南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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Re: 現場指揮官の証言

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/02 08:57 投稿番号: [29040 / 29399]
現場の指揮官が、自分が受けた命令を知らないという程不思議は無い。

上海派遣軍楊子江上流方面上陸計画案十一月一日軍司令部第一課 第一要領一、軍ハ敵ノ抵抗ヲ予期シ十一月十二日未明ヨリ白茆口以西徐六芤口ニ亘ル間二、第三、艦隊及海軍航空隊ハ軍ノ作戦ニ協力ス 第二偵察及輸送三、偵察及輸送三、偵察ハ海軍艦艇及陸軍機ヲ以テ行フ企図秘匿ノタメ上陸直前ノモノハ実施セス四、重藤支隊ハ月浦鎮成ルヘク附近ニ集結後準備訓練ヲ実施ス五、輸送船碇泊場材料並楊陸作業部隊ハ十一月八日迄ニ遂次呉淞附近ニ到着ス六、重藤支隊ハ九十日呉淞附近ニ於テ乗船十一日抗州湾方面ニ於テ陸海軍総合レ訓練ヲ実施ス其ノ実施ノ細部ニ関シテハ別ニ定ハ第十六師 団輸送船隊ハ十二日馬鞍群島ニ到着スシ上陸ヲ準備ス七、第一次輸送兵団

現場指揮官の証言

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/02 08:53 投稿番号: [29039 / 29399]
第十六師団の   現場指揮官たちが   どのような
命令を受けていたのかを、当事者の証言を確認してみよう。

   (歩兵第三十八連隊副官の述懐古)   
   聯隊の第一線が京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り
   乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として
   「支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ」と電話で伝えらた。
   (中略)
   部隊としては   実に驚き、困却しましたが   命令やむを得ず、
   各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告は
   ありませんでした。
   激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。

   (独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長の証言)
   第一中隊(十五センチ加農砲)の任務は   太平門に突進する
   佐々木支隊に   協力することであったが、南京が   陥落した
   12月13日、仙鶴門鎮付近で首都防衛決死隊の夜襲をうけ、
   かつ   多数の投降捕虜を得たので、その状況を   略述します。
   (中略)
   その行動は   極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、
   取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。
   (中略)
   俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えており
   ませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速
   軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言って
   きましたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」
   と命令されました。
  
   (歩兵第十六師団司令部副官の遺稿)   
   私は   その時、“一万の捕虜をどのように収容するか”   を
   考えなければ   ならなかった。
   南京城内には刑務所があるだろうから、そこに入れるとしても
   食わせるものが   ない。   我々自身が   イカモノを食いつつ、
   その日を   過ごしているのに   如何とも   なし難い。
   しかし、人間は水さえ飲んでいれば十日や二十日は保つと
   いうから、食飼のことは   何とかなるだろう。
   参謀長に   指示をうけようとしたが、参謀長は   即座に
   「捕虜はつくらん」   と言われたので、後方参謀に話した。
  
いずれの事例でも、捕虜もしくは投降兵について、軍司令部なり
師団なり   参謀なりが、明確に「殺せ」という指示を出している。
この方針については、早くも1938年、石川達三氏が   中島師団長
麾下の   第十六師団に取材して書いた小説、「生きている兵隊」に
登場している。
  
   (石川達三著「生きている兵隊」より)
   こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。
   自分たちが   これから   必死な戦闘にかかるというのに  
   警備をしながら   捕虜を連れて歩くわけには   いかない。  
   最も簡単に   処置をつける方法は   殺すことである。
   しかし   一旦つれて来ると   殺すのにも気骨が折れてならない。
   「捕虜は捕えたらその場で殺せ」   それは特に命令というわけ
   ではなかったが、大体   そういう方針が   上部から示された。
   笠原伍長は   こういう場合にあって、勇敢に   それを実行した。
   彼は数珠つなぎにした十三人を片ぱしから順々に斬って行った。
 
南京事件を必死で否定し、その実態を隠そうと血眼になる連中は、
捕虜にしないとは   「釈放する」   という意味だ、壕を掘るのは
「収容監視する」   ためだ、などと   大マジメに   主張する。
勝手な憶測を前提に、捕虜の殺害はなかったと   主張してみせるが、
それは、まったく   説得力がない。   ただ   見苦しいだけなのだ。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(18)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/02 08:49 投稿番号: [29038 / 29399]
中国大陸に武力侵攻した日本軍が、南京などで   捕虜にした
多数の中国軍兵士を   組織的に   大量殺害した事件の背景に
補給線確保の軽視という   日本軍の特質があった。
自軍の食料さえ   確保困難な状況のうえに、予想を超える  
大量の捕虜が発生し、その給養に窮して   殺害に及んだのだ。
日本軍将兵の証言記録などが、それを   裏付けている。

日本軍の   補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において   略奪行為などが   多発する事態をも招いた。
太平洋の孤島や   南方の密林とは違って、多くの人々が住む
中国では、餓死者などはなかったと思われやすいが、敗戦前
2年間の中国戦場では   病死者は戦死者を   上回っていた。

長尾五一軍医中佐の遺著などが、その事実を   裏付けている。
中国戦線で   最後の作戦となった第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月〜6月の   3カ月間の死者数は   戦死が695人、
戦傷死322人、戦病死2184人、計3201人にのぼり、
「第二十軍の統帥発動以来終戦までの各種比率」については
「戦死、戦傷、戦病死   おおむね   4対5対9」   である。
(第二十軍軍医部の戦死・戦病死者別一覧表の注)

中国戦線でも、戦死・戦傷より   「戦病死」   が圧倒的だ。
負傷した後に、包帯所や   野戦病院で   死亡する者も多かった。
ことは、患者の給養がきわめて悪かったことと無関係ではない。
病死の大部分が   長期間の給養不足で、栄養失調状態にあって
病気に対する抵抗力を失っていたため、戦病死に至ったものだ。
これも   広い意味で   餓死の分類に入る。

中国戦線での   45万の戦没者の   過半数が戦病死、それも
給養不足に基づく   栄養失調や、それが原因での体力の消耗
による   広い意昧での餓死であった   ということだ。
日本軍が、補給らしい補給もなしに   現地調達する方針は、
明治以来   一貫していた。   日清戦争でも朝鮮出兵軍からの
補給困難の訴えに対し、参謀本部は次のように訓令している。

   「古昔、兵家の格言に因糧於敵(糧を敵に因る)の一句あり。
   爾来   内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものは
   この理由に外ならず。…糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、
   いわんやこれを運搬する人夫においてをや…」
   (明治27年6月29日、参謀総長熾仁親王から混成旅団長
   大島義昌あての訓令)

「因糧於敵」、これが   侵略軍としての行為の根本にあった。
日本軍兵士の   戦地栄養失調症を含む広い意味での餓死者は、
合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万の
約60%   という割合になる。   靖国神社が「英霊」として
誉め讃える戦死者のうちの半数以上が、華々しい戦いの中に
散ったのではなく、飢餓と衰弱死に   追いやられたのだ。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(17)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/02 08:48 投稿番号: [29037 / 29399]
大量餓死によって、夥しい数の「英霊」   が生み出された。
その原因の   第3は、日本軍隊の   特質にあった   と言える。
ひとつは、日露戦争後の   日本軍の   軍事思想の中心に、
精神主義への過信があった   という点にある。

もともと   日本軍は、天皇への忠誠と   死を恐れぬ勇気を
将兵に要求した。   日本軍兵士は、天皇のため戦い、死ぬ。
国民の権益を守るため国民自らが組織することを基本とする
欧米の近代軍とは異なり、前近代的な忠君報恩を基本とする
錦旗の下の「皇軍」   が、近代もなお   存在してしまった。

兵士に要求されたのが、忠義第一とする   武士道精神だった。
命を惜しまず   名を惜しめ、生き恥をさらすより   死を選べ、
という教育が、皇軍兵士に   徹底的に   施された。

武士道精神は   近代戦においては   何の役にも   立たない。
この事実は、陸軍の父・大村益次郎が   実証したはずだった
にもかかわらず、軍の規範には   「武士道」   がすえられた。
武士道を基調とする精神主義は   兵士を組織に絶対服従させ、
個人個人の自発性を   失わせるうえでも   威力を発揮した。

天皇への忠誠を柱とする   精神主義の強調は   軍人勅諭に
表され、日本軍兵士の行動を   縦横に   縛り付けていた。
日露戦争での勝利も、日本軍に   欧米の模倣から脱却して
独自の軍事思想を確立させる機会となった。   物量よりも
精神力を重視し、歩兵の銃剣による   白兵突撃戦が最後の
勝敗を決するものだという   白兵主義に   つながった。

日露戦争で、砲兵火力で勝るロシア軍に対して、日本軍は
銃剣突撃をもって   旅順、遼陽、奉天で   勝利を収めた。
この経験から、日本軍部には兵力の多寡、装備の優劣より、
精神力の差が   勝敗を分ける   という軍事思想が根付いた。
こうした精神主義は、補給の軽視を生み、敗因となった。

こうした   火力軽視、白兵主義は、火力装備の発達した
近代の軍隊に対しては、まったく   通用しなかったのだ。
日露戦争において   旅順要塞への白兵突撃を繰り返して、
屍体の山を築いた   教訓は、少しも   生かされなかった。
速射砲や機関銃の弾幕、十字砲火の中に   白兵で突入する、
そんな作戦を   繰り返し、無駄な犠牲が出ても、第一線の
実情さえ知らない参謀や高級指揮官は、突撃を命じ続けた。

ガダルカナルでの失敗も   生かされず、ソロモン諸島でも、
ニューギニアでも、フィリピンでも、ビルマでも、皇軍は
白兵主義を盲信して   米軍の火力の前に死体の山を築いた。
こうした   無能な作戦を強行した   軍上層部連中と一緒に、
十把一絡げにして、悲惨な餓死を強いられた犠牲者たちを
「護国の英霊」だ   などとして   祀りあげることは、
戦争犠牲者の冒涜であり、厚顔無恥も   はなはだしい。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(16)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/02 08:46 投稿番号: [29036 / 29399]
前述してきたように、日本軍戦没者の過半数が   餓死だった。
戦闘で   華々しく   戦い、玉のように砕け散ったのではなく、
飢えと   病気にさいなまれ、やせ衰えて   無念の涙を流し、
密林の中で   次々と倒れて   死んだのだ。
こうした   悲惨な結果をもたらした原因を   考察してみよう。

まず   第1に、補給無視の   作戦計画が   あげられる。
軍隊が行動し戦闘するためには   兵員と軍需品の輸送手段と、
弾薬、資材、食糧などの軍需品を供給する補給が欠かせない。
ところが、日本軍は   作戦を重視していたわりには、
補給確保、特に   食糧補給を   きわめて   軽視していた。
作戦目的ばかりを重視して補給を無視した無謀な作戦ばかりが
各地で実行され、結果として   多数の将兵を餓死に追いやった。

ガ島敗戦の際に、今村第八方面軍司令官が   第十七軍司令官に
対して、この敗戦は   「饑餓の自滅」   であり、その原因は
「全く   軍部中央部の   過誤による」   もので、これは
「補給と関連なしに、戦略戦術だけを研究し   教育していた
陸軍多年の弊風が累をなし」   たものだ、と語っているのは、
まさに   至言である   と思う。

第2に、兵站軽視の作戦指導にあった   と言えるだろう。
日本陸軍は、伝統的に   対露(ロシア革命後は対ソ連)戦争を
第一の目標として   編成され、訓練を続けてきた   経緯がある。
したがって、その予想戦場は   北満州やシベリアの広野だった。
軍需品や食糧の補給を担うのは   後方部隊の   輜重部隊であり、
その部隊は、戦時に特設する馬を   主な輸送力としていた。

陸軍は   農林省と共同して   全国の農家に馬の飼育を奨励し、
戦時には   この馬を徴発する計画を立てていた。
41年7月、日本軍部は   独ソ戦の推移いかんによっては
対ソ戦を始めようとし、陸軍は   大規模な動員を行なった。
これが   いわゆる   関東軍特殊演習(関特演)だった。

こうした満州への大動員を行なっておきながら、南方攻略へと
大きく国策が転換されたが、後方軽視という状況が現れた。
南方作戦を具体化にあたり、大本営の兵站に関する基本構想は
「原則として   満州の集積軍需品は抽出せず、中国大陸に対する
補給は最大限に削減して余裕を作り、必要な場合は中国方面から
さらに引き抜いて   南方用作戦資材を充足する」   だった。
(参考:防衛研究所所蔵『戦史叢書・マレー侵攻作戦』)

つまり、満州に動員して大量蓄積した軍需物資は、対ソ戦に備え
そのままとし、支那派遣軍から一部を引き抜いて間に合わせよう
という   甘い考えしか   持っていなかったのだ。
「極力内地ノ負担及船舶輸送力ノ軽減ヲ図リ、最小ノ軍需資材ヲ
最有効ニ活用シ現地ニ於テ創意自製自活シ得ルモノハ原則トシテ
之ニ據ルヲ旨トセリ」(南方軍参謀作戦資料)   という具合だ。

しかし、この方針には   欠点があった。
兵要地誌の調査不足による   現地自活主義の破綻は、
やがて明らかになり、大本営の見通しの甘さが   露呈する。
気の毒などは   第一線の   兵隊たちだった。
彼らは、情報収集力のない軍の失敗による   犠牲者だった。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2013/01/01 21:24 投稿番号: [29035 / 29399]
我罪ボイスちゃん。

欧米やシナ畜、チョンころの日本国民に対する大虐殺は知らん振りかい〜。

サヨキチは反日民族でその内唾棄されるだろうなぁ〜。俺は今でもぺ!だの。

Re: 馬鹿ウヨは算数もできない

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2013/01/01 21:20 投稿番号: [29034 / 29399]
>遺伝的に優れてる民族である朝鮮人なら幼稚園児でも理解できる算数ですら計算できない

↑お前、意味不明だがな〜?ま、チョンコロはチョン国に帰りな〜。

お前の大好きなチョン人に為れば良いんでねえの〜。

馬鹿ウヨは算数もできない

投稿者: shoojouji 投稿日時: 2013/01/01 18:11 投稿番号: [29033 / 29399]
遺伝的に優れてる民族である朝鮮人なら幼稚園児でも理解できる算数ですら計算できない

これだから日本人は世界中で見下されるんだよ

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(15)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/01 17:11 投稿番号: [29032 / 29399]
太平洋の孤島や南方の密林とは違い、人口稠密で物資豊富な
中国戦線では、餓死者など   生じなかった   と思われやすい。
しかし、敗戦前2年間の   中国戦線では   戦死者数よりも
病死者数が上回っており、その死因は   栄養失調、もしくは
栄養失調と不可分の   マラリア、赤痢、脚気など   だった。

中国戦線でも、補給困難による飢餓と   栄養失調による体力
消耗で、病気が重症化して   多数の「英霊」   を発生させて
いったのだ。   ある軍医の記録を   以下に引用する。

  「酷熱多湿なるうえ敵機の跳梁、道路の破壊等により補給は
  予定の如く   行なわれず、敵味方の大軍により   現地物資は
  消費し尽され、将兵の疲労   言語に絶するものがあった」
  (長尾五一著『戦争と栄養』、西田書店1994年より抜粋)

中国戦線の「英霊」増加が   もっとも   集中したのは
最後の2年間であり、その多くが   戦死ではなく病死だった。
その状況は、45年に入って   さらに   深刻になっていた。
中国戦線で最後の作戦となった   第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月から6月の3ヶ月間の死者の内訳は次のとおりだ。

    戦   死      695人(22%)
    戦傷死      322人(10%)
    戦病死    2,184人(68%)
    合   計    3,201人(100%)

圧倒的に多い戦病死者の詳細な内訳は不明だが、その大部分が
長期間の不十分な給養で、栄養失調状態から病気への抵抗力を
失い、病死にいたったことは、軍医の記録から   判明している。
中国大陸では、45万の   戦没者が発生した。
その過半数が   戦病死、それも   給養不足による   栄養失調や、
それが原因での体力消耗による   広い意味での餓死だったのだ。

戦死者よりも   餓死した者が多い、これが   日本軍の特徴だ。
中国大陸でも   太平洋でも、その事態は   変わらない。
このような「近代軍」が   20世紀にも   存在したのだ。
しかし、その悲惨な実態は   「玉砕」や   「散華」という
大本営が作り出した   美しく勇ましい言葉で   覆い隠された。

第二次大戦における   日本軍の戦没者の総数、その中での
戦死・戦病死者などの   正確な割合は、残念ながら判らない。
日本軍の敗北に終わったこともあって、正確に数えることは
きわめて困難であり、多くの戦場が「玉砕」   つまり全滅し、
生存者の証言や記録が失われていることも   原因の一つだ。

また、降伏の直後に、戦争犯罪の追及を恐れて、組織的に
関連資料の大量焼却が実行され、陸海軍の各部隊、さらには
市町村役場の   兵事関係書類までが   焼かれてしまったのだ。
このため、戦後も日が経つにつれて   調査がすすみ
戦没者の数が   どんどん増えていく   という状況だった。
この点からみても、旧軍部の体質を窺い知ることができる。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(14)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/01 17:10 投稿番号: [29031 / 29399]
インパールから   敗退する道は、日本軍兵士たちによって
「靖国街道」、あるいは   「白骨街道」   と名づけられた。
悲惨な退却の様相について、前述した将兵とは別の
一人の   将校の証言を、以下に   引用してみたい。

    兵隊達の姿は   既に骸骨に   等しかった。
    げっそり窪んだ眼が、伸び放題の無精髭と   尖り立った
    頬骨の奥に空ろに光っていた。顔色は日灼けのした上に
    泥濘をまぶしつけて、それでいて、その底に澱む
    不透明な蒼白さが   浮いて見えた。

    手先きは   僅かに皮膚を冠ったばかりの骨が、一本一本
    浮き立ち、その上を通る静脈がどす黒く不気味であった。
    足先きは   靴が脱げない程   ふくらんでいた。
    雨にふやけたのだ。   まるで豆腐糠のように光沢のない
    白さに腫れ上がっていた。靴を穿き潰した者が大勢いた
    が、そんな者の   足先きは   一層ひどかった。

    被服は   いうまでもなく   泥にまみれ切って   臀や肘の
    あたりがべろべろに破れていても修理など出来なかった。
    それを   ひらひらさせながら   歩いていた。
    もう   その頃になると、脚気で全身むくみあがった者は
    いなかった。   とっくに   落伍したのだ。   したがって、
    兵隊達は   一様に枯れ切った細い枯木に   ひとしかった。
     (中略)
    その頃、誰言うことなく、この街道を靖国街道と言った。
    その儘歩き続ければ、靖国神社に通じるという意味である
    (村田平次『インパール作戦―烈兵団コヒマの死闘』より)

1952年に   厚生省援護局の調査したビルマ方面の作戦兵力と
戦没者の数は、次のとおりだ。
    兵   力    303,501
    戦没者    185,149
    帰還者    118,351
戦没者は、じつに   61%にも   達したことが分かる。
これは、陸軍の陸上部隊のみで   航空部隊は   含まれていない。
つまり、海軍と航空部隊を加えれば、犠牲者数は   もっと多い。
この戦没者の中で、餓死・病死者の割合が   どうであるかは、
正確には判明しないのだが、多くの将兵の証言や記録によると
戦死者よりも   餓死・病死者が   はるかに多かったことが判る。

補給を無視した   無謀な作戦に駆り出され、飢餓地獄のなかで
歩く体力を失い、助けてくれ、連れて行ってくれ   と泣き叫び
友軍兵士の脚に   すがりついていた   重病患者たちの   無念さ、
悲しみを   思うとき、「玉砕」などという粉飾された言葉を並べ
偽りの戦果ばかりを発表し続けた大本営、そして日本軍自体に
怒りと   情けなさを   感じざるを得ない。

同時に、その当時の軍部が   垂れ流した   戦争の大義名分や
美しく   粉飾された   武勇談などを、いまだに疑うことなく
賛美礼賛して憚らない   愚かなヤスクニ派が存在することも、
同じ日本人として   恥ずかしいことであり嘆かざるを得ない。
これでは、平和を生きる   日本国民としては   無責任であり、
無念の死を遂げた大勢の戦争犠牲者に対し本当に申し訳ない。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(13)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/01 17:09 投稿番号: [29030 / 29399]
惨憺たる敗北を喫し、おびただしい数の「英霊」を増産した
インパール作戦の実情について、もう少し   記述しておこう。
南方軍復員本部復員課が   1946年6月に作成した資料、
「ウ号作戦及次期態勢移行ノ作戦間ノ給與及衛生」を引用する。

    歩兵第六十七聯隊   大佐滝口一郎
    給與   終始後方補給皆無ニシテ主食米ハ現地物資ヲ利用
      セルモ、其他特ニ塩補給極メテ困難ニシテ全般的ニ
      極メテ不良ナリ
    衛生   給與ノ素悪、雨期、薬物補給ノ皆無等ニ依リ、
      栄養失調、マラリア、脚気多発シ、戦病死者多発
      スルノ止ムナキニ至リ、衛生状態極メテ不良ナリ

これは、報告の   ごく一部であり、他の聯隊長からの報告も
同様か、あるいは   それ以上に   悲惨な状況を報告している。
いずれも   作戦中は   糧秣の補給がなかったこと、
そのために   栄養失調やマラリア、脚気、赤痢などが多発し、
多数の死者が   出ていたことを   伝えている。

大本営が、作戦の失敗を   ようやく認めて、中止を命じたのは
7月3日のことだったが、ときすでに   遅かった。
兵士の体力は衰え、健康な者など   誰一人   いなかった。
兵士の命を第一に考えるなら、いさぎよく降伏すべきなのだが、
敵の捕虜になるなら死ぬべきだ   とする   皇軍においては
それは許されず、悲惨な退却が   試みられることになった。

飢餓に苦しみながら、雨期に入ったアラカン山系の密林の中を
退却中に力尽きた   将兵の死体が   退路を埋めた。
惨状は、生き残った兵士によって、次のように描かれている。

    遺棄された死体が横たわり、手榴弾で自決した負傷兵の
    屍があり、その数が   だんだん増えてきた。
    石ころの   難路を越え、湿地にかかると、動けぬ重症の
    兵たちが三々五々屯していた。水をくれ、連れていって
    くれと   泣き叫び、脚にしがみついて   放れないのだ。
    髪はのび放題のび、よくもこんなにやせたものだと
    思うほど、骨に皮をかけただけの、あわれな姿だ。
    息はついているが、さながら   幽霊だった。
    (中略)
    途中、潅木の中にひそんだ盗賊にやられた兵が、
    腹部を至近弾でやられ、雑嚢が散乱している姿を見た。
    戦争は生きることの全貌を一変させるものだ。
    生きるためには、味方さえ   殺しあうのだ。
    われわれも、恥もなく   屍についた雑嚢を探したのだが
    食い物はなにひとつはいっていなかった。   おぞましい
    非人の仕業もあきらめ、歩いては休み、休んでは歩き、
    体内に残る生命の焔をかきたて、生きようとする苦行だけは
    つづけた。   (志摩辰郎「地獄街道の戦い」より引用)

日本兵は、餓死寸前の状態で、インパールからの退却を続けた。
まさに   地獄であり、どこにも   美しい「散華」は存在しない。
このような   退却の様相は、ほかの将兵によっても語られている。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(12)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/01 17:08 投稿番号: [29029 / 29399]
ガダルカナル、ニューギニアなど   太平洋の島々のほかにも、
補給無視で   「英霊」を   増産した作戦として   有名なのは、
1944年に   ビルマ方面軍が強行した   インパール作戦だ。
戦力枯渇が目立つ44年になって、成算のないインド領への
大挙侵攻を実行するなど、無謀というほかない   作戦だった。
じつは、第十五軍司令官の   功名心から   実行されたものだ。

チンドウィン河を渡り、インド・ビルマ国境アラカン山脈を
越え、インド領内に侵入しようという   この作戦の経路には、
密林と   山脈があり、交通機関はなく、第十五軍の3個師団
10万の大軍の   兵站線確保の見込みは   最初からなかった。
すでに制空権は   連合国軍に移り、昼間の行動は   困難であり
道路を構築するための資材も土木機械も   日本軍にはなかった。

道路があっても、制空権がないため   物資を運ぶための
自動車を   走らせることはできず、また   走らせる自動車も、
ガソリンも欠乏していたのだから、土台   無理な計画だった。
なお、このときの   第十五軍   司令官は、盧溝橋事件の際の
支那駐屯歩兵第一聯隊長で、戦争のきっかけを作った人物だ。

軍司令官は、作戦に懸念を表明する補給担当の参謀を一喝し、
像や牛、馬、水牛の収集と   調教を命令した。
これらの動物に荷物を背負わせて運び、用が済んだら殺して
食べるのだといい、この作戦を   義経の「鵯越え」   や、
ハンニバルのアルプス越えに例えて得意になっていたという。

当時、大本営の作戦課長だった真田穣一郎大佐は、報告を受け
「第十五軍ノ案ハ徹底的ト云フヨリ寧ロ無茶苦茶ナ積極案ナリ」
と回想録に書いた。   (引用:『戦史叢書・インパール作戦』)
ところが、この“無茶苦茶な”作戦が、南方軍の認可を受けて
実行に移されてしまった。日本軍には構造的欠陥があったのだ。

3月上旬、携行食糧2週間分を持って、チンドウィン河を渡り、
攻撃を開始した   第十五軍の兵隊たちの運命は、悲惨だった。
左翼の第三十三師団は、3月下旬にインパール平地に達したが
食糧はなくなり、弾薬も不足して   攻撃続行が困難となった。
軍司令官は   これに憤って、師団長の柳田中将を罷免した。

中央を進んだ第十五師団も、インパール間近まで   迫ったが、
三十三師団と同様の状況から   攻撃が頓挫した。軍司令官は
消極的だとして、第十五師団長の山内中将も   罷免した。
右翼を進んだ第三十一師団の佐藤中将は、インパール北方に
進出していたが、「米一粒も補給がない」ため、独断で退却。

この佐藤中将の判断は当然であったが、日本軍という特殊な
組織では   許される行為ではなく、抗命の容疑で罷免のうえ、
軍法会議にかけられ、精神錯乱ということで   片付けられた。
軍司令官は   3人の部下師団長を全員罷免し、強引に攻撃を
督促したが、補給の途絶えた   部隊の状況は   地獄だった。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(11)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/01 17:07 投稿番号: [29028 / 29399]
補給無視の無謀な作戦で   大量の餓死者を出した   例として
ガダルカナル戦と   ソロモン群島の戦闘状況を   前述したが、
これらは、「英霊」   大量増産の   ごく   一例   にすぎない。
太平洋の   全戦域にわたって、餓死・病死が   多数発生した。
これは、日本軍の   近代軍にあるまじき欠陥に要因があった

無謀な侵攻作戦の例は、ガ島やソロモン群島の他にも数多い。
たとえば、42年の   ポートモレスビー攻略戦。
道なきジャングルを   踏破して、標高4千mの   山脈を越え、
ニューギニア東南岸を攻略するという無謀きわまりない作戦で
結果、日本軍は惨敗・退却したが、敗残兵の多くは補給もなく
餓死者を   大量に発生させて   全滅に近い状態   となった。

このときの様子を、歩兵第百四十四聯隊の小岩井第二大隊長が
次のように述べている。

    食糧の欠乏は、敵弾以上の徹底的損害を   我が軍に与える
    ようになって来た。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を
    消耗しきってしまい、頬は落ち   髪は伸び放題となり、
    眼球は深く   凹んで   底に異様な光が残った。
    そして顎はとび出し、首は一握りほどに細り、気力なく
    足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているものは破れ、
    跣足で棒のように痩せた腕に飯盒をぶら下げ、草を摘み
    水を汲んで歩く姿にはどこにも二、三十才の年齢は見られず
    老いさらばえた乞食といった様子だった。

    栄養失調の衰弱した体に   一たび下痢が始まりマラリアが
    頭を擡げると、血便をくだし、四十度前後の高熱に襲われ
    キニーネ等の微温的な投薬では解熱どころか却って下痢を
    悪化し、発病までは一粒の米でも貪り食った者が、今度は
    戦友の心尽くしの一滴の粥すら   欲しないようになり、水
    ばかり飲んで喘いでいるのだった。
     (中略)
    患者はたいてい一週間も発熱を続けると   脳症を起こして
    うわ言をいい始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉
    のように飽気なく死んで行った。
    三十才にもなろうかという男が   無意識に   母親の名を
    呼び続けて   死んで行くこともあった。
     (中略)
    この作戦の終ったあとで戦歿者の統計を調べると   三割が
    敵の弾による戦死、残る七割は病死だった。

戦場の実態は   このような惨状だったが、大本営はこれを「玉砕」
という   美しく華々しい戦闘死であったかのように   伝えている。
無謀な作戦に駆り出され、補給もないまま   やせ細って   死んだ
多くの犠牲者の無念、苦しみ、悲しみは   すべて覆い隠された。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2013/01/01 16:36 投稿番号: [29027 / 29399]
>ガダルカナル守備隊総数36,204名だよね、脳死君。36,204−20,000−5,000−1,5000=−3,796名になるよ、脳死君。更に一万人程救出されているからね、−13,796名はどうなったんだい、幽霊でも居たの、脳死君。

やっぱりねぇ。バカ猫ですねぇ(*・ω・)   参考までに以下のウイキペディアの解説を読んでみてちょうだいね。

「ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。」

『直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死』
幼稚園児なみの低脳猫のデタラメ算数とは、ぜんぜん違いますわ。『戦闘による死者』よりも『餓死や病死者』のほうが圧倒的に多かったていうのは、史実ですからね。   理解できないのは、バカ猫だけですねえ。   

なんせ猫の脳みその重さは、約32gしかありません(^0^))   ちなみに、人間の脳は1,300g以上、犬や猿でも約100gありますよ。
脳みその小さい猫は、ものすごいバカということがよくわかりますねwwww

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2013/01/01 15:52 投稿番号: [29026 / 29399]
ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、
それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、
このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死
だったと推定されている。一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ガダルカナル島の戦い

>36,204−20,000−5,000−1,5000=−3,796名になるよ、脳死君。

おまえのそのマイナス20,000ってのは何ぞや?(藁

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/01 13:39 投稿番号: [29025 / 29399]
君は算数ができないんだから、数字が出て来るお話しには口を出さない方が良いよ、脳死君。

方面軍司令官は何を根據にそう言ったんだい、脳死君。

ガダルカナル守備隊総数36,204名だよね、脳死君。

36,204−20,000−5,000−1,5000=−3,796名になるよ、脳死君。

更に一万人程救出されているからね、−13,796名はどうなったんだい、幽霊でも居たの、脳死君。

君は算数ができないんだからね、脳死君。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2013/01/01 13:21 投稿番号: [29024 / 29399]
ガダルカナル島の場合、方面軍司令官は死者二万、戦死五〇〇〇、餓死一万五〇〇〇と述べている。

「戦死者の6割以上が餓死だった」
http://www.jrcl.net/framek897.html

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/01 12:06 投稿番号: [29023 / 29399]
第四水雷戦隊
昭和17年12月21日

捕虜(艦爆搭乗少佐)訊問による調査事項

一.在ガ島兵力(12月15日現在)
   海兵隊約3万航空隊大型爆撃機B17   10機乃至15機
   戦闘機エアーコブラ10機   ロッキード10機   F4F50機(海軍
   機)   艦爆SBC25機(海軍機)

二.飛行場は三個所ありて「ルンガ」河東方旧飛行場爆撃機用(戦闘機も担
   当すること在り)更に本飛行場陸軍戦闘機隊用「ルンガ」河飛行場海軍
   戦闘機隊用実用機は山林内に引き込みあり
   滑走路附近に廃機多し
   飛行場周辺高角砲40乃至50門あり

三.航空隊要員は消耗率多く殊に艦爆関係者は補充少数にしてまいにち2〜
   3回飛行し関係員は疲労しあり

四.水上艦艇に関すること承知しあらず

↑これが当時のガ島米軍の情況だね。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/01 11:35 投稿番号: [29022 / 29399]
>戦争で戦死はあたりまえだニャン。
その戦死の内容を聞いてるニャン。
銃撃死、爆死、凍死、病死、餓死...
なにが一番ニャ?

↑日本軍の場合戦傷死は戦闘中を言いますし、其の記録もあります。

他は戦傷死、変死、病死と言う事になりますね、記録にあります。

第○○隊死傷表という記録があります。

此の死傷表に餓死、病死は有りません。

ガ島方面潜水艦による糧食輸送実施経過

11―24   カミンボタサハロング   敵飛行機魚雷艇警戒厳重なる為揚陸中止
11―25   カミンボ   24日分の11噸揚陸

11―26   カミンボ   1930完了使用大発2隻便乗者23名

11−27   カミンボ   1900完了使用大発2隻薄暮時哨戒機2を認めたる外敵を見ず

11−28   カミンボ   2015完了使用大発3隻便乗者25名

11−29   カミンボ   概ね完了d×2を認め潜行便乗者イ3大発定員3名

11−30   カミンボ   2230完了使用大発2隻小大発1隻便乗者5名ルンガ沖夜戦あり

12−3    カミンボ   魚雷艇発見2回潜行2230中止使用大発1警戒厳重なり便乗者25名

12−5    カミンボ   1830完了大発2敵を見ず便乗者25名

12−6    カミンボ   2030完了使用大発2(2往復)魚雷艇より機銃射撃を受く便乗者4名糧食15噸弾約6噸揚陸

12−8    カミンボ   1850完了大発3敵を見ず便乗者32名

12−9   大発発進後魚雷艇の攻撃を受け魚雷後部に命中沈没(1800頃)

ガ島宛糧食、弾薬輸送量   約174噸

昭和十八年一月

本月下旬より「ガ島」方面の兵力を撤収他に転進の為「ケ」号作戦実施せらるることとなり各部隊に於いて着々準備ヲ進むると共に「ソロモン」方面の航空戦を強化し二十九日三十日両日に亘り「レンネル」島付近に出現せる敵有力艦隊に対し航空攻撃を加え戦艦1隻巡洋艦2隻撃沈其の他数隻大中破の戦果を収めたり

18年2月1日
前月末来「ガ島」方面兵力の転進作戦(ケ号作戦)実施せられ上旬3回に亘る輸送作戦は予期以上の成果を以て完了八日策戦を終了セリ

↑よく読んで考えましょうね、此が実戦記録です。

オマケを次に見せましょう。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(10)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 21:50 投稿番号: [29021 / 29399]
第十七軍と同じく、タロキナ作戦失敗後の   第六師団が
現地自活に移ってからの状況の例として、「戦史叢書」は
第六歩兵団司令部木下西舟少佐の   次の回想を掲げている。

   タロキナ作戦終了後の歩兵大隊の兵力は二〇〇〜三〇〇名
   であったと思うが、マラリアと栄養失調で   悲惨な状況で
   あった。   糧食の補給は   間もなく   全く   なくなった。
   現地自活に着手し、一人一畝を   耕作して、これによって
   一日   約一キログラムの芋を   収穫することにしたが、
   収穫までは   約三カ月かかるので、この間   毎日
   ジャングルの中の   野草を捜した。

   ひどい時には   飯盒の蓋一杯の   野草が食糧で、
   これに   時に澱粉椰子の団子が   加わる程度であった。
   塩は海岸で作った。
   ようやく   芋が出来始めると、今度は畑を荒す者が出た。
   畑を荒す者は   銃殺であった。
   人肉を食べた者がある   などという話も   あった。
   (引用史料:『戦史叢書・南太平洋陸軍作戦〈5〉』)

タロキナ作戦終了後   4万余の兵力は、方面軍の報告によれば
45年の   敗戦後には   23,053名にまで   減少しており、
「大部分このような事情に基づく戦病死者であると推定される」
と書かれている。

以前、NHK教育で   「封印――脱走者たちの終戦」   という
ドキュメント番組が   放送されたことが   ある。   その内容は、
ブーゲンビル島の第六師団のすさまじい飢餓の状況にかんする
旧日本兵たちの生々しい証言だったが、その中で   食糧を求め
離隊し、終戦後に戻った兵を   逃亡兵として、裁判にもかけず、
銃殺したというもので、終戦後60日もたってから30人もが
「処刑」   された   という証言もあった。

極限の飢餓状態の中で、食糧を求めて   隊を離れた   兵士を
「敵前逃亡」の罪名を被せて、軍法会議にかけずに殺害した
ということが事実であれば、当時の日本軍が   いかに
非人道的な強制を   行なっていたかが   示されている。

食糧は、わずかながら   自給できたとしても、栄養の偏りは
避けられず、将兵の体力は   低下していった。
さらに   補給の途絶によって、医薬品も   底をついた。
44年9月ごろには、マラリアの薬が   なくなり、全部隊の
人員の   じつに95%が   マラリア経験者だった   という。

なんらの戦果も期待できず、戦略的価値を   完全に失った島で
敵からさえも無視されまま、ただ餓死者を増やし続けた皇軍に
残された   唯一の道は、一人でも多くの生命を   救うために、
いさぎよく   敗北を認めて、ただちに   降伏を   すべきだった。

しかし、皇軍には   人権感覚や   近代軍としての   判断力が、
まったく   備わっていなかった。
その無謀な体質の背景には、「死」を   美しく   粉飾し続ける
靖国思想の侵淫が   少なからず存在していたと言えるだろう。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(9)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 21:49 投稿番号: [29020 / 29399]
1944年1月、日本軍の軍事拠点ラバウルは   完全に孤立した。
ニューギニアとニューブリテン島の間の   ダンピール海峡が
米軍に突破され、さらに   北方の諸島を   占領されたからだ。
44年3月、日本軍は   タロキナの敵陣地への反撃を試みたが、
圧倒的な米軍の火力に阻まれ、戦力をまったく喪失してしまう。

以後、ブーゲンビルの   第十七軍約3万2千、第八艦隊約2万、
計5万の陸海軍将兵は飢餓と戦いつつ敗戦を迎えることになる。
タロキナ作戦失敗後の状況は、第十七軍残務整理部が作成した
「ブーゲンビル島の作戦」   という史料に、記録されている。

    タロキナ攻略作戦は全力を傾けて行はれた。
    残余の軍需品も戦力を培養する為
    無制限に使用されたのは当然である。
    そこでこの作戦が失敗に帰したときには
    食ふべき何物も   残って居らなかった。

    そして銃を捨てると鍬をとった。
    作戦間に荒れ果てた耕地はもとより
    密林を伐開して開墾につとめた。
     (中略)
    土民の所有しているものが多くあらう筈がないのに
    之も半ば強制的に徴発するものも出て来た。
    木の芽、草の根、食べられるものはすべて食した。

    海の魚はとりたくても   敵機が絶えず哨戒するし
    爆薬は将来の作戦を考へればこんなことに供用は
    出来なかった。  
    小川の魚は   すぐとり尽された。
    蛋白質の給源は「トカゲ」であり   蛇であり鼠、
    「バッタ」の類に   及ばざるを得なかった。
     (中略)    
    以上のような給養状態であるから負傷したものの傷は
    なかなか   癒らないし   病後の恢復は   むつかしく、
    マラリアの蔓延は   之を助長した。
    かくの如くして「タロキナ」   作戦にもまさる
    兵力の損耗を来した。   率直に云ふならば死ぬ前に
    一度、たった一度だけで良いから   腹一杯食べたい
    と思ったのは   強ち死んでいった戦友だけでは
    なかった。

戦線が   すでに   北太平洋に移行したので、連合軍側は  
この無力化した日本軍を無視し、あえて強攻を加えることなく、
第十七軍は、もっぱら「飢餓」という強敵とのみ   戦いながら、
おびただしい数の   「戦死者」ならぬ「餓死者」を出しながら
惨めな敗戦を   迎えることになった。
「英霊」が   大量に増産された背景には、こうした惨状があった

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(8)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 21:47 投稿番号: [29019 / 29399]
惨めな   ガダルカナル敗退後の   ソロモン諸島方面の状況は、
その教訓を   生かせず、補給困難な離島に   兵力を送り込み、
「飢餓」大量発生の悲劇を   繰り返すばかりだった。
ガ島撤退の際、ラバウルの第八方面軍は、新来の第六師団を
北部ソロモンの   ブーゲンビル島に送り、第十七軍の収容と
同島の警備に   当たらせた。

また   従来から少数の陸軍部隊を配備していた中部ソロモン
ニュージョージア島ムンダや   サンタイサベル島のレガタに、
海軍陸戦隊を増強した。   陸軍も新たに南東支隊を編成した。
しかし、1943年当時   すでにソロモン群島方面の制空権は
米軍の手中にあり、島々への   補給輸送は   困難をきわめ、
ガ島の   二の舞になることは、必至の状況   となっていた。

米軍の   中部ソロモンへの攻撃は、ガ島撤退から   4ヶ月後、
43年6月30日に   始まった。   7月上旬には飛行場を奪い、
8月中旬には   北部の島にまで   上陸した。
各戦線では   残存部隊が   敵中に取り残され、撤退もできず、
また   降伏することも   許されず、「置き去り」   となった。

北部ソロモンの主島   ブーゲンビルには、各方面から
撤退してきた   部隊が   集まっていたが、11月1日、
米軍は   日本軍の予想をうらぎって   ブーゲンビル島
西海岸の   タロキナ岬に   上陸した。

ブーゲンビル島は   ラバウル防衛のための   要点だった。
海軍は   航空兵力の主力をあげ、タロキナへの反撃を行なった。
この   ブーゲンビル島沖航空戦について、大本営は、戦艦4隻、
航空母艦5隻、巡洋艦10隻撃沈などの   大戦果をあげた――
と   発表したが、これは   例によって、まったくの虚報だった。

第十七軍は、ジャングルを踏破して   タロキナ岬を攻撃したが、
圧倒的な火力の差で   反撃に失敗した。
米軍は、タロキナの橋頭堡と   飛行場を確保した後は、
日本軍を深追いせず、すでに   次の作戦に移っていた。
北部ソロモン群島の戦いが続いている間に、米軍は中部太平洋
方面での攻撃を進展させ、43年11月にはギルバート諸島の
マキン、タラワ両島に   上陸し、海軍守備隊は   全滅した。

44年2月には、マーシャル群島のクェゼリン、ルオット両島で
上陸した米軍に   陸海軍の守備隊が敗北、全滅した。
大本営は、これを   例によって   「玉砕」   と発表した。
同月17日、海軍の根拠地   トラック島が空襲で大損害を被った。
その後、ニューブリテン島はるか北方のアドミラルティー諸島を
占領されたので、ラバウルは完全に敵中に孤立することになった。

この段階で、ブーゲンビル島はもちろん、ラバウルの戦略的価値は
完全に失われた。   にもかかわらず、日本兵は投降できなかった。
撤退も降伏も許されない戦場で、皇軍兵士たちは   敵兵ではなく
より苛酷な   飢餓という   強敵との戦いを   続けることになった。
タロキナ作戦失敗後の   第十七軍の状況については、後述したい。
どのようにして「英霊」が大量増産されたか、実態を知ることで
ヤスクニ神社が美化する   戦争の真実を、明らかにできるだろう。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(7)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 21:46 投稿番号: [29018 / 29399]
ガ島奪回作戦は、補給をまったく無視して   部隊を送り込み、
戦死者の3倍もの餓死者を出すという   悲惨な結果を迎えた。
大量の餓死者を出すというこの戦局で、何よりも問題なのは
補給が困難なのがわかっているのに   上陸作戦の強行を命じ、
長期間   撤退させず、持久戦を命じた   大本営の責任だろう。

その伏線は、すでに   ミッドウェー作戦にあった。
連合艦隊が   ミッドウェー作戦を   計画したとき、当初
大本営海軍部は   強行に反対した。   その反対理由のひとつは、
たとえ   ミッドウェーを攻略できたとしても、占領後の防備や
補給輸送が難しい   ということだった。
(参考文献:防衛研究所『戦史叢書・ミッドウェー海戦』)

じつは、陸軍部も当初は反対で、補給が難しかろうというのが
その理由だった。   しかし、海軍主体の   作戦なので、陸軍は
わずか歩兵一大隊主体の   一木支隊を派遣することにしたのだ。
一木支隊の兵力は   歩兵第二十八聯隊長一木清直大佐指揮下の
歩兵一大隊を基幹とする   約3,000名だった。

この   一木支隊が、ガ島の   奪回作戦に   振り向けられた。
制海権が失われていたために   輸送船は使えず、一木支隊は
駆逐艦で   ガ島に送り込まれた。   このため、重火砲などは
運ぶことができず、火砲や戦車をそろえて待ちかまえていた
米軍に   敵うはずはなく、わずか   半日の戦闘で   先遣隊は
全滅し、聯隊長は   自決した。

圧倒的な兵力の差があるなかで、武士道精神と   銃剣突撃で  
米軍の弾幕に   対抗できるはずは   なかった。
一木支隊惨敗の後も   大本営は、同じように   川口支隊、
第二師団、第十七軍と、兵力の逐次投入を   繰り返した。
補給は   輸送船が使えず、「鼠輸送」や「蟻輸送」に頼った。

「鼠輸送」とは、本来戦闘用の艦艇である高速の駆逐艦を使い、
「蟻輸送」とは、小型の発動艇を使って昼間は島の陰に隠れて
夜間に   少しずつ行なう   輸送のことだ。
どちらも   兵員や小火器を運ぶのがやっとで、重火砲や戦車を
運ぶことはできず、少人数の補充兵を   送るのがやっとだから、
大軍を支える   補給品、弾薬や食糧を運ぶことは   無理だった。

そんなところに   陸軍兵力を   次々と送りこんだということは、
圧倒的に優勢な米軍の火力装備に   銃剣で勝てるという妄想を
軍上層部が   抱いていたからでは   ないだろうか。   さらには、
送り込んだ兵力への補給を無視し、持久戦を命じていたことは
精神力で飢餓を克服できると大本営は、本気で考えていたのだ。

歩兵の白兵突撃は、米軍の自動小銃と機関銃の圧倒的な弾幕に
なぎ倒され、ことごとく   全滅した。   ところが   日本軍は、
同じ失敗を、敗戦まで、他の島々でも   繰り返したのだ。
こうして、「玉砕」と称する   悲惨な全滅戦が全域で続けられ、
大量の   「英霊」が   生み出されていくことになった。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(6)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 21:45 投稿番号: [29017 / 29399]
補給もなく、飢餓と   栄養欠乏による疾病で、兵士が次々と
倒れていく   惨状にもかかわらず、大本営は   ガ島奪還作戦を
中断せず、11月16日、持久戦をせよ   と命令した。
第十七軍参謀長小沼治夫少将は、次のように   書いている。

    輸送、補給が続く状況に於ては   持久戦が成立するが、
    輸送補給が   途絶し   第一線将兵が飢え   杖をついて
    辛うじて歩行して居る「ガダルカナル」の第十七軍が
    持久任務を受けて   何時迄持久し得るやの回答は単に
    「敵の大攻勢を受ける迄持久し得」   といふに止まる。

    予が   大本営から持久任務を受領して   感じたことは
    「敵をして   大攻勢をとらしめないように   陣地特に
    アウステン山方面の陣地を   強化しつつ   進んで欺瞞、
    陽動及局部的積極行動を採り絶えず敵に危惧、圧迫感を
    抱かせる」   ことの必要であった。

つまり、補給が途絶えている状況で   持久戦を命じられたが、
見通しは立たず、結局のところ   敵に攻撃されるまで耐える
だけであり、できることとして   考えられるのは、局地的な
ゲリラ戦法等で   敵軍に   不安感、精神的圧迫感を   抱かせ、
攻撃を遅れさせるしかない――   ということだ。
さらに   小沼参謀長の手記は   以下のように続く。

   第一線陣地の守兵中歩行に堪えない傷病者は   陣地の守備に
   任じ(壕内に寝て居り敵が近づいて来ると起き上って射撃し
   又は手榴弾を投ずる)。   杖に倚って歩行し得る者は後方の
   糧秣運搬及炊事を担任し   比較的元気の者は或は挺進斥候と
   なり(出発数日前から飯の配給量を増加し元気を回復させて
   出した)敵陣深く潜入して   後方撹乱を行なわせ   或は夜間
   敵陣地又は哨所を奇襲して   偉功を樹てる等上下一致、戦友
   相励まし終始積極的(局部的なるも)に行動し敵の大攻勢を
   遅らせるに役立った。
   
このように   寝たきり状態や   杖を頼りに歩く兵士を抱えて、
ガダルカナル島の   持久戦が   戦われていたのだ。
防衛省の公判戦史が、各種資料から推計した数によると、
陸軍のガダルカナル島に上陸した人員は31,400名、
そのうち、途中病気などで   離島した者   740名、
撤収作戦で収容されたのは   約9,800名   であるから、
じつに   20,860名もの命が   失われたことになる。

このうち、純戦死が5,000名から   6,000名であり、
残りの約15,000名が   栄養失調症、マラリア、下痢、
脚気などの悪化による   餓死や病死である   とされている。
(参考:防衛研究所『戦史叢書・南太平洋陸軍作戦〈2〉』)
つまり、純然たる戦闘死の3倍以上が   広義の餓死者なのだ。
このような悲惨な状況を自ら招いた「皇軍」には、本質的に
近代軍としては   致命的な欠陥があった   と言えるだろう。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2012/12/31 21:23 投稿番号: [29016 / 29399]
戦死に於いては、全て当て嵌まるだろうが〜。

で、ワン子は何が言いてんだ〜?

餓死で戦死したのを愚弄してるんかい〜。蒋介石の黄河決壊作戦により多くのシナ人が何十万人として亡くなった。そこに援助で駆けつけた日本軍は、食料も与えたんだが〜。

お前見てると、シナ畜じゃねえのか、チョンコロか〜?

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: wankotyandamon 投稿日時: 2012/12/31 19:20 投稿番号: [29015 / 29399]
戦争で戦死はあたりまえだニャン。
その戦死の内容を聞いてるニャン。
銃撃死、爆死、凍死、病死、餓死...
なにが一番ニャ?

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/31 19:01 投稿番号: [29014 / 29399]
軍隊は戦死だよね、当然だよ。

外の死因があったら、その死因根拠を教えて頂戴ね。

資料は必要だよ。

因みに南洋の日本兵の頭部は70パーセント無い様だね、米国の資料に依ると。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: wankotyandamon 投稿日時: 2012/12/31 18:03 投稿番号: [29013 / 29399]
そんなら日本兵の死因の一位はなにか、教えて頂戴な。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/31 17:56 投稿番号: [29012 / 29399]
言われるだけで何の証明にはならないよ。

食糧が無く死んだ人間の特定は一つも出来ていない、あれば資料を示して頂戴ね。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: wankotyandamon 投稿日時: 2012/12/31 16:29 投稿番号: [29011 / 29399]
>日本軍が餓死してという証拠はない。

日本兵戦死者の約6割が餓死と言われているよ。
君は違うと言うのかい?
では死因の一位はなんなの?

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/31 15:20 投稿番号: [29010 / 29399]
日本軍が餓死してという証拠はない。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 15:07 投稿番号: [29009 / 29399]
降伏を許されず、死ぬまで戦うことを義務づけられた兵隊が、
戦うための体力を失い、密林の中で   次々と餓死・病死した。
そうした状況を   辛くも生き延びた将兵が   残した手記がある。
以下、小尾靖夫「人間の限界――陣中日記」   より引用する。

   12月27日(1942年)
    今朝もまた数名が昇天する。
   ゴロゴロ転がっている屍体に蝿がぶんぶんたかっている。
   どうやら俺たちは   人間の肉体の限界まで   きたらしい。
   生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は産毛のように
   薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変った
   のだろう。
   体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。
     (中略)
   やせる型の人間は骨までやせ、肥える型の人間はブヨブヨに
   ふくらむだけ。   歯でさえも金冠や充填物が外れてしまった
   のを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きている
   ことを初めて知った。

   この頃アウステン山に   不思議な生命判断が流行りだした。
   限界に近づいた肉体の   生命の日数を、総計の結果から
   次のように   わけたのである。
   この非科学的であり   非人道的である   生命判断は
   決して   外れなかった。

     立つことのできる人間は・・・寿命三十日間
     身体を起こして坐れる人間は・・・・三週間
     寝たきり起きられない人間は・・・・一週間
     寝たまま小便をするものは・・・・・三日間
     もの言わなくなったものは・・・・・二日間
     またたきしなくなったものは   ・・・・明日

これが、ガ島の第一線部隊の   食糧欠乏がもたらした   状況だ。
こんな惨状に陥っている第十七軍に対しても、なおも大本営は
11月16日付で、持久戦をせよ   という命令を   下している。
裸の人間を   毒蛇の巣に放り込んでおいて、そこで   耐えろ
と言っているに   等しい。   これでは   まるで、意図的に
「靖国の英霊」を、大量増産しようとしていたかのようだ。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 15:06 投稿番号: [29008 / 29399]
補給が   不可能ならば、近代戦では   「敗北」   を意味する。
それでも   大本営は、ガダルカナル島奪回作戦を   打ち切る
という決断を下すことができず、前線の指揮官も作戦中止を
言い出すことができず、ずるずると   無謀な戦いが継続した。

この間の   海空の大消耗戦で生じた   艦船、航空機、兵員の
莫大な損害は、取り返しのつかない   戦力喪失となり、
その後の戦況にも   大きな影響を   及ぼすこととなった。
大本営が、やっとのことで   ガ島からの撤退を決めたのは、
42年12月31日に   なってからだった。

撤収作戦そのものは、米軍に   察知されずに   成功したが、
かろうじて救出された者は、上陸した全兵力の   3分の1。
その兵隊たちも   栄養失調で体力を失い、餓死寸前だった。
この   ガ島惨敗の責任は、まったく   大本営の作戦にある。

装備も優秀で   準備万端を整えて上陸してきた   米軍に対し、
情報収集もせずに、わずか1000名で軽装備の一木支隊に
銃剣突撃で飛行場を奪回しようという、およそ戦理に反した
無茶な攻撃を実行させ、その後も   同じ失敗を   繰り返した。

一木支隊先遣隊が、米軍の火力に阻まれ、戦車に蹂躙されて
一瞬にして全滅したのに、何回も同じ戦法を繰り返したのだ。
制海・制空権を失ったために   闇夜の中の鼠輸送しかできず、
重火器も運べず、白兵突撃戦法しか採れない――
これでは、優秀な火力装備に   勝てないことは明らかなのに、
大本営は、装備も補給も軽視して   亡国的怠慢を犯したのだ。

装備が   運べないのだから、食糧も   運べない。
人間は   食糧がなければ   生きて行けない。
ましてや   戦闘に耐えうる   体力維持は   不可能だ。
大本営の作戦当局者たちは、前線に送り込んだ兵隊たちの
食糧補給を、いったい   どう考えていたのだろうか。

南太平洋方面の日本軍の   戦略基地であった   ラバウルと、
ガダルカナル島との間は   1100キロも   離れている。
制海・制空権を   奪われ、補給が困難なことは明白なのに、
3万を超す将兵が、身一つで   この島に送り込まれたのだ。
上陸した兵士たちは、背嚢に背負った   数日分の食料を
食いつくした後は、食糧の補給を   受けられなかった。

空腹に耐えかね、野生の植物を食べて   下痢をおこしたり、
有毒植物に当たる場合も   多かった。
栄養失調で   体力が衰えているため、赤痢や   マラリア、
その他の風土病への抵抗力もなくし、次々と倒れていった。
そうした記録を   掘り起こしながら、太平洋戦争の実相と
玉砕という愚挙を繰り返した日本軍の性質を考えていきたい。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 15:05 投稿番号: [29007 / 29399]
46年6月5日のミッドウェイの敗北によって、日本海軍は
主力空母4隻を失い、太平洋戦線における   制海権を失った。
それなのに、8月7日に   米軍がガダルカナルに上陸すると、
その時の前線基地ラバウルから、600カイリも前方にある
この島に、大本営は   次々と   兵力を送り込んでいったのだ。

米軍の上陸に   慌てふためいた大本営は、その奪回を決意し、
第十七軍を   その作戦に   当てることにしたが、とりあえず
急行させる   兵力としては、ミッドウェイ作戦用の   部隊で、
その中止後   グアムに待機していた一木支隊を送ることにした。

ところが   一木支隊を   急遽派遣するために、輸送船によらず
一木清直大佐以下1000名の先遣隊を駆逐艦6隻に分乗させ
急行させたのだ。   もともと   軽装備だった一木支隊先遣隊は、
駆逐艦輸送のため   重火器は持てず、食糧7日分だけを携行し、
戦車や重砲を持つ米軍から   飛行場を奪う任務を   負わされた。

一木大佐は、白兵突撃で   飛行場を奪回するつもりで、
8月1日夜   ガダルカナル島タイボ岬に上陸し、8月20日、
米軍陣地に突入したが、圧倒的な米軍の砲火によって全滅した。
一木支隊先遣隊の攻撃失敗後、第二梯団や海軍陸戦隊の輸送は、
制空権を握った   米軍機の妨害で   ことごとく   失敗した。

だが、大本営は   あくまでもガダルカナル奪回の意向を変えず、
パラオの川口支隊に続いて、ジャワから第二師団を第十七軍に
増加した。それらは   船団輸送ができず、「鼠輸送」とよばれる
夜陰に乗じての   駆逐艦による輸送に   頼らざるを得なかった。

辛うじてガ島にたどり付いた川口支隊は、9月11日と13日、
飛行場に   総攻撃を行なったが、強力な米軍の   砲爆撃を受け
携行食糧も尽きたため   失敗した。
10月24日、25日に第二師団主力による攻撃を行なったが、
これも   第一次攻撃と同じように   失敗した。

それでも   大本営は、奪回の方針を   変更しなかった。
11月中旬には   さらに第三十八師団主力をガ島に送った。
こうした兵力輸送のたびに、輸送に当たった駆逐艦も、
これを援護する   海軍の航空兵力も艦艇も   大損害を受け、
とどまることのない   消耗戦の様相を   深めていった。

ガ島における   陸上部隊の状況は、悲惨の一言だった。
増援兵力を送るのさえ困難をきわめたのだから、補給物資を
送る余裕はなく、駆逐艦が   米などを   ドラム缶やゴム袋に
入れて、海岸の近くに投棄したりして、辛うじて   わずかな
補給をしているだけ   というありさまになっていたのだ。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 15:05 投稿番号: [29006 / 29399]
餓死という言葉で   まず思い浮かぶのは、ガダルカナルでの
餓死者の大量発生であり、ガ島は「餓島」と揶揄されるほど
これは   ひじょうに有名な   事実だ。
1942年8月から43年1月にかけてのガダルカナル戦は、
太平洋戦争での米軍反攻による戦局転換のきっかけになった。

ガダルカナル戦は、この島に日本海軍が建設した航空基地を、
上陸・急襲した   米軍の海兵一個師団が占領し、
それを奪還しようとする日本軍との間で   戦われた攻防戦だ。
日本軍は、すでに制海・制空権を奪われていたにも係わらず、
飛行場奪回のために、次々と   陸軍の部隊を島に送り込んだ。

兵員・物資の輸送もままならず、かろうじて上陸した部隊も
補給が途絶している上に、利用すべき現地物資も皆無に近く、
餓死者続出の   惨状をもたらした。
半年後、装備を捨てて   生き残った人員だけを   かろうじて
撤退させることになった。   この敗退を   大本営は   国民に
「転進」   と発表したが、日本軍敗退の   第一歩となった。

ガダルカナル撤退を指揮したラバウルの第八方面軍司令官の
今村均大将は、その回顧録に   次のように   記している。

   五ヶ月以前、大本営直轄部隊として、ガダルカナル島に
   進められた   第十七軍の百武中将以下   約三万の将兵中、
   敵兵火により斃れた者は約五千、餓死した者は約一万五千、
   約一万のみが、救出されたのだ。

そして、自決して責任をとる   と申し出た百武軍司令官を
押し止めた言葉の中でも、次のように言ったと述べている。

   今度のガ島での敗戦は、戦によったのではなく、饑餓の
   自滅だったのであります。   この飢えはあなたが作った
   ものですか。   そうではありますまい。
   日本人の横綱に百日以上も食を与えず草の根だけを口に
   させ、毎日たらふく食ってる   かけだしの米人小角力に、
   土俵のそとに押しだされるようにしたのは、全くわが
   軍部中央部の過誤によったものです。
   これは、補給と関連なしに戦略戦術だけを研究し教育
   していた陸軍多年の弊風が累をなし、既に   制空権を
   失いかけている時機に、祖国からこんなに離れた、
   敵地に近い小島に、三万からの第十七軍をつぎこむ
   過失を、中央は   犯したものです。

今村大将による   この指摘は、まさにガダルカナル敗戦の原因、
餓死者大量発生の責任を   的確に衝く言葉ということができる。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/31 15:03 投稿番号: [29005 / 29399]
日本軍には、伝統的に「因糧於敵」   という方針があった。
武器弾薬など現地調達が難しいものは、補給に頼るしかないが
食料などは現地で調達する―   物資は、敵国から奪う   という
典型的な   侵略者の姿勢が、そこには   示されていた。

中国大陸に武力侵攻した日本軍が、南京などで   捕虜にした
多数の中国軍兵士を   組織的に大量殺害した事件の背景には、
こうした日本軍の   食料補給軽視の体質があった。
自軍の食料さえも確保困難な状況で、大量の捕虜が   発生し、
殺害に及んだ   という証言記録などが、それを裏付けている。

日本軍の補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において   略奪行為などが   多発する事態をも招いた。
さらに、大戦の全般を通じて   日本軍兵士の   戦死者のうち
直接の戦闘での死亡者数よりも   餓死者の数が上回るという
近代軍としては   あるまじき惨状を   招くものとなった。

第二次世界大戦における   日本人の戦没者は   約310万人。
そのうち、軍人軍属の   死者数は   230万人とされている。
特徴的なことは、その過半数が、餓死や病死であった事実だ。
「英霊」   の多くが、華々しく   戦いに散った   のではなく、
飢餓地獄の中での   惨めな野たれ死に   だったのだ。

栄養学でいえば、飢餓には   食物を   一切摂取しないで起る
完全飢餓と、栄養不足または失調による   不完全飢餓がある。
日本軍の   戦闘状況の特徴は、補給の途絶によって、膨大な
不完全飢餓を発生させ、その結果、完全な餓死だけではなく、
栄養失調のために   病気に対する抵抗力をなくし、マラリア、
アメーバ赤痢、デング熱等よる多数の病死者を出したことだ。

戦死よりも   餓死や   病死者の方が多い――
それが一局面の特徴的な状況ではなく、戦場の全体にわたり
発生したことに、旧日本軍の   特質を   みることができる。
補給もせずに、占領地の死守を命じ、退却も   降伏も許さず、
自軍を次々と   全滅させた大本営は、それを「玉砕」と称し、
美しく粉飾した挙句、餓死者たちを「英霊」   と誉め讃えた。

近代国家間の戦争で、これほど   悲惨な結果を招いたうえに
反省も改革も怠り、自画自賛ばかりを   最後まで繰り返した
愚かな   軍隊が、はたして   他にあるだろうか。
近代戦において   補給途絶は、それだけで   敗北を意味する。
大和魂だけで勝てるはずがない。   惨めな敗戦は当然だろう。

大儀なき侵略戦争に駆り出され、無謀な作戦に投入され、
悲惨な死を   強いられた   若者たちの   無念さを思い、
大量餓死や   無謀な玉砕戦法をもたらした   日本軍の責任と
特質を明らかにして、それを   歴史に残す必要がある。

大量の餓死や「玉砕」と称する全滅は、人為的なものであり、
その責任を、死者に代わって   告発しなければならない。
それによって、二度と再び   あの悲劇を繰り返さないように
未来へ伝える「歴史の教訓」   とすることこそが、
先人たちの犠牲を   無駄にしない   唯一の道だろうと思う。

Re: 南京で孤児になった少女

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/31 14:01 投稿番号: [29004 / 29399]
夏淑琴サンが居た場所には、中国軍の4大隊、八十八師、八十七師、野砲、迫撃砲、機関銃隊が居たんですよ。

更にトーチカや鉄条網を廻らして居たんですよ。

一般の市民は皆無だったと記録にはあります。

南京陥落以前から、上記のような中国軍が居たんですからね。

昼夜を分かたず中国軍が警戒していたでしょう。

Re: 南京で孤児になった少女

投稿者: hassyumimawariyaku 投稿日時: 2012/12/31 13:37 投稿番号: [29003 / 29399]
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%8A%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%BC&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=1&oq=%E3%81%86%E3%82%8A%E3%81%AA

Re: 南京で孤児になった少女

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/31 13:34 投稿番号: [29002 / 29399]
夏淑琴サンあなたが被害合われた地区は中国軍に依って占領され、激戦が行われた所です。

一般市民は中国兵の為に全て追い出された地区でした。

嘘は止めましょう。

中国人は何故嘘を吐くのでしょうね。

南京で孤児になった少女

投稿者: miyuki513421 投稿日時: 2012/12/31 13:02 投稿番号: [29001 / 29399]
夏さん、申し訳ありません

おゆるしください



みなしごのバラード
http://www.youtube.com/watch?v=N13qzkWERCo
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