台湾を語る〜〜〜

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Re: 佐塚佐和子、霧社生まれの日本歌手

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/20 14:45 投稿番号: [121 / 825]
natunokaze001様:
テキサス州南部を回ると多くのアメリカン・インデアンの村を通過

します。その周辺で吼える彼らの声は一種独特の張りのアル高い透き通る

声をだします。自然を相手に生活する精なのでしょうか。台湾の往時の

高砂族の声もはりのある高いが重い声ですね。コロンビヤが出した昭和7年の
歌謡に含まれる「サヨンの鐘」の原詩の「乙女の真心」を歌う佐塚佐和子の声も

そうであったらしい。戦後は多くの原住民が歌手になっていますね。

Re: 佐塚佐和子、霧社生まれの日本歌手

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/19 23:09 投稿番号: [120 / 825]
台湾での、原住民出身者の、多くは歌手と芸能界で活躍しているの多いですね。顔もきれいだし、声も、ひときわ、きれいだし〜〜〜

Re: 佐塚佐和子、霧社生まれの日本歌手

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/18 16:44 投稿番号: [119 / 825]
natunokaze001様:
名前が間違いでした。御免。佐塚佐和子でした。彼女の原曲は「さよんの鐘

の原詩となった「乙女の真心」で台湾コロンビヤレコードで吹き込み内地で

流行ました。「蕃社の娘」と「想い出の蕃社」も彼女がよくうたったそうだ。

「望郷のつき」、「南の花嫁」も頻繁に歌ったものです。霧社事件のときは、

幸い彼女は内地に「東洋音楽専門学校」に留学中であったので、助かって

います。佐塚警部の妻は「タイヤル族出身」でありました。中肉中背の

彼女は父の面に似ていた感じです「写真でみると」。声はタイヤル族の特徴で

感高い声も出す

美声でありましたと聞いています。

Re: 佐塚佐知子、霧社生まれの日本歌手

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/17 23:43 投稿番号: [118 / 825]
全然初耳だったんだけど、それを知り、敬意が湧いてきます。

その曲が聞けるといいですね?アイの子だから、美人でしょう?

佐塚佐知子、霧社生まれの日本歌手

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/17 04:28 投稿番号: [117 / 825]
夏の風001様:
霧社じけんがおきたとき、治安行政の全責任を持った佐塚愛祐警部は公学校の運動場でセダッカの反撃に会い殉職しました。娘がマントバシオン社の頭
目の娘の母親の努力で台中高女を卒業して、教育者新渡辺稲造の尽力で内地
の東洋音楽学校へ留学、テイチクから歌手として出発したのです。「蕃社」などの人気歌曲などで、李香蘭の前に人気をえています。台湾へも何度も公演
をして戦時中は慰問団で日本随所を回っています。彼女は声がひときわ
きれいで高く、やはり高砂の血を引いているからといわれたものです。

Re: 台湾を語る、尊敬する台湾人材は杜聡明

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/16 03:47 投稿番号: [116 / 825]
なつのかぜ001様:
セダッカ族を主体とした反日高砂族は台湾軍と台湾中の警察の反撃(過剰であった)にあいました。50−60%の男子を失いました。そこで、総督府は
味方に着いた族の志願者をつのり、出草をセダッカ族に向けて送り、一人首
に値段をつけて総督府は払ったそうです。これを第二次霧社事件といいます。残ったセダッカ族の婦女子(が主になってしまった)を霧社の西の捕里
(Poli)との途中にある北にある川中島という寒村に村落を作り、移動させました。監護下の生活を始めたのです。総督府とセダッカ族の仲直り儀式で
若いセダッカの男女が出席した上で男性が追われて命をすてました。第三
霧社事件と私が勝手に呼んでいます。子供と老人だけを残してセダッカは
絶滅の寸前でありました。ところが、それから12年経たとき志願した
高砂義勇隊にかなりのセダッカの若者が入りました。彼らは比島のバターン
半島の先のコレヒドールから脱出するマッカーサーを追い詰めたのです。
このときマ司令官が「I shall return]といったとか?昭和5年のセダッカ
の子供が12年経たとき18−23歳の適齢期になっていました。これこそ
仇を恩で返した勇猛な義勇隊でありました。霧社の警部佐塚さんの温血の娘が内地へ留学してテイチクレコードの専属歌手として李香蘭より先にデビューしています。

Re: 台湾を語る、尊敬する台湾人材は杜聡明

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/15 21:10 投稿番号: [115 / 825]
園事件に所以して、セダッカ族は、全滅だったのかな?その後、シュウセンシテからも、その族民が、たとえば、芸能界にも、活躍する記録がないみたいですね?

Re: 台湾を語る、尊敬する台湾人材は杜聡明

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/15 01:50 投稿番号: [114 / 825]
natunokaze001様:
記憶でかきます。花岡一郎と花岡二郎とは血縁の関係がない、台湾総督府が
目指した理蕃教育の典型的な優等生で霧社尋常高等小学校の優等生で総督府
の奨学金で台中師範を卒業しました。二人とも教師(?)と警察の警丁でありました。内地留学の事実はなかったのではないでしょうか。彼等は血縁と
忠誠と恩義の狭間で大変悩みました。血に生きるならセダッカ族に味方、日本の上司に服従する忠誠や恩義にいきるなら自分の種族を裏切る結果に
悩み平岡山の丘(当時は事件後、そう呼んだ)で一族首吊り、切腹で答えるより仕方と出口が無い結末で、日本教育に力を入れた村の優等生がと総督府と
現地官憲が驚き、落胆した昭和5年10月の事件でしたね。昭和15年1月に台湾赴任する船上で母がはなしてくれた恐ろしい事件でありました。ただ一人
生きた平岡一家に二郎の妻がいました。当時妊娠中であるので、みなの説得を受けて山を降りていきながらえました。再婚した相手が中山と申し、医者の助手の資格で医療に、その後台中省の県議になりました。この夫婦が事件の歴史を語り継いでくれました。

Re: 台湾を語る、尊敬する台湾人材は杜聡明

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/14 22:13 投稿番号: [113 / 825]
内地留学して、帰省するとともに、反日の旗を翻ったのに、霧社事件の花岡兄弟がありますね。何のために内地留学するのかと、あきれてしまいます。

反日事件の中では、やや大規模な事件でしたね。

Re: 台湾を語る、尊敬する台湾人材は杜聡明

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/14 02:59 投稿番号: [112 / 825]
natunokaze001様:
国を裏切る犯罪は国家反逆罪といわれて国事犯となり禁固刑は長期で
したが、大体台湾での犯罪は3−4年でしょう。中国のノーベル賞の
劉氏は禁固刑で11年という無茶に長い刑ですね。
ひどいのは東條首相などに個人的な反感を買うと懲役、死刑、玉砕直前の
島への左遷、出ないと収監前に処置を自分でさせました。スパイ行為は
国家反逆罪でソ連のためのスパイ行為をしたゾルゲ事件の加担者は死刑
でありました。日本へ留学したが、期待した夢が実現せずに自分の反省
がなくて職種に嫌気が来て社会を批判してしまいに政府、隣人、友人への
八つ当たりをしたものもいます。日本から台湾に帰国しても反省がなく
抗日運動に励んで何のための留学であったのかわからぬケースが多いです。
台湾新民報という台湾人経営の新聞社がありました。1941年興南新聞社と
変名したがこの頃までは漢文の記事がでていました。この新聞社もあわせて6つの新聞社が台湾新報に合併されて大阪の毎日新聞社の記者の指導になり
全く漢文欄が消えました。我が家もこの新聞になってしまいました。紙質が
わるくなり、トイレで使用も難しくなりましたとか。

Re: 台湾を語る、尊敬する台湾人材は杜聡明

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/13 21:58 投稿番号: [111 / 825]
当時の内地留学でも、海を渡って「学」を修めて帰ってきたのだから、成功組がほとんどでした。
その中での、後、反日に廻ったのは、それぞれの個人に所以すると推測します。
が、反日に走って、中国に傾いた中の、ほとんどが、惨めな最後で終わっていることには、考えさせるところが多いのではないでしょうか?傾いた中国側に、問題があるとも、いえるが、傾く固体にも、問題がないとはいえないでしょう。少なくとも、人を見る目がないといえよう?

当時としては、台湾で生活していくには、すでに台湾籍〔つまり日本籍〕を持っているということになります。

日本籍を持っていながら、敵対国に味方するのは、非国民的な態度ですよね?
いわば、国を裏切ったということになります。自国を裏切る人は、相手の敵国である、といえども、尊敬されるはずがないのでしょう?だから、ほとんど、悲惨な最期になってるではないですか?

Re: 台湾を語る、尊敬する台湾人材は杜聡明

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/13 06:38 投稿番号: [110 / 825]
natunokaze001sama:
栄えある本島人の優等生の日本留学生には失礼な呼び名ですが、当時の
在台内地人の間では、「内地帰り」と呼んでいました。もっとも小学生の
間での呼び名ですから多少不正確もありますが。小さな私にはこの人々は
大変なお金持ちの息子、娘であるのだと直感したものです。優等生が
選ばれて留学したものですね。大きな結果を出してその後ビジネスマン、
弁護士、医者、ジャーナリストなどと成功組が多くでて台湾の日本文化に
大きく影響をあたえました。中には留学を生かせずに、落ちこぼれも
でました。この連中に排日分子もふくまれました。自分の野心が旨く発揮
出来ずに帰国後も職にあぶれて嫌気がした挙句反日運動に専念した人も
いました。杜聡明の時期が悪くて1970年以後ならノーベル賞をもらった
でしょうね。湯川秀樹博士も戦時中は原爆製造研究の真中にいた人物でした。日本は何の思慮もなく原爆をしようしたでしょう。そのための研究でしたし、軍資金が費用をまかないました。京都大学の原爆研究は有名でしたからね。

Re: 台湾を語る、尊敬する台湾人材は杜聡明

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/12 22:49 投稿番号: [109 / 825]
半山とは、ちょっとけなげた呼び名です。

内地帰りには、そんな言葉がつくはずないです。

杜聡明先生は、ノーベル賞に、ふさわしい一人ですが、活躍した当時が乱世に理由するからでしょう。ノーベル賞だって、運不運があるのですね?世界的で、有名な学者が遺珠された例も少なくないですよ。湯川博士も狩っとくなされていないのですね?

Re: 台湾を語る、尊敬する台湾人材は杜聡明

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/12 05:08 投稿番号: [108 / 825]
natunokaze001様:
台湾出身者で大陸から急に帰国してきたものを半山人とよびますが、日本

から戦後帰国して来たものには半山人とは呼ばないですね。ためしに聞いて

みただけです。29歳で台湾総督府医学専門学校の教授となり、京都帝大

から医学博士号をもらい、元もt細菌学者でしたが、薬理学の研究に専念

した彼が世界一周をしたとき、ニューヨーク市のロックへラー研究所で

野口英世博士と研究室で2日討議しています。翌日日本総領事館から

両人が招待されています。日本医学会と台湾医学会の交流を図り、台湾

大学医学部の発展と高雄市に戦後高雄医学院を新設しています。総督府の

要請で世界各地の学会、会議に出席した彼の功績で1967年、日本政府から

勲二等瑞宝章を授与されました。台北帝大、台湾国立医学院学長の教授を

履歴した彼はマラリヤ病、アヘン患者政策などで大きな尽力はきっと台湾

最初のノーベル賞受賞者になったでしょう。小、中、高等、大学と一番以外

がなかった杜聡明には当然の受賞となったでしょうが。

Re: 台湾を語る〜〜一例の陳火斤の終末

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/11 22:49 投稿番号: [107 / 825]
蒋シ胃水、は、若死にだったので、名は聞いてるけど、そのほかは全然印象無しです。

蔡培火は、228もしのぎ、後、選挙の場に壇上に立ったこともあったが、その場で、よく選民から、罵倒される場面に、私も居合わせたということでした。それで、この人に対する印象が、大変に悪劣でした。「お前は半山だ!!」「お前は台奸だ!!」罵声をかける人はあんがいに多かったですよ。

私はそのときに、初めて、この奴を知ったのでした。

Re: 台湾を語る〜〜一例の陳火斤の終末

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/11 04:33 投稿番号: [106 / 825]
natunokaze001様:
林献堂と同じ方向で日本統治に反抗的であった人に蔡培火という人も

いました。前半は日本に協力して裏ではかなり批判をやった人です。

世間の渡り具合が上手で90歳過ぎるまで人命をまっとうしたのです。

日本に留学したこともありました。   北に蒋シ胃水、南に蔡培火といわれた

人権運動家でした。羽振りが良かった大陸出身者は2−28事件がおきたら

家に閉じこもり、隠れしまいましたね。たまに外に出ると、「お前は芋か豚か

」と聞かれて(島人か大陸出身者か」と聞かれて「豚」なら制裁を受けたとか。

それまで下駄を履いている島人は馬鹿にされたものですね。

Re: 台湾を語る〜〜一例の陳火斤の終末

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/10 20:58 投稿番号: [105 / 825]
228とのかかわりがなかったので、後日の生活ができたのです。
関与してたら、もう、イチコロに違いありません。

日本へは、引退でなく、逃亡でしょ?医療の理由で、フランスへ渡ったのが、地球を大きく一回りして、日本で安居したわけだった。

これらの人々が彼の治安、案内、外国との交信援助をしたのではないでしょうか。 <<<

  もともとから、その親日態度を全うすればいいのに、南京へ渡り、何か祖国とか、云々〜〜

結局は死ぬ祭に面して、懺悔の気持での日本行きかな?

Re: 台湾を語る〜〜一例の陳火斤の終末

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/10 03:20 投稿番号: [104 / 825]
natunokaze001様:
林献堂は2−28事件に関与しなかったから日本へ渡航できたのですか。

女中を置いてかなり派手な生活をしたと書いてあります。国民党は林氏が

日本に引退とは面子もあるので、一度台湾での職を用意して帰国勧誘に

いきましたが、うけませんでした。帰国していたら危なかったかもしれません。
私の推測ですが、在台当時、彼に寄付、無償提供、奉仕、献金、買収と

助けて貰った軍人、団体、官吏、ビジネス団体が日本へ帰国していました。

これらの人々が彼の治安、案内、外国との交信援助をしたのではないでしょうか。

絶えず友人達の集まりがあったそうです。

Re: 台湾を語る〜〜一例の陳火斤の終末

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/10 00:26 投稿番号: [103 / 825]
人間は各々の運命を背負っているのですね。
林献堂が生き延びたのは、財力というよりも、二人の国民党相手の応対ぶりが違うかも?
林は228事件に深入りしていなかったかも知れません。その事件についての彼の影があんまり映っていないから〜〜
財産を押さえられたとしても、日本へ逃亡する当時、手ぶらで行くはずはないと推測します。
日本へ逃亡したのは、そこを終焉の地に選んだのだとしんじます。
もしも、懺悔の気持を含めてでしたら、人間としての価値がいささか残るのですが〜〜

Re: 台湾を語る〜〜一例の陳火斤の終末

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/09 16:56 投稿番号: [102 / 825]
natunokaze001様:
陳火斤と似ている行動をとった人物に林献堂がいました。でも彼が生き延びたのはやはり彼の財力でありましたかね?彼が戦後日本へ住所を変えたあと、彼の総財産は国民党に抑えられてしまったとか。
さびしい引退生活を日吉ですごしたとか。財に乏しい陳は国民党の餌食に
終わりました。金の切れ目が縁の切れ目とは情けないですね。片方が生き延びて、他方が殺されたとは。貧しい当時の日本でしたが、民主国家でしたので幸いでありました。

Re: 台湾を語る〜〜一例の陳火斤の終末

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/08 23:33 投稿番号: [101 / 825]
陳火斤については、全然初耳でした。当時は歳がおさなかったので〜〜〜

しかし、中国を祖国と拝んだ人は、ほとんど、惨めな最期を遂げているのですね。死ぬ前までは、祖国に夢をかけていたので、幸せな一面もあったようですね。

Re: 台湾を語る〜〜一例の陳火斤の終末

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/10/08 03:26 投稿番号: [100 / 825]
夏の風001様:
多くの本島人が日本統治に協力して呉れた。だが或るインテリは終始
日本行政に反対した。反対とも行かず平等権利を主張したものがおおかった。林顕堂と同じく、日本、米国留学を果した陳火斤は金融専門で平等
獲得に邁進した優等生であった。戦後大陸での日本降伏調印(光複)式
二日本軍用機で参加して台北の調印式にも招待をうけ、経済の建て直し
を依頼されて感極まったとか。だが悪名高い陳儀が彼の金融制度に怒り
豚箱に放り込みました。獄中で日本統治に反抗した有志もその見返りの
禁固刑に泣いたそうだ。釈放になり出てきたとき、2−28事件に遭遇
して殺された運命でした。日本時代の抗議運動、金融政策、中華への媚
感、国民党からの逮捕、圧迫、銃殺と祖国からの待遇を嘆いたそうだが、
実は祖国は中華大陸ではなかったのでしょう。誤算ありでした。

Re: 台湾を語る〜〜〜

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/10/07 01:42 投稿番号: [99 / 825]
UP

Re: 作家呉濁流

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/09/29 09:14 投稿番号: [98 / 825]
unhoo様:
呉濁流の戦前、戦後の批評遍歴がかなり定着していたことが解りました。

日本留学中、経済的に苦労した楊達の評価はどうでありましたか?彼は

台湾で始めて創立された農業組合が鳳山であり、そこで妻としりあいました。
公学校6年間級長であった彼も、台北高等学校の尋常科を受験して失敗し、

担任の紹介でお茶研究所の事務員をして翌年、台南二中に入り日大に留学

したのです。全国応募作品で「新聞配達夫」が2等に入選して有名になったが

共産党に入党して活動をつずけたので逮捕、禁固で苦しい生活で終始した。

その間、元担任、町の警官、下宿の主人、大学教授の援助は多数であったが

主義が危険だと平常の生活はできなかったらしい。多くの援助者からの

援助に助けられていたが、共産、農民活動などで、援助が難しい立場に

立たせたそうです。当時の共産主義者には特高が監視していた時代でしたから。
楊達の「達」のしんにゆうへんの中がちがいます。でてきません。

Re: 作家呉濁流

投稿者: unhoo 投稿日時: 2010/09/27 12:08 投稿番号: [97 / 825]
sunshinegold様

>呉氏はどれにはいりますかね?
1)戦前批判型ー戦後礼讃型;2)戦前礼讃型ー戦後批判型;3)戦前、戦後批判型、4)戦前戦後礼讃型;
どれにもあてはまりませんか?
_______________

どれにもあてはまりません。呉濁流氏は日本批判の小説を書いても、その中に日本に対する憎悪、たとえば日本が戦争に負けていい気味だという調子の文はなかったのではないでしょうか。呉氏の日本語発音は聞き辛かったという説があったが、わしが離れた席から見たところでは、彼は近い席の日本人とにこやかに話をしていました。

Re: : 白い飯について〜〜〜

投稿者: unhoo 投稿日時: 2010/09/27 11:44 投稿番号: [96 / 825]
夏の風さん

>瞬く間に売り切れです。

  私たち台湾人はそれを「歩兵飯〔PO-PE-N-PO-ん〕」と呼んでいました
_______________

日本の陸軍では、兵に腹いっぱい食べさせる主義でした。それゆえに飯はいつも余分に炊いておきました。兵隊の食事が終わると、まだ食膳に上らなかった飯が大量に残っているので、それをすぐに商人に売り渡したのですね。軍隊では不埒なことをした兵に対する処罰は厳しかったけれども、処罰を受けている兵でも飯の時間が来ると処罰を休止して飯を腹いっぱい食わしてから処罰を続行したそうです。飯を食わせないという罰は軍隊にはなかったそうです。海軍ではどうだったか知らないが、たぶん陸軍と同じだったのだろうと思います。

Re: 作家呉濁流

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/09/27 03:00 投稿番号: [95 / 825]
unhoo様:
Amazonで中古本で呉濁流の三冊本しか読んでいません。又翻訳本です。
「アジアの孤児」、「夜明け前の台湾「、「歪められた島」だったかな・
確かに二冊の本は台湾人の悲哀が描写されています。どこへ行っても
台湾人は差別感覚に触れたのでしょうか。「夜明け前の台湾」は植民地の
告発であります。悲哀、苦渋の批判がつずくと、読者は他の側面、すなわち
肯定的な記述も読みたくなりますね。それが欠けていると、志向転換作家
と思う次第です。戦後の日本でも日系人も米国では差別感一杯の理を表現
して出版している御仁がいます。日本人はこの種の筋書き構成が得意です。転換作家の
例ですが呉氏はどれにはいりますかね?
1)戦前批判型ー戦後礼讃型;2)戦前礼讃型ー戦後批判型;3)戦前、戦後批判型、4)戦前戦後礼讃型;
どれにもあてはまりませんか?米国では私も差別にあったことがあります。
しかしバランスの問題ですね。しかし新さん者の少数人種を助ける思考に
再三遇したこともありますよ。

Re: : 白い飯について〜〜〜

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/09/27 02:22 投稿番号: [94 / 825]
natunokaze001様;
例の屏東飛行場拡張工事の監督連中の宿舎でも絶えず銀飯(麦の混ぜご飯)が
あまりました。料理の家政婦達が分けて自分の家に持ち帰りました。父は
それでよいのだと許可をだしていました。そのうちに本島人の技手の家に
週末に持参しはじめました。軍部に知れると困るので、ひそかに持って帰るる様にと父がゆるしたそうです。もうボーナスもないし昇給もない貧乏土木課になっていましたので、こんなところで目を瞑ったのでしょう。

Re: : 白い飯について〜〜〜

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/09/27 02:14 投稿番号: [93 / 825]
natunokaze001様;
例の屏東飛行場拡大工事の監督連中の宿舎でも絶えず銀飯(麦の混ぜご飯)が
あまりました。料理の家政婦達が分けて自分の家に持ち帰りました。父は
それでよいのだと許可をだしていました。そのうちに本島人の技手の家に
週末に持参しはじめました。軍部の知れると困るので、ひそかに持って帰るる様にと父がゆるしたそうです。もうボーナスもないし昇給もない貧乏土木課になっていましたので、こんなところで目を瞑ったのでしょう。

Re: : 白い飯について〜〜〜

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/09/26 23:29 投稿番号: [92 / 825]
当時として、ご飯は、自転車のハンドルの両方に、長い綱をつるして、二つの大きな竹駕籠があります。その中にどっしりご飯が詰めていました。まだ、暖かいですよ。多分兵舎から、直接、運んできたのでしょうね。

瞬く間に売り切れです。

私たち台湾人はそれを「歩兵飯〔PO-PE-N-PO-ん〕」と呼んでいました。

作家呉濁流

投稿者: unhoo 投稿日時: 2010/09/26 19:18 投稿番号: [91 / 825]
sunshinegold様

呉濁流氏の戦前、戦後の文学作品をわしが直接に読んだものはごく僅かです。彼は親日感情と反日感情とを併せ持った普通の台湾人だと思います。彼は日本の敗戦で大転換したのでなく、戦後の彼の作品にも日本への親しみがにじみ出したものがありました。彼は福建系ではなく、客家系です。わしは彼とは顔見知りの程度でしたが、親しく談話を交わしたことはありません。人から聞いたところでは「呉濁流氏の日本語発音はたいへん聞きにくかった」とのことです。しかし彼の書く日本語文は立派です。

Re: 台湾帰国組の専門職を狙い撃ちした諜報

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/09/26 12:05 投稿番号: [90 / 825]
unhoo様:
終戦後、自分の志向を大転換して反対論をぶつ連中はあまり当てになりません。呉濁流(作家)なども戦後は日本を急激に批判しました。これは日本人の
学者にも作家にも多々いましたね。この種の人はどんな政治に変わっても、
自分に都合悪ければ批判がでます。その変貌振りを見せるために自分を裏切ってでもパフォーマンスを派手に演出します。これはオムツの良し悪しとは
関係ありません。日本教育を受けたために(偶然だったのだが)最後は、
あのジープか車で国民党の諜報部の罠に落ちた弁護士(明治大卒、台南市出身)か台北帝国
大学卒の医者が兄弟で花連県で夜銃殺されました。前者の父上は警官で
母親が本島人で内地のおじを頼りに渡日し弁護士となって戦前台湾に
帰国して開業していました。人間えてして学校でのpaper worksの優秀性が
即社会のトップに座ると勘違いしてしまう者がおおすぎます。4−6年間の
学業は単にその後の40年間の発展基礎になるだけです。

Re: : 白い飯について〜〜〜

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/09/26 02:01 投稿番号: [89 / 825]
なつのかぜ001様:
昭和18年は週末には屏東飛行場の滑走路拡張などの工事の監督をする
父に洗濯者を持って一泊してかえりました。頂いた夕食は確か麦ご飯で
あったとかすかな記憶があります。玄米ではなかったと思います。お米の
搗き具合でおいしさがかわります。副食は豚の角煮が頻繁にでました。
もう一般家庭では豚肉は食べられない配給制度でありました。豚の角煮が
本島人が食べたそうだが、戦争最中は内地人も食べたのですよ。もっとも
台湾は二毛作の稲収穫がありましたので(一部三毛作)自給は十分でしたが、
内地、大陸、朝鮮半島、南アジアと輸出(供出といった)で不足となりました。蓬莱米でありました。

: 白い飯について〜〜〜

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/09/24 23:04 投稿番号: [88 / 825]
私が、小学の一年生か、二年生の時に、台湾の商人が、軍隊から、買い求めた、軍隊の食べ残りの「飯」を、町で売るのがたまにありました。

ひと碗、5銭か、10銭かで、瞬く間に売れてしまうのです。私もよく、大人のお使いで、買取に行くのです。

白飯でなく、皮付きで蒸し上げたご飯です。大人たちは。それ、蒸気で作ったのだと言っていました。それが、ビタミン補欠のためだと、言っておりました。

だから、そのときはすでに、白い飯はビタミンが足りないと知っていたのだと、思います。

Re: 白い飯にこだわった陸軍

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/09/24 02:45 投稿番号: [87 / 825]
unhoo様:
森鴎外の長女が鴎外の文献整理と保管にーーーで改正します。文献生理と

間違えて変換しました。

Re: 白い飯にこだわった陸軍

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/09/23 02:21 投稿番号: [86 / 825]
unhoo様:
森鴎外が台湾や福岡に軍医務総監として赴任して地方周りをして左遷の

冷や飯を食われた次第です。脚気ビタミンBの説がもう少し早めに出ていれば
あんな間違った細菌説はでなかったでしょう。培養すればすぐ解るのですが。
スピロヒーターが原因とでも疑ったのでしょうか。これは野口英世の

間違いでノーベル賞(生理医学)取り逃がしたのですね。海軍はハイカラで

パン食でありましたので偶然脚気は起きなかったのですね。北九州市に

森鴎外の記念博物館があります。地方赴任時期に、森鴎外の文筆力が

盛大でありました。左遷と関係があるのでしょうか。男子4人、女子1人

を設けたが長男逸於派台北帝国大学の医学部の解剖学教授を昭和の始めから

敗戦後までつずけ帰国後は東京女子医大とか慈恵医科大学とかで活躍しました。

次男は北海道大学教授で3男が早稲田大学教授をまっとうしました。長女は

鴎外の文献生理と保管に徹して後まで貴重な記録を残してくれました。

「高瀬舟」が中学生のとき読んだ記憶があります。今は京都で夏に高瀬川を

流す景観遊覧めぐりが復活したそうです。

Re: 台湾帰国組の専門職を狙い撃ちした諜報

投稿者: natunokaze001 投稿日時: 2010/09/17 00:12 投稿番号: [85 / 825]
unhoo さま:こういういきさつがあるとは、全然知りませんでした。

これによって、考えるとすれば、228の林先生の行方不明は、理由無きにも、アラヘンですね?終戦直後、親蒋介石の姿勢を取って、後、大変な目に遇うたのには、又一人、林献堂がありますね。

Re: 白い飯にこだわった陸軍

投稿者: yuwfui 投稿日時: 2010/09/16 20:07 投稿番号: [84 / 825]
  陸軍の森林太郎はドイツ医学を、海軍の高木兼寛はイギリス医学を学び

  ました。吉村   昭   の「白い航跡」に詳しく書いてあります。

  脚気が伝染病と唱えた森と食事で防げると唱えた高木は

  陸軍と海軍の対立を顕著に表しています。明治から終戦まで。

白い飯にこだわった陸軍

投稿者: unhoo 投稿日時: 2010/09/16 07:32 投稿番号: [83 / 825]
兵隊に白い飯を食わせると頑張ったのは陸軍軍医中将で陸軍軍医総監の森林太郎、この人は鴎外という文名を持っていて、明治大正時期の日本文学の指導者の一人でもあった。

陸軍軍医総監としての彼は、「兵隊の大部分は米の飯が食えない貧しい階層から来ている。彼等は兵隊になったら白い米の飯が食えるという期待で歓びを抱いて兵隊になったのだ。彼等の期待を裏切って軍隊で麦入りの飯を食わせることは断じて許せない」と固執した。海軍が麦入り飯になって、脚気が消滅したことにも目をつぶった。

白米食が脚気の原因だという説を森は終生排斥し、脚気病の病原菌を探索する一派に廻った。軍医総監の地位を終生保持し、数万の兵隊を脚気で死なせた。

Re: 台湾帰国組の専門職を狙い撃ちした諜報

投稿者: sunshinegold04 投稿日時: 2010/09/16 04:22 投稿番号: [82 / 825]
unhoo様:
林茂生さんは台湾人で東京帝国大学文学部を優秀な成績で学士号をもらった
初めての俊才であった。一番活躍したのは台南の長英高女の総督府からの開校資格取得交渉であった。申請、抗議とつずき学園は林理事長の辞任と
交換に資格をだしました。母上と一緒に教師をした若き女性が当時珍しい
長英高女の卒生徒でありました。寮は全部ベッドにねかされて欧米式の
生活をしたミッシオンスクールでした。終戦後陳儀が来た集団をめっぽうに
歓迎した本島人がいます。その歓迎の裏では日本統治を非難しまくったのです。
林氏も教育からはなれて政治界隈に紛れ込んだのが不幸の奔りでありました。この類に属したのが林茂生さんでしたが、日本統治の不満は長い心の
中の葛藤でありました。急に国民党政府に向けて作った反日運動ではなかったと思います。自由の国の教育を受けに行った米国でも真の自由は得られなかったのか帰国しています。それほど国民党に有意義な人物となった林氏が
なぜ国民党に拉致され、銃殺されたのかが私には闇であります。インテリは
どっちに転んでも不安要素の多い人物として血祭りにあげたのでしょうか?
鈴木梅太郎博士を診療した郭博士は、梅太郎の功績を熟知していたのでしょう。日露戦争で海軍は「パン食」でありましたので問題なかった。だが、陸軍は脚気で倒れたものが多数いました。白いご飯を食べた陸軍でした。その後
鈴木博士のVitamine   Bの発見で陸軍は203高地で戦勝したのです。林氏の
短い人生歴史を感謝します。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)