  「足を縛ってつるされた」
  「等身大の箱に八時間閉じ込められた」
  「銃で脅され調書に署名させられた」
  手元にある、「シベリア捕虜収容所」(若槻泰雄著   サイマル出版)によると、
  取り調べと裁判の実態として、同書に収められている「ソ連長期抑留者同盟」の調査による結果による拷問の実情として、下記の数字が揚げられている。
  絶食      一二四
  減食      三一七
  水攻め     三八
  寒冷攻め    六一
  睡眠を与えず九九
  脅迫      一五七
  暴力      一五八
  その他    一〇一七
  備考   1)一人で二つ以上の拷問を併用された場合は、主たる方が記載されている。
     2)拷問なしと答えた者が一八二名
  「シベリア捕虜収容所」(若槻泰雄著   サイマル出版)上   P三〇三
 
  一方、共産主義の洗脳教育に同調し、日本帰国後はソ連の先兵として日本共産化に挺身するであろうと目された者のみは、食事・衣服・労働量などで優遇されたのである。
  死亡者は約六万人とされているが、実際には実数不明である。公開されている日本人墓地とされるところにすら、墓碑名もないただの土山しかない、いや、土山すらない原野で氏名や身元不詳の無縁墓地が多く残されている。

  このような無法国家であるソ連が極東軍事裁判において、裁く側にいたと事だけでもあの裁判の異常さがよくわかります。
  日本人に対してこのような残虐非道な行いをしたソ連、そしてその指導者であった残虐なスターリンが昭和二八年三月六日に死亡した時に、あの朝日新聞は翌日三月七日の夕刊で「子供好きのおじさん」とその死を称えて報道しました。流石です。流石は朝日新聞です。

中国に虐殺されたチベット人数

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/19 11:43 投稿番号: [8074 / 8458]
中国共産党が奪った人命

チベットでは、限定情報だけでも「120万人」超を殺害

  中国共産党は、いったい、どれほどのチベット人を殺害して来たのか。その1つの参考となる数値が、1984年に、チベット亡命政府が公表した統計数値がある。

  その公表(1984年)によれば、1950年から同84年の間だけで、「戦闘や蜂起による死」は43万2705人。「処刑死」は15万6758人。「獄死、強制労働収容所での死」は17万3221人。「傷害致死」は9万2731人。「餓死」は34万2970人。自殺は9002人。チベット人死者の総計は『129万7387人』に上る。但し、この数値は、いわゆるチベットの「ウ・ツァン」、「カム」、「アムド」の3州での死者数であり、いわば「これがすべて」ではない。

  それ以外の地域、および同年以降の死者数は含まれていない。

チベット大虐殺

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/19 11:03 投稿番号: [8073 / 8458]
●   「チベット大虐殺」     一般民衆の犠牲者は120万人

1959年の3月チベットの首都のラサで「改革解放」の名のもと「民族浄化」が開始、 殺戮・破壊・強奪・強姦が行われた。
15万人の僧侶と尼僧は公開虐殺によって1400人に減らされた。
僧侶に対しては、滑車を使い仏像の重みによる絞首刑や、尼僧に対し警棒の形をした 5万ボルトのスタンガンを性器に入れて感電死させ彼女の死体は裸のまま路上に捨てられた。 一般民衆の犠牲者は120万人におよぶ。

中国は「強制断種(チベット男性の生殖機能を手術によって奪う事)」や
「強制交種(チベット女性を中国男性と交わらせ民族の血統を絶つ事)」等の 民族浄化に力を入れた。
生き残った証言者によると、親の死体の上で子供に泣きながらダンスをさせ、 人民解放軍はそれを笑いながら銃殺した。
「ジュネーブ法律家国際委員会」が受理した供述書によると 「何万というわが国民が殺された。軍事行動においてばかりでなく、 個人的に、また故意に殺されたのである。(略)彼らは銃殺されたばかりでなく、 死ぬまでむち打たれたり、磔にされたり、生きながら焼かれた。溺死させられたり、 生きたままで解剖されたり、餓死させられた者もあった。絞め殺されたり、首を吊って殺されたり、熱湯による火傷で殺された。 又、ある者は生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたり、首を切られたりして殺された。 こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。 犠牲者の同じ村人、友人たち、隣人たちは、それを見物するよう強いられた。」とある。

ちなみに侵略や粛清、失政による飢餓など、歴史上その数において世界最大の虐殺者は、 まぎれも無く中国で、犠牲者は自国民、他国民含め四〜六千万人といわれる。

中国のチベット侵略の実態

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/19 00:41 投稿番号: [8072 / 8458]
日本のマスコミは、中国共産党のチベットにおける虐殺や蛮行の詳細を一切報道したことがない。日本の政党、政治家もこのことについては口を閉じたままである。朝日新聞にいたっては、中国人民解放軍の暴虐な行為について、侵略とは決して言わずに進駐とさえ表現している。チベットで300万人以上が虐殺され、現在もなお、非人道的なチベット民族絶滅政策が行われていようが、そんなことは一切お構いなしである。

独立国家であったチベットは、1949年に口火を切った中国の侵略で、戦闘によって人命損失の危機にさらされ、続いてすぐに、共産主義イデオロギーと文化大革命(1967- 1976)に代表されるような計画によって、普遍的な自由さえも失ってしまった。しかし、最悪の事態は既に過ぎ去ったかのような誤った認識がまかり通っている。現在でも、チベット固有の国民性、文化、宗教の独自性は、中国によって深刻な脅威にさらされ、翻弄され続けている。

中国の占領と弾圧の政策は、チベットの国家としての独立、文化、宗教性、自然環境の破壊を引き起こし、人々は基本的な人権まで奪われている。再三再四、国際法を犯す中国のこれらの破壊行為は、注目はされているが、未だに罰されることなく繰り返されている。

あなたへの質問

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/18 21:47 投稿番号: [8071 / 8458]
あなたが中国に住んでいて中国政府に向かって、「中国はチベットを侵略した」とか「中国はチベット人を虐殺した」とか言ったら、あなたは殺されるでしょう。

あなたが日本に住んでいて日本政府に向かって、「日本は中国を侵略した」とか「日本は中国人を虐殺した」とか言っても、あなたは殺されないですよね。

どちらが良い国かは歴然としているではないですか。
もう良い国の悪口をいうのはやめよう。

中国人は人食い人種である

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/18 20:43 投稿番号: [8070 / 8458]
文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には。
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字をの形で霧、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、

黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
略)
人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
略)
さらに人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。

Re: たまには褒めてやろう、朝日新聞

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/02/18 00:23 投稿番号: [8069 / 8458]
日本政府に対して批判することがたくさんあります

訂正

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/17 03:41 投稿番号: [8068 / 8458]
中国人は世界で唯一の人食い人種でした。

共産主義による犠牲者に関して、参考情報をお送りします。

◆「共産主義黒書」

  平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」
は、共産主義の犯罪を厳しく検証しています。編者ステファン・ク
ルトワによると、共産主義による犠牲者は、8,000万人から
1億人にのぼるとされます。この数字は、ヒトラー・ナチズムによ
る犠牲者数とされる2,500万人を軽く上回ります。本書は、
恵雅堂出版から今年中には翻訳が刊行される予定と聞きます。

  クルトワは同書において、共産主義体制により殺害された犠牲者
数の国・地域別の一覧を提示しています。それによると、

  ソ連        2,000万人
  中国        6,500万人
  ベトナム        100万人
  北朝鮮        200万人
  カンボジア      200万人
  東欧          100万人
  ラテンアメリカ      15万人
  アフリカ        170万人
  アフガニスタン   150万人
  コミンテルンと権力を握っていない共産党約1万人
----------------------------------
  総計           約1億人

となっています。

  ソ連と中国における犠牲者が圧倒的に多いわけですが、ソ連に関
してはかなり控えめの数字です。次に書くように、6,200万人
という数字も出されているからです。

◆ソ連の場合

  兵本達吉氏(元共産党代議士秘書)によると、1997年11月
6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連
時代の87年の間に6,200万人が殺害され、内4,000万が
強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で
400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と
放送しました。

  このうちスターリン時代に関しては、マーティン・メイリア教授
(カリフォルニア大学バークレイ校)が、最低2,000万人とい
う数字を提示しています。内訳は、強制労働収容所の死者
1,200万人、1937〜39年の処刑者100万人、農業集団
化の犠牲者600万人〜1,100万人などです。

  なお、第2次世界大戦でのソ連の死傷者数は、平凡社「世界大百
科事典」によると、1,200〜1,500万とされます。戦争よ
りも共産主義の方が、ソ連の人々に大きな犠牲を生み出したようです。

◆中国の場合

  毛沢東は、1957年2月27日、「49年から54年までの間
に80万人を処刑した」と自ら述べています。(ザ・ワールド・
アルマナック1975年版)。周恩来は、同年6月、全国人民代表
大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち
、16%にあたる83万人を処刑したと報告しています。また、
42%が労働改造所(労改、強制収容所)に送られ、32%が監視
下に置かれたと述べています。
  毛沢東は、その後もさまざまな権力闘争や失政を続けましたが、
丁抒らの研究によると、大躍進運動と文化大革命によって、
2,000万人が死に追いやられたとされています。

  「共産主義黒書」では、ジャン・ルイ・マルゴランが、ほぼ信頼
できる数値として、内戦期を除いた犠牲者の数を、次のように総括
的に提示しています。

・体制によって暴力的に死に至らしめられた人
700万〜1,000万人(うち数十万人はチベット人)
・「反革命派」としてラーゲリに収容され、そこで死亡した人
約2,000万人
・1959〜61年の「大躍進期」に餓死した人
2,000ないし4,300万人

◆日本の場合

  「共産主義黒書」に掲載されいるかはわかりませんが、我が国に
は、ソ連によるシベリア抑留問題があります。
  大東亜戦争(太平洋戦争)の末期、共産主義ソ連は日ソ中立条約
を一方的に破棄して、満州・樺太等を侵攻しました。さらに、スタ
ーリンは国際法を無視し、日本人を俘虜として抑留し、シベリア等
の各地で強制労働を課しました。
  わが国の厚生省援護局の資料によると、    抑留者は約57万
5,000人、うち死亡者は、約5万5,000人とされています。
  また、ロシア側の研究報告によると、抑留者は約54万6,000
人、うち死亡者は、約6万2,000人とされています。
(「はるかなシベリア・戦後50年の証言」北海道新聞社)

世界一の虐殺国家は中国(人食い人種)

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/17 03:12 投稿番号: [8067 / 8458]
世界一の虐殺国家は中国である。
世界一の人食い人種は中国人である。
以上は疑うことのできない歴史的事実である。
このことは世界中が認めている。

  共産主義による犠牲者に関して、参考情報をお送りします。

◆「共産主義黒書」

  平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」
は、共産主義の犯罪を厳しく検証しています。編者ステファン・ク
ルトワによると、共産主義による犠牲者は、8,000万人から
1億人にのぼるとされます。この数字は、ヒトラー・ナチズムによ
る犠牲者数とされる2,500万人を軽く上回ります。本書は、
恵雅堂出版から今年中には翻訳が刊行される予定と聞きます。

  クルトワは同書において、共産主義体制により殺害された犠牲者
数の国・地域別の一覧を提示しています。それによると、

  ソ連        2,000万人
  中国        6,500万人
  ベトナム        100万人
  北朝鮮        200万人
  カンボジア      200万人
  東欧          100万人
  ラテンアメリカ      15万人
  アフリカ        170万人
  アフガニスタン   150万人
  コミンテルンと権力を握っていない共産党約1万人
----------------------------------
  総計           約1億人

となっています。

  ソ連と中国における犠牲者が圧倒的に多いわけですが、ソ連に関
してはかなり控えめの数字です。次に書くように、6,200万人
という数字も出されているからです。

◆ソ連の場合

  兵本達吉氏(元共産党代議士秘書)によると、1997年11月
6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連
時代の87年の間に6,200万人が殺害され、内4,000万が
強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で
400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と
放送しました。

  このうちスターリン時代に関しては、マーティン・メイリア教授
(カリフォルニア大学バークレイ校)が、最低2,000万人とい
う数字を提示しています。内訳は、強制労働収容所の死者
1,200万人、1937〜39年の処刑者100万人、農業集団
化の犠牲者600万人〜1,100万人などです。

  なお、第2次世界大戦でのソ連の死傷者数は、平凡社「世界大百
科事典」によると、1,200〜1,500万とされます。戦争よ
りも共産主義の方が、ソ連の人々に大きな犠牲を生み出したようです。

◆中国の場合

  毛沢東は、1957年2月27日、「49年から54年までの間
に80万人を処刑した」と自ら述べています。(ザ・ワールド・
アルマナック1975年版)。周恩来は、同年6月、全国人民代表
大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち
、16%にあたる83万人を処刑したと報告しています。また、
42%が労働改造所(労改、強制収容所)に送られ、32%が監視
下に置かれたと述べています。
  毛沢東は、その後もさまざまな権力闘争や失政を続けましたが、
丁抒らの研究によると、大躍進運動と文化大革命によって、
2,000万人が死に追いやられたとされています。

  「共産主義黒書」では、ジャン・ルイ・マルゴランが、ほぼ信頼
できる数値として、内戦期を除いた犠牲者の数を、次のように総括
的に提示しています。

・体制によって暴力的に死に至らしめられた人
700万〜1,000万人(うち数十万人はチベット人)
・「反革命派」としてラーゲリに収容され、そこで死亡した人
約2,000万人
・1959〜61年の「大躍進期」に餓死した人
2,000ないし4,300万人

◆日本の場合

  「共産主義黒書」に掲載されいるかはわかりませんが、我が国に
は、ソ連によるシベリア抑留問題があります。
  大東亜戦争(太平洋戦争)の末期、共産主義ソ連は日ソ中立条約
を一方的に破棄して、満州・樺太等を侵攻しました。さらに、スタ
ーリンは国際法を無視し、日本人を俘虜として抑留し、シベリア等
の各地で強制労働を課しました。
  わが国の厚生省援護局の資料によると、    抑留者は約57万
5,000人、うち死亡者は、約5万5,000人とされています。
  また、ロシア側の研究報告によると、抑留者は約54万6,000
人、うち死亡者は、約6万2,000人とされています。
(「はるかなシベリア・戦後50年の証言」北海道新聞社)

朝日新聞の文化大革命礼賛

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/16 22:21 投稿番号: [8066 / 8458]
文化大革命とは、毛沢東などが行った、文化の名を借りた劉少奇などの右派(穏やかな革命路線)打倒のための政治闘争である。これにより中国政府当局は、数千万人以上の中国国民を殺戮したと言われる。この恐怖政治下では、国民は完全に思想言論の自由を奪われていた。
  昭和42年9月産経、毎日、西日本(北海道、東京、西日本の3社連合)の3社特派員の追放を皮切りに各社が順次追放され遂に朝日1社のみとなった。それは「人民日報」や「北京放送」で発表される一方的な毛沢東・文革礼讃記事以外の記事(即ち壁新聞情報などの真実)を書いたからという理由だった。

  45年3月の自民党訪中使節団に参加し、一カ月も中国に滞在した広岡社長(当時)が、帰国後顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題する文化大革命礼讃記事を掲載した。また社内では「文化大革命と言う歴史の証人として、我社だけでも踏みとどまるべきである。その為には「中国に都合の悪いことは報道せず、都合のいいことだけを報道せよ」という趣旨の指示を出す。

  この方針に早速従い、現在でも自虐史観の代表例として青少年の教育にも多大な悪影響を与えたのが本多勝一氏の46年8月から12月まで31回に亘って連載された、「中国の旅」と題する「日本軍虐殺」捏造コラム。この中で本多氏は南京大虐殺、平頂山事件、万人坑、三光作戦などについて、中国政府がお膳立てした場所に行き、中国政府が用意した証人に、中国政府監視下でインタヴューし、中国側の言い分のまま記事を書く。後に内容も写真もが捏造であることが次々と指摘されると公開質問状に対して「私は中国人の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするなら中国側に、直接やっていただけませんでしょうか」と開き直った。 ジャーナリストとしてよくこんな恥さらしな回答をしたと感心するが広岡方針が浸透した証拠。

  この捏造の許し難い点の一つは、「文化大革命」という本当の大虐殺の隠蔽効果があるという点だ。もちろん中国政府当局は、それも目的の一つとして本多氏に偽情報をリークしたのだろうが。文化大革命により殺された人々は無念極まりないに違いない。中国政府に殺されたあげく、その白骨死体ですら中国政府の反日プロバカンダのネタ(日本軍虐殺捏造写真)にされるのだ。そしてそれに加担した本多氏は、中国政府など社会主義体制での虐殺の隠蔽に加担し、一貫して殺す側の論理に立ち続けた。その本多氏は現在、大量の文革犠牲者など社会主義体制で虐殺された人々の白骨を踏みつぶし蹴散らした数々の著作により、大量の印税を得て悠々自適だ。また46年9月に起きた林彪事件も朝日のみが否定しマスコミ界の大失笑を買う誤報を流し続けた。なおこの時の北京駐在員は現在人民日報の日本販売店(そんなのがあるなんて知らなかったが)の責任者だそうです。

本多勝一の著書「中国の旅」に掲載されている写真は殆どが「ニセモノの写真」であることが判明している。アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」にも同じ「ニセモノの写真」が使われている。この二冊の本の内容も殆どがデタラメである。ちなみに、アイリス・チャンは自責の念に駆られたのかピストル自殺している。

ギネスブック虐殺ランキング1位毛沢東

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/16 01:11 投稿番号: [8065 / 8458]
世界20世紀虐殺ランキング1位、毛沢東

毛沢東は「大躍進政策」、「文化大革命」で3000万人〜8000万の自国民を殺した。
第2次大戦の犠牲者を超える可能性もある、世界最悪の虐殺者。

毛沢東による1万人処刑の「紅軍大粛清」

人肉宴会が行われた、文化大革命
毛沢東が、権力回復の為に起こした政治闘争。内戦。
学生をあおり、軍隊を出し、教師など知識人や、中国国民党と関わりのあったものを言いがかりを付けてリンチ。1000万人〜3000万人を虐殺。
孔子や文化財を否定、破壊する極端な「左」傾偏向主義運動に発展。
朝日新聞は、これを褒め称える記事を書いていた。日本の学生運動も、これの影響を受けている。
文革の頃、たくさんの人肉食記録が残っている。
知識人などに「階級の的」とレッテルをはり、糾弾集会をみんなで切り刻んで喰った。そんな事が流行った。
中国・広西省武宣県では文化大革命の間に、共産党の迫害によって死んだ人間は524人。その内、食われた者は百数十人。
武宣県において食人行為を行った者は推定1万〜2万人にのぼる。
1968年7月1目、武宣県の桐嶺中学副校長・黄氏は、糾弾大会につるし上げられ殺された。学校の食堂や廊下、区役所の炊事場でや教員宿舎や女子学生宿舎で、人肉を煮たり焼いたりしての人肉料理の宴会が行われた。

21世紀に、人肉料理文化のある残酷民族は中国だけ

飢饉や非常事態、異常者によるカニバリズム(食人)はどこの国でもある(日本で日本兵が仲間を生きるために食べる、もちろんあった)。
しかし、「人肉市場」「人肉宴会」「人肉料理法」「人肉レストラン」があるのは中国だけ。人肉を楽しんでいる思考の隣人。
中国の史書にたくさん残されている。自分の肉を親に食べさせるというような孝行話が多い。
1965年くらいの文化大革命では、人肉食が白昼堂々と行われていた。
現在も、田舎では胎児のスープが滋養強壮の為に食べられている。
「レイプ・オブ・南京」で、アイリスチャンの書いた「日本兵が人肉餃子をつくる」という所が、自分の国の文化からきている嘘というのがわかる。

中国共産党の犯罪

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/15 22:58 投稿番号: [8064 / 8458]
毛沢東がけしかけた権力闘争は劉少奇、訒小平ら実権派の打倒に留まらず、大学教授や学校の教師、作家、芸術家、旧家の出身者や旧地主・資本家の子孫、医師、技術者など、要するに社会でありとあらゆる一定の知識や技能、地位と名声をもつ人たちが批判の対象となった。

  例えば中学生によって組織された紅衛兵は教師たちを軟禁し、毎日十時間以上の重労働を課した。わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いとすぐさま木刀や革靴で殴りつけた。夜になると教師たちを監禁して夜通し尋問とリンチが行われた。ある女子中学校の女校長は3夜連続で拷問を受けた後、1966年8月22日に死亡した。場所は校内のトイレで、遺体は全身傷だらけで、髪の毛はほとんど抜かれ、口には汚物が詰め込まれていた。

  文化大革命中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの祝日には全国各地で群集を集めての公開処刑大会が行われた。とはいっても建国以来十数年、中国共産党はひたすら虐殺に次ぐ虐殺を繰り返していたので、反革命分子などそう簡単に見つかるはずもなかった。そのため、毛沢東の政策に少しでも疑問を述べたり、毛沢東語録を不注意で汚してしまったり、毛沢東の顔写真が移った新聞紙を使って野菜を包んだり、太陽を貶める発言をしたり(毛沢東は人民の太陽と称賛されていたため)するだけで悪攻罪として死刑になった。

  紅衛兵による無差別大量虐殺も頻発した。1966年8月に紅衛兵は五類分子(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)を打倒すべく、北京市大興県を襲撃し、325人を虐殺した。死亡者のうち最年少は生後1ヶ月であった。1967年8月には湖南省道県を紅衛兵が襲撃し、4139人を虐殺した。虐殺方法には銃殺、斬殺、爆殺、生き埋め、撲殺、焼殺など多様な手段が採られた。幼い子供を殺すときは投げ殺しが好んで行われた。

  1967年から1968年にかけて内モンゴル自治区ではモンゴル族に対する大量虐殺が行われた。34万人が逮捕、監禁され、少なくとも5万人が虐殺された。殺害方法も残虐さを極めた。歯を一本一本抜き取られたり、鼻と耳をねじ切られたり、体中をナイフで切り裂かれて傷口に塩を揉みこんで焼き鏝をあてたり、女性であれば輪姦された挙句生殖器に火掻き棒を差し込まれて腸を引きずり出されたりした。

  虐殺は紅衛兵が無実の人たちを虐殺するというパターンに留まらない。紅衛兵はいくつかの派に分裂し、互いに相手を反動派、反革命分子と罵って自らの正当性をかけて激しい武装闘争を行った。1967年3月から6月にかけて江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、紅衛兵に限らず労働者、農民、軍隊をも巻き込んだ主導権争いのための激しい武装闘争が展開された。まさに中国全土が内戦状態であった。
  こうした中で全ての中国人民は恐怖におののいていた。いつ反革命のレッテルを貼られて粛清されるか、いつ誰かに裏切られるのか恐怖と猜疑心がつのり、ひたすら狂信的に毛沢東を崇め奉ることが救いの道であるかのような雰囲気が生まれた。毛沢東に対する極端な個人崇拝、神格化がますます強化されていったのである。

中国共産党は何かと言うと60年前の日本軍の「残虐行為」とやらを数十倍に誇張してまで誇大宣伝し、日本に謝罪と反省を求めているが、中国共産党が行ってきた残虐行為は犠牲者の数で比べても抗日戦争の犠牲者の数十倍にのぼる。まずは自らが行ってきた数々の残虐行為に謝罪と補償をすべきであろう。だが中国共産党が行ってきた残虐行為の犠牲者、被害者はあまりにも膨大であり、謝罪と補償は現実的ではないかもしれない。殺人犯でも死んでしまえば罪が問われないのと同じく、中国共産党も滅亡させることこそが唯一の解決策と言えるかも知れない。

たまには褒めてやろう、朝日新聞

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/02/15 18:05 投稿番号: [8063 / 8458]
朝日新聞が中国政府を批判する記事を載せていた。

http://www.asahi.com/international/update/0211/TKY201102100588.html?ref=reca
http://www.asahi.com/international/update/0214/TKY201102140288.html

CMLでは誰もが無視して話題にもしないな。
これが中国以外だったら正義感振りかざして糾弾するのにダンマリ。

余談ですが「中国人は人食い人種」

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/15 12:47 投稿番号: [8062 / 8458]
あるブログから引用。

● 中国人は人肉を食べることを楽しんできた

だが中国人は違う。あきらかに人肉を食べることを楽しんできた。人肉食、人相食、夫食婦、婦食夫、易子而食(親がお互いに子供を交換して食べる)こういう記録が中国の史書の随所に見いだされる。あの春秋戦国の覇王桓公は子供の丸蒸しを料理として賞味した。宋代には人肉料理のメニューさえある。そのころ食肉用の人間は「両脚羊」と呼ばれていた。

1984年、台湾近郊で炭鉱事故がおこり、ただ一人生き残った炭坑夫は生き残るために人肉を食べた。 そして「息の切わた人間の肉はおいしくない。やはり生きている人間の肉はうまかった」と発言して大きなニュースになった。人を食べたからではない。どれが美味しかったという点でだ。それについて台湾大学の教授が人肉と牛肉と豚肉のいずれが、より栄養価が高くうまいかを新聞紙上でコメントした。このことは如実に中国の社会常識として現在でも人肉は食用たりうることを物語っている。(封神演義    安能   務氏より)

つまり中国にとって人間を食べるという行為は飢餓をしのぐのためではなく、食文化の一つなのだ。

さらに別のブログから引用。

我が国と違い、支那人は人間を食う。それは、生死がかかった飢餓のときだけではなく、平時にも行われ、すでに支那民族としての食文化といっていい歴史を持っている。毛沢東という史上最大の人殺しがやった愚行のひとつである「文化大革命」の時にも、多くの支那人が食べられた。支那の食人の歴史は長い。食人が公然たるひとつの食文化として存在し続け、食用人間の養殖までしていた。食人は支那の正史である「史記」に、堂々と記載されている。そんな程度の支那でも自国の歴史を誇っている。
  支那における食人の歴史について、多くの本に掲載されています。私の手元にも、「食人宴席」(鄭羲   黄文雄訳   光文社   一九九三年)、「中国食人史」(太田龍   雷韻出版   二〇〇三年)、「中国四〇〇〇年   弱肉強食の法則   驚異の繁殖力の秘密」(徳田隆   講談社二〇〇四年)、「日本人が知らない中国『魔性国家』の正体」(黄文雄   成甲書房   二〇〇八年)、「戦争の歴史   日本と中国」(黄文雄   WAC   二〇〇七年)等に支那人の食人についての記述があります。
食人についての記述は少ないですが、虐殺についての記述では「中国大虐殺史   なぜ中国人は人殺しが好きなのか」(石平   ビジネス社   2007年)があります。この石氏の著書と他の著書を合わせて読むと、虐殺された民衆がどのように処理されたかよく理解できます。
  我が国の腐れテレビ局もどうせ、支那特集を放送するなら、こういった支那人の本質を報道して欲しいものですが、報道する事はない。
  それらの本には、下記のような食人についての記述があります。
文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には。
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
  もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字をの形で霧、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇

ちなみに、中国人が日本人を殺して心臓を抉り出して食べた事件が「南京事件のトピック」に書いてある。

中国は多民族の寄せ集めの国

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/15 00:06 投稿番号: [8061 / 8458]
よく「中国4000年の歴史」と言うが、それは世界史上最大のウソである。実際の歴史は秦の始皇帝から2000年程度、しかも「中国」という巨大な国がずっと存在したわけでも、「中国人」がずっと存在したわけでもない。
「中国」なる名称自体20世紀に作られたものであり、歴史用語的には「シナ」と呼んだほうが正確なのだ。「シナ」は「CHINA」と同じく最初の王朝「秦」が語源で差別語でもなんでもない。アメリカ人が「チャイナ」と言っても怒らないのに、日本人が「シナ」と言って怒るのは要するに日本人を差別しているからである。
シナには今も言語も文化も全く違う56もの民族が存在する。今の「中華人民共和国」は漢族の天下だが、漢族が天下を取った時期はシナ2000年の歴史の4分の1しかない。シナの歴史は、匈奴、鮮卑、契丹、突厥、ウイグル、モンゴル、満州(女真)・・・と様々な民族による全く異なる王朝の出現、滅亡、戦乱の繰り返しで歴史に連続性がない。
6〜10世紀の「隋」「唐」は鮮卑人というトルコ系の遊牧民族、13〜14世紀の「元」はモンゴル民族の王朝だった。複数の王朝が並立した時代も多く「天下」はあっても「国家」はない。そして王朝が変わる度に領土の範囲も全く異なった。王朝が変わると、前の文化をことごとく破壊しつくし、数千万の単位で人口が激減した。
シナ大陸の「隋」「唐」「元」「清」という王朝の変化は、日本の「奈良」「平安」「鎌倉」「室町」というのとは全く違うのだ。同民族の政権交代ではないのである。
日本人はこのことを知らない。

Re: 東京裁判史観とは

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/02/14 12:21 投稿番号: [8060 / 8458]
意見や考え方の相違があるのは仕方ないと思います。
でも、相手の方の意見や人格を尊重して意見の交換をしていただきたいと思います。
感情的になったり、相手の方に誹謗中傷と受け止められるような書き込みはお慎みください。
誹謗中傷の定義を、「相手の方にそのように受け止められた場合」と明記したいと思います。ご本人はそのつもりでなくても、相手の方を傷つけた場合は、結果責任が生じると考えるからです。

エジプトを見習え!

投稿者: proofbygonejapan 投稿日時: 2011/02/13 15:26 投稿番号: [8059 / 8458]
中国もそろそろエジプトを見習ったらどうかね。中国共産党に戦々恐々としながら、その鬱憤を外で解消しようとする。本質から逃げている臆病者でしかない。

反日は一党独裁共産党からのお墨付き、愛国無罪など最大限の無知。これだけネットが使えれば歴史の真実を追求できるはずだ。逃げるな、戦え!

東京裁判史観とは

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/13 01:39 投稿番号: [8058 / 8458]
いくつかの本から「東京裁判史観」の定義を引用すると、

(東京裁判の)裁判所の下した判決の内容はすべて正しく、満州事変にはじまり、大東亜戦争に終わった、日本が関係した各種事件、事変、戦争は、すべて日本が東アジアおよび南方諸地域を略取し、支配しようとした、被告たちの共同謀議に基づく侵略戦争であって、戦前、戦中の日本のなした各種行為、行動はすべて「悪」であった。
日本が支那を侵略したために、太平洋戦争に突入したなどという歴史観。まさにアメリカの占領政策によって植えつけられた誤った史観。自己否定、卑屈、盲従、無定見をもたらす精神構造のこと。今最大の問題となっている日本人の精神の荒廃は、東京裁判で始まっているといえる。
昭和3(1928)年以降の日本国の対外政策・外交方針は一口に言って侵略的であり、道義にもとるものである。武力行使を発動したときには、常に国際法で言うところの戦争犯罪を伴っていた。

この史観を信奉する日本人は以下の二つのタイプに分類できる

この東京裁判史観信奉の立場に立ってものを言い、あるいは文章を書くほうが、自己の保身のため、あるいは処世術として自分にとって有利であり、好都合であるという風に考えて、この史観信奉の立場に立つ輩、すなわち、いわゆる進歩的文化人、一部の学者、評論家、作家、マスコミ

東京裁判についてはほとんど何も知らないけど、有名な学者や評論家たちが、あの判決は正しいと言っているから、きっと正しいに違いないと考えて、判決内容をそのまま信じ、その結果、東京裁判史観信奉の立場に立つ一般人

反日日本人、自虐史観派は「教科書で特定の政治勢力や宗教を攻撃したり、他民族を蔑視したりしてはいけない。ナショナリズムやイデオロギーを強調してはいけない」などと主張しているが、彼らは国粋的な支那や朝鮮の教科書は絶対に批判しない。こいつらは要するに支那や朝鮮の工作員と同じことをやっているというだけの話なのである。

ちなみに、支那や朝鮮では自虐史観を持つ学者は少なくとも社会的には存在しない。そんなことをすれば殺されるからである。日本は恵まれた国である。

この東京裁判史観は、日本の初等・中等教育における教育方針、教科書の編集、記述方針を完全に支配してしまった。この史観が教育界を支配してしまったのは昭和24、5年の頃で、日教組が教育界を支配していった趨勢とほぼ並行している。教科書作成のガイドラインである「学習指導要領」という文書が、日教組の巧妙な浸透によって彼らの思い通りに策定されるという形でこの勢いが進行してしまった。

この史観には講座派史観が取り入れられている。いずれも「自虐史観」の典型である。

自虐史観
講座派史観
階級闘争史観

戦後、日本人の考え方、あるいは歴史観を歪曲した最大の原因として「東京裁判」とその判決文に示された日本悪玉論があった。判決書の中で最後に主文が書いてあり、大誰を絞首刑にするなどと書いてある。その前にその理由が書いてあり、そこに連合国側に都合のよい歴史観が書いてある。日本はかくかくの悪いことばかりした。たとえば、南京大虐殺など、と。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/02/12 20:08 投稿番号: [8057 / 8458]
2011年2月7日、ラジオ局・中国之声の番組「新聞晩高峰」は、安徽省阜陽市太和県宮小村周辺に、誘拐された子どもを集め物ごいを強要する大規模な拠点があると報じた。
この地が「物ごい」の拠点になったのは十数年前のこと。1人の障害者が物ごいで裕福になったことがきっかけだった。周囲の村人たちは物ごいこそ貧困を脱出する道だとばかりにこぞって物ごいをするようになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=49142&type=1

謝罪しる   賠償しる   の原点は中国にあったんだねw

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/02/12 15:25 投稿番号: [8056 / 8458]
船長への賠償請求を拒否、中国外務省
  【北京=関泰晴】中国外務省の馬朝旭報道局長は12日、沖縄県・尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件で、第11管区海上保安本部(那覇市)が事件を起こした中国人船長(不起訴)に対し、損傷した巡視船2隻の修理費などの損害賠償を請求したことについて、「日本は事件での行動を深く反省するべきで、賠償要求を提起する権利はない」と拒否する談話を発表した。(読売新聞)

中国民衆を虫けらのように殺した中国軍

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/12 12:47 投稿番号: [8055 / 8458]
他のブログのコピー。

  中国軍と、日本軍の間には、大きな質的差異がありました。それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
  中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。梁啓超は、中国の民衆を「戮民」(りくみん   殺戮される民)と呼んでいます。
  たとえば、「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、一九三八年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となりました。
  しかも、それだけでは終わりませんでした。この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、
  「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
  と報じています。中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。しかし中国側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。
  この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。
  堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
  こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。いや、共産軍はもっとひどいものでした。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
  中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
  ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。
  日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。
  むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。督戦隊とは、後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。
  つまり中国兵が中国兵を殺したのです。中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。
  また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。
  日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。

史上最悪の内戦国家だった中国

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/12 04:00 投稿番号: [8054 / 8458]
あるブログより引用。

  かつて日本は、第二次世界大戦時に、「大東亜戦争」(アメリカはこれを太平洋戦争と呼ぶ)を戦いました。東亜とは東アジアのことです。日本は東アジアを舞台に、中国、アメリカ、イギリス、その他西欧諸国の連合軍と戦いました。
  しかし、なぜ日本はこの戦争をしなければならなかったのでしょうか。好きこのんで戦争をしたのでしょうか。いいえ、そうではありません。日本はやむなく、この戦争を戦わざるを得なかったのです。
  大東亜戦争の発端はと言えば、中国です。日本と中国は「日中戦争」(支那事変)を交えました。
  さらに日本は、アメリカとも「日米戦争」を交えます。しかし日米戦争は、中国をめぐる日米対立が原因でしたから、日米戦争は日中戦争から始まったものです。また日本が、そののちイギリスその他の西欧諸国と戦ったのも、もとはといえば中国での戦争が発端でした。
  ですから、もし日中戦争がなかったら、日米戦争も、日英戦争もなかったでしょう。そして大東亜戦争自体が、なかったに違いないのです。
  このように大東亜戦争の発端は、中国でした。すべてはそこが開始点です。なぜ日本は、中国で戦争に巻き込まれたのでしょうか。日本は、中国大陸をわがものにしようと出ていったのでしょうか。
  そうではありません。日本はむしろ、中国の「内戦のわな」に、はまっていったのです。

史上最悪の内戦国家だった中国

  「日本は中国を侵略した」ということがよく言われてきました。中国人がそう叫び、日本国内にいる反日的日本人もそう叫んできました。それが「正しい歴史認識だ」と。しかし史実をみるなら、決してそうではありません。
  日本が中国に進出したのは、もともと中国の内戦に巻き込まれた、というのが実情です。しかし日本は、それでも中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を止め、中国を救おうと奔走しました。中国が共産主義国家になるのを防ごうとし、また欧米の侵略や搾取にあわない自立した民主的国家がそこに誕生するのを手助けしようとしたのです。
  それは中国に安定と秩序をもたらすための人道的、道義的介入でした。
  人々の中には、日本があたかも「平和な中国」に乗り込んでいって戦争を仕掛けたかのように、思っている人もいます。しかし、当時の中国はひどい混迷と分裂の状態にあり、内乱と騒乱にあけくれる史上最悪の内戦国家でした。
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