金日成(2)
投稿者: pesiticider 投稿日時: 2004/09/15 12:46 投稿番号: [3033 / 41162]
1932年夏、「朝鮮革命軍」の駐屯地に金日成が現れ入隊を申し込む。この時「朝鮮革命軍」の幹部達は口々に、「金聖柱は高東雷小隊長らを殺害したならず者である、入隊などとんでもない、即刻捕えて処刑すべき」と主張したが、梁世捧総司令官が「降者は不殺」との「兵家」の道理を説いて、特別に武器を携行できない雑役夫としての入隊を許可した。こうして一旦は「朝鮮革命軍」に入隊を果たした金日成だったが、雑役夫としての待遇に不満だったのか、直に脱走して姿を晦ました。
1934年になると、またまた金日成は「中国共産党」傘下の「東北人民革命軍」の駐屯地に現れ、同軍「第二方面軍・第二師」に、ヒラ隊員として潜り込む。ここでは金成柱の指揮下に入ったが、1937年11月13日に金成柱が戦死すると、今度は「コミンテルン」がその後任として派遣した金一星の配下となった。最後は、その中でやや頭角を現して、少数の部下を持つようになっていた。
*金成柱(1901〜1937)
1937年6月4日の「普天堡襲撃事件」を指揮したのはこの人物、同年11月13日に戦死
*金一星(1905/6〜1945)
ソビエトで教育を受けたインテリで、1940〜1944年まで、オケアンスカヤ村で、「野営学校」の責任者をしていたが、終戦を待たず、当地で死亡
1940年12月に、「野副討伐隊」に追われてソ満国境を越え、ソビエト領内に逃げ込んだ約300人の朝鮮人ゲリラ隊があった。彼らは「ソビエト極東司令部」に収容され、来るべき「対日戦」に備えたスパイ要員として訓練されることになった。その朝鮮人ゲリラ隊の中に金一星の率いる「第二方面軍」の約20人が含まれていた。金日成もその20人の一人だった。(1945年10月初め、金日成はピョンヤンで行った演説の中で、自らそのことを明言しているので間違いなかろう)
ソビエトのハバロフスク郊外のオケアンスカヤ村滞在中、金日成は金正淑にユーラとシューラという二人の子供を生ませた。そのうちのユーラが現在の金正日であり、シューラは1947年7月にピョンヤンの池で、ユーラによって溺死させられたと伝えられている。なお一説によれば、ユーラは金策と金正淑の子だったのだが、金日成が金正淑と結婚した際、金日成の養子になったのだともいわれている。
(北朝鮮では、金日成は「朝鮮革命軍」なる架空の部隊を率いて、日本軍と熾烈な戦いを繰り広げていたので、ソビエトへ行く暇などなかったと教えているが、現在では様々な証拠から、金日成が1940年12月から1945年10月まで、ハバロフスク近辺にいたことが証明されており、ここでも明らかな歴史捏造が行われているといえよう)
さて「第二次大戦」が終了し、朝鮮半島北半分のソビエト占領地域に「ソビエト傀儡政権」を樹立することになった。その首班者を誰にするかで随分もめた。最初は戦前から「コミンテルン」メンバーだった朴憲永が候補に挙がっていたが、スチコフ「ソビエト内務省・沿海州地区司令官」が「自分の手の内で訓練した元満州遊撃隊の朝鮮人から選びたい」と強く主張したこと、及びベリヤ「第一副首相兼内相」の後押しもあって、結局「東北人民革命軍・第二軍第二師長」だった故金成柱の身代わりとして金日成(この時は、まだ金聖柱を名乗っていた)に白羽の矢が立てられることになったのである。
1945年10月の初め、金日成がピョンヤンに現れたばかりの時は、まだ自覚が足りず、自分の経歴についても本当のことを語っていた。しかし同年10月11日に「ソビエト軍政司令部」のロマネンコ少将により、「たまや」(ピョンヤンの元日本料亭)で、「伝説の英雄金日成」として紹介されてからは、覚悟を決めて以降金日成で通すようになった。
その後も、しばらくは「抗日義兵闘争の指導者金日成にしては若過ぎるな」との噂も流れていたが、そのような噂を立てる者は容赦なく粛清されたので、やがてそのような噂も消えていった。
1934年になると、またまた金日成は「中国共産党」傘下の「東北人民革命軍」の駐屯地に現れ、同軍「第二方面軍・第二師」に、ヒラ隊員として潜り込む。ここでは金成柱の指揮下に入ったが、1937年11月13日に金成柱が戦死すると、今度は「コミンテルン」がその後任として派遣した金一星の配下となった。最後は、その中でやや頭角を現して、少数の部下を持つようになっていた。
*金成柱(1901〜1937)
1937年6月4日の「普天堡襲撃事件」を指揮したのはこの人物、同年11月13日に戦死
*金一星(1905/6〜1945)
ソビエトで教育を受けたインテリで、1940〜1944年まで、オケアンスカヤ村で、「野営学校」の責任者をしていたが、終戦を待たず、当地で死亡
1940年12月に、「野副討伐隊」に追われてソ満国境を越え、ソビエト領内に逃げ込んだ約300人の朝鮮人ゲリラ隊があった。彼らは「ソビエト極東司令部」に収容され、来るべき「対日戦」に備えたスパイ要員として訓練されることになった。その朝鮮人ゲリラ隊の中に金一星の率いる「第二方面軍」の約20人が含まれていた。金日成もその20人の一人だった。(1945年10月初め、金日成はピョンヤンで行った演説の中で、自らそのことを明言しているので間違いなかろう)
ソビエトのハバロフスク郊外のオケアンスカヤ村滞在中、金日成は金正淑にユーラとシューラという二人の子供を生ませた。そのうちのユーラが現在の金正日であり、シューラは1947年7月にピョンヤンの池で、ユーラによって溺死させられたと伝えられている。なお一説によれば、ユーラは金策と金正淑の子だったのだが、金日成が金正淑と結婚した際、金日成の養子になったのだともいわれている。
(北朝鮮では、金日成は「朝鮮革命軍」なる架空の部隊を率いて、日本軍と熾烈な戦いを繰り広げていたので、ソビエトへ行く暇などなかったと教えているが、現在では様々な証拠から、金日成が1940年12月から1945年10月まで、ハバロフスク近辺にいたことが証明されており、ここでも明らかな歴史捏造が行われているといえよう)
さて「第二次大戦」が終了し、朝鮮半島北半分のソビエト占領地域に「ソビエト傀儡政権」を樹立することになった。その首班者を誰にするかで随分もめた。最初は戦前から「コミンテルン」メンバーだった朴憲永が候補に挙がっていたが、スチコフ「ソビエト内務省・沿海州地区司令官」が「自分の手の内で訓練した元満州遊撃隊の朝鮮人から選びたい」と強く主張したこと、及びベリヤ「第一副首相兼内相」の後押しもあって、結局「東北人民革命軍・第二軍第二師長」だった故金成柱の身代わりとして金日成(この時は、まだ金聖柱を名乗っていた)に白羽の矢が立てられることになったのである。
1945年10月の初め、金日成がピョンヤンに現れたばかりの時は、まだ自覚が足りず、自分の経歴についても本当のことを語っていた。しかし同年10月11日に「ソビエト軍政司令部」のロマネンコ少将により、「たまや」(ピョンヤンの元日本料亭)で、「伝説の英雄金日成」として紹介されてからは、覚悟を決めて以降金日成で通すようになった。
その後も、しばらくは「抗日義兵闘争の指導者金日成にしては若過ぎるな」との噂も流れていたが、そのような噂を立てる者は容赦なく粛清されたので、やがてそのような噂も消えていった。
これは メッセージ 3032 (pesiticider さん)への返信です.