★「竹島」は日本固有の領土です
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
安龍福に三種類の地図
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/17 18:38 投稿番号: [9056 / 9207]
*
安龍福が生きた時代には『八道総図』1481年、朝鮮八道古今総図1674、 東輿備攷1682の三種類の地図しかなかった。三種類の地図により安龍福が考えるウサン島は欝陵島の西、西南、及び北にある事になる、そして安龍福は北に重点をおいた。
これは メッセージ 9055 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9056.html
朝鮮八道古今総図1674 北にウサン島
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/17 18:01 投稿番号: [9055 / 9207]
これは メッセージ 9054 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9055.html
三年に一度国主宛ての用で、鮑を取りに
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/17 17:12 投稿番号: [9054 / 9207]
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/988125/%88%C0%97%B4%95%9F/3/
1692年(元禄5年)3月、村川家の船が鬱陵島に行った時、島に多くの鮑が干されているのを見つけた。また置いていた漁具や漁船がなくなるなど、何者かが漁をしている痕跡もあった。
「元禄六年酉四月朝鮮人召つれ参候時諸事控」(大谷家文書)
■ 現代文
内一人は(日本語が)通じる者で、二人とも船に乗り、こちらの船へ来たので乗せた。いったいどこの国の者かと尋ねると、「朝鮮かわてん国村の者」と言うので、この島は国より拝領し、毎年渡海している島なのに、なぜ来たのだと尋ねると、「この島より北に当たる島があって三年に一度国主宛ての用で、鮑を取りに来ている。国元を二月二十一日に同じ様な船十一艘で出船し、難風に遭い五艘に五十三人以上乗せこの島へ三月二十三日に漂着、この島の様子を見ると、鮑がいるので、逗留し、鮑を取った」と言った。
これは メッセージ 9053 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9054.html
安龍福は村上家に『朝鮮八道之図』を示し
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/17 12:47 投稿番号: [9053 / 9207]
『村上家文書』
1696年(元禄9年)5月、日本の隠岐に安龍福ら11人を乗せた朝鮮船が着岸。取り調べたところ、安龍福は『朝鮮八道之図』を示し、日本で呼んでいる竹島は鬱陵島であり、松島は子山(于山)という島であって朝鮮領に属するとし、自分たちは伯耆守へ訴願するためここへ立ち寄ったと説明している。
*
安龍福が生きた時代には『八道総図』1481年、東輿備攷1682の二種類の地図しかなかった、そして安龍福の頃 つまり1650〜頃には東輿備攷によると、鬱陵島が于山島を押しのけて前面に出てきましたね。日本で呼んでいる竹島は鬱陵島であると龍福は村上家にのべております。さがしていた于山島は鬱陵島の北又は東北にあると安はみていたようです、しかし安龍福は『八道総図』を村上家に示し説明し、その地図には于山島が主島で鬱陵島はうしろにありました。つまり安龍福は地図にのってる于山島、鬱陵島は朝鮮領であると主張しているのですね。
これは メッセージ 9051 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9053.html
粛宗時代(在位1674年〜1720年)
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/16 14:09 投稿番号: [9052 / 9207]
これは メッセージ 9050 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9052.html
東輿備攷1682になんと200年を要した
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/12 12:53 投稿番号: [9051 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
Dongyeobigo (東輿備攷) Uljin, Gangwon Province, ca. 1682
*
東輿備攷1682によると、武陵島が鬱陵島の手前西南に表示され別の名は于山島と注意書きされています、この頃から地図に変化が見られてきますね、それに鬱陵島が半島から半身望める位に頭角を伸ばしてきました、『八道総図』1481年から、ここまで来るのに実になんと200年間を要しています、
つまり半島の人々は、少なくとも200年間 半島東沖に「于山島」を朝な夕なに眺め、
教えて下さい 彼方に見える島はなんと云う島ですか?
ばかだねえ あんた だから無学はこまるよ
官撰八道総図にも描かれているかの有名な「于山島」ですよ、当時こんな会話もみられたでしょう。
これは メッセージ 9048 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9051.html
八道総図は世宗実録地理志を底本にして
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/11 23:38 投稿番号: [9050 / 9207]
http://mywiki.jp/seven/%8E%91%97%BF%83y%81%5B%83W/%94%BC%8C%8E%8F%E9%92%CA%90M/#4
Yahoo!掲示板「竹島」#1069 2003/ 2/ 5 半月城
さて地理志の宿命ですが、地理志は完璧なものであっても時代の変化で完成したときから記述の不適合や実際との不一致が始まります。
そのため改訂作業はたえず継続する必要があります。
『世宗実録地理志』は完成翌年の1455年から改訂作業が始まりました。
梁誠之の『八道地理志』です。完成に21年かかり、成宗7(1476)年に完成しました。これは現存しませんが、これに初めて地図が添付されたようで、それらはもちろん『東国輿地勝覧』やその改訂版である『新増東国輿地勝覧』につながりました。
*世宗実録地理志はその後、改訂に改訂を重ね、東国輿地勝覧(八道地理総図)に引きつがれました。つまり八道総図は確かに世宗実録地理志を底本にしております。
これは メッセージ 9049 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9050.html
逆も真なり 二島は県の東 半島から見た
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/11 15:43 投稿番号: [9049 / 9207]
『世宗実録』地理志1454年
江原道蔚珍縣
于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に在る
*この世宗実録地理志の「于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に・・・」の記述は次の時代27年後に反映される事になるは当然の事。
八道総図1481年の于山島では鬱陵島の西に于山島が記載されているが・・
*
この八道総図では于山島が半島から一番手前にあり、半島から望み見る事ができます、これはつまり27前の世宗実録地理志の「于山・武陵の二島は県の正に東の海の・・」の記述を反映された結果と見るはごく自然です。
*つまり逆も真なり、
世宗実録地理志の「于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に・・・」は八道総図により朝鮮半島から望み見た事になりますね。
これは メッセージ 9048 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9049.html
八道総図 半島からまず于山島が見える
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/10 20:04 投稿番号: [9048 / 9207]
『世宗実録』地理志1454年
江原道蔚珍縣
于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に在る。二島はお互いにそれほど遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅時代には于山国と称していた。一説に鬱陵島と言い、百里四方ある・・・
『八道総図』1481年の于山島
東国輿地勝覧付属の八道総図(鬱陵島周辺部)
于山島が描かれている地図は多数見つかっているが、その内最も古い地図は1481年(成宗12年)に編纂された『東国輿地勝覧』付属の『八道総図』である。鬱陵島の西に于山島が記載されているが、実際には鬱陵島の西にこの様な大きな島は存在しない。仮にこの図の通り二つの島があるとしても朝鮮半島からは一つに見える。東西に分かれた島は鬱陵島の想像図であることが分かる。
*『八道総図』によると、半島からのぞみ見れば最初に于山島が目に入ります、鬱陵島は于山島のうしろに入り半島から見えない事になりますね、つまり
半島から見えない鬱陵島は、これ又半島から見えない竹嶼に比定できます
八道総図の鬱陵島は世宗実録地理志の武陵に比定され
又、今までの朝鮮実録によると、
于山、武陵には住民がいたから武陵は独島には比定出来ません。
これは メッセージ 9047 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9048.html
武陵島を何が何でも欝陵島に比定 韓国
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/09 22:04 投稿番号: [9047 / 9207]
http://toron.chu.jp/take/krobject/hanm1.html
太宗実録 巻23、太宗 12年(1412年) 4月 15日(己巳)條の記録でも
流山国島人白加勿等十二名 来泊高城 於羅津言曰 予等生長武陵 其島内人戸十一 男女共六十余 今移居本島 是島自東至西 自南至北 皆二息周 回八息
流山国島 人百加勿 など 12人が高城 於羅津に来て停泊して言うのを、
"私たちは武陵島で生長したが、その島の中の人戸が 11戸で、男女が皆 60余人なのに、今は本島に移して来て暮しています。
この島が 東東で 西西まで 南より 北までが皆 2息 距離で、まわりが 8息 距離です。
と言って武陵島は所帯数 11号、人口 60余人で表現しているし、
武陵島の島まわり(周回)が 7息と発言していて、太宗 17年の記録(8息、15戸、86名)と大きい差を見せない。
*
最初に「命議政府 議處流山國島人
江原道觀察使報云」の箇所がカットされているのがおわかりでしょうか、何か都合が悪いからカットしたのでしょう、それに百加勿が武陵島の島まわり(周回)が 7息と発言していると韓国は云っているが、百加勿は流山國島の島まわりを述べたのですよ、我の推測の範囲ですが韓国は「武陵島」を何が何でも欝陵島に比定しなければならないせっぱつまった問題があるらしい、
これは メッセージ 9046 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9047.html
流山(ユサン)新羅時代の于山(ウサン)
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/09 19:05 投稿番号: [9046 / 9207]
これは メッセージ 9023 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9046.html
Re: ★「竹島」は日本固有の領土です
投稿者: zaougongen90 投稿日時: 2009/01/09 13:19 投稿番号: [9045 / 9207]
この人の発言こそが恥ずかしい。
憲法改正して、一番文句をいい、恐れるのは、隣国の韓国・北朝鮮である。
本気になれば、両国とも、2日で制圧できる。
それをやらないのは、日本人のお情けである。
感謝しなさい。
これは メッセージ 9015 (japanpoors さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9045.html
『海東諸国記』1471年に 対馬
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/09 11:54 投稿番号: [9044 / 9207]
これは メッセージ 9043 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9044.html
偽使者、辛戒道の妄言により対馬は・・
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/08 19:32 投稿番号: [9043 / 9207]
http://www.kotono8.com/2008/12/08tsushima.html
http://f.hatena.ne.jp/lunakko/20070506002226八道総図
■世宗実録
ただし、この「応永の外寇」の後、厄介な事件が起こった。これについては村井章介著『中世倭人伝』(岩波新書)が詳しいので、少々長くなるが引用したい。この本は『朝鮮王朝実録』を主な典拠としている。
一四一九年の応永の外寇後、対馬と朝鮮の関係が一時断絶する。こうなるとこまるのは、朝鮮交易をおもなたつきとしている対馬人のほうで、なんとか交易を復興させようとする。そこで「時応界都」または「辛戒道」――これはおなじ人名の音の異なった表記だが、日本語でどんな字があたるかわからない――なる対馬人が、一四二〇年、宗都都熊丸(つつくままる)(のちの貞盛)の使者と称して朝鮮へ渡った。
時応界都は、「対馬島は土地がやせており、生活がとても困難です」と訴え、「もしわが島を、貴国境内の州郡と同様の一州とし、都都熊丸に印章を賜れば、貴国に臣としての節義を尽くしましょう」と上言した(世宗2閏正己卯)。これを受けた国王世宗は、対馬を慶尚道の所属として、上申はかならず同道観察使を介するよう命じ、“宗氏都都熊丸”という印文の印章を対馬へ送った(閏正壬辰)。
ところがその後、都都熊丸の意をうけた別の使者仇里安があらわれ、この措置につよく抗議した。
(※原典引用部分中略、訳文を後記)
仇里安は、「辛戒道の言はこちらの関知するところではない、対馬が慶尚道に属するなどという説は、史籍をひっくりかえしてみても、長老にたずねてみても、ぜんぜん根拠がわからない」と主張した。朝鮮側は、「そのことは古籍にはっきり書いてあるし、慶尚道の所轄としたのも領土の拡張をもくろんでの措置ではない」と説明したが、仇里安は納得しない。ついに「対馬は日本の辺境だから、対馬を攻めることは日本の本国を攻めることとおなじだ」といいだした。
この問題は、対馬側の強硬な申し立てに朝鮮側が折れ、対馬の所属はもと通りとなって、決着した。
しかし「対馬は日本の所属」という命題を、朝鮮側がのんだわけではない。のちに編纂された官撰の地誌『新増東国輿地勝覧』では、対馬島(テマド)は釜山浦(プサンポ)などとともに慶尚道東萊(トンネ)県の項に掲げられており、「即ち日本国対馬州なり、旧我が雞林(慶州キョンジュの雅名)に隷す、未だ何時に倭人の拠る所と為りしかを知らず」と説明されている。また、一五四二年の政府高官の発言に、「日本・対馬は輔車相依の国」とある(中宗37 5乙未)ように、対馬を日本とは別の独自の領域だとする見方は、朝鮮側ではむしろ常識だった。
倭人の側にもこの見方をとる者がいたことは、辛戒道の発言に明らかだ。かれが宗氏の使者だというのはいつわりで、対馬で朝鮮交易に携わっていた人々のうちで宗氏とはちがう立場を代表する者だと考えられる。かれらにとっては、対馬が日本・朝鮮のどちらに属するか、といったことより、朝鮮半島との交易を維持することこそが大事だった。
これは メッセージ 9041 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9043.html
竹島プロジェクト2009
投稿者: siso_noli 投稿日時: 2009/01/08 17:57 投稿番号: [9042 / 9207]
これは メッセージ 1 (scapin_677tx さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9042.html
1562『籌海図編』に竹島と対馬
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/08 17:02 投稿番号: [9041 / 9207]
これは メッセージ 9040 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9041.html
半月城氏も安龍福後于山島は一変したと
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/06 17:20 投稿番号: [9040 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm120.html#No.903
民間人である安龍福が竹島=独島へ
結果的に二度も渡航し、二度目は日朝両国で「松島はすなわち子山島、これまた我が国の地」であると強く主張したことにより、朝鮮では于山島に対する認識が一変しました。それまでの古い文献では于山島があいまいだったり、地図でも古いものは于山島が欝陵島の西にあったり南にあったり様々で、于山島認識の実態がそのまま浮き彫りにされました。
* 半月城氏もきっぱり述べております、安龍福が、松島はすなわち子山島、これまた我が国の地であると強く主張したことにより、朝鮮では于山島に対する認識が一変しましたと この安龍福の発言によりその後 于山島は欝陵島西から欝陵島東へとお引越しされるのです、つまり安龍福を境にして、官撰書籍等の于山島に間する解釈は変わる事になります、これが小生 前に述べた前期後期なのです。
これは メッセージ 9037 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9040.html
「竹島空爆」
投稿者: shutou7654 投稿日時: 2009/01/04 23:53 投稿番号: [9039 / 9207]
そこからすべてが始まりますな。
北方領土、北朝鮮拉致、シナの盗掘。日本政府のへっぴり外交のツケを払う時がきました。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9039.html
安龍福の松島は独島では無い事に ー完ー
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/03 22:30 投稿番号: [9038 / 9207]
“7日、王は檢察使李奎遠を呼んで謁見した。
王曰く「近頃、鬱陵島に他の国の者が絶えず往来して島を占有する、という被害がでている。松竹島と于山島は鬱陵島の傍にあるはずだが、互いの距離はその産物についての詳細が分かっていない。君は特別にこの検察使に選ばれたわけであるから、しっかりと仕事をせよ。民を住まわせる村を作るかもしれないから、詳細な地図と記録をとるように。」
李奎遠曰く「于山島は鬱陵島のことです。つまり于山とは、彼の国の昔の首都の名前です。松竹島は島から三数十里ほど沖の小さな島です。産物は、檀香と簡竹です。」
王曰く「芋山島(于山島)あるいは松竹島と呼ばれるものは、輿地勝覽に記述がある。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ、于山島と3つあわせて鬱陵島と呼ばれる島を成している。全てについてその事情を検察せよ。そもそも三陟と越松の土候が鬱陵島の調査を行っていたが、皆いい加減で島の外周しか検察していない。こうしたことが外国人による弊害を招いたのだ。」
李奎遠曰く「深く分け入って検察を行います。その島は鬱陵島の東にあり、時に松島とも竹島とも呼ばれています。しかし、そこにあるのは、松竹島で、松島と竹島と言う別々の島があるわけではありません。」
*
王曰く松竹島と于山島は鬱陵島の傍にあるはずだが、「芋山島(于山島)あるいは松竹島と呼ばれるものは、輿地勝覽に記述がある。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ・・・つまり1530年の輿地勝覽には「松島」の記述が入っているのですね、それは鬱陵島の傍にある、当然安龍福も輿地勝覽内に松島の記載を目にした事でしょう、さらにさがしていた于山島が仲間の情報から鬱陵島東方にあるとわかる、安龍福には鬱陵島東に于山島と松島が重なる知識となります、だから倭の漁師が松島に住んでいると云ったとたん間髪をいれづ、その松島は于山島だ 于山島は朝鮮領だと云ったのではないだろうか
安龍福の松島は独島では無い事になります、それは竹嶼でしょう。ー完ー
これは メッセージ 9037 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9038.html
安龍福と東国輿地勝覧八道総図
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/03 19:26 投稿番号: [9037 / 9207]
安龍福は鬱陵島には何度も渡っている、彼は朝鮮八道之図に鬱陵島と子山(于山島)を記し、松島を経由したように言っているが、この当時発行されている朝鮮の「東国輿地勝覧添付地図朝鮮八道古今総図」には最初から鬱陵島が描かれており、鬱陵島の北には実在しない于山島も描かれている。村上家文書には安龍福から聞き取ったと見られる「朝鮮の八道」の名称を列記したものもあり、江原道の文字の下だけに「此道ノ中ニ竹嶋松嶋有之」と書き留められている。安龍福の、鬱陵島と実在しない于山島を朝鮮領にしようとする強い意気込みが、読み取れる。
*
安龍福は八道総図を大事に保有していたらしい、安は鬱陵島には何度も渡っているが、八道地図にあるはずの于山島に会う事は出来なかった、さがして この于山島に行きたいと切望した事だろう、そして『東国輿地勝覧』も読んだはづだ。
これは メッセージ 9036 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9037.html
八道総図の于山島は隣接島では無く主島
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/03 17:52 投稿番号: [9036 / 9207]
http://toron.chu.jp/jp/take/intend.html
1481年に完成した朝鮮の地誌
『東国輿(よ)地勝覧』に所収されている古地図「八道総図」
*「八道総図」には鬱陵島の西に大きな于山島が位置している。
これより前の世宗実録によると、于山 武陵は東海にあると記があるので、「八道総図」の于山島は鬱陵島に比定 鬱陵島は武陵つまり竹嶼に比定出来る。
「八道総図」は安龍福事件前の記録なので、ここに出て来る「于山島」は隣接島では無く主島となります。
これは メッセージ 9035 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9036.html
安龍福の于山島
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/02 21:17 投稿番号: [9035 / 9207]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%BE%8D%E7%A6%8F#.E5.AE.89.E9.BE.8D.E7.A6.8F.E3.81.AE.
E7.B4.A0.E9.A1.94
安龍福の于山島
当時の朝鮮政府は鬱陵島などに空島政策を取っており、鬱陵島周辺の地理的知識がほとんどなかったが、安龍福は鬱陵島に何度も訪れているようであり、鬱陵島だけでなく日本には少なくとも二度訪れている記録がある。しかし、彼の証言を総合すると、彼が松島(現在の竹島)に行った可能性は非常に少ない。当時の朝鮮の地図にある架空の大きな島 于山島が見当たらず日本人の呼ぶ松島が于山島だと信じていたようである。彼の想像する于山島は鬱陵島より北東に約20km、船で約1日で行ける居住可能な大きな島なのである。安龍福が日本へ朝鮮の領有を直訴しに来た大きな理由は、豊富な鮑やワカメが大量に採集できる漁場とそのための居住できる大きな島を独占したかったからであり、鬱陵島と当時の朝鮮の地図や文献にある大きな島于山島から日本人を何としても追い出したかったのである。彼が現在の竹島のような島のために危険を冒してまで日本へ直訴しに来たと考えるのは極めて不自然で、仮に彼が松島を見たとしてもそれを于山島とは思わなかったであろう。
*
彼の想像する于山島は鬱陵島より北東に約20km、船で約1日で行ける居住可能な大きな島なのである。彼の行動原点は八道総図に成るのだろうか?
これは メッセージ 9034 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9035.html
安龍福の言う倭の松島はやはり竹嶼だった
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/02 19:06 投稿番号: [9034 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/09/blog-post.html
つまり、二つの文書を合わせて安の行動を精査すると、彼は子山島(松島)に15日の朝の暁、つまり暗いうちもしくは夜明から日の出までの何と数時間、もしくは小一時間の間に、竹島(鬱陵島)から子山島(松島)に移動したことになるのです。鬱陵島からたった数時間以内で行ける距離の島、つまり、安龍福のいう所の所謂倭の松島=子山島(于山島)は鬱陵島の東沖約2kmに浮かぶ竹嶼でしか有り得ないことになります。
*確かに11名と共に、荒海を越えて日本へ談判しに来た安龍福は豪傑だな、
その安龍福をもっと知る必要が出て来た。
これは メッセージ 9033 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9034.html
竹嶼を“松島”と呼び始めた事につながって
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/02 16:27 投稿番号: [9033 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?p=583
しかしながら、安の言う于山島がLiancourt Rocksであれ竹嶼であれ、明らかなことは、朝鮮政府が于山島を鬱陵島の付属島である竹嶼と考えていた事は確かで、そのことは後に、朝鮮人が鬱陵島の付属島である竹嶼を“松島”と呼びはじめたことにつながっているようです。最終的には、1882年には高宗自身が松島は鬱陵島の付属島である竹嶼の別名である、と言っているのです。
1690年代におこった安龍福の事件の後、李朝朝鮮は鬱陵島に興味を示すようになり、定期的に島に検察官を派遣するようになります。そして、安の事件によってもたらされた結果のひとつに、以前とは異なり、韓国の地図が于山島を鬱陵島の西ではなく、東にある小さな島として描き始めたことがあります。
*
安の事件後(1700年頃) 西に大きく鎮座していた于山島は東の小さな島へと格下げに成りました。それに朝鮮人は付属島である竹嶼を“松島”と呼びはじめたことにつながっていきます。あれもこれも安龍福の言動による結果なのです。
これは メッセージ 9032 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9033.html
王曰く松竹島輿地勝覽に記述 松島=竹嶼
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/02 10:47 投稿番号: [9032 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/188247.html
王曰く「近頃、鬱陵島に他の国の者が絶えず往来して島を占有する、という被害がでている。松竹島と于山島は鬱陵島の傍にあるはずだが、互いの距離はその産物についての詳細が分かっていない。君は特別にこの検察使に選ばれたわけであるから、しっかりと仕事をせよ。民を住まわせる村を作るかもしれないから、詳細な地図と記録をとるように。」
李奎遠曰く「于山島は鬱陵島のことです。つまり于山とは、彼の国の昔の首都の名前です。松竹島は島から三数十里ほど沖の小さな島です。産物は、檀香と簡竹です。」
王曰く「芋山島(于山島)あるいは松竹島と呼ばれるものは、輿地勝覽に記述がある。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ、于山島と3つあわせて鬱陵島と呼ばれる島を成している。全てについてその事情を検察せよ。そもそも三陟と越松の土候が鬱陵島の調査を行っていたが、皆いい加減で島の外周しか検察していない。こうしたことが外国人による弊害を招いたのだ。」
李奎遠曰く「深く分け入って検察を行います。その島は鬱陵島の東にあり、時に松島とも竹島とも呼ばれています。しかし、そこにあるのは、松竹島で、松島と竹島と言う別々の島があるわけではありません。」
*
産物が檀香と簡竹の松竹島が鬱陵島のそばにある、それは時に「竹島」「松島」とも呼ばれています、王、李奎遠ともに松島を認識していますね、
ここでは
松島=竹嶼が成立。
これは メッセージ 9031 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9032.html
安龍福は『朝鮮八道之図』を示し
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/02 09:33 投稿番号: [9031 / 9207]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8E%E5%B1%B1%E5%B3%B6#.E5.AE.89.E9.BE.8D.E7.A6.8F.E3.81.AE.
E4.BA.8E.E5.B1.B1.E5.B3.B6
『村上家文書』
1696年(元禄9年)5月、日本の隠岐に安龍福ら11人を乗せた朝鮮船が着岸。取り調べたところ、安龍福は『朝鮮八道之図』を示し、日本で呼んでいる竹島は鬱陵島であり、松島は子山(于山)という島であって朝鮮領に属するとし、自分たちは伯耆守へ訴願するためここへ立ち寄ったと説明している。当時の日本では鬱陵島の事を竹島、現在の竹島のことを松島と呼んでおり、この時安龍福が話した内容の記録が隠岐の村上家文書に残っている。鬱陵島と朝鮮本土の距離が30里(約12km)、鬱陵島と于山島の距離が50里(約20km)で、鬱陵島から于山島まで船でその日の内に着くと言っているが、実際の鬱陵島と朝鮮本土との距離は約140km、鬱陵島と現在の竹島(松島)の距離は約90kmで大きく食い違っている。安龍福は鬱陵島には何度も渡っていることから、おおよその距離は把握していると考えられ、この違いは鬱陵島と于山島と呼ばれる島を朝鮮領としたいがために、全体に朝鮮本土側へ寄せ偽証したとも言われている。しかし、安龍福の証言する距離の比を実際の距離に当てはめてみても、やはりかなり食い違っている。また彼は朝鮮八道之図に鬱陵島と子山(于山島)を記し、松島を経由したように言っているが、この当時発行されている朝鮮の地図朝鮮八道古今総図には最初から鬱陵島が描かれており、鬱陵島の北には実在しない于山島も描かれている。村上家文書には安龍福から聞き取ったと見られる「朝鮮の八道」の名称を列記したものもあり、江原道の文字の下だけに「此道ノ中ニ竹嶋松嶋有之」と書き留められている。安龍福の、鬱陵島と実在しない于山島を朝鮮領にしようとする強い意気込みが、読み取れる。
*
安龍福は『朝鮮八道之図』を示し、日本で呼んでいる竹島は鬱陵島であり、松島は子山(于山)という島であって朝鮮領に属するとし・・
松竹梅から日本人なら竹島に対しては松島の名が出るだろう、当然 竹嶼は日本名を付けるなら松島が妥当でしょう、竹嶼=松島に成るか検証を要す。
これは メッセージ 9027 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9031.html
サンフランシスコ條約草案
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2008/12/31 11:38 投稿番号: [9030 / 9207]
SF条約草案Agenda
SF条約草案ChapterⅡ Article3Draft Treaty of Peace With Japan
December 29, 1949
ChapterII Territorial Clauses (Article 3-8)
Article 3
1.The Territory of Japan shall comprise the
four principal Japanese islands of Honshu, Kyushu,
Shikoku and Hokkaido and all adjacent minor islands,
including the islands of the Inland sea (Seto Naikai);
Tsushima, Takeshima (Liancourt Rocks), Oki retto,
Sado, Okujiri, Rebun, Riishiri and all other islands
in the Japan Sea (Nippon Kai) within a line connecting
the farther shores of Tsushima, Takeshima and Rebun;
the Goto archipelago, the Ryukyu Islands north of 29°
N. Latitude, and all other islands of the East China
Sea east of longitude 127° east of Greenwich and
north of 29° N. latitude; the Izu Islands southward
to and including Sofu Gan (Lot's Wife) and all other
islands of the Philippine Sea nearer to the four
principal islands than the islands named; and the
Habomai group and Shikotan lying to the east and south
of a line extending from a point in 43° 35' N. lati-
tude, 145° 35' E. longitude to a point in 44° N.
latitude, 146° 30' E. longitude, and to the south
of a line drawn due east on the parsllel in 44° N. lati-
tude. All of the islands identified above, with a
three-mile belt of territorial waters, shall belong to
Japan.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9030.html
ラスク書翰
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2008/12/28 13:26 投稿番号: [9029 / 9207]
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f1/491229_SF2.jpg
The territory of Japan shall comprise the four principal Japanese islands of Honshu, Kyushu,Shikoku and Hokkeido and all adjacement minor islands, including the islands of the Inland sea (Seto Naikai);
Tsusima, Takeshima(Liancourt Rocks), Oki Retto,・・・・・・・・
確かに書いてあるな、日本に竹島を含むと。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9029.html
連合軍最高司令部訓令
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2008/12/28 13:11 投稿番号: [9028 / 9207]
連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号
1946年1月29日
1
日本国外の総ての地域に対し、又その地域にある政府役人、雇傭員その他総ての者に対して、政治上又は行政上の権力を行使すること、及、行使しようと企てることは総て停止するよう日本帝国政府に指令する。
2
日本帝国政府は、巳に認可されている船舶の運航、通信、気象関係の常軌の作業を除き、当司令部から認可のない限り、日本帝国外の政府の役人、雇傭人其の他総ての者との間に目的の如何を問わず、通信を行うことは出来ない。
3
この指令の目的から日本と言ふ場合は次の定義による。
日本の範囲に含まれる地域として
日本の四主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含む約1千の隣接小島嶼
日本の範囲から除かれる地域として
(a)欝陵島、竹島、済州島。(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。(c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島。
4
更に、日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域は次の通りである。
(a)1914年の世界大戦以来、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領した全太平洋諸島。(b)満洲、台湾、澎湖列島。(c)朝鮮及び(d)樺太。
5
この指令にある日本の定義は、特に指定する場合以外、今後当司令部から発せられるすべての指令、覚書又は命令に適用せられる。
6
この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。
7
日本帝国政府は、日本国内の政府機関にして、この指令の定義による日本国外の地域に関する機能を有する総てのものの報告を調整して当指令部に提出することを要する。この報告は関係各機関の機能、組織及職員の状態を含まなくてはならない。
8
右第7項に述べられた機関に関する報告は、総てこれを保持し何時でも当司令部の検閲を受けられるようにしておくことを要する。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9028.html
1454年時 于山、武陵には当然住民が
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2008/12/27 22:22 投稿番号: [9027 / 9207]
大宗実録17年によると、1417年2月時点では「于山」と「武陵」には住民が住んでいた、
1454年
世宗実録「地理志」
“県の西部の沖に于山、武陵という2つの島がある。これらの島々(と)の距離はさほど遠くなく、晴天で風のある日にはよく見える
*1417年の37年後
1454年世宗実録「地理志」の于山、武陵には当然住民が住んでいたでしょう、つまりこれは韓国が主張するところの「于山は独島」
では無い事を意味する、結論を急げば、1454年世宗実録「地理志」の于山は鬱陵島の事で武陵は竹嶼に比定されるのです。ー 完了ー
これは メッセージ 9026 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9027.html
「于山」と「武陵」には住民が住んでいた、
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2008/12/27 20:36 投稿番号: [9026 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
“(1417年2月5日)
大宗実録17年丁酉二月壬戌条
安撫使(検察使)の金麟雨が于山島から戻り
“ (1417年2月8日)
大宗実録17年二月乙丑
右議政韓尚敬が6人の大臣に命じ、于山武陵から住民をどう退去させるか協議した。皆このように言った。「武陵の住民を退去させない方がよいでしょう。五穀を給付し、農機具を与えて、安心して農業をさせましょう。そして帥撫使(武官?)を派遣して年貢を定めればよいではないですか。」
しかし、工曹判書の黄喜だけは反対し、「彼等を定住させずに、速やかに退去させるべきです。」と申し上げた。
王曰く「住民を退去させるのがよいであろう。これらの人民は今まで使役を逃れのんきに暮らしてきた。もし年貢を定めて武官を常駐させれば、必ず恨みを持つだろう。よって、これ以上長く停留させるわけにはいかない。金麟雨を安撫使に留めておき、于山武陵地域にもう一度派遣して住民を島から退去して本土へ戻るよう引率させよう。」
王は(金麟雨へ)衣類、笠、及び靴を、また于山の住民3人に衣服を1揃いずつ与えた。そして江原道の観察使に命じ、兵船二隻を供給し、道内の水軍の中から有能な者を選んで麟雨に同行させるよう言った。”
上記の記録では、大臣達は金麟雨が最近行った鬱陵島検察について話し合っています。彼等が住民のことを“于山武陵の住民”と言っていることに注意して下さい。つまり、于山と武陵が隣同士の島であるだけでなく、どちらの島にも住民が居る事を物語っています。また、“于山”という名前が“武陵”の前に付いていることがお分かりでしょうか。つまり、于山の方が大きな島である可能性が高いのです。最後に、金が“于山”の住民三名を連れ帰ったことに注目します。つまり、于山島には人が住んでいたのです。ここでまた、于山島が現在の独島では無いことが証明されました。
*
皆このように言った「武陵の住民を退去させない方がよいでしょう。王は(金麟雨へ)衣類、笠、及び靴を、また于山の住民3人に衣服を1揃いずつ与えた。
大宗実録17年によると、1417年2月時点では「于山」と「武陵」には住民が住んでいた、
これは メッセージ 9024 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9026.html
島まわり7息とは本島(流山国島)
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2008/12/27 17:08 投稿番号: [9025 / 9207]
http://toron.chu.jp/take/krobject/hanm1.html
韓国の考え
太宗実録 巻23、太宗 12年(1412年) 4月 15日(己巳)條の記録でも
流山国島人白加勿等十二名 来泊高城 於羅津言曰 予等生長武陵 其島内人戸十一 男女共六十余 今移居本島 是島自東至西 自南至北 皆二息周 回八息
流山国島 人百加勿 など 12人が高城 於羅津に来て停泊して言うのを、
"私たちは武陵島で生長したが、その島の中の人戸が 11戸で、男女が皆 60余人なのに、今は本島に移して来て暮しています。
この島が 東西まで 南北までが皆 2息 距離で、まわりが 8息 距離です。と言って武陵島は所帯数 11号、人口 60余人で表現しているし、
武陵島の島まわり(周回)が 7息と発言していて、太宗 17年の記録(8息、15戸、86名)と大きい差を見せない。
それでは、息という単位はどの位の距離を示すことだろう?
1息は 30里を示して、1里 0.4kmで 7息は 84Kmになる。
現在明かされた鬱陵島の島まわりは 56.5km である。
確かな鬱陵島に対する百加勿の発言だ。
*百加勿が島まわり(周回) 7息と発言しているのは、武陵島の島まわりの事だと韓国は言っている。今は生活を本島(流山国島)に移してる それでは その「本島」の島まわりはどうなのか、韓国側に問いたくなるが・・百加勿が発言しているのは本島(流山国島)の事だろうに、ここでも韓国はすりかえている。
これは メッセージ 9024 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9025.html
武陵地域の安撫使 と武陵 等地按撫使
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2008/12/27 00:24 投稿番号: [9024 / 9207]
http://toron.chu.jp/take/krobject/hanm1.html
太宗 16年(1416年) 9月 2日(庚寅)條を見よう。
金麟雨を武陵 等地按撫使にした。
戸曹参判 朴習)が申し上げるのを、"臣が、かつて江原道都観察使である時に入ったが、武陵島の周回が 7息で、そばに小島があって、その田 50余結になるが、入って行く途中の路が、やっと1人が通行して、並んで行く事はできないと言います。
http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo(1416年9月2日)
大宗実録16年丙申九月庚寅条
金麟雨〈キム・インウ)を武陵地域の安撫使に任命した。戸曹参判の朴習はこう言った。「私が江原道の都観察使(長官・知事)だった時、こう聞いた。‘武陵島の 周囲は7息で, そばに 小島があり, 田地が 50結ほどになるのに、その道は人が並んで歩く事はできないほど狭い。昔、方之用という者がおり、15戸の家族を率いて住み、時に仮倭(倭寇の振りをした朝鮮人)として盗みを働いた。その島を知っている者が三陟にいるので、使いをやって見てきてください。
王が金麟雨に島の検察を命じたとき、彼は金に単なる“武陵の安撫使”では無く、“武陵地域の安撫使”と言う肩書きを与えたのです。つまり、王はこの肩書きを作ったとき隣接する島の噂を聞いていたと考えられるのです。
*韓国側の「金麟雨を武陵 等地按撫使にした。」に対し 金麟雨を武陵地域の安撫使に任命した、でもすりかえ、
これは メッセージ 9023 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9024.html
前期と後期を巧妙にすりかえた韓国
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2008/12/26 20:56 投稿番号: [9023 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
1454年
世宗実録「地理志」
“県の西部の沖に于山、武陵という2つの島がある。これらの島々(と)の距離はさほど遠くなく、晴天で風のある日にはよく見える。新羅の時代には、于山國あるいは鬱陵島と呼ばれた。面積は100里である。”
*
1454年世宗実録「地理志」は18世紀中庸を境とし前期に属する、15世紀中庸の世宗実録だから、つまりここに出て来る「于山」は主島で「武陵」は
隣接島となるのです。
韓国人が上掲の記録を見て、これは2島の間の距離を示していて、2島と蔚珍県の間の距離を示しているのではない、と言います、 そして「于山」は東方にある于山島であり「武陵」は主島の鬱陵島 と主張しています、韓国は前期に属する世宗実録を後期の事実として解釈しているのですね、韓国はすりかえていますよ、
これは メッセージ 9021 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9023.html
八道総図 (1530) 于山島が鬱陵島の西に
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2008/12/26 18:50 投稿番号: [9022 / 9207]
八道総図 (1530)からの抜粋
この地図で、于山島が鬱陵島の西に描かれていることがお分かりでしょうか。これは、上で説明した1412年の太宗実録の記録の中で、于山国島の住民が言った2島の位置関係の描写と一致します。
これら2つの島の名前は1700年代になって初めて入れ替わるのです。
*于山島が鬱陵島の西に・・
ここでは武陵島ではなく鬱陵島表示ですね
この時代、于山島名が頻繁に出てくるので、鬱陵島は武陵島の別名と誤解されたらしいです、
これは メッセージ 9021 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9022.html
18世紀中庸を境とし前期後期に・・
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2008/12/26 18:06 投稿番号: [9021 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
朝鮮王朝時代の韓国人は、鬱陵島に隣接する島(現在の竹嶼)があったことを認識していたはずですが、本島と付属する島の名前を頻繁に混同していました。おそらくこうしたことが理由で、上掲の地図のように二つの島がほぼ同じ大きさで描かれたのだと思われます。過去の一時期に、鬱陵島と武陵島そして于山島の三つが全て、現在の鬱陵島を指すのに使用されていましたが、大体18世紀中庸から、最終的に于山島が鬱陵島の隣接する小さな島(現在の竹嶼で、鬱陵島北東沖2.2km)を指すようになったのです。以下にあげる6つの地図はその証拠として挙げられます。
* 大体18世紀中庸から、于山島が鬱陵島の隣接する小さな島として東方に位置する様になった、つまり18世紀中庸以前 于山島は主島として隣接島の西側にあった、ここが重要なポイントになりますよ、18世紀中庸を境とし前期後期にわける事にします。
これは メッセージ 9020 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9021.html
于山島が鬱陵島の西は正しかった
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2008/12/26 16:24 投稿番号: [9020 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
上記の1412年(太宗実録)の文献の引用によりますと、鬱陵島の住民は本島を“于山国島”と呼んでおり、隣接する島を“武陵島”と呼んでいました。もし、于山国島が鬱陵島の事を指しているのなら、武陵島はその東岸沖にあったはずです。と言うのも、鬱陵島の付属島は東岸沖にしかないからです。それは、何故初期の韓国の鬱陵島の地図では、于山島が鬱陵島の西に描かれていたのか、説明がつきます。
*
鬱陵島の住民は本島を“于山国島”と呼んでおり、隣接する島を“武陵島”と呼んでいました。
Gerryさんのおかげで、からんだ糸が少し解けてきました。鬱陵島と武陵島はあまりにも接近しているので、島の名がしばしば入れ替わるのですね、
これは メッセージ 9019 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9020.html
竹嶼は武陵島の呼称で呼ばれ 11家族が
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2008/12/25 20:40 投稿番号: [9019 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
“(1412年 4月15日)太宗実録12年4月巳巳条
政府の命により、流山国島(Yusanguk-do)の人々をどう取り扱うべきかが議論された。江原道の観察使が流山国人の白加勿ら12名が高城の羅津にやってきて停泊し、言った事を次のように報告した。‘私達は武陵島で生まれ育ったが、後に本島に移住して今はそこに住んでいる。その島には11の家族がおり、全部で60人以上の住民がいる。島の距離は、東西と南北はそれぞれ2息〈60里〉で、周囲は8息(240里)ある。牛馬、水田は無いが、豆を1斗植えれば20石とれる。麦を1石植えれば50石余りの収穫が見込める。竹は椽〈たるき〉のように大きく、沢山の海産物や果物の木がある。’”
知事が“流山国”と呼ばれる島(Yusanguk-do)から12人の人々がやってきた、と発言していることにお気づきでしょうか。さらに面白いのは、人々は“武陵島”と呼ばれる島で生まれ育ったものの、のちに于山国島と考えられる“本島”へ移動したと言っている事です。それはつまり、武陵島は于山国島に隣接する島で、11家族60人もの人間が生活できるだけのライフサポート=生活必需品があったのです。ということは、その隣接する島は、2,3人の人でさえ住めないただの岩山である独島/竹島では有り得ない訳です。
住民による流山国島の描写から、“本島”が鬱陵島のことを指していることが分かります。隣接する、彼等が生まれ育った島(武陵島)はほぼ確実に、鬱陵島の最大の付属島である竹嶼/竹島〈Jukdo)であると言えます。
* 竹嶼は62000坪の広さがあり、平面台地ですから農業畑作に適しています、水源は無いので雨水天水を利用する、太宗の頃 竹嶼は武陵島の呼称で呼ばれ、そこに11家族、全部で60人以上の住民が生活していた、
これは メッセージ 9013 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9019.html
独島の領有権は、わが国にあり
投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2008/12/25 12:03 投稿番号: [9018 / 9207]
≪第二次世界大戦後、連合国と日本の領土問題などを規定するため、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ条約を締結した当時、連合国が独島(トクト)を韓国領土と規定したことを示す地図が発掘された。
チョン・ビョンジュン木浦(モッポ)大学・歴史文化学部教授は27日、「最近、米国国立文書記録管理庁(NARA)で米国側の全権大使だったダレスの対日平和条約文書のとじ込みからこの地図を発掘した」とした。この地図は横82センチ、縦69センチのもので、英国・外務省の調査局で1951年3月に製作され、米国政府に送られたものだ。
連合国・総司令部は1946年1月、日本政府に鬱陵(ウルルン)島と独島は韓国領土と規定する覚書を発表したが、日本が独島近海で操業を続けるなど問題を起こすと、1946年6月、「マッカーサー・ライン」を通して日本が独島で操業できないようにするなど、独島が韓国領土であることを改めてはっきりさせた。
日本はしかし1951年に締結したサンフランシスコ条約で、済州(チェジュ)道、巨文(コムン)島、鬱陵(ウルルン)島とは違い、独島が韓国領土であると明確に言及した部分がないとし、「独島は日本の領土」と主張している。
チョン教授はまた、日本の外務省が敗戦直後の1946年、「Minor Islands Adjacent Japan Proper」(日本本土に属する小さな島々)という英文冊子を連合国に配布しながら、鬱陵島と独島を日本領土と主張するなど、ロビー活動を展開していた資料も同時に公開した。≫
これは メッセージ 1 (scapin_677tx さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9018.html
Re: Dokdo Island in the East Sea
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2008/12/25 07:45 投稿番号: [9017 / 9207]
1779年より以前に日本人が約90年間漁猟している事実がある。
亦、朝鮮は幕府から許可を貰って、入島している事実がある。
韓国の学者の資料は、眉唾物が多い。
残念だね。
これは メッセージ 9008 (nyankotyanndamon さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9017.html
Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ
[検索ページ]
(中東)
(東亜)
(捕鯨 / 捕鯨詳細)