初心者のための日韓議論場
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
>昭和20年の朝鮮半島って
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/03 08:25 投稿番号: [1624 / 7270]
>情報を交換していました。
あ〜、このあたりは身につまされると言おうか、でも、色々と理不尽なことはあったかと思いますが、情報交換とかして、少しでも自分の生活を良くしようとしていたなら、それなりに人生前向きに考えていたとも言えますね。
>高収入目当ての朝鮮人も本土を目指しました。
で、これが本音でしょう。それでこれが出来たのだから、「日帝の七奪」なんていわれるとかなり違和感を感じます。
>そのときに衝撃を受けたのは米軍による空襲と、戦争に疲れ果てた日本人の姿だそうです。朝鮮にいるときには戦争を身近には感じていなかったのです。
考えてみれば、大陸は満州、太平洋は日本列島と、防火壁に囲まれいたわけで、すこぶる安全な位置にいたとも言えますね。まあ、戦争に対する切迫感がないのは、ある意味当然とも言えるかもしれません。
>ちなみに本土が焦土と化しているとき、在支日本人の中にも緊迫感のない者が多くいました。祖母は大原近郊に住んでいましたが、敗戦まで全く平和で軍人たちの仕事は伎楼にあがることといっても過言でないほどだったそうです。
このあたりの話は興味がつきませんね。いいとか、わるいとかは少し置いといて、妙なフィルターかけずに少しずつでもいいから、調べてみたいですね。
それにしても、
>仕事は伎楼にあがること
とは、さすがにイタイ話ですね(苦笑
これは メッセージ 1618 (nishina3777 さん)への返信です.
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>〜矛を収めた
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/03 02:55 投稿番号: [1623 / 7270]
>「本職」が比較的早く矛を収めたのに対して(特に後者はものの見方が比較的に冷静だった)
「次に備えて」どうするかの感覚があったということでしょうか。
「帰ろう。帰ればまた戻ってこられる」でしたっけ?(「キスカ」)
これは メッセージ 1615 (honkytonk_2002_x さん)への返信です.
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え〜と、え〜と・・・
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/03 02:41 投稿番号: [1622 / 7270]
うまくまとまらない・・・(´・ω・`)
話がずれてしますかもしれませんが、御容赦下さい。
>例えば、この当時なら近親や知り合いが召集されたとか戦死したなんて話もあちこちにあったはずですよね。
国民の三大義務は「納税・選挙(投票だったかな)・徴兵」とあったと記憶してます。
で、明治政府以降最初の「負け戦」がこの前の戦争な訳で・・・、
「今回の戦は(今までと)違う」と実感として人々が思い始めた時期に、
地域差(町と村とかで)があったんじゃなかろうか〜
いえね、ただ「どうだったんだろうなぁ」と思っただけなんですけど、
学業なかばで出征して行く知人が大勢いた中高等教育を受けられる環境に近かった人にとってと
中学進学が少数派の環境にいる人にとっての召集では受け止め方が違っていたと思います。
戦前か戦中の兵隊からの聞書きを集めた中の(TVの高校講座でちらっと聞いただけですが)
「軍隊ほど良い所はありません。三度、三度飯食わせてもらえて、
夜になったら寝かせてもらって、朝は明るくなるまで寝させてもらえる〜」
ここだけやけに印象に残っています。メディアでは「軍隊はひどい所」ってイメージが強かった気がしてたもので。
昔のどこか(東北かな?)農山村での生活の厳しさと軍隊生活のどちらが大変だったか・・
で、軍隊で給料も出て勉強もさせてもらえて(経理とか、資格もとれたとか・・今の自衛隊みたいだ)
あ!「のらくろ」読むとわかりそうだ。タガワスイホウでしたっけ?手に入るんだろうかな?
どうも、脈絡のない文で、すみません。
えーと、それでですね。明治以来、内実はともあれ「勝ち戦」が続いていたわけですから、
「出世のチャンス」って感覚もあったんじゃないでしょうか「秀吉」とか「武蔵」とか(ちょっと違うかな?)
>でね、食糧事情は大きいですね。
生活の「変わり方の度合」って大きいと思います。
カフェやダンスホールがあって、握りがいつでも食えてたのに、街ゆく女性は「もんぺ」姿、
その上「雑炊〜」に「行列」となったら、「違う戦」の切迫感は、目にも腹にもひしひしひし・・
で、はじめからカフェも握りも縁がない地域はそういう切迫感はないですし、
都会からの「買出し」のお陰で逆に以前より経済的に良くなった地域とか・・・
>そういえば、飛行機から地上に対して機銃掃射をしてきたら、飛行機に向って逃げろと教えられた・・・
そうなんですか、なんぞの時(そんなの御免ですが)の参考によく憶えておきます。
半島じゃありませんが、軍事教練も学校によって色々だったようです。
教官曰く「おまえたちは、死んではならん!」で、弾にあたらない前進の訓練やってた(東京市内)と聞きました。
>これ岩波の年表に出てないですね
数年前かもう少し前に新聞で読んでびっくりしたです。
逮捕された実行犯二人の内の一人が裁判所かどこかへ護送中に逃走して捕まらなかった事から、
裁判所の審理かなんかの「手続き」が捕まるまで「延期」になり、
そのままずっと「引継事項」だったのを「打切り」にしたとの小さい記事でした。
理由は、逃走者の年齢からもう見つからないとの判断から打切ったというものでした。
裁判所の手続って几帳面だなぁ(司法の大本が大雑把じゃ困るけど・・)
大臣も犯人も名前が載ってたんですが、忘却の彼方でございます(苦笑)
これは メッセージ 1616 (tell_me_honto_gou_2004 さん)への返信です.
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引き上げ
投稿者: nishina3777 投稿日時: 2004/09/02 22:57 投稿番号: [1621 / 7270]
戦後も日本軍が治安を維持していたみたいだし、当地の中国人も親日的だったみたいで、帰国時に全財産を置いてこなくてはならなかったこと以外は別にそれほどひどくはなかったようです。引き上げといってもかなり地域差があるみたいで、蒋介石が懸命に日本人の「戦争犯罪」を賞金付きで募集しても全く応じる中国人がいなかった河南地区のようなのもあります。引き上げ者の悲劇はソ連の入った満州が特に酷かったです。
ちなみに支那浪人の祖父は昭和16年には日本の敗戦を予想していたようです。17年に結核で亡くなりましたが。
これは メッセージ 1620 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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>昭和20年の朝鮮半島って
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/02 22:02 投稿番号: [1620 / 7270]
>ちなみに本土が焦土と化しているとき、在支日本人の中にも緊迫感のない者が多くいました。
引き上げで辛酸を嘗めることになるとは,予想だに
されてなかったでしょうね.
貴重なお話を有難うございました.
これは メッセージ 1618 (nishina3777 さん)への返信です.
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>>>昭和19年の朝鮮半島って
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/02 21:59 投稿番号: [1619 / 7270]
>19年(もしかしたら20年に入ってたかも)の時点でも本州より物資が豊富との理由で
>
樺太に移る家族が連絡船の待合室にいたって話がありまして、ただ、「聞いてた」だけなんで、資料が・・・
そういえば,新千歳空港で樺太写真展をやっていました.サハリン
就航3周年なんだそうです.王子製紙の工場を中心に瓦屋根(甍の波)
が並んでいて,綺麗な町並みでした.
これは メッセージ 1614 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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昭和20年の朝鮮半島って
投稿者: nishina3777 投稿日時: 2004/09/02 21:55 投稿番号: [1618 / 7270]
本土と比べればかなり平和であったようです。
朝鮮人の間では、朝鮮と違い多くの公私立学校があり、朝鮮人でも入学が容易でうまくすれば奨学金ももらえることが出来るということで本土「留学」を目指すことが多かったようです。
また現在の中国人留学生と一緒で本土は求人にあふれているのでお給金も良くて、お金が無くても働きながら学校に通うことが出来るというのも魅力だったようです。もちろん高収入目当ての朝鮮人も本土を目指しました。
また将来の就職を考えても、朝鮮の学校を出るよりも本土の学校を卒業した方が有利との考えも普及していたようで、朝鮮人間ではどこどこの学校だと朝鮮人でも入学できて飛行士になれるらしいとか、どこどこの学校では教員免許をとれるらしいとか情報を交換していました。
今度ドラマになる陳昌弦の「海峡を越えたバイオリン」によれば、日本人の恩師を尊敬していた彼は教員になることを目指し(父は警察署長になって欲しかった)、お金が無くても学校に通え、教員免許が取れると言う事で、昭和20年に博多に渡って仕事をしていた腹違いの兄を頼って渡日しました。
そのときに衝撃を受けたのは米軍による空襲と、戦争に疲れ果てた日本人の姿だそうです。朝鮮にいるときには戦争を身近には感じていなかったのです。
ちなみに本土が焦土と化しているとき、在支日本人の中にも緊迫感のない者が多くいました。祖母は大原近郊に住んでいましたが、敗戦まで全く平和で軍人たちの仕事は伎楼にあがることといっても過言でないほどだったそうです。
これは メッセージ 1616 (tell_me_honto_gou_2004 さん)への返信です.
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なぜ中国で腐敗が蔓延するのか
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/02 21:48 投稿番号: [1617 / 7270]
兔亀さんに紹介頂いた中国関連論文のサイトですが,面白いですね.
まとめて携帯端末に移しといて,暫く出張のお供になりそうです.
で,今日は表記記事を読んでいたのですが,余りの凄まじさに言葉
を失いました.
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レント価値の計算は、レントシーキング研究の一つの重要な内容である。アメ
リカのスタンフォード大学教授、 IMF の筆頭副専務理事である A ・クルーガー
は、1974 年に「レントシーキング社会の政治経済学」という有名な論文を発
表した。そのなかで、彼女は、世界で最も腐敗が深刻だと思われた二つの国―
インドとトルコ―のレント総額をそれぞれ GDP の 7.3% と 15% と推計した。
それ以降、この比率が国の腐敗の度合いを表す一つの指標と見なされるように
なった。
クルーガーの方法に基づいて、中国の経済学者胡和立と万安培は、中国の年別
のレント総額を計算した。その結果は、トルコとインドより高く、実に驚くも
のであった。彼らの計算によると、中国のレント総額の対 GDP 比は、 1987 年
が 20 %、1988 年が 30 %、1992 年が 32.3 %であった。つまり、中国人
民が一年間に作り出した財の三分の一がレントシーキングの対象となり、賄
賂を受ける官僚の収入になる計算である。これさえ理解できれば、 1990 年代
初め、中国から毎年、海外へ流出した資金が何百億ドルにも上ったか、それほ
ど高級ではない官僚でさえもが、海外で豪邸を購入し、自分の家族を移住させ
ることが可能になった理由は、簡単に理解できる。
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http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/030714kaikaku.htmGNP の3割が,不労汚職犯罪者に掠め取られる国.
次のオリンピックまでもつんでしょうか.
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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>>>昭和19年の朝鮮半島って
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/02 16:36 投稿番号: [1616 / 7270]
>この「開き」についてなんですが、戦時下の「切迫感」の違いという見方はどうでしょう?
これはあるでょうね。解りやすく比較すると、朝鮮に住む日本人と、内地に住む朝鮮人の一般的な切迫感を比べたら、内地に住む朝鮮人の方が切迫感は持っていたかもしれないですよね。
例えば、この当時なら近親や知り合いが召集されたとか戦死したなんて話もあちこちにあったはずですよね。で、戦争に行っている人間が身近にいない環境と比べたら、切迫感が違うのは当然でしょうね。
確かに戦闘自体は遠くで行われていたから、内地にいても空襲が頻繁になるまではかなりのんびりしていたかもしれませんが、それでも半島よりは切迫した感じが強かった気がします。
そういえば、飛行機から地上に対して機銃掃射をしてきたら、飛行機に向って逃げろと教えられた・・・なんて話を聞きました。半島ではどうだったんでしょうか。
>小樽の街ではまだ寿司屋で握りが食べられた。
でね、食糧事情は大きいですね。私なんかは特に影響されそうですね。
>大戦末期の昭和20年、大臣に切りかかった朝鮮系「憂国の士」がいたくらいには同化してたのではないでしょうか。
これ岩波の年表に出てないですね。通州事件なんかをとぼけとスルーしている年表だからかなぁ(苦笑
これは メッセージ 1614 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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その違いとは
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2004/09/02 09:10 投稿番号: [1615 / 7270]
>大戦末期の昭和20年、大臣に切りかかった朝鮮系「憂国の士」がいたくらいには同化してたのではないでしょうか。
なるほど。
加えて、「これだけ腹を括って日々邁進してきたのに、今更講話=チャラとは、一体何事か?」という憤りだったかも知れないと思いました。
これは、(私が本でよく目にする光景では)例えば航空部隊で海兵卒や、予科連出身の「本職」が比較的早く矛を収めたのに対して(特に後者はものの見方が比較的に冷静だった)、学徒出身者が反乱を起こしたりとか。
学徒出身者にしてみれば、前述の大臣を襲った朝鮮人「国士」同様、「こっちは決死の思いで、それも私心を捨ててかかったんだ。今更『やっぱりダメでした。戦争やめます』で済むか!」という憤りではなかったかなと、思った次第です。
これは メッセージ 1614 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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>>昭和19年の朝鮮半島って
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/02 02:01 投稿番号: [1614 / 7270]
>>昭和19年の日本国民の思考とは思えません.
>当時でも、皇民としての意識や民度などは内地とまだまだ開きがあったように思います。
この「開き」についてなんですが、戦時下の「切迫感」の違いという見方はどうでしょう?
19年(もしかしたら20年に入ってたかも)の時点でも本州より物資が豊富との理由で
樺太に移る家族が連絡船の待合室にいたって話がありまして、ただ、「聞いてた」だけなんで、資料が・・・
で、19年の小樽の様子にこんなのがあるのですが。
http://home.g03.itscom.net/nvillage/frm-otarujigokuzaka-no-mokuji.htm#小樽地獄坂http://home.g03.itscom.net/nvillage/jigokuzaka-no-mokukji.htm
↓「第一巻」
______________________________________
すでに東京の食糧事情は極度に悪くなっており、雑炊食堂に
行列をするというのに、小樽の街ではまだ寿司屋で握りが食べ
られた。樺太航路もある港には船があふれ、荷役の者や軍人等で
活気に溢れ、見るもの聞くもの、東京から来た私にとって新鮮で
あり、希望に満ちた毎日であった。
______________________________________
「雑炊食堂に行列」の日常と「にぎり」の食える日常。
やっぱ食い物で「非常時」実感するのってリアルだなぁ。
(札幌は小樽より食料事情は悪かったけれど、食う物はあったそうです)
>中には同化しつつあったのもそれなりにいた・・・
大戦末期の昭和20年、大臣に切りかかった朝鮮系「憂国の士」がいたくらいには同化してたのではないでしょうか。
(講和推進派大臣の暗殺未遂事件があったそうなんですが、肝心の大臣の名前忘れちまって・・・ショボン)
これは メッセージ 1609 (tell_me_honto_gou_2004 さん)への返信です.
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>すばやい
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/01 18:32 投稿番号: [1613 / 7270]
ここだけの話ですが、実はこのすばやさがリニューアルの隠れた目玉なんです・・・
なんちゃつて。なんでも早けりゃいいってもんでもないですが(苦笑
>はっきり言えば,あんた嘘ついてない? という疑惑を
感じてるわけですが.
で、今一章の半分を読んだんですが、これって被害者の証言だけで裁判起こしたんですかね・・・
まあ、信憑性うんぬんは今の段階ではなとも言えませんが、それほど明確に自信があるならば、加害者を特定して何人かは引っ張り出すこともできるんじゃないのかなぁ・・・
おっと、まだ中途半端にしか読んでないであれやこれや言っても始まりませんね。
では、では。
これは メッセージ 1610 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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ユスラ様
投稿者: ddg_yamayuki 投稿日時: 2004/09/01 18:29 投稿番号: [1611 / 7270]
19時までにメール、しておきます。
これは メッセージ 1608 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1611.html
すばやい
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/01 18:26 投稿番号: [1610 / 7270]
>で、資料室風に少し読みやすくアレンジしてみます。
おお,早速.すばやいですね.しかも僕専用のデータ室
みたいになってる(笑)
>統治の実態をもっとよく調べないとなんともいえませんが、当時でも、皇民としての意識や民度などは内地とまだまだ開きがあったように思います。
「日本国が無くなるかもしれない」という恐怖を共有するのが,
そもそも無理な話ですしね.
それにしても,戦時下の発想としても違和感が有りますよね.
はっきり言えば,あんた嘘ついてない? という疑惑を
感じてるわけですが.
これは メッセージ 1609 (tell_me_honto_gou_2004 さん)への返信です.
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>昭和19年の朝鮮半島って
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/01 17:44 投稿番号: [1609 / 7270]
これは メッセージ 1608 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1609.html
昭和19年の朝鮮半島って
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/01 16:41 投稿番号: [1608 / 7270]
どんな雰囲気だったんでしょうか.ちょっと考え込む
資料を最近目にしました↓
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-
【女子挺身隊原告】
(一)原告柳賛伊、同朴小得、同朴順福
(1)原告柳賛伊は、昭和三年(一九二八年)、現韓国の馬山で出
生し、父は早くに亡くなり、母と兄三人とで暮らしていた。同女は、
国民学校の三年生まで通った後、同女の兄が経営する雑貨屋の手伝
いをしていた。
同女が満一六歳の昭和一九年(一九四四年)五月ころ、朝鮮人の
区長が同女の家を訪れ、日本人が持ってきたという工場の写真を同
女に見せた。その写真には、日本の女学生が働いているところや、
生け花をしているところが写っていた。区長は、同女にその写真を
見せながら、「日本に行けば勉強もさせてくれるし、給料も高い。」、
「生け花、ミシンも教えてくれる。」などと述べ、同女の女子勤労
挺身隊への加入を勧誘した。同女は、習い事とか勉強ができ、お金
を儲けることができるということだったので、どこの工場でどんな
仕事をするのか聞かなかったが、右の勧誘に応じた。
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-
http://law.leh.kagoshima-u.ac.jp/STAFF/uneme/senngo1.htm>「日本に行けば勉強もさせてくれるし、給料も高い。」、
>「生け花、ミシンも教えてくれる。」
国家総動員法が制定され,内地では1月に学徒動員が決まった
年ですよ.勿論,内地の学生には選択の自由が最初から無かった.
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-
同女は、習い事とか勉強ができ、お金を儲けることができる
ということだったので、どこの工場でどんな仕事をするのか
聞かなかったが、右の勧誘に応じた。
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昭和19年の日本国民の思考とは思えません.
どういうことなんでしょうか.
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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あらら・・・、残念!
投稿者: ddg_yamayuki 投稿日時: 2004/09/01 16:05 投稿番号: [1607 / 7270]
せめて、土曜日までご滞在なら・・・。うーん、残念・・・。
またの機会に楽しみにしております。
これは メッセージ 1606 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1607.html
首都ですが
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/01 16:02 投稿番号: [1606 / 7270]
残念ながら日帰りなんですよ.金曜日も午前中から外せない
用事が有るもんですから.
でもいずれ何とかしてチャンスは作りたいと思ってます.
これは メッセージ 1604 (ddg_yamayuki さん)への返信です.
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>残暑ですか.
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/01 15:58 投稿番号: [1605 / 7270]
>明日は内地に行くので,涼しくなってるといいなあ.
あ"〜それは、それはご愁傷さまでございます。
もう、本当に笑ってしまうくらい暑いです。いや、熱いです・・・
>ところで,朝鮮日報の記事リンク,いいですね.
一度に沢山の記事をリストしても、読みづらいと思いますので、一週間に一度くらいの割合でリストを追加していく予定です。
これは メッセージ 1603 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1605.html
>残暑ですか
投稿者: ddg_yamayuki 投稿日時: 2004/09/01 15:54 投稿番号: [1604 / 7270]
内地ってもしかして、首都にお越しになるのでは?
これは メッセージ 1603 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1604.html
残暑ですか.
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/09/01 15:51 投稿番号: [1603 / 7270]
明日は内地に行くので,涼しくなってるといいなあ.
ところで,朝鮮日報の記事リンク,いいですね.
あの記事どこだったかなあ,と見つからないことが
多いんですよ.
これは メッセージ 1602 (tell_me_honto_gou_2004 さん)への返信です.
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>気がつけば・・・♪
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/09/01 15:48 投稿番号: [1602 / 7270]
これは メッセージ 1601 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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気がつけば・・・♪
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:38 投稿番号: [1601 / 7270]
あの・・・
別に1600狙っての連続投稿ではなかったんですが
正方形っぽくて好きな数で・・・♪♪×10
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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「〜60年目の夏(15)」
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:26 投稿番号: [1600 / 7270]
______________________________________
99年07月19日
■■
ノモンハン・60年目の夏(15)
■■
作家
岩田玲文
▼
冬そしてノモンハン
④
▼
耳障りでない日本語で意見
雑談を真摯に聴く学生たち
いますこし、雑談風講義の雑談をつづけたい。
学生たちが真摯に私の雑談を聴いてくれるから、つい話に熱が入る。
日本語科の学生たちだから、通訳無しだ。私も学生たちに分かるように、なるべく平易な言葉で話すように心掛けているが、平易な日本語というのが、これがなかなか難しい。ときどきブルガン先生が、「今の言葉はこういう意味ですか?」と訊く。ブルガン先生がよく分からないということは、学生たちにはまったく分からないということだから、私はそこで、さらに易しい日本語を探すということになる。例えば、
「近現代史−というのは、近代史と現代史を一緒くたにした言い方です。日本史の場合、明治維新から大東亜戦争(第二次世界大戦)の終結までを近代史、終戦から今日までを現代史、というように区分しているけど、世界史でいう近代史は近世と同じ意味で、封建社会のあとにはじまる資本主義社会を指し、現代史は第一時世界大戦終結から今日までの歩みです。モンゴルの歴史区分がどうなっているのか、私にはよく分かりませんが、私は自分流に、独立運動のはじまりから社会主義国家の時代を近代史、人民革命党(共産党)の独裁放棄と、それからの民主化への歩みから今日までを現代史、というように分けています。つまり近現代史というのは、近代史と現代史の二つをひとまとめにした歴史区分です。分かりましたかな?」
と、まあこんな調子で雑談が続くわけである。
ひとりの学生が手を挙げた。決して流暢とはいえないがしかし、確かな日本語で、
「先生、これはあくまでも僕個人の意見なんですが、あの友好の塔はいろんな意味で、あのまま残しておくべきだと僕は思います。先生が先程申されたように、僕たちの国が現在こうしてモンゴル人の独立国として、国際連合の加盟国として在るのは、ソビエト・ロシアのお陰です。この恩を忘れてはいけないと思います。と同時にまた、ソビエトの隷属国として七十年間、モンゴル人のモンゴル国は完全に封印されたまま、ただ『モンゴル人民共和国』という紙に書いた国名だけが、地図の上にぺたりと貼られていた、ということも決して忘れてはいけないことだと思います。ですからこの二つのことを忘れないために、あの友好の塔はあっていいと思います」
日本の学生のように(それデェー)(だかラァー)(つまリィー)と、やたら語尾に力を入れて強調し、自分の意見をいやらしく押しつけてくる、あの耳障りな口調でない日本語でそう言った。私は思わず拍手した。ブルガン先生も拍手し、他の学生たちも拍手した。拍手された学生は大いに照れて、小さく何度も何度も頭を下げて会釈した…。
私は、そんな情景を想い出しながら、二百五十四段の石段を登り詰め、塔の内に入って行ったのだが…モザイクの壁画はそのままだった。しかしいつか、そう遠くない日に、壁画の中から土足で踏みつけられている旭日旗が消える日が来る、と私は信じているのである。塔の上空では冬の風が鳴っていた…。
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これは メッセージ 1599 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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「(14)」(自国の国歌・国旗への敬愛)
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:23 投稿番号: [1599 / 7270]
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99年07月17日
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ノモンハン・60年目の夏(14)
■■
作家
岩田玲文
▼
冬そしてノモンハン
③
▼
自国の国歌・国旗への敬愛
まともな人間の行為
「ザイサン丘の友好の塔の壁画で、ソ連とモンゴルの兵士にへし折られ、踏みつけられている旗は、日の丸ではなくあれは旭日旗です。旭日旗は国旗ではないけど、モンゴルの国章と同じものです。モンゴルの国章も太陽ですが、日の丸も旭日旗も太陽です。私はモンゴルの国章が、太陽であることに親しみを覚えます。太陽は遥か宇宙の彼方から、この地球上の生きとし生けるもの全てに、貴重なエネルギーを、惜しみなく贈りつづけてくれています。命あるものすべてに分け隔て無く平等に、限り無く|です。
私は日の丸を国旗とし、君が代を国歌としている以上、日本人たる者、太陽のごとき慈しみの心をもって、君が代の幸福を祈りなさい。でなければ真物の日本人ではありませんぞと、いつもそう自分に言い聞かせています。ですから国歌や国旗は私にとっては大へんに大切です。それはみなさんが、モンゴルのそれを大切に思われるのと同じです。
自分の国の国歌や国旗を愛し、大切に思うとき、そこに他国の人にとってもまた、その国の国歌や国旗は大切なものなんだという理解が生まれます。それを足で踏みつけたり、火をつけて燃やしたりするのは、これは真面な人間のする行為ではない。たとえいか様な恨みや鬱憤があろうとも、他国の国旗を足で踏みつけたり、燃やしたりすることは、人間として決して、してはいけません。なぜなら、もし自分たちの国旗が、他国の人に土足で踏みつけられたり、燃やされたりしたら、貴方たちはどんな気持ちがしますか?
いい気持ちはしない筈です。
正直言って私は、共産主義者や独裁者によって統治されている、現在の支那中国や北朝鮮という国は好きではない。好きでないと言うより、嫌いです。でも私は、中国や北朝鮮の国旗を足で踏みつけたり、火をつけて燃やすようなことは決してしません。それは私が(人間でありたい)と思っているからです。私に一人の若いモンゴルの友人がいます。みなさんと同じ年頃の青年です。ある日、彼が私にこう言うんです。
<僕は夜一人でザイサン丘に登って、あの壁画を黒いスプレーで塗り潰してきます。>って。私は、それは足で踏みつけたり、燃やしたりするのと同じ線上の行為だからやめなさいと言って止めました。問題はそんなことではないんです。一人だけのことではなく、モンゴル人みんなの心の問題です。
この二十世紀のはじめ、支那中国に統治されていたモンゴルは、国ごと丸裸にされて苦境に喘いでいた。その苦しみから逃れ独立するために、ロシアに助けを求めた。その肝心のロシアは、帝政から共産革命政府へと変貌したが、とにかくモンゴルが、支那中国の鎖を断ち切って独立するのに力を貸してくれた。そしてそれと引き替えにモンゴルは、ロシアに次ぐ世界で二番目の社会主義国として独立した。
が|やがて、ソビエト連邦の十六番目の共和国、と言われるまでに、完全にソビエト連邦に隷属し、『モンゴル人民共和国』という名ばかりの独立国として、七十年の歴史を歩むことになった…。しかし、モンゴル人たちは、例え名ばかりであっても『モンゴル』という国と領土を守り抜いて、それを次の世代に渡さなければ|と歯を喰いしばって頑張った。と、私はモンゴルの近現代史をそう理解しています」
これは メッセージ 1598 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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「〜60年目の夏(13)」(「旭日旗〜」)
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:16 投稿番号: [1598 / 7270]
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99年07月05日
■■
ノモンハン・60年目の夏(13)
■■
作家
岩田玲文
▼
冬そしてノモンハン
②
▼
旭日旗折り踏みつけた壁画
日本人に気持のよくない塔
その日、ウランバートルに着いたのは、夜半の二時過ぎだった。
熱いシャワーと、ほどよく暖房の効いた部屋で休めることに(有難い)と感謝したせいか、翌朝は日が天空に昇るまでぐっすり熟睡した。
朝の珈琲がうまい。うまい珈琲を飲みながら(二百五十四段の石段は大へんだが、今日はザイサンの丘に登ろう)と思った。
丘はウランバートルの市街地から南へ二㌔のところにあり、頂上に白い塔が聳え建っている。「ソ連・モンゴル友好の塔」である。
「ソ連戦士の記憶は、空の太陽のように永遠であり、大地の燃える火のように神聖である」と、キリル文字で刻んだ碑が丘の入り口にあって、市街が一望出来る。
今どき(ソ連戦士は太陽のように永遠で、火のように神聖だ)と思っているモンゴル人が、どれだけいるのか私にはわからないが、少なくとも日本人にとってこの塔は、あまりいい気持のものではない。私がはじめて丘に登ったのは二年ほど前だが、塔の内側にぐるりと描かれた、両国人民の歴史的友好を讃いあげた、モザイクの壁画を見たとき私は(モンゴル人って一体どんな精神構造をしているのだい)と腹立たしく思ったものである。
ソ連とモンゴルとの友好を嫉妬したわけではない。モンゴルがどこの国と仲良くしようがそれを、日本人である私がとやかく言うことはない。それぐらいのことは心得ている。だが、その友好の印にソ連とモンゴルの兵士が堅い握手を交わしている靴下に、へし折られ踏みつけられているのが、日本の旭日旗ということになると、そうはいかない。
ある時、私は学生たちに言った。学生たちというのは、外国語大学の日本語科で、ブルガン先生の日本文学史と日本語会話を受講している学生たちだ。私はモンゴルを訪ねるたびに、そこで週六時間の補習講義をすることにしている。
講義というと大そうに聞こえるが、雑談風に日本文化・文学史を語るという程度のもので、勿論無料奉仕である。
「私は、日本の国歌(君が代)と国旗(日の丸)をこよなく愛しています。私はと念を入れたのは、君が代を歌い日の丸を掲げると戦争になる、と思っている日本人もいるからです。(『新古今集』についての授業だったから)君が代の本歌は今日の新古今集にある恋の歌です。君というのはあなたです。日本人で私以外の人はみんな君、あなたです。そのあなたである君の象徴が大君で、つまり天皇です。国歌君が代の君は、大君を中心としたすべての日本の君なんです。君が代でなくわが世の方がいい、という人もいます。しかし、わが世では駄目なんです。わが世だと自分の幸福だけを祈ることになります。それでは自分だけで終わってしまいます。大切なことは、すべての君の幸福を祈ることです。すると祈りは無限に拡がって行きます。いつまでもいつまでも君の幸福を祈るという、国歌(君が代)は祈りの歌なんです。そして日の丸もまたそうなんです−」
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これは メッセージ 1597 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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(略、3〜11)「〜60年目の夏(12)」
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:11 投稿番号: [1597 / 7270]
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99年07月03日
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ノモンハン・60年目の夏(12)
■■
作家
岩田玲文
▼
冬そしてノモンハン
①
▼
死んだら星になり天へ
大地に寝ころび見つめる
なぜ死んだと
寒芒にまた独り言
寒芒が、季語になるのかどうかよく分からないが、冬の夜空に、寒そうに瞬いている星が、寒芒である。子供の頃の一時期私は、人は死んだらいつか星になって天に帰るのだと信じていて、あの人はあの星、この星、と懸命になって探したことがあった。ふとそのことを想い出して、私は車を停めてもらい草原に立った。
そして、うすく雪の降り積もった大地に、仰向けに寝ころんで寒天を見た。ツェルン村からウランバートルへ帰る道すがらのことだ。オクトの死に、いささか尋常心を失っていたのか、そんなことはないと思うが、背中の雪が、刻々体温を奪って行くのを覚えながら、格別のことを思うでもなく、ただ私は天を見つめた。
(オクトの奴は、モンゴルからの電報がそう簡単には私のところに届かないことを知っていた筈なのに、なぜ電報を打ってくれって言ったのだろうか、私に何を伝えたかったのだろうか、それにしても、電文は一体何語で打ったのだろう…)
身近に雪の軋む音を聞いて、私は頭をもたげた。いつの間に来たのか、足許のところにブルガンが私と同じように、仰向けになって寝ころんでいた。しばらく、私たちは黙って天を見ていた。
光も音も色も、すべて純粋に冴えていた。それにしても寒い−寒極って水が凝る寒さを(寒冱)というが、もうとっくに零下二十度を越しているのだから(寒冱)ではなかろう。厳寒、酷寒、極寒、祁寒…私は知る限りの、それなりの言葉を探したが、ぴったりこれというものはなかった。とにかく素適な寒さというよりない寒さに、私は震えた。
「おい風邪を引くぞ、車に戻っていなさい」声を掛けるとブルガンは、
「大丈夫です、私はブリヤート人ですよ、それに貴方の活力源、仙人力にんにく卵黄を二粒づつ飲んでいますから、風邪など飛んで行けです」
とおどけた口調で答えた。そのとき風が吹いて、雪が舞った。舞った雪は周りをすっぽり包んで、風に連れ去られて行った。
「貴方のあの『怪談』の雪女のシーンに似ていますね。舞っている雪の中から雪女が姿を見せてくれそうな感じ…」
ブルガンが(貴方のあの怪談)と言ったのは、映画『怪談』の製作に私が係わっていたのを知っていたから、そう言ったのである。
「私は子供のころね、人は死んだら星になって天に戻るんだと思っていた。だから、こんな可愛いい妹は世界中にいない、と思っていたその妹が死んだとき、夜になると妹の星を探して庭に立ちつくした。その頃の日本の空はモンゴルの空に負けないくらいに美しかった…」
「見つかりましたか?」
「うん見つかった。でも今はそれがどの星だったのか、どうしても想い出せないのだ。なにせ半世紀も前のことだから…」
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これは メッセージ 1596 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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「〜60年目の夏(2)」
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/09/01 00:00 投稿番号: [1596 / 7270]
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99年05月10日
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ノモンハン・60年目の夏(2)
■■
作家
岩田玲文
▼
地図を身ながら
②
▼
4万余の血を吸った大地に
日本の白い蕎麦の花を
私には、司馬さんの代わりにノモンハンを書こう、などとそんなおおそれた気持はさらさらない。司馬さんと私とは、ノモンハン事件についての考えが、ほんの少し違っているように思うし、仮に同じだったとしても、とてもとても司馬さんのように書けるものではないからだ。
また「戦史」ものとしてのノモンハンを書くつもりもない。それは、半藤一利さんの力作『ノモンハンの夏』を越える作品を書く力が、私にあるとは思えないからだ。
「じゃノモンハンの何を書くつもりかい?」
と聞かれたら答えに窮する。私はノモンハン事件が起きた年、小学校に上った許りだった。だから事件のことを知ったのはかなり後のことで、それも
「ノモンハンという満州とモンゴルとの国境でロシアと戦争をして、日本はこてんぱんに負けたらしいぞ」という、噂としての悲報であった。なぜ悲報かというと、私が生まれたのは、満州国の建国宣言がなされた年で、遊び仲間に満州男や満州子が多勢いて、満州やモンゴルの草原が、私たちの夢を限りなく増幅させてくれる場であったからだ。
(それじゃもうゴビの砂漠の夕陽は見られないだろうなァ)と私たちは悲しんだのである。その時の悲しみが還暦を過ぎたある日突然に蘇ったのである。
私は憑かれたようにモンゴルのあちこちを旅し、モンゴルの人や馬や歴史や、とにかくモンゴルのあれこれにふれ、驚き、怒り、悲しみ、ある時は少年の日の夢を取り戻せた喜びに浸りながら、二年半にわたり本紙上に『天馬の国へ』を書きつづけてきた。
本稿はその続編であり完結編である、と思っていただけばいい。
実は私は今、六十年目の夏のノモンハンに日本の白い蕎麦の花を咲かそうと、一所懸命になっている。私が蕎麦屋をやろうというのではない。蕎麦の商売をしようというわけでもない。私はただ、日本人とモンゴル人とロシア人の、四万余の血を吸った大地に、蕎麦の白い花を咲かせたいと願っているだけである。
この話をしたら、友人たちはとても喜んでくれて、山梨から目黒源友君が、鹿児島から永松範夫君が、熊本から田中千洋君と坂本武美君が、そして長野から宮本政秀君が、六十余㌔の種子を送ってくれた。
私はその種子を担いで、せっせとモンゴルに通った。今年になって二月と四月、酷寒のモンゴルを訪ねたのだから、せっせと通った、と云ってもよさそうな気がする。
蕎麦のことだけではなく、馬の話もあった。
ツェルン村の子供たちが、日本の障害を持った子供たちに、馬と楽しく遊んで欲しいからと、五十頭の馬を貰って欲しいというのである。それに八月十五日のウランバートルの日本人墓地で、慰霊のコンサートを行う企画もあって、とにかく大忙しで、国中が雪に埋もれた、零下四〇度のモンゴルの二月を、私はあちこちと走り廻った。そして、旧暦の元旦を、ツェルン村に住むオクトの家族と一緒に過ごすべく、私はウランバートルから七時間、ジープに揺られて村を訪ねた。そしてそこで、オクトが一週間前に急死したことを知らされるのである。
オクトは、私の義理の息子だった。
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これは メッセージ 1595 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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「ノモンハン・60年目の夏(1)」
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/08/31 23:55 投稿番号: [1595 / 7270]
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99年05月08日
■■
ノモンハン・60年目の夏(1)
■■
作家
岩田玲文
▼
地図を身ながら
①
▼
4ヵ月に及ぶ惨劇的戦い
日本を考えさせられた事件
この高原の国は、北をぐるりとロシアに、そして、南はさらにながながと、中国と直に国境を接しているから、どこにも出口がない。もちろん入口もなく、まったく閉塞の地である。
両大国に挟まれ、ふて腐れてごろりと寝転んだ羊の姿で、この国が在る。西が頭で東が尻尾だ。とすると、北のロシアに短い足を投げ出し、南の中国に、頑固にその丸っこい背中を向けたこの羊、なかなかのもののように見える。
そう見えるのは私だけかも知れないが、地球上に在る国で、ただ一筆でその国の型が描ける、数少ない国の一つであることだけは確かだ。
一九九二年まで『モンゴル人民共和国』を名乗っていたこの国は、人民共和国を消し、今はただの『モンゴル国』である。その方がすっきりしていていい、と私は思う。××民主主義人民共和国などと、とんでもない国名を持つ国もあるが、そんなものに真者があった例がないからだ。
モンゴル国というと(なァんだチンギス汗の国か)と、ほとんどの日本人は、すぐに納得する。だが、それでおしまいだ。それ以上の知識の持ち合わせは、残念ながらない。
「いやそんなことはない」という人もいるが、それとてせいぜい「旭鷲山や旭天鵬が生まれた国だろう」で話が終わる。たまに、「確か神戸の大震災の時、最初に救援物資の毛布数千枚を送ってくれた国ですよね」と云ったり、「領土面積百五十六万六千五百・・はおよそ日本の四・一倍、人口(二百四十万人弱)は日本の五十分の一、首都はウランバートルで、社会主義を放棄したチベット仏教の国でしょう」と云ってくれる人もいたりするがしかし、そんな人は極く極く稀である。そんな極く稀な人や、私と同世代以上の古強者には、表題の「ノモンハン」について、くどくどと語る必要はないのだが、しかし、「ノモンハン?それって何?」と聞き返す人に、いささか押しつけがましい気がしないでもないが、ぜひ「ノモンハン」を知って欲しいという思いが私にはある。
それはノモンハンで、ソビエト・モンゴル連合軍と日本の関東軍とが、およそ四カ月に及ぶ惨劇的な戦いを交えてから、今年で六十年目を迎えるからだ。六十年前の夏、ノモンハンは戦場だった。
「いったい日本とは何だろうということを、最初に考えさせられたのは、ノモンハン事件でした。昭和十四年(一九三九年)私が中学の時のことでした。こんなばかな戦争をする国は、世界中にもないと思うのです」
と司馬遼太郎さんは『昭和という国家』の中でそう語っている。話しはなお「ノモンハンには、実際に行ったことはありません。その後に入った戦車連隊が、ノモンハン事件に参加していました。(略)私は、ノモンハン事件のことを調べてみたかったのです。ずいぶん調べました。資料も集めました。人にも会いました。会いましたけれども、一行も書いたことがないのです。それを書こうと思っていながら、いまだに書いたことがなくて、ついに書かずに終わるのではないか、そういう感じがします」
とつづいている。そしてその言葉通り、司馬さんはとうとう書かずじまいで、この世を去った。
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これは メッセージ 1594 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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「日本人は執着心が強い」
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2004/08/31 23:50 投稿番号: [1594 / 7270]
中国語での「執着心」のニュアンスは日本語とは少し違うようですね。
(日本語だと否定的な意味合いが強いような・・・私の周辺だけかな?)
林思雲博士の記事に遺骨収集のことが出ていましたので、
トピずれですがノモンハン関連の記事をご紹介します
↓
1999年放映のドキュメンタリーの取材記録を記事にしたもののようです。
(なぜかリンクが貼れなかった・・)
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99年12月27日
■■
ノモンハン・60年目の夏(45)
■■
作家
岩田玲文
▼
夏そしてノモンハン
6
▼ 草原で語り合う日のために
夕日の中の2つのイス
尻切れ蜻蛉のまま、この物語もいよいよ最終回を迎えてしまった。
このことは、初めにお断わりしたかと思うが、私には、ノモンハン事件の戦史を書くつもりはまったくなく、ノモンハンの戦地を巡礼しながら、草原に眠る英霊と語り、ビルワさんと語り、私なりのノモンハンを歩いて、この二年半ほど書き続けてきた「天国の国へ」の結末のようなものにしようと思っていた。だがその辻妻を合わせる前に、この回で鉛筆を置くことになってしまった。
読者のみなさんには何とも申し訳ないのだが、虫のいい詫び言を聞いて頂けるならば、大晦日の夜七時から九時まで、二時間にわたって放映される『ノモンハン事件と蕎麦の花』(スカイ・パーフェクト・テレビ三七〇CH、デレク・テレビ六二六CH)レッツトライ放送を是非に御覧いただきたいのである。
番組は(草原の国モンゴルは、東アジアの北限に在る)と、この物語の冒頭と同じ語りで始まる。そして最後の六分間は、ただ一言の語りもなく、三牧可奈さんのピアノと田中藍さんが奏でるヴァイオリンによる(望郷のバラード)の曲と、映像のみが流れて、完る。賢明なる諸兄妹にはそれだけで、ノモンハン事件のことも、日本人捕虜のことも、モンゴルのことも、私がこの物語で語りたかったことなども、それぞれに感応していただけるのではないかと、いささか自負しています。
ここに一通の葉書があります。友弘国雄さんに頂いたものだ。友弘さんのことは『ノモンハン事件と蕎麦の花』の中でもご紹介させて頂いているのだが、昭和二十年八月の終戦時に、満州で不法にもソ連軍によって拉致され、シベリアからモンゴル国へと送られた、一万四千余人の日本人捕虜の中の一人で、モンゴルで強制労働を課せられての俘虜生活を送るうちに、凍傷により両足を切断、義足などあろう筈もなく、それからの二年を躄のまま生き抜いて、日本に帰って来た人である。
ここで友弘さんのことを語るのは、私の作品が、それが活字にせよ映像にせよ、再びみなさんのお目にとまるようなことがあるとすれば、それは恐らく春日幸雄さん(友弘さんと同じくモンゴルで捕虜生活を送られた軍医)と、友弘さんのことについて、私が語る時だろうと思うからだ。
ノモンハン事件は、あの東京裁判に於て、日本帝国主義の侵略戦争という裁定を下されたまま、まさに風化せんとしている。そして日本人捕虜の話は、人にその事実さえも知られないまま、さらに極悪の条件に耐えられず命果てた英霊たちの墓地は、今はもう詣でる人とてなく、草原に消えようとしている。いうまでもなく、その英霊たちが帰り行く祖国はこの日本である。ならば今、その祖国日本に生きている者たちは、祖国のために何を為すべきか…。そのことを私はこれからも自らに問いかけながら、生きて行きたいと思う。
忘れられたように置かれている、夕陽の中の二つの椅子は、若しいつか、あなたとモンゴル草原で語り合える日があるとき、そのときのためにフイ高地に私が置いてきたものです。
(おわり)
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45回連載の最終回です。
元モンゴル兵士との話や「国旗」など興味深いエピソードが多いので、
順次ご紹介したいと思っているのですが・・かまわないでしょうか?
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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入れるようになりましたが
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2004/08/30 22:15 投稿番号: [1593 / 7270]
またおかしくなるかも知れませんね。
これは メッセージ 1592 (tell_me_honto_gou_2004 さん)への返信です.
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軽視論入り口
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/08/30 21:14 投稿番号: [1592 / 7270]
これは メッセージ 1591 (yusura_papa さん)への返信です.
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軽視論,どうしちゃったんでしょうね.
投稿者: yusura_papa 投稿日時: 2004/08/30 20:52 投稿番号: [1591 / 7270]
全然開けなくなってますね.ちゃんと復活すればいいんですが.
復活するまでここを使って下さい>軽視論トピの皆様.
我ながら火事場泥棒みたいですね.
これは メッセージ 1589 (tell_me_honto_gou_2004 さん)への返信です.
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朝鮮日報過去記事 2001年上半期
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/08/30 20:23 投稿番号: [1589 / 7270]
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1589.html
「冬ソナ」人気で友好促進
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/08/30 18:47 投稿番号: [1587 / 7270]
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1587.html
>ホント号さん,恐縮です.
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/08/30 17:35 投稿番号: [1586 / 7270]
>早速テキストをDLして出張中の空き時間にでも読もうと思い
ます.
怪しいところを見つけたら校正をお願いします(笑
最近は、効率アップのため、OCR使って一次入力を省略化してます。で、変換してそのままでは使い物にならず、目検はしているのですが、やはり量が多くなるとょっと苦しいですね(苦笑
今、
朝鮮総督府官制とその行政機構
http://devs.data-room.info/bunken/serv.cgi?CHOICE=D&ID=080052013101をテキスト化しています。こちらはメモの欄に画像URLを記載してますので、もし怪しいところがありましたら、こちらも宜しくお願いします。
>教育カテの
最近ユスラさんがお出ましでないので、ご無沙汰してました。まあ、あってためになるトピではなかったので・・・
これは メッセージ 1584 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1586.html
執着心強いのか.
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/08/30 17:15 投稿番号: [1585 / 7270]
言われてみればそうかもしれませんねえ.何でも水に流して
忘れるのが日本人の特性という一面も有るんですが,どう
考え分ければいいんでしょうか.
>理工学院卒の理系出身ではあるが、文学や歴史に興味を持ちその方面の書籍を愛読する。
他人とは思えませんなあ(笑)
面白そうなのでこれも出張中の楽しみに取り込んでおくことに
します.ご紹介頂き有難うございました.
これは メッセージ 1577 (usagigamemaimai さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1585.html
ホント号さん,恐縮です.
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/08/30 17:09 投稿番号: [1584 / 7270]
>三・一運動論
テキスト化終了しました
お疲れ様でした.すっかりサボってしまい申し訳ありません.
早速テキストをDLして出張中の空き時間にでも読もうと思い
ます.
ところで,全然関係無いですが,教育カテの○門フェチのトピ,
落ちてますね.トピ主が自分の醜さに気付いたんでしょうか
(んなわけないか).
これは メッセージ 1571 (tell_me_honto_gou_2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/1584.html
続き:中韓関係は・・・
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/08/30 15:53 投稿番号: [1583 / 7270]
最後が切れてしまいました。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
実はかなり昔、中国人と韓国人の留学生を企業研修生として面倒みたことがありました。その時得た教訓は・・・
原則として中国人と韓国人を同じ職場で受け入れては絶対にいけない・・・でした。
あくまでも、当時の私の個人的な教訓です(思い出し苦笑
これは メッセージ 1582 (tell_me_honto_gou_2004 さん)への返信です.
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中韓関係は・・・
投稿者: tell_me_honto_gou_2004 投稿日時: 2004/08/30 15:51 投稿番号: [1582 / 7270]
「中韓関係発展の4提案」
賈慶林・全国政協主席
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人民政治協商会議全国委員会(全国政協)の賈慶林主席は28日、訪問先の韓国で経済4団体が主催する昼食会に出席した。賈主席は席上、「互恵協力の強化、すばらしい未来の共創」と題し、中韓関係の発展について次のようにスピーチした。
激しい国際競争や、経済グローバル化、地域経済の一体化という潮流に直面するわれわれは、手を携え、協力を強化し、相互利益を実現しなければならない。2国間の友好協力モデルを創造し、引き続き両国関係の新たな発展を推進していかなければならない。このために、次の4つの提案をしたい。
(1)相互尊重を堅持し、協調と共存を追求する。
(2)経済協力を優先し、全面的な発展を進める。
(3)対話により信頼を深め、協力により安全を図る。軍事力の対抗により安全保障上の優位を図る古い安全保障観が無益であることは、歴史と現実が明確に物語っている。ややもすれば武力に訴えたり、武力により威嚇したりすることは、世界の平和と安寧に影を落とし、破壊することになる。本地域の諸国は冷戦思考を捨て、対話による安全、協力による安定を図るべきだ。中国政府はこれらの認識に基づき、相互信頼・相互利益・平等・協力を核心とする新しい安全保障観を提起した。これは互いの相違や対立を乗り越え、対話により相互信頼を深め、交渉により紛争を解決し、協力により安全を促すことが主旨だ。近年、朝鮮半島南北の和解と協力のプロセスが前進を続け、北京での6カ国協議も進展を得ていることを、嬉しく思う。本地域の平和と安全に関わる重大問題について、韓国と緊密な意思疎通と協力を続け、本地域の長期平和と繁栄のためにたゆまぬ努力をしていきたい。
(4)民間の友好関係を深め、交流と協力を強化する。
中国は、韓国と永遠に良き隣人、良き友人、良きパートナーであることを望んでいる。共に努力し、互恵協力を強化し、すばらしい未来を創ろう。 (08/30)
http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200408300300.html━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
賈慶林・中国主席、現代車・サムスン電子を訪問
韓国を訪れている賈慶林・人民政治協商会議主席兼中国共産党政治局常務委員(党序列4位)が現代(ヒョンデ)自動車とサムスン電子を相次いで訪問した。
賈主席は29日、鄭夢九(チョン・モング)現代自動車グループ会長が慶州(キョンジュ)・現代ホテルで主催した晩餐会に出席、今後の中国での自動車関連事業の拡大方策について意見を交わした。
賈主席は「現代自動車グループの中国事業は中国国内でも最も成功的なもので、地域経済と中国自動車産業の発展に大きく貢献している」と評価した。
鄭会長はあいさつを通じ、「北京現代自動車など現代自動車グループが中国に設立した工場が、中国政府の支援を受け速い速度で発展している」とし、「この先、中国で鉄鋼や自動車部品、ローン金融など自動車関連事業を拡大する方針」と述べた。
同日の晩餐に先立ち、鄭会長と賈慶林主席は慶州の仏国(プルグク)寺をともに訪れた。また、30日には現代自動車の蔚山(ウルサン)工場を見学する予定。現代自動車は中国での自動車関連事業を効率的に進めるため、今年9月、中国に持ち株会社を設立する予定だ。
賈主席はこれに先立ち28日、サムスン電子の水原(スウォン)事業所を訪れた。サムスン電子の尹鍾龍(ユン・ジョンヨン)副会長に迎えられた賈主席一行は会社の現況について紹介を受けた後、広報館と歴史館を見回った。
賈主席は同日、「中国に多くの投資をしているサムスン電子は、中国全域で見かけることのできる、最も親近感の持てる企業の1つ」とし、「アテネ五輪で見せたサムスンの底力を北京五輪でも遺憾なく発揮してほしい」と語った。
賈主席はサムスン電子の35年の歴史を整理した歴史館を見学、「新経営コーナー」に大きな関心を示し、中国の発展に向け、サムスンに協力と支援を求めたと会社側は伝えた。
金宗浩(キム・ジョンホ)記者 tellme@chosun.com
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/08/29/20040829000027.html━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
実はかな\xA4
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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