入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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◆「南京大虐殺」という史上最大の与太話①

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/11/29 19:04 投稿番号: [1160 / 2250]
戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。

  まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。
  虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。
  そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
  場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。
  また、証言者が、
  「中隊の軍紀は非常に厳正でありました。」
  などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。
  自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
  宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮買ったものであると、読者が抗議しています。
  また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
  そのような記事について、
  「そんなことはあり得ないことである」
  と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。
  都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。
  全く礼儀知らずと言うほかありません。


さらに、偏向的時後取材により「南京大虐殺」を盛んに主張する例を挙げます。
  朝日新聞の本多勝一という記者が「中国の旅」という本を書いています。
  これは彼が戦後・満州・中国に行って、日本人がそんなに悪い事をしたかを中国人に取材して、全く無批判に鵜呑みにして書いたものですが、その内の南京関係の例をあげてみましょう。

  イ、姜根福の証言。
    日本軍は南京城北の燕子磯で10万人くらい機関銃で射殺した。
    紫金山で2千人を生き埋めにした。
    あるいは軍用犬に中国人を襲わせ、その人肉を食わせた。城内で20万人を虐殺、死体を積み上げて石油をかけて焼いた。

  ロ、伍長徳の証言。
    南京戦直後、日本兵に銃剣で肩を刺されたが逃げ、揚子江に飛び込んで、日が暮れるまで水中に隠れていた。日本軍は逮捕した青年を高圧線にぶら下げてあぶり殺し、工業用硝酸をかけて殺した。

  ハ、李秀英(女性)の証言。
    日本兵に強姦されそうになり抵抗、その銃剣を奪って格闘して追い払った。しかし37ヶ所も刺されて気絶していたのを、親族の者達に助けられた。

  2千人を生き埋めにするための労力と時間と穴の大きさは、どれ程のものであったのでしょうか?
  軍用犬に人を襲わせて、その肉を食わせるなどという馬鹿なことがあり得るのでしょうか?
  石油や工業用硝酸を、戦場でいつ、どこで入手したのでしょうか?
  揚子江は確かに冬でも凍りはしませんが、12月の揚子江に飛び込んで、首だけ出していて一体日が暮れるまで我慢できるのでしょうか?
  高圧線に、どうやって人間を吊り下げるのでしょうか?
  当時の日本兵は現役バリバリで士気も高く、女性と格闘して銃剣を奪われ、尻尾を巻いて逃げ出すような情けない兵士がいる訳がありません。
  37ヶ所も刺されて失神した者が、また蘇生するなどという事があり得るでしょうか?
  どれ1つ取ってもすぐウソだと判る事ばかりです。
  それを本多勝一記者は、「なるほど、ごもっともです」とそのまま本にしているのです。
  本多記者については、
  「朝日の中には、本多君に対して良くない感情を持っている人が沢山いる」という事を朝日新聞の同僚の記者が言っていますし、又石原慎太郎氏は平成3(1991)年の「文藝春秋」に、
  「朝日には本多という奇妙な性格の記者がいて、盛んに南京虐殺のことを書く」と言っております。
  本多勝一記者は、
  「日本の子弟に国際性を持たせるため、南京大虐殺の教育を徹底させる必要がある」と言っています。
  私は売国奴、何を血迷ったか、妄語断じて許すべからずと、憤(いきどお)りに駆られます。

米軍の捕虜  (日本兵) 虐殺3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/29 18:41 投稿番号: [1159 / 2250]
正論2000年5月号   86〜87 p

リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋
◇下巻 「戦時下の南太平洋にて」(一九四四年四月〜一九四四年九月) から


《   八月十四日   月曜日

午後は将校達と話をしたり、原稿の執筆に費やしたりする。

ヌムフォール島でまだ続いている戦闘情況を訊 (き) いてみた。

日本軍の孤立した拠点が幾つか残存しており、

その一つがキャンプから二マイル半のところにあるという。


同地区の歩兵部隊を訪問できないものかと持ちかけても、積極的な反応には接せず。

戦闘飛行連隊管制班の連中が自発的に定期的なパトロ−ルを実施し、

相当数の〝ニップス〟を殺したと将校たちは語る。

そのリーダー格は管制班に所属するチェロキー・インディアンの混血であった。

「連中はちょいちょい、自分たちで殺したジャップの大腿骨を持ち帰り、

それでペン・ホルダーとかペーパー・ナイフとかいったような品を造っている」。



   八月三十日   水曜日

…タラワは多くの血が流された戦場にしては驚くほど小さな島だ。…

同行の士官は第一波が上陸に成功してから間もなく到着したのだが、

海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。

激戦であった。わが方も将兵の損害が甚大であった。

敵を悉   (ことごと)   く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。

捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。

英語を話せる者は尋問を受けるために連行され

あとの連中は   「一人も捕虜にされなかった」   という。



   九月九日   土曜日

ケネス・コリヤー中尉、マッコール大尉らと昼食。

話題は何となくロイ島の侵攻作戦と占領当時のことに及ぶ。…

将校の話によれば、穴の中の遺体を 「ブルドーザーにかける」 前に、何人かの海兵隊員が

遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。

金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、

耳や鼻を切り落されている日本軍の戦死体を幾つか見たとも言った。


「兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて

帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。

頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が

強くなり過ぎたので、首を取り上げねばなりませんでした」。

行く先先で聞かされる似たり寄ったりの話だ。



   九月十四日   木曜日

…オアフ島へ向う途中、一時間ばかり操縦桿を握ってみた。零時二十八分に着水。

到着したとき、海軍航空輸送部事務所にはたまたまジョン・ヤング大佐ら数名の

海兵隊将校が居合わせていた。大佐からエワで一夜を過すようにと招かれる。

通関を済ませ、車でエワの基地に向った


(税関吏は荷物の中に人骨を入れていないかと質問した。

日本兵の遺骨をスーペニアとして持ち帰る者が数多く発見されたので、

相手構わずにこのような質問をせねばならないのだと言う。

税関吏はまた、手荷物の中にまだ   「緑色をしている」   日本兵の頭蓋骨を二個も

忍ばせていた男を発見したことがあるとも言った)》


*   善人心の日本人は、日本軍は残虐無比と教え込まれ、それを信じているようだが、

   これらの米兵と比べてどうなのだろうか?

米軍の捕虜  (日本兵)  虐殺2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/29 18:31 投稿番号: [1158 / 2250]
正論2000年5月号   85〜86p

リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋
◇下巻 「戦時下の南太平洋にて」(一九四四年四月〜一九四四年九月) から


   七月二十四日   月曜日
・・・

そこには一人の日本軍将校と、十人か十二人の日本軍兵士の死体が、切り刻まれた

人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま、横たわっていた。

…頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。ある場所では一個の遺体に

二つの首が並んでいるかと思えば、他の場所では遺体に首が無かった。

なかには四肢がばらばらになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。

そして同行の将校が言ったように、   「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。

つまり、戦利品として金歯を悉   (ことごと)   くもぎとったというのである。



洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らねばならぬ。

山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。

穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだ

トラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。

同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。敵を殺す、これを理解できる。戦争の

欠くべからざる要素だ。敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。

しかし、わが同朋が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、

残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる。



  八月六日   日曜日

明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本人

捕虜の問題を話し合った。私は自分の考えを述べた原文は、だが誤植だと思われるので。

でもよい相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、

投降を受け容れればわれわれの進撃は一段と速くなり、

多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。



とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、

彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう   −

そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将校を殺すであろう、と。

大多数の将校は私の意見に同意したが (さほど熱烈に同意したわけではないが)、

しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。



「たとえば第四二連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。

兵どもはそれを自慢にしているのだ」

「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜一名に付きシドニーへ

二週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。

お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」

「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。

兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」


つづく

12月27日 中国 日本の和平案検討

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/29 18:24 投稿番号: [1157 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   259〜260p


《 十二月二十七日、蒋介石が国防最高会議を招集して、日本側提案を

討議の対象にすると、意外にもとにかく交渉すべきだと主張する者が、いた。

交通部長愈飛鵬、教育部長王世杰らである。



そして、会議後、交通部長愈飛鵬は大使トラウトマンを訪ねた。

「中国としては、日本の条件をうけいれるべきでしょうか。

大使閣下のご意見をうかがいたい」

「残念ながら、本使はその種の意見をのべる立場におりません」

「それでは、結局、貴国のお力で停戦にもちこむことはできないのでしょうか」

  交通部長愈飛鵬は、大使トラウトマンの明答を得られぬまま、

肩をおとして帰っていった。



  蒋介石は、憤然とした。

「今日除投降無和平、捨抗戦外無生存、彼等実昧於大勢、不知国家利害、

此革命之所以未能成功、一至於此也」

(いまや降伏以外には和平はなく、抗戦する以外に生存の道はない。

彼らは世界の大勢にくらく国家の利害も知らない。

革命が成就できないゆえんは、まさにここにある)



蒋介石は、ソ連の援助をもとめる決心をかため、立法院長孫科にモスクワ行を指示した。

行政院副院長孔祥煕は、ドイツ商社   『HAPRO』   代表H・クラインをまねいて、述べた。

「(日本との)和平交渉開始の努力が成功しなければ、国民政府は、

たとえわが国が経済的に破綻しようとも、また、たとえわが国民を

ソ連の腕の中におしやろうとも、最後まで抗戦するつもりです」



H・クラインから通報をうけた外務次官H・マケンゼンは、駐支大使トラウトマンに、

ソ連との接近強化は中独関係を改変させる旨を中国側につたえるよう、指示した。

同時に、次官マケンゼンは、駐日大使ディルクセンにも、中国の赤化は

防共協定にそぐわない、不満があっても日中関係を正常化して

中国の赤化を防止すべきだと日本政府に勧告せよ、と訓令した。



駐日大使ディルクセンは、その程度の勧告で日本側の考え方を変えられるものでもない、

と思ったので、とっさには行動しなかった。》



*   「いまや降伏以外には和平はなく、抗戦以外に生存の道はない。」   と

   蒋介石は言っていますが、日本はそこまで解からん事を言っては、いません。

   彼らが、このような妄想を抱いて、解決を不可能にしているだけです。


   もともと、戦争を仕掛けたのは中国でして、

   日本は大幅に譲歩した和平案を出していたのです。

   それを蹴って戦争を続けたから、こうなったわけです。

   全ては、自分たちがまいた種なのに。   なぜ、非を悟らないのでしょうか。

捕虜大量殺害に関する兵士の陣中日記(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/29 17:07 投稿番号: [1156 / 2250]
山砲兵第19連隊第3大隊   上等兵の日記の記述は
さらに、次のように   続いている。

  拾二月拾五日   晴
   南京城外其地に我が拾三師団は休養する事となった、
   午前馬糧の徴発に忙しかった、敵首都南京城も助川部隊
   が拾三日午前拾時三十分に占領してしまったのである、
   城内にも入城する事が出来た。
  拾二月拾六日   晴
   午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯の目的にて馬風山
   方面 に向ふ 、二三日前捕慮せし支那兵の一部五千名を
   揚子江の沿岸に連れ出し   機関銃を以て射殺す、
   其の后銃剣にて思う存分に突刺す、
   自分も此の時ばかりと憎き支那兵を三十人も突刺した事で
   あろう。
   山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは
   鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、
   うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も
   居る、   一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、
   こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった、
   (略)
   帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。
   (『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P350〜351)
 
次は、山砲兵第19連隊第8中隊の伍長に日記の記述。

  〔十二月〕十四日
   午前四時起床、直ちに出発する、道路暗くて而も寒い、
   前進して午前八時頃敵の降伏兵の一団に逢ひ敗残者の
   悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、
   更に数団、全部にて三千名に達せん、
   揚子江を船で逃げる兵を小銃軽機にて射撃するのも面白し、
   目の前に南京城を見て降伏兵の一段を馬上より見下すのも
   気持が悪くない、南京牧場宿営、女を混じへた敵兵の姿。
   (略)
  〔十二月〕十六日
  (略)夕方二万の捕慮が火災を起し警戒に行った中隊の兵の
   交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日
   揚子江畔にて銃殺と決し   護衛に行く、
   そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
   月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、
   断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、
   戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、
   一生忘るる事の出来ざる光影であった。

この兵士の記録にも   大勢の捕虜を   揚子江の畔に連れ出して
機関銃による銃殺や   銃剣による刺殺によって   殺害したこと、
12月16日には、自分も30人ほどを突き殺したことなどを
記録している。   南京攻略に従軍した日本軍の兵力は約10万。
この兵士だけが特別で異常な存在でなければ、数日間のうちに
何万もの中国人を   殺害するのは、じつに   容易いことだった。

捕虜大量殺害に関する兵士の陣中日記(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/29 17:05 投稿番号: [1155 / 2250]
前述した歩兵第65連隊連隊砲中隊一等兵の陣中メモには
12月17日に   捕虜1万数千人を銃殺し、翌18日から
その遺体の片付け作業に日数が費やされたと記録している。
遺体片付けについては、同連隊所属の別の兵士の日記にも、
次のような   記録がある。

  12月18日
   入城式も終はって、今度は一時にひまとなった。
   朝飯を食してより南京見物に行く。   (中略)
   中隊では死体片づけに全員行っている。   夕方になる。
   夕飯の準備をしているうちに戦友が真っ黒な顔をして
   帰ってくる。   聞いてみれば、煙にて染まったとか。

中隊全員で   朝から夕方までかかって、遺体の片付けに
当たっていた。   もちろん、日本軍兵士の遺体ではない。
次に、同じ時期のことを記録した   山砲兵第19連隊
第3大隊段列・編成   伍長の陣中日記を   引用しよう。

  十二月十六日   晴天   南京城外
   休養、市内に徴発に行く、(中略)午後四時山田部隊にて
   捕いたる敵兵約七千人を銃殺す、揚子江岸壁も一時死人の
   山となる、実に惨たる様なりき。
  十二月十七日   晴天   南京城外
   午前九時宿営地出発、軍司令官の南京入場式、
   歴史的盛儀に参列す、
   午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、
   二日間にて山田部隊   二万人近く銃殺す、各部隊の捕慮は
   全部銃殺するものの如し。
  十二月十八日   晴天   南京城外
   午前三時頃より風あり雨となる、朝起床して見ると各山々は
   白く雪を頂初雪となる、   南京城内外に集結せる部隊数
   約十ヶ師団との事なり、午後五時残敵一万三千程銃殺す
   (『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P373)

次に、山砲兵第19連隊第3大隊   上等兵の日記を引用する。

  拾二月拾三日   晴
   七時半某地を出発した、揚子江附近の道路を通過する際
   我が海軍の軍艦がゆうゆうと進江して居るのがよく見えた
   敵の敗残兵は諸所に殺されて居た、午后八時某地に到着
   宿営す。
  拾二月拾四日   晴
   午前三時半出発して前線に進む、(略)   途中敗残兵を
   六五にて   一千八百名以上   捕慮にして   其の他沢山の
   正規兵で合計五千人の敗残兵を拾三師団にて捕慮にした
   全部武装解除をしたのも見事なものである、
   命令我が大隊は馬風山砲台を占領して東外村に宿営す、
    (略)
   捕慮兵は両手をしばられ歩兵に警戒せられて或る広場に
   集められて居た、馬風山砲台には日章旗高く揚げられて
   万歳を唱へられた、
   種々なる感想を浮べて前進を続け東外村に宿営す、(略)

捕虜大量殺害に関する兵士の陣中日記(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/29 17:03 投稿番号: [1154 / 2250]
日本軍兵士たちの陣中日記には、南京戦を   実体験した
兵士だけが見た   そのときの真実が   記録されている。
次に引用するのは、歩兵第65連隊   本部通信班所属の
有線分隊長・編成   伍長の記録した日記から   抜粋する。

  十二月十四日
   未明油座君支那の工兵大尉を一人とらへ来る。
   年、二十五才なりと、R本部は五時出発、
   吾は第五有線班の撤収をまちて八時半出発。
   午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。
   敵の銃をひろひて撃てるものなり。
   第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり。
   天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向かふ、
   鹵獲銃は道路に打ちくだく。
   一丘をこえて南京の城壁目(間)近に見ゆ。
   城壁一千米手前にて彼の工兵大尉を切る、
   沈着従容たり、時午後四時也。
   午後五時半、R本部に至るも本部未着六時四十分頃着す。
  十二月十五日
   午前九時朝食、十時頃より×××伍長と二人して徴撥に
   出かける、何もなし、唐詩三百首、一冊を得てかへる、
   すでに五時なり。   揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、
   三四十名づつ一度に行ふものなり。

次は、歩兵第65連隊連隊砲中隊・編成   一等兵の陣中メモ。

  〔十二、〕十四
   午後五時出発夜頃より敵兵続々と捕虜トス、幕府山要塞を
   占領し午後二時戦斗を中止す、廠舎に捕虜を収容し其の前
   に宿営警戒す、捕虜数約一万五千。
  〔十二、〕十五
   今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。
  〔十二、〕十六
   飛行便の書葉到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、
   約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出
   銃殺に附す。
  〔十二、〕十七
   未曾有の盛儀南京入場式に参加、一時半式開始。
   朝香宮殿下、松井軍司令官閣下の閲兵あり、
   捕虜残部一万数千銃殺に附す
  〔十二、〕十八
   朝より小雪が降った、銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し
  〔十二、〕十九
   本日も敵兵の片付に行く、自分は行かなかった。

12月17日、同連隊だけで、捕虜の殺害数は1万数千人。
その遺体の処理に日数を要し、小雪が降る季節であるにも
かかわらず、「臭気甚だしい」   という状況だったという。

捕虜大量殺害に関する兵士の陣中日記(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/29 17:02 投稿番号: [1153 / 2250]
さらに別の   日本軍兵士の   陣中日記を   引用してみたい。
次は、歩兵第65連隊   第1中隊・編成   上等兵の日記だ。

  十二月十三日   晴
   午前六時宿営出発。   余(途)中数十名の敗残兵を
   射殺し   十時銃胞(砲)声の中に   入りたるの感あり、  
   銃胞(砲)声を近くに聞く事始めての我等は、
   胸の度きをおぼゆる。いつか一ヶ中隊だけ独立となり、
   且、一小隊わ将校斥候に出て居らず、此の附近、
   道には地雷を二十米をき位にあり、山わざんごうあり、
   鉄条網ありて厳強なる陣地の如し。
   午后三時頃はからず烏龍山砲台なるを知り占領。
   砲台は主として揚子江に面し陸にはとちかを築き
   陣地の補強工事中なり。
  十二月十四日   晴
   警備。   敗残兵掃蕩のため中隊長准尉一小隊の一分隊と
   我四分隊とで砲台に行く。   幾名とも知れず射殺す。
  十二月十五日   晴
   敗残兵数百降伏し来るとの報に一同出動、約二千米。
   山中に小銃約百丁、チェック四、銃重機二其の他多数の
   弾薬を置き逃走。右武器を前日占領の自動車にて中隊に
   運ぶ。
   (略)
  十二月十七日   晴
   警備。(略)毎日敗残兵の銃殺幾名とも知れず。

毎日、敗残兵を   銃殺した。  
その数は、「幾名とも知れず」   という記録だ。
次は、歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充   少尉の日記。

  十二月十五日
   一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す
   本日も出発の様子なく警戒に任ず。中隊は衛兵を多数出し
   又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。
   夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて
   捕慮兵の給食は勿論容易なるものでない。

  十二月十六日
   警戒の厳重は益々加はりそれでも(午)前十時に
   第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも
   疎の間で午食事中俄に火災起り
   非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時
   大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を
   揚子江岸に引率し之を射殺す、
   戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。

やはり、大隊として   「取るべき手段」との判断のもとで
無抵抗の   大量の捕虜を、組織的に殺害したことがわかる。
参考資料:『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
小野賢二ほか編、大月書店(1996年3月発行)

捕虜大量殺害に関する兵士の陣中日記(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/29 16:57 投稿番号: [1152 / 2250]
盛んに「虐殺事件マボロシ論」   を振り回すヤカラの中には、
何十万人もの捕虜を殺害することなど物理的に不可能だから
大虐殺があったという証言はウソだ、などと大マジメな顔で
決めつける者もいる。   見識の乏しさを   自白するものだ。

大量虐殺は、南京城陥落前後の数日間に限ったことではなく、
長期にわたる   攻防戦と占領後の掃蕩作戦の中で   発生した
事件であることを理解すべきだ。   そして、一部の無法者が
犯した行為ではなく、数万にのぼる   武装兵士が、組織的に
実行したのだ。   何十万の生命を   奪うのは   可能だった。

その実態は、夥しい証言と記事により浮き彫りになっている。
一例として   南京戦にあたった将校の陣中日記を見てみよう。
以下は、歩兵第65連隊   第1大隊本部・上等兵の日記だ。

  ◇十二月十四日
   朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り
   計一万五千名位 。
  ◇十二月十五日
   今日一日捕虜多く来たり、いそがしい。
  ◇十二月十六日
   今日南京城に物資徴発に行く。
   捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
  ◇十二月十七日
   今日は南京入城なり(一部分)。
   俺等は今日も捕虜の始末だ。
   一万五千名、今日は山で。   大隊で負傷、戦死有り。

第65連隊の   第1大隊だけ、しかも   2日間だけで、
捕虜を   1万7500名も   殺害した   という記録だ。
日本軍全体で、捕虜の処理に   何日間もかけたとすれば、
殺害された捕虜の総数は、想像を絶するものだ。
次は、歩兵第65連隊第1中隊・編成   上等兵の陣中日記。

  拾二月拾七日
   (略)午后一時から   南京入場式。
   夕方は   大隊と一所の処で   四中隊で   一泊した。
   その夜は   敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した。
  拾二月拾八日
   大隊本部に行った、そして午后   銃殺場所見学した、
   実にひどいざん場でした。

やはり、戦闘によって   敵兵を殺傷したのではなく、
「捕虜」を大量に   銃殺処分にしたことを   記録している。
降伏した敵兵、捕虜を   武装解除後に   殺害することは
違法行為であり、それ以前に   人道上   許されない。

参考資料:『南京戦史資料集2』南京戦史編集委員会編
(増補改訂版   平成5年12月8日)

Re: 中国人大量殺害に関する日本兵の証言(

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/11/28 22:12 投稿番号: [1151 / 2250]
  貴重な証言から見えてくる真実☆☆☆☆   納得しました。先入観なく、客観的に資料を分析され、理路整然としたあなたの主張は、素直に胸におちます。ありがとうございました。

中国人大量殺害に関する日本兵の証言(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/28 21:20 投稿番号: [1150 / 2250]
16師団歩兵第38連隊第1大隊の   兵士の証言は次のとおり。

   南京の   和平門に着いた。   門が閉まっていて   野砲が
   どんどんと撃った。   抵抗がやんだので縄梯子で登った。
   中にいた敗残兵が、次々と   手を挙げて   出てきました。
   大隊長は「切れ」   という仕草をして両手を振り下ろし
   ました。    命令ですので   みんなで   突き殺しました。
   門を入ると捕虜を集めていました。   捕虜は、固まって
   こちらに   十五、六人、あちらにまた   十五、六人と
   たくさん   いました。   それを   集めていましたな。

第33連隊   第2大隊の   兵士の証言は   次のとおり。

   十二月十三日南京陥落後の翌日朝八時頃に南京の太平門に
   入りました。   そこで   十四日、十五日と   二日間警備を
   しました。   入った日の   前々日の攻撃で   死んだ死体が
   そのまま   放ったらかしてありました。
   松井司令官の命令で   各師団長に、師団長から各中隊長に
   伝わってきていたと思うんやが、兵隊は何事も命令なしで
   勝手にやってはならんからな。   当時分隊長が「男は皆
   殺してしまえ!」   と言って   話は覚えています。
    
下記は、同大隊に所属していた   別の兵士の証言だ。

   陥落してから、二日ぐらいしてから   南京城内で   掃蕩を
   しました。   家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。
   調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることも
   あるし、その場で   ぼんと銃でやってしまうこともあった。

次は、同隊の   別の兵士の証言。

   捕虜の処分は   師団命令です。
   実際に   私ら兵隊に   命令を下したのは、中隊長で、
   「捕虜にした者は全部殺せ」と言って指令されました。
   どのぐらいの人数を   殺したか、数は   分かりません。
   一日にだいたい一個小隊ぐらい、五十〜六十名ぐらいを
   処分しました。

同連隊の第3機関銃中隊の   兵士の証言は   次のとおり。

   私らは   小銃中隊の兵隊と一緒に   入城しました。
   小銃隊の兵隊が支那の兵隊を銃剣で突き刺しているのを
   目撃しました。   男は   みんな捕まえてましたな。
   でも、私ら   重機関銃隊は   そんなことをしてません。
   実際、南京戦で「支那人を殲滅しろ」   という命令が
   私ら   第三機関銃中隊に   来てましたけれど、
   各中隊にもそんな命令が出ていたかどうかわかりません。

以上、参考『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環編著
社会評論社(2002年8月15日初版第1刷発行)
こうした膨大な証言から判明するのは、
大量殺戮が、兵士個々人の   犯罪ではない   という事実だ。
これは、日本軍という組織としての集団的犯罪に   ほかならない。

中国人大量殺害に関する日本兵の証言(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/28 21:16 投稿番号: [1149 / 2250]
前述した   第16師団歩兵第33連隊   第3機関銃中隊の
兵士の証言は、次のように   続いている。

   「今から上陸するところは米が穫れる、水牛がおる、」
   「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と言う命令でした。
    (略)
   上陸してから   常熟で一晩泊り   翌日の出発前に
   家を全部   焼き払いました。   民家の中のタンスやらを
   積んで火を点けたら全部燃えました。   結構広い部落が
   全部燃えました。   そうしたら、後方部隊が来るように
   なったので「家を焼くな」という命令が再び出たんです。
   それは無錫の手前でした。命令は小隊長から聞きました。

同中隊の   別の兵士の証言もある。   内容は   以下のとおり。

   中島師団長という人は剛胆な人で、「支那の家を全部焼いて
   しまえ」   と言いましてな。   白茆口へ   上陸した時です。
   「ここは抗日の一番ひどいとこやから各部落の家は全部焼け」
   とも言いました。   私も上陸してから露営して、すぐに家を
   焼きました。   仲間内で   伝わって来ましてな。
   「師団長が   言うたんで、やってしまえ」と。
    (略)
   師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと
   二十聯隊か   三十八聯隊か   九聯隊か   知らんけど、
   そういうことを   やりましたでしょうな。
   それが   問題になったわけです。
    (略)
   命令授与で   「風紀・軍紀厳正」   という命令は
   いつでもありましたけど、じっさいには、支那におった時には
   あんまり   やかましく   言われませんでした。
   日本の兵隊は   無茶なことしてますわ。
   強姦は   南京戦より徐州戦の方が   ひどかったくらいです。
   南京でも   もう乱れてましたな。

大量殺戮の背景には、無差別掃蕩命令の   存在があった。
同連隊第1大隊に属した   別の兵士の証言を   見てみよう。

   十二月十四日、揚子江岸で   捕虜を千二百人いっぺんに
   処分しました。日記に書いているように惨いことでした。
   処分がすんでから、悒江門から城内へ掃蕩に入りました。
   (略)
   捕虜剔出には人数を数える暇なくどんどん捕まえました。
   捕虜といっても   中国服を着た   男ばっかりでした。
   掃蕩をやる時は   中隊長の指揮によってです。
   注意事項というものはなく
   「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と
   上部の命令として   言われていました。
   直接この命令を聞いた覚えはないが、中隊長か   大隊長が
   発したのだろう   と思っています。
   実際、男を敵兵として捕らえ、一人ひとりを調べることなど
   しませんでした。
   おとなしく   投降しても、中国人は全部   殺してしまう。

中国人大量殺害に関する日本兵の証言(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/28 21:15 投稿番号: [1148 / 2250]
第16師団   歩兵第33連隊   第1大隊と   第2大隊の兵士の
証言を引用した。   次に、第3大隊の兵士の証言を引用する。

   昭和十二年八月、大召集を受けて、九月に   久居を出発し、
   大阪港から出航しました。九月、十月、十一月は   河北の
   戦闘で   韓家頭や八里荘で   初めて戦闘を体験しました。
   (略)
   部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。   部落に入ったら、
   猫の子でもいいから   生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」
   と命令が出ました。
   それでわずか百メートル先に五十戸位の部落が見えたんです。

   これこそと   攻撃をかけたけど、猫の子一匹もいやしません。
   粗末な一軒の   農家の中のアンペラが   コソコソと動くので
   めくり上げると、四十歳位の   妊婦が   二人の幼児を
   両脇に   だきしめて   隠れていました。
   コノーと引きずり出すと   子供は泣き叫び   母親の後に
   しがみついている。

   母親は   もう一人の子を   クリークの中に   つっこんだ。
   ××伍長が   これこそ戦友の仇と   即座に   銃で三人を
   撃ち殺してしまった。
   その時は   気がたっていた   というか、女子供なのに
   酷いことを   しました。

同連隊   第1機関銃中隊の   兵士の証言は   次のとおり。

   私ら行った時は   白茆江やったかな。
   弾飛んで来えへんかったということは   敵おらへんかった。
   上陸の時   命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」
   と言われていたで。
   家を焼けとの命もあって、うちの中隊でも   放火班があった。
   十人位で   火をつけたけども   常熟の前やったか、
   一日ぐらいで止めた。

後者の証言にある   白茆江は、南京城攻撃の   1か月前に
攻略した地点であり、すでに   この時点で無差別な殺害を
兵士たちは   命じられていた事実が伺える。
この事実を裏付ける   別の兵士の   証言もある。
以下は、同連隊   第3機関銃中隊の   兵士の証言だ。

   大連から南下して上海から揚子江を上にいった白茆口
   という所に   着きました。   そこでは   敵前上陸で、
   そこから   どんどん追撃して   南京まで行ったんです。
   その時、私は   上からの命令文を   見ました。
   「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。
   その命令は   白茆口に上陸する   前日に出たんです。

中国人大量殺害に関する日本兵の証言(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/28 21:13 投稿番号: [1147 / 2250]
非武装の民間人を   殺害することは、明確な戦時法違反だ。
その違法行為が、一部の個人による勝手な振る舞いではなく、
組織的に行われた点に、中国戦線における   日本軍全体の
問題が表れている。   兵士の証言を   続けて   検証しよう。

第16師団   歩兵第33連隊第1大隊所属の兵隊の証言は
他にもある。   たとえば、以下のようなものだ。

   行軍が早くて   どんどん進むもんでね。
   部落は   日本軍が火をつけて   焼けてますやろ。
   上陸した始めの頃は焼いてなかったけど、途中で
   そりゃもう、部落を   どんどん焼いてました。
   放火分隊って、上陸の時は   うちの中隊もありましたな。
   中隊長が   あの部落   焼いてこいって。
   家の中には、住民が隠れていてますわな。
   それを   殺さなならんのですわな。
   それで   兵隊嫌がってましたな。
   その命令が出ると。おると殺さないかんのです。
   (『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P302)

同大隊の某中隊指揮班の   兵士の記述は   次のとおり。

   中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が
   出ました。   つまり   虐殺でした。
   攻略戦で、その残虐さは   南京に入ったらすぐそうでした。
    (略)
   南京攻略戦は   ちょっと   やりすぎでした。
   反日の根拠地というので、南京に入るまでは   家を全部焼け
   という命令が   ずっと出てました。
   すると   また後続部隊が   泊まる所がないからといって、
   家を焼くのを中止したんです。   とにかく「家は全部焼いて
   人間は全部殺せ」   という命令でした。
   命令が出てなかったら   こっちは   しませんよ。
    (略)
   南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
   それも   もちろん命令が   あったからです。
   皆伝え聞いて   分かっていました。
   中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。
   その代わり   こっちの被害も   多かったですな。
   あそこは   支那の部隊も   集中してました。

次に、同連隊   第2大隊の   兵士の証言を   見てみよう。

   南京に向かう途中   どこの戦闘だったかは忘れたけれど、
   部落があって、あそこに共産党がいる   ということで、
   上から「負傷者に関わらず全部共産兵なので、全部殺せ」
   と命令してきたんです。
   それで部落に火を点けると、後ろから煙が上がってきました。
   その中から   オギャーオギャーと   赤ちゃんの泣き声が
   聞こえてきました。

中国人大量殺害に関する日本兵の証言(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/28 21:08 投稿番号: [1146 / 2250]
捕虜の殺害以外に問題になるのは、一般市民への残虐な行為だ。
これまで記述してきた捕虜殺害は、明確な国際法違反だったが
もちろん、非戦闘員である一般市民の殺害も、人道の観点からも
許されない蛮行であり、明確な違法行為に   ほかならなかった。

この違法行為が、大量に、大規模に、行われた   という事実が
数多の証言、記録によって   証明されている。
これは、一部の不届き者による犯行ではなく、「命令」によって
組織的に   行われた   集団的犯罪であったのだ。

第16師団   歩兵第9連隊   第2大隊の兵士の手記には、
次のような記述がある。

   「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」
    と聯隊長の命令が   でました。
    二人とか   三人とかの百姓を   捕まえてきて、
   「そこらに兵隊はおるかおらんのか」などの尋問して
    地形を聞いて、後は   殺してしまうんです。
    クリークの縁に   連れ出して、そこに   座らせました。
    将校は、めったに   刀で首切りなんて   できへんのやから、
    軍刀持ってるさかいに   試し切りを   するんです。
    私ら兵隊は   突き殺しました。
    鉄砲の弾   できるだけ使うな   と言われてました。

また、同師団の歩兵第33連隊   第1大隊の兵士は   次のように
証言している。

    上海の近くで   敵前上陸して   南京に向かったな。
    途中、クリークや大きな池を越えたりして行くので
    大変やった。   工兵隊が橋を作ってくれたりしてな。
    南京へ攻めていって、揚子江で   たくさんの死体が
    流れていくのを見たな。   女や子どもも入っとるやろね。
    いや入ってて当然や。私も下関で軽機で撃っとるけどね。
    敵が(揚子江を)下って行くのを撃った。
    しかし南京のことは忘れてしまった、ぜんぜん憶えてない。
    ただ   上から「男見たら殺せ」   と命令されたことだけは
    よう憶えとる。
    南京へ行くまでに常熟か無錫辺りかな、もうそういう命令が
    出ていたな。   部隊長の××中尉が言ったんじゃないか。
    あるいは「人見たら殺せ」とな。
    (『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P159-160)

同じ大隊に属した   別の兵士の証言も   見てみよう。

    南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、
    その命令は   中隊長か小隊長から聞いたけど、
    「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう
    命令やった。   天皇陛下の命令やと   言ったな。
    当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
    (『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P271)

Re: 徴発という名の泥棒行為(兵士だけでな

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/11/28 20:45 投稿番号: [1145 / 2250]
>ようするに、泥棒の証言でしょう。
>泥棒が、泥棒しましたと言ったら、日本人全体が泥棒になるの?
>じゃ、君も泥棒ってことだ。

あなたは、きちんとした議論ができない人なのですね。
よくわかりました。

米軍の捕虜 (日本兵) 虐殺1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/28 18:58 投稿番号: [1144 / 2250]
正論2000年5月号   84〜85 p

リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋
◇下巻 「戦時下の南太平洋にて」(一九四四年四月〜一九四四年九月) から


  六月二十一日   水曜日
日本兵士殺害に関する将軍の話

数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう二年以上も太平洋地域で、

戦闘部隊と行を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく

帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。

軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。

軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。…



「しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」

「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」

偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。

煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻き付き、

喉元が   「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」   のだった。



   六月二十六日   月曜日
・・・・

談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。

「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」   と、将校の一人が答えた。

「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」

「*****では二千人ぐらい捕虜にした。

しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。


残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、

機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」

「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」   と、

別の将校が調子を合わせる。



   六月二十八日   水曜日

第四七五飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。

話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。

わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な

人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。

日本兵の死体から略奪したり、ある議論の最中に私は意見を述べた。



日本兵が何をしでかそうと、われわれがもし拷問を以て彼を死に至らしめれば、

われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。

「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを

殺してからそれをやっていますね」   と、将校の一人が言い訳がましく言った。


つづきは次で

略奪は罰せられる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/28 18:50 投稿番号: [1143 / 2250]
1937南京攻略戦の真実
東中野修道   編著   小学館文庫


原本は昭和15年11月編纂の   『第六師団   転戦実話   南京編』   で

靖国神社の偕行文庫にある藁半紙刷りの分厚い上下二巻本


ここでは、名前をイニシャルにしていますが、その理由は、

執筆者から掲載の許可を得るため、本人または関係者の連絡先確認に努力したけど、

65年前のことであり、戦友会も解散しているため、

多くの方に連絡できず、仕方なくイニシャル表記にしたという事です。

戦時中に書かれていますから、戦後の洗脳は未だ入っていません。



233〜234p

《 陸軍刑法で処罰するぞ−歩兵第四十七連隊(大分)   第二大隊第五中隊   Y上等兵


青浦   (せいほ)   に夕方着いたときです。何かお菜   (さい)   を探しに行こうと

思いましたが、思い止まって炊事をしていますと、戦友Kが鶏がいるというのです。

それではと行きますと、破壊された廃屋の隣に一軒少しもいたんでいないのがあります。

中に入ってみますと、なるほどいるいる、しかもトヤ   (鳥屋)   の中に入っているのです。

これはご丁寧にと、何の考えもなく十五、六羽いたのを一羽だけ残して絞め殺し、

恩わぬ獲物に戦友たちの喜ぶ顔を描きつつ、帰ろうとしていますと、

そこへ少佐の方が入ってこられました。バッタリ出逢ってしまったのです。



少佐殿が、私の手にブラ下げた鶏にチラと眼をそそがれたと思うと、われ鐘のような声で、

「この封印がわからんか」

いやもう、一ぺんに足がすくんでしまいました、さっきは気もつきませんでしたが、

見るとちゃんと憲兵隊の封印が貼ってある。

「自分が破ったんではありません」

と言い訳しても聞かるればこそ、刀の鐺   (こじり)   で

いやというほど叩かれて怒られました。



つくづく情けなくなってしまいました。

そして、「まだいるか調べてくる、待っておれ」

と言って、奥の方に入って行かれました。

案の定、扉のかげに小さくなっていた他の中隊の兵を三名つれてこられました。



やがて兵站   (へいたん)   につれて行かれ、所属連隊中隊から、

官等級、氏名まで書きとめられ、陸軍刑法によって処罰すると言われるのです。

これにはさすがに自分も震え上がり、歓呼の声に送られて、勇んで故郷を出たのは

何のためだったかと思い、泣き縋   (すが)   ってあやまりました。

夜おそく中隊長殿がこられて、詫びて下さったおかげで、やっと許されましたが、

あんな心配したことは、生まれて初めてでありました。

金を払って徴発した日本軍

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/28 18:41 投稿番号: [1142 / 2250]
1937南京攻略戦の真実
東中野修道   編著   小学館文庫
230〜231p


《 昭和十二年十月に近衛師団として出征した長谷川秋広上等兵の私家版

『戦火の揚子江を行く』   (昭和六十一年)   は次のように記している。


「一月二十五日   (曇)   きょうは、発電所   (注・松江発電所)   に二名の使役を出す。

分隊は西門から約二キロの部落へ、野菜と食料の徴発に行った。   しかし、

軍票がないので、日本円で払うと、土民はとても喜び、鶏卵まで加えてくれた」 (46頁)

「二月六日   (晴後曇、時々小雪)   分隊の何名かを残して徴発に行く。

土民もだんだん好意を持つようになった。軍票が無いので幾らかの日本銭を与えると、

『謝々』   と笑顔で送ってくれる」(49頁)



「四月五日   (晴)   きょうは勤務はない。

昨日のこと   (注・松江付近における敵の急襲)   もあるので、

いつ非常出勤があるかも知れない。野菜不足のため、城外に徴発に行く。

農民は、われわれがいつも金を与える関係で喜んで野菜を売ってくれる。

また我々のために、少しは備蓄しておいてくれるらしい」   (72頁)



  これが南京占領から間もない頃の実態であった。

他方、南京戦の四ケ月前の昭和十二年八月、北支に上陸して間もない浜崎上等兵は、

兄宛の手紙に、 「一汁一菜ことごとく日本軍は代価を払います」(54頁)

と記している。従って、本章に、南京戦の途中、不注意で徴発した兵隊が、

「所属連隊、中隊から官等級、氏名まで書きとめられ、陸軍刑法によって処罰すると

言われ……震え上がり、……泣き縋   (すが)   ってあやまりました」(234頁)   という

話が出てくるのも当然であった。》



注    松江   (しょうこう)   とは、杭州湾の近くの都市。

    ここにいるという事は、長谷川氏は、第十軍の兵隊。

    第十軍は南京攻略戦に参加したが、すぐ、杭州に移動を命ぜられて、

    18日には南京を去った。

    彼らは南京城内には、長くいた部隊でも、たった5日しかいなった。

    南京を見ずして、Uターンさせられた部隊もある。


つづく

12月26日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/28 18:32 投稿番号: [1141 / 2250]
《 ヨーロッパ人の家をのこらずリストアップし、とられた品物の   「完全なリスト」   を

作って提出してくれと、高玉が言ってきた。私は断った。大使館の仕事じゃないか。

第一、そんな面倒なことを引き受けて貧乏くじをひくのはまっぴらだ。

最後まで無事だった家があるのかどうか、あるとしたらどの家なのか、

それさえ正確に知らないというのに。



クリスマスの二日目の今日、私はあいかわらず家にいた。

難民が心配で、家を空けられない。だが、あしたにはまた本部で仕事がある。

安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。

米はあと一週間しかもたないだろうとスマイスはいっているが、

私はそれほど悲観的には見ていない。



米を探して安全区にまわしてくれるよう、何度も軍当局に申請しているのだが、

なしのつぶてだ。日本軍は、中国人を安全区から出して、家に帰らせようとしている。

そのくせいつ汽車や船で上海にいけるようになるのかと聞いても、肩をすくめるだけだ。

「それは当方にもわかりません。川には水雷がばらまかれているので、

定期的に船を出すのはとうてい無理でしょうな」

・・・・・

ミス・ミニ・ヴォートリン。実はこの人について個人的にはあまりよく知らないのだが、

アメリカ人で、金陵女子文理学院の教授らしい。

大変きまじめな女性で、自分の大学に男性の難民を収容するときいて、

びっくり仰天して反対したそうだ。

最終的には、男女別々のフロアにするからという条件で承諾した。



ところで、この人に恐ろしい事件が起こった! 彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、

めんどりがひなを抱くようにして大切に守っていた。

日本兵の横暴がとくにひどかったころ、私はミニをじかに見たことがある。

四百人近くの女性難民の先頭に立って収容所になっている大学につれていくところだった。



さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。

何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、

ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。

それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。



ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。

我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが

(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いも寄らなかったが)、

なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。

すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。

売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしていないようだった。

ミニは言葉を失った。》



*   「川には水雷がばらまかれているので、・・・」   これは事実。

   海軍による揚子江掃海・障害物除去作業は昭和十三年四月まで続いている。


*   「日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうという」

   いわゆる、 「戦時慰安婦」   はこの時始まったようだ。

   ここで明らかなように、これは強制でも連行でもない、

   売春婦を雇って働かせるシステムだった。


   これを悪と言う人は、ソ連や米軍のように強姦しまくりが良いと言うのだろうか?

   人間は、性欲を持った動物である。

   性欲を持たない機械ならいざ知らず、性欲で充満している人間に、

   慰安所計画を非難する資格はあるだろうか?   ないと思う。

Re: 徴発という名の泥棒行為(兵士だけでな

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/28 11:28 投稿番号: [1140 / 2250]
ようするに、泥棒の証言でしょう。

泥棒が、泥棒しましたと言ったら、日本人全体が泥棒になるの?

じゃ、君も泥棒ってことだ。

福島の強制的に立ち退かされた家にも、泥棒が入っているしね。

だから、君の理屈によれば、日本人は全員、泥棒だ。

Re: 日本軍の徴発の実態は略奪であった

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/28 11:21 投稿番号: [1139 / 2250]
>一部の輸送船は揚陸のため呉淋へ回航し、上海経由で追及したような情況で
あったから、第一線部隊の携行糧秣は瞬く間に無くなり、補給は続かず、
全く『糧食を敵による』戦法に出なけれはならない有様であって、
勢い徴発によったのである。」



君の言ってる内容は、既に書いているよ。

まー、あれだけ大量に書きこまれたら、どこにあるのか判らなくなるけどね。


http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1051



私が既に書いている事を、私にぶつけてどうするの?

それから、「呉淋」   ではなく   「呉淞   (ウースン)」   だよ。

Re: ラーベの日記12月25日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/28 10:58 投稿番号: [1138 / 2250]
君のかいている内容は、既に私が書いているのだけど

「1063   12月25日   ラーベの日記」   で

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1063


いつもは夕方書くけど、

いくつかの数を書くと投稿制限に引っ掛かり、中途半端になって困ったが、

今時間があるので、とりあえず、君への反論だけ、書いておく。

徴発という名の泥棒行為(兵士だけでなく)

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/11/27 22:20 投稿番号: [1137 / 2250]
掠奪してたのは、兵隊さんだけではなかったらしいです。
読売新聞・森博カメラマンの証言を、ご紹介します。
「南京事件・日本人48人の証言」より
   ↓
   ↓
―略奪もあったと言われていますが・・・・。
  「南京ではどうだったかわかりませんが、略奪といいますか、そういうことは兵隊だけでなく記者もやっていました。作戦が始まる時、連隊本部からは従軍記者も何日か分の食糧をもらいます。しかし、重いですから二、三日分の食糧しか持たずに従軍して、なくなれば後は民家に入って探します。食糧をとるのは悪いと思ってませんでしたから、そういうことは兵隊も記者もやっていました。」
「記者の中には食糧以外のものを略奪する人もいて、上海の博物館から勝手に持っていった記者もいたといいます。もっともそこにあるのはイミテーションで、本物は重慶にあったと言いますが。」
  
  もうひとつ、「歩兵第四十三聯隊」の「部隊戦史」からの紹介です。
   ↓
   ↓
〈歩兵第四十三聯隊   Ⅱ   支那事変編』より陸軍伍長の手記〉
十一月四日   (略)僕たちの背負っている袋はぼつぼつ重味を感じて来た。汗も体中に浸んで来てあごを出し始めた。一小隊二分隊の兵は辻に捨てられてあった支部の小車を徴発した。徴発の手初めだ。
  徴発といえばなかなか言葉は良いが、人様の品物をだまって持って行くという仕儀だ。内地なれば完全な泥棒行為だ。だが戦場ではこれが自然の習わしになっているらしい。習わしになっているかも知らないが、誰に教えられるともなしに僕等はその行為を自然にやっている。最も自然に・・・・。
  (以下略)

日本軍の徴発の実態は略奪であった

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/11/27 22:12 投稿番号: [1136 / 2250]
  基本は代金を支払うことになっていましたが、実態は掠奪だったそうですよ。これは、実際に当時の経験者から聞いた話ですが。当時憲兵だった上砂勝七氏の記述では、「徴発令に基く正当な徴発」は「実行不可能」であり、実際には「無断徴用」の形になった、とのことです。
  ↓
  ↓
上砂勝七氏「憲兵三十一年」より
「部隊は攻撃前進に移ったものの、兵器、弾薬、糧食などの揚陸作業が順調に捗らず、一部の輸送船は揚陸のため呉淋へ回航し、上海経由で追及したような情況であったから、第一線部隊の携行糧秣は瞬く間に無くなり、補給は続かず、全く『糧食を敵による』戦法に出なけれはならない有様であって、勢い徴発によったのである。」
「然しこの徴発たるや、徴発令に基く正当な徴発は、現地官民共に四散しているため実行不可能で、自然無断徴用の形となり、色々の弊害を伴った。」

日本軍の徴発の基本は略奪ではない

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/27 16:07 投稿番号: [1135 / 2250]
基本的には金を払って食糧を得るもの。

もちろん、強制的にとる場合もある。

それが、戦時であり、平時と違うところ。


もっとも、中国など、ダムを作るとき、住民が言う事をきかなければ

強制的に土地を取り上げる、それと似たようなもの。

ただ、現金の持ち合わせがない場合、軍票を使い、または借用書を書く。

住民がいない場合には、借用書を書いておく。


その中でも不届き者はいる。

日本人は全員が聖人君子ではない。


今の世の中だって、泥棒はいる、人殺しもいる。

反日左翼の連中が採用しているのは、不届き者の証言に過ぎない。

今の時代で、万引き常習犯の言い分を沢山集めて、

これが日本人だとやれば、そういう理屈ができてしまうだろう。

wadatumi_voice21 君の紹介している証言もその手のものだ。


続きは次で

生存者の証言

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/11/27 16:07 投稿番号: [1134 / 2250]
わたしは、南京虐殺事件の生存者から、ちょくせつ証言をお聞きしたことがあります。証言したのは、郭秀蘭さんという方で、事件当時、5歳で南京に住んでいた方です。辛い想い出であり、時折涙を浮かべながら、その時の体験を語ってくださいました。
   ↓
   ↓
「私は、その時、家族6人と一緒に空爆を逃れるため、防空壕に入っていました。それから、ある日、日本軍に防空壕にいる自分たちの存在を気付かれました。3人の日本兵が防空壕に入りました。そして、機関銃を撃ち放ちました。私は大人の体の後ろに隠れ弾をよけました。父と母は殺されました。入り口付近で、日本兵は、撃たれた人が、まだ生きているのかを確認しては容赦なく銃剣で何度も刺して殺しました。日が暮れると日本軍は帰っていきました。知らせを聞いた祖父が、防空壕に来て私と妹を助けに来ました。また、生き残っている人達を外に出しました。」

「防空壕のすぐ近くに小さな家があり、そこで隠れていました。その翌日、3人の日本兵が戻ってきて燃料を入れたバケツを防空壕に入れて、火をつけ残った死体を焼き尽くしました。防空壕は燃え続け、天井から崩れたほどです。」
「その後、祖父に近くのお寺に連れて行かれました。お寺までの道すがら酷い殺され方をした死体を見ました。しかし、祖父は日本軍に捕まり、肉体労働に駆り出されました。私たちは、近くのお婆さんに預けられました。河に死体がたくさん浮いてあるのを見ました。見るに耐えられない光景でした。
私たちは、寒い中、食べ物も住むところもなく、ひもじい思いをしました。数年後、祖父は体が弱くなり私たちを育てられなくなり、私と妹を身売り同然で養子に出しました。ここまでの話は、すべて事実です。」

ラーベの日記1月17日

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/11/27 15:52 投稿番号: [1133 / 2250]
〔38年 1月17日〕
  昨日の午後、ローゼンと一緒にかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路に引けをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。
  行けども行けども廃墟が広がるだけ。大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、またがれきだ!いったいだれが元通 りにするというんだ!帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したといってよいだろう。
  日本軍は安全区から出るようにとくりかえしていっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物まで混じっている。難民の数は今や二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからない。
  ↓
  ↓
南京の半分は廃墟になったようです。ラーベは、『日本軍が破壊した』とはっきり書いていますから、中国軍が逃げる際に破壊したのではないということでしょうね。日本軍は安全区から難民を出せと促していたようですが、逆に逃げこんで来る人が多かったと書いています。ということは、安全区の周囲では日本軍の乱暴が続いていた、ひどいことをしていたという証拠ではないでしょうか。

食糧の現地調達は中国の伝統

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/27 15:43 投稿番号: [1132 / 2250]
虐殺に関しては書く事が多いので、それが終わってから、食糧の現地調達を書くと、

君の書いた元の文がどこにあるのか分からなくなるので、平行して書く事にする。

君は、第十軍が食糧を現地調達しようとしたことを非難しているが、

元々は、中国の伝統的戦法なのだよ。



孫子の兵法   作戦篇


「善く兵を用うる者は、・・・、糧を敵に因(よ) る。故に軍食足るべきなり。

・・・故に智将は務めて敵に食む。敵の一鍾   (いっしょう)   を食むは、

吾が二十鍾に当たり・・・」


敵の食糧を撮って食えば、自国の国民は困らず、敵を困らせるだけだ。

だから、優れた将軍は、敵の食糧を奪えとね。

だから、彼らは略奪を平気でする。



ラーベの日記
《 11月16日

蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、ひどい略奪が行われたという。

済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。

日本人の進攻を防ぐため。》



第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏の東京裁判宣誓供述書

《上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、沿道の部落の家屋が

焼却され、毀損され、また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。

これは支那軍が退却に際し…放火・破壊した、支那軍民の常習たる

戦時の略奪によるものであると、支那人民から聞いた》

(富士信夫著   『「南京大虐殺」   はこうして作られた』   211〜212p)



徐永昌の日記

《 11月26日   聞くところによれば、蒋介石は、不安分子がリツ水、リツ陽

などで強奪・強盗などを働いたと聞いて激怒したとの事 》

(鈴木明著   『新 「南京大虐殺」   のまぼろし』   220p)

ラーベの日記12月25日

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/11/27 15:42 投稿番号: [1131 / 2250]
〔37年12月25日〕
  難民は一人残らず登録し「良民証」を受け取らなければならないということだった。しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。
  早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大勢よりわけられたのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別 された。兵隊用の大がかりな売春宿を作ろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分など吹き飛んでしまう。
  ↑
  ↑
  日本軍の命令で難民を登録したのですが、その際に健康な男性は強制労働か処刑になったようです。また女性も選別されたうえで慰安婦にさせられたということが書かれていますね。本当に情け容赦ない仕打ちをしたことがわかります。

オーストラリア軍の残虐2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/27 15:40 投稿番号: [1130 / 2250]
http://www.tamanegiya.com/tutiyayasuo21.12.12.html

より引用


《<公刊戦史はムアル戦線でオーストアリア部隊と遭遇した

日本軍負傷兵の運命について、はっきり書いていない。

略)


「守勢にあるので捕虜をとる状況に無く、

今までの経験からして敵の負傷兵をそのままにはできない。

死んでいると思われるか負傷している敵兵に近づくときは最大限の注意を払い、

銃剣を使え。要するに命令は 『捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな』

というものであった」

略)


もちろん大隊の戦場日誌にはアンダーソン

(引用者注   直接指揮していた第一九大隊長チャールズ・G・W・アンダーソン中佐)

が正式にそのような指示をしたとは書いていない。

しかしムアル戦線で戦ったオーストラリア兵の間では、状況の緊急性から考えて

「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」   というのが少なくとも

公式に認められた   『指示』   だったということは、広く受けいれらてきた。

指示がどこから出たかについて不安な人たちでさえ、これらが一月一九日から

二二日までの絶望的な七二時間に採用された戦術であったことは認める。>

(P二〇七〜二〇八)



<否定できない事実は、マレー作戦の中で最も激しかった四日間と半日の戦闘のあと、

オーストラリア軍は一人も捕虜をとらなかったということだ。

白兵戦により日本軍は二千人の死者を出し、ほとんどは近衛師団だった。

もう一つの否定できない事実は、戦闘の状況からして、

オーストラリア部隊は日本の負傷した兵士をその場で殺したことだ

(みかたによっては処刑したことになる)。

さらに、命令ではないにしても、捕虜をとらず負傷兵をそのままにしない

というのは、少なくとも一般的な了解だった。>

(p二一八〜二一九)

「将軍はなぜ殺されたか」(イアン・ウォード著   二〇〇五年原書房刊)》



*   「捕虜をとるな」 、これは南京で中島師団長が   「大体捕虜はせぬ方針なれば」

   と言ったとされているのと同じ状態。


虐殺関係はまだつづく

オーストラリア軍の残虐1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/27 15:14 投稿番号: [1129 / 2250]
リンドバーグの日記
正論2000年5月号   84〜85 p


《八月十一日・・・・

「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。

日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を覚えてるかね?

あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ、捕虜を機上から山中に突き落とし、

ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」


「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知ってるかね。

わが軍が通り抜けたとき、生存者は一人も残さなかったそうだ」》



次はネットの記述ですが、参考文献が記してありましたので引用します。
http://www.tamanegiya.com/tutiyayasuo21.12.12.html
より引用


《ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によって、

日本軍捕虜に 「死の行進」 が課せられた。

ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、一九四五年九月、

オーストラリア陸軍の捕虜となった。


同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇名がトロキナの仮収容所に移送される

こととなったが、栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、

気温三五〜三八度の中を一〇マイル行進させられた。


翌日、到着の一二五〇人も同様であった。

豪州軍の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、

水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。



体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、

川の両側に並んだ豪州軍将校たちが水を飲ませまいと、

足で水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。

一〇月八日に着いたナウルからの七〇〇人とオーシャンからの五一三人も同じ扱いを受けた。



くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、

マラリヤに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。

捕虜のほとんど全員が感染、約七〇〇名が死亡したとみられる。



以上 「日本の反論」 米田健三著   p一六五およびp一七一〜一七二よりの引用ですが、

米田氏はリンドバーグ日記および   「軍事史学   第三五巻第二号」

喜多義人論文より引用されています)》


つづく

12月26日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/27 15:08 投稿番号: [1128 / 2250]
十二月二十六日   十七時


《 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!

  なんたって六百人をこす人々の命なのだから。

新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。

男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。

女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。

しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。



隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。

元中国兵という疑いで処刑されるのだという。

わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。

いま、日本兵が四人、庭で良民証を作っている。

今日中には終わらないだろうが、そんなことはどうでもいい。

将校が決定した以上、もうひっぱられる心配はないのだから。



葉巻とジーメンスのカレンダーを担当の将校に渡したとき、

百子亭にある家からもうもうと煙が上がってきた。庭は灰の雨だ。

藁小屋は大丈夫だろうか。いくぶん考え深げにその様子を眺めながら、

その将校はフランス語であっけらかんと言った。

「わが軍にも、なかには粗暴なやつがいましてね」

そう、なかには、ね。



昨日は日本兵が押し入ってこなかった。この二週間ではじめてのことだ。

やっといくらか落ちついてきたのではないだろうか。ここの登録は昼に終わった。

しかも後からこっそりもぐりこませた二十人の新入りにも気前よく良民証が与えられた。



使用人の劉と劉の子どもが、病気になったので、

鼓楼病院のウィルソン先生のところに連れていった。

トリマー先生が病気で、いまはこのウィルソン先生一人で病院を切り盛りしている。

先生から、新しい患者を見せられた。

若い娘を世話できなかったという理由で撃たれた中年婦人だ。

下腹部を銃弾がかすめており、手のひら三つぶんくらいの肉がもぎとられている。

助かるかどうかわからないという話だ。



安全区本部でも登録が行われた。担当は菊池氏だ。

この人は寛容なので我々一同とても好意を持っている。安全区の他の区域から、

何百人かずつ、追いたてられるようにして登録所へ連れてこられた。



今までにすでに二万人が連行されたという。

一部は強制労働にまわされたが、残りは処刑されるという。

なんというむごいことを……。我々はただ黙って肩をすくめるしかない。

くやしいが、しょせん無力なのだ。》



*   「隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかった…。

   元中国兵という疑いで処刑されるのだ。」   とあるが、

   1月4日の   『ニューヨーク・タイムズ』   には   「元支那軍将校が避難民のなかに

   大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」   という記事があり、

   記事では   「恐らく処刑されるであろう。」   と書かれていた。

   その将校らの潜伏先は、金陵女子大学だった。

   中学と女子大では違うだろうが、この処刑は犯罪の発覚と関連はないのだろうか?

  その記事内容は1月4日の所に書く。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(18)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 09:12 投稿番号: [1127 / 2250]
中国大陸に武力侵攻した日本軍が、南京などで   捕虜にした
多数の中国軍兵士を   組織的に   大量殺害した事件の背景に
補給線確保の軽視という   日本軍の特質が要因の一つとして
あったと考えられる。   自軍の食料さえ   確保困難な状況の
うえに、予想を超える   大量の捕虜が発生し、給養に窮して
殺害に及んだ   という証言記録などが、それを裏付けている。

日本軍の補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において   略奪行為などが   多発する事態をも招いた。
そして、結果的に   大量の餓死者を出す悲惨な状況に至った。
太平洋の孤島や   南方の密林とは違って、多くの人々が住む
中国では、餓死者などはなかった   と思われやすいが、
敗戦前2年間の中国戦線では   戦死者を病死者が上回っていた。

長尾五一軍医中佐の遺著などが、その事実を   裏付けている。
中国戦線で   最後の作戦となった   第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月〜6月の   3カ月間の死者数は   戦死が695人、
戦傷死322人、戦病死2184人、計3201人にのぼり、
「第二十軍の統帥発動以来終戦までの各種比率」については
「戦死、戦傷、戦病死   おおむね   4対5対9」   である。
(第二十軍軍医部の戦死・戦病死者別一覧表の注)

中国戦線でも、戦死・戦傷より   「戦病死」   が圧倒的だ。
負傷した後に、包帯所や   野戦病院で   死亡する者も多かった。
これは、患者の給養がきわめて悪かったことと無関係ではない。
病死の大部分が   長期間の給養不足で、栄養失調状態にあって
病気に対する抵抗力を失っていたため、戦病死に至ったものだ。
これも   広い意味で   餓死の分類に入る。

中国戦線での   45万の戦没者の   過半数が戦病死、それも
給養不足に基づく   栄養失調や、それが原因での体力の消耗
による   広い意昧での餓死であった   ということだ。
日本軍が、補給らしい補給もなしに   現地調達する方針は、
明治以来   一貫していた。   日清戦争でも朝鮮出兵軍からの
補給困難の訴えに対し、参謀本部は   次のように訓令している。

「古昔、兵家の格言に因糧於敵(糧を敵に因る)の一句あり。
爾来   内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものは
この理由に外ならず。…糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、
いわんやこれを運搬する人夫においてをや…」
(明治27年6月29日、参謀総長熾仁親王から混成旅団長
大島義昌あての訓令)

「因糧於敵」、これが   侵略軍としての行為の根本にあった。
日本軍兵士の   戦地栄養失調症を含む広い意味での餓死者は、
合計で127万6240名に達し、全体の戦没者   212万の
約60%   という割合になる。   靖国神社が「英霊」   として
誉め讃える戦死者のうちの   半数以上が、敢闘勇戦の中において
散華したのではなく、飢餓と衰弱死に   追いやられたのだ。

このような軍が、何万もの大量の捕虜を   人道的処遇のもとに
収容し続けることは   まったく   不可能であった   と言える。
もともと   中国人を「殺害しても問題とはならない」   として
蔑視していたうえに、予想以上の抗戦によって   敵愾心が加わり、
さらに   実際の問題として   捕虜として処遇できない状況があり、
躊躇なく   中国人民の大量殺害に   及ぶことになった。
これが   南京虐殺の実情だ。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(17)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:55 投稿番号: [1126 / 2250]
大量餓死によって、夥しい数の「英霊」   が生み出された。
原因の   第3は、日本軍隊の   特質にあった   と言える。
ひとつは、日露戦争後の   日本軍の   軍事思想の中心に、
精神主義への過信があったという点にある   と考えられる。

もともと   日本軍は、天皇への忠誠と   死を恐れぬ勇気を
将兵に要求した。   日本軍兵士は、天皇のため戦い、死ぬ。
国民の権益を守るため国民自らが組織することを基本とする
欧米の近代軍とは異なり、前近代的な忠君報恩を基本とする
錦旗の下の「皇軍」   が、近代もなお   存在してしまった。

兵士に要求されたのが、忠義第一とする武士道精神だった。
命を惜しまず名を惜しめ、生き恥をさらすより   死を選べ、
という教育が、皇軍兵士に   徹底的に施された。

武士道精神は   近代戦においては   何の役にも立たない。
この事実は、陸軍の父・大村益次郎が実証したはずだった
にもかかわらず、軍の規範には「武士道」   がすえられた。
武士道を基調とする精神主義は兵士を組織に絶対服従させ、
個人個人の自発性を   失わせるうえでも   威力を発揮した。

天皇への忠誠を柱とする   精神主義の強調は   軍人勅諭に
表され、日本軍兵士の行動を   縦横に   縛り付けていた。
日露戦争での勝利も、日本軍に   欧米の模倣から脱却して
独自の軍事思想を確立させる機会となった。   物量よりも
精神力を重視し、歩兵の銃剣による   白兵突撃戦が最後の
勝敗を決するものだという   白兵主義に   つながった。

日露戦争で、砲兵火力で勝るロシア軍に対して、日本軍は
銃剣突撃をもって   旅順、遼陽、奉天で   勝利を収めた。
この経験から、日本軍部には兵力の多寡、装備の優劣より、
精神力の差が   勝敗を分ける   という軍事思想が根付いた。
こうした精神主義は、補給の軽視を生み、敗因となった。

こうした   火力軽視、白兵主義は、火力装備の発達した
近代の軍隊に対しては、まったく   通用しなかったのだ。
日露戦争において   旅順要塞への白兵突撃を繰り返して、
屍体の山を築いた   教訓は、少しも   生かされなかった。
速射砲や機関銃の弾幕、十字砲火の中に   白兵で突入する、
そんな作戦を   繰り返し、無駄な犠牲が出ても、第一線の
実情さえ知らない参謀や高級指揮官は、突撃を命じ続けた。

ガダルカナルでの失敗も   生かされず、ソロモン諸島でも、
ニューギニアでも、フィリピンでも、ビルマでも、皇軍は
白兵主義を盲信して   米軍の火力の前に死体の山を築いた。
こうした   無能な作戦を強行した   軍上層部連中と一緒に、
十把一絡げにして、悲惨な餓死を強いられた犠牲者たちを
「護国の英霊」だ   などとして   祀りあげることは、
戦争犠牲者の冒涜であり、厚顔無恥もはなはだしい。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(16)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:55 投稿番号: [1125 / 2250]
前述してきたように、日本軍戦没者の過半数が餓死だった。
戦闘で、華々しく戦い   玉のごとく砕け散ったのではなく、
飢えと   病気にさいなまれ、やせ衰えて   無念の涙を流し、
密林の中で   次々と倒れ、野垂れ死んだのだ。
こうした   悲惨な結果をもたらした原因を考察してみよう。

まず   第1に、補給無視の作戦計画が   あげられる。
軍隊が行動し戦闘するためには   兵員と軍需品の輸送手段と、
弾薬、資材、食糧などの軍需品を供給する補給が欠かせない。
ところが、日本軍は   補給を   きわめて軽視していた。
作戦目的ばかりを重視して補給を無視した無謀な作戦ばかりが
各地で実行され、結果として   多数の将兵を餓死に追いやった。

ガ島敗戦の際に今村第八方面軍司令官が、百武第十七軍司令官を
慰めて、この敗戦は「饑餓の自滅」であり、「全く軍部中央部の
過誤による」もので、これは「補給と関連なしに、戦略戦術だけ
を研究し教育していた陸軍多年の弊風が累をなし」たものだと
語っているのは、まさに   至言であると思う。

第2に、兵站軽視の作戦指導にあったと言えるだろう。
日本陸軍は、伝統的に   対露(ロシア革命後は対ソ連)戦争を
第一の目標として   編成され、訓練を続けてきた   経緯がある。
したがって、その予想戦場は   北満州やシベリアの広野だった。
軍需品や食糧の補給を担うのは   後方部隊の輜重部隊であり、
その部隊は、戦時に特設する馬を   主な輸送力としていた。

陸軍は   農林省と共同して   全国の農家に馬の飼育を奨励し、
戦時には   この馬を徴発する計画を   立てていた。
41年7月、日本軍部は   独ソ戦の推移いかんによっては
対ソ戦を始めようとし、陸軍は   大規模な動員を行なった。
これが   いわゆる関東軍特殊演習(関特演)だった。

こうした満州への大動員を行なっておきながら、南方攻略へと
大きく国策が転換されたが、後方軽視という状況が   現れた。
南方作戦を具体化にあたり、大本営の兵站に関する基本構想は
「原則として満州の集積軍需品は抽出せず、中国大陸に対する
補給は最大限に削減して余裕を作り、必要な場合は中国方面
からさらに引き抜いて南方用作戦資材を充足する」だった。
(参考:防衛研究所所蔵『戦史叢書・マレー侵攻作戦』)

つまり、満州に動員して大量蓄積した軍需物資は、対ソ戦に備え
そのままとし、支那派遣軍から一部を引き抜いて間に合わせよう
という   甘い考えしか   持っていなかったのだ。
「極力内地ノ負担及船舶輸送力ノ軽減ヲ図リ、最小ノ軍需資材ヲ
最有効ニ活用シ現地ニ於テ創意自製自活シ得ルモノハ原則トシテ
之ニ據ルヲ旨トセリ」(南方軍参謀作戦資料)という具合だ。

しかし、この方針には   欠点があった。
兵要地誌の調査不足による   現地自活主義の破綻は、
やがて明らかになり、大本営の見通しの甘さが露呈する。
気の毒などは   第一線の兵隊たちだった。
彼らは、情報収集力のない軍の失敗による犠牲者だった。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(15)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:34 投稿番号: [1124 / 2250]
太平洋の孤島や南方の密林とは違い、人口稠密で物資豊富な
中国戦線では、餓死者など   生じなかった   と思われやすい。
しかし、敗戦前2年間の   中国戦線では   戦死者数よりも
病死者数が上回っており、その死因は   栄養失調、もしくは
栄養失調と不可分の   マラリア、赤痢、脚気など   だった。

中国戦線でも、補給困難による飢餓と   栄養失調による体力
消耗で、病気が重症化して   多数の「英霊」   を発生させて
いったのだ。   ある軍医の記録を   以下に引用する。
「酷熱多湿なるうえ敵機の跳梁、道路の破壊等により補給は
予定の如く   行なわれず、敵味方の大軍により   現地物資は
消費し尽され、将兵の疲労   言語に絶するものがあった」
(長尾五一著『戦争と栄養』、西田書店1994年より抜粋)

中国戦線の「英霊」増加が   もっとも   集中したのは
最後の2年間であり、その多くが   戦死ではなく病死だった。
その状況は、45年に入って   さらに   深刻になっていた。
中国戦線で最後の作戦となった   第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月から6月の3ヶ月間の死者の内訳は次のとおりだ。

   戦   死      695人(22%)
   戦傷死      322人(10%)
   戦病死    2,184人(68%)
   合   計    3,201人(100%)

圧倒的に多い戦病死者の詳細な内訳は不明だが、その大部分が
長期間の不十分な給養で、栄養失調状態から病気への抵抗力を
失い、病死にいたったことは、軍医の記録から   判明している。
中国大陸では、45万の   戦没者が発生した。
その過半数が   戦病死、それも   給養不足による   栄養失調や、
それが原因での体力消耗による   広い意味での餓死だったのだ。

戦死者よりも   餓死した者が多い、これが   日本軍の特徴だ。
中国大陸でも   太平洋でも、その事態は   変わらない。
このような「近代軍」が   20世紀にも   存在したのだ。
しかし、その悲惨な実態は   「玉砕」や   「散華」という
大本営が作り出した   美しく勇ましい言葉で   覆い隠された。

第二次大戦における   日本軍の戦没者の総数、その中での
戦死・戦病死者などの   正確な割合は、残念ながら判らない。
日本軍の敗北に終わったこともあって、正確に数えることは
きわめて困難であり、多くの戦場が「玉砕」   つまり全滅し、
生存者の証言や記録が失われていることも   原因の一つだ。

また、降伏の直後に、戦争犯罪の追及を恐れて、組織的に
関連資料の大量焼却が実行され、陸海軍の各部隊、さらには
市町村役場の   兵事関係書類までが   焼かれてしまったのだ。
このため、戦後も日が経つにつれて   調査がすすみ
戦没者の数が   どんどん増えていく   という状況だった。
この点からみても、旧軍部の体質を窺い知ることができる。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(14)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:33 投稿番号: [1123 / 2250]
インパールから   敗退する道は、日本軍兵士たちによって
「靖国街道」、あるいは   「白骨街道」   と名づけられた。
悲惨な退却の様相について、前述した   将兵とは別の
一人の   将校の証言を、以下に   引用してみたい。

    兵隊達の姿は   既に骸骨に   等しかった。
    げっそり窪んだ眼が、伸び放題の無精髭と   尖り立った
    頬骨の奥に空ろに光っていた。顔色は日灼けのした上に
    泥濘をまぶしつけて、それでいて、その底に澱む
    不透明な蒼白さが   浮いて見えた。

    手先きは   僅かに皮膚を冠ったばかりの骨が、一本一本
    浮き立ち、その上を通る静脈がどす黒く不気味であった。
    足先きは   靴が脱げない程   ふくらんでいた。
    雨にふやけたのだ。   まるで豆腐糠のように光沢のない
    白さに腫れ上がっていた。靴を穿き潰した者が大勢いた
    が、そんな者の   足先きは   一層ひどかった。

    被服は   いうまでもなく   泥にまみれ切って   臀や肘の
    あたりがべろべろに破れていても修理など出来なかった。
    それを   ひらひらさせながら   歩いていた。
    もう   その頃になると、脚気で全身むくみあがった者は
    いなかった。   とっくに   落伍したのだ。   したがって、
    兵隊達は   一様に枯れ切った細い枯木に   ひとしかった。
     (中略)
    その頃、誰言うことなく、この街道を靖国街道と言った。
    その儘歩き続ければ、靖国神社に通じるという意味である
    (村田平次『インパール作戦―烈兵団コヒマの死闘』より)

1952年に   厚生省援護局の調査したビルマ方面の作戦兵力と
戦没者の数は、次のとおりだ。
    兵   力    303,501
    戦没者    185,149
    帰還者    118,351
戦没者は、じつに   61%にも   達したことが分かる。
これは、陸軍の陸上部隊のみで   航空部隊は   含まれていない。
つまり、海軍と航空部隊を加えれば、犠牲者数は   もっと多い。
この戦没者の中で、餓死・病死者の割合が   どうであるかは、
正確には判明しないのだが、多くの将兵の証言や記録によると
戦死者よりも   餓死・病死者が   はるかに多かったことが判る。

補給を無視した   無謀な作戦に駆り出され、飢餓地獄のなかで
歩く体力を失い、助けてくれ、連れて行ってくれ   と泣き叫び
友軍兵士の脚に   すがりついていた   重病患者たちの   無念さ、
悲しみを   思うとき、「玉砕」などという粉飾された言葉を並べ
偽りの戦果ばかりを発表し続けた大本営、そして日本軍自体に
怒りと   情けなさを   感じざるを得ない。

同時に、その当時の軍部が   垂れ流した   戦争の大義名分や
美しく   粉飾された   武勇談などを、いまだに疑うことなく
賛美礼賛して憚らない   愚かなヤスクニ派が存在することも、
同じ日本人として   恥ずかしいことであり嘆かざるを得ない。
これでは、平和を生きる   日本国民としては   無責任であり、
無念の死を遂げた大勢の戦争犠牲者に対し本当に申し訳ない。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(13)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:32 投稿番号: [1122 / 2250]
惨憺たる敗北を喫し、おびただしい数の「英霊」   を増産した
インパール作戦の実情について、もう少し   記述しておこう。
南方軍復員本部復員課が   1946年6月に作成した資料、
「ウ号作戦及次期態勢移行ノ作戦間ノ給與及衛生」を引用する。

    歩兵第六十七聯隊   大佐滝口一郎
    給與   終始後方補給皆無ニシテ主食米ハ現地物資ヲ利用
      セルモ、其他特ニ塩補給極メテ困難ニシテ全般的ニ
      極メテ不良ナリ
    衛生   給與ノ素悪、雨期、薬物補給ノ皆無等ニ依リ、
      栄養失調、マラリア、脚気多発シ、戦病死者多発
      スルノ止ムナキニ至リ、衛生状態極メテ不良ナリ

これは、報告の   ごく一部であり、他の聯隊長からの報告も
同様か、あるいは   それ以上に   悲惨な状況を報告している。
いずれも   作戦中は   糧秣の補給がなかったこと、
そのために   栄養失調やマラリア、脚気、赤痢などが多発し、
多数の死者が   出ていたことを   伝えている。

大本営が、作戦の失敗を   ようやく認めて、中止を命じたのは
7月3日のことだったが、ときすでに   遅かった。
兵士の体力は衰え、健康な者など   誰一人   いなかった。
兵士の命を第一に考えるなら、いさぎよく降伏すべきなのだが、
敵の捕虜になるなら死ぬべきだ   とする   皇軍においては
それは許されず、悲惨な退却が   試みられることになった。

飢餓に苦しみながら、雨期に入ったアラカン山系の密林の中を
退却中に力尽きた   将兵の死体が   退路を埋めた。
惨状は、生き残った兵士によって、次のように描かれている。

    遺棄された死体が横たわり、手榴弾で自決した負傷兵の
    屍があり、その数が   だんだん増えてきた。
    石ころの   難路を越え、湿地にかかると、動けぬ重症の
    兵たちが三々五々屯していた。水をくれ、連れていって
    くれと   泣き叫び、脚にしがみついて   放れないのだ。
    髪はのび放題のび、よくもこんなにやせたものだと
    思うほど、骨に皮をかけただけの、あわれな姿だ。
    息はついているが、さながら   幽霊だった。
    (中略)
    途中、潅木の中にひそんだ盗賊にやられた兵が、
    腹部を至近弾でやられ、雑嚢が散乱している姿を見た。
    戦争は生きることの全貌を一変させるものだ。
    生きるためには、味方さえ   殺しあうのだ。
    われわれも、恥もなく   屍についた雑嚢を探したのだが
    食い物はなにひとつはいっていなかった。   おぞましい
    非人の仕業もあきらめ、歩いては休み、休んでは歩き、
    体内に残る生命の焔をかきたて、生きようとする苦行だけは
    つづけた。   (志摩辰郎「地獄街道の戦い」より引用)

日本兵は、餓死寸前の状態で、インパールからの退却を続けた。
まさに   地獄であり、どこにも   美しい「散華」は存在しない。
このような   退却の様相は、ほかの将兵によっても語られている。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(12)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:30 投稿番号: [1121 / 2250]
ガダルカナル、ニューギニアなど   太平洋の島々のほかにも、
補給無視で   「英霊」を   増産した作戦として   有名なのは、
1944年に   ビルマ方面軍が強行した   インパール作戦だ。
戦力枯渇が目立つ44年になって、成算のないインド領への
大挙侵攻を実行するなど、無謀というほかない   作戦だった。
じつは、第十五軍司令官の   功名心から   実行されたものだ。

チンドウィン河を渡り、インド・ビルマ国境アラカン山脈を
越え、インド領内に侵入しようという   この作戦の経路には、
密林と   山脈があり、交通機関はなく、第十五軍の3個師団
10万の大軍の   兵站線確保の見込みは   最初からなかった。
すでに制空権は   連合国軍に移り、昼間の行動は   困難であり
道路を構築するための資材も土木機械も   日本軍にはなかった。

道路があっても、制空権がないため   物資を運ぶための
自動車を   走らせることはできず、また   走らせる自動車も、
ガソリンも欠乏していたのだから、土台   無理な計画だった。
なお、このときの   第十五軍   司令官は、盧溝橋事件の際の
支那駐屯歩兵第一聯隊長で、戦争のきっかけを作った人物だ。

軍司令官は、作戦に懸念を表明する補給担当の参謀を一喝し、
像や牛、馬、水牛の収集と   調教を命令した。
これらの動物に荷物を背負わせて運び、用が済んだら殺して
食べるのだといい、この作戦を   義経の「鵯越え」   や、
ハンニバルのアルプス越えに例えて得意になっていたという。

当時、大本営の作戦課長だった真田穣一郎大佐は、報告を受け
「第十五軍ノ案ハ徹底的ト云フヨリ寧ロ無茶苦茶ナ積極案ナリ」
と回想録に書いた。   (引用:『戦史叢書・インパール作戦』)
ところが、この“無茶苦茶な”作戦が、南方軍の認可を受けて
実行に移されてしまった。日本軍には構造的欠陥があったのだ。

3月上旬、携行食糧2週間分を持って、チンドウィン河を渡り、
攻撃を開始した   第十五軍の兵隊たちの運命は、悲惨だった。
左翼の第三十三師団は、3月下旬にインパール平地に達したが
食糧はなくなり、弾薬も不足して   攻撃続行が困難となった。
軍司令官は   これに憤って、師団長の柳田中将を罷免した。

中央を進んだ第十五師団も、インパール間近まで   迫ったが、
三十三師団と同様の状況から   攻撃が頓挫した。軍司令官は
消極的だとして、第十五師団長の山内中将も   罷免した。
右翼を進んだ第三十一師団の佐藤中将は、インパール北方に
進出していたが、「米一粒も補給がない」ため、独断で退却。

この佐藤中将の判断は当然であったが、日本軍という特殊な
組織では   許される行為ではなく、抗命の容疑で罷免のうえ、
軍法会議にかけられ、精神錯乱ということで   片付けられた。
軍司令官は   3人の部下師団長を全員罷免し、強引に攻撃を
督促したが、補給の途絶えた   部隊の状況は   地獄だった。
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