現場指揮官の証言
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/02 08:53 投稿番号: [29039 / 29399]
第十六師団の
現場指揮官たちが
どのような
命令を受けていたのかを、当事者の証言を確認してみよう。
(歩兵第三十八連隊副官の述懐古)
聯隊の第一線が京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り
乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として
「支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ」と電話で伝えらた。
(中略)
部隊としては 実に驚き、困却しましたが 命令やむを得ず、
各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告は
ありませんでした。
激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。
(独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長の証言)
第一中隊(十五センチ加農砲)の任務は 太平門に突進する
佐々木支隊に 協力することであったが、南京が 陥落した
12月13日、仙鶴門鎮付近で首都防衛決死隊の夜襲をうけ、
かつ 多数の投降捕虜を得たので、その状況を 略述します。
(中略)
その行動は 極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、
取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。
(中略)
俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えており
ませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速
軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言って
きましたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」
と命令されました。
(歩兵第十六師団司令部副官の遺稿)
私は その時、“一万の捕虜をどのように収容するか” を
考えなければ ならなかった。
南京城内には刑務所があるだろうから、そこに入れるとしても
食わせるものが ない。 我々自身が イカモノを食いつつ、
その日を 過ごしているのに 如何とも なし難い。
しかし、人間は水さえ飲んでいれば十日や二十日は保つと
いうから、食飼のことは 何とかなるだろう。
参謀長に 指示をうけようとしたが、参謀長は 即座に
「捕虜はつくらん」 と言われたので、後方参謀に話した。
いずれの事例でも、捕虜もしくは投降兵について、軍司令部なり
師団なり 参謀なりが、明確に「殺せ」という指示を出している。
この方針については、早くも1938年、石川達三氏が 中島師団長
麾下の 第十六師団に取材して書いた小説、「生きている兵隊」に
登場している。
(石川達三著「生きている兵隊」より)
こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。
自分たちが これから 必死な戦闘にかかるというのに
警備をしながら 捕虜を連れて歩くわけには いかない。
最も簡単に 処置をつける方法は 殺すことである。
しかし 一旦つれて来ると 殺すのにも気骨が折れてならない。
「捕虜は捕えたらその場で殺せ」 それは特に命令というわけ
ではなかったが、大体 そういう方針が 上部から示された。
笠原伍長は こういう場合にあって、勇敢に それを実行した。
彼は数珠つなぎにした十三人を片ぱしから順々に斬って行った。
南京事件を必死で否定し、その実態を隠そうと血眼になる連中は、
捕虜にしないとは 「釈放する」 という意味だ、壕を掘るのは
「収容監視する」 ためだ、などと 大マジメに 主張する。
勝手な憶測を前提に、捕虜の殺害はなかったと 主張してみせるが、
それは、まったく 説得力がない。 ただ 見苦しいだけなのだ。
命令を受けていたのかを、当事者の証言を確認してみよう。
(歩兵第三十八連隊副官の述懐古)
聯隊の第一線が京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り
乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として
「支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ」と電話で伝えらた。
(中略)
部隊としては 実に驚き、困却しましたが 命令やむを得ず、
各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告は
ありませんでした。
激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。
(独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長の証言)
第一中隊(十五センチ加農砲)の任務は 太平門に突進する
佐々木支隊に 協力することであったが、南京が 陥落した
12月13日、仙鶴門鎮付近で首都防衛決死隊の夜襲をうけ、
かつ 多数の投降捕虜を得たので、その状況を 略述します。
(中略)
その行動は 極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、
取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。
(中略)
俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えており
ませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速
軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言って
きましたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」
と命令されました。
(歩兵第十六師団司令部副官の遺稿)
私は その時、“一万の捕虜をどのように収容するか” を
考えなければ ならなかった。
南京城内には刑務所があるだろうから、そこに入れるとしても
食わせるものが ない。 我々自身が イカモノを食いつつ、
その日を 過ごしているのに 如何とも なし難い。
しかし、人間は水さえ飲んでいれば十日や二十日は保つと
いうから、食飼のことは 何とかなるだろう。
参謀長に 指示をうけようとしたが、参謀長は 即座に
「捕虜はつくらん」 と言われたので、後方参謀に話した。
いずれの事例でも、捕虜もしくは投降兵について、軍司令部なり
師団なり 参謀なりが、明確に「殺せ」という指示を出している。
この方針については、早くも1938年、石川達三氏が 中島師団長
麾下の 第十六師団に取材して書いた小説、「生きている兵隊」に
登場している。
(石川達三著「生きている兵隊」より)
こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。
自分たちが これから 必死な戦闘にかかるというのに
警備をしながら 捕虜を連れて歩くわけには いかない。
最も簡単に 処置をつける方法は 殺すことである。
しかし 一旦つれて来ると 殺すのにも気骨が折れてならない。
「捕虜は捕えたらその場で殺せ」 それは特に命令というわけ
ではなかったが、大体 そういう方針が 上部から示された。
笠原伍長は こういう場合にあって、勇敢に それを実行した。
彼は数珠つなぎにした十三人を片ぱしから順々に斬って行った。
南京事件を必死で否定し、その実態を隠そうと血眼になる連中は、
捕虜にしないとは 「釈放する」 という意味だ、壕を掘るのは
「収容監視する」 ためだ、などと 大マジメに 主張する。
勝手な憶測を前提に、捕虜の殺害はなかったと 主張してみせるが、
それは、まったく 説得力がない。 ただ 見苦しいだけなのだ。