李朝朝鮮

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Re: 太祖・李成桂はモンゴル軍閥だった!?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/12/28 01:38 投稿番号: [1080 / 1329]
>「韓国人はモンゴル系と言うといやがるんだよね。」
>・・・というわけで、今までその事実はスルーしてきたってことでしょうか。

高麗は元に侵略されて結局は属国となり、庶民ベースでも混血は進み、王家は元の公主を娶らされ、名前も元風のものを称し、廷臣の衣冠も元風に改められましたからねぇ。李朝になってからはよけいに屈辱的な過去とされたんじゃないですか。

それに李成桂としては、自分の王朝の正当性を称揚するためにも、高麗王朝を不道徳で悪辣なものとしなきゃならんわけですし。

れRe: 太祖・李成桂はモンゴル軍閥だった!?

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/12/28 01:33 投稿番号: [1079 / 1329]
>「韓国人はモンゴル系と言うといやがるんだよね。」

ほほう、それは初めて聞きました。

そうは言っても、結婚式での女性の正装、ほっぺの赤いポッチはモンゴルの影響
なんですってね。

日露戦争に於ける「中立」1

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/12/28 01:25 投稿番号: [1078 / 1329]
ま、李朝というより大韓帝国での話なんですけどね。

1904年初頭、日露の雲行きが怪しくなり、もはや開戦かという時期に大韓帝国は「中立」を宣言しました。英・仏・独・丁抹(デンマーク)はこれを承認しましたが、高宗は「これで韓国の独立不可侵は承認されたニダ!」と激しく勘違い…これは永世中立ではなく局外中立であって、紛争当事者となるであろう日露両国が承認していないし、その両国が韓国をなんらかのかたちで自陣営に巻き込もうとした場合、その干渉を排除すべき「実力」がないと担保されないものなんですがねぇ…

どうやら、中立宣言じたい、その場を糊塗し情勢の変化を待って国策を変えることを目的とした首鼠両端のためのものじゃなかったんじゃないかと。
つーか、皇帝も廷臣も「大韓帝国」という国家を意識して動いてへんやろと。

▲中立宣言に関するメモ
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1923745&st=writer_id&sw=xiaoke

Re: 太祖・李成桂はモンゴル軍閥だった!?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/12/28 01:19 投稿番号: [1077 / 1329]
韓国人を何人も見て言うことですが、

顔つきを見ると、日本人よりものの見事にモンゴル系ですね。

「 太祖・李成桂はモンゴル軍閥だった!?」

今更って感じですが。

特に韓国を嫌いでもなかった父が時々TVで韓国人の顔とか映る度に言っていたのですが、

「韓国人はモンゴル系と言うといやがるんだよね。」

・・・というわけで、今までその事実はスルーしてきたってことでしょうか。

Re: 太祖・李成桂はモンゴル軍閥だった!?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/12/25 22:11 投稿番号: [1076 / 1329]
>>朝鮮王朝は表面では親明事大を標榜していたにもかかわらず、パックス・モンゴリア体制の中心である北方遊牧帝国の伝統を事実上維持し続けていた」と尹博士は語った。

>「伝統を基盤」は、どうなのだろう・・・・・?
正直、牧民諸族が形成した諸国家の伝統とは、些かかけ離れている節も多々見受けられるけど・・・

んー、儒礼の導入とそれによる徹底した人民教化など、むしろ北方遊牧帝国の伝統をかなぐり捨てての中華文明化を志向する方なんじゃないかと…

Re: 太祖・李成桂はモンゴル軍閥だった!?

投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2007/12/24 02:35 投稿番号: [1075 / 1329]
>李成桂の高祖父(祖父の祖父)李安社(イ・アンサ)は全州を離れ、豆満江流域の斡東地域に定着した後、
1255年に5000戸の千戸長とダルガチ(元の地方役人)の地位を元皇帝から下賜されている。
>この事実について、尹博士は「千戸長はモンゴル族でなければほとんど任命される事のない高位の官吏であり、
事実上、李安社がオッチギン家から認められた軍閥勢力に成長していた証拠と見るべきだ」と語った。

いや、別に千戸長なら、創業期はいざ知らず、拡張期には非モンゴル部(モンゴル「族」は存在しない)でも任命されてるし・・・

1206年の「大モンゴル」誕生時、「千人隊」は「95個」(「元朝秘史」)でしたが、チンギス他界後の1227年には「129個」(「集史」)

西方に展開したジュチ・ウルスは当初4個の千人隊のみでしたが。
ホラズム・シャー王国の滅亡後4年目の「西征」で、80〜120個の千人隊を保有しましたし。

そう言う意味では、在地勢力に対し、安全・経済保障と地位を与えて、人材を供給させ、彼等もまた「モンゴル」とするのが、「モンゴル」の方針でしたし。

まぁ、李成桂の先祖もそう言う意味で「モンゴル」となったのでしょうか。


>「モンゴル世界帝国の中心地である北東アジアで、13世紀から14世紀に起きた激変の歴史の総体的果実として生まれた王朝が朝鮮王朝だ。

まぁ、この説には賛成です。
「自己完結」した歴史の結果は存在しませんから。

>朝鮮王朝は表面では親明事大を標榜していたにもかかわらず、パックス・モンゴリア体制の中心である北方遊牧帝国の伝統を事実上維持し続けていた」と尹博士は語った。

「伝統を基盤」は、どうなのだろう・・・・・?
正直、牧民諸族が形成した諸国家の伝統とは、些かかけ離れている節も多々見受けられるけど・・・

太祖・李成桂はモンゴル軍閥だった!?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/12/21 00:27 投稿番号: [1074 / 1329]
ちょっと昔のだけど・・・

http://www.chosunonline.com/article/20060905000052
朝鮮王朝の太祖・李成桂(イ・ソンゲ/1335〜1408年)は高麗系モンゴル軍閥の勢力であり、朝鮮王朝は北方遊牧帝国の伝統を基盤に建国した国家であったという新説が唱えられ、学界で論争を呼ぶものとみられている。


  こうした主張は、新進気鋭の東洋史学者・尹銀淑(ユン・ウンスク)博士とモンゴル系中国人学者・エルデニ・バタル博士(内モンゴル大専任講師)が唱えたもの。両名はこうした主張を盛り込んだ博士論文を江原大史学科に提出し、先月審査を通過した。


  学位論文『蒙元帝国期オッチギン家の東北満州支配』を執筆した尹博士は「13世紀から14世紀にかけて、東北満州地域を元のオッチギン(斡赤斤)王家が支配していたという事実に注目しなければならない」と主張した。


  オッチギン家による同地域の支配は、チンギス・ハーンが1211年に自らが征服した領土を多くの弟らに分封した際、末弟のオッチギンにこの地域を治めさせたことから始まっている。その後、オッチギン家は遊牧と農耕という経済インフラを基盤とし、この地域で独立的な勢力を形成することに成功した。


  ここで問題となるのは、オッチギン家の支配領域の中に李成桂一門の本拠があったという事実だ。


  李成桂の高祖父(祖父の祖父)李安社(イ・アンサ)は全州を離れ、豆満江流域の斡東地域に定着した後、1255年に5000戸の千戸長とダルガチ(元の地方役人)の地位を元皇帝から下賜されている。この事実について、尹博士は「千戸長はモンゴル族でなければほとんど任命される事のない高位の官吏であり、事実上、李安社がオッチギン家から認められた軍閥勢力に成長していた証拠と見るべきだ」と語った。


  その後、1290年にオッチギン家の内紛で李安社の息子・李行里(イ・ヘンリ)は斡東の基盤を失って咸興平野に移住したが、千戸長とダルガチの職位は李行里のひ孫・李成桂の代までの5代にわたって世襲された。




  一方、学位論文『元・高麗支配勢力関係の性格研究』を執筆したエルデニ博士は「李成桂一門はオッチギン家を通じ、当時最先端にあったモンゴル帝国の軍事技術を直接吸収した。その後、オッチギン家直属の斡東と雙城縈管府の多くの条件を活用して自らの勢力を育てていった」と主張した。なお、李成桂は1362年に元の将軍ナガチュとの戦闘で、この先端技術を用いて勝利している。


  さらに、尹博士は1388年の威化島回軍(元への援軍の指揮官であった李成桂が全軍を威化島で引き返し、高麗の実権を握ったクーデター)も、モンゴルの内部事情に精通している李成桂が、元の軍事力が崩壊したことを把握した上で起こした「旧モンゴル将軍の裏切り」と見るべきだと主張した。従って、朝鮮王朝の建国は韓半島(朝鮮半島)の自生的産物としてだけでは見られないとしている。


  「モンゴル世界帝国の中心地である北東アジアで、13世紀から14世紀に起きた激変の歴史の総体的果実として生まれた王朝が朝鮮王朝だ。朝鮮王朝は表面では親明事大を標榜していたにもかかわらず、パックス・モンゴリア体制の中心である北方遊牧帝国の伝統を事実上維持し続けていた」と尹博士は語った。


  また、こうした新たな歴史解釈の持つ意義について、尹博士とエルデニ博士は「これは朝鮮王朝の歴史がモンゴル史の一部という意味ではなく、韓半島の範囲を脱して東アジア史という大きな観点で高麗・朝鮮王朝間の王朝交替を再解釈する作業だ」と定義した。


  ところで、こうした主張に対する学界の評価は分かれている。江原大史学科の周采赫(チュ・チェヒョク)教授は「2世紀にわたって満洲を支配した先進文明圏が朝鮮王朝に及ぼした影響を一部明らかにしたという意味がある」と評価している。


  一方、高麗大史学科のパク・ウォンホ教授は「興味ある仮説ではあるが、もう少し緻密な検証を経なければならない」と慎重な姿勢を示した。


ユ・ソクジェ記者

朝鮮日報/朝鮮日報JNS

Re: 朝鮮王朝実録原文、オンラインサービス

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/12/17 01:53 投稿番号: [1073 / 1329]
>チャレンジャーだな。
誤訳や歪曲が少しでもあれば、即指摘される。

かつての宗主国も徐々に遅ればせながら徐々に経済的に豊かになって、
こういうことに目を向ける人が増えるだろうし・・・
あっちで色々起きる事を楽しみに待ちましょうか。

Re: 朝鮮王朝実録原文、オンラインサービス

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/12/13 11:05 投稿番号: [1072 / 1329]
>チャレンジャーだな。
誤訳や歪曲が少しでもあれば、即指摘される。

歪曲よりも単純な誤訳のほうが多くなるかと思ったりもします。
ま、史料は原文にあたって読むのが当然なので、頼りにすることは基本的にはないんでしょうけど、オバカな誤訳ネタや変な日本語ネタを探すのにはいいかもしれませんね。

朝鮮王朝実録原文、オンラインサービス

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/12/11 02:36 投稿番号: [1071 / 1329]
>邦訳文と原文原本イメージ

チャレンジャーだな。
誤訳や歪曲が少しでもあれば、即指摘される。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝鮮王朝実録邦訳文原文、オンラインサービス

ユネスコ世界記録遺産である朝鮮王朝実録の、邦訳文と原文原本イメージがインターネットを通じて提供される。教育部国史編纂委員会は、2005年から3年間推進して来た朝鮮王朝実録オンライン構築事業が完了したと明らかにした。国史編纂委員会は、12日から朝鮮王朝実録の原本イメージを具現した立体サービスを開始し、ホームページを通じて公開する方針だ。

ttp://contents.innolife.net/news/list.php?ac_id=2&ai_id=79314

原文はここ(右上のjapaneseで・・・)
http://sillok.history.go.kr/inspection/inspection.jsp?mTree=0

Re: れRe: 4339年 開天節

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/12/08 00:32 投稿番号: [1070 / 1329]
>…ま、半万年前には朝鮮はおろか支那にもニンニクは伝わっていないんですけどね。


それ指摘すると、「韓国に愛情がないのか〜」と言われることになるんでしょうねw

Re: れRe: 4339年 開天節

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/12/07 12:42 投稿番号: [1069 / 1329]
>>あの国の場合その神話すら捏造の可能性がありそうですね。

まぁ、檀君神話が明確に出てくるのは、高麗の三国遺事が初出ですからねぇ。しかもその後20世紀までシカト状態ですし。
…李朝の徐居正『東国通鑑』では、正統朝鮮の鼻祖を箕子におき、正統系譜から檀君神話を外して「こういう話もあるよ」的な付属扱いの記述に降格していますし、安鼎福『東史綱目』じゃ「怪説弁証」という章において「この説ってさ、デタラメだらけで論じるまでもないよ。東国通鑑が省いたのも当然だよね(按此説誕妄不足弁通鑑略之是)」なんて書いていますしねぇ…

>熊が人間になろうと洞窟にこもったとき、にんにく20個とヨモギ1把を持っていった、という話しですが、その具体的な数字はどこから?   後世に誰かが勝手につけたんじゃないの?   それ以前に、なぜヨモギとにんにく?   という疑問がありますが、これには何か理由がありそうなんで……。知ってる方、おせえてくだちゃい。

安鼎福も考察しているように、檀君神話は仏教がベースというか元ネタにある(桓雄なんて帝釈天のことですし、阿蘭仏・迦葉原・多婆羅国・阿踰[こざと偏に施のつくり]国も仏経ネタです)んですが、仏教ではヨモギはともかくニンニクは避けますよね。

ですから、ヨモギ・ニンニクについては、当時の高麗あるいは新羅の民間信仰に源流があるんじゃないかな?と考えてはいます。

…ま、半万年前には朝鮮はおろか支那にもニンニクは伝わっていないんですけどね。

Re: 李朝家具

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/12/04 23:53 投稿番号: [1068 / 1329]
家具自体、自分で戸の具合とか、

色々いじらないと、わからないので、基本的に通販では買いません。

昔、泊まった旅館のオンドルに敷かれたド派手な布団を思い出しちゃった。

もう半島はオンドルの季節でしょうね。

ファァ (*´0`)ゞoO オヤスミィ・・・

Re: 李朝家具

投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2007/12/02 23:56 投稿番号: [1067 / 1329]
取っ手や蝶番金具がゴテゴテし過ぎで購買意欲は湧きません。

使い勝っては実際に触って見なければなりませんが、その中で64番の李朝格子キャビが我が家に何とか合うのかな?

でも要りません。もっといいデザインと色調の物がありますから。

李朝家具

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/12/02 23:44 投稿番号: [1066 / 1329]
え〜保守のために・・・(苦しい;)

http://esearch.rakuten.co.jp/rms/sd/esearch/vc?sv=2&f=A&g=100804&v=3&p=0&e=0&s=0&oid=000&k=0&sitem=%CD%FB%C4%AB&c=1832

日本家屋とも相性が良さそう。
でも、引き出しのしまり具合とか試さないとなんとも・・・。

高校生の時、私に李朝家具を勧めてた店員がいたけれど・・・w

高校生の時、何お土産に買ったっけ〜?

Re: 君弱臣強

投稿者: hisatukai 投稿日時: 2007/11/29 16:24 投稿番号: [1065 / 1329]
>実録が名君として持ち上げる君主は柔弱な君主である場合が多く、暴君としておとしめる君主は王権強化のため努力した君主である場合が多いという。

所詮は、支那の属国・傀儡王朝としての評価基準だわな。

君弱臣強

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/11/26 19:23 投稿番号: [1064 / 1329]
保守を兼ねて。

>実録が名君として持ち上げる君主は柔弱な君主である場合が多く、暴君としておとしめる君主は王権強化のため努力した君主である場合が多いという。

まぁ、特に中期以降の王は党争の勝利派閥に担がれるから、自然その権力行使も思うままにはいかんわなぁ。

・・・・・・・

【新刊】シン・ドンジュン著『朝鮮の王と臣下、富国強兵を論ず』(サルリム)

  著者は朝鮮が滅んだ根本的な理由を、王権が弱く臣権が強かった「君弱臣強」の統治構図から探る。実録が名君として持ち上げる君主は柔弱な君主である場合が多く、暴君としておとしめる君主は王権強化のため努力した君主である場合が多いという。

http://www.chosunonline.com/article/20071125000002

Re: 韓国教科書の李朝と幕府初期

投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2007/11/23 21:21 投稿番号: [1063 / 1329]
>>朝鮮と日本の外交関係をは断絶していた。したがって、日本は経済的に困難に陥った。

>これが隣国の歴史専門家が書いたというのが驚きです。
>李朝朝鮮と国交を断絶すると経済的に困難になるほど、
>秀吉の朝鮮出兵前の日本経済が朝鮮に依存してたのかという話が必要になるのですが、そこらへんは何も無し。

ま、流石に全くの「風聞」さえ無いのをでっち上げる事はできなかったのか・・・
織豊時代、「海外交易」の主流は対明、対東南アジア交易ですし。
(欧州=スペインとは、年数隻程度の交易量ですから、主流にはなりえません)

朝鮮と交易していたのは、主に宗氏の対馬ですから。

江戸期に入ってからも、朝鮮との直接交易は宗氏対馬藩のみ。
その収支は、絶えず対馬藩の黒字でしたが、日本国内経済には殆ど影響ない程度。

そんな中での、江戸期の経済成長振りには、どう説明つける気でしょうね?(笑)
耕地面積(生産石高)で、約1800万石(1600年代初頭)⇒3200万石(1860年代・幕末)
人口も約1800〜1900万人⇒3000万人
これは、国内経済の「大発展」が無ければ達成できませんが。

結局は。
・「戦国」収束に伴う、国内整備・開発余力が生じた事。
・「統一政権」の保証により、「価値」のある「貨幣経済」が誕生した事。

朝鮮は、全く関係ないことですね。

Re: 李朝朝鮮

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/11/20 11:35 投稿番号: [1062 / 1329]
up 下から2番目まで下がってる〜。サイクルが早いよ〜。

Re: 李朝朝鮮

投稿者: pup_pooh_one 投稿日時: 2007/11/18 22:16 投稿番号: [1061 / 1329]
> しばらく、ここには来れないと思います。

もう、ムーミン谷は冬眠の季節ですか。

では、また春になったら。

Re: 李朝朝鮮

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/11/17 15:03 投稿番号: [1060 / 1329]
>東亜さん、他の皆様、しばらくのあげお願い致します。

了解しました。がんばります。

Re: 李朝朝鮮

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/11/17 14:01 投稿番号: [1059 / 1329]
しばらく、ここには来れないと思います。

東亜さん、他の皆様、しばらくのあげお願い致します。

Re: 李朝朝鮮

投稿者: hisatukai 投稿日時: 2007/11/13 22:46 投稿番号: [1058 / 1329]
痢死朝鮮

Re: 成り上がり者 Re: コリアンドリーム

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/11/09 17:59 投稿番号: [1057 / 1329]
>頭の回る人物なら力のあるときに有力者一族には恩を売っておくとか婚姻関係を結んで陽の当たらなくなる時に備えるんですが、出自が馬の骨なんで有力両班側が避けていたんですかね。

鄭の立場は清の通事官ですから、「戦勝国民」として頭ごなしに威を振るっていたようですね。朝鮮のほうは清とのトラブルを避けたり収拾するために事あるごとに鄭に運動資金を送り、鄭もそれに見合った動きはしていたようです。
鄭よりも、むしろ朝鮮の廷臣たちが摺り寄ってきたんですよ。親族の娘を妾鄭の親族の妾として献上して婚姻関係を結んだりと。
大臣で朋党の有力者だった金時点は、鄭と親しく交わることで、朝鮮朝廷での勢力を増大させていましたが、仁祖から孝宗に代替わりしたさいに失脚しました。ちょうど鄭の威勢が衰退するのと同時期です。

成り上がり者 Re: コリアンドリーム

投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2007/11/09 01:34 投稿番号: [1056 / 1329]
>1654年に失脚し、財産没収の上奴隷に落とすという罰を受けました

最初に名がでてから十数年で元の身分に逆戻りですか。栄枯盛衰は世のならいとは言え己の一生さえ終わりをよくしなかった訳ですか。陽の当たるうちは勢いの任せて王族、廷臣、他の両班にきつくあたったんでその反動も強かったんでしょうね。
頭の回る人物なら力のあるときに有力者一族には恩を売っておくとか婚姻関係を結んで陽の当たらなくなる時に備えるんですが、出自が馬の骨なんで有力両班側が避けていたんですかね。
自分だけがうまくいって「ウリは大物なんだぞー」って叫んでいる朝鮮人って解るような気がします。

Re: 明成皇后殺害した日本人外孫

投稿者: hisatukai 投稿日時: 2007/11/08 12:59 投稿番号: [1055 / 1329]
>「祖父のしたことは間違っていた。今日、歌を聞きながら涙が出た」と言った。

戦時における政治戦略的暗殺と、平時における一般殺人の区別がつかないバカ老人。
「祖父」も草葉の陰でこのバカ孫を呪っているだろう。

明成皇后殺害した日本人外孫

投稿者: koshien21c 投稿日時: 2007/11/08 12:52 投稿番号: [1054 / 1329]
明成皇后殺害した日本人外孫「祖父が間違いだった」

「どうしてここに朝がどんよりしているのか。私の胸はどうしてこんなに冷たいのか…」

7日午前、景福宮(キョンボックン)の宮廷宮である乾清宮(コンチョングン)でミュージカル『明成皇后』のアリアがとどろいた。照明もマイクもなかった。伴奏はピアノ5重奏。高宗(コジョン)が暮らした長安堂の広間に上がった女優、12年間明成皇后役を演じてきたイ・テウォンさん。112年前、明成皇后が日本人浪人らに無惨に殺害されたその場で、彼女の声は響き渡った。

「…幼くてか弱い王世子、善良で厚徳な殿下、灯りの下で仲良く話を交わし、一生睦まじく暮らせたらいいのに。数奇ではかないこの地の王妃よ」

皇后が殺害直前、死を予感して歌ったアリア『暗い夜を照らして』が続く間、目をじっとつぶっている白髪の老人がいた。車いすに座って音楽に聞き入っていた彼は、静かに目もとにハンカチを当てた。まさに皇后を殺害した刺客の1人の外孫であるかわのたつみさん(86)だ。かわのさんは公演が終わると「祖父のしたことは間違っていた。今日、歌を聞きながら涙が出た」と言った。「祖父は間違っていた」と2度力を込めて言う間も、涙があふれ、とうとう何も言えなくなってしまった。

この日の乾清宮では皇后のアリアを含めて2曲が上演された。景福宮初のミュージカル公演だ。文化財庁、韓国観光公社と公演企画会社である(株)エイコムインターナショナルが乾清宮復元を記念して用意したイベント『明成皇后の息づかいを探して』だ。100人の訪問者のうち、意味深い観客は、かわのさんを含めた日本の『明成皇后を思う集まり』の会員6人だった。

公演を終えた後、一行は明成皇后の墓がある京畿道金谷(キョンギド・クムゴク)洪陵に立ち寄った。ここではイ・テウォンさんが明成皇后追慕の詩を朗読した。ミュージカル『明成皇后』の原作者である小説家李文烈氏が米国から最近送ってきた詩だ。

◆乙未事変=1895年(高宗32年)日本公使三浦梧楼が主軸となって大韓帝国の事実上最後の皇后である明成皇后を無惨に殺害した政変。日本の刺客と軍人らは10月8日午前5時、乾清宮内の皇后の寝室である玉壺楼に乱入し、皇后を殺害後、死体を燃やして後方の山に埋めた。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=92671&servcode=400&sectcode=400

おいおい、日本人が殺したとする証拠があるのか

下らんことするんじゃない。

しかも外交に類する問題に、その任の無い素人が首突っ込むとは

バカが老害そのものじゃないか。

こう言う世の中に害を振り撒く老人はサッサト逝ってよし。

Re: コリアンドリーム

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/11/08 12:18 投稿番号: [1053 / 1329]
>興味はこの鄭の一族の後日譚です。その後有力両班として末永く栄えて今日まできてるんでしょうか。それとも時代の流れによって総括されたんでしょうか。

お察しの通り、時代の流れによって総括されてしまいました。

鄭の後ろ盾は朝鮮交渉担当の英俄爾岱(龍骨大)でしたが、1648年に死去しました。また英俄爾岱の上司である摂政ドルゴンが1650年に死去したのち、ドルゴン派への粛清がはじまったこともあって、鄭の威勢声望も衰えてゆきます。
けっきょく鄭は1654年に失脚し、財産没収の上奴隷に落とすという罰を受けました。それに合わせて朝鮮のほうでは鄭の取り巻きや係累が失脚しました。

その後はどうなったかは分かりませんが、その子と孫は護軍校という官職についたという記録があります。

私は原資料や論文に当たれていないので、孫引きというかたちになるのですが。

Re: コリアンドリーム

投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2007/11/08 02:42 投稿番号: [1052 / 1329]
こういうのって歴史には往々にしてありますね。本人は高位高官を手にし一族の端まで余禄に与る。しかもそれが占領軍の威光によるもの。でもこうした場合、代々廷臣の家柄のものは腹の中で快くは思ってなかっただろうことはわかります。興味はこの鄭の一族の後日譚です。その後有力両班として末永く栄えて今日まできてるんでしょうか。それとも時代の流れによって総括されたんでしょうか。

Re: コリアンドリーム

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/11/07 21:38 投稿番号: [1051 / 1329]
同じくコリアンドリームといえば、

貢女として中国の後宮に入って寵愛される話もそうですね。

コリアンドリーム

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/11/05 18:15 投稿番号: [1050 / 1329]
以前紹介した、鄭命寿という朝鮮人についてのスレです。

▲コリアンドリーム
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=5&nid=1887235&st=writer_id&sw=xiaoke

ただの賤隷だった人物が、清軍の捕虜になったことをきっかけに出世し、ついには正一位領中枢府事にまで登ったというコリアンドリームのお話です。

官位官職については「大河の釣り人」をご覧ください。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3914/index.html

Re: 祇園南海という画家

投稿者: edozaijyu 投稿日時: 2007/10/31 02:21 投稿番号: [1049 / 1329]
ご紹介のこのまっすぐ天に向かって枝を伸ばす紅梅図。

見事です。これぞ梅の画。梅はこう描くという見本です。

>でも、狩野派の絵画や浮世絵と比べると、文人画は一部の趣味人の範疇で終わった感じが・・・。

もともと文人画はそういう性格を持っていますね。

狩野派は江戸時代に入ってから硬直してしまって面白くないという見方もあります。

浮世絵は、その狩野派からのドロップアウトした人が始めたものというのも事実ですしね。

一方で、狩野派は日本の絵画史において多大な貢献をしたこともまた事実。

>その程度でも、もう朝鮮通信士が日本全体に影響を撒き散らした気分になってしまう悪寒。

まぁ   そんなに大袈裟なものでもないのですが、祇園南海に影響された画家は数多くいますね。


>あの日本の繁栄を小中華主義で見下す朝鮮通信士の江戸都市観察文章を読んでしまうと、色あせてしまいます。

このころの朝鮮の絵師は技術者に近いような気がします。

技術者同士の交わりは、もう少し純粋なのかもしれない・・・・

と思いたいですね。

Re: melancholy_nightさんへ

投稿者: melancholy_night 投稿日時: 2007/10/30 20:00 投稿番号: [1048 / 1329]
先刻承知しておりますのでどうぞお気遣いなく。
私の投稿などでよろしければどうぞ自由にご利用ください。

Re: 朝鮮通信使を招いた目的

投稿者: licky_etozero 投稿日時: 2007/10/30 11:19 投稿番号: [1047 / 1329]
家康生存時にはまだ   スペインやポルトガルと商取引もあり

家康の側近にはウィリアム・アダムスが

秀忠の側近にはヤン・ヨーステンが居て   海外の情報を入手していました

スペインやポルトガルは   マカオや   台湾などに拠点を持ち   支那の情報もそこそこ入手していたようですから

明が元寇よろしく攻めてくる   と言うような認識が   当時家康達にあったかどうかと言われれば

無かったんじゃないかなぁ?

と思えます

Re: 韓国教科書の李朝と幕府初期

投稿者: licky_etozero 投稿日時: 2007/10/30 11:14 投稿番号: [1046 / 1329]
水牛かどうかは判りませんが   韓国の牛の角はなかなか貴重ですよ

現在の日本も   結構な量輸入しています

印鑑にも用いるのでしょうが   釣具の和製ルアーである「弓角」にも用いられます

プラスチック製の奴より効果(釣果)あるみたいです

Re: 韓国教科書の李朝と幕府初期

投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2007/10/30 10:46 投稿番号: [1045 / 1329]
>上記の進貢を定めたのが1637年1月30日(旧暦)ですから

書いてしまってしばらくたってこのことに気が付きました。
ご指摘のほうが早かった(汗)

水牛は中国南部にいると思うのですが、その時点ではまだ明ががんばっていて清は思うように手に入れらなかったんでしょうかね。水牛角も鹿皮も当時の重要な軍需物資ですから。
徳川幕府はかなり早い段階から明がヤバイことになってることは知っています。新しい支配者である清についても元寇の再現をするかというような危機感は持ってなかったんじゃあないでしょうか。清の支配下も17世紀末近くまで明の遺臣残党がかなりがたがたやってますし、明の遺臣から救援を求められた時に結局は出兵しなかったけれどその気になった有力者(家光自身その他)もいたみたいだし。

Re: 韓国教科書の李朝と幕府初期

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/10/30 02:17 投稿番号: [1044 / 1329]
>黄金100両はさておき、これらの品物は朝鮮の庶民をいくら絞ってもどうしようもないものですね。銀は日本から、水牛とか豹になると独自に南蛮貿易をやってなければ琉球王国に依頼するか日本を通して入手するか。

そうですよねぇ。いくら庶民を絞ろうが、王室に吐き出させようが、本来朝鮮には無いものが多いです。

>こんなところからも日朝の国交と貿易再開を切実な問題としたのは朝鮮方だったと推測されないでしょうか。

上記の進貢を定めたのが1637年1月30日(旧暦)ですから、通信使とどの程度の関係はがあったかは断言できません。

>ところで水獺皮は何なんですか。カワウソ、ラッコ、オットセイ?

カワウソであるようです。

Re: 韓国教科書の李朝と幕府初期

投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2007/10/30 01:50 投稿番号: [1043 / 1329]
>丙子胡乱の降伏時に締結した約定による毎年の進物です
白銀 1000両
水牛角 200対
豹皮 100張
茶 1000包

黄金100両はさておき、これらの品物は朝鮮の庶民をいくら絞ってもどうしようもないものですね。銀は日本から、水牛とか豹になると独自に南蛮貿易をやってなければ琉球王国に依頼するか日本を通して入手するか。こんなところからも日朝の国交と貿易再開を切実な問題としたのは朝鮮方だったと推測されないでしょうか。

ところで水獺皮は何なんですか。カワウソ、ラッコ、オットセイ?

祇園南海という画家

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/10/29 23:57 投稿番号: [1042 / 1329]
検索してみました。

http://www.wakayama-city-museum.com/SYOZOHIN-KAIGA-NANKAIKOBAI.html
>紀州藩の儒学者祇園南海(1676〜1751)が描いた紙本墨画の紅梅図です。

>南海は、紀州藩医師祇園順庵の子として延宝4年(1676)に江戸で生まれ、幼くして新井白石らとともに木下順庵の下で儒学を学びました。

>詩文の才能に秀で、その詩の内容を絵画に表現して、視覚的に訴えました。まさしく詩文と絵画の一体化が果たされたのです。以後多くの文人画家たちに受け継がれていきました。


幼くして新井白石と儒学を学んだなんて凄いですね。

でも、狩野派の絵画や浮世絵と比べると、文人画は一部の趣味人の範疇で終わった感じが・・・。
その程度でも、もう朝鮮通信士が日本全体に影響を撒き散らした気分になってしまう悪寒。

朝鮮通信士と日本の高名な儒学者が友情を交わす素晴らしい光景も、
あの日本の繁栄を小中華主義で見下す朝鮮通信士の江戸都市観察文章を読んでしまうと、色あせてしまいます。

Re: 韓国教科書の李朝と幕府初期

投稿者: edozaijyu 投稿日時: 2007/10/29 23:32 投稿番号: [1041 / 1329]
>韓国は当時の日本が欲しがった「先進文物」って何?

まぁ   先進かどうかはわかりませんが、

祇園南海という画家がいました。

彼は、朴東晋という朝鮮通信使の画員に影響を受けたと言われてますね。
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