南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

やはりその程度か

投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/16 03:30 投稿番号: [3037 / 41162]
図星を突かれて怒る馬鹿

おやおや、鼻息が荒ーい(笑)

投稿者: beatnix_a_gogo 投稿日時: 2004/09/15 23:14 投稿番号: [3036 / 41162]
>単に失礼以外の何ものでもない。

ずいぶん、ムキになっているようですね(笑)

まとめ

投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/15 22:03 投稿番号: [3035 / 41162]
「あった派」が「なかった派」になんら本質的な反論ができず、
重箱の隅をつついて気勢をあげようとする様は、滑稽かつ惨めである。


否定派インストラクターを自称し、勝手に否定派に突っ込みを
入れて指導しようとするなどは、単に失礼以外の何ものでもない。

訂正:「朝鮮革命軍」→「朝鮮人民革命軍」

投稿者: pesiticider 投稿日時: 2004/09/15 12:59 投稿番号: [3034 / 41162]
北朝鮮では、金日成は「朝鮮革命軍」なる架空の部隊を率いて、日本軍と熾烈な戦いを繰り広げていたので、ソビエトへ行く暇などなかったと教えている

北朝鮮では、金日成は「朝鮮人民革命軍」なる架空の部隊を率いて、日本軍と熾烈な戦いを繰り広げていたので、ソビエトへ行く暇などなかったと教えている

金日成(2)

投稿者: pesiticider 投稿日時: 2004/09/15 12:46 投稿番号: [3033 / 41162]
1932年夏、「朝鮮革命軍」の駐屯地に金日成が現れ入隊を申し込む。この時「朝鮮革命軍」の幹部達は口々に、「金聖柱は高東雷小隊長らを殺害したならず者である、入隊などとんでもない、即刻捕えて処刑すべき」と主張したが、梁世捧総司令官が「降者は不殺」との「兵家」の道理を説いて、特別に武器を携行できない雑役夫としての入隊を許可した。こうして一旦は「朝鮮革命軍」に入隊を果たした金日成だったが、雑役夫としての待遇に不満だったのか、直に脱走して姿を晦ました。

1934年になると、またまた金日成は「中国共産党」傘下の「東北人民革命軍」の駐屯地に現れ、同軍「第二方面軍・第二師」に、ヒラ隊員として潜り込む。ここでは金成柱の指揮下に入ったが、1937年11月13日に金成柱が戦死すると、今度は「コミンテルン」がその後任として派遣した金一星の配下となった。最後は、その中でやや頭角を現して、少数の部下を持つようになっていた。
*金成柱(1901〜1937)
1937年6月4日の「普天堡襲撃事件」を指揮したのはこの人物、同年11月13日に戦死
*金一星(1905/6〜1945)
ソビエトで教育を受けたインテリで、1940〜1944年まで、オケアンスカヤ村で、「野営学校」の責任者をしていたが、終戦を待たず、当地で死亡

1940年12月に、「野副討伐隊」に追われてソ満国境を越え、ソビエト領内に逃げ込んだ約300人の朝鮮人ゲリラ隊があった。彼らは「ソビエト極東司令部」に収容され、来るべき「対日戦」に備えたスパイ要員として訓練されることになった。その朝鮮人ゲリラ隊の中に金一星の率いる「第二方面軍」の約20人が含まれていた。金日成もその20人の一人だった。(1945年10月初め、金日成はピョンヤンで行った演説の中で、自らそのことを明言しているので間違いなかろう)
ソビエトのハバロフスク郊外のオケアンスカヤ村滞在中、金日成は金正淑にユーラとシューラという二人の子供を生ませた。そのうちのユーラが現在の金正日であり、シューラは1947年7月にピョンヤンの池で、ユーラによって溺死させられたと伝えられている。なお一説によれば、ユーラは金策と金正淑の子だったのだが、金日成が金正淑と結婚した際、金日成の養子になったのだともいわれている。
(北朝鮮では、金日成は「朝鮮革命軍」なる架空の部隊を率いて、日本軍と熾烈な戦いを繰り広げていたので、ソビエトへ行く暇などなかったと教えているが、現在では様々な証拠から、金日成が1940年12月から1945年10月まで、ハバロフスク近辺にいたことが証明されており、ここでも明らかな歴史捏造が行われているといえよう)

さて「第二次大戦」が終了し、朝鮮半島北半分のソビエト占領地域に「ソビエト傀儡政権」を樹立することになった。その首班者を誰にするかで随分もめた。最初は戦前から「コミンテルン」メンバーだった朴憲永が候補に挙がっていたが、スチコフ「ソビエト内務省・沿海州地区司令官」が「自分の手の内で訓練した元満州遊撃隊の朝鮮人から選びたい」と強く主張したこと、及びベリヤ「第一副首相兼内相」の後押しもあって、結局「東北人民革命軍・第二軍第二師長」だった故金成柱の身代わりとして金日成(この時は、まだ金聖柱を名乗っていた)に白羽の矢が立てられることになったのである。

1945年10月の初め、金日成がピョンヤンに現れたばかりの時は、まだ自覚が足りず、自分の経歴についても本当のことを語っていた。しかし同年10月11日に「ソビエト軍政司令部」のロマネンコ少将により、「たまや」(ピョンヤンの元日本料亭)で、「伝説の英雄金日成」として紹介されてからは、覚悟を決めて以降金日成で通すようになった。
その後も、しばらくは「抗日義兵闘争の指導者金日成にしては若過ぎるな」との噂も流れていたが、そのような噂を立てる者は容赦なく粛清されたので、やがてそのような噂も消えていった。

金日成(1)

投稿者: pesiticider 投稿日時: 2004/09/15 10:59 投稿番号: [3032 / 41162]
>「金日成」について、お書きください

金日成(本名:金聖柱)は1912年4月15日、平安南道大同郡古平里南里に生まれる。父は漢方医の金亨稷、母は康盤石、兄弟は哲柱(幼児期に死亡)、英柱。
1923〜1925年まで「彰徳学校」に学ぶ、成績は18名中で中位。
1925年、母の実家から通っていた「彰徳学校」を中退し、一足先に父母が赴いていた満州の撫松に引越し、そこから樺甸の「華成義塾」に通う。
しかし「白山武士団」(金虎が指導)に関係していた父の金亨稷は、そこに入り込んできた「共産主義者」に“反動分子”のレッテルを貼られ殺害される。(北朝鮮では、金亨稷は抗日闘争中、日本の警察に捕まり、拷問されて病死したと教えているが、これは捏造)
父の死により、金日成は「華成義塾」を退学し、撫松一帯を荒らし回っていた馬骨が頭領の匪賊の一団に加わる。

ところが程なくして、馬骨一味は「正義府」が派遣した李鐘洛隊長の率いる「討伐隊」に、平定され、金日成も逮捕される。李鐘洛隊長は、その時まだ14〜15歳だった金日成をを哀れみ、処刑せず奉天に連れて帰る。その後、金日成は間島省安図の中国人の養子になり、「毓文中学」へ通ううち、1929年5月に「ML派・高麗共産青年会」に誘われ入会。しかし一月もしないうちに警察の手入れがあり、「ML派・高麗共産青年会」のメンバーは、大半が逮捕される。しかしこの時、金日成は逮捕を逃れ、李鐘洛を頼って、長春近郊の伊通県孤楡樹に赴く。実はこの頃には、李鐘洛も「共産主義者」に転向し、20〜30人の部下を率いていたのである。金日成は参士という最も下級の兵士に取り立てられ、“革命税”という名目で、農民から金品を巻き上げる業務に従事。(北朝鮮では、金日成は1929年〜1930年に「吉林監獄」に収監され、レーニンの「帝国主義論」を読んでいたと教えているが、当時の金日成にはそんなものを読むほどの能力はなく、また満州の官憲も「共産主義者」に獄中でレーニンの本を読ませるはずもなく、これも全て捏造)

1929年12月、「朝鮮革命党」の「朝鮮革命軍」が結成された際、李鐘洛のグループもその傘下に入り、李鐘洛自身も「朝鮮革命軍」の小隊長になった。しかし1930年に入ると、「朝鮮革命党」内で激しい分派闘争が起こり、左派の李鐘洛は「朝鮮革命軍」を割って出て、金光烈の率いる「東亜革命軍」と合同し、「朝鮮革命軍・吉江指揮部」を旗揚げした。この新軍の総指揮は李鐘洛が執ることになり、金光烈は軍事部門責任者となったが、金日成は依然としてヒラの一隊員に過ぎなかった。

1930年5月30日、金槿、金昌一ら「朝鮮共産党」の指導者達は、「中国共産党」入党資格を得る目的で、所謂「間島暴動」を起こす。この時は700人以上の逮捕者を出したが、その功績により「朝鮮共産党」は目出たく「中国共産党」と合同を認められた。しかし「朝鮮革命軍・吉江指揮部」は、全く蚊帳の外で、依然として「中国共産党」に認められることはなかった。
「間島暴動」後、張学良の「東北軍」は、共産主義者の徹底弾圧を決意し、即行動に出る。これを知った李鐘洛は弾圧を逃れるため、「東北軍」が共産主義者と見なしていなかった北満州の「韓国独立軍」に偽装するため、「朝鮮革命軍・吉江指揮部」を「在満朝鮮革命軍司令部」に名称変更。

しかし、李鐘洛に率いられた「在満朝鮮革命軍司令部」は、1931年1月2日、長春で押し込み強盗を働き、李鐘洛ら主だった幹部が逮捕されたことから、組織は四分五裂し、やがて自然解消となった。
食うに困って途方に暮れた金日成は、中国人の共産主義者崩れの張亜青と組み、やがて撫松近辺でならず者を集めて強盗家業に精を出すようになる。その所業があまりに酷いので、「国民府・総監」の李炳根は高東雷に「金聖柱ー張亜青一味討伐隊」を結成してこれを処断するよう指示、これに従い高東雷が10人を率いて撫松に急行すると、待ち受けていた金日成らは「討伐隊」の不意をつき皆殺しにする。

(つづく)

歴史が>日本語読めませんか?

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/15 06:09 投稿番号: [3031 / 41162]
>あなたの想像している抗日の英雄「キム・イルソン将軍」と北朝鮮の金日成は別人じゃないんでしょうか?

あなたの思われている金日成とはどのような人なのでしょうか?

当時は日本人でもいるように、当然、
同姓同名の人もいたと思いますよ。

それではあなたが言う、北朝鮮の金日成元総書記はどのような人でしたのでしょうかね?

私は同一人物だと考えていますよ。

まず、あなたのいわれる「金日成」について、お書きくださいね。

ヨコレス>日本語読めませんか?

投稿者: tttsjp 投稿日時: 2004/09/14 21:18 投稿番号: [3030 / 41162]
>それとも、金日成が日本軍として連合国軍や中国軍と戦ったとでも思われているのでしょうかね?(笑)

>抗日独立戦争の英雄でしょう、、違いましたか、、、?

あなたの想像している抗日の英雄「キム・イルソン将軍」と北朝鮮の金日成は別人じゃないんでしょうか?

>だからロクな国にならなかったんだね

投稿者: st300gakitahi 投稿日時: 2004/09/14 20:57 投稿番号: [3029 / 41162]
北はソ連の傀儡が作った国家。南は、アメリカや上海に亡命していた反日テロリストの作った国家。
独裁者同士が縄張り争いをやって、日本が自国の貧困層を犠牲にしてまで整備した社会基盤をズタボロ。

南は元日本陸軍のエリート将校が、何とか再建したが、北は極道オヤジとそのドラ息子が放蕩の限りを尽くして、貧困のどん底に。
抗日独立運動の英雄が聞いて呆れますな。

いや、

投稿者: hinekurwmono 投稿日時: 2004/09/14 20:42 投稿番号: [3028 / 41162]
  失礼しました。

  申し訳ありません。

だからロクな国にならなかったんだね

投稿者: shinoyokoku 投稿日時: 2004/09/14 19:18 投稿番号: [3027 / 41162]
>抗日独立運動をしたからこそ、現在の朝鮮、韓国があるのですよ。

日本統治でやっとまともな国になったのに、恩を仇で返す半島人。

http://norikura.fc2web.com/syokuminti1.htm#nandaimon/index.html

おまけに北も南もこっそり核実験。
世界制服でも企んでるのかい?
ホント、進歩のない民族。

誇大妄想狂? アホには自覚が無い!

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/14 17:55 投稿番号: [3026 / 41162]


おいおいこの書き込みでは義務教育は終了しているのか?疑わしいものだね!
馬鹿の相手もこれが最後だよ。
あほを相手にいつまでも遊んでいるわけにはいかないのでね。

>運動会と戦争がいつから一緒になったんだぁ

冗談かね〜マジだとしたら、教育レベルの問題ではないね、精神科の問題だろうよ。騎馬戦のつもりかね?(笑)


ロシア革命の影響で朝鮮でも社会主義思想が広まり,労働者階級が独立運動の中心的な担い手となった。1925年朝鮮共産党が結成されると同時に,朝鮮労働総同盟・朝鮮農民総同盟なども組織され,労働争議・小作争議が激化する。1926年には六・十万歳の独立運動が起こった。1927年には共産党を中心として民族統一戦線として新幹会が結成され,1929年(昭和4)には元山ストライキ・光州学生事件が起こり,1930年前後には小作争議も激増し,反帝・反封建の大衆運動が独立運動の主要形態となった。1930年代になると15年戦争に伴うファッショ的支配下で朝鮮は兵站基地化され,反帝独立運動に対する弾圧はさらに強化される。そのために独立運動は国内で困難となり,国外で活発化する。まず中国東北部で盛んになる。間島地方は早くから朝鮮人が多数移住していたので,そこを根拠として1910年代には朝鮮独立軍,1920年には洪範図・金佐鎮部隊が活躍したが,1930年代になると中国の抗日部隊と結合して闘争した。金日成らが抗日パルチザンを組織して活動し,華北・華中では朝鮮義勇軍が組織され,中国八路軍などと連携して戦っていたし,1941年に延安では金科奉らが独立同盟を組織して抗日抵抗をしていた。上海・重慶では中国国民党と結び,金九・全奎植らが三・一運動直後から上海臨時政府を組織し,1940年には光復軍を結成していた。アメリカでは李承晩らが運動をした。また国内では,解散した共産党の再建運動を行い,朴憲永らが活動し,呂運亨もまた建国同盟を結成して解放の日に備えていた。

どこの運動会のことをいっているのだろうか?
幼稚園か、、、あほ

誇大妄想狂oityantyan

投稿者: simon2000jp 投稿日時: 2004/09/14 16:05 投稿番号: [3025 / 41162]
>>>朝鮮はいつ日本と独立戦争を戦いましたか?

>抗日独立運動をしたからこそ、現在の朝鮮、韓国があるのですよ。

運動会と戦争がいつから一緒になったんだぁ。
ほとんどお前狂気だね。
こんな馬鹿な息子を作った、
お父さんお母さんが可哀想です。

悪いけどその程度のことは

投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/14 12:30 投稿番号: [3024 / 41162]
最初から考えて言っている。

あんたが言っていることは、半分正しく半分間違い。
これ以上言うとojによけいな知恵をつけることになるから
今はやめておく。


>※「馬鹿の鼻息…」とか言っても、ojさんに横槍入れるsennenさんの「鼻息」も相当荒いと思いますね。ただ、逆質問は論拠のなさを露呈するだけだと思いますよ。健闘をお祈りします。

安全な審判者の立場から偉そうに物を言うって、
とってもいやらしいって知ってる?

その論法だと、sennenさん自身も……

投稿者: beatnix_a_gogo 投稿日時: 2004/09/14 09:00 投稿番号: [3023 / 41162]
>>>>n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎

>>>これ自体が、嘘だった訳ね

>>具体的に「嘘だった」という具体的な根拠を言ってみなさい、sennen_no_sippoさん。さあさあ。

>では、逆に聞くが、

そこで逆質問しても、9/13 16:02の時点で断定したことの根拠になりませんよ 。

sennenさんはMsg3012の時点で「嘘だった訳ね」と断定したのだから、9/13 16:02 の時点でojさんの発言が「嘘」だという「根拠」を持っている必要があります。

その時点で根拠を持っていないのなら、9/13 16:02にsennenさんは「断定できないことを断定した」ことになります。
それはsennenさんのいう「断定できないことを断定したら嘘になるんだろ」論法に基づけば、「嘘」になるわけですね。

ということで、いまの時点ではsennenさんの選択肢は3つです。
・9/13 16:02の時点で断定した根拠を提示し、その根拠をもって「ojさんが嘘をついたと証明する」
・証明できないのなら、ojさんを「嘘だった訳ね」と断定した同じ論法に基づいて「sennenさん自身の発言も嘘だと認める」
・ojさんの発言に対する「嘘だった訳ね」という発言を撤回する

いずれかでしょう。

※「馬鹿の鼻息…」とか言っても、ojさんに横槍入れるsennenさんの「鼻息」も相当荒いと思いますね。ただ、逆質問は論拠のなさを露呈するだけだと思いますよ。健闘をお祈りします。

抗日独立戦争の英雄

投稿者: st300gakitahi 投稿日時: 2004/09/14 08:48 投稿番号: [3022 / 41162]
金日成。北朝鮮の教科書によると「縮地法」とかいう瞬間移動の超能力で日本軍を翻弄したんですよね。彼は、分身の術も使えたようですよし。
これは、逆立ちしたって勝てませんな(笑)

日本語読めませんか? スリカエ?

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/14 06:24 投稿番号: [3021 / 41162]
単純なお方にこのような書き込みが多いですね。

ついに、切れましたか?

おかわいそうですね。

お元気で、、、

>>朝鮮はいつ日本と独立戦争を戦いましたか?

抗日独立運動をしたからこそ、現在の朝鮮、韓国があるのですよ。

それとも、金日成が日本軍として連合国軍や中国軍と戦ったとでも思われているのでしょうかね?(笑)

抗日独立戦争の英雄でしょう、、違いましたか、、、?

>>フィリピンはいつアメリカと独立戦争を戦いましたか?

どうもいわれていることが、子供地味ていますね。

独立することは無料ではないと言っているのですが、、理解できないようです。

アホに理解を求めるほど間抜けではありませんよ。

スリカエとは意味をご存知か?
蚊の一種と間違えてはいませんか?
あ〜〜〜ほ〜〜〜と言いたくなりますね。

去年の話、覚えてる?

投稿者: kokoroikjtaj 投稿日時: 2004/09/14 06:07 投稿番号: [3020 / 41162]
基地害ジジイみつぎ・のりおはnorth072001jpの名前で軍事トピに錯乱書き込みをし、コケにされて逃げ出したね。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835559&tid=a4ja4sa4ga4bbcalda53a1bca5ja1bc&sid=1835559&mid=6584

north072001jpを検索すればジジイの病気は一目瞭然。
特に軍事トピでの屈辱的な扱われ方は秀逸だね。
オマエ、恥ずかしくないの?

根拠を言ってあげるね、鼻息君

投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/14 00:09 投稿番号: [3019 / 41162]
>>>n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎

>>これ自体が、嘘だった訳ね

>具体的に「嘘だった」という具体的な根拠を言ってみなさい、sennen_no_sippoさん。さあさあ。


馬鹿の鼻息はいつも荒い(笑)

では、逆に聞くが、当時南京に朝鮮兵は、いなかったのかい?
それを証明できない限り、「いた」という
n_o_i_s_e_m_a_nさんの主張を「嘘」と断定できないはずだが?(笑)
断定できなことを断定したら嘘になるんだろ?
それが、あんたの理屈だからな(笑)



>>結局、嘘つきの妄想野郎はoj_simpsan か

>具体的に根拠を言ってみなさい、sennen_no_sippoさん。


ま、わかりやすいのは、これだろ↓。最初に言った
ことだけでも十分だけどな。(笑)

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9 oa29ta4n13&sid=1143582&mid=3015

n_o_i_s_e_m_a_nさんの次の投稿を良く読んで
顔を真っ赤にするように(笑)

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9 oa29ta4n13&sid=1143582&mid=3010

関羽ではなく項羽では?

投稿者: etranger20012001 投稿日時: 2004/09/13 22:06 投稿番号: [3018 / 41162]
関羽は、後漢末期の武将です。

降伏した秦の兵士を生き埋めにした。いまから2000年前以上の話しだし、大げさな話しの好きな中国人の事なのでどこまで本当やら。史記には、他にも似たような数の話しもある。

根拠を言いな、sennen_no_sippoよ

投稿者: oj_simpsan 投稿日時: 2004/09/13 21:46 投稿番号: [3017 / 41162]
>>n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎
>これ自体が、嘘だった訳ね

具体的に「嘘だった」という具体的な根拠を言ってみなさい、sennen_no_sippoさん。さあさあ。



>結局、嘘つきの妄想野郎はoj_simpsan か

具体的に根拠を言ってみなさい、sennen_no_sippoさん。

根拠が言えないのなら、sennen_no_sippoはデマ野郎という結論でよろしいな?

本当にそうです。

投稿者: hinekurwmono 投稿日時: 2004/09/13 21:36 投稿番号: [3016 / 41162]
  例えば、万人杭は劉邦と関羽の歴史か   ら在りますね。

  関羽が劉邦の軍を生き埋めにした数は
  確か30万人とかあった様に記憶した   が。

  コピペ出来なくて済みませんが。

  私は古代より何ら価値観が変わらない   まま中国は来ていると思っています。

  未だに中華野郎事大主義の国。

  嫌な国としか思えません。

n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎(3

投稿者: oj_simpsan 投稿日時: 2004/09/13 21:36 投稿番号: [3015 / 41162]
>第20師団の歩兵大隊は南京に行きましたね。


南京攻略戦に第20師団は参加していない。
n_o_i_s_e_m_a_nよ、なんでそのような真っ赤なウソをつくの(笑)


↑第20師団の件、「n_o_i_s_e_m_a_nの嘘」第3号として数えておこう(笑)

n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎(続

投稿者: oj_simpsan 投稿日時: 2004/09/13 21:35 投稿番号: [3014 / 41162]
>>>現実問題として、私が恐れを抱くのは、この占領された南京に日本兵の恰好をした朝鮮兵がいたことです。

で、史料の提示を求めたら、

>この資料は
>「朝鮮人が南京攻略戦に従軍していた。」(しかも志願して)
>ということを示したものです

何   す   り   替   え   て   る   の   ?
お前、「南京にいた」と書いたのだろうが。

君の提示した史料から確認できたことは、

【南京攻略戦に従軍したことが確認できる朝鮮兵の数=1名】

ということだけ。
しかもこの人は南京に入る前に負傷しているから

【占領された南京に入ったことが確認できる朝鮮兵の数=0】

だよな。

1名も確認できていないのに、何が「朝鮮人がいた」だ、この嘘吐きの妄想野郎。


>ぱいかる号の記事で分かるとおり、
しっかり「動員されている」ということです。

ばいかる号の記事のどこに
朝   鮮   人   が   動   員   さ   れ   た   と書かれているんだよ(嘲笑)
志願した朝鮮人通訳(南京に入る前に負傷)が1名いたと書いてあるだけだ(笑)

↑ばいかる号の件、「n_o_i_s_e_m_a_nの嘘」第2号として数えておこう(笑)

この蛮行は、

投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/13 19:52 投稿番号: [3013 / 41162]
中国が、南京大虐殺の証拠として出してくる写真や
万人杭の残虐さとそっくりだな(笑)

【チベット120万人大虐殺 。まさにホロコースト】
------------------------------------------------------------------------

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/9947/travels/tibet/abouttibet.html

1959年の「ラサ決起」の後、中国側は叛徒の徹底的な弾圧に乗り出した。この前後に行われた虐殺行為については国際法律家委員会のメンバーが現地人の証言をまとめ、「チベットと中華人民共和国」というレポートを出している。
中国がまず標的にしたのは「富裕階級」「地主」「村などのリーダー」だった。それらの人々は公衆の面前で銃殺されたり、焼き殺されたりしたという。「財産を公開しない」という理由である者は溺死させられ、ある者は生き埋めにされた。
密告制度が導入され、人民裁判、つまり、公衆の面前で個人を卑しめたり、その罪状を糾弾させる行為が行われた。これにより、子供は親の罪状を、親は子供の罪状をあげつらわなければならなくなった。子供に自分の親を射殺させるなどの行為も行われた。
--------------------------------------------------------------------------------
中国は、3階級の処刑が終わると、今度は僧侶の処刑と寺院の破壊に着手した。抵抗した僧侶らのうち、ある者は縄で絞め殺された。その際に、縄で首をしめる道具として仏像が使われたという。
腹を切り裂く、撲殺する、糞尿を食わせる、生きたまま焼き殺したり生体解剖を行ったりと、残虐を極めた行為で次々と僧侶たちを処刑していく。経典はマットレスやトイレットペーパーに使われた。
--------------------------------------------------------------------------------
中国が殺したのは富裕階級と僧侶だけではない。
新婚の女性は産婦人科で知らぬうちに不妊手術を受けさせられた。「検査」と称し強制的に連行された男性は、生殖器に何らかの手術を施され、それ以降、性的欲求をまったく感じなくなったという。
子供たちは「中国本土で教育を受けさせる」という名目で連れ去られたまま、二度と戻ってくることはなかった。
--------------------------------------------------------------------------------
チベット亡命政府の発表によると、「解放」の美名のもとに中国によって殺されたチベット人は1950年から84年までの間で120万人以上。チベット人口600万人のうち、実に5分の1以上になる。内訳は以下の通り。

・戦いや蜂起によるもの・・・・・・・・43万2705人
・餓死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34万2970人
・獄死、強制労働収容所での死・・17万3221人
・処刑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15万6758人
・拷問による死・・・・・・・・・・・・・・・・9万2731人
・自殺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9002人
合計・・・120万7387人

中国側は決してこの数字を認めようとしないが、虐殺は現在も続いている。
--------------------------------------------------------------------------------
【参考文献】「チベット入門」(ペマ・ギャルポ著)、「チベット、わが祖国」(ダライラマ著)、「ダライラマ自伝」(ダライラマ著)、「地球の歩き方」(ダイアモンド社)、「旅行人ノート・チベット」

結局、嘘つきの妄想野郎はoj_simpsan か

投稿者: sennen_no_sippo 投稿日時: 2004/09/13 16:02 投稿番号: [3012 / 41162]
>n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎


これ自体が、嘘だった訳ね。

>スリカエ

投稿者: curry_flavor1943 投稿日時: 2004/09/13 15:13 投稿番号: [3011 / 41162]
親日派の存在を否定して反日派の主張だけ取り上げても
平行線になるだけだと思いませんか?

訂正

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/13 12:18 投稿番号: [3010 / 41162]
>第20師団の歩兵大隊は南京に行きましたね。

すいません。「二十連隊」でした。

金錫源陸軍少佐は

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/13 11:43 投稿番号: [3009 / 41162]
>丁度その頃金錫源陸軍少佐は、千名の日本人部下を指揮する大隊長として、支那の大軍を、山西省で木っ端微塵に撃破し、朝鮮人として始めて「金鵄勲章功三級」が授与された


http://www.melma.com/mag/52/m00056952/a00000015.html

金少佐の活躍に朝鮮の人々は熱狂した。
  それは「日本軍を指揮し、朝鮮としては開国以来宗主国と仰いで
  いた中国兵をやっつけた」からだ。


http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/syokuminchisyugi1.html
「第20師団の歩兵大隊長金錫源少佐のように」

第20師団の歩兵大隊は南京に行きましたね。

この人はかなりの人物のようです。ただ勇猛さがどのように発揮されたか。その他の従軍兵はどうだったかはなんともいえません。

当時の朝鮮人志願兵の状況

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/13 11:21 投稿番号: [3008 / 41162]
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/sakushu.html

『4.熱狂的な志願兵の応募

  1937年支那事変の勃発により、内地から戦場に出動する日本軍の大部分が、朝鮮半島を汽車で通過した。それに伴い、沿線の主要駅での湯茶の接待や、慰問品の受け渡しを、朝鮮人も日本人と一緒に行った。各駅は連日連夜、万歳の声が轟くようになった。軍隊に通訳その他で随伴していく朝鮮人の軍属も少なくなく、送る者、送られる者の美談は数知れず、涙と笑いの交歓が何ヶ月も続いたのである。

丁度その頃金錫源陸軍少佐は、千名の日本人部下を指揮する大隊長として、支那の大軍を、山西省で木っ端微塵に撃破し、朝鮮人として始めて「金鵄勲章功三級」が授与された。少佐クラスでしかも生存者での「功三級」は全く破格でした。このビッグニュースは朝鮮の新聞に連日、「金部隊長奮戦記」「戦塵余談」等がでかでかと紹介された。日本兵を率いて、支那を撃つというのは、朝鮮人にとって夢みたいな事だったのである。

支那派遣軍を駅で送る歓声と旗の波、それに金大隊長の賛歌で、自然に朝鮮人のボルテージが上がった。それと共に朝鮮人は自信と誇りを持ち、内鮮一体の空気が強まった。民族主義者尹致昊、天道教の崔麟等の大物が朝鮮神宮に参拝し、戦勝祈願祭の式典をあげ、総督府のお偉方を驚かされたのもこの頃であった。このような雰囲気で1938年実施された志願兵制は、400人の採用に対し、3千人も応募があった。この倍率は年々増加し、1942年には62倍を超えたのである。翌1943年の応募者数は30万人で、恐らく朝鮮人男子の18才から22才位迄の健康な青年の大部分が応募したと思われる数字です。(当時の人口約2400万)これは現在の日韓双方の青年は信じられない事だと思います。  

後の駐日韓国大使、崔慶禄も志願兵の一人であった。彼は陸士への合格が決まっていたにも関わらず、所属部隊がニューギニアへ出征が決まったとき、「学校で何年も過ごしていては、第一線でご奉公の時を失する」と言い、第一線へ出征したのである。兵役を嫌った人がいたであろうことは否定しないが、このように日本人と同じように、自ら進んで兵役についた人も多数いたのである。これらの状況から朝鮮にも1944年徴兵制が敷かれたのである。
徴兵制を敷くことは朝鮮人の忠誠心を信じなければ出来ないことである。反日的なムードの中では、彼らに持たせた銃の筒先がいつ自分に向けられるか分からない。

朝鮮人指導者は相次いで朝鮮人青年の奮起をうながした。各指導者の共通した主張として、朱燿翰(後の韓国国会議員)の「ルーズベルトよ、答えよ」と題する演説の一部を紹介する。
「正義の仮面をかぶり、搾取と陰謀をほしいままにしている、世界の放火魔、世界第一の偽善君子、アメリカ大統領ルーズベルト君。君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、人種差別撤廃文面を挿入しようとした時、これに反対、削除したのはどこの国か。黒人と東洋人を差別待遇して、同じ席につかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りを、あたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国の者であったか。しかし君らの悪運は最早尽きた。一億日本同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦の勇士とならん事を誓う!」と朝鮮青年に訴えましたが、アパルトヘイトに言及しているのが共通した特色である。』



志願制が”正式に”制度化されたのは、第二次南京事件以後とされる1938年ですが、それまでもせっかくの志願者を断ったわけではありません。

日本軍が志願制を導入した経緯は、日本の独断などではなく
「朝鮮人の自発的な志願」に押されてのことだったのです。
(正規兵になれずとも軍属としてでも「ともに戦おう」とする朝鮮人は多かったということです。)

南京攻略戦に従軍していたということです

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/13 09:42 投稿番号: [3007 / 41162]
> n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎

この言い回しは左翼(特に朝鮮系)の人によくあるやり方ですね。

>つまり南京事件時には朝鮮人の動員はなかったし、志願兵制度もない。

ぱいかる号の記事で分かるとおり、
しっかり「動員されている」ということです。

>確認できるのは、たった1名。しかもその1名も南京に入る前の11月22日負傷だから、占領された南京に入っていない

この資料は
「朝鮮人が南京攻略戦に従軍していた。」(しかも志願して)
ということを示したものです

日本語読めませんか? それともスリカエ?

投稿者: fighter8823 投稿日時: 2004/09/13 09:04 投稿番号: [3006 / 41162]
>>朝鮮はいつ日本と独立戦争を戦いましたか?

>>フィリピンはいつアメリカと独立戦争を戦いましたか?

>>スリランカ(セイロン)はいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?

>>ブルネイはいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?


1平方キロメートルを1000平方メートルと換算するようなアタマの持ち主にはこんな単純な質問も理解出来ないのかな?(笑)


http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9 oa29ta4obbvbcb&sid=1143582&mid=5981

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9 oa29ta4obbvbcb&sid=1143582&mid=5982

感謝。

投稿者: etranger20012001 投稿日時: 2004/09/13 00:13 投稿番号: [3005 / 41162]
前々からアジア諸国の歴史の教科書に興味がありましたが、なかなか見る機会がないでしたが、その一部をのせてくださったことに心より感謝します。

しかし、なぜそれらの国が独立戦争をしたかは理解出来ません。独立戦争の概念が人それぞれ違うのでしょうかね?

それはおいといて、歴史の教科書はその国の立場によって書かれるモノと思います。独裁者がいれば独裁者の都合のいい歴史の教科書なると思います。アジア諸国の場合もその国の指導者の意識を反映した歴史の教科書になると思っています。

あなたの言い方なら、その国の人々はそれを代々語り継ぐと言うことになるんでしょうね。

本題です。あなたは、これらの教科書に書いてあることがすべて事実とお思いなんでしょうか?あなたは、私と違って歴史に詳しいから、これらを事実と認識して掲載しているのでしょうね。私は、無知で疑い深いで、歴史の教科書を信じる気にはならない。

ところで、アジア諸国の歴史の教科書にはヨーロッパの植民地支配はどのようにかかれていますか?

日本語読めませんか? それともスリカエ?

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 14:38 投稿番号: [3004 / 41162]
アホか?

だろね!

タイ、インドネシアと日本の関係の真相

投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/12 11:58 投稿番号: [3003 / 41162]
私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです
http://www.geocities.co.jp/Bookend/9304/daitoua.htm


アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

  日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)


ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)

  我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。


ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)

  日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。(中略)   インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。


ククリックド・プラモード   (タイ国元首相   )

「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )

インドネシア独立に深く関わった日本の真相

投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/12 11:44 投稿番号: [3002 / 41162]
インドネシアのムルデカ(独立)広場中央に聳える高さ137mの独立記念塔。この地下1階に、インドネシアの「三種の神器」(独立宣言書・独立時に掲揚された国旗・国章)が奉納されています。「第一の神器」は、スカルノ(初代大統領)とハッタがサインした独立宣言書なのですが、ここに記された日付は「05年8月17日」。インドネシアが独立したのは西暦1949年。なのに、日付に記された年は「05」年。実は、この「05」年は、当時、「昭和」と共に日本で使われていた「皇紀」(神武天皇の即位した紀元前660年を元年とする)で、「2605」年が略されたものなのです。


―――――――――――――――――――
  結論を言えば、インドネシア人は、近年の歴史において、初めて自分たち自身の将校を擁した、自分たち自身の軍事組織――日本人指導官によって監督されてはいたが――の中で戦闘員として訓練されたのである。なるほど、軍事訓練を受けることそれ自体は新しいことではない。それまでにも、何千名ものインドネシア人が戦前の蘭印軍に勤務していたのである。しかしハッタの次ぎの指摘のように、これまでとの違いが1つあった。即ち、蘭印軍の兵士は、国内の敵に対して戦うべく訓練された“傭兵”であったのに対し、義勇軍兵士は、外敵に対して戦うべく訓練された“祖国防衛兵”であった。ジャワ義勇軍やスマトラ義勇軍のインドネシア兵士は、ただ単に戦うために訓練され武装化されたのではない。新しい理論的根拠をも注ぎ込まれていた。即ち、彼らの祖国インドネシアを守るために戦うということである。ナスティオン将軍が適切にも観察しているように、防衛義勇軍(ペタ)には民族主義的な基礎を与えられていたのである。そして、その後、より多くの新兵が訓練され、さらに多くの大団が設立され、インドネシア人の軍事的能力が開発され、自信が強まるにつれて、その基礎はさらに強化されていったのである。

ジョージ・S・カナヘレ著『日本軍政とインドネシア独立』
―――――――――――――――――――


2605年8月17日インドネシア独立秘話
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/indonesia.html
(一部抜粋)
さて、ジャワを占領した日本軍はこの地で一体何をしたのでしょうか?   第一になされた事は「民心の安定」でした。それは、今村司令官の発した「布告第1号」に見る事が出来ます。

1.日本人とインドネシア人は同祖同族である
2.日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
3.同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する

当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものでした。なぜなら、欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。ところが日本軍は開口一番、「共存共栄」を唱えたのですから、住民が驚いたのも無理はありません。しかし、今村司令官の布告は終戦まで、決して破られる事はなかったのです。

タイと日本は良き関係だった

投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/12 11:33 投稿番号: [3001 / 41162]
日本軍の対タイ進駐作戦

坪上大使は、日本軍のタイ領侵犯はやむをえなかった次第を申し述べた後、逼迫した国際情勢と日本軍のタイ領通過の必要性及び即時停戦処置を要する理由を説明し、(1)軍隊通過の承認   (2)防守同盟   (3)攻守同盟   (4)三国同盟加入   の4条件の中のいずれかをタイ政府と協定の上条約を締結したい旨申し入れた。これに対しタイ国政府側は単純な軍隊通過協定を選ぶとして、12月8日正午頃、単なる軍隊の通過のみの協定が成立、午後3時ごろ正式に調印された。

(中略)

当初、日タイ間には日本軍通過の承認に関する協定だけであったが、その後、真珠湾空襲におけるアメリカ側の甚大な被害、南太平洋全域にわたる日本軍の攻撃の成功、さらに12月10日英戦艦プリンス・オブ・ウェールス及びレパルスが日本軍により撃沈されるなどの戦況から、日タイ間の交渉は急速に進み、12月10日夜半、攻守同盟決定、12月11日11時攻守同盟仮調印、日タイ同盟条約の正式調印は1941年12月21日に宮殿内の寺院で行われた。更に、この日タイ同盟条約に基づく日タイ共同作戦に関する協定は1942年1月3日に成立している。

主な引用参考文献:
・   『マレー進攻作戦』
(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、1969年12月)

http://www.mekong.ne.jp/directory/military/thaishinchu.htm

日本語読めませんか? それともスリカエ?

投稿者: fighter8823 投稿日時: 2004/09/12 08:05 投稿番号: [3000 / 41162]
【は?】
2004/ 9/11 7:43

メッセージ: 2979 / 2999

投稿者: fighter8823

朝鮮はいつ日本と独立戦争を戦いましたか?

フィリピンはいつアメリカと独立戦争を戦いましたか?

スリランカ(セイロン)はいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?

ブルネイはいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?

アジアの教科書では、、ね 5

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:41 投稿番号: [2999 / 41162]
あなた方が戦時中に行った日本軍の蛮行をいかに正当化しようとしても、現地で被害を受けた民衆はその被害の大きさを忘れてはいませんよ。

永遠にその行為は語り次がれて行くでしょう。

日本人は過去を正当化するのではなく、真摯に見つめ、認める勇気を持つ、必要があるのではないでしょうかね?

諸国の政治家が戦後、外交辞令とも受けとれるようでもあり、また、歴史学者が人ごとのように述べるがごとき、歴史認識を披露していますが、その中身について直接の被害者を代弁した意識とはかけ離れたモノであると考えるべきでしょう。

結果良ければ全てよし、とはならないでしょうね。

美辞絶句に踊らされることなく、しっかりと加害責任を認識すべきだと思います。

だからと言って、戦後生まれが実行犯でも、意識の共有者でも無いのですから、過去の戦争に対しての責任が在るわけはありませんよね、しかし、知らない、しらなかなったでは通りませんよね。

まして、ねつ造、歪曲することは許せませんよね、、と思います。、、、ね

もっと   アジアの教科書を読みたいですか?

紹介しましょうか、、、ね。

インドネシアの教科書では、、ね4

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:29 投稿番号: [2998 / 41162]
インドネシア民族に対する日本の圧制は実に非人間的なものであった。
自然資源と労働力の搾取は徹底的に行われた、民衆はわが国の歴史に例のない苦難を体験した。
指導者たちは民衆の立場に立って闘い続け独立を達成sるために民衆の闘争精神を育てたのである。民族主義者たちは表立っては日本軍政府と対立はしなかった、それは大変危険であり、闘争を有利にはしなかったからである。日本軍は抵抗する者は誰であろうと遠慮せず殺した。
地下活動を行う。
政党が解散させられた後、指導者達は地下活動を行った、勢力を結集し民族団結の地下活動を続けた。
反乱がインドネシア各地で勃発した。
1. アチェにおける反乱=1942年11月10日指導者はシャリル(日本軍に狙撃される)
2. 西部ジャワのシンガパルナでの反乱1944年2月25日指導者はザエナル・ムスタファ(逮捕   死刑)
3. 西部ジャワ   インドラマユでの反乱   カプロガン村の全民衆が蜂起他の村村に飛び火する。(日本軍の鎮圧)
4. 西部ジャワ   ロッベヌルでの反乱日本の残酷な行為を座視する事が出来ず武器を取って抵抗した、マドリャリアスの指導による。
5. 西部カリマンタン、ポンティアナックの反乱1943年10月16日に日本に対する反乱を計画する秘密会議が開かれた。がしかし、事前に情報が漏れ、多くの人々が逮捕され,殺害された。
6. 郷土防衛義勇軍による反乱
aフリタルにおける郷土防衛軍の反乱ショウーダンチュ(小隊長)のスプリヤディに指導された100人の兵士はカウィの山に立てこもり抵抗し、その後投降、逮捕、死刑に処せられた。
bアチェにおけるトゥウクハミドの反乱   ギユー軍の2小隊を指揮して日本に抵抗した。ハミドの家族全員が人質となりやむなく投降した。
cパンドラにおけるギユー軍兵士の反乱   日本軍が鎮圧
dチラチャップのグミリールでの郷土防衛義勇軍の反乱
この反乱はかなり強烈なものであった、スディルマン将軍、後にインドネシア独立後国軍大将となる

これらの反乱はいずれも日本軍に鎮圧されてはいるが、成果は、連合国軍の攻撃と戦っていた日本軍の力を削いだ事にある。

5へ続く
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)