大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(18)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/02 08:49 投稿番号: [29038 / 29399]
中国大陸に武力侵攻した日本軍が、南京などで
捕虜にした
多数の中国軍兵士を 組織的に 大量殺害した事件の背景に
補給線確保の軽視という 日本軍の特質があった。
自軍の食料さえ 確保困難な状況のうえに、予想を超える
大量の捕虜が発生し、その給養に窮して 殺害に及んだのだ。
日本軍将兵の証言記録などが、それを 裏付けている。
日本軍の 補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において 略奪行為などが 多発する事態をも招いた。
太平洋の孤島や 南方の密林とは違って、多くの人々が住む
中国では、餓死者などはなかったと思われやすいが、敗戦前
2年間の中国戦場では 病死者は戦死者を 上回っていた。
長尾五一軍医中佐の遺著などが、その事実を 裏付けている。
中国戦線で 最後の作戦となった第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月〜6月の 3カ月間の死者数は 戦死が695人、
戦傷死322人、戦病死2184人、計3201人にのぼり、
「第二十軍の統帥発動以来終戦までの各種比率」については
「戦死、戦傷、戦病死 おおむね 4対5対9」 である。
(第二十軍軍医部の戦死・戦病死者別一覧表の注)
中国戦線でも、戦死・戦傷より 「戦病死」 が圧倒的だ。
負傷した後に、包帯所や 野戦病院で 死亡する者も多かった。
ことは、患者の給養がきわめて悪かったことと無関係ではない。
病死の大部分が 長期間の給養不足で、栄養失調状態にあって
病気に対する抵抗力を失っていたため、戦病死に至ったものだ。
これも 広い意味で 餓死の分類に入る。
中国戦線での 45万の戦没者の 過半数が戦病死、それも
給養不足に基づく 栄養失調や、それが原因での体力の消耗
による 広い意昧での餓死であった ということだ。
日本軍が、補給らしい補給もなしに 現地調達する方針は、
明治以来 一貫していた。 日清戦争でも朝鮮出兵軍からの
補給困難の訴えに対し、参謀本部は次のように訓令している。
「古昔、兵家の格言に因糧於敵(糧を敵に因る)の一句あり。
爾来 内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものは
この理由に外ならず。…糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、
いわんやこれを運搬する人夫においてをや…」
(明治27年6月29日、参謀総長熾仁親王から混成旅団長
大島義昌あての訓令)
「因糧於敵」、これが 侵略軍としての行為の根本にあった。
日本軍兵士の 戦地栄養失調症を含む広い意味での餓死者は、
合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万の
約60% という割合になる。 靖国神社が「英霊」として
誉め讃える戦死者のうちの半数以上が、華々しい戦いの中に
散ったのではなく、飢餓と衰弱死に 追いやられたのだ。
多数の中国軍兵士を 組織的に 大量殺害した事件の背景に
補給線確保の軽視という 日本軍の特質があった。
自軍の食料さえ 確保困難な状況のうえに、予想を超える
大量の捕虜が発生し、その給養に窮して 殺害に及んだのだ。
日本軍将兵の証言記録などが、それを 裏付けている。
日本軍の 補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において 略奪行為などが 多発する事態をも招いた。
太平洋の孤島や 南方の密林とは違って、多くの人々が住む
中国では、餓死者などはなかったと思われやすいが、敗戦前
2年間の中国戦場では 病死者は戦死者を 上回っていた。
長尾五一軍医中佐の遺著などが、その事実を 裏付けている。
中国戦線で 最後の作戦となった第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月〜6月の 3カ月間の死者数は 戦死が695人、
戦傷死322人、戦病死2184人、計3201人にのぼり、
「第二十軍の統帥発動以来終戦までの各種比率」については
「戦死、戦傷、戦病死 おおむね 4対5対9」 である。
(第二十軍軍医部の戦死・戦病死者別一覧表の注)
中国戦線でも、戦死・戦傷より 「戦病死」 が圧倒的だ。
負傷した後に、包帯所や 野戦病院で 死亡する者も多かった。
ことは、患者の給養がきわめて悪かったことと無関係ではない。
病死の大部分が 長期間の給養不足で、栄養失調状態にあって
病気に対する抵抗力を失っていたため、戦病死に至ったものだ。
これも 広い意味で 餓死の分類に入る。
中国戦線での 45万の戦没者の 過半数が戦病死、それも
給養不足に基づく 栄養失調や、それが原因での体力の消耗
による 広い意昧での餓死であった ということだ。
日本軍が、補給らしい補給もなしに 現地調達する方針は、
明治以来 一貫していた。 日清戦争でも朝鮮出兵軍からの
補給困難の訴えに対し、参謀本部は次のように訓令している。
「古昔、兵家の格言に因糧於敵(糧を敵に因る)の一句あり。
爾来 内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものは
この理由に外ならず。…糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、
いわんやこれを運搬する人夫においてをや…」
(明治27年6月29日、参謀総長熾仁親王から混成旅団長
大島義昌あての訓令)
「因糧於敵」、これが 侵略軍としての行為の根本にあった。
日本軍兵士の 戦地栄養失調症を含む広い意味での餓死者は、
合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万の
約60% という割合になる。 靖国神社が「英霊」として
誉め讃える戦死者のうちの半数以上が、華々しい戦いの中に
散ったのではなく、飢餓と衰弱死に 追いやられたのだ。
これは メッセージ 29037 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.