ビックリ台湾!?
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Re: ビックリ台湾!?
投稿者: mrt952006 投稿日時: 2009/01/21 12:22 投稿番号: [1769 / 3149]
今回のいわゆる「禁煙法」は、平和ボケしている日本からの喫煙者には、我慢が出来ないようですね。
某サイトでは、この話が持ちっきりです。世話が焼けます・・・。
これは メッセージ 1 (bikkuri_taiwan さん)への返信です.
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Re: 就学率
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/17 15:32 投稿番号: [1768 / 3149]
三義の小学校校庭でおこなわれた結婚式の披露宴に参加したとき、無人の校舎に「侵入」して教室を見回ったことがある。無人だから授業参観とはいかないが、壁の様々な張り紙から台湾の教育の一端は窺い知ることができた。数名の「優等生」と「不良生徒」の実名がその理由とともに書き込まれた張り紙があったのには驚かされた。これは日本にはない「制度」だが、外国のことだから批評は避けよう。台湾の教育水準は世界的にも高く、それが繁栄する台湾の基礎にもなっているのだが、この反作用として弊害著しいアジア的学歴社会を作り上げているのも事実である。
日本はすでに受験生より「定員」の方が多い大学過剰状態になっていて、この時期の電車の車内は名も知れない私大の広告で溢れている。小学校の国語の教科書が読めれば合格まちがいなしの「大学」はいくらでもあって、卒業した大学名を口にしない人がいるのも情けない。
これは メッセージ 1767 (heitotakaohonor さん)への返信です.
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Re: 就学率
投稿者: heitotakaohonor 投稿日時: 2009/01/16 05:49 投稿番号: [1767 / 3149]
unhoo様:
昭和19年3月、戦争たけなわの時期の本島人師弟の初等教育の就学率は
71.15%で、原住民のそれは83.38%となっています。アジアで
この率は内地を除いて第二の高い就学率をもっていました。ただ本島人の
学生は放課後遊べなくて、直ぐ家に帰り、農業などの手助けをやりました。
3年間本島人の師弟が放課後、田畑で仕事をしているのを頻繁にみたものです。ところが、昭和20年4月に勤労奉仕や中等学校学生で軍隊兵舎の中
で多くの本島人同期と会うことになり、24時間一緒に過ごしたので、同じ
境遇になりましたね。私は古い木製の小学校校舎と比較して二つの公学校
の校舎が新しく近代的で広いのが羨ましい限りでありました(鳳山西公学校と大東国民学校、ともに本島人専門校)。
これは メッセージ 1758 (unhoo さん)への返信です.
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Re: 踊子
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/11 21:57 投稿番号: [1766 / 3149]
戦後、この川端作品は当代の人気少女が抜擢され、美空ひばり、吉永小百合、山口百恵などが「踊子」を演じている。もう30年も前になるが、香港の映画館で内藤洋子の「伊豆の踊子」を上映していた。わたしは、この旅芸人の踊子と学生の淡い恋という、それも伊豆の山々や温泉地を舞台にした日本的情緒満点の映画に香港の若い人がどんな反応を示すだろうか、と興味を持ち、入場しようとしたが上映中ということで切符を売ってくれなかった。日本ならどんなに混んでいても平気で切符を売るが、おそらく日本の方が例外なのだろう。
「伊豆の踊子」はもう映画化されることはあるまい。この平成の御代には「日本的情緒」など、どこを探してもない。
これは メッセージ 1765 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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踊子
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/10 20:22 投稿番号: [1765 / 3149]
これは メッセージ 1764 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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Re: 「学生さん」が調子を出しすぎ
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/10 20:12 投稿番号: [1764 / 3149]
これは メッセージ 1762 (unhoo さん)への返信です.
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Re: 幻の皇民化教育
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/10 13:28 投稿番号: [1763 / 3149]
なんじゃらほい。『小林総督も黄さんも今は亡い。だからわしだけしか知らないこの秘話を公開するのである』などとマジ(「まじめな話」という意味の俗語)で締め括られては、まさか冗談とは思えず、露ほども疑いませんでした。「高橋、これ着よ」の報復を受けましたかね。ただ、戦時中は特高も「マジ」で張り切っていたと思いますから、「前総督の殺害計画」なるものを聞き出したら何十人もの拘引者が出て、白状するまで凄惨な拷問が続き、到底、「冗談」では済まなかったでありましょう。
子供の頃、住んでいた家の近くに、髭を生やして偉そうにしていた老人がいました。実際、いかにも恐そうでしが、近所の人が「あの人は特高だったんだよ」と言っていたのを思い出しました。あんなのに捕まったら生きた心地もしなかろうと思うような雰囲気がありましたね。
蒋介石とその手下が支配していた頃の台湾にも恐ろしい「特別警察」があったと思いますが、これを一掃して今日の民主台湾を切り開いた李登輝さんは立派でした。わたしの初訪台はまだ戒厳令下で、町中に政治スローガンを書いた立て看板などがあり、それらを8ミリ映写機で撮影した記憶があります。
民主化が実現した現在の台湾では、馬政権になっても当面は「台独人士」が不当に弾圧されるようなことはないでしょうが、この「親中政権」に対しては中国が硬軟両用の様々な政治干渉をしてくることでしょう。台湾の指導者はやはり台湾人のほうがすっきりしていていいと思いますが、前総統はあまりにも力不足で政治家としての能力に欠けていたようです。
これは メッセージ 1760 (unhoo さん)への返信です.
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「学生さん」が調子を出しすぎ
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/08 18:09 投稿番号: [1762 / 3149]
tokyo_cachito3 さん
小林総督暗殺計画は冗談ですよ。
川端康成の『伊豆の踊り子』では、主人公の旧制高等学校の学生が、どこへ行っても学生さん、学生さんと尊敬されていますね。大正や昭和の初期では実際にそうだったのです。で、「学生さん」の一人である黄先輩は、恭しく別れの挨拶に来た後輩の凡才君に、初めは先輩として激励の言葉を述べていたが、だんだん調子を出しすぎて、あんなことを言ってしまった。それを凡才君は本当だと思って、泡を吹いてしまった。
しかしいくら凡才でも、三、四日後には落ち着きが出て、笑ってしまったでしょう。
何十年もたって、わしが黄先輩に出会ったとき、あんな大法螺を昔吹いたことを覚えているか知りたくて、質問してみたのです。そしたらちゃんと覚えていて、ぺしゃんこになって恥じ入りました。
今頃tokyo_cachito さんが記者会を開いて、「知られざる大東亜戦争秘話」を尾ひれをつけてとうとうと演説してるんじゃないかと心配です。
なお、台湾のために特別に編成された皇民化教育は存在しなかった、実際は日本国内の国民教育にだんだん近づいただけだのだとわしは主張します。「皇民化教育」は実在せず、幻にすぎないとわしは申すのであります。
これは メッセージ 1761 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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Re: 幻の皇民化教育
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/07 22:58 投稿番号: [1761 / 3149]
驚くべきお話です。これぞまさに、長く続いた「ビックリ台湾!? 」の嚆矢でありましょう。昭和17年の三月ならば「大東亜戦争」も勝ち戦の真っ只中で、シンガポールも陥落して「勝った、勝った」の興奮状態の最中です。
台湾も戦時の緊張はあったでしょうが、不穏な動きもなく、内政は安定し、「南進」の基地としてなんの問題もなかったと思っていました。しかし、台湾の青年のなかには「皇民化」に憤り、その「下手人」である前総督を殺害せんとする動きがあったのですか!
unhoo先生も強圧的な皇民化に憤る同世代の台湾青年たちの心情は理解できたのではないでしょうか。
しかし、その黄さんも内地に勉強に行こうとする後輩に「君たちに任せる、しっかりやれよ」はちょっと無責任な気がします。
植民地統治など所詮は支配と被支配の関係で、支配されるほうは面従腹背、いずれ支配者は出て行くというのが歴史の真実でした。
これは メッセージ 1760 (unhoo さん)への返信です.
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幻の皇民化教育
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/07 21:39 投稿番号: [1760 / 3149]
小林躋造総督(任期:昭和11年9月2日〜15年11月27日)は皇民化教育を強行したと言われ、彼自身も皇民化教育を大いにやったつもりでいた。今でも日本人も台湾人も、小林総督は皇民化教育というワルイことをやったと言っている。
そこで皇民化教育の内容はと調べてみると、明治以来日本の政府が日本国民に対して行った教育と同じだとしか思えない。日本政府が日本国民に対して行った教育は、すべて皇民化教育であった。日本政府には皇民化教育でない教育哲学はなかった。皇民化教育でない教育を行う人材もなかった。ただ日本国内では皇民化教育という言葉が発生しなかっただけだ。
小林総督は台湾でこれまでよりももっと日本国内の教育に近い教育を行っただけなのに、自分では特別な教育をやったのだと思い込んで、皇民化教育という言葉を発明して得意になっていた。やがて小林は皇民化教育をやりすぎて島民の反感を買っているという声が内地の政界に起こり、総督が長谷川清という海軍大将に変えられた。ちなみに、小林総督も海軍大将であった。
後を受けた長谷川総督の教育政策は、皇民化という言葉をあまり出さないことにしただけだけなのだが、本島人は今度の総督のほうがいいと言い出した。
小林総督は、「皇民化教育」をやったために、一度暗殺の危機に遭遇した。そのいきさつはこうだ。昭和17年の三月のある晩、旧制中学を卒業したばかりの本島人友人がわしを尋ねてきて「俺は学力不足で、台湾の上級学校に受かる自信がないから、内地の受かりやすい学校へ申し込んだ。君とはこれでお別れだ。また会うのは何年先かわからない。お元気で・・・」。ところが一時間後に彼は真夜中の拙宅の門を叩いた。非常に慌てた様子で、馬のように口から泡を吹いていた。「君と別れてから、先輩の台北高校3年の黄さんに別れの挨拶に行ったんだ。そしたら黄さんが言うには、お前内地へ行ったら小林躋造を暗殺せいと言うのだ。あいつは歴代の総督のうちでいちばん酷いことをしたんだ。俺たちの仲間はずっと前からあいつを暗殺しようとしていたが、台湾では警戒が厳しく隙がなかった。内地なら警戒がないから、君たちに任せる。しっかりやれよ・・・と言われた。内地行きの船は明日の午前基隆出帆だから、さよなら」と後も見ずに立ち去った。
黄さんから重大使命を負わされたわが友は、日本の受かりやすい学校にも受からず、東京で一年浪人することになった。東京の冬が来て、彼は馴れぬ寒さのため、肝炎でで他界した。
戦後三、四十年もたった。わしは黄さんとは親しくなかったが、学生時代は顔見知りであった。ある席で黄さんに会った。機会を捉えて「戦争中東京で亡くなった友人は、日本へ行く前に、あなたから小林総督暗殺を命ぜられたと言いましたよ」と言った。黄さんはぺしゃんこになって、人差し指で自分の頭をさして、くるくる回した。これは台湾では自分の阿呆を認めた時のしぐさである。小林総督も黄さんも今は亡い。だからわしだけしか知らないこの秘話を公開するのである。
これは メッセージ 1759 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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Re: 就学率
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/07 09:16 投稿番号: [1759 / 3149]
明治42年=1909年の台湾における「公学校」の就学率は僅か5.54%に過ぎず、しかも女子の場合はその三分の一程度とされるので、僅々2%に満たない女子にしか教育が施されませんでした。同時期の内地の就学率は凡そ40%ですから、これはやはり植民地の台湾人に対しては、少なくとも明治期には初等教育すら考慮されなかったことになります。
わたしは台湾の老夫妻の夫の方が流暢な日本語を話し、その太太は殆ど話せなかった例をいくつか知っていますが、その理由についてはこれで氷解しました。つまり彼女達は就学せず、日本語教育を受けていなかったのです。
昭和も二桁になって戦争の時代になると「皇民化」政策により、初等教育も急速に整備、普及していきました。
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2003/0308/ronbun1-2.html
これは メッセージ 1758 (unhoo さん)への返信です.
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就学率
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/07 01:58 投稿番号: [1758 / 3149]
tokyo_cachito3 様
>戦前の小学校の就学率は内地でも平均八割程度ではなかったかと記憶していますが、
↑お説で一切が合点。わしの母は「入学命令に従わないと、警察に引っ張られてしまう」と言ったように記憶していますが、なにしろ七十数年前、わしが小学二、三年のことで、記憶がぼけています。母はそのとき冗談を言ったのかも知れません。
もし冗談でなかったなら、次のように考えられます。母の実家があった田舎町は、昔は農産物の集散地として、地の利を得ていました。母の実家は農産物一般の大卸商と米穀商および精米業もやっていました。すなわちその町では資産家でした。町役場では資産家の子は是非とも入学させようときめたのでしょう。
昭和になっても貧乏人の子は、入学できないなら、ほったらかしたのでしょう。だから高雄には学校に行かない女の子がグループを作って、物拾いをするという現象が発生したのでしょう。グループごとに十五歳ぐらいのリーダーがいました。統率力がよいようでした。郊外の田畑で刈り入れがあると、落穂拾いに行ったようです。
これは メッセージ 1757 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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Re: 小学校と公学校(8)完
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/06 16:40 投稿番号: [1757 / 3149]
unhoo先生
「小学校と公学校」のお話をありがとうございました。戦前の小学校の就学率は内地でも平均八割程度ではなかったかと記憶していますが、台湾ではさらに低かったものと推測します。これについては近いうちに検索して調べたいと思います。
これは メッセージ 1756 (unhoo さん)への返信です.
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小学校と公学校(8)完
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/06 16:06 投稿番号: [1756 / 3149]
わしの母は明治35年生まれで、実家は小さな田舎町にあった。学齢に達したときに町役場からの命令で公学校に入学したのだと母は記憶していた。その命令がなかったら母は4人の姉たちのように終生無学に終わったかも知れない。母が公学校に入学した年代は、計算では明治41年か42年のはず。台湾内部の武力抗争が静まった年は明治38年だから、それからから僅か3年か4年後には、町役場から学齢児童のある家に、子どもを入学させよと命令が来るようになったのだ。
しかしわしの記憶のなかには、矛盾した事実がある。昭和一桁時代、わしが小学生だった時代だが、高雄には貧乏人の女の子のグループ(数人から十数人)がいくつもあって、学校へ行かずに終日町をうろついて物拾いをやっていた。年齢はちょうど公学校に在学していなければならない年齢。この娘たちだって学齢に達したときには役場から入学命令があったはずだが、どうしたことだろ。
日本統治時代の台湾の小学校は、学費免除ではなくて、月謝25銭と保護者会費25銭を徴収した。同じ学校に二人以上の子弟を通学させている家庭は、保護者会費を一人分だけ払えばよかった。公学校のほうはどうか?多分小学校と同じだろう。まさか小学校の2倍、3倍取り立てるなんてことはないだろう。
内地人の子が公学校に入学することもあったのだそうだ。親御さんが公務員で、勤務地の田舎には通学できる距離範囲に小学校がないため、公学校に入学する。友達はみな本島人だから、その子の台湾語は、筋金入りの本物になるとのこと。
これは メッセージ 1755 (unhoo さん)への返信です.
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↓小学校と公学校(7) への訂正
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/05 14:13 投稿番号: [1755 / 3149]
レスの始まりのところ、
台湾人のために、「公学校」を設立したのは正しい。公学校の学童は一学生のとき・・・・・
一学生
誤り
一年生
と訂正
これは メッセージ 1753 (unhoo さん)への返信です.
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小学校と公学校(7)
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/05 06:20 投稿番号: [1753 / 3149]
>戦前の台湾では、内地人が「小学校」、台湾人の子弟が「公学校」と分けられていましたが、そもそも、これは植民地的差別意識からそう定められたのでしょうか。
台湾人のために、「公学校」を設立したのは正しい。公学校の学童は一学生のとき日本語の手ほどぎで大部分の時間を費やし、その上台湾人の親たちの希望で「漢文」という科目も勉強させられたから、小学校の学童よりもきつかった。しかし日本の政府が台湾の子どもに教育を与えるにはそれ以外の方法がなかった。この方法で台湾人の子どもに教育を与えるか、若しくは教育の責任を放棄するか二者択一なのであった。
公学校学童は、小学校学童よりもきついコースを頑張ったけれども、公学校六年生の学力は小学校六年生に及ばなかったことは事実である。中学校の入学試験で本島人が差別されたという説を、わしは信じない。公学校尋常科六年を卒業し、さらに公学校高等科二年を卒業して、やっと小学校六年生程度の「日本的学問の学力」に到達するのである。日本時代の公学校の学童は、六年生卒業で中学校の入学試験が受からなくても平気な顔をしていた。翌年高等一年で不合格になったときは、すこし悲しそうだった。さらに一年、公学校高等科二年を卒業しても、中学校の入学試験に受からなかったときは悲嘆に暮れた。子を愛する親は、借金してでもその子を内地(日本)の中学校に送った。入学試験なしなのかどうか知らないが、寛大に台湾人の子弟を容納する中学校が東京や京都にあった。辛うじて中学校の制服が着られる身となり、戦後エライ人になった例がある。
台湾人の子どもでも、学齢前すでに内地人の子どもと友達になれるほどに日本語ができた者は、小学校に入学しても何の苦労もなかった。わしとわしの姉(一歳年上)がその例である。二人とも幼少のときから台湾語と日本語のバイリンガルであった。しかし日本語は内地人の子よりへたで、台湾語は台湾人の子よりへただった。
公学校の学童で、非常に順調に進学した特例をわしは知っている。わしよりも二歳年上の人で、公学校尋常科六年からすぐ旧制中学校に受かり、中学四年で台北高等学校に受かり、高等学校を出るとすぐ京都帝大の法学部に入学した。そのときは戦争たけなわだったから、卒業までがんばったかどうかは知らない。その秀才は何故か戦後台湾の社会では特に目覚しい活躍は見られなかった。人の世は複雑なものだ。
日本が台湾でおこなった教育は、それでOKだったとわしは認める。公学校を設立したのは正しい。小学校しかなかったら、台湾人の子どもの半数は途中で落伍したであろう。
「小学校と公学校」未完
これは メッセージ 1740 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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「小学校と公学校」は未完です
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/04 21:52 投稿番号: [1752 / 3149]
まだ書きたいことがありますが、今日はちょっと疲労感のためベッドで休息。病気ではありません。室内温度24℃で寝るに好適。
これは メッセージ 1751 (unhoo さん)への返信です.
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小学校と公学校(6)
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/04 13:18 投稿番号: [1751 / 3149]
>先生が「小学校」にお入りになったのはどういう理由だったのか、差し支えなければ教えてください。
昭和5年の3月末だったか4月初めだったか、父が「お前は今日から小学生だ」と言って連れて行った学校が自宅から歩いて5分の高雄第一尋常高等小学校だったのです。その1年前には1歳年上の姉がその学校に入学しました。
戦後人々が言うには、本島人が子どもを小学校に入学させるには、親が有力者でなければならなかったと。しかしわしの父は会社員で、中産階級で、有力者とは言い難い。強いて有利な点を挙げると、当時の日本の大財閥が経営していた大会社の正社員だったことです。同じ学校の「共学生」(小学校の中の本島人学童の法定呼称)の親には金持ちの医者や大商人などの有力者もいましたが、下級役所の下っ端官吏のような無力者もいました。
これは メッセージ 1740 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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Re: 小学校と公学校(3)への追加
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/04 12:57 投稿番号: [1750 / 3149]
unhoo先生
面倒な質問でしたがご丁寧なご回答をいただき有難うございます。日本統治時代の台湾でも時代により「武断」、「文治」等の変遷があったことは本などで知ってはいますが、両者の日常の関係はどうだったのだろうかという疑問がありました。先生のお教えにより「小学生」については理解できました。
これは メッセージ 1749 (unhoo さん)への返信です.
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小学校と公学校(3)への追加
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/04 11:48 投稿番号: [1749 / 3149]
明治28年からの十年間は台湾人が武力反抗を続けていた期間で、そのとき台湾人の大人が日本人を殴ったら日本への反抗と見なされたかも知れないが、大正、昭和時代の子どもの喧嘩で、警察が内地人の子に加担することは考えられません。喧嘩の現場を通りかかったら、先ず仲裁するのが警察の職務です。どちらかが酷く怪我していたら、警察の勤務規定に従って、病院までつれて行くとか、その子の家まで送るとかするでしょう。
清朝時代から台湾はしょっちゅう反乱が起こり、反乱集団はたやすく人数がが増えました。仕事がなくて食えない者が多かったからです。人数が速やかに増えると首領の自信が膨れ上がって、台湾皇帝になることを夢見るようになります。李鴻章は台湾を伊藤博文に引き渡すとき「台湾は三年一小乱、五年一大乱の地だよ」と憎まれ口を叩いたものです。台湾統治の最初の十年間に相続いて発生した武力反抗のなかには、台湾皇帝を夢見る者の反乱がたまたま民族主義反抗の外観を帯びたのもあったんじゃないかと考えられます。
「小学校と公学校」未完。
これは メッセージ 1746 (unhoo さん)への返信です.
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小学校と公学校(5)
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/04 04:18 投稿番号: [1748 / 3149]
>小学校に入った台湾の子は逆に他の台湾の子に白い目で見られるようなことがありましたか。
答。小学校にはいったために、公学校の子と付き合う機会がなく、公学校の子が共学生(小学校に入った本島人児童の公式名称)をどんな目で見ていたかは知る由もありません。
近所に学齢に至らない子どもを持った本島人夫婦がいて、「うちの子も小学校に入れたいから、うちの子と話をするときは国語で話してね」と、しょっちゅうたのまれました。
書いているうちに、別の本島人一家のことを思い出しました。その一家は何故か内地人に反感を抱いていたので、その家の子(わしより2歳ぐらい年上)も内地人に反感を抱き、わしにも反感を向けました。ところで反感や友情はお互い様なので、近所の内地人もあの一家に原因不明の反感を抱いていたようです。本島人一家が先だか、内地人連中が先だか、知る由もありません。
そんな特例はあったが、親戚の公学校の子からは日本語が自由に話せることで敬意と羨望の目で見られました。現今の台湾や日本で、英語がぺらぺらの子があったら、同級生から尊敬、羨望されると思いますが、それと同じようなものです。
____________________
(4)まで書いて、これで寝ようと一度はベッドに上がったのですが、どうも眠れない。昼寝しすぎたためです。ガバッと飛び起きてこの(5)を書きました。
「小学校と公学校」未完。
これは メッセージ 1740 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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小学校と公学校(4)
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/04 01:23 投稿番号: [1747 / 3149]
>また、小学校と公学校の児童が対立して、集団で喧嘩をするようなことがあったでしょうか。その場合、その力関係はどうだったでしょうか。
わしの一小(第一小学校)の生徒は二小(第二小学校)の生徒と対立気味であったが、それは単にスポーツで高雄市の覇権を争う間柄だったからです。第一、第二、第三公学校は弱くて一小、二小の敵でなかったから、対立気分は発生しなかった。
仮に一小の生徒と一公(第一公学校)の生徒が集団で喧嘩を始めたとしたら、考えられることは、一小の先生が一小の生徒を叱りつけ、一公の先生は一公の生徒を叱りつけて鎮圧したでしょう。
以下はまた後に。
これは メッセージ 1740 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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小学校と公学校(3)
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/04 00:52 投稿番号: [1746 / 3149]
>たとえば、台湾人の子が内地人を殴ったりしたら警察沙汰になり、その逆は「お咎めなし」というようなことがありましたか。
答。それも考えられないことです。
これは メッセージ 1740 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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小学校と小学校(2)
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/04 00:31 投稿番号: [1745 / 3149]
>内地人の子は固まってグループを作り、台湾人の子とは付き合わないといったことはあったでしょうか
答。わしの小学校ではそれは皆無でした。同じ学校に学んでいるという仲間意識がつよかった。
これは メッセージ 1740 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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小学校と公学校(1)
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/01/03 21:06 投稿番号: [1744 / 3149]
tokyo_cachito3 様
メッセージ1740番のなかのご質問に答えることはなかなか難しいですよ。さしあたり、はっきりした答えの書けるものから解決して行きましょう。
>先生の場合、小学校でいじめや不当な差別というものがたとえ僅かでもありましたか。
答。わしの高雄第一尋常高等小学校ではそんなことは絶対になかった。わしの一歳年上の姉が同じ学校で一学年上でしたが、そんなことを話したことはありません。しかるにわしが中学生になってから知り合いになった本島人の小学生が言うには、先生が僕を叱るときにはいつもチャンコロ、チャンコロと言う、内地人の子を叱るときは・・・・・・(もう思い出せないが、チャンちゃん坊主というような言葉)とのことです。しかし本島人なるがため特に多く叱られたとは言っていなかった。その話をしていたときに、師範学校卒で、田舎の公学校で十年近く教えたわしの叔父がちょうど来ていて「君の小学校にそんな人が先生になっているのか」と慨嘆しました。「君の小学校」は台北樺山小学校で、台湾第一の名門小学校でした。
これは メッセージ 1740 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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Re: 霧社事件
投稿者: heitotakaohonor 投稿日時: 2009/01/01 16:06 投稿番号: [1743 / 3149]
tokyo_cachito3様:
3年前でしたか台湾で映画化されてDVDを作ったのか見た方は多いはず。
地理的に入手できなかったが、紹介してくれたトピの中でみました。
断片的なものですが、割に公平に描かれていました。勿論主人公は
モーナル・ダオが英雄でありましたね。結局明治政府の重鎮がいまどきの
天下りで台湾総督府に来てインフラあたりに思いきりの予算をとれたが、
末端の自治政府には金欠となり、奉仕をしいたわけです。其処へ習慣の
違いもあり、言語の通話もまずく、暴発したわけですね。定国議会の
台湾総督府向けの予算は精一杯であったそうです。末端の警官は一人
5役ばかりをこなして、尚薄給であったが台湾語に習熟して、かなり
原住民との交流も深い部落もおおかったそうです。今も同じで、天下り
が膨大な給料と退職金をのっとり、県知事や総督府高官は任命制でありましたから癒着もあったですね。一概に末端をけなすことが出来ない情勢で
ありましたよ。
これは メッセージ 1742 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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Re: 霧社事件
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/01 11:22 投稿番号: [1742 / 3149]
霧社事件を台湾の「抗日史」として映画化する試みはあるのだろうか。だが、これは制作者と監督にとっては至難の業になるだろう。強制的な木材の伐り出しと人力による運搬、過酷な中間搾取、屈辱的な差別と蔑視、さらには事件後の呵責のない報復と殺戮を描くのは容易いだろうが、事件の発端となる「蜂起」をどう再現するのかという重苦しい課題がある。制作者のシナリオとして運動会の場面は避け、交番の襲撃だけを華々しく取り上げる事も出来なくはなかろうが、それではあまりにも一方的なプロパガンダ映画との酷評は避けられない。さればとて、史実通りに運動会の開会式になだれ込み、猟銃を乱射し、「蛮」刀を振るって、子供たちとその父兄、教師を次々に斬首の血祭りに挙げる映像を克明に再現するなどは思いもよらないだろう。
モーナ・ルーダオは事件の数年前、「模範蕃社」の首領として総督府に「顕彰」され、さらには賓客として帝都に招待されて、地下鉄にも乗車している事実があるが、僅かな予算しかない台湾の「抗日」映画の制作者はそこまでは描き切れないだろう。ただ、ハリウッドのユダヤ人監督が「こいつはいける」と、中国や東南アジアの華人をマーケットにした、かなり大掛かりな映画に仕立て上げる可能性があるかも知れない。。。。
これは メッセージ 1731 (unhoo さん)への返信です.
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Re: 勅令;中華がやった霧社慰霊碑破壊行
投稿者: heitotakaohonor 投稿日時: 2009/01/01 09:30 投稿番号: [1741 / 3149]
urfraternity様:
日本軍部が霧社事件が勃発すると警官部隊だけでもよいのに、過剰反応
を出しすぎた憂いは十分ありますね。軍部は空爆、地上部隊、警官しまいに
ガス弾まで投下したそうです。そして残念なのは軍部と台中州が図った
原住民同士の殺し合いをやらせて、勃起派の首一個につき賞金を与えのは
やりすぎでありましたね。理蕃政策がどこかで無理があったんですね。
だが小さな子供を殺したのは許せない行為でありましたね。双方に残った
者は深い傷と不信用でありましたが、戦争に志願した原住民の数は霧社も
指折りの多数の青年たちでした。時代が変わると、教育も浸透すると、
民心もかわるものですね。戦争中は本島人も内地人もかわりませんでした。
同仁一視という便利な言葉が戦後できましたが、それですね。
これは メッセージ 1738 (urfraternity さん)への返信です.
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Re: 紅顔
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/01 02:23 投稿番号: [1740 / 3149]
わしの小学校は台湾高雄市第一小学校で、生徒は95%が内地人(日本人)だったが…
**************************
unhoo先生、明けましておめでとうございます。戦前の台湾では、内地人が「小学校」、台湾人の子弟が「公学校」と分けられていましたが、そもそも、これは植民地的差別意識からそう定められたのでしょうか。
先生が「小学校」にお入りになったのはどういう理由だったのか、差し支えなければ教えてください。
先生の場合、小学校でいじめや不当な差別というものがたとえ僅かでもありましたか。
小学校に入った台湾の子は逆に他の台湾の子に白い目で見られるようなことがありましたか。
また、小学校と公学校の児童が対立して、集団で喧嘩をするようなことがあったでしょうか。その場合、その力関係はどうだったでしょうか。
たとえば、台湾人の子が内地人を殴ったりしたら警察沙汰になり、その逆は「お咎めなし」というようなことがありましたか。
内地人の子は固まってグループを作り、台湾人の子とは付き合わないといったことはあったでしょうか。
これは メッセージ 1734 (unhoo さん)への返信です.
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Re: 紅顔
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/01/01 01:20 投稿番号: [1739 / 3149]
明けましておめでとうございます。
角川と旺文社の国語辞典によると「紅顔」とは「青少年の健康的で血色のよい顔」とあり、日本の北国の子供に見られる「赤い頬」とは意味が違うようです。ロシアのバイカル湖の東側に「ブリヤート自治共和国」があります。モンゴルの北方にあたりますが、この民族は調査の結果、日本の縄文人と遺伝子がきわめて近く、日本人のルーツという説が確定しつつあります。テレビで見る子供たちの頬は赤く、その顔は完全に日本の田舎の子と同じでした。「似ている」というレベルではなく、完全に同一と断定してもいいと思います。また、どういうわけか、ネパールの近くのブータンも日本人に近いといわれます。アジアの民族といっても国別で分けるのはまったく意味がなく、中国の北京と香港では顔も体もほとんど別人種のようです。朝鮮でも南北では差があり、わが日本も地域で差が認められます。
これは メッセージ 1735 (heitotakaohonor さん)への返信です.
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Re: 勅令;中華がやった霧社慰霊碑破壊行
投稿者: urfraternity 投稿日時: 2008/12/31 20:54 投稿番号: [1738 / 3149]
>霧社事件の精鋭部隊とありましたが、日本軍部隊の、
それとも原住民反乱グループの精鋭なのですかね?中華が英雄に祭り上げる
魂胆はここでも破綻しています。1930年10月の混合小学の運動会席上
になだれた反総督府体制派は内地人134人プラス二人の漢人を殺害しました。後この霧社に内地人の霧社事件死者の慰霊碑を立てていました。
丁寧に書いていただいてありがとうございます。
日本が小学生運動会での百数十人の日本人殺戮した蛮人たちを討伐するために精鋭部隊を作ったということで申しました。それは当然なことだと思っています。慰霊碑を作ったのもお互いの殺戮をくりかえさないというお互いの約束のものですな。それを一方的に壊すとは、中国式憎しみの表現でしょうな。難癖はさらに当分続くでしょう。が、西洋とイスラムのように違う気もしないのですがね。ただ私はその後その兵士たちを満州に連れて行ったのと515や226が続くので、思わず書いてしまいました。
よいお年を。
これは メッセージ 1732 (heitotakaohonor さん)への返信です.
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Re: 霧社事件
投稿者: urfraternity 投稿日時: 2008/12/31 20:20 投稿番号: [1737 / 3149]
>わしは urfraternity殿 と2.26事件や 霧社事件のことを話したことがあったかどうか、失礼ながら覚えていません。
226のお話の中で嘴を挟みました。失礼しました。親戚が絡んでいたものですから思わず・・。私が申したかったのは、日本が満州軍として送った兵士が優秀だったのは、霧社事件の際、小学校運動会での百数十人の日本人を殺した反駁として、日本として精鋭部隊をつくったのは当然と思っています。ただ、それを解散させることなく満州部隊として派遣したことから歴史が起こってますから、515、226もその一連かと想像したものです。
他人ですがunhoo氏の意見はあちこちで拝見するわけでファンレターのように口挟むものもおることをご容赦ください。
これは メッセージ 1731 (unhoo さん)への返信です.
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謹賀新年
投稿者: unhoo 投稿日時: 2008/12/31 19:27 投稿番号: [1736 / 3149]
午後になって今日は十二月三十一日だと気がつきました。午前中は三十日だと思っていましたよ。
二度と来ない2008年よ、さようなら。
これは メッセージ 1735 (heitotakaohonor さん)への返信です.
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Re: 紅顔
投稿者: heitotakaohonor 投稿日時: 2008/12/31 07:42 投稿番号: [1735 / 3149]
unhooさん:
私も1年生で名古屋から編入した本島人の同級生によると、紅顔の
少年であったとこの老齢で女性から聞くにつけ多少どうであったのか自分でもわからぬ次第である。平平凡凡であったので、その後20年も学校通学
とあいなりました。紅顔は気候と個人の生理(血管収縮)と皮下脂肪などが関係している
と思います。寒い気候との関係、温暖な地域では見当たらない紅顔は確かで、米国南部、日本南部でも紅顔はないでしょう。紅顔が女性を意味
する中国と相違する為に、日本では『紅顔(の美少年)」とつけたのかな?
京劇のあの赤い塗り絵の顔と赤みがかった少年の顔の意味が全然違うのは
やはり中国と日本の文化の差でありますね。
紅顔とは無関係だが、Bluesに「Tennesie Walt]という有名なのがある。歌詞
を読むと女の盗み捕り歌であるのを思い出した。それにしても清明の双方に
跨る女捕りは範疇が広いですね。オーストラリアとハンガリーの国王の
歴史を見ると、后が国王を操作して、しまいに国政もつかさどるのは女性で
あり、それに反抗せずに進んだ国王が政治に成功しているのも面白い。反抗
した国王はほとんど刺殺されて若死にしているのだが。女は恐ろしいかった。今も。
これは メッセージ 1734 (unhoo さん)への返信です.
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紅顔
投稿者: unhoo 投稿日時: 2008/12/31 00:29 投稿番号: [1734 / 3149]
日本語に「紅顔の美少年」という言葉があって、日本人は概してこの言葉が好きのようだ。男の子の頬が赤くなるのは日本人の特徴で、日本人以外のアジア人にはない。白人の男の子はどうだかわしは知らぬ。
ところが、日本人でも台湾生まれの男の子は赤くならない。わしの見た限りでは、赤くなる条件は、第一に人種が日本人であること、第二に日本国内で生まれ育って、毎年日本の冬の寒さに遭うこと、この二つの条件で頬が赤くなり、小学を卒業するまで赤さが消えない。
わしの小学校は台湾高雄市第一小学校で、生徒は95%が内地人(日本人)だったが、台湾生まれが多かったから、日に焼けたガキばかりで、紅顔の美少年はなかった。そこへ3年生のとき、内地から頬のうんと赤い子が転校してきた。たちまち「りんご」というあだ名がついた。りんご君は学業は中程度、スポーツも中程度、性格はおとなしかった。目鼻立ちは普通程度だった。つまり頬が赤いことのほかは、平凡だった。
冒頭で述べたように、日本では「紅顔」の後に「の美少年」が続く。しかし支那には紅顔の美少年がないから、支那の詩で「紅顔」とは美女のことである。わしは美女を紅顔と書いた詩をたった一つだけ知っている。次のとおり。
明末の武将呉三桂は山海関で、清軍の侵入を防ぎ、勇戦していた。その間に都では呉三桂の愛人陳圓圓という女優を、明朝の皇帝が横取りした(皇帝でなく明朝の高官だったかな?)それを知った呉三桂は怒って清軍に投降し、清軍の先陣に立って、明国を滅ぼした。明国の詩人が呉三桂の裏切りを怒って、『圓圓曲』という長い詩を書いた。その詩の中の一句「衝天一怒為紅顔」(たかが美人のことで、怒髪天を衝き・・・)そして国を裏切った。この一句は支那ではよく知られているが、日本では知っている人は少ないようだ。
京劇の中のヒロインは顔を非常に赤く化粧して、紅顔という言葉に合うようにしている。
西洋歴史で読んだが、ルイ14世の宮女は燃えるように真っ赤に化粧していたそうだ(ルイ16世だったかも知れない)。
これは メッセージ 1732 (heitotakaohonor さん)への返信です.
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信心
投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/12/30 23:59 投稿番号: [1733 / 3149]
大晦日には「紅白歌合戦」がある。これは昔から「国民的行事」などと言われてきたが、歌謡曲の凋落とともにその視聴率は低下する一途だ。わたしもNHKのこうした官僚的で押し付けがましいバカ騒ぎが嫌いでもう何十年も見ていない。
翌朝の元旦は過半の国民が押すな押すなの初詣に出掛けるのだが、寒い中、普段は見向きもしない寺や神社に夢中になって押しかける気持ちが無信心のわたしにはどうしてもわからない。だからわたしには神仏のご加護もなく、「ご利益」も「福運」も巡ってこないようだが、それも人生の成り行きだろう。数年前、子供でも知っているあの有名な宗教団体の夫婦が以前の会社関係の縁でやってきて、さらに次々と別の応援団を連れて波状攻撃をかけてきたがついに撃退できた。信心する気もないのに家に上げてお茶を出したりしたわたしも良くなかった。
これは メッセージ 1 (bikkuri_taiwan さん)への返信です.
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勅令;中華がやった霧社慰霊碑破壊行為
投稿者: heitotakaohonor 投稿日時: 2008/12/29 06:01 投稿番号: [1732 / 3149]
urflaternity様:
横からはいります。霧社事件の精鋭部隊とありましたが、日本軍部隊の、
それとも原住民反乱グループの精鋭なのですかね?中華が英雄に祭り上げる
魂胆はここでも破綻しています。1930年10月の混合小学の運動会席上
になだれた反総督府体制派は内地人134人プラス二人の漢人を殺害しました。後この霧社に内地人の霧社事件死者の慰霊碑を立てていました。爾来
15年間地元の原住民も内地人も再三弔問してくれたのですが、1945年
の敗戦以来まだ2年間は建っていました。その1947年に初めて中華の役人が霧社に赴任してきたのです。原住民の眠る夜中にこの中華役人は車を
持ち出して縄を慰霊碑のてっぺんに回し結び、引っ張りたおしました。その残骸をそのまま放り出してしまいました。原住民は死んだ人たちの位牌まで
と恐怖したそうです。だが中華の恐慌政治には口出しが出来なかったそうです。
この派手なプレーをやってのけて中華の威光を見せびらかしたのはその後の
原住民の行政にもそのまま引き次がれていったそうです。蒋介石風の『三つ子の魂まで奪う』極悪非道でありました。今は石の土台だけが残り、その
土台の下には遺骨がのこっているのでしょうか。原住民を驚かした椿事で
あったのです。
これは メッセージ 1730 (urfraternity さん)への返信です.
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霧社事件
投稿者: unhoo 投稿日時: 2008/12/29 00:33 投稿番号: [1731 / 3149]
urfraternity殿
わしは urfraternity殿 と2.26事件や 霧社事件のことを話したことがあったかどうか、失礼ながら覚えていません。
霧社事件については、酋長のモーナ・ルーダホを抗日英雄に祭りあげようと外省人が企んでいるが、日本人を襲撃したとき、真っ先に小学生百人を襲って殺したのでは、野蛮人の行動だからだめです。百人の小学生を皆見逃して、警察だけを攻撃したのなら、あるいは英雄といえるかもかもしれないが。
これは メッセージ 1730 (urfraternity さん)への返信です.
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Re: 勅令
投稿者: urfraternity 投稿日時: 2008/12/28 18:52 投稿番号: [1730 / 3149]
前回の私の投稿は226のプライベートばんでトビに無関係なので削除しました。
代わりと言ってはなんですが、霧社事件が1930年、226が1936年なので、霧者事件の精鋭部隊と関係があるのではと勝手に想像しておるのですが・・・。
これは メッセージ 1728 (unhoo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/a5sa5ca5afa5jbfoqa1aaa1a9_1/1730.html
Re: 勅令
投稿者: unhoo 投稿日時: 2008/12/28 00:14 投稿番号: [1728 / 3149]
2.26事件で,反乱将校に率いられた兵士に帰隊を呼びかけた布告文「兵に告ぐ」は効果を発揮して、事件が内乱にならずにすんだのだそうで、その文は当時たいへん賞賛されました。
ところが後になって、その文は明治15年発布の「軍人勅諭」のなかの「下級のものは上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」に違反すると言う人が出て、「兵に告ぐ」は名文ではなく、「疑問のある文」ということになりました。
わしは、軍人勅諭の方に無理があると思います。
2.26事件が発生したときは、わしは小学校卒業一ヶ月前で、新聞が読めるようになっていたから、事件の内容はかなり理解していました。「兵に告ぐ」は最後の国語科の試験の題材になりました。冒頭に「兵に告ぐ」の全文が出て、その後に「この部分はどんな意味ですか」「お前たちとは誰のことですか」という問題がすくなくとも十題出ました。あの時代の小学校の国語科の水準はなかなか高かったですよ。
戦前の東京のラジオ放送局のコールサインはJOAKだったように記憶しています。台湾は台北と台南との2局があって、それぞれJFAK、JFBKでした。夜9時(?)に放送が終わって、それ以後はうんともすんとも言わず、ときどき空中電気で起こるというガーガー、ザーザーの雑音が鳴ります。朝は6時前にスイッチを入れて待っていると「ジェイ
エフ
ビー
ケー、ジェイ
エフ
ビー
ケー。こちらは台南放送局でございます。只今からラジオ体操の放送をいたします・・・」と鳴り出します。それが一日の放送の始まりです。思い出しましたが、晩9時(?)の放送修了の言葉は「ジェイ
エフ
ビー
ケー、ジェイ
エフ
ビー
ケー。」でした。
春日某に国会でその「リンチ殺人事件」を蒸し返されたとかいう話は、今まで一度も聞いたことがありません。
>東大物理学部を出た秀才は「勅令」というものが天皇の命令であることをまったく知らなかった。<
ほう、そうでしたか、わしらが小学生だったときは、一年生から教育勅語をつめこまれたので、「ちょくご」とは天皇陛下のお言葉と知っていました。四年生からは「教育勅語」という漢字四字が書けなければならず、そのついでに勅令とは天皇陛下の御命令だと教えられたはずです。
これは メッセージ 1727 (tokyo_cachito3 さん)への返信です.
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