南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

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タイと日本は良き関係だった

投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/12 11:33 投稿番号: [3001 / 41162]
日本軍の対タイ進駐作戦

坪上大使は、日本軍のタイ領侵犯はやむをえなかった次第を申し述べた後、逼迫した国際情勢と日本軍のタイ領通過の必要性及び即時停戦処置を要する理由を説明し、(1)軍隊通過の承認   (2)防守同盟   (3)攻守同盟   (4)三国同盟加入   の4条件の中のいずれかをタイ政府と協定の上条約を締結したい旨申し入れた。これに対しタイ国政府側は単純な軍隊通過協定を選ぶとして、12月8日正午頃、単なる軍隊の通過のみの協定が成立、午後3時ごろ正式に調印された。

(中略)

当初、日タイ間には日本軍通過の承認に関する協定だけであったが、その後、真珠湾空襲におけるアメリカ側の甚大な被害、南太平洋全域にわたる日本軍の攻撃の成功、さらに12月10日英戦艦プリンス・オブ・ウェールス及びレパルスが日本軍により撃沈されるなどの戦況から、日タイ間の交渉は急速に進み、12月10日夜半、攻守同盟決定、12月11日11時攻守同盟仮調印、日タイ同盟条約の正式調印は1941年12月21日に宮殿内の寺院で行われた。更に、この日タイ同盟条約に基づく日タイ共同作戦に関する協定は1942年1月3日に成立している。

主な引用参考文献:
・   『マレー進攻作戦』
(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、1969年12月)

http://www.mekong.ne.jp/directory/military/thaishinchu.htm

日本語読めませんか? それともスリカエ?

投稿者: fighter8823 投稿日時: 2004/09/12 08:05 投稿番号: [3000 / 41162]
【は?】
2004/ 9/11 7:43

メッセージ: 2979 / 2999

投稿者: fighter8823

朝鮮はいつ日本と独立戦争を戦いましたか?

フィリピンはいつアメリカと独立戦争を戦いましたか?

スリランカ(セイロン)はいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?

ブルネイはいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?

アジアの教科書では、、ね 5

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:41 投稿番号: [2999 / 41162]
あなた方が戦時中に行った日本軍の蛮行をいかに正当化しようとしても、現地で被害を受けた民衆はその被害の大きさを忘れてはいませんよ。

永遠にその行為は語り次がれて行くでしょう。

日本人は過去を正当化するのではなく、真摯に見つめ、認める勇気を持つ、必要があるのではないでしょうかね?

諸国の政治家が戦後、外交辞令とも受けとれるようでもあり、また、歴史学者が人ごとのように述べるがごとき、歴史認識を披露していますが、その中身について直接の被害者を代弁した意識とはかけ離れたモノであると考えるべきでしょう。

結果良ければ全てよし、とはならないでしょうね。

美辞絶句に踊らされることなく、しっかりと加害責任を認識すべきだと思います。

だからと言って、戦後生まれが実行犯でも、意識の共有者でも無いのですから、過去の戦争に対しての責任が在るわけはありませんよね、しかし、知らない、しらなかなったでは通りませんよね。

まして、ねつ造、歪曲することは許せませんよね、、と思います。、、、ね

もっと   アジアの教科書を読みたいですか?

紹介しましょうか、、、ね。

インドネシアの教科書では、、ね4

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:29 投稿番号: [2998 / 41162]
インドネシア民族に対する日本の圧制は実に非人間的なものであった。
自然資源と労働力の搾取は徹底的に行われた、民衆はわが国の歴史に例のない苦難を体験した。
指導者たちは民衆の立場に立って闘い続け独立を達成sるために民衆の闘争精神を育てたのである。民族主義者たちは表立っては日本軍政府と対立はしなかった、それは大変危険であり、闘争を有利にはしなかったからである。日本軍は抵抗する者は誰であろうと遠慮せず殺した。
地下活動を行う。
政党が解散させられた後、指導者達は地下活動を行った、勢力を結集し民族団結の地下活動を続けた。
反乱がインドネシア各地で勃発した。
1. アチェにおける反乱=1942年11月10日指導者はシャリル(日本軍に狙撃される)
2. 西部ジャワのシンガパルナでの反乱1944年2月25日指導者はザエナル・ムスタファ(逮捕   死刑)
3. 西部ジャワ   インドラマユでの反乱   カプロガン村の全民衆が蜂起他の村村に飛び火する。(日本軍の鎮圧)
4. 西部ジャワ   ロッベヌルでの反乱日本の残酷な行為を座視する事が出来ず武器を取って抵抗した、マドリャリアスの指導による。
5. 西部カリマンタン、ポンティアナックの反乱1943年10月16日に日本に対する反乱を計画する秘密会議が開かれた。がしかし、事前に情報が漏れ、多くの人々が逮捕され,殺害された。
6. 郷土防衛義勇軍による反乱
aフリタルにおける郷土防衛軍の反乱ショウーダンチュ(小隊長)のスプリヤディに指導された100人の兵士はカウィの山に立てこもり抵抗し、その後投降、逮捕、死刑に処せられた。
bアチェにおけるトゥウクハミドの反乱   ギユー軍の2小隊を指揮して日本に抵抗した。ハミドの家族全員が人質となりやむなく投降した。
cパンドラにおけるギユー軍兵士の反乱   日本軍が鎮圧
dチラチャップのグミリールでの郷土防衛義勇軍の反乱
この反乱はかなり強烈なものであった、スディルマン将軍、後にインドネシア独立後国軍大将となる

これらの反乱はいずれも日本軍に鎮圧されてはいるが、成果は、連合国軍の攻撃と戦っていた日本軍の力を削いだ事にある。

5へ続く

インドネシアの教科書では、、ね3

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:28 投稿番号: [2997 / 41162]
その他の物資の搾取
くず鉄は古い鍬や鎌   庭の鉄柵まで取り壊して差し出さねばならなかった.
労組動力の搾取
社会の階層を問わず,いたるところで行われた、もっともひどい目にあったのは強制労働者(ロームシャ)にするために動員された人々であった.彼らは田舎の出身で,一般に文盲であった.そのロームシャ太刀は橋,幹線道路、飛行場、防空壕といった日本防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された.そのような壕が今でも残っている、カリウラン(ジョクジャカルタ)にあるのはその一つだ.。ジャワ島、の各地から集められた数千のロウムシャはマラヤ,やビルマ、インドシナなど、国外でも労働させられた、ロームシャの待遇はきわめて残酷であった、彼らが労働中にすこしでも不注意だったりすると、平手で叩かれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これに抵抗した者は殺された。
彼らの健康は配慮されなかった。衣服は満足に支給されず、食料は与えられはしたが、米の飯ではなく、タピオカの粉の粥であった、それも一日一回であり、量もきわめて限られたものであった。
その結果何千人ものロームシャは2度と故郷に戻ることは無かった。働かされていた森林でこの世を去ったのであった。
この事実を目のあたりにして、村の若者は姿を消した。これは地方の農業に悪い結果をもたらさざるを得なかった。
1943年以降、日本軍は行きずまり、連合国軍の攻撃に備えてインドネシアの青年を利用しようとした、日本は青年団をつくり、隊員は14歳から22歳までの青年から成っていた。目的は「自力で国土の防衛が出居るように青年達を教育,訓練する」ことであった。日本軍政府はこのように言っていた。しかし、本当の目的は来襲する国連軍に立ち向かわせようとする準備であった。
また、ケーボーダンあるいはボーゴダン(警察補助隊)フジンカイを作った。
ジャワ、ホコーカイ=1944年ジャワ民衆の動員を強化する為ジャワ忠誠会を作った。大東亜戦争の勝利のため民衆を駆り立て日本への全面的な献身をさせる事、会員は14歳以上で米、宝石、くず鉄などの物資を集める為民衆を動員する役割をさせられた、集めた物資は全て日本軍政府に引き渡された。
その他ヘイホ(日本補助兵)シュイシンタイなど1943年に設けられた。
国土義勇軍=1943年10月3日に結成された。インドネシア防衛のため、日本軍から軍事訓練をうけた。郷土防衛義勇軍の指揮官はインドネシア人であった。彼らは指揮官に就任する事を認められる前に士官候補生として教育を受けた。士官たちの教育はボゴールで行われた。インドネシア独立後、彼らの多くがインドネシア国軍の指導者となって活躍した。その中に故スディルマン将軍、カトッ・スブロフ将軍、アフマドヤニ将軍らがいる。
日本の占領政策は民族主義闘争に利用された。

4へ続く

インドネシアの教科書では、、ね 2

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:26 投稿番号: [2996 / 41162]
*天然資源と食糧の搾取
原材料は戦争が必要とする工業材料を得るために使われた.食糧の供給は特に軍人による消費の為の備蓄に向けられた.価格も日本軍政府によって決定された.それはモルッカ諸島でのオランダ東インド会社による香料の独占と、変わりの無いものであった.
戦争にあまり役たたないものの栽培は制限されたり,完全にやめさせられた.
例えば   スマトラでの煙草の栽培は壊滅させられ、ヒマの栽培にかえさせられた.ヒマは飛行機の潤滑油の材料として非常に重要であった.
必要性があるため依然として耕作が続けられたものにはキニーネ、ゴム,砂糖きびがあった.
森林は農地として利用するという理由で伐採された.森林伐採はジャワ島だけで50万ヘクタールにおよんだ.
農地造成のための場当たり的な森林伐採は結局のところ食糧増産にはつながらずそれどころか逆に収穫は減少した.思慮を書いた森林伐採は土地の侵食と洪水の原因となった.侵食は土地の肥沃度を低下させ,灌漑に不可欠な水源を涸れさせた、洪水は稲作を破壊した.
日本軍政府は軍隊の消費の為家畜を大量に殺した、その結果家畜の数は次第に減少し、田畑を耕すための家畜が居なくなってしまった.
民主は各自の庭でヒマの栽培する事を義務付けられた、その収穫は日本軍政府に引き渡さねばならなかった.これはオランダ東インド政府時代の強制栽培とどこがちがうのだろうか.結果的に耕地は減少し,農地で働く時間が不足してきた.
多くの民衆がロームシャ(強制労働者)にされた.こうして田を耕す労働力が減少していった.農業生産は減少したにもかかわらす,収穫の80%を日本軍政府に引き渡すように強制された.この結果民衆の間では食糧が大変不足し,飢餓の危機がいたるところで発生した.栄養失調で腹ばかりが膨れた多くの人々が死んでいった.

3へ続く

インドネシアの教科書では、、ね 1

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:25 投稿番号: [2995 / 41162]
アジアの教科書
インドネシア
中学校用
「社会科分野.歴史科第5分冊」
マルトノ著  
ティガスランカイ社

3.日本占領時代
1939年ころヨーロッパの情勢は非常に緊張していた.その原因は次のようなものであった.
ドイツは第一次大戦で敗北した相手国、とりわけフランスに対して「レバンシェ」(報復)することを切望していた.
ドイツは第一次大戦で奪われた植民地を奪還する野望をもっていた.
ドイツはヨーロッパで強国になることを強く望んでいた.
イタリアもまた、大イタリアという意味である「リソルジメント」建設の理想を持っていたので植民地を拡大したいと思っていた、その動きの一環として北アフリカの国、アビシニア(エチオピア)を侵略した.
ヨーロッパ諸国は互いに軍備拡大を競っていた.
世界平和を脅かす大国の行動を国際連盟は抑えることが出来なかった.
同じころアジアでも緊張が発生していた.
先進的な近代国家に成長していた日本が拡張政策を実行する野望を抱いたのだ.すでに日本は満州と華北を侵していた.中国全土にも日本による侵略の危機が迫っていた.
植民地の拡大という目的を共有するドイツ、イタリア、日本は協力して、その敵に対抗する為の同盟を結んだ.
世界の諸地域ですでに長く植民地を所有してきた帝国主義諸国、特にイギリス、フランス、オランダ、アメリカはこれに脅威を感じ、そこでまた、共同の敵に対する為に連合を形作った..
1939年9月1日ドイツはポーランドに侵攻した.逆に9月3日にはいぎりす、フランスがドイツを攻撃した.すぐさま連合国はイギリス、フランスに追随した.ここに、第二次世界大戦が勃発した...
本質的には第二次世界大戦はドイツ,イタリア,日本対イギリス、フランスおよびその連合国との植民地獲得戦争であった.ポーランド侵攻は戦火を燃え上がらせる口実となったに過ぎなかった.
第二次世界大戦は2つの部分に分けることが出来る
ヨーロッパと北アフリカの戦場、太平洋の戦場である.
1941年12月8日日本はパールハーバーを攻撃した.日本の攻撃はきわめて突然であった、ワシントンで日米交渉中の事だった.日本に対抗するためアメリカはABDACOM連合軍をつくった.その総司令部はバンドンに近いレンバンに置かれた、その他ABCD戦線も組織された.
日本は中国大陸、東南アジアへの進撃さらには太平洋上のソロモン諸島に至る当方への侵攻を電撃的なすばやさで行った.
これは次のような結果をもたらした.
*中国大陸が日本に支配された.
*ビルマ、マラヤ、シンガポールにおけるイギリス帝国主義の支配が打倒された
*インドシナにおけるフランス帝国主義の支配が倒された.
*フィリピンにおけるアメリカ帝国主義の支配が打破された
オランダ東インド政府は日本の攻撃に対抗する力が無く、無条件に降伏した.
降伏文書はオランダ東インド総督トゥチャルダ.ファン.シュタルケンボルクスタショーウェルの立会いの下オランダ東インド軍司令官テル、ポールテン中将によって調印された.日本側は今村均将軍であった.(第16軍司令官)

インドネシアは日本の戦争を支える為に資源および人力を提供させられた.
当初、日本軍到来はインドネシア民族に歓迎された.インドネシア民族は長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した.
どうして、このような期待をもったのだろうか?それは日本がやって来てまもなく次のような宣伝を展開したからである.
**日本民族はインドネシア民族の兄である.日本が来た目的はインドネシア民族を西洋の植民地支配から解放する事である.−日本は「大東亜共栄圏」のために開発を実施する.**

その実態はどうであったか、日本時代にインドネシアの民衆は肉体的にも精神的にも並外れた苦痛を体験した.日本は結局、独立を与えるどころかインドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ.その行為は強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった.資源とインドネシア民族の労働力は日本の戦争のために搾り取られた.
日本の占領時代のインドネシアでは軍政がしかれ,ジャワ島、スマトラ島は陸軍が,その他の地域は海軍に支配された.

2へ続く

タイの教科書には、、ね 、、2

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:17 投稿番号: [2994 / 41162]
セーニー・プラモート駐米大使は明らかにその一例である。彼はアメリカ政府に対して、タイ国はやむを得ず連合国側に宣戦布告したが、連合国との協力により「自由タイ運動」の手はずを整えている、と説明した。アメリカ国内の不自由タイ運動はアメリカ政府の支援を得て順調に事を運んでいた。

イギリスではスパサワトウォンサニット・サワディワット親王が自由タイ運動の指導者となった。在英タイ人留学生の大部分はこの運動に参加し、イギリス政府の援助を受けた。アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリディ・パノムヨン摂政はタイ国内に抗日地下部隊を設立した。そして、アメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡をとり、さまざまな行動を起こした。たとえば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、破壊活動によって日本軍の通行を妨害したり、また、日本軍を拘引したりして連合軍を援助した。

日本軍が敗北した仏暦2488年(1945)8月16日プリディ・パノムヨン摂政は国会の同意にもとずき、仏暦2485年(1942)1月25日の対英米宣戦布告は無効であると宣言した。
また、日本がタイに譲渡した英領マラヤやビルマをイギリスに返還すると提案した。(日本が譲渡したサイブリ、ケランタン、トレンガヌ、プルリスのマラヤ4州=煮日音政府がマラヤより割譲した4州これらはイギリスがタイよろ譲り受けたビルマのシャン族の領土である,仏暦2489年(1946)タイに返還された)アメリカ政府はタイの宣戦布告が無効であることを即時に認めた。
そのため講和条約に署名する必要はなくなった。こうしてタイは対米宣戦布告の責任から逃れた。
一方イギリス政府はタイが日本に協力したので日本がマラヤ、シンガポールで容易く勝利を収めたとみなしていた。そして再びイギリスがビルマを支配する為の軍事基地としてタイを利用しようとした。
イギリスはタイに多項目にわたる要求を提出した。アメリカ政府の介入する所となり、イギリス政府に対して要求を減らすよう申し入れがなされた。
交渉終結は仏暦2489年(1946)1月1日シンガポールでタイと大英帝国およびインドとの間の戦争状態終結という完全合意の調印をもって行われた。
重要項目の要約
1. タイは第二次大戦中に獲得した英領マラヤとビルマをイギリスに返却する。
2. タイはイギリスに対して150万トンの精米を無料で提供すること。
3. タイはクラ地峡にタイ湾とインド洋をつなぐ運河をイギリス政府の事前承諾なしに建設してはならない。
4. イギリスとインドはタイが国際連合に加盟することを支援する。
5. 戦争中にタイに押収され、損害を与えられたイギリスの財産を賠償すること。
これについでタイはオーストラリア(仏暦2489年4月3日)フランス(仏暦2489年11月17日)オランダ(仏暦2490年1月30日)とも平和合意に調印した。フランスとの平和合意により、東京平和条約によって得ていたインドシナ領土をフランスに返却しなければならなかった、その結果タイの国際連合加盟に反対はしないこととなった。

タイの教科書には、、ね  1

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/12 07:15 投稿番号: [2993 / 41162]
中学2年生用
社会科教育読本
「歴史学   タイ2」(タイ語)
教育委員会編

5.タイ国と第二次世界大戦への参画

仏暦2482年(1939)9月3日   ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。
ソンクラーム陸軍元帥を首相とするタイ政府は中立的立場をとることを表明した。
日本がドイツ、イタリアと同盟関係を結び(三国同盟)枢軸国となって以来、タイは戦争が近づきつつある危険を感じていた。そこで、領土保全のため、友好条約に調印し、日本と相互友好関係を保った、同時にタイはイギリス、フランスとも相互不可侵条約を結んだ。(1940年タイ・日友好和親条約、タイ・日相互不可侵条約)
ヨーロッパでの戦闘は当初、ヒットラー率いるドイツが電撃戦でフランスを打ち破った。そしてついにパリと北フランスを占領し、勝利を収めた。ペタン政府はドイツとの停戦条約調印を承認し、政府を南フランスのビシーに移さねばならなかった。タイ政府はペタン政権に文書を送る機会を得て、以前タイが割譲した仏領インドシナのルアンプラバーンとチャンパーの領有権を手に入れようと、国境の変更を要求した。(メコン川東岸地域)=両地域は仏暦2440年にフランスに割譲した領土でタイとフランスの間で国境論争があった。)
要求は自然なものであり、公正なものであると思われていた。フランス政府はタイの要求を拒否した。仏暦2483年11月28日タイと仏領インドシナとの国境で衝突が起こった。
当事   日本は東南アジアに指導力を有し、影響力をもっていた(1940年9月、日本はすでに北部仏印に進駐していた)そこで、調停役としての義務を行使したのである。タイとフランスは東京(トンチン)での会議に代表を送り,ともに東京条約に調印した。(タイ・仏印平和条約)
タイは要求とおりに返却された領土とプラタボーン、スリーソーパン、シャムラートも合わせて手に入れた。その後タイと日本は二国の相互援助と東南アジアの平和維持に努めるという内容の文書に調印した。お互いの同盟関係強化を推進し、二国の経済的結束を固めることになった。領土返還に満足した、タイ国民は日本に対して大いに気を良くした。
仏暦2484年(1941)12月8日日本はハワイ諸島のアメリカ軍基地である真珠湾を攻撃した。同時にフィリピン群島、シンガポール、マライにも電撃戦で進軍し攻撃した。それ以前に日本はタイに兵を派遣しタイを通過するつもりであった。駐タイ日本大使は英領(マラヤ,ビルマ)侵攻のため、日本軍のタイ国領土内通過を要求した。翌朝、仏暦2484年(1941)12月8日日本は軍勢を率いてタイ国内のいたる所に上陸した。プラチュアプリキカン、ナコンシータマラート、、ソンクラーのタイ軍は堅固な日本軍に抵抗して闘った。そのころ、タイ政府はイギリス政府と連絡をとっていた。イギリス政府はタイが自衛手段に訴えても構わない、と返答した。ピブン・ソンクラーム陸軍元帥率いるタイ政府はタイが日本軍に抵抗し得るかを審議した。結果、軍事力が十分でないことから、政府は日本軍のタイ国内通過と、秘密条約調印を承認した。(日本軍がタイ南部に上陸してから締結した「タイ国領土内通過に関する協定」。タイ日攻守同盟条約)
タイは日本と同盟関係を結び、アメリカ、イギリスとの戦争において日本を支援することとした。
日本は失われたタイ国領土がイギリスから返還されるよう働きかけた。そこでイギリスと、アメリカはタイを攻撃し始め、雲行きが怪しくなってきた。
仏暦2485年(1942)1月25日タイはイギリスとアメリカに対して宣戦布告し、枢軸国の盟友として第2次世界大戦に参加することになった。

タイ人の多くは日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。
タイ人のグループの中には日本と同盟関係を持つという政府の方針に反対するものもあった。これら一般民衆グループには連合国側から遣わされたリーダーがいたものと思われる。

2へと続く

なるほど

投稿者: restoration_gogo 投稿日時: 2004/09/12 01:03 投稿番号: [2992 / 41162]
ほかのトピからのコピペですみません。
過去も現在もなかなか貢献していますね。日本人。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=ffckdca4nc0oahc0uga4&sid=1143582&mid=4085

フィリピンはかわいそうなんだ。

投稿者: donchan5656 投稿日時: 2004/09/12 00:34 投稿番号: [2991 / 41162]
横からごめん

アジア諸国の中でフィリピンだけが日本軍がアメリカにたたきつぶされるのを見たんですよ。

対してインドネシアは見ていない。

これでこの2国の命運が決まってしまった。

インドネシアは「何だ、偉そうにしてた白人なんてこんなもんか。俺たちだって武器さえ持てばやれる」って考え、

フィリピンは「やっぱり白人にはかなわない」って感じた。

当時のアメリカにはフィリピンにはすでに戦略的価値はなかったんですけど、

マッカーサーが自分のメンツにこだわり、

アメリカの基本的な方針に逆らって、あえてフィリピンの日本軍を攻撃したんですよ。

哀れフィリピン人は白人に頭が上がることなく、今も英語を使っています。

そのマッカーサーも戦後日本に来て日本の立場を理解し・・・・・・

この話を信じるも信じないも勝手です。

今や日本の政治家のトップににも

同じようにアメリカに頭の上がらない人もいますのでね・・・・・

おじゃましました。

ブルネイの教科書には、、、

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 22:15 投稿番号: [2990 / 41162]
初級中学校用
「ブルネイの歴史」(英語)
ブルネイ言語.図書委員会編
三部   21日本のブルネイ占領

1938年日本は「東亜新秩序」を宣言した。(1938.11.03近衛声明)
それは日本が蒋介石政府を倒し、中国を掌中に収めるためのものであった。
また,新秩序は東アジアにおける全ての西洋列強を排除することも目的とした。
日本のスローガンは「アジアのためのアジア」であった。

日本軍は東アジア本土への第一回目の攻撃を陸から開始した。(マレー半島のこと)攻撃を加えながらブルネイにも日本陸軍は上陸していた。

1941年12月16日   日本軍はクアラ.べライトに上陸し、直ちにセリア油田を占領した。(ブルネイの西部、サラワクのミリと並ぶ「英領ボルネオ」の有数の油田地帯)
6日後の1941年12月22日ブルネイ市は日本陸軍により、占拠され、ブルネイ政府のイギリス将校全員が捕虜となった。

日本陸軍は   その後すぐ新秩序の宣伝を始めたが乱暴かつ横暴だった為に、ブルネイの人々の歓迎を受けなかった。クアラ.べライトの住民は油田の労働に狩り出され、村人は穀物の生産を強いられた。また、日本の軍事規律を無視した者達に対して行われた大量処刑を目の前で見させられた。

商売の取引も行われなくなってしまった。2〜3の小売業者のみが配給係としてその商売を続けることが許された。
ブルネイの住人にとって幸いなことに、政府が第二次世界大戦勃発前に、大量の米の輸入を貿易業者に命じていた。ヨーロッパの戦況から察して極東における輸送ルートがマヒするだろうということを考慮に入れて、このような行動をとった。日本が占領した初めのころは食料不足は無かった、がしかし、十分であった食料の全ても、貯えも1943年の終わりまでには使い果たされてしまった。日本軍も食料の欠乏に困窮していた、収穫の時期がくると、日本軍はほとんどの穀類を奪っていった、そのためブルネイの人々は食料不足に陥った。

日本軍はブルネイを占領すると病院を管理下に置いた。当時   薬品を手に入れるのは困難な事だった。マラリアが流行していたのに、日本陸軍はその蔓延を予防しようとはしなかった。

日本陸軍は道路、排水、灌漑の管理に留意しなかった。彼らが修復したのはわずかなブルネイートゥトン間とブルネイーウアラ間の道路のみであった。
この2つの道路もムアラまでの石油のパイプラインを引く為のものであった。

日本陸軍がセリア油田を占有していた時には159万4千英トンもの石油を確保していた(1英トン=1016kg)
日本陸軍が退却する時、日本陸軍の手で破壊された(1945年)
1945年6月10日連合国軍がムアラに上陸した、そのころ日本陸軍は自分達の施設を壊し、セリア油田を焼失させるのに余念が無かった。
退却する前、反日運動を組織したと思われる人たちを殺した。

日本陸軍がブルネイから立ち去ると、新政府がイギリス軍政の下に置かれた。
食料、衣料が全住民に無料配布された。病人は病院での看護が受けられるようになった。住民の健康は次第に快方にむかい、貿易も徐々に再興した。
1945年7月6日ブルネイの統治は民政の手に移った。

フィリピン独立の真相

投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/11 21:11 投稿番号: [2989 / 41162]
人物探訪:リカルテ将軍
〜フィリピン独立に捧げた80年の生涯
わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、その星条旗の下に帰ろうとは思わない。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog156.html

(一部抜粋)
昭和15(1940)年、ケソン大統領は訪米の帰途、横浜に立ち寄り、自らリカルテを訪ねて、帰国を求めた。リカルテはこう答えた。

「わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、その星条旗の下に帰ろうとは思わない。わしが祖国に帰る日は、祖国が完全に独立し、むかしわれわれが立てたあの革命旗が、堂々とだれはばかることなく立てられる日だ。」

その翌年、大東亜戦争が勃発し、リカルテは参謀本部の要請を受け、占領後の独立の約束をとりつけた後、75歳の老躯を駆って祖国に戻った。群衆は歓呼してリカルテ将軍を迎えた。

1943(昭和18)年10月14日、日本軍の軍政が撤廃され、正式に「フィリピン共和国」として独立の日を迎えた。対スペイン独立戦争時から愛唱されてきた歌を国歌として制定し、その演奏とともに、アギナルドとリカルテが革命旗をもとにデザインされた国旗を掲げた。(これらの国号、国旗、国歌は現在まで引き継がれて、この時に就任したラウレル大統領は、現在でも第2共和国の大統領として、マラカニアン宮殿に歴代大統領と並んで肖像画が飾られている。)

米国の反撃が始まると、山下奉文大将はリカルテ将軍に日本への再亡命を勧めたが、将軍は「わしは最後の一人となるとも、アメリカと戦うつもりだ。わしの80年の生涯は、ただこのためにあった。」と断った。

フィリピン独立の真相

投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2004/09/11 21:10 投稿番号: [2988 / 41162]
有害図書は気にせず、フィリピン独立の真相を紹介します。

―――――――――――――――――――
  フィリピンの場合、その併合数年を出ずして、比島領有の最初にして最も熱心な唱導者であったセオドア・ルーズベルトがもはや幻滅を感じて、自分が音頭をとったことを後悔し、厄介者から逃れたいと望んでいたことが想起される。
  結局我々は1930年代に比島の解放を決定し、最近になってこれを実行した。だが、我々の考えておかなければならないことは、それは決してフィリピン人のためを思ってではなく(気の毒に思ったり、或は彼等が独立の用意が出来たと考えたり、また我々が独立を許す義務をもっていると感じたではなく)、寧ろ、彼等が我々自身にとって一寸した厄介者であることが分ったからであり、我々の領有下において当然予期された比島との経済的接近が、我国における強力な私的利益にとって面白くないものであることがはっきりしたからである。
  つまり、「白人の重荷」という言葉によって表現されるこれらの初歩的な犠牲すら、我々として長い間我慢する用意を持たなかったからなのである。

ジョージ・F・ケナン著『アメリカ外交50年』
―――――――――――――――――――


つまり、アメリカにとってフィリピンは厄介モノとなったために、分離、切り捨てを決定した訳です。

ところが、アメリカに怨みを持つフィリピン人は、そう簡単に「ハイ、そうですか」と言う訳にはいきませんでした。

(つづく)

まずフィリピンからにしようか、ね、、6

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:31 投稿番号: [2987 / 41162]
フィリピン
小学校4年生読本
「歴史」(タガログ語)
コンコルディア・C・フロレンチアB.バウティスタ編
レックス   フックストア発行

フィリピンの歴史におけるくらい時代は私達の国を日本国が占領した時です。
日本軍は来たばかりのころは自分達はフィリピン人の友達だといい、フィリピン人と日本人を結びつけるためアメリカを敵としました。
日本人はアメリカと関係のあるもの全てをとり除きました。英語の代わりに日本語にしました。
彼らは人々の食糧や家財道具をはじめ乗り物や大きな家々をも取り上げました。
多くの人々が生活に困り、お腹を空かせていました。しかし、フィリピン人はマッカーサー将軍が戻ってくるのを信じていました。将軍がそう約束したからです。ゲリラ活動をしていた人、日本人と一緒になるのを嫌がった人たちは山にこもりました。ゲリラはしばしば日本軍と戦い、人々の希望となりました。
日本人はスパイがゲリラとみなした人々にとても残忍でした。捕らえた者たちを拷問し、閉じ込め,仲間の名前を言わせました。罰せられ殺された人達の中にはアバド・サントス裁判官、ウェンセスラオ・Q・ビンソン氏、ホセファ・リャネス・エスコーダ夫人、ラモン・ラントス医師らがいます。
マッカーサー将軍は約束を守りました、戻って来て、私達の国を日本人から救ってくれました。

*今日でもハポン(日本)   サカン(蟹股)は「悪」の代名詞になっていることを認識しておくべきでしょう。
サマット山頂に戦争記念館がある。
バターン半島の突端に「死の行進」を示す記念碑がある。

はい、、フィリピンは終わり。
次はブルネイへいってみようかね。

最後まで飽きずに読めましたか?

まずフィリピンからにしようか、ね、、5

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:29 投稿番号: [2986 / 41162]
アメリカ軍の帰還
自由の道は長く険しかった、オーストラリアのアメリカ軍は日本軍の手に陥っていた島々を取り戻していった。1944年9月アメリカ軍はフィリピンにいた日本軍に対し容赦のない砲撃を加えた。10月レイテ島にアメリカ軍は上陸した。1945年2月3日マニラに進行   第8軍はバタンガスに上陸、カビテ、リサルへと進行した、日本軍は退却の途中村に火を放ち焼いた、マニラの町の半分は日本軍に焼かれ、残り半分はアメリカ軍に破壊された。4月完全な勝利を収めた。4月12日ルーズベルト大統領の死にフィリピン人やアメリカ人のみならず自由世界の全ての人々が彼の死を悼んだ。

日本の降伏
1945年7月26日連合国の3カ国   イギリス、アメリカ,ソ連、、は日本に無条件降伏を要求する最後通告を発表した。この際ご通告はアメリカ大統領、イギリス首相、ソ連書記長による、ドイツ,ポツダムでの会議期間中に書かれたため「ポツダム宣言」として知られている。日本はその最後通告を無視した。日本をついに降伏させたのは原子爆弾であった。戦争に初めて使われたこの爆弾は8月6日広島市に落され広島市の60%を破壊し、一瞬にして7万8千人の日本人を殺戮した。一万人以上の人が跡形もなく消えた。3万7千人の日本人が重い傷に苦しんだ。何千人もの人々が放射能による後遺症で病んだ。8月9日第二の被爆が長崎市にもたらされた。長崎市の40%が破壊され10万人の人が殺された。6日後の1945年8月15日日本は無条件降伏をした。日本に亡命していたラウレル大統領は1945年8月17日日本に支えられていた「フィリピン共和国」を解体した。

戦争の被害
東南アジア諸国のなかで、フィリピン人が一番激しく、長く戦ったので、フィリピンが戦争によってもっとも破壊された。フィリピン人全体で111万1938人が戦死した。この中には戦場や日本の捕虜収容所で死亡した兵士達、また、日本軍によって虐殺された市民(男性,女性、子供たち)が含まれている。

6へ続く

まずフィリピンからにしようか、ね、、4

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:28 投稿番号: [2985 / 41162]
フィリピン行政委員会
日本軍最高司令部はケソンが大マニラ市の市長に指名したホルヘ・B・バルハスに新政府を速やかに組織するように命じた。フィリピンはフサッフェが倒れ、日本の征服者のなすがままになっていた。
1942年1月23日バルハスと31人の協力者は日本軍最高司令部にあてて、「平和と秩序を維持し我が国民に幸福を推し進める為に」に日音軍の命令に従う決意をした。

日本製フィリピン共和国
東条英機首相はフィリピン国民の好意を得るために、フィリピンの独立を認める約束をした。東京からの命令に従いフィリピン独立準備委員会(PCPI)がラウレル博士のもとで来るべき「共和国」の憲法を制定する為に設置された。
この憲法は1943年9月4日PCPIのメンバーによって署名された。
この憲法は「フィリピン共和国」の為に制定されたものであり行使するにあたり大統領がその執行権を有する、副大統領はいなかった。立法権は一院制国民会議に属した。司法権は最高裁判所および下級裁判所に属していた。権利の宣言はありはしたが市民の権利よりも、その義務が強調されていた。この憲法で関心を引くのは国語としてタガログ語を適用したことである。9月7日117名の代表者で構成された議会により「批准」された。
1943年10月14日「フィリピン共和国」がマニラで発足した。ラウレル博士が大統領として、その任務の宣誓をした。ベニグノ・アキノ議長が努める国民会議によって選出された。
フィリピン国民は彼らの新しい「共和国」を歓迎することには熱心ではなかった。それが本物ではないことを彼らは知っていた。あざけるようにPCPIを「どうぞ、フィリピンの独立を放棄してください」と叫んでいたくらいである。

宣伝活動機関
あらゆる手段を使ってフィリピン人を日本化するか、あるいは少なくとも彼らの同意を得ようと試みた。さまざまな講習会が国民に「精神的躍動」を与える為に設置された。これらの講習会のなかにはGETI(政府雇用訓練講習会)元ユサッフェの兵士のための講習会、新フィリピン文化講習会、政府留学生派遣準備講習会などがある。また、日本の隣組を真似た隣人協会が占領下のフィリピンの市町村に設置された。日本の指導的な宣伝機関はカピサナン・サパグリリンフコド・サ・バゴンゴ・ピリピナス(新生フィリピン奉仕団)婦人互助会、カリバピ指導者会、労働協会がある、カリバピは日本軍当局によって許されたフィリピンでただ一つの政治集団であった。

5へ続く

まずフィリピンからにしようか、ね、、3

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:27 投稿番号: [2984 / 41162]
バターン死の行進
16人の将校を含む7万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士がバターンで武器を捨てた。降伏後彼らは勝利者である日本軍の残忍な扱いをうけた   。
飢え、渇き、病、疲労で極度に衰弱していたにもかかわらず、彼らはバターンのマリベレスからパンパンガのサン・フェルナンドまで約80kmの全工程を行進するよう強制された。この悪名高き「死の行進」中フィリピン人約1万人アメリカ人約1200人が路上で死亡した。サン・フェルナンドで生存者は有蓋貨車に詰め込まれ、ターラックのキャパスあったオドンネル、キャンプにつれて行かれ収容された。その結果、飢えや病気でほとんどが死亡した。最終的に家族の下に帰れたのはごく少数の人たちであった。
(バターンのマリベスから鉄道のあるサン・フェルナンドまで80kmの道のりで捕虜達はそこを5〜6日がかりで移動させられた。サン・フェルナンドからフタつきの貨車でカパスまで運ばれ、カパスから再びオドンネルキャンプまで12kmを歩かされた)

日本の軍政
日本軍マニラ侵入の翌日1942年1月2日   日本の軍事政権がフィリピンの政治,経済,文化活動を指揮するために設置された。第一主任将校にハヤシ・ヨシヒデ   第2.第3にタカギ・ワイチ各陸軍少将が就任した。


東京からの命令を実行して日本軍事政権はいくつかの規定を定め無力なフィリピン人はそれに従わざるを得なかった。夜間外出禁止令および灯火管制が全マニラに施行され、戒厳令がしかれた。火器、弾薬、その他の武器全てが没収され、日本軍に敵対するいかなる行動も処罰の対象になった。日本人一人を殺せば有力なフィリピン人を二人射殺するという軍の布告が出された。
全てが日本の支配下に置かれた。日本の「軍票」がフィリピン通貨に換わって配布された。

4へ続く

まずフィリピンからにしようか、ね、、2

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:25 投稿番号: [2983 / 41162]
日本軍は何をしたのか
日本軍がマニラを占領した時にバルガスにフィリピン行政府の長になるように命令がきた。7つの省が設置されそのぞれの長にフィルピン人がなった。しかし、どの省にも日本人がいて、フィリピン人の一挙一動を監視していた。
1943年初頭   日本はフィリピンに「大東亜共栄圏」に参加するなら自由にするといった。そして、日本はフィリピンの憲法制定の為フィルピン独立準備委員会を作った。日本はフィリピン独立宣言以前に政党活動を全て禁止し、代わりにカリバピ(新生フィリピン奉仕団)を設け、新しいフィリピン大統領を選出した、がこれは日本の支持によるものだった。
1943年10月14日
ホセ・ラウレルは共和国大統領に就任した、同日、日本と軍事協定(日・比同盟)を結ぶことを強要された。この協定は無意味なものであった。なぜなら、フィリピンは日本に対してはもともと非協力的であったからである。フィリピン人は全国の学校で教えられたアメリカとその民主主義の価値観のほうに忠実であったからである。

ゲリラ
ユサッフェの残軍は山に登り、ゲリラ活動を開始した、ゲリラの数は町や市の市民が加わったりしたので増えつづけた。日本軍の残酷さ ---- -特に地方での女性に対する邪悪な扱い -- -は多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。
ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍はフィリピン市民に対して残酷さを一層加えるようになった。有罪、無罪を問わず捕らえられ、サンティアゴ砦や日本軍が接収し刑務所とした他の施設に送られた。家に帰ることが出来た者にしても、不自由な身体となっていた。
一般市民はゲリラに全面協力し、食糧やお金を与え、また、日本軍の情報を伝えた。ゲリラ活動はルソンに集中しており多勢の指導者はここの出身者であった、有名な人物としてはウェンスラオ・Q・ビンソン、マルセロ・アッドル、テリー・アデボソ、マルコス・V・アグスティンである。

3へ続く

まずフィリピンからにしようか、、ね 1.

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/11 18:24 投稿番号: [2982 / 41162]
フィリピンの教科書だよ。
よく読んで、意味を噛みしめてね。

高等学校用
「フィリピン国の歴史」(タガログ語)
テオドロ・A・アゴンシリオ著
ナショナル・ブックストア発行

第17章   太平洋戦争
マッカーサーと軍隊
1939年ヨーロッパで戦争が始まった時フィリピンの国情は必ずしも悪い状況では無かった。
しかし、マヌエル・ケソン(国民党党首)はフィリピンの美しい空に暗雲が立ち込めるのではないかと感じた。民族主義者で作家で知識人そして国会議員でもあるクラロ・M・レクトは日本が一番危険ではないかと考えた。
1930年代に日本と中国が戦争を始めたときから日本は極東アジアを征服したがっていたらしい。もし、アジアで戦争が起こったならばドイツが太平洋にある列強の植民地を奪ったように日本もアメリカからフィリピンを奪うのではないかという恐れを抱いた、ケソンは戦争が起こりそうな情報を受けていたので、マッカーサーにフィリピンを守るように要請した。つまり毎年4万人の兵隊を訓練することを提案した。5年間に20万人のフィリピン軍の動員を計画し,ルーズベルト大統領はフィリピンとアメリカの軍隊を合体して指揮官にマッカーサーを任命した、フィリピン軍13万とアメリカ軍隊の連合隊をユサフェ(アメリカ極東軍)といった。
宣戦布告
1940年9月日本はドイツ・イタリアと同盟関係を結んだ。これらの国を枢軸国という。1941年7月日本はインドシナ(ベトナム)に侵攻した。アメリカはその侵攻に脅威を感じ、フィリピンも危険と考えたアメリカは主権を持った国家同士であることで日本に対して相互に理解し合おうと提言した、しかし   日本はそれを拒否した。2国間の関係改善のため日本は来栖三郎を野村駐米大使の協力者としてアメリカに派遣した。しかし、両者がハル国務長官と交渉している間に日本はパールハーバーを攻撃した。日本は宣戦布告をしないでアメリカの軍事施設を奇襲したのである。奇襲の結果アメリカ海軍将校   兵士計5000名が死傷した。ここに太平洋戦争が始まった。

日本の侵略
真珠湾攻撃の数時間後、日本はフィリピンに侵攻した。それは1941年12月8日である。アバリ・ダバオ・バギオ・タルラ・タルラックなどを攻撃を仕掛けてきた。夜にはマニラが爆撃された。と同じくして日本はアパリ・リンガエン・アティモナン・ラモン湾に上陸した。12月9日ルーズベルトの声をラジオで聞いた「我々は戦争のただ中にいる、この戦いは帝国主義的戦争への復讐のためにあるのではない、危険の無い世界をつくり、この国とその全てのものが、子供達のために自由であるようにするのだ」
12月26日「私はフィリピンの人々にフィリピンの自由を回復しその主権を守ることを誓う、アメリカはこの誓いを果たす為に人と物を使い力を尽くす」

マッカーサー   バターンへの退却
アパリとリンガエンに上陸した日本軍はマニラへ向かった。この軍事展開によってマッカーサーは一時バターンへ退却し、最後まで闘うことを決意した。彼の意図は戦争の被害から民間人を守り総力を集中して再び日本軍と戦うことにあった。
フィリピン軍は軍人と民間人との両者から組織されたものだったが、全員バターンへ退却するよう命じられた。従って日本軍は容易にマニラに侵入することが出来た。1942年1月2日マニラは制圧された。

フィリピンの敗北
日本軍はバターンを攻撃し、その総力を集中し、本間雅晴司令官ら日本軍の最高幹部は攻撃に幾たびもの失敗をした。ユサッフェには被弾して多数の死傷者が出たが降伏はしなかった。日本軍も死傷者は多くまた、マラリアに苦しむ者も多かった。本間はマッカーサーに降伏を勧告したがしかし、マッカーサーはそれを無視して戦い続けた。ルーズベルトはマッカーサーにオーストラリアに転戦するように命じた。バターンの防衛軍は食糧と武器不足のため弱体化し4月9日バターンは陥落した。
5月6日コレヒドール陥落、フィリピンは敗北した。

亡命政府
ケソンがワシントンに到着してすぐに亡命コモンウェルス政府(独立準備政府)が樹立された。
ケソンの閣僚のほとんどはフィリピンに残ったが彼についてきた者には重要なポストが与えられた。バシリオ・バルデス将軍は国防大臣、マヌエル・ニエト大佐は通商農業大臣、ハイメ・ヘルナンデスは大蔵大臣   住宅相にはホアキン・エリザルデが任命された。彼らは太平洋戦争会議のメンバーとなり、国際連合設立の為の文書に署名をした。

2へつづく

n_o_i_s_e_m_a_n=嘘つきの妄想野郎

投稿者: oj_simpsan 投稿日時: 2004/09/11 16:52 投稿番号: [2981 / 41162]
>国民徴用令による軍属としての朝鮮人動員は、一九三九年に開始されていたが
>一九三八年二月、陸軍特別志願兵令(勅令第九五号)を公布、(中略)同年四月から志願兵制度を実施した

つまり、南京事件時には朝鮮人の動員はなかったし、志願兵制度もない。
加えて、

>ばいかる丸で帰国した160名は,朝日新聞によると「南京攻略戦に輝かしき武勲を樹て」た勇士ということです.

その160名のうち、朝鮮人は何人なの?

確認できるのは、たった1名。しかもその1名も南京に入る前の11月22日負傷だから、占領された南京に入っていない。
けっきょく、

>>現実問題として、私が恐れを抱くのは、この占領された南京に日本兵の恰好をした朝鮮兵がいたことです。

1名も確認できていないのに、何が「朝鮮人がいた」だ、この嘘吐きの妄想野郎。

>は?

投稿者: simon2000jp 投稿日時: 2004/09/11 12:00 投稿番号: [2980 / 41162]
このオイチャンコロというのはいい年をこいて平気で嘘をつき、
真摯に真実を追究しようなどという気持ちなど端からなく、
われらのご先祖様を言葉巧みに罵倒する為、
ただただ言を労して目立ちたいだけの、
アホなんです。
こんなやつを相手にする時間などもったいないですから、
やめたほうがいいですよ。

何ひとつこの男の発言に信頼性などありません。
歴史的知識など小学生以下です。

は?

投稿者: fighter8823 投稿日時: 2004/09/11 07:43 投稿番号: [2979 / 41162]
朝鮮はいつ日本と独立戦争を戦いましたか?

フィリピンはいつアメリカと独立戦争を戦いましたか?

スリランカ(セイロン)はいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?

ブルネイはいつイギリスと独立戦争を戦いましたか?

>あなたに論理的思考は期待しませんよ

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/10 18:59 投稿番号: [2978 / 41162]
>無料で独立をもらった国はありませんよね。


>では、朝鮮、フィリピン、スリランカ(セイロン)、ブルネイ、等々。

馬鹿を言っちゃいけませんよ。

彼の国においては独立戦争を行っていますし、血の代償も払っていますよ。

日本軍とも戦っていますよ。
知らなかったのでしょうかね?

もう少し、お勉強されてはいかがでしょうかね?

>非合法であれ、合法であれ、国際間で一応の決着を見た、利益を、戦前の状態の戻そうとするのは、正常な事ですよ。

>「正常か否か」なんて誰が言いました?

>スリカエは止めましょう。

正常かどうかなどとは言ってはおりません、当然の事だと申しております。
日本語お分かりでしょうかね?

>「第一次インドシナ戦争」とどんな関係があるのですか?

ど〜した?
返答に困ったのでしょうか?

>あなたに論理的思考を期待したのが

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/10 18:52 投稿番号: [2977 / 41162]
なんのことやら、

言いがかりばかりで、

よく、分かりませんな?

もう少し、想像力というものを働かせて見てはいかがでしょうか?

それに

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/10 10:11 投稿番号: [2976 / 41162]
>「その後の人口の増加」を示すまでも無く、それは物理的に可能だとお考えでしょうか?

とても赤ん坊を放り投げて突き刺したり、レイプしたり女性器を抉り取ったりする時間的余裕など皆無だったと思いますが。
(10人殺して死体を処理する延長で、100人規模、1000人規模、1万人規模の処理ができるわけではありませんし、市民の口や態度を防ぐことなどできません。)

それはつまり

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/10 10:06 投稿番号: [2975 / 41162]
>陥落後しばらくは、外国人の記者や外交官はは南京への上陸そのものが不可だったぞ。だから、当初残っていた4人の外国人記者が南京を離れた後は、1月上旬まで南京には外国人のジャーナリストは一人も入れなかった。

それはつまり、「30万人の犠牲者のほとんどはその期間に集中して行なわれたと思っている」ということでしょうか?

「その後の人口の増加」を示すまでも無く、それは物理的に可能だとお考えでしょうか?

南京に行った朝鮮人

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/10 10:01 投稿番号: [2974 / 41162]
>>現実問題として、私が恐れを抱くのは、この占領された南京に日本兵の恰好をした朝鮮兵がいたことです。
>では、この時期、中支那方面軍のどの師団に朝鮮兵が居たのか、具体的な師団名旅団名・連隊名をいってみろよ。


朝鮮人の従軍

『4   軍需員としての動員
(一) 軍属
国民徴用令による軍属としての朝鮮人動員は、一九三九年に開始されていたが、対米戦争開始以後、その数が急激に増大した。厚生省発表によると一九四五年までに一五万四九○七名の朝鮮人軍属が動員され、日本本土や南洋諸島で軍事土木工事、炊事係、捕虜監視要員や運輸要員として労働させられていた。
(二) 志願兵制度
  日本政府は、当初、朝鮮人に武器をもたせることを恐れていたが、戦争の際限のない拡大の中で、朝鮮人青年の軍人としての動員に踏み切った。一九三八年二月、陸軍特別志願兵令(勅令第九五号)を公布、同年三月に勅令一五六号で、六ケ月間の志願兵訓練所官制を制定し、羅南、   興、平壌、大邸などに陸軍兵志願者訓練所を設置、同年四月から志願兵制度を実施した。また、太平洋戦争が始まり、海軍の兵力が不足すると、一九四三年七月、海軍特別志願兵令(勅令六○七号)を公布、鎮海に海軍志願者訓練所を設置し、一○月一日から朝鮮人青年を海兵として養成しはじめた。
さらに、一九四三年には学徒志願兵として専門学校、大学の朝鮮人志願兵として動員された朝鮮人人青年は二万三六八一名である。
(三) 徴兵制度
日本政府は、対米戦争が始まり、より多くの兵力が必要になると、朝鮮人青年の戦争への動員をより義務的なものにするため、一九四二年五月一九四四年度からの徴兵制導入を決定し、「徴兵制施行準備委員会」を設立して準備にとりかかった。そして、中学以上に現役将校を配属し、国民学校卒業生を義務的に入所させ、軍事訓練や皇民化教育を行い、同年一○月には徴兵適齢届を行わせた。こうした準備を経て、一九四四年四月、ついに朝鮮に徴兵令が適用され、一九四五年までに二○万九二七九人の朝鮮人青年が戦場に狩り出された。
(四) 朝鮮人軍人軍属の処遇
日本軍は朝鮮人青年を動員したものの、その反乱を恐れ、朝鮮人だけの部隊は編成せず、日本人部隊の中にばらばらに配置した。』

このため、「朝鮮人部隊」はありませんでしたが、


http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19450514baikaru/15baik-simbun.htm

『ばいかる丸で帰国した160名は,朝日新聞によると「南京攻略戦に輝かしき武勲を樹て」た勇士ということです.日本軍は12月17日に中華民国の首都南京を攻略しますが,その直後に所謂南京事件が起こります.』

この朝鮮半島出身の鄭達去氏は、軍属として日本軍の通訳をしていた人ですね。
(もちろん従軍中はヘルメットも支給される軍服も日本軍のものです。)

この人がそうだというわけではありませんが、「日本軍の規律」を叩きこまれたわけではありませんし、「占領された中国人市民」との出会いは、彼ら(やその他南京にいた100名以上の朝鮮人)に「優越感」と「長年虐げられた恨みを晴らす機会」を与えただろうとは思います。


また、「朝鮮人下士官にイビられる日本内地人新兵」や「朝鮮人兵をいじめる」話は日本兵の従軍日記にも良く出てきますし、上海事変以降で中支軍や朝鮮軍に朝鮮人兵がいたのは間違いないですが、具体的な師団名旅団名・連隊名はすぐには分かりませんでしたので今後も調査してみます。

(ちなみに、日本軍の中では洪思翊中将や金錫源少佐が有名ですし、東京裁判で死刑になった日本軍のB,C級戦犯1061人中朝鮮人は23人です。南京にいたのが有名人ならすぐに分かるでしょうが、一般兵士や軍属から探すのは大変そうです。)

あなたに論理的思考を期待したのが

投稿者: fighter8823 投稿日時: 2004/09/10 09:07 投稿番号: [2973 / 41162]
間違いでした。

何しろ、

人口20万人で「かなりの密集地帯」で「人間がひしめいている状態」だとするなら、「20万人しかいなかったと言うことでは無く、それ以上いたかもしれない」なら、人口20万人の場合以上に「かなりの密集地帯」で「人間がひしめいている状態」

だ、ということが理解できないお方だというのを忘れていました。(笑)

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9 oa29ta4obbvbcb&sid=1143582&mid=5981


>既得権益を守ると言うことがお分かりになってはいないようです。


「第一次世界大戦の反省の上に立ち、侵略、植民地奴隷支配の害悪を嫌悪していた」のなら、既得権益もヘチマもないでしょう。


>非合法であれ、合法であれ、国際間で一応の決着を見た、利益を、戦前の状態の戻そうとするのは、正常な事ですよ。


「正常か否か」なんて誰が言いました?

スリカエは止めましょう。


>無料で独立をもらった国はありませんよね。


アジアでは、朝鮮、フィリピン、スリランカ(セイロン)、ブルネイ、等々。


>>第一次インドシナ戦争が代理戦争?
>>ベトナムの再支配を企んだフランスはどこの国の代理?

>フランスからアメリカにバトンタッチされたのは、ど〜してでしょうね?


何故「第一次」と命名されてるかご存知ないのですか?

アメリカが介入して以降は「第一次インドシナ戦争」とは言いませんよ。


>朝鮮戦争は何故、起きたのか?
>何故   アメリカが対応したのでしょうかね?
>北朝鮮を支援した国はどこの国でしたでしょうかね?


「第一次インドシナ戦争」とどんな関係があるのですか?

>横>論点がずれているのでは?あなたが

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/10 06:31 投稿番号: [2972 / 41162]
既得権益を守ると言うことがお分かりになってはいないようです。

どこの国も自分の国の利益は守ろうとするモノです。

非合法であれ、合法であれ、国際間で一応の決着を見た、利益を、戦前の状態の戻そうとするのは、正常な事ですよ。


また、被征服者の反乱抵抗があって、そこで、独立運動になり、独立が達成されるのが、今までの、常道ではなかったでしょうか?
当時アジアでは
独立とは血をながして勝ち取るものでしたと思うのですよ。

無料で独立をもらった国はありませんよね。

日本くらいでしょう、占領されてから、独立をもらったのは、、、ね。

>オランダやイギリスやフランスは、「第一次世界大戦の反省の上に立ち、侵略、植民地奴隷支配の害悪を嫌悪していた」けれども、もう一度植民地を取り返しに行ったというわけですか?(笑)

このような幼稚と思えるような、思考は単純なる馬鹿としか思えません。
理想はあくまでも理想であって、当時としては、実行には時間が必要であったのでしょう。
どこの馬鹿でも、その高尚なる理想が現実となる場合にはそれなりの時間的な経緯が必要なものと考えるでしょう。

それさえ理解できないとは、情けないを通り越して、アホとしか言いようがありません。

特に人間というのものは東西を問わず、他人、他国に対しては、自分や、自国の事は棚にあげて、要求するものだと言うことも、お考えくださいね。、、無理か?

>第一次インドシナ戦争が代理戦争?
>ベトナムの再支配を企んだフランスはどこの国の代理?


ベトナムの最大の支援国はどこだったのでしょうかね?
フランスからアメリカにバトンタッチされたのは、ど〜してでしょうね?

朝鮮戦争は何故、起きたのか?
何故   アメリカが対応したのでしょうかね?
北朝鮮を支援した国はどこの国でしたでしょうかね?

国際感覚にも欠けるのじゃ〜ね。

かなり目も悪そうですね。

>横>論点がずれているのでは?あなたが

投稿者: fighter8823 投稿日時: 2004/09/09 17:57 投稿番号: [2971 / 41162]
>当時の国際上のセンス特にヨーロッパおいては第一次世界大戦の反省の上に立ち、侵略、植民地奴隷支配の害悪を嫌悪していたのではないでしょうかね?

>>もしそうなら、何故、 タイやフィリッピンに抑留されていた旧蘭印軍の兵士がインドネシアに戻って来たのでしょうか?

>>何故、インドネシア独立戦争に英軍までが参戦したのでしょうか?

>>何故、フランスがインドシナ諸国の独立を認めず、植民地再建のためインドシナに戻って来たのでしょうか?


>それらはすでに彼らが取得していた、既得権益であったからでしょう。

>当然、取り返したいと思うでしょう。
>ただ、それだけですよ。


なるほど。

オランダやイギリスやフランスは、「第一次世界大戦の反省の上に立ち、侵略、植民地奴隷支配の害悪を嫌悪していた」けれども、もう一度植民地を取り返しに行ったというわけですか?(笑)


>>何故、第1次インドシナ戦争が起ったのでしょうか?

>代理戦争の始まりでしょう。


第一次インドシナ戦争が代理戦争?

ベトナムの再支配を企んだフランスはどこの国の代理?

仮にベトナムの再支配を企んだフランスの裏で糸を引く国があったのだとしたら、あなたは「当時の国際上のセンス特にヨーロッパおいては第一次世界大戦の反省の上に立ち、侵略、植民地奴隷支配の害悪を嫌悪していた」の主張を自ら否定することになりますけどね。

>外部に漏れる情報の制限

投稿者: kurunsupot 投稿日時: 2004/09/09 12:25 投稿番号: [2970 / 41162]
>当初残っていた4人の外国人記者が南京を離れた後は、1月上旬まで南京には外国人のジャーナリストは一人も入れなかった。


結局、外国人ジャーナリストが1人もいなかった期間は、何日間くらいですか?

 何とも 底抜けに女々しい 今の中国人

投稿者: iiikkassamaaaworldcaps 投稿日時: 2004/09/09 10:09 投稿番号: [2969 / 41162]



         何とも   底抜けに女々しい   今の中国人


 
   かつて   アジアの盟主を   自認しながら

     白人に膝を屈した   中国人

     眠れるブタ   とまで言われた   駄目な中国人

     犬と中国人   入るべからず   とも言われた


 
   自分自身の   情けなさに対する   嫌悪感

      そして   日本人に対する   暗い劣等感



   そんな   女々しい感情を   反日感情に   すり替える

     何とも   底抜けに女々しい   今の中国人

     昔の中国人は   もっと   まともだった

     それを   反省することもできない



  そこまで堕落した   中国人    朝鮮人と   同じレベルだ

     朝鮮人と同じ   ということは   世界で最低   ということだ


横>論点がずれているのでは?あなたが

投稿者: oityantyan 投稿日時: 2004/09/09 06:26 投稿番号: [2968 / 41162]
論点がずれてやしませんか?


ことらが言いたいのですよ!

それらはすでに彼らが取得していた、既得権益であったからでしょう。

当然、取り返したいと思うでしょう。
ただ、それだけですよ。

日本政府の行った植民地略奪政策は戦争遂行のための占領にしか過ぎなかったことが良く分かると思いますがね。

現地で搾取、強奪した物品が、戦争初期にこそ内地で加工、現地へ補給という体制が整っていましたが、まもなく
、輸送船も無くなり、ほんどへの搬送が出来なくなったにもかかわらず、倉庫には略奪品が山積みとなり、内地からの補給もおぼつかなくなり、自滅していったのですよ。

ですから、アジアのインフラ整備などしてはいませんね。

>何故、第1次インドシナ戦争が起ったのでしょうか?

代理戦争の始まりでしょう。
国際感覚が異なりますよ。

具体的に師団名・連隊名いってみな

投稿者: oj_simpsan 投稿日時: 2004/09/09 04:52 投稿番号: [2967 / 41162]
>現実問題として、私が恐れを抱くのは、この占領された南京に日本兵の恰好をした朝鮮兵がいたことです。

ほう。断言するわけね。
では、この時期、中支那方面軍のどの師団に朝鮮兵が居たのか、具体的な師団名旅団名・連隊名をいってみろよ。

この時期、師団はもとより連帯に至るまで編成された場所は明らかになっているぜ。
どこに、朝鮮兵が編入された連隊があるんだい。具体的にいってみな。

断定するだけの根拠を言ってみなさい、n_o_i_s_e_m_a_n先生。

外部に漏れる情報の制限

投稿者: oj_simpsan 投稿日時: 2004/09/09 04:38 投稿番号: [2966 / 41162]
>南京については、基本的に自国や他国のマスコミの進入は可能だったわけで、
少なくとも組織的に虐殺・弾圧・略奪・レイプといったことを行なうつもりはなかったことは明らかです。

陥落後しばらくは、外国人の記者や外交官はは南京への上陸そのものが不可だったぞ。だから、当初残っていた4人の外国人記者が南京を離れた後は、1月上旬まで南京には外国人のジャーナリストは一人も入れなかった。

oityantyanを責めないで。

投稿者: donchan5656 投稿日時: 2004/09/08 22:02 投稿番号: [2965 / 41162]
あんまりいぢめるとまたどっかにトンズラします。

あっちこっちで負け続け、もうここしかないのに・・・・・

(。>_<。) えーん

もう少しかわいがってあげてください。

希少価値はあるんですから。

 反日は おろかな中国人の 自作自演

投稿者: iikkassaamaaawor1dcaps 投稿日時: 2004/09/08 19:05 投稿番号: [2964 / 41162]



       反日は   おろかな中国人の   自作自演




  底辺の   中国人は   朝鮮人と違って

    根性の腐った奴は   それほど多くは   ありませんが

    民度が低く   政治よりも   食うことや   金儲けに必死で

    政治家を   選ぶセンスが   ゼロなので

    無能で   残忍な奴ばかり   政治家になります

    毛沢東のように   数百万人も   数千万人も   虐殺した狂人が

    いまだに   英雄扱い   されているのです




  そして   無能で   残忍な政治家   江沢民による   反日洗脳教育で

    民度の低い中国人は   簡単に   反日洗脳   されてしまいました

    中国人の反日は   中国人が   勝手に作り出した   反日です

    反日を   外交カード化する   卑劣な   外交戦術なのです

    反日について   日本には   何の責任も   ありません

    反日は   おろかな中国人の   自作自演です




  こんな中国に   善意も   援助も   指導も   無駄な努力です

    平均的一家庭あたり   毎年数万円の税金が   中国への援助になります

    税金を   ドブに捨てている   ようなものです

    中国は   日本からの援助で   日本を狙う   核ミサイルを   建設しています

    中国人は   世界でも最低の   野蛮人なのですから

    日本も   核武装して   自国を守るほか   ありません

    日本はいつでも   中国をはるかに上回る   核武装が可能です

    桁外れに違う   技術力の差を   思い知らせて   やりましょう




現実的な恐れ

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/08 15:27 投稿番号: [2963 / 41162]
現実問題として、私が恐れを抱くのは、この占領された南京に日本兵の恰好をした朝鮮兵がいたことです。

日本の精鋭部隊は、次の戦闘のためにすぐに多方面に移動しており、「兄弟国を最前線に送るのは忍びない」と南京守備には結構朝鮮兵がいたわけで、
はっきり言って「支配者側の立場に身を置いた彼らが市民に何もしなかった」と考える方がかなり難しいということです。

外部に漏れる情報の制限

投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2004/09/08 15:26 投稿番号: [2962 / 41162]
チェチェンやチベットの問題でよく分かるのは、虐殺・弾圧(略奪・レイプ)を行なうためには「外部に漏れる情報の制限が欠かせない」ということです。

軍事施設といったものは、どこの国でもマスコミに公開され難いでしょうが、街そのものにマスコミ(特に海外特派員)の進入を禁止するとなると、「それは弾圧をやるつもり」と言っているようなものです。


南京については、基本的に自国や他国のマスコミの進入は可能だったわけで、
少なくとも組織的に虐殺・弾圧・略奪・レイプといったことを行なうつもりはなかったことは明らかです。
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