南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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南京事件に至るまで〜27(虐殺の村)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:01 投稿番号: [13621 / 29399]
江寧県の北端に上海から南京へ幹線道路が走る所に湯山鎮がある 。許巷村は湯山鎮に属し、道路沿いに200戸ほどの農家が並ぶ村落であった、この村が補充員部隊の波状進軍の犠牲となった。

12月20日の明け方に日本軍の先頭部隊が現れ、通信兵らしき日本兵が、農作業をしている陳光秀の父親に近づいて、何か日本語で話しかけているようだったが、分からないで黙っていると、いきなりピストルで撃たれた、なおもよろめいた父を日本兵は突き飛ばし、胸を撃って即死させ、そのまま行ってしまった。

急いで村へ帰り、姉、妹、兄嫁と山中に隠れたが、兄は日本兵に連行されてしまっていた。

約100名の青年たちを日本軍は少し離れた道路沿いの田んぼに連行した。
殺されるのではないかと老人たちは後をついって行ったが、豚や鶏の徴発に応ずるようにと追い返されてしまった。

田んぼに連行された青年たちは、互いに向き合ってひざまづき、2列に並ばされ、、その周りを囲んだ日本軍兵士は銃剣で一斉に刺殺した。集団虐殺が行われたのは午後4時頃であった。

農民たちにとって不幸であったのは日本軍の軍規の乱れ方の様々な部隊があったことである。

しっかりとした指揮官のいる部隊は、非戦闘員は殺害しないとう軍律を守っていた、許巷村の村民が聴いた噂「日本軍大歓迎の横断幕を掲げ、総勢出迎えれば、家を焼かれず、虐殺もされないという」というのは村民に危害を加えない部隊のことであった。

村民が日本軍はどの部隊も同じだろうと考え対応したことが、悲劇となった。」

南京事件に至るまで〜28(南京陥落1)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜26(大寺日記)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 15:59 投稿番号: [13620 / 29399]
南京事件に至るまで〜25(大寺日記)
第4次補充員部隊として11月22日に福島の会津若松市を出発、12月3日に上海の呉淞に上陸、南京へ進軍した兵士の日記から、、、(大寺隆日記)

12月4日
兵隊は元気に町を歩いて色々徴発している。

12月8日
途中8時頃、ニヤ(中国人の蔑称)をつかんで、大谷さんと二人で一人のニヤに担がせる。30分歩いて5分づつ休ませてきたので、大変本隊から離れてきた。ニヤは力はあるし、足は速い、乾パンを食わせられて大喜びでいる。
部隊にはよほど離れていると思ったので、大谷さんと二人で昼寝する。

12月9日
途中ニヤをつかんで、無錫に10時到着。
無錫に来るまでの部落には兵隊が宿営しているらしく、火が火災でもあるかのように空に輝いている。火災をおこしているところもあった。
3里手前から見えた。今日は休養だ。
午後から城内の徴発に行って道に迷い、5時頃ようよう木村上等兵と二人で帰る。

12月10日
皆ニヤを雇っているので一個中隊が倍になっている。今日は支那人と兵隊と半々だ。
青陽鎮の町はまだ、火災が起こっていて、戦跡未だ生々しい。

12月14日
食糧は今日からナシに、、、。地方から徴発していかなければならない。
第4中隊は徴発中隊だ。

12月16日
徴発隊として午前7時20分整列、7時に起きたのでアワを食って出て行く、途中道を間違えて半道ばかり、反対の方向へ行く、豚や米、芋の類、徴発する物資たくさんあり、徴発容易。
午後2時半東流鎮に着く、滝潭鎮から約4里、町に着き宿営を決めると徴発に忙し、部隊の着くまでに徴発を終わる。米、豆腐、小豆、砂糖、豚、芋、カマ、野菜など、部隊もまた色々と徴発してきた。
分隊では豚、野菜、米、鶏、芋などを徴発してきたので、今晩は相当にご馳走があった。

兵士の日記には日本に帰還するときに厳しい検閲を受けたので、残虐行為は記述されていない。一般に補充員の集団は指揮系統がなかったため、前線部隊と比較すると軍規が弛緩し、部落掃蕩中の掠奪、放火、強姦、殺害など残虐行為は前線部隊を上回った。

南京事件に至るまで〜27(虐殺の村)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜25(堀越日記)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 15:58 投稿番号: [13619 / 29399]
波状進軍の被害
上海〜南京〜南京戦区において一番乗りを争った前線部隊が、各師団の先頭部隊、主力部隊、後続部隊と分かれ、波状進撃していった。

上海での日本軍の損害が甚大であったため、各部隊とも多数の補充を必要とし、補充員が次ぎ次ぎと各部隊へ送られた、

この補充部隊は前線にたどり着くまでは臨時の編成であるため、指揮系統もなく、軍規も厳正ではなかった。

江南の広い地域および、南京区の県城と農村がこのような補充員の集団のなだれのような波状攻撃にさらされたのである。

第13師団山田支隊   (支隊長山田栴二少将)歩兵第六五連隊(連隊長両角業作大佐)
堀越文雄の日記
10月6日
帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこあり、銃殺す、むごたらしきかな、これ戦いなり。

11月9日
捕虜を引き来る、油座氏これを斬る。夜に近く女2人、子供ひとり、これ突かれたり。

11月16日
午後6時ころ、一部落を見つけて、泊す。高橋少尉殿と藤井上等兵と自分と3人して徴発せし鴨と鶏、全部で8羽をもって、夕食うまし、外に豚1匹は油と砂糖、塩とで炒め、中食(昼食)の副食物にす。

11月20日
昨夜まで、頑強なりし敵も今は退却し、ところどころに敗残兵の残れるあり、とある部落に正規軍を発見し、吾初めてこれを斬る。まったく作法通りの斬れ具合なり、刀少しく刃こぼれせり、惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながら驚かれる心の落ち着きなり、西徐野に一泊す。

敵はほとんど退却す、残れる者は使役に服せしめ、または銃殺、断首などをなす。いかりの心わかず、心きおうことなし、血潮を見ても心平生をうしなうことなし、これすなわち、戦場心理ならんか。

11月22日
鶏の徴発に出かける、クリークを通る支那人の舟を全部止めて片っ端から調べ、それに乗り対岸にいたり、チャンチュウ(中国酒)を一壺得てかえる。鶏およそ10羽もあるべし、中食うまし。

陸軍刑法(1908年制定)
第1章   掠奪の罪第86条

戦地または帝国軍の占領地において住民の財物を掠奪したる者は1年以上、の有期懲役に処する。

前項の罪を犯すに当たり婦女を強姦したる時は無期、または7年の懲役に処す。と明記されていた。

中支那方面軍が各部隊に”食料現地調達、徴発=掠奪命令”を出すこと、それ自体が軍規を弛緩させ、掠奪行為が強姦行為に及ぶ事を想定していながら、掠奪を許す、、と言うよりも積極的に罪を犯させた事は中支那方面軍司令官、司令部の責任は大きいといわねばならい。

南京事件に至るまで〜26(大寺日記)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜24

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 15:57 投稿番号: [13618 / 29399]
南京攻略戦において、日本軍は上海から撤退していく中国軍の追撃殲滅作戦と、南京防衛軍に対する包囲殲滅作戦を行った。

投降兵、敗残兵、捕虜、であろうとも、中国兵であったと者、それらしき者と思われた者を殲滅、つまり、皆殺しにする作戦であった。

ハーグ陸戦条約「規則」では「第23条{害敵手段、攻囲および砲撃の禁止事項}

敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること、

兵器を捨て、または自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること、

助命せざる事を宣言すること、
などを禁止している。

にも関わらず、日本軍は無抵抗の投降兵、敗残兵、捕虜を片っ端から殺害していった。

この残敵掃蕩は、敗残兵として残っている者が一般民衆の中に逃れた場合には民間人をも巻き添えにして、殺害することとなったのである。

日本政府、軍部の「支那膺懲」という思想が皇軍に対して屈服し、その配下にくだらない者は武力で征伐し、打ち懲らしめるというものである。

中国人が生きて生活する場に侵入し、彼らの生活の場を破壊しておきながら、日本軍に敵対したり、あるいは協力しない民衆を抗日と見て、あるいは疑うだけで、膺懲として殺戮したのである。

南京事件に至るまで〜25(堀越日記))


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京・・・他人の文章

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 15:56 投稿番号: [13617 / 29399]
信憑性は張ったヤツにもわかっていない。

南京事件に至るまで〜23( 崇善堂)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:42 投稿番号: [13616 / 29399]
中支那方面軍が包囲殲滅作戦をとり、中心の南京城に向かって師団、旅団、連隊、大隊といった各規模の部隊単位で波状的に進撃していった。

このため、南京近郊農村地帯に住んでいた民衆はさながら、日本軍が投げた南京戦区という大きな投げ網のなかで右左往し、逃げまどう雑魚のような運命にさらされていた。

崇善堂という埋葬団体は、南京郊外の遺体が物語る悲惨な様相を記している。

「郊外の民衆で、未だ他所へ避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一カ所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者に見つかると多くが被害に遭う。

背後から撃たれて倒れている者は、逃げる途中で難にあったものである。
横臥した形で刀で突かれて血を流している者は生きているうちにやられた者である。
口や鼻から血を出し、顔面が青く、足が折れている者は大勢の者から殴られたり、蹴られたりした者である。
婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を刺され、ズボンをつけていない者、これは生前辱めを受け、殺された者である。また、
頭をもたげ、目をむき、口を開け、歯を食いしばって、手足を突っ張っり、ズボンの破れている者は乱暴されるを拒んだ者である、惨たるかな、惨たるかな。

夜毎、集団にして遠方に逃げる。声が聞こえると草むらに隠れたり、田の畦に隠れる。
危険なのは夜が明けてから、日本軍が高所から遠くを見渡す時で、逃げるところを見つかると弾丸が飛んでくる。
中に婦人がいると、手で止まれと合図して、追って野獣の仕業をなす。
いうこと聞かないと殺されるし、いうことを聞いても輪姦され、殺される。
立ち止まらず行こうとする者には容赦なく銃声が鳴り響く、死者はますます増え続ける、それ故   農村部の遭難者は都市部よりも多い」
(南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表、中国関係資料編、所収)



kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜22( 江浦県)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:40 投稿番号: [13615 / 29399]
江浦県は六合県とともに長江の北側にある、中支那方面軍司令部は南京攻略において中国軍を包囲殲滅する作戦を徹底しようとした、そのため、長江北岸の両県にたいしてもあらかじめ、日本軍を進撃させて南京防衛軍の退路を絶とうとしたのである。
完全包囲網である。


12月11日
「国崎支隊、長江左岸に移りたる報に、殿下(朝香宮上海派遣軍司令官)も[何とかして、13D(師団)を早く長江を渡し、津浦線を遮断し得ざるやと多少、焦慮せらる」(上海派遣軍参謀長飯沼昭守少将の日記)

国崎支隊は慈湖鎮付近で長江を渡河し、北岸を南京城の方向に進撃、12日午後1時には江浦県城に侵攻した。

12月11日に鳥江鎮を占領した日本軍(国崎支隊)2000余名は同地から南京戦区に突入し、国民党軍と銃火を交え、浦口を目指して侵攻する、住民も巻き込まれて殺害され、民家には火が放たれた。

江浦県城占領までに30余名の農民や難民が殺害されている。さらに、県城から浦口に至る沿道の農民や漁民44名が死傷、水上部隊(約100名)が西江口(小港)を襲撃し、農民、商人、子供ら30余名を殺害、商船100余隻を砲撃、破壊、焼却した。

民船を捜索中に発見した婦女子10数名は船中で輪姦され殺害された。(江浦県誌)

広大な南京戦区の県城と村には、まだ、膨大な住民が居住していた。
南京近郊の6県を合わせれば150万人以上と思われた住民のうち、南京攻略戦が開始されて、一帯が戦場と化しても汽車や自動車で遠くへ避難していくことは殆ど不可能であった。

県城や村は孤立して、散在しており、近郊にはラジオや新聞などの通信手段はなく、日本軍の正確な情報は伝わらなかった。
また、何よりも農民には守るべき田畑や大切な家畜があり、それらを置いて避難することが出来なかった。
そして、日本軍の大群が次々と波状的に長期に渡り、10数万の兵隊が進撃してくるなど、予想もしていなかったのである。

第16師団状況報告
12月24日

「今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもって、これに充つるの主義をとり、もって、迅速なる機動に応ぜんと企図せしが、幸いに富裕なる資源により、大旨良好なる給養を実施しえたり」と総括している。(南京戦史資料集)

進軍途中の物資豊富な都市、農村で十分に食料徴発、略奪が出来たことの証である。

農民が遠くへ避難せず、生産し、生活を営んでいた農村地帯に進入したからこそ、家畜や作物を略奪して食し、日本軍兵士は飢餓に苦しまずに進軍できたのである。そして、食料を供給してくれた農民を殺戮し、家を焼きはらったのである。

南京に向かう日本軍の諸部隊が軍規の弛緩による破壊欲や悪戯、気晴らしから沿道の村々を放火して進軍したため、住む家を無くした農民たちは難民のような生活を余儀なくされ生活しているところへ、部落掃討に来た日本軍に捕縛され、集団虐殺されるという悲劇も頻繁に発生している。

南京事件に至るまで〜23( 崇善堂)



kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜21(高淳県)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:38 投稿番号: [13614 / 29399]
12月4日
南京攻略下命にともなって、海軍の航空作戦も南京攻略の協力に転じ、南京、蕪湖方面の攻撃に主力をそそがれた。

前日 南京東方約140kmの地点の常州に海軍航空隊基地が開かれ、同基地を拠点に陸戦協力の為の南京、蕪湖の攻撃が加速される。この日、海軍航空隊の偵察機、戦闘機、爆撃機計19機が出撃した。(中国方面海軍作戦)

南京特別市の最南端にある高淳県は、水運で蕪湖へ、陸路で南京城へ通じる交通の要所にある。この日国民党軍の蕪湖への撤退を阻止するために、橋と運河を破壊する目的で、県城、および街も爆撃された。

なかでも、蕪湖〜上海間に位置する運河の港街となっている東項の街が激しい空襲を受け、街の中心地に集中的に爆撃が行われ、爆風で吹き飛ばされた死体が沿道に散乱し、街の家屋は火の海となり、廃墟と化した。約80発の爆弾が落とされ、住民約100余人が死亡した。破壊され焼失した家屋は700余間(200余戸)(高淳県誌)

第五師団国崎支隊(支隊長国崎登少将、歩兵第9旅団)は12月2日広徳を出発、3日朗渓に達し、同地で水上機動の準備を行い、6日同地を出発、主として水路を利用して水陽鎮、高淳県城を通過、9日太平を占領した。(支那事変陸軍作戦)

12月6日日本軍(国崎支隊)が水陽鎮から県境の水碧橋村に進入し、村民36名を惨殺した。翌7日   高淳県城を占領した日本軍は、住民に対して発砲し、30余名を死傷させた。(高淳県誌)


南京事件に至るまで〜22( 江浦県)


kinngyoya301氏の投稿より引用

Re: 南京事件に至るまで〜20(牧原日記)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:37 投稿番号: [13613 / 29399]
歩兵第20連隊の牧原信夫上等兵が書き残した日記より、、句容に至る前の部分より
11月22日
  道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見づらい様子で伸びていたのも可愛相である。
橋のたもと付近には5〜6個の支那軍の死体が焼かれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校が試し斬りをやったそうである。

11月26日午後4時
第二大隊は喚声をあげ、勇ましく敵陣に突撃し、敵第一戦を奪取、住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往していのも全く可愛そうだがしかたがない。午後6時完全に占領する。
7時道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討が行われた。

自分たちが休憩している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので、早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃し、あと3名は捕らえた。兵隊たちは早速2名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べた後、銃殺した。

8時半、宿舎に着く、三小隊はさっそく豚を殺していた。全く素早くやるのには恐れ入った。

11月27日
支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵を殴り殺す。
支那人2名をつれて、11時州発す、、、鉄道線路上を前進す、休憩中に5〜6軒の藁葺きの家を焼いた。炎は高く上がり、気持ちがせいせいした。

11月28日
午前11時大隊長の命令により、下野班長以下6名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く、その前にある橋梁に来たときに橋本与一は舟で逃げる5〜6名を発見、照準をつけ、一名を射殺、掃討はこのときから始まった。

自分たちが前進するにつれ、支那人の若い者が先を争って逃げていく、何の為に逃げるのか分からないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。

部落の12〜13軒に付け火すると、たちまち火は村を包み、全くの火の海である。老人が2〜3人にて可愛そうだったが、命令だから仕方がない。次、次と3部落を全焼さす。その上5,6名を射殺する。意気揚々とあがる。

11月29日
途中の部落を全部掃討し、また、舟にて逃げる2名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけ部落を焼き払って前進する。

呂城の部落に入ったおり、すぐに徴発に一家屋に入ったところ3名の義勇兵らしき者を発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。

12月4日
昨夜は大変に寒くて困った。2〜3日は滞在の予定だというので、今度こそは一服だと言うことで早速、徴発にでる。

自分は炊事当番で岡山、関本とともに昼食を準備する。
徴発隊は鶏、白菜などを持って帰り、家の豚も殺して昼食は豚汁である。
正午すぎ、移転準備の命令があり、大騒ぎ、結局、中止となりよかった。各自焼き鳥、焼き肉、をやってたらふく食う。午後2時命令があり、連隊は南京街道を南京に向かって進撃することとなった。クーリー( 苦力)も重い荷物を背負ってよくもついてきたものだと感心した。

12月5日
午前8時準備万端終わり、同部落を出発する。出発するときはもはや、全村火の海である。

南京に近いのだろう。一軒家に乾し芋が目についた、我先にと、瞬く間に取り尽くした。
(京都師団関係資料集)

南京事件に至るまで〜21(高淳県)へ


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜19 渫水県

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:36 投稿番号: [13612 / 29399]
11月29日りっ水に中国軍総司令部があるという情報を得て、海軍航空隊の戦闘機、爆撃機計36機が相次いでりっ水市街を攻撃した。(中国方面海軍作戦)

昼食時の突然空襲に、県城は一瞬にして地獄絵と化し、投下爆弾により家屋の破壊、火災の発生、逃げ出した民衆の群れに爆弾が投下され、機銃掃射による殺戮が行われた。

防空壕にも爆弾は命中し避難していた100余名の命が失われている、一時間あまりの空襲で市民1200余名、倒壊家屋5000間(数千戸)が破壊された(県誌)

句容県における虐殺行為
12月4日午前8時40分丹陽を攻略した第16師団(京都師団長中島今朝吾中将)の先頭が句容(南京から約50km)の東方約15kmにある睨塘村に侵攻、南京戦区に突入した。(飯沼守日記)

句容は南京外囲防御陣地線の主要な県城であり、東部はトーチカで防御を固め、城内には砲兵学校があった。国民党軍が睨塘の西の句容に通じる橋を爆破したため侵攻を阻まれた第16師団所属の歩兵第30連隊はその日、睨塘村に宿営することになった。

そこで、村民虐殺事件が発生した。
村民の避難順序は、中国国内戦の経験から、殺害されるか連行される危険のある、青年男子が真っ先に遠くへ避難し、次に女、子供が避難し、殺害されるおそれの少ない老人が家と家畜、作物を守るために残るとうパターンを実行していた。

日本軍が睨塘村にやって来たとき、女や老人、子供はまだ、避難はしていなく、進入してきた日本軍の銃声を聞き、慌てて、女や子供は夕闇にまぎれて逃亡した。

日本軍は逃げ遅れた村民と他所から逃げてきた難民など40数名を捕らえ、睨安仁という村民の家に押し込めて、火をつけ、焼き殺してしまった。

翌朝9時頃   日本軍の部隊が国民党軍の捕虜も含めた他村の村人約80名を捕縛し、句容公路(丹陽〜句容)沿いに連行し、機関銃で全員を射殺した。

日本軍は村を去る前に村落に放火し、全村八〇余戸は全て焼失した。
睨塘村虐殺事件は120余名が殺害されたが多くは他村の農民で、睨塘村民は7人が犠牲となり、そのうち2名が女性であった。(句容県誌)(日本軍侵占句容期間暴行録)

12月5日朝9時頃   日本軍の一部隊が句容県城の北にある本湖村に食料徴発と部落掃蕩にやって来た。

これを遠くから見ていた村民は、てっきり国民党の軍隊と思いこみ、村の自衛団約30名に招集をかけ、槍や刀を持って、集合し、整列して歓迎しようとしたところ、全員捕縛されてしまった。

付近で捕らえられた青壮年男子も加えて40数名が村の酒醸造小屋に押し込められ、火をはなたれて、焼き殺されてしまった。

当時満16歳であった万仁勝だけがただ一人やけどを負いながらも生き延びている。

農村では通信手段が全く無かったので、街道から離れた村では日本軍の侵攻に全く、気づかず、このような悲劇が起きている。


南京事件に至るまで〜20(歩兵第20連隊牧原信夫日記の紹介 )


kinngyoya301氏の投稿より引用

victor_e_frankl  へ

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 12:37 投稿番号: [13611 / 29399]
誰も読まない!

自分の言葉で書かなくちゃ!

南京大虐殺は、まっかな嘘です!

投稿者: neonanashinogonbei 投稿日時: 2007/02/23 12:20 投稿番号: [13609 / 29399]
いいかげんに捏造を垂れ流すのを止めたらどうかね?

この国はね・・・・・・

投稿者: neet_big_problem_of_japan 投稿日時: 2007/02/23 09:55 投稿番号: [13607 / 29399]
この国はとっくにおしまいですよ。
誰もが気づいてるのに誰も何もしようとしない。どうしようもないね。
少しでも外から日本を眺めた事のある人間なら誰もが思うよ。
日本ってのは、いつの間にかみっともない恥ずかしい国に成り下がってしまった・・・ってね。
今あるのはカネの使い方を誰も知らないこの国の姿だ。
カネさえ払えば何をやってもいいと思ってる。
『個人の自由』が合言葉らしい。
結果、声がでかくて蔓延ってるのは、バカかオタクばかりだ。
何も作らず生み出さず、食い荒らし消費するばかり。
どいつもこいつも人の目を見て話をせずに何に大マジメにむきあってるかといやあ、
テレビの画面とPCの画面とゲームの画面と携帯の画面だ。
キモチ悪い。
それでも何かを見通し動き出そうという志のある人間、能力に長けた人間を、
手放しで崇拝して褒めそやかしたと思えば、てのひら返しでこきおろして揚げ足とって、
立ち直れないほどに、そして死なない程度にズタボロになぶる・・・ニヤニヤ薄ら笑いしながらね。
そういう国だと見切ってるもんだから、総理大臣ですら戦略として
アタマの悪いフリして、暴論をまくし立てて逃げ切ってしまう。
抗う側だって、本当の問題を的確に指摘してディベートに持ち込む力のある人間がいない。
『国家』なんてもの根づいてないんですよこの国に。
あらかじめズタボロになるのを回避したナイーヴな連中が、反体制だエコロジーだ自分探しだロハスだ、
あれやこれやと消費文化を乗り継いで、普通の言葉じゃ無力なもんだから言論テロみたいな事始めてみたり、
地獄も見ないうちから一足飛びにジョン・レノンにでもなったつもりでモノを言い始める。
そうやって先鋭化して・・・これまたバカとオタクの仲間入りだ。
最悪なのはそうやって一人一人がやらかしてる事の積み重ねが、
どれだけ世界の中で孤立を招いているか気づいてない事・・・
いや、気づいているのに誰も何もしてない事だ。
こんな国、一度滅んでしまった方がいい。

Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

投稿者: goodiapan48 投稿日時: 2007/02/23 09:53 投稿番号: [13606 / 29399]
あげぇっ!!!!!!!wwwwwwwwwwwwwwww

南京事件に至るまで〜18(南京特別市)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:55 投稿番号: [13605 / 29399]
南京特別区市は南京城壁内とその周辺地域からなる南京城区(西欧的都市計画仕様)は周囲に城壁を巡らした中に城あるいは城市と行政区として南京市に属する近郊県城(県も城壁によって囲われている)と村をあわせた近郊区からなる。

南京特別市の行政区には六合、江浦、江寧、りっすい、句容、高淳、の六県が含まれ、南京特別市の全面積は「日本の東京都と埼玉県、神奈川県を合わせた広さにほぼ匹敵」する。

南京の金陵大学社会学教授ルイス、S,Cスマイス氏の調査によれば当時1935年頃の近郊区の人口は高淳と六合県の半分を除いた四県半でも120万人〜135万人であり、南京城区は100万人の人口を抱える都であった。(笠原十九司氏著)

近郊農村区域の人口がこれほど多いのは、長江沿岸沿いのこの地域が昔から肥沃な米作地帯として栄えていたからである。

南京防衛軍がこの地に集結し、防御陣地で日本軍の侵攻を阻止しようとしたため、南京特別市区全域が南京攻略戦の戦場となったのであり、南京の虐殺事件もこの広域において発生している。

日本軍はこの南京戦区へ上海から取り囲む様に放射状に伸びた幹線道路6〜8路線を一路南京城を目指して進撃したのである。

道路沿いの村々や、周辺の村落、市場として栄えた鎮や県城が日本軍の攻撃と破壊、略奪、放火の標的とされ、中国人はその惨劇に巻き込まれていった。」

南京事件に至るまで〜19(りっすい県)に続く)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜18(南京市街概

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:53 投稿番号: [13604 / 29399]
ナンキン(南京)(エンカルタより)
現在のナンキン(南京)   中華人民共和国チアンスー省(江蘇省)南西部にある同省の省都。中国6大古都のひとつで、華東地区の経済、交通、文化の中心地。周辺は鍾山(紫金山)などの丘陵にかこまれ、北と南は長江に面する。古来、戦略上の要地として重視されてきた。夏は暑く、チョンチン(重慶)、ウーハン(武漢)とともに「中国3大カマド」と称されるが、おもな通りにはプラタナスの並木が2重、3重に生いしげり、道に日陰をつくっている。面積は6516km&sup2;(市区は976km&sup2;)。人口は522万人(市区は266万人、1995年)。
II 経済
石油化学、機械、エレクトロニクス、家電、自動車などの工業がとくに発達する総合工業都市として知られる。石油の加工能力は年間1000万tに達し、中国一を占める。揚子石油化学公司など大型コンビナートが長江の両岸にたちならぶ。南京自動車工場は、チャンチュン(長春)、シーイエン(十堰)につぐ重要な自動車生産基地となっている。特産品としては、1500年の歴史をもつ中国3大名錦のひとつで、模様に雲の多い緞子雲錦、アヒルの塩漬け南京板鴨などが有名である。

長江南部の交通、通信の要所としても重要な位置を占める。シャンハイ(上海)〜南京鉄道など3本の幹線鉄道が市内でまじわり、中国最大の内水港である南京港には2万5000トン級の船舶が停泊できる。北部の油田から南部の省や市に送油するパイプラインが市内をとおり、年間送油能力は1400万tに達する。また5万2000の商業施設、200をこえる貿易センターをもつ商都としてもさかえている。
III 観光と文化
国の歴史文化都市に指定された南京には、呉の孫権が212年にきずいた古い城壁シートウチョン(石頭城)、かつての南京城の正門だった中華門、南宋歓楽街の町並みを再現した夫子廟街、明の初代皇帝洪武帝(朱元璋)の陵墓である明孝陵、中国近代革命の父といわれる孫文がねむる中山陵、中国が独自に建設した南京長江大橋(長さ6772m)など数多くの観光名所がある。
南京大学をはじめ、48の大学、500をこえる研究機関がある中国有数の研究学園都市として知られる。中国最大の紫金山天文台は国際的にも有名である。

IV 歴史と対外開放
戦国時代、この一帯は金陵とよばれる小村にすぎなかった。「三国志」で知られる呉の孫権が都をおき、建業と名づけてから南京の歴史がはじまる。東晋以降は健康と名をあらため、宋、斉、梁、陳、南唐など多くの王朝の都がおかれた。1368年、元をほろぼした明は、この地に国都をたて、南京と命名した。明の朱元璋は20年の歳月をかけて周囲37km、高さ最高21mの巨大な城壁をきずいた。現在、日中が協力して「南京城壁保存修復事業」がおこなわれている。1421年に明が北京に遷都したのちも、南京は国都に準じる都市として重視された。

中国近代史の中で、南京はその中心舞台として名高い。太平天国のときには11年間(1853〜64)にわたって都がおかれ、天京とよばれた。1911年にはじまる辛亥革命では、孫文らが中心となって清朝をたおし、中華民国の臨時政府を南京に樹立した(1912)。27年には国民政府の所在地となり、特別市としてあつかわれる。日中戦争で南京にせめいった日本軍は大虐殺をおこない、市内は血の海と化した(1937)。49年、南京は人民解放軍によって解放された。→ 南京大虐殺

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kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜17

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:42 投稿番号: [13603 / 29399]
冷静な判断力をもった指導者ならば国民政府の重慶移転宣布(11月20日)により、すでに首都ではなくなった南京を短時日で攻略するほどの戦略的意味がないことは明白である。

結局は陸軍中央部内で「下克上」的に主導権を掌握しようとした拡大派の党派心と   南京占領=中国の屈伏の殊勲者という時代錯誤的な功名心にかられた中支那方面軍・第10軍の上級指揮官たちの野心とが相乗して、正式命令のないまま、南京攻略戦が開始強行されてしまったのである。

大規模な報道陣を送り込み、従軍記者に少なからぬ被害者を出しながら、「南京城に日章旗が翻るまで、、」という報道合戦を繰り広げ、国民の戦意高揚をはかったのである。

12月1日大本営は「中支那方面軍司令官は、海軍と共同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号)との南京攻略を下命し、中支那方面軍の独断専行を正式に追認した。

同時に松井石根を司令官とし、上海派遣軍と第10軍から編成される中支那方面軍の「戦闘序列」が正式に下命された。

翌日皇族の朝香宮鳩彦王中将が上海派遣軍司令官に任命され(7日着任)松井司令官は派遣軍と方面軍の兼任を解かれた。
が、
全軍の統括、統制するのに不可欠な兵站機関を持たない、正規の軍では無いことに変わりはなかったのである。

12月2日、蒋介石から駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を伝えてきたが、南京陥落間近という興奮にかられた近衛内閣の閣僚たちは”日本側から要請した”にも関わらず、トラウトマン和平工作をないがしろにし、

広田弘毅外相は「犠牲を多く出したる今、かくのごとき軽易なる条件をもってしてはこれを容認しがたい。」と述べ、近衛首相は「大体、敗北者としての言辞無礼なり」と強行意見を述べている。

杉山陸将も「この度はひとまず、ドイツの斡旋を断りたい」と申し出た。

近衛内閣は、日中戦争の停戦、和平の実現を目指したトラウトマン和平交渉を棚上げにしてしまい、戦局収拾の可能性を自ら絶ってしまったのである。

「あきれ果てる大臣どもである、、もう行き着くところまで行って目がさめるより他、致し方なし。日本は本当に国難にぶつからなければ救われないだろう」と石射猪太郎は日記に記す。

南京事件に至るまで〜18(県城と村で始まった虐殺)につづく)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜16(南京攻略3

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:41 投稿番号: [13602 / 29399]
大本営の正式命令もないまま、参謀本部の統制に反する形で、中支那方面軍司令部が独断専行で発動した南京侵攻作戦は方面軍の進撃が停滞した場合には、南京攻略に反対である多田参謀次長らに前進停止を命ぜられる可能性があったため、それを回避する、
かつ
進撃を軍中央に追認させるためには南京進撃を成功させ、方面軍の南京攻撃の態勢が可能であった事を戦果で誇示する必要があった。

武藤章参謀副長は疲弊した上海派遣軍を挑発し第10軍と「南京一番乗り」を 競わせるよう、11月26日第16師団参謀長中沢三夫大佐に書簡を送った。

「貴師団は上陸以来天候、地形の不良なる結果、未だ十分に師団の真価を発揮せらるるの機会なく、誠にお気の毒に存じ候、
同じく北支より転用されたる第6師団は武運に恵まれ先般、赫赫たる戦功をたてられたるを思い、ますます、その感を深くし申し候、
派遣軍の無錫付近の戦闘ぶりより見れば常州占領は何時のことやらと、焦心致し候、、、、、(中略)
現在の態勢をもって守備に移るがごときは皇軍の威武を内外に顕揚するゆえんとは断じて考えられず候、

もし、戦況の進展思わしからざるにおいては、中央部より前進停止を命ぜられるるの処あり。
この点もお含み願い上げ候。」(第16師団関係資料)

南京攻略を承認させていない状況のもとで、上海戦で疲弊しきった第16師団を南京進撃へとけしかけたのである。
およそ、近代戦においては、大部隊は前線と後方の兵站部隊(食料、弾薬その他、補給部隊)とで編成され、

戦闘部隊は後方兵站部隊からの食料、軍事物資の補給を受けながら、前進していくものである。
従って、兵站部が補給可能な位置まで接近してから戦闘部隊は前進するのが常識的な作戦である。

ところが中支那方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。

そのため、中支那方面軍は糧秣(食料、軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという「現地調達主義」をとった。

これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵による」という戦法であり、通過地域の住民から食料を奪って食べるということである。

また、軍の上官たちは性的蛮行を「兵の元気をつくるに必要」「「中国女性を征服し、力づくで女をモノにする」という婦女陵辱行為を戦場の役得と黙認する風潮があった。
(国府台陸軍病院附軍医早尾逓雄中尉「戦場における特殊現象と対策」)

南京事件に至るまで〜17(南京波状進軍1)に続く


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜15(南京攻略3

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 08:39 投稿番号: [13601 / 29399]
軍規頽廃した上海派遣軍を南京攻略に動員するのは無理と判断し、再建の方策として予備役、後備役兵の早期招集解除と国内帰還、将校、下士官の短期再教育の徹底を痛感、考慮している最中の11月20日参謀本部に第10軍から

「集団は19日朝、全力をもって南京に向かって追撃を命令」という報告が届いた。

参謀本部次長多田駿中将(石原完爾派)は非常に驚き、急を要するので直ちに中止せよ、制令線から後退させよ、と指示を出した。

拡大派の下村第1部長は内心は南京追撃論であったので、本問題は中支方面軍の統帥に任せるべきであると意見を述べた。しかし、多田次長の強い意見に従い、20日夕方、中支方面軍参謀長あてに

「第」10軍の南京追撃は臨命第600号(作戦地区)指示の範囲を免脱している」と打電した。

前後するが、これより先、11月15日第10軍は軍司令官柳川平助中将臨席のもと
に幕僚会議を開き、軍主力をもって独断南京追撃を敢行することをすでに、決定していた。

制令線を設定して奥地に侵攻することを禁じた軍中央の対する、明らかな命令違反である。

11月24日第10軍に続いて、今度は中支那方面軍から「事変解決を速やかならしむる為、現在の敵の頽勢に乗じ、南京を攻略するを要す」とう意見書が参謀本部に届いた。

下村第1部長は多田参謀次長を説得し、中支那方面軍の作戦地域を制限している制令線の撤去を指示した。(大陸指第5号)

それでも多田参謀次長は戦線拡大を深く憂慮し、中支那方面軍参謀に「南京方面へは進撃しないように」電報を打っている。

11月20日天皇に直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、24日には天皇臨席のもとに、参謀本部、陸軍省、軍令部、海軍省の最高首脳が出席して第一回大本営御前会議が開かれた。

同会議では参謀本部の下村第一部長の中支那方面軍の作戦計画について参謀本部で起案した原稿を読むかたちで次のように説明している。

「この軍(中支那方面軍)は上海付近の敵を掃滅するを任務とし、かつ同地を南京方面より孤立せしむることを主眼として編組されております関係上、その推進力には相当制限がございます

のみならず、目下その前線部隊はその輜重はもとより、砲兵のごとき戦列部隊すらなお遠く後方にあるものすくなくございません。

従って一挙直ちに南京に到達し得べしとは考えておりませぬ」、以上は前線からの報告に基づき、

中支那方面軍の現状では南京攻略は無理である事を述べたもので、多田参謀次長の承認を得たものであった。が、下村部長は多田参謀次長に無断で原稿にない事を発言したものである。

「この場合中支那方面軍その航空隊をもって海軍航空兵力と協力して南京その他の要地を爆撃し、かつ絶えず、進撃の気勢をしめして敵の戦意を消磨せしむることと存じます。統帥部といたしましては、今後の状況いかんにより該方面軍をして新たなる準備態勢を整え、南京、その他を攻撃せしむる事をも考慮しております」(下村定大将回応答録)

下村部長の発言から海軍航空隊の南京爆撃が陸軍の南京攻略の前哨戦の意味を示すものでることが露呈されている。

下村作戦部長と中支那方面軍司令部とが共謀して参謀本部と命令系統を無視して南京攻略作戦を「下克上」的に進めたのである。

南京事件に至るまで〜16へ


kinngyoya301氏の投稿より引用

Re: 立岩真也(47歳)を都知事に!

投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/02/23 06:38 投稿番号: [13600 / 29399]
>日本の弱者革命の大きな一歩が確実刻まれるだろう。

役所の試験にたった一度合格さえすれば、生涯   喰うに困らない、、例え年間に10日ほど出勤すれば、、安楽に   年収平均600万〜900万円はもらえるんだぜ、、(笑)
こんな行政しかやってない国の行政に弱者救済?   無理だろう(笑)
現に   今や弱者切り捨て行政が蔓延してまっせ、、

国民の平均年収約400万円   それ以下の国民が大多数の国だよ、地方へ行けばその格差は広がるばかりなんだよ、、給与袋を確かめてみな〜〜
え〜〜カッコしてると、役人の思うつぼなんだよ、、

年3日で暮らす   いい男、、(昔の相撲取り)よりも遙かに   待遇の良い環境だな、、役所って、、学校の知識だけで、飯食えるんだよ、、世間の事はまったく知らないのが現状だな、、それでも良いんだよ、、クビにはならんからね、、だから緊張感なんて   ちっとも無い、、横領事件に巻き込まれたりすると、日頃から緊張感なんてなかったもんで、急に緊張などするから、すぐに自殺に走ちゃうんだよ、、あっけなくコロコロ自殺しちゃうね、特に官僚は、、、(笑)   何をするにも覚悟がないんだよ、、こいつらはね。

新聞報道などの日本国民年間平均収入なんて記事はこの公務員の平均給与を出しているに過ぎない、、夫婦共働きで年収平均1500万円から1800万円近くをもぎ取ってる、、地方の苦労に苦労を重ねて従業員の給与を支払ってる中小企業の社長ですら、、公務員の給与に及ばないのが現状だな、、
こんな国   世界広しといえど、、日本くらいのもんだろう(笑)

それでも学校給食費すら、支払わず   済ませた公務員の数しれず、、呆れるばかりだよ、、これで、この日本国に公正な行政なんて、、無理というもんだ、、黒川さん   頑張ってね、、石原都知事が昨晩言ってたが、、建築屋が都知事になったら大変だよ、、、って、、物書きが良かったのかい?、、て?、問題が山積してるんだがね、、タレント知事さんは現在奮闘中、、応援してまっせ、、

要は   中国   朝鮮   アジア蔑視の国際感覚の欠如した政治家はもう、ゴメンだと   思うのですよ。   まさに天につばしてるのと変わらんからね(笑)

選挙の票ほしさに   公務員給与を引き上げて来た政治家はもう、ゴメンだよ。仕事をやらせろよ、、公務員の資格さえ欠如した職員が山ほど居るのが現状だよ。これを整理しろよ、、って常日頃思っておりますね。

南京事件に至るまで〜15(南京攻略2

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 06:16 投稿番号: [13599 / 29399]
11月中旬、日本軍は上海全域を制圧した。上海派遣軍の本来の目的である「日本人居留民保護」はこれで達成された。

約3ヶ月におよんだ上海戦に多大な犠牲を強いられ、心身共に消耗した兵士は、これで本国へ凱旋できるはずであった。

陸軍省の作成した「上海付近の作戦一段落に当たり政府の行う声明案」(10月28日)によれば、

「上海戦を制すれば、直ちに軍事行動を停止し、欣然日支の友交をおさむるに吝かならず」と記されていた。(軍令部第1部甲部員/支那事変処理)

陸軍中央部にとっては上海派遣軍の士気低下、軍規の弛緩、不法行為の激発が深刻な問題となっていた。

陸軍省軍務局軍事課長田中新一大佐は「軍規粛正」として所見を書いている。

「軍規頽廃の根元は、召集兵にある。高年次招集者にある。招集の憲兵下士官などに唾棄すべき知能犯的軍規破壊行為がある。

”現地依存の給養上の措置”が誤って軍規破壊の第一歩ともなる。すなわち、地方民から物資購買が徴発化し、掠奪化し、暴行に転化するごときが、それである。、、、補給の停滞から第1線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍規破壊のもととなる。

軍規粛正の道はそれらの全局面にわたって施策せられなければならないが、当面緊急の問題は、後方諸機関にある。後方諸機関の混乱は動員編成上並びに指揮系統上の見落としものもちろん起因するが、後方特設部隊の軍紀的乱脈が大問題である。

軍事的無知、無規律、無責任、怠慢などおよそ、国体行動の要素は皆無というべく、これをこのまま放置しておいては全軍規律を動揺せしめることにもなる。

問題は制度や機構よりも人事的刷新にある」(田中新一   支那事変記録   その3)

松井石根中支那方面軍司令官が南京を占領して国民政府に代わる新政権樹立する意図を表明してはばからないことに対して田中新一は、

「松井大将としては南京攻略を切望す。目的は蒋介石を倒す、、ただし、師団の現状では戦闘能力なかんずく攻撃力に不足するものと,見あり。

軍紀風紀の維持については、憂慮すべきもの多く、その原因の重大なるものは、指揮官各級の威力なきにあるといえる。

軍再建に関する件として、情況上、整理可能なるに従って予後備役の招集解除を行い、できるだけ速やかに平常の体制に移し、兵員の不足は補充兵、新兵をもって充足する。

下士官の精違整理を行い、徹底させる短期再教育を行う、将校についても同断、戦地教育の徹底をはかる。」(田中新一   支那事変記録   その4)

南京事件に至るまで〜16(南京攻3)
へつづく、、、、


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜14(南京攻略)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 06:11 投稿番号: [13598 / 29399]
11月中旬、日本軍は上海全域を制圧した。

上海派遣軍の本来の目的である「日本人居留民保護」はこれで達成された。

約3ヶ月におよんだ上海戦に多大な犠牲を強いられ、心身共に消耗した兵士は、これで本国へ凱旋できるはずであった。

陸軍省の作成した「上海付近の作戦一段落に当たり政府の行う声明案」(10月28日)によれば、「上海戦を制すれば、直ちに軍事行動を停止し、欣然日支の友交をおさむるに吝かならず」と記されていた。(軍令部第1部甲部員/支那事変処理)

陸軍中央部にとっては上海派遣軍の士気低下、軍規の弛緩、不法行為の激発が深刻な問題となっていた。

陸軍省軍務局軍事課長田中新一大佐は「軍規粛正」として所見を書いている。

「軍規頽廃の根元は、召集兵にある。高年次招集者にある。

招集の憲兵下士官などに唾棄すべき知能犯的軍規破壊行為がある。

”現地依存の給養上の措置”が誤って軍規破壊の第一歩ともなる。

すなわち、地方民から物資購買が徴発化し、掠奪化し、暴行に転化するごときが、それである。、、、補給の停滞から第1線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍規破壊のもととなる。

軍規粛正の道はそれらの全局面にわたって施策せられなければならないが、当面緊急の問題は、後方諸機関にある。

後方諸機関の混乱は動員編成上並びに指揮系統上の見落としも、もちろん起因するが、後方特設部隊の軍紀的乱脈が大問題である。

軍事的無知、無規律、無責任、怠慢などおよそ、国体行動の要素は皆無というべく、これをこのまま放置しておいては全軍規律を動揺せしめることにもなる。

問題は制度や機構よりも人事的刷新にある」(田中新一   支那事変記録   その3)

松井石根中支那方面軍司令官が南京を占領して国民政府に代わる新政権樹立する意図を表明してはばからないことに対して田中新一は、

「松井大将としては南京攻略を切望す。目的は蒋介石を倒す、、ただし、師団の現状では戦闘能力なかんずく攻撃力に不足するものと,見あり。

軍紀風紀の維持については、憂慮すべきもの多く、その原因の重大なるものは、指揮官各級の威力なきにあるといえる。

軍再建に関する件として、情況上、整理可能なるに従って予後備役の招集解除を行い、できるだけ速やかに平常の体制に移し、兵員の不足は補充兵、新兵をもって充足する。

下士官の精違整理を行い、徹底させる短期再教育を行う、将校についても同断、戦地教育の徹底をはかる。」(田中新一   支那事変記録   その4)

陸軍中央において、武藤章とともに拡大派の中心であった田中新一でさえ、軍紀紊乱した上海派遣軍を南京攻略に動員するのは無理と判断し、上海派遣軍の再建の方策として、予後備役兵の早期召集解除と国内帰還、将校・下士官の短期再教育の徹底を痛感していたのである。

予後備役兵の召集解除ということになれば、予備役大将の松井石根司令官の召還も対象となったはずである。(河辺虎四郎少将回想応答録)

参謀本部もこうした軍紀頽廃した将兵からなる上海派遣軍を南京攻略に駆り立てれば軍紀を逸脱した不法行為、残虐行為が激発する可能性を懸念し、上海戦を一段落として派遣軍を整理し、休養を与える必要を考慮していた。

その矢先に、、、参謀本部に「集団は19日朝、全力をもって、、、、、」の報告が第10軍より届く、、、

南京事件に至るまで〜15(南京攻略2)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜13(武藤章 )

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 06:09 投稿番号: [13597 / 29399]
石原完爾の後任の参謀本部第一部長には武藤明と同じ拡大派の下村定少将が第四部長から任命された。

中国軍の抵抗は頑強で、上海派遣軍は三個師団半の増援を得たにも関わらず、戦線はなお膠着し、苦戦は続いた。

十一月八日までに戦死戦傷者は四万人以上となる。それに、戦病者も増え、指揮官の大部分、兵士の過半数も補充で入れ替わるという状況であった。

戦局の打開を苦慮した武藤章作戦課長は、杭州湾に一軍を上陸させて、背後から中国軍を攻撃する作戦を考案し、下村第一部長の内諾を得て、北支方面軍に飛び、華北から上海への兵力抽出を説得した。

その結果、杭州湾上陸のための第十軍(軍司令官柳川平助中将、第6・第十八・第百十四師団と第五師団の国崎支隊)が編成され、併せて第十六師団を華北から転用し、上海派遣軍に増派することとなった。

十一月五日第十軍が杭州湾に上陸し、敵の背後を突いたため、中国軍は動揺し、

十一月十三日に第十六師団が長江岸の白茆口(上海北西約七十五キロ)に上陸すると、中国軍の撤退と潰走が始まり、総崩れとなって、上陸攻略戦は一段落を遂げた。

十一月七日   上海派遣軍と第十軍とを併せて指揮するために中支那方面軍の「編合」が発令され、

松井石根大将が方面軍司令官を兼任するように命令された。

「編合」は天皇の命ずる正式の軍の編成である戦闘序列ではなく、仮の編成である。方面軍の任務も「上海付近の敵の掃討」に限定されていた。

参謀本部は「中支那方面軍の作戦地域は蘇州、嘉興を連ぬる以東とす。」と制令線を指示し、上海で決着をつける作戦を明示した。」

中支那方面軍司令部は上海派遣軍と第十軍との作戦を一時的に統一指揮するだけのものとされていた。

普通、一般の方面軍の編成と異なり、兵器部、経理部、軍医部、法務部(法務官が派遣され、軍法会議により軍刑法違反を取りしまる)など無く。

つまり、
それ以上の奥地へ対する作戦を指揮する場合に必要な

”兵站基地、機関”を持っていなかったのである。

法務部がないということは軍隊の軍規風紀を取り締まるべく正式機関を備えていなかったということである(軍務局長武藤章回想録)

参謀長には第三部長であった塚田功少将、参謀副長には作戦課長であった武藤章大佐が就任した。

いずれも拡大派であり、武藤は自ら志願したとされ、東京を出発するときから南京攻略を考えていたと思われた。

南京事件に至るまで〜14(南京攻略 ) 続く


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜12(武藤章)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 06:08 投稿番号: [13596 / 29399]
上海攻略戦は、武藤章や拡大派が楽観的に考えていた様に、強力な一撃を加えれば中国は簡単に屈服し、日本の要求を国民政府に呑ませて、事変は一気に解決出来るなどというものではなかった。

蒋介石は第一次上海事変( 32年)が上海や華中に多くの利権を持つ英国、米国など列強の圧力で停戦協定が結ばれたように、
今回の第二次上海事変においても、英国、米国の干渉を誘い出して停戦にこぎつける事、あるいは国際連盟加盟国に九カ国条約加盟国による対日軍事・経済制裁を引き出すことを期待して、上海防衛戦に最大勢力を結集した。

しかも、蒋介石は国民政府の精鋭部隊の殆どを投入し、ドイツから派遣された軍事顧問(団長フォウルゲンハウゼン) がドイツ製武器で武装し、ドイツ陸軍式に訓練された精鋭部隊に市街戦、陣地戦の高等技術を直接指導した、上海市民の支援も受けて、中国軍将兵の抗戦士気は高かったのである。(笠原「南京防衛戦と中国軍」)

応急的に動員されて上海戦に投入された日本上海派遣軍は中国軍の激しい抵抗を受け、戦果を拡大することが出来ないまま、戦闘は長期化していった。

わずか三ヶ月間の戦いで戦傷者三万人を数えたとある。

上海戦の苦戦は中国軍の抗戦力を軽視した結果であり、拡大派の一撃論が誤っていた事を露呈したものである。

が、日本軍部、国民、政府には中国を「侮日」「暴涙なる支那」と見て、よりいっそうの一撃を与え、中国を屈伏させよという強硬論が大勢を占めるようになり、不拡大派は軍部の内外において孤立していった。

戦後、天皇は「二個師団の兵力では上海は悲惨な目に遭うと思ったので、私はさかんに兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ連を恐れて、満足な兵力を送らぬ」と語っている
(「昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記」)
武藤章作戦課長らは石原の反対を押し切って、九月七日、台湾軍から応急動員部隊の上海派遣と華北からの後備歩兵10大隊の上海への転用、九月十一日、第九.第十三・第百一師団及び有力砲兵部隊の上海派遣を断行することを参謀本部に決定させた。

上海戦への兵力増強には天皇の意思と指導も強く働いていた。(藤原「南京の日本軍」)

不拡大を主張していた石原完爾は参謀本部の作戦の重点が華北から上海攻略戦に移行するに従い、関東軍参謀副長に更迭された。

南京事件に至るまで〜13(武藤章 )に続く


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜11(近衛文麿)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 06:07 投稿番号: [13595 / 29399]
日中戦争は「支那膺懲」(成敗する)の為の戦争であると言う意識が軍隊、国民に浸透していたという一面がある。

近衛文麿首相は「支那膺懲」を掲げ、国民の戦意高揚を煽り、挙国一致の国民精神総動員を呼びかけて行った。

近衛首相は45才の若さで組閣し、長身の容姿、清新味が期待され、国民的人気も高く大いに期待されたのであるが、

実態は「近衛首相、広田外相など、当時は軍部に”オベッカ”を使っていた政府であります。何事も「軍はどういう風に思っているか?」というて心配する非常に勇気のない政府でありました。
とにかく、軍に問うては事を決するというやり方で、政治的に全責任を負い、戦うも戦わざるも国家大局の着眼からやっていこうというものはなかったことをつくづく思います。」
(参謀本部戦争指導課河辺虎四郎少将回想応答録)

石井猪太郎(外務省東亜局長)は「日本は今度こそ、真に非常になって来たのに、こんな男を首相に仰ぐなんて、よくよく巡り合わせが悪いと言うべきだ。

これに従う閣僚なるものは何れも弱卒、禍なるかな、日本」と日記に記す。

陸軍中央と政府、天皇も不拡大方針で戦局の早期解決を模索していた段階で、近衛首相は何度かの政府声明に置いて、対外的(中国)・国内的状況を戦争拡大に導いていく役割を果たした。

最初が、中国側の武力抗日に対して反省を促す重大決意をもって華北に派兵する1.「重大決意声明」(7月11日)

次が支那軍の「暴戻」(荒々しく道理にもとる)を膺懲し、もって南京政府の反省を促す為、断固たる措置をとる。2.「南京政府断固膺懲声明」(8月15日)

そして、断固として積極的に、かつ全面的に支那軍に対して一大打撃を与えるために挙国一致の国民精神総動員を呼びかけた国会における3.「施政方針演説」(9月5日)などがそれである。

「近衛は戦いそのものは好まぬ所だが、とにかく国防国家を作るにも、産業拡充をやるにも、今のままでは政府も国民も容易にはついて来ん、戦いでも始まって−現実に戦いでもあれば国民も仕方なくついてくる、
それがためにこの戦いをやったら良いじゃないか」という軍部拡大派の思惑に乗って、国民を戦時体制に総動員していく国家指導者の役割を演じたのである(河辺虎四郎少将回想応答録)

石井猪太郎は「近衛首相の議会原稿を見るに、軍部に強いられた案であるに相違ない。
「支那膺懲」とある。排日抗日をヤメさせるには最期までブッたたかねばならぬ、とある。

近衛は日本をどこへ持って行こうというのか。呆れ果てた非常時首相だ。彼はダメダ。」(8月31日   記)

南京事件に至るまで〜12武藤章に続く


kinngyoya301氏の投稿より引用

Re: 立岩真也(47歳)を都知事に!

投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2007/02/23 00:47 投稿番号: [13594 / 29399]
こんばんわ!


>給食費を払わない輩がいるとメディアが騒いでいたが、私が本当に驚いたのは給食費がタダではなかったことだ。世界には給食費のみならず大学まで無料の国もあるのに、この日本低国では低次元の事で騒いでいるのだ。もちろん大学までタダになれば貧乏層の子どもでも大学へ行ける可能性は高まり、そうなれば今日の不平等社会を叩きこわせるかもしれないのだ。



政府にすがってしか生きられない国民を作ろうと?


昨今の日本政府は、格差社会がなければ困る。

志願者が皆大学など行ってもらっては困る。

自衛隊員も定員割れじゃないですか?

年金なども改正して有利にするとか記事を見たことあります。

【イラクなど戦地派遣後には昇進】とかおいしい言葉で釣っているんじゃないだろか。

何しろ【集団的自衛権】で、米のポチ軍自衛隊を戦地へどんどん派遣する予定ですから。


  >さて立岩真也である。「ふくらむ生活保護問題」に関して答えは明快である。【一部の「悪質な」不正受給者をダシにして語られる支援抑制論には警戒せよ。審査を厳格にすれば、本当に生活保護を必要とされる人々さえも除外されるであろう】と。【「中」と「下」が内輪もめをしている場合ではない。生活保障のための金がいるなら、それは金持ちからいただこうということで多数派を形成せよ】と。


そうですね。
国民は内輪もめを扇動されないようにしないといけないのにね。


>障害者問題を研究しているから、言うまでもなく、あらゆる意味でアンポンタン都知事とは対極の人である。


福祉は贅沢と言った石原とはほんと対極ですね。

今回、初めてこの方の存在を知りました。

でも立岩さんの意思は??

早く立候補しないと知名度が・・。


  >民主党などどうでもいいから社民党あたりが立岩真也を担ぎ出せば、共産党は当然候補者を引っ込めるだろう。勝算は十分ある。万が一負けても、日本の弱者革命の大きな一歩が確実刻まれるだろう。


選挙での共産党の動きは、がっかりする事もありますね。
民主党も小沢・鳩山など殆ど自民と変わりないですから、支持者も増えない。




都議会での【民主党は石原応援団】だったそうな。

だから迫力が無い。

こんな極右議員も   ↓

★2005/5/17

「右翼偏向都議の税金使った超豪華旅行」    Ⅰこんな極右偏向都議を許せるか!!
  5月15日付の「しんぶん赤旗日曜版」に都議会・自公民の「海外視察という名の豪華税金旅行」という特集がありました。

そこに「土屋たかゆき」の名前あり。なんと、04年10月15日〜23日、9日間のドイツ・スウェーデン・フランス旅行に3人で654万円、つまり土屋と柿沢未途、相川博(全部、民主)らは、

一人218万円の都民の税金を使って、ぜいたくざんまいツアーに行ってるんです。


01年から04年まで自公民の都議が使った「海外視察費用」は合計5645万円で平均は一人148万円、一番安いので自民党のシンガポール・ベトナム8日間で一人75万円。

つまり土屋ら民主三都議は、一人当たり最高額の都民の税金を使って、お大名旅行をしていたのです!?


  都議の土屋は04年3月の都立板橋高校の卒業式において、主役の生徒達に「日本人なら立って(君が代を)歌いなさい、恥ずかしくないのか」などと怒鳴り、あげくのはて、無関係な藤田先生を逆恨みして都教委をけしかけ「威力業務病害」などとでっち上げさせた男です。

その他、平和・民主教育弾圧、真っ当な性教育弾圧、組合活動への妨害・既得権剥奪、ジェンダー・フリーへのバックラッシュ、「日の君」弾圧の全てに、尖兵は土屋でした。


・・

http://wind.ap.teacup.com/applet/people/msgcate4/archive

Re: 黒川紀章が‥

投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2007/02/23 00:14 投稿番号: [13593 / 29399]
こんばんわ。

>黒川紀章は石原のお友達なんだって。

これからもし民主党が大物を立てたとしても、票が割れて、

どう転んでも慎太郎が勝てるというシナリオになったというわけです。


うーーん、そうともいえますね。
何だか臭うぞ!


>どんどん悪くなる日本だから、

あたしの掲示板投稿の意欲もなくなってきたみたい‥

ドラちゃんはがんばってね。


あらら、そんな寂しい!

マリコお姉さまの艶姿が見えなくなると心細い!

どこかでリフレッシュして、又気が向いたときにでも投稿してくださいね☆

今さら社民党??

投稿者: devil_snr 投稿日時: 2007/02/22 23:45 投稿番号: [13592 / 29399]
いらん!

それより「李高順」は拉致被害者にいつ謝罪するんだ?

Re: 黒川紀章が‥

投稿者: inonakanohotaru 投稿日時: 2007/02/22 23:31 投稿番号: [13591 / 29399]
アホだな。五輪つぶしだよ!

Re: 黒川紀章が‥

投稿者: abe_malia 投稿日時: 2007/02/22 20:11 投稿番号: [13590 / 29399]
  4月の東京都知事選に無所属で出馬宣言した建築家の黒川紀章氏(72)。当選したら「1期のみ」「無給」「東京五輪中止」などを掲げている。3選を狙う石原慎太郎知事(74)と近い人物とされていたのに、なぜ出る気になったのか。そこには建築家の安藤忠雄氏を起用して東京五輪招致構想を練る石原都知事との因縁の対立があったのではないか、とささやかれている。黒川氏出馬は結果的に石原3選を助けることにもなる…との見方もあるが、さて民主党はどうするか。

-------------------------------------------------------- -

スキャンダルにまみれた石原慎太郎。

現在の状況では共産党推薦候補にも敗れるかもしれないと恐れた石原陣営。

石原慎太郎 vs   共産党候補の一対一では負けるかもしれないと危惧。

そこで黒川氏に出馬を要請して、反石原票を割れさせようとしたというのがあたしの想像。

立岩真也(47歳)を都知事に!

投稿者: syoumenkyousi 投稿日時: 2007/02/22 20:04 投稿番号: [13589 / 29399]
  給食費を払わない輩がいるとメディアが騒いでいたが、私が本当に驚いたのは給食費がタダではなかったことだ。世界には給食費のみならず大学まで無料の国もあるのに、この日本低国では低次元の事で騒いでいるのだ。もちろん大学までタダになれば貧乏層の子どもでも大学へ行ける可能性は高まり、そうなれば今日の不平等社会を叩きこわせるかもしれないのだ。

  さて立岩真也である。「ふくらむ生活保護問題」に関して答えは明快である。【一部の「悪質な」不正受給者をダシにして語られる支援抑制論には警戒せよ。審査を厳格にすれば、本当に生活保護を必要とされる人々さえも除外されるであろう】と。【「中」と「下」が内輪もめをしている場合ではない。生活保障のための金がいるなら、それは金持ちからいただこうということで多数派を形成せよ】と。

  「尊厳死」についての彼の発言など、メディアは大々的に取り上げるべきなのだが、生憎メディアを覆う悪貨としてのアホ発言者の愚論に多くの国民が惑わされているのが日本の現況なのだ。障害者問題を研究しているから、言うまでもなく、あらゆる意味でアンポンタン都知事とは対極の人である。彼の発言を聞いて東京都民も人間として目覚めるべきだろう。

  民主党などどうでもいいから社民党あたりが立岩真也を担ぎ出せば、共産党は当然候補者を引っ込めるだろう。勝算は十分ある。万が一負けても、日本の弱者革命の大きな一歩が確実刻まれるだろう。

黒川紀章が‥

投稿者: abe_maliko 投稿日時: 2007/02/22 09:21 投稿番号: [13588 / 29399]
石原慎太郎を勝たせるために、友情立候補するらしいわね。

黒川紀章は石原のお友達なんだって。

これからもし民主党が大物を立てたとしても、票が割れて、

どう転んでも慎太郎が勝てるというシナリオになったというわけです。

どんどん悪くなる日本だから、

あたしの掲示板投稿の意欲もなくなってきたみたい‥

ドラちゃんはがんばってね。

石原都知事ポスター・・・

投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2007/02/22 00:16 投稿番号: [13587 / 29399]
花粉症のポスターのはずが・・・選挙戦用に??

なりふり構わず選挙戦。

殆どの区は、掲示板に貼付したのだろうね、バカ殿のご機嫌を損ねれば怖いからねー。


建築家が対抗馬?にやっと出たが、石原とはかなり親しかったと言う。


なんだかね。



★石原知事ポスターの掲載お断り 2007/02/20


  右の写真を御覧頂きたい。A3サイズのポスターに石原慎太郎・東京都知事が拳を突き上げて「東京がやる」。黒抜きの文字と石原知事のバストショットがやたらと大きい。

  東京都知事選挙の告示まであとひと月と迫ったこともあり、石原さんが「2期8年」の実績を強調しているのか、と思っていた。


ところがこれは「花粉症対策」の行政ポスターなのだ。

「花粉」の2文字があることはある。しかしポスターの地の色が白なので、黄色で書かれた「花粉」はどこか弱々しく見え、目立たない。


  一部週刊誌の報道によると、ポスターの掲載を拒否している自治体がいくつかあるのだという。そのひとつ中央区をワタシは取材した。


  中央区企画部広報課は以下のように説明した―


  問題のポスター750枚が昨年末、東京都森林課から届いた。

中央区内には750カ所に(ポスターの数と同じ)掲示板がある。都知事選挙の告示までに全部はがし終えれば問題ないが、数枚でも残っていると混乱をきたす。


  花粉症対策を担当する健康推進課が区選挙管理委員会と相談して掲載見合わせを決断した、という。


【中央区選挙管理委員会は、選挙運動期間中の候補者や政治団体による文書図画の頒布を禁じた公職選挙法第146条に抵触する恐れがある、と見る。】


  ところが東京都選挙管理委員会は逆の見解を示す―


  ポスターを企画、配布したのはあくまでも行政。公職選挙法の規制を受ける政治団体や候補者ではない。まして選挙は告示されていない。「現時点では規制を受けるものではない」とキッパリ。



  ポスターの“発行元”である東京都森林課に聞いた。

【森林課によると、ポスターは5万2000枚印刷し、都内23区とすべての市町村に配布した。デザイン、印刷等に要した費用は227万円。】


  花粉症対策にしては石原さんの顔が大き過ぎはしませんか?

とのワタシの問いには次のように答えた。


「花粉対策の会議の席上、都知事が『自分ができることをしたい』と積極的な姿勢を示した」。


  かくして石原都知事の“花粉症ポスター出演”は決まった、という。


  東京都知事に限らず現職は有利だ。自らをアピールする事業やイベントを選挙直前に行っても、公職選挙法の規制をすり抜けることができる。


  マスコミが大騒ぎした18日の「東京マラソン」は、オリンピック誘致が名目になっている。

確かにそれもあるだろう。しかし都知事選挙にもし有力な対抗馬が出ていたらどうだろうか。

号砲を鳴らす石原知事、「石原知事ありがとう」などと手を振る市民ランナー。これらは選挙に絶大な効果をもたらすのではないか。


  (問題の)ポスターは選挙前でもありタイミングが良すぎはしせんか?との問いに東京都森林課は、「花粉が飛ぶ今の時期に掲示するのが効果的」と答えるのだが……。

(竹谷昇)


http://www.janjan.jp/government/0702/0702190366/1.php

Re: abe_maliko君

投稿者: maggy_may2120 投稿日時: 2007/02/18 01:19 投稿番号: [13586 / 29399]
>何でもかんでも、日本独自の素晴らしい食文化には、唐辛子をかけるだけで、韓国文化と嘘をつけると思っているらしい。


またウィキペディア(Wikipedia)から引用します。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%BE%9B%E5%AD%90

これによれば唐辛子さえも「日本から伝わったことが韓国では定説になっている」との事です。

Re: 浅野史郎さんが都知事候補に‥

投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2007/02/18 00:20 投稿番号: [13585 / 29399]
>民主党の菅直人代表代行は17日、東京都知事選で浅野史郎・前宮城県知事が同党の立候補打診を断ったことについて「民主党としていろいろなことは考えないといけない。同時に無党派、市民の方が自発的に動いている。政党は政党としての役割はあるが、それを超えた多くの都民、市民の皆さんの動きも始まっている」と述べた。

  >浅野氏に立候補を求める市民集会が16日に開かれたことを受け、世論の動向と浅野氏の対応を十分見極めるべきだとの考えを示したものだ。大津市内で記者団に語った。



いいですねえ。

石原は【福祉は贅沢】と言って切り捨ててきた。

浅野史郎さんと正反対で、これは浅野さんに是非出馬して欲しいですね。

都は、芸術部門でも【石原の四男関係のワンダーサイト以外は大幅削減】していますから、

このまま私物化させていたら、大変な事になりますよ!!!

あ、もうなっていますね。


浅野史郎さん↓  

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%8F%B2%E9%83%8E

Re: 浅野史郎さんが都知事候補に‥

投稿者: inonakanohotaru 投稿日時: 2007/02/18 00:09 投稿番号: [13584 / 29399]
可愛そうに、無理強いしないほうがいいと思うよ。

浅野と小沢は合わない。

ぐずぐずし過ぎた。都民は好感を持たない。

浅野がオリンピックをやれるのか、

あるいは招致事業を中止する勇気があるのか。

浅野史郎さんが都知事候補に‥

投稿者: abe_malia 投稿日時: 2007/02/17 23:40 投稿番号: [13583 / 29399]
  民主党の菅直人代表代行は17日、東京都知事選で浅野史郎・前宮城県知事が同党の立候補打診を断ったことについて「民主党としていろいろなことは考えないといけない。同時に無党派、市民の方が自発的に動いている。政党は政党としての役割はあるが、それを超えた多くの都民、市民の皆さんの動きも始まっている」と述べた。

  浅野氏に立候補を求める市民集会が16日に開かれたことを受け、世論の動向と浅野氏の対応を十分見極めるべきだとの考えを示したものだ。大津市内で記者団に語った。

  鳩山由紀夫幹事長も17日、甲府市での記者会見で「民主党色を消すことは彼(浅野氏)が選挙に出馬する必要条件とも言える。民主党の誘いは断ったが、市民の皆様の大きな期待にどう行動されるか。浅野さんが出馬されるか否かは完全に決着がついている話ではない」と述べた。「(浅野氏が)万一不出馬の時は党関係者、基本的に議員、前議員で我と思わん方を擁立する環境になると思う」とも語った。

  一方、小沢代表は17日、津市での記者会見で「浅野さんはたぶん出馬の意思はないだろう」と語った。菅氏については「(私と鳩山氏との)3人の役割分担がうまく機能してきたので、今後もそういうことでやっていきたい」と、都知事選には擁立しない考えを重ねて示した。

怒裸山葵

投稿者: forbos_dds 投稿日時: 2007/02/17 12:54 投稿番号: [13582 / 29399]
おまえも、虐殺者・侵略者である日帝の血を引く子孫なわけだ。

おまえ自身がそう言っているわけだからなー。

鬼畜日帝の子孫なら、もっと謙虚にならんとな。

自分が鬼畜の血を引いていることを棚に上げての潔癖面、どうにかしろ。
いけ図々しいにもほどがある。

Re: abe_maliko君

投稿者: fff2252 投稿日時: 2007/02/17 00:21 投稿番号: [13581 / 29399]
>wikipediaより
日本生まれの焼肉の場合には味付けは、醤油を基本として酒、砂糖、ニンニク、ゴマなどを調合して作った配合調味料(タレ)を使うものと、塩、胡椒やレモン等に焼いた肉を箸でつまみ、漬して味付けをするものが一般的である。


在日韓国人や朝鮮人は、日本食に唐辛子を入れれば、韓国独自の食文化と嘘を貫こうとする民族癖がある。

焼肉だけでなく、例えば日本にはラーメンがあるが、これも中国のラーメンとは異なる文化だ。
しかし、この日本しか存在しないラーメンに、唐辛子を入れただけで、「チゲ」と在日韓国人は公言し、韓国人もそれを支持するようになった。

何でもかんでも、日本独自の素晴らしい食文化には、唐辛子をかけるだけで、韓国文化と嘘をつけると思っているらしい。

Re: abe_maliko君

投稿者: maggy_may2120 投稿日時: 2007/02/17 00:15 投稿番号: [13580 / 29399]
>日本は江戸時代に肉食が禁止されていたから、
焼肉はもともと日本の食文化ではないでしょ。
だから焼肉は日本が韓国からパクったものです。


ウィキペディア(Wikipedia)に焼肉の起源が載ってますよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E8%82%89#.E8.B5.B7.E6.BA.90

これによれば起源は日本のようです。
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