南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
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犬の馬鹿話は面白いな
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/24 00:32 投稿番号: [40921 / 41162]
相変わらずの馬鹿に失笑。
これは メッセージ 40920 (sho*jou** さん)への返信です.
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Re: ◆南京で略奪の限りを尽くす中国軍兵士
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/12/24 00:03 投稿番号: [40920 / 41162]
>日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む
馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
ん?何で「城」なのかわかるかい?敵から攻めこまれた住民が城壁の
内側に避難して味方の軍がこれを守るというのはごく普通の行動だが?
おまえ、こぴぺするだけで自分で考えてねえだろ?
>安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
ってことは、おまえさんは日本軍がジンギスカンの軍と同様に殺し
尽くし、犯し尽くし、焼き尽くす「蝗軍」だったことを「中国の農民が
認識していた」から逃げたに決まっている、と言ってるわけだ。日本軍は
紳士的だと思っていたから農民が逃げなかった、という可能性をおまえは
全く考慮しないわけだな(藁
これは メッセージ 40919 (madabakayatuterunokaomae さん)への返信です.
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◆南京で略奪の限りを尽くす中国軍兵士
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 20:52 投稿番号: [40919 / 41162]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあった。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
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◆真実の証言 欧米人の証言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 20:50 投稿番号: [40918 / 41162]
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。
南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。
南京に便衣兵は居た
南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ
1937年12月22日付)
また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー副領事の報告)。
中国軍が自ら村や農村に火をつけた
アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。
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◆真実の証言 中国軍による虐殺
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 20:49 投稿番号: [40917 / 41162]
実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った」
十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。中国軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。
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◆〈反対尋問〉に耐えられない証言ばかり
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 20:49 投稿番号: [40916 / 41162]
中国政府は、中国国民党が戦後、多大の苦労をしてようやく集めた十一件
の証言によって「十九万人が集団殺戮された」と主張している。
しかし、その計算の仕方は杜撰極まりない。どこそこでAという中国人
が、日本軍が何万もの中国人を集団殺害しているのを目撃したというよう
な《十一件》の証言の犠牲者数を単純に合計して十九万人という数字を主
張しているに過ぎないのである。
しかも、この十九万に関して『資料選輯』は「集団殺戮に会い、死体を焼
かれて痕跡をとどめなかった者は十九万以上に達」したと主張し、死体なき
殺人事件だと言い張るのである。
数名ならともかく、十九万人もの死体が跡形もなく消えたと言われて、誰が
信じることができるだろうか。
実はこれら十一件の証言は、事件から八年も経った後に集められたもので
あり、反対尋問も受けていない。その内容も合理性を著しく欠く。
何故なら、これらの証言を信じれば、陥落直後の十二月十四日から十八日ま
でのたった五日間に、一日平均三万八千人もの中国人が、約千六百人の日本
軍歩兵第七連帯第一、第二大隊(その多くは治安維持や警備を担当していた)
の手によって安全区及びその付近において殺害され、十九万もの死体はすべ
て石油などで焼かれて痕跡をとどめなかったことになるからである。
大量殺害施設として名高いナチスのアウシュヴィッツでさえ、殺害数は一
日平均約七百十人であった。一日平均三万八千人も殺害するためには、アウ
シュヴィッツ並の施設が五十三箇所も必要となる。もちろんそんな施設はな
かった。
では十一件の証言はどのようなものか。〈起訴状〉にその内の一件、「魯
甦」の証言に基づいて次のように書かれている。
日本軍は十二月十八日、南京城北の草鞋狭で捕虜と老若男女の避難民を含
めた五万七千余人を一ヵ所に集めて、まず機関銃で掃射し、さらに生きてい
る人を銃剣で刺殺し、その上にガソリンをまいて焼いた。おなじような大規
模な虐殺は南京陥落後の一週間のうち数件おこなわれた。
東京裁判にも証言を提出した「魯甦」によると、日本軍は、近郊の村に包
囲・拘禁していた五万七千四百十八名もの難民と兵士を十二月十六日夜、ワ
イヤーロープで二人ずつ括り、四列に並べて下関・草鞋峡まで追い立て、機
関銃で掃射しつくした後、さらに銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に石
油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れ
た。この一部始終を、南京城内の「市街戦」に際して「砲弾」を受け「腿」
に負傷し上元門大芽洞に避難した証言者が「目の前で」目撃したという。
この〈証人〉が法廷に出廷していたならば当然、次のような〈反対尋問〉
を受けただろう。
一、証人は闇夜の中でいったいどうやって五万七千四百十八名もの犠牲者
を一桁まで正確に数えることができたのか。
二、日本兵が要所を固めている城内から城外の下関までの道を、証人はど
のようにして通って、殺害現場を目撃できる場所に行けたのか。
三、六万人近い中国人をワイヤーロープで縛り上げるのに日本兵は何人く
らいおり、どれくらいの時間を要したか。中国人はおとなしく縛られたの
か。
四、六万人もの中国人を殺害現場まで押送するのに、警護の日本兵は何人いたのか。
五、六万体もの死体が骨になるまでにどのくらいの時間がかかったのか。
また六万体もの人骨を揚子江に流すために、どのくらいの日本兵がどのくら
いの時間をかけたのか。
更に、数時間にわたる機銃掃射の音が夜間に下関で鳴り響けば、安全区に
いた安全区委員会のメンバーなど誰かが気づいたはずだが、他に傍証は存在
するのか。
この疑問に、本〈証人〉を採用した告発側は、答えねばならない(安全区委員
会の記録には、この時期に日本軍によって殺された中国人の数は十四人と記
録されている)。
こうした〈反対尋問〉を想定すれば、この証言に証拠としての立証能力を
認めるのはほとんど不可能だ。中国側が懸命に集めて、ようやく採用した証
言でさえ、かくもいい加減なのである。ほかも推して知るべしであろう。
「十九万人殺害」の根拠たる中国側証言に〈証明力〉はもとより〈証拠能
力〉すらない。
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◆集まらなかった中国側証言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 20:48 投稿番号: [40915 / 41162]
東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」によ
れば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷し
た「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵
人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を
申告するよう呼びかけた。
ところが、日本軍の残虐行為を申告する
者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口
を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。やむ
なく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提
出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦
という人物の「目撃証言」ただ一件であった。
その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、
「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたの
は僅か四件であった。ともかく「魯甦」証言と、慈善団体である「崇善堂」
と「紅卍字会」の二つの埋葬表と新規四件の証拠、計七件の証拠に基づい
て「被殺害者確数三十四万人」という結論を出し、一九四六年二月に東京
裁判所へ提出した(速記録第五十八号)。しかし《七件》の犠牲者数を
単純に積算しても《二十二万八千人》にしかならず、結論の《三十四万》
と大きく食い違っている。
その食い違いを東京裁判の国際検察局から指摘されたのだろう。
『資料選輯』によれば、中国国民政府は「極東法廷証拠法の要求するとこ
ろに合致させるため」、東京裁判開廷から二ヶ月後の一九四六年七月一日
から十一月十一日まで約五ヵ月間にわたって再調査を実施した。
その結果、「確かな証拠にもとづいて出廷し証言した者は二千七百八十四
件分、その中でも被害状況が重い被害者で出廷し証言し得た者は十一
件分」あったという(この内、三件は東京裁判に提出済み)。ともかく二つ
の埋葬表と、この十一の証言とによって、ようやく犠牲者数は三十四万と
なった。
以上のような経緯から、次の二つの真相が浮かび上がってくる。
一、八年前のこととはいえ、南京には当時、二十万人以上の中国人が住んでいた。
にもかかわらず、当時の中国人は、敗戦国となった日本軍の犯罪を告発する
のに消極的であったり否定的であり、かつ信憑性のある証言をする者もほと
んどいなかった。
二、東京裁判に提出した証拠だけでは「犠牲者三十四万人」を立証できな
かったため、東京裁判中も中国側は証言集めに奔走した。言い換えれば、
中国側は証拠も揃わない内から予め犠牲者を「三十四万」以上と決めてい
たとの疑念を生じるのを禁じ得ない。
「大漢和辞典」によれば、中国では「白髪三千丈」などというように、
「三千」には「大変多い」という意味がある。南京ではその百倍もの犠牲
者が出たとする中国側の一方的な発想によって、あくまで政治的に決定し
た数字だったのではないか。
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Re: 軍紀風紀頽廃(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/23 10:29 投稿番号: [40914 / 41162]
(4)重火器配属砲兵等ノ行動
(イ)本日ノ行動ニ於テ、各大隊ノ機関銃及火砲隊ハ、多大ノ辛苦ヲ冒シテ柴金山條第一線ニ追随シテ、陣地ヲ占領シ能ク其任務ヲ完フセリ
(ロ)特ニ速射砲中隊中島中尉ハ、部下ヲ叱咤激励シ名状スベカラザル地形ノ障害ヲ排除克復シ、其一門ヲ柴金山上第二大隊第一線ノ直後ニ陣地ヲ占領シ、「トーチカ」及掩蓋銃座ヲ破壊シテ、最モ有効ニ第二大隊ノ攻撃ニ協力シ偉功アリ、其部下小隊長岡村少尉ハ、柴金山上ニ於テ終ニ壮烈ナル戦死ヲ遂グ
(ハ)又連隊砲中隊ハ、十一日天明後、△・227.5高地西側附近ヨリ第一線ニ協力シ、爾後戦闘ノ進捗ト共ニ、柴金山東南麓記念会館付近ニ陣地ヲ占領シテ第一線ニ協力セリ、而シテ同夜敵ノ夜襲ヲ受クルモ、自ラ克ク防衛シテ無事ナルヲ得タリ
(ニ)連隊ニ配属セラレタル野砲兵第八中隊ハ、本十一日夜漸ク連隊長ノ手裡ニ入リシヲ以テ、上五旗附近ニ陣地ヲ占領シテ、右第一線タル第二大隊ニ協力セシム
(ホ)昨十日来通信班ノ功績大ナルモノアリ、即連隊長ハ攻撃開始ニ際シテ、青馬東北方高地ニ位置シ、爾後第一大隊ト共ニ上五旗ニ移動シ、更ニ黄馬ニ到リ翌朝柴金山ニ登ル、即チ通信班ハ此間、連隊長ト柴金山上ニアル第一線両大隊トノ間、嶮峻ナル山岳深谷ヲ通シ、終始絶大ナル難苦ヲ排除シテ完全ニ連絡ヲ保持シ、戦闘式ニ些カモ遺憾ナキヲ得タリ
師団通信隊ヨリ派遣セラレタル箕田准尉又連隊ト師団司令部トノ間ノ連絡ニ遺憾ナキヲ得タリ
三.連隊ニ関連セル隣接部隊ノ動作
(1)連隊ノ柴金山攻撃ハ、意ノ如ク迅速ニ進捗セザシリト雖モ、而モ左右隣接部隊ニ比スレバ著シク西方ニ突進シアルノ態勢ニアリキ、之ガ為両隣接部隊ノ前面ノ敵ノ側背ヲ脅威スルト共ニ、自ラ亦側背ニ対シ射撃ヲ蒙リシコトアリ、特ニ十一日未明第六中隊ノ夜襲ニ於テハ、左側背ヨリ敵ノ夜襲ヲ受ケ、又十一夜左後方第九連隊第一線付近ニ位置セル連隊砲ハ敵ノ夜襲ヲ受ケ、連隊ノ右側方ハ、岔口西南方高地ノ敵ヨリ重火器ノ遠距離射撃ヲ受ケタリ、然レ共第一線大隊ハ之等ニ踞踀スルコトナク、一意専念全面ノ敵陣攻略スベク努力セリ
(2)師団砲兵及軍砲兵ノ一部ハ、師団幕僚ノ配慮ニ依リ本日ノ攻撃ニ協力スル所アリシモ、連絡将校来タラズ、且連隊ト師団司令部ヲ介スル砲兵トノ連絡意ノ如クナラズ、而モ地形ノ関係観測ノ困難等ハ、連隊全面ノ敵ニ対シ其射撃効果ヲ発揮スルヲ得ズ、本日ノ攻撃実施亦連隊独力ヲ以テ実行セリ
(3)本日、師団参謀ヨリ電話ヲ以テ左ノ意味ノ連絡アリ
「軍司令官宮殿下ニ於カセラレテハ、柴金山攻略ニ関シ御懸念アラセラレ、其占領ノ速ヤカナランコトヲ御希望アラレラル」ト
連隊ハ既ニ柴金山攻撃ニ任ズルヲ光栄トシテ、努力奮闘シアルガ上ニ、今又殿下ノ御意志ヲ拝シ、将兵ハ感激措ク所ヲ知ラズ、志気益々上ガリ愈々死力ヲ尽クシテ、萬難ヲ排シ速ニ奪取スベク覚悟セリ
↑上記のように規律が乱れているというようなことは無い。
これは メッセージ 40912 (nya**otyan*dam*n さん)への返信です.
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Re: 軍紀風紀頽廃(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/23 09:44 投稿番号: [40913 / 41162]
(4)重火器配属砲兵等ノ行動
(イ)本日ノ行動ニ於テ、各大隊ノ機関銃及火砲隊ハ、多大ノ辛苦ヲ冒シテ柴金山條第一線ニ追随シテ、陣地ヲ占領シ能ク其任務ヲ完フセリ
(ロ)特ニ速射砲中隊中島中尉ハ、部下ヲ叱咤激励シ名状スベカラザル地形ノ障害ヲ排除克復シ、其一門ヲ柴金山上第二大隊第一線ノ直後ニ陣地ヲ占領シ、「トーチカ」及掩蓋銃座ヲ破壊シテ、最モ有効ニ第二大隊ノ攻撃ニ協力シ偉功アリ、其部下小隊長岡村少尉ハ、柴金山上ニ於テ終ニ壮烈ナル戦死ヲ遂グ
(ハ)又連隊砲中隊ハ、十一日天明後、△・227.5高地西側附近ヨリ第一線ニ協力シ、爾後戦闘ノ進捗ト共ニ、柴金山東南麓記念会館付近ニ陣地ヲ占領シテ第一線ニ協力セリ、而シテ同夜敵ノ夜襲ヲ受クルモ、自ラ克ク防衛シテ無事ナルヲ得タリ
(ニ)連隊ニ配属セラレタル野砲兵第八中隊ハ、本十一日夜漸ク連隊長ノ手裡ニ入リシヲ以テ、上五旗附近ニ陣地ヲ占領シテ、右第一線タル第二大隊ニ協力セシム
(ホ)昨十日来通信班ノ功績大ナルモノアリ、即連隊長ハ攻撃開始ニ際シテ、青馬東北方高地ニ位置シ、爾後第一大隊ト共ニ上五旗ニ移動シ、更ニ黄馬ニ到リ翌朝柴金山ニ登ル、即チ通信班ハ此間、連隊長ト柴金山上ニアル第一線両大隊トノ間、嶮峻ナル山岳深谷ヲ通シ、終始絶大ナル難苦ヲ排除シテ完全ニ連絡ヲ保持シ、戦闘式ニ些カモ遺憾ナキヲ得タリ
師団通信隊ヨリ派遣セラレタル箕田准尉又連隊ト師団司令部トノ間ノ連絡ニ遺憾ナキヲ得タリ
三.連隊ニ関連セル隣接部隊ノ動作
(1)連隊ノ柴金山攻撃ハ、意ノ如ク迅速ニ進捗セザシリト雖モ、而モ左右隣接部隊ニ比スレバ著シク西方ニ突進シアルノ態勢ニアリキ、之ガ為両隣接部隊ノ前面ノ敵ノ側背ヲ脅威スルト共ニ、自ラ亦側背ニ対シ射撃ヲ蒙リシコトアリ、特ニ十一日未明第六中隊ノ夜襲ニ於テハ、左側背ヨリ敵ノ夜襲ヲ受ケ、又十一夜左後方第九連隊第一線付近ニ位置セル連隊砲ハ敵ノ夜襲ヲ受ケ、連隊ノ右側方ハ、岔口西南方高地ノ敵ヨリ重火器ノ遠距離射撃ヲ受ケタリ、然レ共第一線大隊ハ之等ニ踞踀スルコトナク、一意専念全面ノ敵陣攻略スベク努力セリ
(2)師団砲兵及軍砲兵ノ一部ハ、師団幕僚ノ配慮ニ依リ本日ノ攻撃ニ協力スル所アリシモ、連絡将校来タラズ、且連隊ト師団司令部ヲ介スル砲兵トノ連絡意ノ如クナラズ、而モ地形ノ関係観測ノ困難等ハ、連隊全面ノ敵ニ対シ其射撃効果ヲ発揮スルヲ得ズ、本日ノ攻撃実施亦連隊独力ヲ以テ実行セリ
(3)本日、師団参謀ヨリ電話ヲ以テ左ノ意味ノ連絡アリ
「軍司令官宮殿下ニ於カセラレテハ、柴金山攻略ニ関シ御懸念アラセラレ、其占領ノ速ヤカナランコトヲ御希望アラレラル」ト
連隊ハ既ニ柴金山攻撃ニ任ズルヲ光栄トシテ、努力奮闘シアルガ上ニ、今又殿下ノ御意志ヲ拝シ、将兵ハ感激措ク所ヲ知ラズ、志気益々上ガリ愈々死力ヲ尽クシテ、萬難ヲ排シ速ニ奪取スベク覚悟セリ
↑上記のように規律が乱れて意というようなことは無い。
これは メッセージ 40912 (nya**otyan*dam*n さん)への返信です.
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Re: 軍紀風紀頽廃(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/23 09:44 投稿番号: [40912 / 41162]
四.関連セル隣接部隊
(1)連帯ハ、柴金山攻撃ノ第一日(十日)ハ、隣接部隊トノ連携及ビ砲兵ノ協力ハ之ヲ期待スルヲ得ザリキ、配属セラレタル野砲兵第八中隊モ未ダ来着スルニ到ラズ、全ク連隊独力ノ攻撃ナリヲ以テ、特ニ連隊砲其他重火器ノ効果ヲ発揮スルニ努メタリ
(2)連隊ニ復帰セシ第一大隊ノ主力ヲ更ニ右側支隊ニ転属スベク、本日夜佐々木参謀ヨリ電話ニテ交渉アリ、其要旨ハ『右側支隊兵力寡少ナルハ、軍司令官宮殿下御懸念アラセラレツツアリ、然レ共柴金山ノ攻略ハ師団トシテモ最モ重要視スル所ニシテ、萬難ヲ排シテ奪取セザルベカラズ、今連隊ノ状況ハ、第一大隊ヲ右側支隊ニ転属可能ノ状態ニアリヤ意見承リ度』ト、此ノ佐々木参謀ノ電話ハ言々熱ヲ含ミ、且連隊長ノ立場ヲ切々忖度スル所アリ、連隊長ハ同官ノ意ノアル所ヲ感謝スルト共ニ、即座ニ第二、第三大隊(各大隊共欠数アリ)ヲ以テ必ズ柴金山ヲ攻略スベシ、第一大隊ノ右側支隊ニ転属何等差支ナシ、唯目下予備ハ一中隊(一小欠)ナルヲ以テ、小銃一中隊ヲ残置セラレナバ幸甚ナラント回答セリ、即チ本夜ノ師団命令ニ於テ実施セラレタリ
其四.十二月十一日ノ行動
一.攻撃部署
連隊ハ、十日午後十時(受領午前一時半頃)ノ師団命令ニ基キ依然攻撃ヲ続行シ、柴金山第一峯ヲ占領シ続イテ太平門富貴山付近ヨリ南京城ニ突入セントス、而シテ師団命令ニ於テ左翼隊トノ戦闘地境ハ△・227.5、明孝陵北端、故宮東北端ヲ連ヌル線ニ変更セラレ、我ガ使用地域ハ南麓ニ於イテ著シク削減セラレタリ
連隊ハ十一日午前二時三十五分、命令ヲ下達(歩三三作命第一二九号)次第二大隊(第八中隊、第七中隊ヲ欠キ工兵一小隊ヲ属ス)ヲシテ、依然攻撃ヲ続行シ△・488.5高地ヲ攻略シ、爾後該線附近ヲ占領シテ隊伍ノ整頓ヲ行ヒ、第三大隊(第十中隊欠)ハ現在地付近ニ於イテ攻撃ヲ準備シ、明払暁先ズ第一線ヲ以テ概ネ孫総理陵墓南北ノ線ニ進出シ、爾後両第一線大隊ハ天文台高地ヲ攻略シテ、太平門富貴山ニ向ヒ前進ヲ準備シ、連隊砲及ビ速射砲中隊ハ、天明後主トシテ第二大隊ノ攻撃ニ一部ヲ以テ第三大隊ノ戦闘ニ協力セシム
二.戦闘経過ノ概要
(1)第二大隊ハ日没攻撃ヲ続行スルモ成果意ノ如クナラザルヲ以テ、連隊長ハ明十一日未明マデニ先ズ△・385.4高地付近ヲ完全ニ占領セシムベキヲ命ズ、仍テ大隊長ハ一部(第六中隊)ヲ以テ、十一未明△・385.4ノ瘤ヲ夜襲スルニ決シ、其準備ヲ完了シテ予定ノ如ク此断行ス(地域狭嗌ナル為、一中隊ヲ使用スルヲ適当トセリ)、然ルニ懸崖ニ依レル敵ハ、手榴彈等ヲ以テ頑強ニ抵抗シ、且左側背ヨリ約二百名ノ敵逆襲ヲ受ケ死傷続出シ(中隊ノ死傷者約七十名)一時攻撃頓挫セシモ、中隊長ハ更ニ勇ヲ鼓シテ終イニ陣地ノ一角ヲ占領シ、天明ニ到ル、茲ニ於イテ大隊長ハ天明後第七中隊ヲ増援シテ、午前八時五十分完全ニ本瘤ヲ占領シ、爾後第五中隊(機関銃一小隊配属)ヲ以テ戦果ヲ拡張セリ
(2)第三大隊ハ、左第一線トシテ嶺頂ヨリ南方山腹付近ニ位置シアリシガ、地形上敵ノ瞰制ヺ受ケ、且迫撃砲ノ射撃ヲ蒙リ戦闘進捗セズ、第二大隊正面ノ進捗ニ伴ヒ、其稍々左翼後ノ山腹ニ進出スルヲ得タリ
(3)連隊長ハ、全般ノ為極力△・488.5高地ヲ速ニ攻略スルノ必要ヲ痛感シ、更ニ第一線ノ位状態ヲ実視スルニ、戦力発揮ノ為、第三大隊ヲ第二大隊ノ左翼ニ連繋シテ、略同線ニ進出スル如ク統制スルノ必要ヲ認メ、午後四時三十分命令「歩三三作命甲第一三〇号」ヲ以テ第二大隊ヲ稜線ヨリ北側地区、第三大隊ヲ同南側地区ヨリ彼線(指示ス)ニ進出シ、全面ノ敵陣地ヲ攻撃シ、速射砲ヲシテ特ニ第二大隊ニ協力セシメ、自ラ△・382.5高地ニ位置シテ所要ノ指示ヲ行ヒ、両第一線ヲ督励ス
両第一線大隊ハ、鋭意攻撃ヲ続行シ、爾後更ニ第一峰ニ対スル攻撃ヲ準備中ナリ
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軍紀風紀頽廃(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 09:08 投稿番号: [40911 / 41162]
防衛研究所収蔵資料の中に、旧軍の
軍紀風紀関係資料がある。
「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
これは
大本営陸軍部研究班によって
作成されたもので、
その内容は
日中戦争時における兵士の性病に関する調査結果だ。
資料によると、
天津・杭州・蘇州の
3箇所の特設病院だけで、
1937年の開戦から
1939年までの
性病入院患者は、
1万6千人を超えていた
という驚くべき実態を
記録している。
この記録を
見ると、患者を
兵科別、役種別、階級別、年齢別、
感染機会別に分けた調査と、患者の
もとの職業別、教育程度別、
さらに、相手女性国籍別に分けた調査が
行われていたことが解る。
その結果は、兵科別では
輜重兵
砲兵に比較的多く、
役種別では
予後備役、補充兵役に多く、
階級別では
准士官下士官に比較的多く、
年齢別では
26歳〜30歳に多いことが示されている。
そして
明確に判ることは、感染機会が
内地からの帯患者よりも
戦地での感染者の方が
圧倒的に多くなっている
という事実だ。
また
感染地と
相手女性の調査では、備考として
「朝鮮女ノ活躍ハ他ヲ圧倒シアリ将来戦ノ参考タリ得ベシ」と
じつに
意味深長な文章が
書かれている。
ちなみに
役種別の患者数の調査結果は
以下のとおり。
現役
1,156
予備役
3,795
後備役
4,363
補充兵役
1,774
軍属
809
これを見ると、予備役や後備役兵に
感染者が多いことが判る。
限られた期間の、しかも
3箇所の病院だけの調査ではあるが、
日本軍に
性病患者が
いかに増加していたか、
それも
戦地での感染者が圧倒的多数であったかが
示されている。
(引用資料:「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
防衛研究所所蔵『支那事変ノ経験ニ基ク無形戦力・軍紀風紀資料第5号』)
急速な軍隊の拡大による幹部と兵の素質の低下、とくに後備兵の増加が
軍紀風紀の頽廃の原因となり、その結果が、兵士個人の犯罪である
掠奪、強姦などを多出させたことが
こうした資料からも読み取れる。
その対策の一つが、組織的な慰安婦の動員、慰安施設の導入となり、
軍みずからが
管理と統制に
乗りだすことになったのだ。
これは メッセージ 40910 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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軍紀風紀頽廃(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 09:08 投稿番号: [40910 / 41162]
参謀総長が異例の通達を出すほど、軍紀風紀は頽廃していた。
開戦後2年間のみに限っての軍紀風紀にかんする犯罪非違の
調査によると、日中戦争の戦地における
犯罪非違は、
日清・日露戦争に比べても
はるかに
高率となっていた。
以下は、無形戦力軍紀風紀資料第一号
『支那事変ニ於ケル
犯罪非違ヨリ視タル軍紀ノ実相並ニ之ガ振粛対策』
という
大本営陸軍部研究班が
昭和15年に作成した
資料による
軍隊内の犯罪数を
示したものだ。
日清戦役(全戦役)
3387
内地1906
戦地1481
日露戦争(全戦役)
5234
内地3780
戦地1454
日支事変(2年間)
5221
内地2047
戦地3147
この数は、憲兵隊が取り扱ったもの
だけであり、
「実数ハ之ヨリ増加スベシ」
とされている。
そのうえで、戦地での
犯罪数は、日清・日露戦争よりも
「今次事変ニ於ケル犯罪数著大ナルヲ知ルベシ」
としている。
非違の発生件数は、日清・日露の記録がないので比較できないが、
「今次事変」
では
3万2964名にも
達しており、
しかも、「刑法処分ニ処スベキモノ本人ノ功績ト犯行ノ情状トヲ
酌量シテ行政処分ニ附シタルモノ相当数アリ」
「シカモ軍紀上相当悪性ナルモノ多数発生シツツアルニ於テオヤ」
としている。
つまり、軍法会議に付された
犯罪、懲罰権者の処罰ですませた
非違の双方とも、日中戦争下で
軍紀風紀犯罪が
多発している
という調査結果が
示されている。
こうした犯罪のなかで、もっとも多かったのが
掠奪だった。
上海から南京への追撃戦は
補給を無視しての急進撃で、
給養は
すべて徴発に頼った。
徴発といっても
そこは敵国であり、実態は掠奪にほかならなかった。
兵士の日記には、ほとんど例外なく、毎日
無人の集落から
何を徴発したかが
書かれているが、それは無統制に、
兵士が
勝手におこなう掠奪だったことを
具体的に示している。
徴発には
国際法があり、規則があった。
しかし、中国戦線で
それが守られることは
ほとんどなかった。
次のような南京攻略戦のさいの第九師団経理部将侯の記述がある。
徴発品の代金支払は如何にされて居つたか、
軍隊は強盗でも山賊でもない。
必ず代金を払って買はねばならないのである。
(中略)
後日所有者が代金の請求が出来るようにして
置かねばならない故に
徴発書はかねて印刷配付して
所要の事項を記入すればよいようにして(中略)ある。
しかるに後日所有者が代金の請求に持参したものを見れば
其記入が甚だ出鱈目である。
例へば○○部隊先鋒隊長加藤清正とか
退却部隊長蒋介石
と書いて其品種数量を箱入丸升とか樽詰少量と云ふものや
全く何も記入してないもの
甚だしいものは単に馬鹿野郎
と書いたものもある。
全く熱意も誠意もない。
でたらめな記入をした徴発書では、代金の支払いはできない。
中国の人々は、食糧などの物資を
だまし盗られたことになる。
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軍紀風紀頽廃(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 09:07 投稿番号: [40909 / 41162]
虐殺の状況を示す数々の証言から
読み取れるものは何か。
それは、虐殺事件の背景に
幕僚層の国際感覚の欠如と
モラル低下にくわえて、軍紀風紀の頽廃という
軍内部の
深刻な問題があった
という事実だろう。
また、戦争の拡大と
軍隊の大量動員が、軍の素質の低下を
もたらしたことも、大きな要因になった
と考えられる。
それにともなって
軍の規律がゆるみ、軍紀風紀が乱れた。
このことが、犯罪非行を
続出させる原因となった。
大量虐殺は、軍の組織的行為である捕虜殺害や敗残兵狩りが
原因であることは
もちろんだが、さらに
軍紀の乱れから
兵士個人による行為によって起こった場合も多出したことが、
いっそう
事件を大きくした。
この点は
軍上層部でも認めており、南京事件が
国際的な
非難を浴びたのを受け、南京占領直後の38年1月4日付で
参謀総長は中支那方面軍に
次のような要望を
行っている。
顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半歳ニチカシ
其行ク所常ニ必ズ
赫々タル戦果ヲ収メ我将兵ノ忠誠勇武ハ中外斉シク
之ヲ絶賛シテ止マズ
皇軍ノ真価愈々加ルヲ知ル
然レ共
一度深ク軍内部ノ実相ニ及ベバ
未ダ暇謹ノスクナカラザルモノアルヲ認ム
就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生
近時漸ク繁ヲ見
之ヲ信ゼザラント欲スルモ
尚疑ハザルベカラザルモノアリ
惟フニ一人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ
一隊ノ過誤モ
遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルニ至ラン
(中略)
遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ実情等ニ
考ヘ及ブ時ハ森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ維持等ヲ
困難ナラシムル幾多ノ素因ヲ
認メ得ベシ
従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ外征部隊ノ
責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル
然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ
努力ヲ望マザルヲ得ズ(後略)
(中支那方面軍参謀長「軍紀風紀ニ関スル件通牒」)
参謀総長から
このような要望がでたことは、異例のことだった。
それだけ
在中国軍の
軍紀風紀の頽廃が、軍中央部にとっては
頭の痛い問題だったのだ。
同じ内容の要望は、北支那方面軍にも
出されているが、
これは
軍紀風紀の粛正が、この時期の
日本陸軍にとって、
大きな問題であったことを
示している。
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海軍関係者の記述(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 05:00 投稿番号: [40908 / 41162]
念のため付記するが、奥宮正武氏は
反日サヨクとやら
ではない。
戦時中は航空隊参謀として活躍し、戦後は航空自衛隊学校長などを
務めた根っからの軍人だが、その専門家が
自ら目撃した事実により
民間人を含む無抵抗の中国人を対象として
虐殺が行われていたこと、
それが、組織的に
整然と実行されていたことを
証明している。
彼は、次のように
所見を述べている。
二日間のことから察して、それが戦場にありがちな一時的な、
興盲状態での対敵行動であるとは
私には思われなかった。
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動で
あるように感じた。
戦争中であっても、また、たとえ
敵国の人民だからといって、
何をしても許される
ということには、ならない。
海軍将校であった奥宮氏も、そのことを
十分理解していた。
その観点から、南京での事実を
次のように
結論づけている。
私は、この二目間に
下関で見た
合計約二十台分の、
言いかえれぱ、少なくとも
合計五百人以上の中国人の
処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。
もっとも、どれだけの被害者があれば
大虐殺であるかに
ついては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体の
こととも考え合わせて、正確な数字は
分からなかったが、
莫大な数の
中国人の犠牲者があったのではないか、と
考えざるを
えなかった。
そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題
ではないか
と思われた。
が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な
余裕がなかった。
(奥山正武著
『私の見た南京事件』
より引用)
容疑者の自白、そして
被害者や
目撃者による
証言は、
犯罪捜査でも
裁判でも、犯行事実を証明する直接証拠となる。
南京虐殺事件に関しても、同様のことが
言える。
否定論は、いずれも
「なかったはずだ」
「信じられない」
「あったとは思えない」
という主観論、憶測に
過ぎない。
これに対して、その時・その現場に居た者の証言は
客観的で、
具体的な供述であり、「直接証拠」
としての価値を有している。
これは メッセージ 40907 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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海軍関係者の記述(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 05:00 投稿番号: [40907 / 41162]
日本軍兵士のよる虐殺は、一部の不届き者が
衝動に駆られて
偶発的に引き起こしたものではないことが、多くの
目撃談や
記録資料によって
明白となっている。
元海軍将校
奥宮正武氏の証言の続きを
引用してみよう。
そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
「なぜこのようなことをするのか」
答えて日く、
「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが
陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが
寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、
彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の
住民を処刑しているとのことです」
彼の説明が正しかったか否かは
私には分からなかった。
そう説明するように教えられていたのか知れなかった。
奥宮氏に対する陸軍士官の説明が、もしも
正しかったとしたら、
宿舎付近の住民を
つかまえて、「処刑」
したということであり
復讐心に駆られた日本兵による非戦闘員の惨殺だったことになる。
さらに、証言は
次のように
続いている。
十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定
であった。
が、前々日の光景が
あまりにも鮮明に記憶に
残っていたので念のために、まず再び下関に行くことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、
中国人を乗せた
無蓋のトラックが、続々とやってきて、
倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、
門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。
そこで、ある種の疑間が
生じた。
それは、
「多数の中国人を
大した混乱もなく、どうして、
ここまで連れてくることができるか」
ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を
尋ねた。
ところが、彼は、何のためらいもなく、
「城内で、
戦場の跡片付けをさせている中国人に、“腹のすいた者は手を
上げよ”
と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていく
かのようにして、トラックに乗せている
とのことです」
と説明してくれた。
そこで、更に、「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質間したところ、
「上官から、弾薬を
節約するために、そうするように
命じられているからです」
との答が
返ってきた。
このような処刑が、南京占領から
二週間近くを経た後の
二十五日と二十七日に
手際よく行なわれていた。
戦闘中の殺害ではなく、また
敵対する便衣兵の掃討でもなく、
あきらかに
捕虜となった敗残兵を、組織的に
処刑していた
という事実が
示されている。
その異常な光景が、「あまりにも鮮明」
な記憶となったのだ。
これは メッセージ 40906 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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海軍関係者の記述(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 04:59 投稿番号: [40906 / 41162]
当時の中国の首都、南京を武力占領したのは
陸軍であるため、
大虐殺があった事実を示す多くの証言や記録は、おもに陸軍の
関係者によるものだが、ここで
海軍関係者の証言についても
参考として
あげておきたい。
南京周辺で撃墜された海軍機の
乗務員の遺体を捜索するため、
占領直後の南京に入った
海軍将校が、そこで目撃した虐殺の
状況に関し、客観的な視点から
冷静に記述している。
以下、奥宮正武著
『私の見た南京事件』
より引用。
下関は、南京と揚子江の対岸にある浦ロとともに、交通の
要衝であった。
浦ロは、私が上海着任直後に、最初に、
爆撃したところでもあった。
下関には
かなり大規模な
停車場と開源碼頭(波止場)があった。
そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が
多数の中国人を
文字通り虐殺している現場を見た。(略)
構内の広場に入って見ると両手を後ろ手に縛られた中国人
十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、
軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江に投棄されていた。
岸辺に近いところは、かなり深く目に見えるほどの速さの
流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去って
いた。
が、一部の死にきれない者が
もがいているうちに、
江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので
付近は血の川となっていた。
そして、死にきれないものは銃撃によって止めが刺されていた。
この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく
行なわれていた。
大声で指示する人々もいなかった。
そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるもの
であると推察せざるをえなかった。
したがって、部外者である私が
ロを出す余地はないと感じた
次第であった。
----
-
証言者である
奥宮正武氏は、高知県出身の
海軍軍人で、
戦後は
航空自衛隊に勤務し、空将で退官した人物だ。
南京事件当時の階級は海軍大尉で、航空隊分隊長を務めていた。
海軍兵学校出身で、歴戦を経験してきた
軍事の専門家であり
その視点は、冷静かつ的確に
現場の状況を
把握している。
彼が目撃した
虐殺の様子からは、戦闘の混乱の中で中国兵を
殺害したのではなく、抵抗できない
中国人たちを
組織的に、
「流れ作業のように、極めて手順よく」
処刑していたことが
分かる。
また、彼は
その状況からみて、上部からの指示によるものと
軍人としての視点から推察できた
という事実も記している。
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◆南京大虐殺とは中国軍によるもの
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 21:51 投稿番号: [40904 / 41162]
実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った」
十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。中国軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。
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馬鹿の理論はワンパターン(大笑)
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/22 17:48 投稿番号: [40903 / 41162]
さんざん言い古された論を使うしかないからな。
そしてコピペしか能の無い阿呆が書きなぐっている話に目新しさの欠片もない。
つまりこいつは使い古された嘘を平然とまた使っているだけなんだな。
証拠も何も出せる訳がない。
「東京裁判で認められた」とか下劣な印象操作しか出来ない屑に過ぎん。
これは メッセージ 40898 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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◆まさに噴飯モノの戯言「南京大虐殺」
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 16:22 投稿番号: [40902 / 41162]
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
http://www.youtube.com/watch?v=Z3L3eVE1kQA そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
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Re: 埋葬記録と犠牲者数推計(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 14:34 投稿番号: [40901 / 41162]
南京での死者は推測以外に無いんだね、その推測の基が間違っているんだね。
日本軍の資料には一切ないからね。
安全区の難民が居なくなったという資料は皆無だね。
却って増えたという資料は沢山在るけどね。
これは メッセージ 40898 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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埋葬記録と犠牲者数推計(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/22 14:10 投稿番号: [40900 / 41162]
日本軍側の
資料には、数千
あるいは数万の単位で
捕虜を
処断した
と記録されている。
はたして、これほど
大量の
殺戮が可能だったのかと
一般民間人なら
疑問に思うだろう。
南京虐殺「マボロシ派」
などは、ハナから
否定してみせる。
ところが
近代戦において、それは
じつに容易なことだ。
例えば、1万人を殺害するのに、機関銃10丁あれば
1時間、
1個歩兵中隊200名の兵力があれば、30分で
射殺できる。
その歩兵中隊を、1個連隊では
12個隊
保有していた。
もちろん、南京に攻め込んだのは
1個連隊だけ
ではない。
しかも、捕虜の殺戮は
数時間程度で
行われたわけではない。
南京攻撃に動員された日本軍の総兵力は
10万を超えていた。
そして、大量虐殺は
南京城陥落直後の
数日間ではなく、
長期にわたる
攻防戦と占領後の掃蕩作戦の中で
発生した。
しかも、一部の無法者の犯行ではなく、組織的に
実行した。
近代軍の大兵力が、小銃や
機関銃による掃射
のみならず
銃剣による刺殺などを
数日間にわたり組織的に実行すれば、
抵抗できない捕虜の
大量殺戮は、いたって
容易だった。
参考として
南京戦にあたった将校の陣中日記を見てみよう。
以下は、歩兵第65連隊
第1大隊本部・上等兵の日記だ。
十二月十六日
今日南京城に物資徴発に行く。
捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
十二月十七日
今日は南京入城なり(一部分)。
俺等は今日も捕虜の始末だ。
一万五千名、今日は山で。
大隊で負傷、戦死有り。
(参考資料:『南京戦史資料集2』南京戦史編集委員会編)
1個大隊だけ、しかも
2日間だけで、1万7500名もの
捕虜を殺害した
という記録だ。
日本軍全体で、何日間もかけた
「捕虜処断」
の総数は、
はたして
どれほどだったのか、想像を絶する。
当時、南京に駐在していた
ドイツ外交官の
外交文書が
残されており、そこには
本国とのやりとりが記されている。
以下に
引用しよう。
(岩田勇治訳『資料・ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店)
南京入城のさいの
日本軍の所業については、語らぬに
越したことはない。チンギス=ハーンを思い出さずには
いられないほどの
徹底した破壊ぶりであった。
(中略)
こうして南京に残っていた女という女はまったくひどい
目にあわされた。
これを
目の当たりにした男たちと
このことについて話をするのは容易ではない。残忍非道な
行為にたいする嫌悪感が、かれらの胸によみがえるからだ。
日本国内では、いまだに
この虐殺事件をめぐって
「論争」が
止まない。
しかし、虐殺そのものの否定や
学問を装う自由主義史観の
「学者」もどきの
主張も含めて、これらの論は
国際社会という舞台では
歯牙にもかけられない
というのが
実情であり、狭い日本の
ごく一部でしか、通用していない。
これは メッセージ 40899 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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埋葬記録と犠牲者数推計(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/22 14:08 投稿番号: [40899 / 41162]
前述した
慈善団体などによる
遺体の
収容・埋葬に関して
とくに
多数の埋葬作業にあたった団体としては、「紅卍会」と
「崇善堂」
があり、1937年12月から
38年3月までに
両者併せて
約15万5000体以上を
埋葬している。
東京裁判でも
南京虐殺事件の
最大の証拠とされたのが、
これら
慈善団体などによる
作業報告だった。
南京虐殺マボロシ派は、こうした数字はウソだ
と決め付ける。
なかには、崇善堂は民間の葬儀屋なので、多額の報酬を得るため
数を水増ししているのだ
という根拠のない説を唱える者もいる。
しかし、崇善堂は
日本軍の依頼にもとづき業務にあたっていた。
軍が依頼して
報酬を支払ったのであり、当然
その費用は
公金であるから、最低限の実績確認・検査は
行っている。
仮に
水増しがあったとしても、日本の役人の目を
欺くのには
限度というものがある。
なお、通常
戦場の掃除は自軍兵士や
捕虜が実行する。
軍がわざわざ民間団体に
委嘱したことは、
捕虜を大量に殺害したため労働力不足となったうえ、軍だけでは
処理しきれないほどの遺体が存在していた事実を
示している。
紅卍会と
崇善堂による遺体収容は、南京行政区の中だけであり、
周辺地域や
南京沿いを除く
揚子江などは
含まれていない。
さらに、遺体埋葬を行ったのは
この2つの組織だけではなく、
紅十字会(赤十字)など
複数の機関も
別途実施した。
したがって、南京周辺だけに限っても
約20万以上の
遺体が
存在していたということは、間違いない事実だ。
大量の遺体が遺棄されていたという事実は、日本軍の関係者も
記録している。
たとえば、第16師団の佐々木到一支隊長は
日記に
次のように
記している。
「この日、わが支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に
上り
その外、装甲車が江上に撃滅したもの
ならびに各部隊の
俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されて
いる筈である。(中略)
午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって
背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。」
「その後俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の
制止を肯かばこそ、片はしより
殺戮する。
多数戦友の流血と
十日間の辛酸を顧みれば
兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と
言いたくなる。」
「白米は
もはや一粒もなし、城内には
有るだろうが、俘虜に
食わせるものの
持ち合わせなんか
我が軍には無い筈だった。」
(佐々木到一少将私記「南京戦史資料集」南京戦史編集委員会編)
佐々木少将が
大ウソつき
でなければ、支隊のみで
2万以上の
敵兵を「解決」したこと、俘虜だと認識しながら
殺戮したこと、
食料が底をつき
俘虜の給養は不可能であった状況
などが判る。
このほかにも
数千あるいは数万の単位で捕虜を処断した事実を
記録している軍関係の資料が多数
残されている。
では、短期間に
これほどの大量殺戮が
可能だったのだろうか。
これは メッセージ 40898 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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埋葬記録と犠牲者数推計(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/22 14:07 投稿番号: [40898 / 41162]
南京城の内外には、夥しい数の
集団埋葬地が
存在している。
南京大学(旧金陵大学)
天文台そばの
金陵大学難民収容所及
遇難同胞記念碑、紫金山を望む
中山陵(孫文陵)近くにある
集団埋葬地なども
その一つ。
また、北極山の
至る所に
埋められた遺体叢葬の記念碑の数は、じつに
二千を超える。
犠牲者の遺体は
次の5つのルートで
埋葬、処理された。
①
国際委員会によるもの
同委員会のメンバーであるベイツは、戦後の東京裁判で証言し、
南京陥落後
72時間以内に、国際委員会が雇った
労働者が
埋葬した軍人・市民の遺体は「3万体に達した」と語っている。
②
慈善団体や宗教団体等によるもの
南京城内外に放置された
遺体の埋葬作業にあたった
団体で、
紅卍会
43,123体、
崇善堂
112,267体、
中国赤十字社
22,683体、合計
約178,000体の
埋葬記録がある。さらに
同善堂という団体が7,000体余
を埋葬したと記録されている。
③
市民の埋葬によるもの
市民の手で
合計36,000体あまりを収容・埋葬している。
湖南の木材商
盛世征、昌開運が出資して行った
水西門外の
遺体収容が28,730体、城南市民の
張瀉儒、楊広才らが
難民を組織して
中華門外の
7,000体あまりを
収容。
また、回教徒の埋葬隊が収容・埋葬した遺体は
約400体。
④
汪兆銘政権によるもの
汪兆銘政権(南京政府)
の市、区の両級機関の
共同組織が
7,400体を収容・埋葬したと記録され、うち第一区役場が
1938年2月に
同区の所轄内で
1,233体を収容。
下関区役場が
37年12月15日から
38年1月までに、
3,240体を収容。
南京市政公署の
監督官高冠吾が
38年12月から
39年の
春にかけて、衛生局に命じて
中山門外の霊谷寺、馬群一帯の3,000体余を
収容した。
⑤
南京進駐日本軍によるもの
日本軍の資料では、部隊を動員して約15万体を焼却・処理。
うち、南京停泊場の司令部の
足立少佐と
大田寿男が率いた
部隊は、10万体を
長江に投げ捨てたり、江北まで運んで
焼却・土中に埋めた
と記録されている。
また、南京侵攻部隊が処理したものは、5万体とされる。
上述した
遺体収容・埋葬処理の記録を
単純に加算すると
40万体にのぼる。
ただし、収容・処理された
遺体には
重複して集計されたものも含まれている可能性がある。
また、捕虜や市民ではなく、交戦中に戦死した中国軍兵士の
遺体も相当数
含まれている
と考えるべきだろう。
なお、日本軍関係者の記録によれば、揚子江に
投げ捨てたり、
城外に搬送して
密かに埋めた遺体も
少なくはない。
収容できなかったものは記録されず、正確な数を把握することは
残念ながら
困難だ。
したがって、公式には
東京裁判が
認定した犠牲者数「30万人以上」
としか
言えないのだ。
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突っ込みどころ満載の捏造証言
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/22 12:58 投稿番号: [40897 / 41162]
それを恥ずかしげもなく貼り付けるコピペ屑も大概馬鹿だな(嘲笑)
これは メッセージ 40889 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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日本軍の軍紀は世界最高だった
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 12:53 投稿番号: [40896 / 41162]
歩兵第三十八連隊命令
十二月十三日午前三時三十分
於
興衛村
一.支隊当面ノ敵ハ尚頑強ニ抵抗シツツアリ
其ノ一部ノ斥候ハ興家村附近ニ出没セリ我師団ノ右翼隊ハ昨十二日夕刻
柴金山第一峯ヲ攻略シ続イテ天文台高地ヲ攻撃中萩州兵団ノ一支隊ハ鎮
江方面ヨリ西進シ烏龍山砲臺ヲ又柳川兵団ニ属スル一支隊ハ蕪湖ニ於イ
テ揚子江ヲ渡河シ南京対岸浦口ニ向ヒ近迫シツツアリ吉住兵団ハ南京城
東南角ニ又藤田兵団ハ南門角ニ夫々肉迫シ敵ヲ攻撃中ナリ今十三日重点
ヲ左方ニ保持シツツ敵ノ中央ヲ突破シ下関方面ニ進出ス盆路口西方約一
吉標高147.1高地ハ我歩兵約一中隊ヲ以テ確実ニ之ヲ占領シ在リ
二.連隊(旧前衛ノ兵力ニ迫撃砲小隊ヲ配属セラル)ハ払暁ニ攻撃ヲ準備天
明後攻撃ヲ開始シ一部ヲ「クリーク」北側地区ヨリ主力ヲ以テ十字街東
側高地ヲ攻略セントス連隊ノ進出線ハ紅山西方約七百米ノ高地線トス
三.歩兵第三十三連隊第一大隊(欠如部隊旧ノ如シ)ハ標高57.4高地庄家碾
南端高地標高103.9高地和平門西北方杜家庄北端ヲ連ヌル線以北ニ展開シ
概ネ現在地占有セル地線ニ展開シ午前七時迄ニ攻撃ヲ準備スベシ但シ一
部を「クリーク」北方地区ニ派遣シ敵ノ左側背ヲ攻撃セシムベシ
四.軽装甲車第八中隊ハ天明迄ニ出発ノ準備ヲ整ヘ現在地点ニ待機スベシ
五.歩兵第三十八連隊第一大隊(第三中隊欠)ハ左第一線トナリ前項記載ノ
戦闘地境以南ノ地区ニ於イテ概ネ歩兵第三十三連隊ノ現ニ進出シアル地
線ニ午前七時迄ニ展開シ攻撃ヲ準備スベシ
第一線両大隊ノ攻撃前進ノ時期ハ午前八時ト予定スルモ別命ス歩兵第三
十三連隊ノ左第一線部隊ノ地域ニアルモノハ午前八時迄ニ其ノ所属ニ復
帰セシムベシ
六.連隊砲中隊ハ龍家王付近ニ午前七時迄ニ陣地ヲ占領シ払暁以後射撃ヲ開
始シ得ル如ク準備スベシ
七.速射砲中隊ハ両大隊ニ分属セラルル場合ヲ顧慮シ標高47.4付近及單家庄
東方高地付近ニ午前八時迄ニ陣地ヲ偵察スベシ
八.迫撃砲小隊ハ單家庄東方地区ニ陣地ヲ占領シ連隊ノ攻撃ニ協力シ得ル如
ク午前八時迄ニ諸準備ヲ完了スルヲ要ス
九.通信班ハ両大隊ト連隊本部旅団ト連隊本部間午前七時三十分迄ニ電話連
絡スベシ
一〇.歩兵第三中隊、速射砲中隊ハ予備隊トス午前七時迄ニ龍家王東側ニ至
ルベシ
一一.後衛ハ前任務ヲ続行スル筈
一二.野砲兵大隊(第三中隊欠)ハ明十三日払暁興衛村附近ニ陣地ヲ占領ス
ル筈
一三.旅団予備隊ハ午前九時龍家王東側谷地ニ至ル筈
一四.衛生隊ハ興衛村ニ開設セラルル筈
一五.又第一野戦病院(半部欠)ハ堯化門ニ開設セラル
歩兵弾薬補給所ハ堯化門鎮トス
一六.余ハ午前七時龍家王北方高地ニ在リ
連隊長
助川大佐
↑上記のように一糸乱れず、命令には従っていた。
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◆世界一厳正だった日本軍の軍紀
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 02:07 投稿番号: [40895 / 41162]
日本軍の軍紀に就いては、北清事変(義和団事件)当時にも欧米列強から賞賛され、各国軍隊の模範とされたことがあるが、かつて我々が中国戦線を征ったとき、その先々で中国民衆から熱烈歓迎を受けたのも、それは故なきことではない。
そんなことを知ってか知らずか、いわゆる戦後の進歩的文化人と称する売国奴どもは、日本軍の残虐行為なるものを捏造して、繰り返し繰り返し己の母国を罵倒しつづけているが、外国人(台湾)の評論家黄文雄氏は、次のように正鵠を射た卓見を述べている。
黄文雄氏の言によれば、事実は全く正反対で、日本軍はいつでもどこでも軍律厳しく、しかも人間性豊かであった。それに対して中国軍は残忍極まりない武装集団で、今なお彼らは自国民に対する飽くなき収奪と虐殺を繰り返している。それは中国四千年の動乱の歴史の連続であり、伝統ともいうべき不幸な現実である。
日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。中国民衆にとって、いつ襲って来るかわからない自国の暴徒の如き武装集団に比べ、軍紀厳正な日本軍を信じ熱烈歓迎するのは当然のことで、決して日本軍に阿(おも)ねたり恐れてのことではなかったのである。
フランスの国際法学者フォーシーユは、日本軍を賛えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙(あぶ)りにされたり、磔(はりつけ)にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」と。
フランスのフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イリュスト、ラシオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』によれば、
「日本軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大なりといえども他に発見し得るか怪しむものなり」
と絶賛し、中国軍の暴虐蛮行については次のように記している。
「ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるなり。その残虐非情なる行為は、正に野蛮人にあらざれば為し得ざるものなり。然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報ゆるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧じずというべし。」
北清事変(義和団事件)において、当時従軍した日本軍の軍紀が欧米列強の評判となり、賞賛されたことは冒頭に述べたが、その事実の証として次のような事があった。
天津落城の際天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明した。
また北京落城後、列強連合軍は北京市内を国別に分割管理したのであるが、その時ロシア軍管区では、軍紀が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行の限りを尽し、そのため市民は難を逃れて日本軍管区へ洪水の如くに押し寄せた。たまりかねた北京市長は、その暴状を英国公使マクドナルドに訴え、ロシア管区を日本管区に替えるよう嘆願したという。
これらの事実は、ウッドハウス・映子の『北京燃ゆ』やジョージ・リンチの『文明の戦争』等に記述されている。およそ戦争の形態とか様式などというものは、その国々の文化様式でもある。武士道社会の伝統を受け継いだ日本軍は、近代戦の戦場に於ても武士道精神を発揮し、軍律厳しく整然と戦ったのである。
そして日本政府は、在日中国人に対しては戦時中と雖も国際法を守り、彼らの生命財産を守ったのであるが、在中国の日本人居留民は、日中間に紛争が起こるたびに虐殺、掠奪、暴行を受けつづけたことは、日清戦争以来枚挙にいとまがない事実である。
さて、これらの事例は、外国人の見聞記であるところに大きな意味と価値がある。日本人の自画自賛では決してないのである。日清戦争から大東亜戦争に至る聖なる戦いを、日本人でありながら臆面もなく、総て侵略戦争なりと言い切る「似て非なる日本人」よ、もって如何となすや。
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兵士達の述懐(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:03 投稿番号: [40893 / 41162]
16師団歩兵第38連隊第1大隊の兵士の証言は次のとおり。
南京の
和平門に着いた。
門が閉まっていて
野砲が
どんどんと撃った。
抵抗がやんだので縄梯子で登った。
中にいた敗残兵が、次々と
手を挙げて
出てきました。
大隊長は「切れ」
という仕草をして両手を振り下ろし
ました。
命令ですので
みんなで
突き殺しました。
門を入ると捕虜を集めていました。
捕虜は、固まって
こちらに
十五、六人、あちらにまた
十五、六人と
たくさん
いました。
それを
集めていましたな。
第33連隊
第2大隊の
兵士の証言は
次のとおり。
十二月十三日南京陥落後の翌日朝八時頃に南京の太平門に
入りました。
そこで
十四日、十五日と
二日間警備を
しました。
入った日の
前々日の攻撃で
死んだ死体が
そのまま
放ったらかしてありました。
松井司令官の命令で
各師団長に、師団長から各中隊長に
伝わってきていたと思うんやが、兵隊は何事も命令なしで
勝手にやってはならんからな。
当時分隊長が「男は皆
殺してしまえ!」
と言って
話は覚えています。
下記も
同大隊に所属していた
別の兵士の証言だ。
陥落してから、二日ぐらいしてから
南京城内で
掃蕩を
しました。
家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。
調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることも
あるし、その場で
ぼんと銃でやってしまうこともあった。
同隊の
別の兵士の証言は
次のとおり。
捕虜の処分は
師団命令です。
実際に
私ら兵隊に
命令を下したのは、中隊長で、
「捕虜にした者は全部殺せ」と言って指令されました。
どのぐらいの人数を
殺したか、数は
分かりません。
一日にだいたい一個小隊ぐらい、五十〜六十名ぐらいを
処分しました。
同連隊の第3機関銃中隊の
兵士の証言は
次のとおり。
私らは
小銃中隊の兵隊と一緒に
入城しました。
小銃隊の兵隊が支那の兵隊を銃剣で突き刺しているのを
目撃しました。
男は
みんな捕まえてましたな。
でも、私ら
重機関銃隊は
そんなことをしてません。
実際、南京戦で「支那人を殲滅しろ」
という命令が
私ら
第三機関銃中隊に
来てましたけれど、
各中隊にもそんな命令が出ていたかどうかわかりません。
以上、参考『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環編著
社会評論社(2002年8月15日初版第1刷発行)
これは メッセージ 40892 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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兵士達の述懐(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:02 投稿番号: [40892 / 41162]
前述した
第16師団歩兵第33連隊第3機関銃中隊の
兵士の叙述は、次のように
続いている。
「今から上陸するところは米が穫れる、水牛がおる、」
「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」
と言う命令でした。
(略)
上陸してから
常熟で一晩泊り
翌日の出発前に
家を全部
焼き払いました。
民家の中のタンスやらを
積んで火を点けたら全部燃えました。
結構広い部落が
全部燃えました。
そうしたら、後方部隊が来るように
なったので「家を焼くな」
という命令が再び出たんです。
それは無錫の手前でした。
命令は小隊長から聞きました。
同中隊の
別の兵士の証言もある。
内容は
以下のとおり。
中島師団長という人は剛胆な人で、「支那の家を全部焼いて
しまえ」
と言いましてな。
白茆口へ
上陸した時です。
「ここは抗日の一番ひどいとこやから各部落の家は全部焼け」
とも言いました。
私も上陸してから露営して、すぐに家を
焼きました。
仲間内で
伝わって来ましてな。
「師団長が
言うたんで、やってしまえ」
と。
(略)
師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと
二十聯隊か
三十八聯隊か
九聯隊か
知らんけど、
そういうことを
やりましたでしょうな。
それが
問題になったわけです。
(略)
命令授与で
「風紀・軍紀厳正」
という命令は
いつでもありましたけど、じっさいには、支那におった時には
あんまり
やかましく
言われませんでした。
日本の兵隊は
無茶なことしてますわ。
強姦は
南京戦より徐州戦の方が
ひどかったくらいです。
南京でも
もう乱れてましたな。
大量殺戮の背景には、無差別掃蕩命令の存在があった。
同連隊第1大隊に属した
別の兵士の証言を
見てみよう。
十二月十四日、揚子江岸で
捕虜を千二百人いっぺんに
処分しました。日記に書いているように惨いことでした。
処分がすんでから、悒江門から城内へ掃蕩に入りました。
(略)
捕虜剔出には人数を数える暇なくどんどん捕まえました。
捕虜といっても
中国服を着た
男ばっかりでした。
掃蕩をやる時は
中隊長の指揮によってです。
注意事項というものはなく
「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と
上部の命令として
言われていました。
直接この命令を聞いた覚えはないが、中隊長か
大隊長が
発したのだろう
と思っています。
実際、男を敵兵として捕らえ、一人ひとりを調べることなど
しませんでした。
おとなしく
投降しても、中国人は全部
殺してしまう。
これは メッセージ 40891 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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兵士達の述懐(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:01 投稿番号: [40891 / 41162]
第16師団
歩兵第33連隊
第1大隊と
第2大隊の兵士の
証言を引用した。
次に、第3大隊の
兵士の証言を引用する。
昭和十二年八月、大召集を受けて、九月に
久居を出発し、
大阪港から出航しました。九月、十月、十一月は
河北の
戦闘で
韓家頭や八里荘で
初めて戦闘を体験しました。
(略)
部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。
部落に入ったら、
猫の子でもいいから
生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」
と命令が出ました。
それでわずか百メートル先に五十戸位の部落が見えたんです。
これこそと
攻撃をかけたけど、猫の子一匹もいやしません。
粗末な一軒の
農家の中のアンペラが
コソコソと動くので
めくり上げると、四十歳位の
妊婦が
二人の幼児を
両脇に
だきしめて
隠れていました。
コノーと引きずり出すと
子供は泣き叫び
母親の後に
しがみついている。
母親は
もう一人の子を
クリークの中に
つっこんだ。
××伍長が
これこそ戦友の仇と
即座に
銃で三人を
撃ち殺してしまった。
その時は
気がたっていた
というか、女子供なのに
酷いことを
しました。
同連隊
第1機関銃中隊の
兵士の証言は
次のとおり。
私ら行った時は
白茆江やったかな。
弾飛んで来えへんかったということは
敵おらへんかった。
上陸の時
命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」
と言われていたで。
家を焼けとの命もあって、うちの中隊でも
放火班があった。
十人位で
火をつけたけども
常熟の前やったか、
一日ぐらいで止めた。
後者の証言にある
白茆江は、南京城攻撃の
1か月前に
攻略した地点であり、すでに
この時点で無差別な殺害を
兵士たちは
命じられていたという事実が
うかがえる。
この事実を裏付ける
別の兵士の
証言もある。
以下は、同連隊
第3機関銃中隊の
兵士の証言だ。
大連から南下して上海から揚子江を上にいった白茆口
という所に
着きました。
そこでは
敵前上陸で、
そこから
どんどん追撃して
南京まで行ったんです。
その時、私は
上からの命令文を
見ました。
「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。
その命令は
白茆口に上陸する
前日に出たんです。
これは メッセージ 40890 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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兵士達の述懐(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:00 投稿番号: [40890 / 41162]
第16師団
歩兵第33連隊第1大隊所属の兵隊の証言は
他にもある。
たとえば、以下のようなものだ。
行軍が早くて
どんどん進むもんでね。
部落は
日本軍が火をつけて
焼けてますやろ。
上陸した始めの頃は焼いてなかったけど、途中で
そりゃもう、部落を
どんどん焼いてました。
放火分隊って、上陸の時は
うちの中隊もありましたな。
中隊長が
あの部落
焼いてこいって。
家の中には、住民が隠れていてますわな。
それを
殺さなならんのですわな。
それで
兵隊嫌がってましたな。
その命令が出ると。おると殺さないかんのです。
(『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P302)
同大隊の某中隊指揮班の
兵士の証言は
次のとおり。
中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が
出ました。
つまり
虐殺でした。
攻略戦で、その残虐さは
南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
南京攻略戦は
ちょっと
やりすぎでした。
反日の根拠地というので、南京に入るまでは
家を全部焼け
という命令が
ずっと出てました。
すると
また後続部隊が
泊まる所がないからといって、
家を焼くのを中止したんです。
とにかく「家は全部焼いて
人間は全部殺せ」
という命令でした。
命令が出てなかったら
こっちは
しませんよ。
(略)
南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それも
もちろん命令が
あったからです。
皆伝え聞いて
分かっていました。
中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。
その代わり
こっちの被害も
多かったですな。
あそこは
支那の部隊も
集中してました。
次に、同連隊
第2大隊の
兵士の証言を
見てみよう。
南京に向かう途中
どこの戦闘だったかは忘れたけれど、
部落があって、あそこに共産党がいる
ということで、
上から「負傷者に関わらず全部共産兵なので、全部殺せ」
と命令してきたんです。
それで部落に火を点けると、後ろから煙が上がってきました。
その中から
オギャーオギャーと
赤ちゃんの泣き声が
聞こえてきました。
これは メッセージ 40889 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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兵士達の述懐(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 22:59 投稿番号: [40889 / 41162]
捕虜の殺害は
明確に
国際法に
違反する行為だったが、
非戦闘員である
一般市民に対する
残虐行為も、当然
違法行為であり、人道上からも
許されない蛮行だった。
第16師団
歩兵第9連隊第2大隊の
兵士は、
次のように
証言している。
「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」
と聯隊長の命令が
でました。
二人とか三人とかの百姓を
捕まえてきて、
「そこらに兵隊はおるかおらんのか」などの尋問して
地形を聞いて、後は
殺してしまうんです。
クリークの縁に
連れ出して、そこに
座らせました。
将校は、めったに
刀で首切りなんて
できへんのやから、
軍刀持ってるさかいに
試し切りを
するんです。
私ら兵隊は
突き殺しました。
鉄砲の弾
できるだけ使うな
と言われてました。
また、同師団の歩兵第33連隊
第1大隊の兵士は
次のように
叙述している。
上海の近くで
敵前上陸して
南京に向かったな。
途中、クリークや大きな池を越えたりして行くので
大変やった。
工兵隊が橋を作ってくれたりしてな。
南京へ攻めていって、揚子江で
たくさんの死体が
流れていくのを見たな。
女や子どもも入っとるやろね。
いや入ってて当然や。私も下関で軽機で撃っとるけどね。
敵が(揚子江を)下って行くのを撃った。
しかし南京のことは忘れてしまった、ぜんぜん憶えてない。
ただ
上から「男見たら殺せ」
と命令されたことだけは
よう憶えとる。
南京へ行くまでに常熟か無錫辺りかな、もうそういう命令が
出ていたな。
部隊長の××中尉が言ったんじゃないか。
あるいは「人見たら殺せ」とな。
(『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P159-160)
同じ大隊に属した
別の兵士の証言も
見てみよう。
南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、
その命令は
中隊長か小隊長から聞いたけど、
「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう
命令やった。
天皇陛下の命令やと
言ったな。
当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
(『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P271)
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Re: ◆慰安婦強制連行の嘘・デタラメ・捏造
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2012/12/21 21:22 投稿番号: [40888 / 41162]
その吉田精治って野郎を、日本国政府は訴えを起こし、日本を貶めた罪で牢獄に入れて貰いたい。
千田夏光も同様に〜!これって破防法やスパイ防止法無いから出てきたのだろう〜。復活を望むのみです〜!
これは メッセージ 40884 (madabakayatuterunokaomae さん)への返信です.
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◆決着済みの「強制連行」という大嘘
投稿者: ngmxj627 投稿日時: 2012/12/21 18:32 投稿番号: [40887 / 41162]
韓国人女性、呉善花氏
従軍慰安婦という言葉は最近になって出てきたものです。慰安婦がいたことは事実ですが、強制的に戦地へ連れて行くことなどは絶対にあり得ません。朝鮮も同じ国内でしたから、法治国家として司法の三審制度もあり、無法地帯ではありませんでした。もちろん、警察権力もしっかりしていました。そういう法治主義システムの網をかいくぐって、婦女子を強制的に連れて行くことなど、当時の朝鮮ではとうていできることではありませんでした。
私は韓国で生まれて二十六歳まで韓国で生活していた間、村の女を軍や総督府の官憲が 強制的に連行したといった話はいっさい耳にしたことがありません。
また、私が『生活者の日本統治時代』で、インタビューした植民地世代の韓国人の誰一人として、 そのような光景を見たことも聞いたこともないといっていますにもかかわらず、最近になってそうした話が出るなんて、まったくおかしなことだというしかありません。日本の左翼活動家が反日民族主義の活動家に入れ知恵して以来、 「そういうことがあったらしい」「そういうことがあったに違いない」「そういうことが事実あった」 というようにエスカレートしていったことは明らかです。こうして「従軍慰安婦」問題は、女子挺身他(女性の徴用者たち)と意図的に混同させられ、 大量の女たちが「従軍慰安婦」させられた、強制連行でそうさせられた、という物語がつくられ、 それがあたかも真実であるかのように韓国国内で信じられるまでになってしまったのです。
「台湾人と日本精神」
蔡焜燦(台湾人)著
より
引き揚げ者の中には、海南島から日本兵と共に引き揚げてきた二十名ほどの台湾人慰安婦の姿もあった。彼女達は我々と同じキャンプに収容されて台湾への帰国を待っていた。彼女らは口々に、「海南島は儲かるし、それよりも兵隊さんが喜んでくれたんです」と語っていた。そうした生の声には、日本で騒がれるような強制連行の(悲劇)などは存在しなかったことを、私のこの耳がしっかり聞いている。(略)1999年、8月号の「正論」に掲載された許文龍氏(実業家であり、李登輝総統の国策顧問)の記事も、まさしくそんな氏の客観的な歴史観と実行力の賜物だったと言っていいだろう。日本でくすぶり続ける慰安婦の「強制連行」なる問題に首を傾げた許氏は、戦時中に慰安婦だった女性を集めてその事実を明らかにしたのである。もちろん結果は、日本の一部のマスコミや学識者がヒステリックに訴えるような「強制連行」なる事実は存在しなかった。
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◆慰安婦=性奴隷という噴飯モノの戯言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 18:31 投稿番号: [40886 / 41162]
=超高給だった当事の「慰安婦」=
●『軍』慰安婦急募
一、行き先
○○部隊慰安所
一、
年齢十八歳以上三〇歳以内体
一、募集
日
十月二十七日
十一月八日
一、開催日
十一月十日頃
一、
待遇
本人面談
一、募集人員
数十名
一、希望者
京城
町一九五
朝鮮旅館内
光
二六四五
(許氏)
●慰安婦(急至)大募集
年齢
一七歳以上
勤先
後方○○
慰安
月収
三〇〇円以上
(前借三〇〇〇円迄可)
午後八時より午後一〇時迄本人
談
今井紹介所
※巡査の初任給が45円だった時代、月収300円というのは現在の価値に換算すると月収133万円以上の高給であり、軍の高級将校の給与に匹敵する。
●強制連行された慰安婦はいたか?(日本側の調査)
当時、内閣官房副長官だった石原信雄氏は、次のように明らかにしている。強制連行の証拠は見あたらなかった。元慰安婦を強制的に連れてきたという人の証言を得ようと探したがそれもどうしても証言がなかった。納得できる証拠、証言はなかったが(今に至るも発見されていない)「彼女達の名誉のために、これを是非とも認めて欲しい」という韓国側の強い要請に応えて、河野洋平氏が強制的という言葉を使ってしまったというわけです。もう少し補足しますと、この問題の初期の段階では韓国政府は、この問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたんですけれども、日本側のいま申した人物がとにかくこの問題を掘り起こして大きくするという行動を現地へいってやりましてそしてこれに呼応する形で国会で質問を行うと。連携プレーのようなことがあって、韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけないという、そういう状況があったことは事実です。
●強制連行された慰安婦はいたか?(韓国側の調査)
韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を出版した。今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。残る2人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行されたとは述べていない。結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、というのが実態である。
■アメリカ軍による北ビルマのミチナ慰安所の慰安婦からの聞き取り報告
捕虜にした朝鮮人従軍慰安婦について米軍が聞き取り調査をした記録が、戦争情報局関係資料、心理戦チーム報告書 No.49、ビルマ(1944年10月1日)に記載されている。
[募集]
1942年(昭和17年)5月、日本人の業者が朝鮮半島に赴き、東南アジアにおける「軍慰安業務」のためとして女性を募集した。高収入、家族の借金返済のための好機、軽労働等の宣伝に応じて多くの女子が慰安婦業務に応募し、200〜300円の前払い報酬を受領した。
[日常生活]
(原告の文玉珠も生活していた)ビルマのミートキーナにおいては、通常二階建ての大きな建物に住んでおり、一人一部屋を与えられていた。食事は経営者が用意したものであった。食事や生活用品はそれほど切り詰められていたわけでもなく、彼女らは金を多くもっていたので、欲しいものを買うことができた。兵士からの贈り物に加えて、衣類、靴、タバコ、化粧品を買うことができた。ビルマにいる間、彼女らは(日本軍)将兵と共にスポーツをして楽しんだり、ピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機(レコード・プレーヤー)を持っており、町に買い物に出ることを許されていた。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40886.html
◆慰安婦強制連行の嘘・デタラメ・捏造②
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 18:28 投稿番号: [40885 / 41162]
●1989年大分市の青柳敦子氏と在日朝鮮人の宋斗会氏という二人の反日運動家が「慰安婦に日本国家が謝罪と補償をする運動」を起こしました。そして原告を100人と被害者を募集しはじめたわけです。
●1990年韓国梨花大学教授尹貞玉氏は吉田証言を事実と信じ込み、挺身隊と慰安婦を同一視しました。そして日本兵29人に対し、慰安婦1人(ニクイチ)のごろ合わせを用いて、慰安婦の数は朝鮮人だけで17万人から20万人いたと換算しています。大学教授であっても反日とか反体制とかいうイデオロギーに捕らわれると巧みなこじつけをするのは、韓国でも日本でも同じです。
4、1991年4月にはソウルの日本大使館が尹氏を呼び、「強制連行の証拠はない」と伝えて韓国挺身隊協議会からの六項目の要求を拒否しました。その六項目とは下記です。
①強制連行を認める
②公式謝罪する
③蛮行の全てを自ら明らかにする
④慰霊碑を建てる
⑤補償をする
⑥歴史教育で語り続ける
●1991年から朝日新聞は従軍慰安婦強制連行に関する一大キャンペーンを開始しました。初めの証言者となった金学順という朝鮮人慰安婦は日本軍に強制連行されたと報ぜられましたが、本人が日本に来て証言したところによれば、14歳の時、家が貧しかったのでキーセンハウスに売られ、17歳になったとき、キーセンハウスの経営者である義父に日本軍の慰安所につれて行かれたことが分かりました。しかし朝日新聞はこれについての訂正記事を出していません。まだ前出の吉田清治の嘘の証言も真実として報道しました。更に宮澤首相訪韓の時に合わせて「挺身隊の名で連行された慰安婦の数は8万人とも20万人とも言われる」という嘘の解説を載せました。その結果、1992年1月宮澤首相は韓国でこの件について謝罪せざるを得ないようになりました。また、その後も河野官房長官談話でこれを追認した形になりました。この二人の日本高官の行った軽率な謝罪が国連に対するクマラワスワミ女史(スリランカ)の「日本軍性的奴隷問題に関する報告書」の中で、日本政府がその犯罪を認めたとされることになったのです。
●1992年1月14日、韓国ではマスコミが一斉に「小学生までが慰安婦にさせられた!」というショッキングなニューズを流しました。ところがこれがまた大言誤報で、真相は女子児童が挺身隊として勤労動員されたというだけの話だったのです。つまり挺身隊=慰安婦というデマを信じたマスコミの判断であったのです。
●1992年11月中央大学教授吉見義明編「従軍慰安婦資料集」が刊行されましたが、その中に「強制連行」を示す資料は一つもありませんでした。その本の解説の中で吉見教授は「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の強制連行であり、詐欺などを含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべきであろう」と述べています。この人はこれまで「強制連行はあった」と論じてきたのに、色々調べていった末、それを裏付ける資料がないことが分かると論点をすり換えて「広義の強制連行」を考えるべきだなどと言い始めました。また「政府が資料を隠しているのかもしれないから、それが出てきたら事情が変わってくる」と暗示しているのも学者らしい狡さを見せつけられます。
●1997年1月3日の「朝まで生テレビ」に出演した吉見義明教授は、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」ことと、および「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認めました。これは日本政府の5年前に調査した公式発表と一致するものです。
従って、従軍慰安婦強制連行問題は、議論が出つくして、調査もしつくして決着していると言わねばなりません。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40885.html
◆慰安婦強制連行の嘘・デタラメ・捏造①
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 18:28 投稿番号: [40884 / 41162]
●日本ではじめて「従軍慰安婦」を戦争犯罪として世に広めたのが、千田夏光著「従軍慰安婦」(1973年)および「続・従軍慰安婦」(1974年)です。
この本では、千田氏が「挺身隊」として動員された朝鮮人女性20万人のうち、5〜7万人が慰安婦にさせられたと書いています。しかし「挺身隊」とは軍需工場などへ勤労動員された者のことで「慰安婦」とは全く別のものです。
また、挺身隊員で慰安婦になれと強制された例は一つも確認されていません。これは朝鮮の反日運動家が「挺身隊で連れて行かれる者は慰安婦にさせられる」というデマを流したのを、千田氏がろくに検証もせずに書いてしまったようです。
●次に発行されたインチキ本は「私の戦争犯罪−朝鮮人連行−」吉田清治著(1983年)です。この本で吉田氏は韓国済州島で慰安婦にするための女性狩りを度々行ったと告白した上、日本・韓国およびアメリカなどで謝罪講演をして廻りました。
しかし、千葉大学教授の秦郁彦氏が済州島に行って実際に調査したところ、吉田氏が慰安婦にするための女性を1000人近く徴用したとう事実はないことが判明しました。
それに現地の新聞がすでに「吉田証言に該当する事実はない」と報道していたのです。
韓国政府も国際人権委員会も吉田証言を引用して報告書を書いていますが、それは日本の朝日新聞が吉田証言をとりあげて、これを権威付けたからです。
しかし、今日では、吉田証言は全くの嘘であることが証明されて、本人もフィクション(作り話)であることを認めています。
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芸無しコピペを毎日貼る阿呆
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2012/12/21 03:51 投稿番号: [40883 / 41162]
余程暇なんだな。
まず間違いなく引きこもりだろう(笑)
これは メッセージ 1 (ザ・スーパー・愛国者 さん)への返信です.
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Re: 証拠隠滅(2)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/21 03:48 投稿番号: [40882 / 41162]
>軍の焼却命令を伝える文書は珍しく、
軍部による
指示の具体的内容を知るうえで
貴重な資料だ。
↑焼却命令は珍しいものでは無い。
以下に示すように捜せば幾らでも出て来る。
第三師団歩兵課 廃止第三師団動員計画令燒却ノ件 主務局長 大正6年11月1日 大正6年12月13日 決裁案 廃止ニ属スル第三師団動員計画令一部別紙ノ通取扱者歩兵課長ヨリ返納ニ付機密書類取扱規則第三十条ニ依リ燒却致度
これは メッセージ 40879 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/40882.html
Re: 証拠隠滅(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/21 03:45 投稿番号: [40881 / 41162]
説明が付かなくなると証拠隠滅云い出すが、湮滅された書類そのものが存在した事を証明出来ない。
これは メッセージ 40878 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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