金日成(1)
投稿者: pesiticider 投稿日時: 2004/09/15 10:59 投稿番号: [3032 / 41162]
>「金日成」について、お書きください
金日成(本名:金聖柱)は1912年4月15日、平安南道大同郡古平里南里に生まれる。父は漢方医の金亨稷、母は康盤石、兄弟は哲柱(幼児期に死亡)、英柱。
1923〜1925年まで「彰徳学校」に学ぶ、成績は18名中で中位。
1925年、母の実家から通っていた「彰徳学校」を中退し、一足先に父母が赴いていた満州の撫松に引越し、そこから樺甸の「華成義塾」に通う。
しかし「白山武士団」(金虎が指導)に関係していた父の金亨稷は、そこに入り込んできた「共産主義者」に“反動分子”のレッテルを貼られ殺害される。(北朝鮮では、金亨稷は抗日闘争中、日本の警察に捕まり、拷問されて病死したと教えているが、これは捏造)
父の死により、金日成は「華成義塾」を退学し、撫松一帯を荒らし回っていた馬骨が頭領の匪賊の一団に加わる。
ところが程なくして、馬骨一味は「正義府」が派遣した李鐘洛隊長の率いる「討伐隊」に、平定され、金日成も逮捕される。李鐘洛隊長は、その時まだ14〜15歳だった金日成をを哀れみ、処刑せず奉天に連れて帰る。その後、金日成は間島省安図の中国人の養子になり、「毓文中学」へ通ううち、1929年5月に「ML派・高麗共産青年会」に誘われ入会。しかし一月もしないうちに警察の手入れがあり、「ML派・高麗共産青年会」のメンバーは、大半が逮捕される。しかしこの時、金日成は逮捕を逃れ、李鐘洛を頼って、長春近郊の伊通県孤楡樹に赴く。実はこの頃には、李鐘洛も「共産主義者」に転向し、20〜30人の部下を率いていたのである。金日成は参士という最も下級の兵士に取り立てられ、“革命税”という名目で、農民から金品を巻き上げる業務に従事。(北朝鮮では、金日成は1929年〜1930年に「吉林監獄」に収監され、レーニンの「帝国主義論」を読んでいたと教えているが、当時の金日成にはそんなものを読むほどの能力はなく、また満州の官憲も「共産主義者」に獄中でレーニンの本を読ませるはずもなく、これも全て捏造)
1929年12月、「朝鮮革命党」の「朝鮮革命軍」が結成された際、李鐘洛のグループもその傘下に入り、李鐘洛自身も「朝鮮革命軍」の小隊長になった。しかし1930年に入ると、「朝鮮革命党」内で激しい分派闘争が起こり、左派の李鐘洛は「朝鮮革命軍」を割って出て、金光烈の率いる「東亜革命軍」と合同し、「朝鮮革命軍・吉江指揮部」を旗揚げした。この新軍の総指揮は李鐘洛が執ることになり、金光烈は軍事部門責任者となったが、金日成は依然としてヒラの一隊員に過ぎなかった。
1930年5月30日、金槿、金昌一ら「朝鮮共産党」の指導者達は、「中国共産党」入党資格を得る目的で、所謂「間島暴動」を起こす。この時は700人以上の逮捕者を出したが、その功績により「朝鮮共産党」は目出たく「中国共産党」と合同を認められた。しかし「朝鮮革命軍・吉江指揮部」は、全く蚊帳の外で、依然として「中国共産党」に認められることはなかった。
「間島暴動」後、張学良の「東北軍」は、共産主義者の徹底弾圧を決意し、即行動に出る。これを知った李鐘洛は弾圧を逃れるため、「東北軍」が共産主義者と見なしていなかった北満州の「韓国独立軍」に偽装するため、「朝鮮革命軍・吉江指揮部」を「在満朝鮮革命軍司令部」に名称変更。
しかし、李鐘洛に率いられた「在満朝鮮革命軍司令部」は、1931年1月2日、長春で押し込み強盗を働き、李鐘洛ら主だった幹部が逮捕されたことから、組織は四分五裂し、やがて自然解消となった。
食うに困って途方に暮れた金日成は、中国人の共産主義者崩れの張亜青と組み、やがて撫松近辺でならず者を集めて強盗家業に精を出すようになる。その所業があまりに酷いので、「国民府・総監」の李炳根は高東雷に「金聖柱ー張亜青一味討伐隊」を結成してこれを処断するよう指示、これに従い高東雷が10人を率いて撫松に急行すると、待ち受けていた金日成らは「討伐隊」の不意をつき皆殺しにする。
(つづく)
金日成(本名:金聖柱)は1912年4月15日、平安南道大同郡古平里南里に生まれる。父は漢方医の金亨稷、母は康盤石、兄弟は哲柱(幼児期に死亡)、英柱。
1923〜1925年まで「彰徳学校」に学ぶ、成績は18名中で中位。
1925年、母の実家から通っていた「彰徳学校」を中退し、一足先に父母が赴いていた満州の撫松に引越し、そこから樺甸の「華成義塾」に通う。
しかし「白山武士団」(金虎が指導)に関係していた父の金亨稷は、そこに入り込んできた「共産主義者」に“反動分子”のレッテルを貼られ殺害される。(北朝鮮では、金亨稷は抗日闘争中、日本の警察に捕まり、拷問されて病死したと教えているが、これは捏造)
父の死により、金日成は「華成義塾」を退学し、撫松一帯を荒らし回っていた馬骨が頭領の匪賊の一団に加わる。
ところが程なくして、馬骨一味は「正義府」が派遣した李鐘洛隊長の率いる「討伐隊」に、平定され、金日成も逮捕される。李鐘洛隊長は、その時まだ14〜15歳だった金日成をを哀れみ、処刑せず奉天に連れて帰る。その後、金日成は間島省安図の中国人の養子になり、「毓文中学」へ通ううち、1929年5月に「ML派・高麗共産青年会」に誘われ入会。しかし一月もしないうちに警察の手入れがあり、「ML派・高麗共産青年会」のメンバーは、大半が逮捕される。しかしこの時、金日成は逮捕を逃れ、李鐘洛を頼って、長春近郊の伊通県孤楡樹に赴く。実はこの頃には、李鐘洛も「共産主義者」に転向し、20〜30人の部下を率いていたのである。金日成は参士という最も下級の兵士に取り立てられ、“革命税”という名目で、農民から金品を巻き上げる業務に従事。(北朝鮮では、金日成は1929年〜1930年に「吉林監獄」に収監され、レーニンの「帝国主義論」を読んでいたと教えているが、当時の金日成にはそんなものを読むほどの能力はなく、また満州の官憲も「共産主義者」に獄中でレーニンの本を読ませるはずもなく、これも全て捏造)
1929年12月、「朝鮮革命党」の「朝鮮革命軍」が結成された際、李鐘洛のグループもその傘下に入り、李鐘洛自身も「朝鮮革命軍」の小隊長になった。しかし1930年に入ると、「朝鮮革命党」内で激しい分派闘争が起こり、左派の李鐘洛は「朝鮮革命軍」を割って出て、金光烈の率いる「東亜革命軍」と合同し、「朝鮮革命軍・吉江指揮部」を旗揚げした。この新軍の総指揮は李鐘洛が執ることになり、金光烈は軍事部門責任者となったが、金日成は依然としてヒラの一隊員に過ぎなかった。
1930年5月30日、金槿、金昌一ら「朝鮮共産党」の指導者達は、「中国共産党」入党資格を得る目的で、所謂「間島暴動」を起こす。この時は700人以上の逮捕者を出したが、その功績により「朝鮮共産党」は目出たく「中国共産党」と合同を認められた。しかし「朝鮮革命軍・吉江指揮部」は、全く蚊帳の外で、依然として「中国共産党」に認められることはなかった。
「間島暴動」後、張学良の「東北軍」は、共産主義者の徹底弾圧を決意し、即行動に出る。これを知った李鐘洛は弾圧を逃れるため、「東北軍」が共産主義者と見なしていなかった北満州の「韓国独立軍」に偽装するため、「朝鮮革命軍・吉江指揮部」を「在満朝鮮革命軍司令部」に名称変更。
しかし、李鐘洛に率いられた「在満朝鮮革命軍司令部」は、1931年1月2日、長春で押し込み強盗を働き、李鐘洛ら主だった幹部が逮捕されたことから、組織は四分五裂し、やがて自然解消となった。
食うに困って途方に暮れた金日成は、中国人の共産主義者崩れの張亜青と組み、やがて撫松近辺でならず者を集めて強盗家業に精を出すようになる。その所業があまりに酷いので、「国民府・総監」の李炳根は高東雷に「金聖柱ー張亜青一味討伐隊」を結成してこれを処断するよう指示、これに従い高東雷が10人を率いて撫松に急行すると、待ち受けていた金日成らは「討伐隊」の不意をつき皆殺しにする。
(つづく)
これは メッセージ 3031 (oityantyan さん)への返信です.