竹島

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>検証してみましょう

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/24 22:53 投稿番号: [9558 / 18519]
>この図は、島根県が提出した資料に基づいて作成された結果、隠岐島と竹島・松島との距離を実際より過大に表示しては居ますが、

私はよく知らないのですが、竹島・松島の描き方が島根県の提出した資料に則っているとの根拠となる資料は何ですか?それを確認の上、また返事します。

>島根県の資料には存在しない「リエンコヲルトロツク」は当然描かれていません。

当時、明治政府は竹島・松島の二島認識があったことでしょう。もちろんそれ以前の歴史的にもそうです。しかし、三島認識(アルゴノート、ダジュレー、リアンクール)も出てきていた。

明治政府は「外一島」との表現にもうかがえるように二島を記したに過ぎないのでしょう。しかし、二島であれ三島であれ、いずれにしても、この時期の政府の地理的認識はアルゴノート=竹島、ダジュレー=松島であった。

それは、地図に記された島の位置を見れば分かることです。そして、それがただされて鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と把握されることになったのは明治13年、その調査はご提示の地図にはあいにく反映されなかったわけです。

>はてさて、家鴨と兎さんは何を根拠に「同じ」と発言されたのでしょうか。

地図にうかがわれる島の位置ですよ。竹島と松島をよく比べてみてください。

なお、ついでに申し上げると、この地図が明治10年の「外一島」判断を反映しているとすると、私が申し上げていた2881,3153,8509は全く辻褄が合うことになります。

>またですか

投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/05/24 21:21 投稿番号: [9557 / 18519]
Am_I_AHO_1stさんにお伺いしているだけのことですわい。

またですか

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/24 20:54 投稿番号: [9556 / 18519]
>ところでAm_I_AHO_1stさん   お教え下さらんかな。
松島(現・竹島)から高麗は歴々と見えましょうや。

意味不明の質問を殊更繰り返される意図が分かりませんな。
問われているのは現代の地理的知見を持つ愚生の見解ですか、それとも長久保赤水先生の見解ですか。

>見境無く噛み付くんじゃありませんよ

投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/05/24 20:48 投稿番号: [9555 / 18519]
>#9464で、彩色に何の意味があるのかとしたのが愚生であり、彩色に拘っているのはtorezojpさんなのですから。

何か愚老をお呼びですかな。お答えがないものでチョット居眠りおばしていたとこですわい。
それにしても

>#9550 seonsaeng氏の
”貴君の言う「鬱陵島事績」の原本・写本は何処にあるのか、ご存知かな。”

これは愚老も知りたいですな。

>#9552seonsaeng氏の
鬱陵島の小六島とは
http://www.ulleung.go.kr/Ullung_English/sub2_03.html
この地図で見られるように、Gong Rock(孔岩)からJukdo(竹嶼)までの6つですね。

これには愚老も笑わして貰いましたわい。

ついでに愚老の設問にもお答え頂くとありがたいのだが。↓

>そうそう、これも、ちゃんとしたご返事いただくのが、まだでしたわい。童子騙しでは通りませぬわい↓

>そういう、お国には固有の領土を示す、どのような地図のライブラリーがおありかな。お教え下され

>「此二島無人之地」のうちで「見高麗如自雲州望隠州」と整合性があるのは
竹島(鬱陵)のみである・・・・・

>ところでAm_I_AHO_1stさん   お教え下さらんかな。
松島(現・竹島)から高麗は歴々と見えましょうや。

お尋ねの儀は

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/24 20:47 投稿番号: [9554 / 18519]
『皇城新聞』(光武三年=1899年九月二十三日号)の記事のことと思われます。

さて、記事の冒頭で「鬱陵島事況」との小見出しの後に記された件の文章については、愚生には何とも判断がつけかねます。
皇城新聞の記者が書いたものなのか、禹用鼎の報告に書かれているのか、分かりませんから。

家鴨と兎さんの発言を検証してみましょう

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/24 20:28 投稿番号: [9553 / 18519]
>そうでしょうか。どうも、そうとも思えませんが。なんならご提示の地図の4ページ目をご覧下さい。竹島・松島が「大日本全国略図」に含まれています。そして、この略図の竹島・松島の位置は、勝海舟の地図と同じくアルゴノートとダジュレーです。つまり、この地図は明治10年のことも明治13年の調査もあまり反映されていない資料にすぎません。

『大日本府県分割図』冊子中の『大日本全国略図』
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40011003&VOL_NUM=00000&KOMA=4&ITYPE=0&L=0

この図は、島根県が提出した資料に基づいて作成された結果、隠岐島と竹島・松島との距離を実際より過大に表示しては居ますが、島根県の資料には存在しない「リエンコヲルトロツク」は当然描かれていません。

しかし、家鴨と兎さんは、さしたる根拠もお示しにならずに、「勝海舟の地図と同じくアルゴノートとダジュレーです。」と発言されました。
百聞は一見に如かずです、見比べてみることにいたしましょう。

『大日本国沿海略図』
http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/maps/map028/image/index.html

はてさて、家鴨と兎さんは何を根拠に「同じ」と発言されたのでしょうか。
愚生には全く合点がいかないことです。

鬱陵島の小六島とは

投稿者: seonsaeng 投稿日時: 2005/05/24 17:33 投稿番号: [9552 / 18519]
http://www.ulleung.go.kr/Ullung_English/sub2_03.html

この地図で見られるように、Gong Rock(孔岩)からJukdo(竹嶼)までの6つですね。

AHOさんにお尋ねします鬱陵島の小六島とは

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/24 16:22 投稿番号: [9551 / 18519]
1882[5]   李奎遠   属島は竹嶼,島頂(観音島)の2島のみ

1900[6] 禹用鼎 鬱陵島周辺を調査,報告書を提出,松島への言及なし

1900[9]「皇城新聞」「付属する小六島の中で、最も顕著な島は、于山島と竹嶼

1900[10] 報告書を元に勅令41号を発布
      属島は石島,竹嶼2島記す

Okino:
李奎遠,禹用鼎による調査では,
最も注目しなければならない「于山島」の名がでてこない,民間の皇城新聞で于山島が出てくる,上記による3報の共通は竹嶼である,『島頂(観音島),于山島,石島』は呼称がことなるが同一と推測出来る,ここにおいて付属する小六島が何を指すのでしょうか? 鬱陵島の小六島とはどこに位置する島でしょうか?

AHO君に質問

投稿者: seonsaeng 投稿日時: 2005/05/24 14:43 投稿番号: [9550 / 18519]
>愚生はただ、資料に書いてなければ書いてないと云い

貴君の言う「鬱陵島事績」の原本・写本は何処にあるのか、ご存知かな。

「石島」の件

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/24 14:14 投稿番号: [9549 / 18519]
>なお、「石島」の件ですが、これを方言で読み解くことは単なるなぞなぞレベルの言葉遊びにしか過ぎません。なんら資料的なあと付けはありません。そういう方言が存在するから結び付けてよいのではないかという話は、万葉集を韓国語で読むレベルの話に見えます。

別に強引に読み解いている訳じゃありません。
現実に「石」と書いて「トク」と読む地方があること、しかもその地方は鬱陵島の対岸近くの慶尚道も含まれることを事実として示しただけです。
第一、当時の鬱島郡庁の直接的な資料で確認する必要があると指摘しているのも愚生自身ですから。
更に付け加えるならば、朝鮮には吏読と云うものもありましてね、官職名や地名、氏名なども当て字が許容されるのです。
安龍福を用卜と書くのも吏読です。
石(トク)→獨(トク)は吏読による説明が十分可能ですから。

>>『大日本府県分割図』

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/24 14:06 投稿番号: [9548 / 18519]
>大日本全国略図に載っているのですから矛盾はあるでしょう。ですから、私は混乱していると申し上げました。そして、そこに描かれた竹島・松島はアルゴノート・ダジュレーでした。

どこに「アルゴノート・ダジュレー」と書いてある?

「竹島・松島」と書かれていることが読めないのですか。

>位置的には私の申し上げているのが合っているように思われます。それに明治13年には天城の調査もあったのですから本来であれば「由来の概略」もなにもないはずでしょう。それが明治14年の時点で反映されていないとすればどうかと思いますね。

天城の調査は外務省、『大日本府県分割図』は内務省。
日本伝統の縦割り行政で因果関係が無くても何ら不思議はありませんが?
もちろん、関係があった可能性も多少有るでしょうけれども、それならばそれで、関係資料をお出しになってから云って頂きたいですね。

その辺が違いだな

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/24 13:56 投稿番号: [9547 / 18519]
愚生はただ、資料に書いてなければ書いてないと云い、家鴨と兎さんは、書かれていないことも自らの「願望」に強引に当てはめようとする。

見境無く噛み付くんじゃありませんよ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/24 13:52 投稿番号: [9546 / 18519]
#9464で、彩色に何の意味があるのかとしたのが愚生であり、彩色に拘っているのはtorezojpさんなのですから。

ただ噛み付きたいだけとか?

>あれれ

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/05/24 00:12 投稿番号: [9545 / 18519]
>もしかして、単なるバチもんの無断コピーに過ぎない弘化三年(1846年)版を『その後の官許赤水「改正日本輿地路程全図」』と思い込んでいるわけ?

あたしをからかってるつもりかしら、再版、三版、四版を出して注記が竹島のみの説明だと教えてあげてるのに関係ないこと言わないでよ。AHOさんが注記が竹島と松島の説明だと歪曲するのを指摘しているだけなのよ。

色のことばかり言ってないで、文言を直視すればどうかしら。「以此州為限矣」此島を以て限りとなすの大切なところでしょう。歪曲、曲解、何とかやらですか。なんだか可哀想な方ですわね。


新刻 日本輿地路程全圖 折 一枚 (にほんよちろていぜんず) 長久保玄珠 寛政三年大坂淺野彌兵衞(再版)(彩色本)
http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/kochizu/CJA08343001/CJA08343001-5.html

改正 日本輿地路程全圖   増修定本新分郡界 一枚 (にほんよちろていぜんず) 長久保玄珠 文化八年江戸須原屋茂兵衞等(三版)
http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/kochizu/CJA08344001/CJA08344001-7.html

新刻 日本輿地路程全圖 折 一枚 (にほんよちろていぜんず) 長久保玄珠 天保四年江戸須原屋茂兵衞等(四版)
http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/kochizu/CJA08345001/CJA08345001-7.html

>>本当かなぁ2

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/24 00:09 投稿番号: [9544 / 18519]
私はまったく異端的な考え方でして、じつは19世紀末から20世紀のはじめにかけて鬱陵島の住民は観音島を于山島と呼んでいたのではないかと思っています。今のところその周辺資料がすべてそれで整合的に理解できるからです。

石島のことも、李奎遠のことも、ウヨンヒョンのことも、皇城日報のことも、当時の地図もすべて話がつながるのです。

ただ、こんなことをいう人は誰もいないので暴論なのかもしれません。まだ、勉強中です。

>本当かな

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/23 23:50 投稿番号: [9543 / 18519]
>李奎遠は鬱陵島外周図を残していますが、そこには于山島はありませんね。

従来より認識してきた于山島であると確信する島が見つけられなかっただけのことでしょう。

仮に住民が于山島(仮に独島として)の存在を証言していたとしたら住民に詳しく位置とその詳細を聞き必ず李奎遠はそれについて報告をしたはずです。また、当然に踏査してしかるべきです。しかし、それはありません。

考えていた于山島は、なかった。または島の存在はあったとしても、それは考えていたような島ではなかった。結局、そこに独島への知見はまったくないのです。

なお、「石島」の件ですが、これを方言で読み解くことは単なるなぞなぞレベルの言葉遊びにしか過ぎません。なんら資料的なあと付けはありません。そういう方言が存在するから結び付けてよいのではないかという話は、万葉集を韓国語で読むレベルの話に見えます。

仮に独島を伝統的に「于山島」として認識していたのなら「于山島」と書けばいいだけの話。また、当時漁民に用いられた「ヤンコ」の名を記すのであればこれまたそのまま記せばよろしい(伝統的に于山島であったのならその必要もないのですが)。

なぜ「石島」にしたか。それは「于山島」とは書けない島だったからに過ぎません。当時、朝鮮は「于山島」の存在を見失っていた。歴史の中で存在してきたと思っていた「于山島」は踏査によると思っていた存在とは違っていた。従って、于山島の名は当然に出てこない。

ただ、観音島をあらわす「石島」と竹島が出てくるのみ。

>『大日本府県分割図』

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/23 23:27 投稿番号: [9542 / 18519]
>「成果」とは、太政官指令に基づいて島根県に編入していない事実を指します。

大日本全国略図に載っているのですから矛盾はあるでしょう。ですから、私は混乱していると申し上げました。そして、そこに描かれた竹島・松島はアルゴノート・ダジュレーでした。

>因果関係を無視した「願望」ですね。

位置的には私の申し上げているのが合っているように思われます。それに明治13年には天城の調査もあったのですから本来であれば「由来の概略」もなにもないはずでしょう。それが明治14年の時点で反映されていないとすればどうかと思いますね。

念のため

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 23:06 投稿番号: [9541 / 18519]
>>鬱島郡庁の直接的な文書記録類を見るべきとの見解である

>そういうものがあって、韓国領説に有利であれば、すでに出ているでしょうね。

これには一言コメントさせて頂く。
当時の韓国側資料は全部日本から返還された資料に基づく。
鬱島郡庁も1910年以降総督府管下に置かれたのであり、韓国領説に有利云々とされる覚えはないのである。

『大日本府県分割図』

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 22:47 投稿番号: [9540 / 18519]
当時の内務省地理寮(のち地理局)が編纂したものです。

「成果」とは、太政官指令に基づいて島根県に編入していない事実を指します。

>そして、この略図の竹島・松島の位置は、勝海舟の地図と同じくアルゴノートとダジュレーです。

因果関係を無視した「願望」ですね。
竹島・松島が実際より遠方に記載されたのは、勝海舟の地図を根拠にしたからではありません。
島根県からの伺い書に添付された「由来の概略」などに記載された位置関係を正確に反映させた結果です。

> さあ

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/05/23 22:40 投稿番号: [9539 / 18519]
>それから、方言の研究は戦前ですから

はい、それは知っております。
問題はそれと勅令を絡めて石島=獨島説を主張した時期なのです。

それは戦後でしたよね。

どのみち、石島=獨島であれば、出された時期からして当時
の人がそう認識しないはずはなく、さっそく勅令の効果が
現れたにもかかわらずそれを根拠にしないことは考えられないのです。

だから、1905年当時の反論のなかに勅令の影は簡単に見つかるはずです。

本当かな

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 22:39 投稿番号: [9538 / 18519]
>「于山島なる島があるとの証言」というとちょっと大げさに思いますよ。松竹島に同列にして「傍近小島」としているところを見ると別に竹島(独島)を指しているとも思えませんよ。

李奎遠は鬱陵島外周図を残していますが、そこには于山島はありませんね。

>本当かなぁ2

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/05/23 22:35 投稿番号: [9537 / 18519]
李奎遠は于山島=鬱陵島だとはじめから主張して、島影が見え
ないことからやはりそうだろうと確認したという報告ですよね。

それが、なぜか、鬱陵島以外に于山島というものがあると
確認したと半月城氏は主張してると理解してます。

さあ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 22:35 投稿番号: [9536 / 18519]
だから直接的な記録を見なければ分からないと云ってるじゃありませんか。
勅令により設置された鬱島郡の文書記録が有ったはずです。

それから、方言の研究は戦前ですから。
東京帝国大学と京城帝國大学の教授を歴任された小倉新平博士が、朝鮮各地に自ら赴き収集された成果なんですけど?

>16世紀以前の于山島

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/05/23 22:32 投稿番号: [9535 / 18519]
さっそくのお返事どうもありがとうございます。

三国時代の于山島は、鬱陵島ではないとお考えなのですか?

16世紀以前の于山島

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 22:27 投稿番号: [9534 / 18519]
愚生は16世紀以前に書かれた朝鮮王国の資料は、大幅に割り引いて考えています。
『世宗実録』や『太宗実録』或いは『東国輿地勝覧』などですが、これらは倭乱などにより多くの裏付け資料が失われ、かろうじて残存した記録の断片であり、本来ならば政承院などの日誌や各司の謄録などから要旨を抜粋したものであり、詳細な記録とは言い難いものです。

しかし一方で、詳細な記録が残されていないからと云って、そのことが于山島を詳細に知らなかったことにはなりません。
本来あるはずのより詳細な記録が失われており、その状態で断定的なことを云うのは非常に危ういことです。

勅令ですよ。

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/05/23 22:17 投稿番号: [9533 / 18519]
いやしくも、勅令たる文章の地名に解釈の余地があるなどと言うこと自体、論外だと思います。
何百年も昔のものではないのですから。

方言説が成立しなければ、勅令を根拠にすることはできません。
そして方言説が戦後の所産である以上は、1905年当時勅令の石島が獨島を指しているとは誰も思っていなかった可能性は相当高いです。

>鬱島郡庁の直接的な文書記録類を見るべきとの見解である

そういうものがあって、韓国領説に有利であれば、すでに出ているでしょうね。

本当かなぁ2

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/23 22:16 投稿番号: [9532 / 18519]
>李奎遠は結局于山島の所在を確認できずに王に報告しているが、鬱陵島の僑民から于山島なる島があるとの証言は得ているね。

これのことですか?

>松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島當之

「于山島なる島があるとの証言」というとちょっと大げさに思いますよ。松竹島に同列にして「傍近小島」としているところを見ると別に竹島(独島)を指しているとも思えませんよ。

誤認でも領土になるのですか?

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/05/23 22:10 投稿番号: [9531 / 18519]
古代の于山島と獨島が同一でないことは明らかだと思うのですが。
それとも、古代の于山島が獨島だと主張されるのでしょうか。

倭の松島が于山島だと認識したとしてもその認識が誤認で
ある以上は、領土とは言い難いと思います。
誤認でも思いこんでしまえば領土だという主張もあり得ますがね。

本当かなぁ

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/23 22:06 投稿番号: [9530 / 18519]
>そして、明治新政府はその成果を『大日本府県分割図』として表示しました。

そうでしょうか。どうも、そうとも思えませんが。なんならご提示の地図の4ページ目をご覧下さい。竹島・松島が「大日本全国略図」に含まれています。そして、この略図の竹島・松島の位置は、勝海舟の地図と同じくアルゴノートとダジュレーです。つまり、この地図は明治10年のことも明治13年の調査もあまり反映されていない資料にすぎません。

「成果」とはどうも思えません。むしろ当時の竹島・松島への領土意識と混乱を見られるにとどまるように思われます。

あれれ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 21:56 投稿番号: [9529 / 18519]
>オリジナルで竹島の付記が偶々、AHOさんの言うように「竹島と松島にまたがる領域」に書いてあるように見えても、文頭の横の竹島の説明であることは、古典を知ってる者から見れば常識よ。それも知らずに”歪曲”するんじゃないわよ。その後の官許赤水「改正日本輿地路程全図」をみても竹島の説明であることが分かるように印刷されているでしょう。

もしかして、単なるバチもんの無断コピーに過ぎない弘化三年(1846年)版を『その後の官許赤水「改正日本輿地路程全図」』と思い込んでいるわけ?

朝鮮王国の認識

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 21:46 投稿番号: [9528 / 18519]
朝鮮王国が安龍福の供述を無批判に受け入れたわけではないのです。
安龍福は1696年に再来日し、隠岐で供述し、帰国後に備辺司でも供述しましたが、朝鮮王国はその2年前である1694年に鬱陵島の調査を実施しており、鬱陵島より辰の方角三百余里(朝鮮里)に一島を確認しています。

松島と云う和名については、朝鮮王国がこの一島を明瞭に松島と認識するのは、安龍福が備辺司で「松島即子山島此亦我國地」なる供述した後のことです。
その後の公文書が安の供述とほぼ同様の記述を採用したことからも、朝鮮王国が独自の調査に基づいて鬱陵島東方三百余里の一島を「子山島」と認識していたことを裏付けるものでしょう。
また最近隠岐島で発掘された『覚書』から、安が地図で示し説明したと云われる「子山島」の説明が、距離に若干の相異があるものの、粛宗二十年(1694年)の調査結果と概ね符合すると判断しました。

事実関係を要約すると、次のようになります。
1.朝鮮王国は安龍福が再渡日する以前から独自の調査で「子山島」の存在を確認していた。
2.安龍福は再渡日するにあたって、当時の地図を隠岐島に持参している。
3.安龍福は松島は子山島であり朝鮮の地と認識し、隠岐島でその様に主張していた。
4.朝鮮王国に於ける和名の知見は安龍福から得られた。

安龍福は、再渡日する前にも隠岐島に連行されたことがあり、そのときには隠岐島到着の前日に島を目撃している。
その目撃した島を、「子山島」であると確認した後に、再渡日したのであろう。
無論、朝鮮王国は正確に「子山島」の方角を鬱陵島から辰の方角(十二方位で概ね東南東)と認識しており、現在の獨島と一致する。

>>おやおや

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/05/23 21:43 投稿番号: [9527 / 18519]
別に色はに拘らなくてもいいわよ。

大体、日本領土説を唱える方で、官許赤水「改正日本輿地路程全図」の彩色がどうだとか、こうだとか言われる方は居ない筈よ。

竹島の付記で我が国の領土と認識されていることは、明らかなんだからさ。

>オリジナルで竹島の付記が偶々、AHOさんの言うように「竹島と松島にまたがる領域」に書いてあるように見えても、文頭の横の竹島の説明であることは、古典を知ってる者から見れば常識よ。それも知らずに”歪曲”するんじゃないわよ。その後の官許赤水「改正日本輿地路程全図」をみても竹島の説明であることが分かるように印刷されているでしょう。

>おやおや

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/05/23 21:15 投稿番号: [9526 / 18519]
>それ以前の投稿で、弘化三年版はその十年前に改めて周知された、竹島諸島への渡海を厳禁する措置すら反映されていない、極めて杜撰な劣化コピー版であった事実も示したはずです。
>「改訂版」などと呼ぶのはおこがましい代物をして、「常に改訂版が出て時代の進歩に合わしていく。」などとは笑わせてくれます。

>オリジナルの官許安永版とは異なり、弘化三年(1846年)版は竹島諸島に限っては、杜撰な考証で適当に近くの隠岐と同色に彩色されただけであり、その彩色に根拠を見いだすことは出来ません。

torezojpさんも色即是空と爆笑されてたとおり、色こそが領土区分を示すという半月さんだけでなくてAHOさんまでも色に拘るのは面白いわ。

「色が付いてないからと領土外と認識していた」と言うかと思うと、「そんなら色付きもありますよ」と出されると「隠岐と同色に彩色されただけであり、その彩色に根拠を見いだすことは出来ません」ですの。まるでアア言えばjohゆうですわね。

>今回の分で気になる点があります。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』です。歴史学会はこれを日本側に有利な私撰地図とみていますが、地図の着色という点ではかえって日本側に不利な史料になっていることを付けくわえます。

今になって、これはな〜にってところですわね

教えて下さい。Am_I_AHO_1st様

投稿者: jijihuhujiji 投稿日時: 2005/05/23 20:50 投稿番号: [9525 / 18519]
貴殿が9524で書かれている内容は、
朝鮮王国が松嶋を領有していたと言えるものなのでしょうか?
領有を主張できる実態があったのでしょうか?
島があるというだけの記述ではないのでしょうか?
どの程度のものなのでしょうか?
質問ばかりですいません

竹島一件の始末

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 19:31 投稿番号: [9524 / 18519]
朝鮮王国は当時、倭語通訳を伴って三陟僉使を派遣し、確認を行っている。1694年のことだ。

その時の記録が『鬱陵島事績』であり、その時に「東望海中有一島 杳在
辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里」と松島を確認している。

前々から指摘しているように

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 19:06 投稿番号: [9523 / 18519]
勅令に基づき設置された鬱島郡庁の文書や記録を誰も確認していないのだよ。
愚生は、1900年以降の記録については、鬱島郡庁の直接的な文書記録類を見るべきとの見解である。

そうでなくては、どこまでも間接的な推論に過ぎないと思うがね。

日朝はお互い何を合意したのか

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/23 19:03 投稿番号: [9522 / 18519]
>そしてこのことは、元禄時代に遡って両国間で合意しているのであり

Okino:
元禄時代に日朝はお互い何を合意したというのですか   松島は朝鮮領としますで合意したのでしょうか

さてねえ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 18:58 投稿番号: [9521 / 18519]
底本と云われる『輿地志』が逸失していますからねえ。
更に、国王が政務を執るときに座右に置く『萬機要覧』にも松島は于山島と書いてあるわけだし、李奎遠の報告が採用されたのならば、一連の公文書に反映されるはずですね。

推測ですか

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/23 18:49 投稿番号: [9520 / 18519]
李奎遠は結局于山島の所在を確認できずに王に報告しているが、鬱陵島の僑民から于山島なる島があるとの証言は得ているね。
ただし、于山島が描かれた地図は無いだけの話。(『啓本草』参照)

>92kmも離れていれば,属島にするは不自然ですよ,

不自然ねえ。
一般的な諸島や群島、或いは列島と称される地理的概念から見てどうでしょう。
100km以上離れていても、諸島や群島と表記される例は枚挙にいとまがありませんが。

于山島,松島の根拠は

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/23 18:41 投稿番号: [9519 / 18519]
>1905年に増補版が公刊された「東国文献備考」に於いても継承されているのである。
即ち、所謂倭の松島は朝鮮の于山島であり、于山島は朝鮮の領土なのである。

Okino:
「東国文献備考」は朝鮮当局も認定する公的な物なんですかね,その中で松島は于山島であるとあるが.その根拠とするのはなんですかね
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