南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
>教科書はその国に
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/23 06:33 投稿番号: [9285 / 29399]
オマエも都合よく生きているな(笑)
これは メッセージ 9278 (konoyo_anoyo さん)への返信です.
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「独立英雄」日本軍ではないよね。
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/23 06:29 投稿番号: [9284 / 29399]
>
歴史には、必ず「光」と「影」がある。太平洋戦争中の日本のインドネシア支配は、10万人にのぼる「労務者」の使役や食料徴発による飢餓のまん延など、負の側面抜きには語れない。しかし一方で、今まであまりに語られなさ過ぎた、インドネシア独立で日本人が果たした役割を知っておくことも、歴史を公平に理解する上では欠かせない。
そうです、「元日本兵です」
勘違いは間違いの元ですからね。
日本軍および、日本政府が支援、援助した事など
ありません。
よって、彼らは日本人が誇れる、、日本人でしょう。
国会議員や、政府関係者が、誇らしげに言うと、、そいつらは馬鹿にされるだけなんだよ。
これは メッセージ 9280 (heinz_bar さん)への返信です.
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しっかし相変わらずだな♪
投稿者: ilovejapan20031102 投稿日時: 2005/06/23 04:04 投稿番号: [9283 / 29399]
馬鹿支那&極左は日本兵士から英雄が出ること自体が気にいらねえんだよな
そうでもしなきゃ日本兵の残虐さとやらを誇張できねえし♪
たまには覗いてやるから気張って恥晒せよ♪
追加だ
日本映画・・・これには同意だな♪
見るなら戦後のヤクザものを勧める♪
戦後の三国人の横暴振りが良く判るぞ♪
これは メッセージ 9275 (yominokuni56 さん)への返信です.
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国立英雄墓地に祀られた日本人たち2
投稿者: heinz_bar 投稿日時: 2005/06/23 03:49 投稿番号: [9282 / 29399]
■5.独立戦争への支援■
日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力す
る人々が現れた。中部ジャワ地区の馬淵逸雄少将は、廃兵器処理の
許可を得るや、それを拡大解釈して、トラック何台分もの武器をチ
レボン河の河原に捨てた。対岸で待機していたインドネシア側がこ
れをごっそり手に入れた。
こうしてインドネシア側に、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自
動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装
備の半分以上が手渡された。[4,p289]
自ら、軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多か
った。その一人古閑正義中尉は、熊本県出身、明治大学で柔道とラ
グビーの名選手だった。スマトラのアチエ州で、地元の青年達を
「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育していた。
昭和天皇の終戦の詔勅の中の「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、
遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」という言葉から、インドネシア人を見
捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、同じ部隊の少尉4名ととも
に、独立軍に参加した。戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、
常に先頭に立って、指揮をした。[2,p94]
オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。
兵員こそ200万人もいたが、武器は日本軍から手渡された数万挺
の小銃が中心である。オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、
80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出たと言われる。
インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事
会や米国議会も撤兵勧告を行った。全世界の世論に押されてオラン
ダは再植民地化を諦めたのである。[5]
■6.命を捧げてくれた日本青年を偲ぶ■
平成7年5月29日、戦後50年を記念して、「アジア共生の祭
典」が開かれた。ちょうど、独立50周年を迎えたインドネシアか
らは、スハルト大統領特使として、陸軍大学長、駐日大使などを歴
任したサイデマン外務省上級大使が参列された。
サイデマン大使は、約1万人の参列者に対して、次のような挨拶
をされた。
第2次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、
外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。
私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインド
ネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦っ
てくれました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧
げてくれました。今日このアジア共生の祭典において、私た
ちの独立のために命を捧げてくれたこれらすべての若者たち
を偲びたいと思います。[6]
「かれらが(独立を)戦い取ることのできる実力を養ってやるの
が、われわれの仕事だ」という今村均中将の言葉は、現実となった
のである。
これは メッセージ 9281 (heinz_bar さん)への返信です.
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国立英雄墓地に祀られた日本人たち1
投稿者: heinz_bar 投稿日時: 2005/06/23 03:48 投稿番号: [9281 / 29399]
1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人■
ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、4年
5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、特別な功労
を立てて戦死した人々が祀られている。この中に11名の日本人が
一緒に手厚く葬られている。[1]
1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、インドネシア
独立義勇軍に身を投じた人々は、1〜2千人程度と推定されている。
400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に
祀られている。また独立50周年となった平成7年、残留日本兵
69名に対し、渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハ
ルト大統領は官邸に招いて、お礼を述べられた。[2,p109、3]
これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのだろうか。
■2.独立への願い■
インドネシアがオランダの植民地となったのは、1605年、それ以
来、3世紀半にわたって、人口わずか0.5%のオランダ人が全生
産額の65%を独占するという収奪が続く。
1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人もまた
西洋をうち負かすことができるほど強くなれるという信念を
強化させた。それ以降、インドネシア人は、大国として発展
する日本にいっそうの注目をそそぎはじめた。(インドネシ
アの歴史家サヌシ・パネ、[4,p242])
独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種が
やってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに(約3ヶ
月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれた。
■3.独立を戦いとれる実力を■
その予言は、1942年3月1日に現実のものとなった。今村均中将率
いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を敢行した。
攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたが、わずか1
0日後には、オランダ軍司令官は全面降伏した。予言を信じた現地
人が、オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、
積極的に日本軍の進撃を助けたからだ。
独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中
将は、次のように言って、彼らを支援した。
「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべ
きものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、
われわれの仕事だ、、、」[4,p263]
それから、独立国への準備が始まった。300近い言語をインド
ネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、州
や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、さらにイン
ドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成した。こ
れらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。
■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■
日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタは
すかさず独立宣言を行う。18日には、インドネシア共和国憲法を採
択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。
しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、「日本軍は
連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、治安を確保す
べし。そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、暴動は
必ず鎮圧すべし」と命令した。さらに「原住民の集会禁止、武器の
携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。これがためには、兵器の使
用も可である。」との命令が来た。降伏した日本軍を使って、独立
運動を阻止しようというのである。
一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、
何としても日本軍が保有している武器が必要であった。今まで日本
軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。
独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、日
本軍の施設を襲う事件も起きた。日本軍は断じて「撃つな、指導者
と話し合え」と厳命を下した。暴徒に銃殺された日本人のなかには、
「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した
人もおり、現地人に多大の感銘を与えて、今も記念として残されて
いるという。[4,p290]
これは メッセージ 9280 (heinz_bar さん)への返信です.
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「独立英雄」元日本兵だよ。
投稿者: heinz_bar 投稿日時: 2005/06/23 03:32 投稿番号: [9280 / 29399]
映画「ムルデカ17805」の舞台(カリバタ英雄墓地=ジャカルタ)
異国の独立ささげた命
かつて約350年の長きにわたりオランダの植民地支配下にあったインドネシアでは、12世紀ごろから伝わる「ジョヨボヨ王の予言」が広く信じられていた。
「我々は、欧州の民に支配される。しかし、やがて北から小柄で肌の黄色い民族がやって来て、白人を打ち負かすだろう。しかし彼らがここにいるのは、トウモロコシが実るまでの間だけだ。実りの時が過ぎれば彼らは母国に帰り、この国は我々の手に戻る」
1942年、太平洋戦争初頭に日本軍がオランダ領東インド(現インドネシア)に侵攻してオランダを駆逐した時、民衆は日本こそが「黄色い救世主」だと熱狂した。しかも予言の通り、日本軍は「トウモロコシが育つ」期間とされる約3年半だけ駐留し、45年の敗戦とともに姿を消した。
ただ、すべての「黄色い民族」が極東の島国に戻ったわけではなかった。またインドネシアの民衆も、すんなりと祖国を取り戻すことができたわけではない。
45年8月17日、インドネシアは日本がポツダム宣言を受諾した直後に独立を宣言したが、旧宗主国オランダはそれを認めず、インドネシア側は「ムルデカ」(インドネシア語で独立の意)を勝ち取るため、4年半にわたる対オランダ戦争になだれ込んだ。
ジャカルタ中心部からほど近い「カリバタ英雄墓地」は、この戦争に命をささげた将兵ら数千柱が眠る、この国で最も荘厳な「聖地」だ。辛くも生き永らえた元兵士らも、死後はここに「独立英雄」として埋葬される権利を保持していることを最高の栄誉と誇る。
根元に銀色の鉄かぶとが据えられた灰色の墓石を注意深く見てゆくと、ローマ字で日本人名が刻み込まれている墓があることに気付く。その数合わせて25柱。彼らこそ、日本が敗れた後も軍籍を離れてこの地にとどまり、オランダとの戦いに合流した、いわゆる「残留日本兵」だ。当時、インドネシア全土で1000人前後いたといわれる残留兵のうち、独立戦争を生き残ったのは300人程度。その中で現在もインドネシアで存命が確認されているのはわずか11人に過ぎない。
ジャカルタに住む宮原永治氏(84)も、そんな生き残りの1人だ。42年3月1日、今村均中将率いる第16軍の一員としジャワ島カラワンに敵前上陸。住民らの手厚い歓迎を前に、「この戦争は、有色人種を白人の支配から解放するための戦争なのだ」と確信したという。
日本は44年、独立運動指導者のスカルノらに対し、将来の独立を約束する。しかし、日本の敗戦で約束は守られなかった。「だからこそ、我々が約束した独立を助けるため、ここで戦おうと決意した」と宮原氏は言う。戦闘に不慣れなインドネシア人にとり、残留日本兵の存在は大きかった。何より、インドネシア人のみによる初の軍事組織「祖国防衛義勇軍」(ペタ)を日本軍政がすでに設置していたため、結果として組織的な軍事行動を可能にしたことが、勝利に大きく役立った。
歴史には、必ず「光」と「影」がある。太平洋戦争中の日本のインドネシア支配は、10万人にのぼる「労務者」の使役や食料徴発による飢餓のまん延など、負の側面抜きには語れない。しかし一方で、今まであまりに語られなさ過ぎた、インドネシア独立で日本人が果たした役割を知っておくことも、歴史を公平に理解する上では欠かせない。
(文と写真
黒瀬
悦成)
ムルデカ17805
2001年劇場公開。制作・浅野勝昭、監督・藤由紀夫。太平洋戦争敗戦後もインドネシアに残り、対オランダ独立戦争に身を投じた旧日本軍将兵らを主人公に据えた初の日本映画。17805とは、インドネシアの独立記念日である皇紀2605年(西暦1945年)8月17日の意。後に初代正副大統領となる独立運動指導者のスカルノとハッタは、独立宣言文にこの日付を書き入れ署名した。
(2004年11月22日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/world/abroad/20041122sc22.htm
これは メッセージ 9275 (yominokuni56 さん)への返信です.
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>ビルマ教科書
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/22 23:27 投稿番号: [9279 / 29399]
>ビルマ教科書
どうして、ビルマの教科書には、そのような嘘が書かれているのか冷静に考えよう。
【高山正之の異見自在】ミャンマーの悲劇
どこかの国が「いい子」のせいで…
http://www.angel.ne.jp/~arrow/insist/ikenjizai/010120.htm(一部抜粋)
英国に次いでビルマの人々は中国を嫌う。中国人は植民地時代に入り込み、英国人のよき手先となってビルマ人を搾取した。英国人が引き揚げたあとも彼らは居座って経済実権を握り続けた。
ネ・ウィンが鎖国政策をとったのも、ビルマ経済を停滞させて商売のうまみを消し、彼らが愛想を尽かして出ていくのを待つ、という意味があった。
だから生活は貧しく不便だったが、国民は我慢した。それが自分の国を取り戻すためだと知っていたし、同じような状況のベトナムが華僑追放という強制手段を選んで、戦争(中越紛争)に巻き込まれたのよりは、ましな方法だと認識していたからだ。
しかし、中国人はビルマ乗っ取りにもう一つ、手段を講じた。共産ゲリラの侵入だ。彼らは社会不安をあおりながら南下し、七〇年代にはヤンゴンのすぐ北のペグーにまで進出した。
これを掃討したのが今の政権を担当するタンシュエである。
中国人といえば、タイの華僑もしたたかだ。モン、カチンなど山岳民族をけしかけてビルマ人政府と対立させ、武器弾薬を売ってはチーク材を手に入れていた。「中国」というだけでビルマ人は顔をしかめたものである。
ところが九七年に当時のD・エーブル計画経済相に会ったとき、側近から「中国の批判は避けてほしい」といわれた。
スー・チー問題を口実に欧米がミャンマーに経済制裁を科し、日本が右にならえをしていたころである。この国の経済はそれでほぼ破綻しようとしていた。
その窮状に援助の手を差し伸べたのがほかならない中国だった。
“英国人スー・チー”に屈するのか、嫌いな中国の援助を受けるのか、究極の選択を強いられたビルマ人は結局、中国を選んだ。
今、ヤンゴンの表玄関、イラワジ川にかかる鉄橋が中国の支援で建造された。
ネ・ウィンと国民が死ぬ思いで耐え、そして出ていってもらった中国人がそれを渡ってわんさと戻ってきた。王都マンダレーの街中には漢字の広告が大威張りで立ち並んだ。中国の経済植民地化にもがくミャンマーの姿である。
だから、中国の批判をこっちが言えば、政府首脳は何とも答えられない。「その辺のところを察してほしい」というわけだ。
これは メッセージ 9277 (yominokuni56 さん)への返信です.
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教科書はその国に
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2005/06/22 23:09 投稿番号: [9278 / 29399]
都合の良いように作って居るんでしょうな。
それで、日本の教科書も悪いってか。
反日の日本人の典型だよな、貴様は。
これは メッセージ 9277 (yominokuni56 さん)への返信です.
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支那事変終結を目指し、戦線を拡大?
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/22 22:16 投稿番号: [9277 / 29399]
ビルマでの日本軍、
ビルマ教科書
>タキン、アウンサンは1941年初頭ひそかにビルマへ戻った。
30人の青年を4つのグループに分け、日本に送り出し、海南島および台湾でおよそ4ヶ月間の軍事訓練を受けさせた。
ビルマの歴史に名を残す,30人の志士である。
1941年12月7日
日本軍は宣戦布告なしに、アメリカの真珠湾を爆撃した。1939年以来の第2次世界大戦の戦火はアジアへも広がることになった。
1941年12月26日ビルマ独立義勇軍(BurumaIndependenceArmy)を結成した。
勢力はシャン族やビルマ族を含めて1500人程度だった。
アウンサン将軍(ボ、テーザ)率いるビルマ独立義勇軍本隊は日本軍とともに作戦行動を展開、1942年初頭にはビルマ国内へ侵攻した。
日本はモーラミャイン(ビルマ南部の都市)に入れば、ビルマ独立を宣言させると言う約束を反古にしたばかりか、ファシズムによる支配を実施し始めた。
1942年3月BIAはラングーンを占領し、その後インド国境までイギリス軍を追って掃討を行った。
イギリス植民地軍はビルマから完全に撤退したのである。
BIA指導者はタニンダリーを制圧した段階でビルマ独立を明確に宣言させるよう日本軍指導者に要求した
、しかし、日本側はラングーンを占領すれば独立を宣言させるとしか答えなかった。
ラングーンを占領すると、今度は上ビルマ(ビルマ北半分)を占領してからと、
、言を左右にした。
こうして、ビルマ人は徐徐に日本の策略に気づいていったのである。
ビルマに独立を与えたくなかった日本は、ビルマ全土を制圧し終えた
1942年7月に2万3千人近くの勢力になっていたBIA(ビルマ独立義勇軍)を解散させ、兵力3千人規模に過ぎないBDA(ビルマ防衛軍)に改編した。
このBDA時代に国防省やミンガラドン士官学校などが創設された。
1943年8月
日本はビルマに形ばかりの独立を与えた。
独立後バモオ博士が最高指導者の地位についた。
3. 反日、反ファシスト闘争(1942〜1945年)
状況、情勢
「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。
ファシスト日本が許容した権限があっただけである。
日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは日本軍のキンペイタイ(憲兵隊)である。一般の国民は憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。
こうした、ファシストの弾圧の結果反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。
タキン、テイペイ・タキン、ティンシュエら指導者は日本軍の侵攻直後からインドへ渡り、連合軍司令部と接触を保っていた。
1944年8月にはファシスト日本打倒連盟(AFO=AntiFascistOrganization)が結成され、ビルマ国軍、共産党、人民革命党がこれに加わった。その後
ライカ民族連盟、カレン中央本部、東アジア青年連盟なども加わってきた。
1944年連合軍指導部と合意に達し、1944年末から45年初めには武器援助を得るようになった。
アウンサン将軍の下で反ファシスト反乱の準備は着々と進められ、敵軍討伐の名を借りて、作戦行動を起こす許可を日本軍司令部に求めた。当事
インド・ビルマ国境地帯からの退却(1944年3月開始の「インパール作戦」は失敗に終わり,7月退却し始めていた)に移っていた日本軍は、この作戦行動の開始を認めた。
1945年3月17日ラングーンのトオフランイエ公園において、アウンサン将軍率いるビルマ国軍は閲兵式を挙行した。
4月2日に全国で一斉蜂起することが決められていたが、連合軍の前線部隊が国境を越えて、ビルマ国内に進撃してきた状況をみて、バトゥー少佐が3月8日に反乱を開始した。
そのため、反日ファシスト反乱決起の日時は予定より繰り上がり,3月27日となったのである。
これは メッセージ 9263 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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キーセン観光
投稿者: yumeoibito0808 投稿日時: 2005/06/22 22:05 投稿番号: [9276 / 29399]
従軍慰安婦が事実としたら、キーセン観光公娼と如何違うか説明しろ。
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.
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「ムルデカ 17805」元日本兵だよ。
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/22 21:58 投稿番号: [9275 / 29399]
前田精海軍少将?
インドネシア独立の為に戦った元日本兵のことか?
日本軍、日本政府、日本兵の意志ではないよ。
日本軍の敗戦により、武装解除され、兵役をとかれた、元日本兵がインドネシア独立義勇軍に個人の意志で参加し、協力した話だね。
勘違いしちゃ,いけないよね。
日本政府は撤収させる
意見だったからね。
◇スタッフ◇
○ 監督:藤由紀夫
◇主な出演◇
山田純大(島崎中尉)保阪尚輝(宮田中尉)榎木孝明(片岡大尉)ほか
日本映画ですな、、感動もなにも無い。
これは メッセージ 9271 (asia1867 さん)への返信です.
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>フィリピン親米の歴史教育 確認?
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/22 21:45 投稿番号: [9274 / 29399]
>二十日、タクロバン南部パロのマッカーサー総司令官の上陸地「レッドビーチ」で行われる記念式典には連合軍の退役軍人など約千四百人が参加する。フィリピン政府は、六十年の節目を盛大に祝いたい意向だ。
アメリカ軍万歳、、、じゃないの?
どこを修正するの(笑)
>フィリピン
親米の歴史教育
見直しの声
どこにでもアンタと同じようなのがいるという事か(笑)
これは メッセージ 9270 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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・・・。
投稿者: p22222225555 投稿日時: 2005/06/22 02:50 投稿番号: [9273 / 29399]
真実をしっかり受け止めることが出来ないのはお前だよ!!
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.
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従軍慰安婦は捏造語?
投稿者: sugotyon 投稿日時: 2005/06/22 00:19 投稿番号: [9272 / 29399]
嘘か真か?
そんな折、ソウルの留学生Aさんから、驚くような連絡が来ました。以下に、Aさんから聞いた話を要約して書きます。
そもそもこの従軍慰安婦問題を社会的に提起したのは、「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪と賠償をさせる」ことを運動の目標に掲げている「百人委員会」なる団体でした。この団体の在日韓国人と日本人主婦が、「被害者を探しに」韓国に行き、そして“被害者”を見つけて、裁判に訴えさせたそうです。しかし、その「性奴隷制度の被害者として最初に名乗りを挙げた勇気ある女性キム・ハクスン」なる人物は、実は日本軍兵士相手に売春して大金を稼いでいた単なる朝鮮人売春婦でした。しかし、この「百人委員会」は、そういった元売春婦ばかり探し出して、日本政府相手に訴えさせ、それを国内また国際的に宣伝し始めたのです。では、一体この「百人委員会」とはどんな団体なのか? 実は、統一教会の「アジア平和女性連合」という団体が母体となった二次団体だというのです! そしてその元売春婦の裁判を担当した高○健○弁護士も統一教会の信者であり、“被害者”を探しに韓国に出かけた日本人主婦もまた統一教会の人物だというのです!(むろん本人は否定しているそうです。しかしこれも統一教会の手口なのです。外部の人間に「統一教会の信者か?」と聞かれると「違う」で押し通せと命令されているのです)。彼らは「日本は悪魔の国で、メシアの国である韓国を苦しめた罪を償わなければならない」という統一教会の教義を信じて行動しているのです!
そしてさらに、文鮮明と金日成が和解した92年以降は、この従軍慰安婦問題に朝鮮総連系の在日も運動に関わるようになり、北朝鮮の“ニセ慰安婦”が続々と現れ、「日本兵は慰安婦の首を日本刀で切り落として、それを煮て、煮汁を飲まされた」などと国際社会に言いふらしているのだそうです。では、そもそも統一教会がこの「性奴隷問題」をでっち上げたのなぜか? 理由は複合的で、日本と日本人の国際的信用を貶め、韓国に賠償金を払わせ、在日韓国朝鮮人の政治的立場を優位にし、さらに日本人女性を洗脳して「人身売買の商品」に仕立て上げるのが狙いだったのです! 日本女性に贖罪意識を植え付け、「自分が似た境遇になることで罪の償いをする」と信じ込ませるトリックが含まれていたのです! Aさんによると、事実、私の姉のように、このトリックですでに数千人の日本女性が統一教会の「人身売買の商品」に仕立て上げられ、とくに需要の多い韓国の田舎に売り飛ばされたそうです!
私はこの話を聞いて、愕然としました。さらに(Aさんとは別の人から)あの辛○○も統一教会系の団体の講演などを引き受けていると聞いて、在日韓国朝鮮人という人たちが信用できなくなりました。どうやら、統一教会、その信者、朝鮮総連、在日人権運動家……等など、すべてグルだったのです! 本当は連中こそ、正義の仮面を被りながらその実、日本人女性を韓国の奴隷に仕立て上げるために活動している卑劣極まりない人たちなのです!
現在、多くの日本人女性が、韓国人や在日のプロパガンダに引っかかってこの運動に協力していますが、とんでもない話です。なぜなら、それは統一教会が今も行っている犯罪に加担することになるからです。繰り返しますが、私の姉みたいに、韓国に「商品」として送られた統一教会の日本女性信者はたくさんいます。もし私の話を疑うのでしたら、彼女たちがどんな悲惨な境遇でいるか実際に調査してください。彼女たちが事実上、奴隷にされていることが分かります。なぜこんな悲惨な話が日本のマスコミで報道されないのか、不思議で仕方ありません! 本当に、朝日や読売や毎日といった大新聞は、どうしてこんな現代の人身売買を世間に明らかにしないのですか!? 一体なぜですか!? どうしてテレビは日本人が被害にあっている実情を取り上げてくれないのですか!? 本当になぜですか? なぜなのですか?今この瞬間にも、多くの日本人の若い女性たちが、韓国の邪教に洗脳され、連れ去られ、一生、奴隷にされているのです! 私の姉を返してほしい!
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フィリピン 親米の歴史教育 見直しの声
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/21 23:41 投稿番号: [9270 / 29399]
ホーム > 生活と文化 > ニュース、時事問題 > 海外ニュース > 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
>まずフィリピンからにしようか、ね、6
2004/10/20 14:56
メッセージ: 3636 / 6124
アバターとは?
投稿者: dodonnamonk
教科書などというのは、時の政府に都合が良いように出来ている。そのあたり、注意が必要。
フィリピン
親米の歴史教育
見直しの声
太平洋戦争の激戦地フィリピンで、日本軍の敗退を決定付けたダグラス・マッカーサー連合軍西南太平洋総司令官のレイテ島上陸から二十日で六十年。フィリピンでは米国による「解放」を記念し、長年の友好関係を再確認する日だが、「米植民地時代のフィリピン人弾圧の隠れみのになっている」などと親米一辺倒の歴史教育の見直しを求める声が出ている。論客の一人、フィリピン大のロランド・ボリナガ教授に聞いた。
――――――――――――――ボリナガ教授に聞く
「日本占領下の太平洋戦争ではフィリピン人の十七人に一人が死んだ。だが、米植民地主義と戦った比米戦争では六人に一人が亡くなったのだ」
タクロバンの研究室でボリナガ教授は数字を挙げ、米支配下で犠牲者がいかに多かったかを強調した。
十六世紀にスペインの植民地となったフィリピンは十九世紀末、中南米の対スペイン独立運動に触発される形で独立の機運が高揚。一八九八年の米西戦争で宗主国が米国に代わった後も反植民地闘争は比米戦争として続いた。
米軍は一九〇二年まで、最大七万の兵力を投入しエミリオ・アギナルド率いるフィリピン軍やゲリラ部隊と戦った。ゲリラに協力する村を焼き払い、捕虜を水攻めにしたとも言われる。
だが、フィリピンの歴史教科書には一九七〇年代まで、比米戦争に関する記述さえなかった。「日本がフィリピンを占領する一九四二年以前、教育相はすべて米本土から送り込まれた米国人で、教科書も米国の史観に沿ったものだった」からだ。その影響は独立後も長く残った。
現在も教科書は米国に好意的だ。米国の植民地支配すら「米国人の統治は、それまで(のスペインの統治)とは違い、好ましいものだった」(小学五年生用教科書)とし、日本に関する「日本人は市民のコメ、その他の食料、家財を奪い、女性を辱めた」(同書)などの表現とは対照的だ。
ボリナガ教授は「教科書に日本人が敵で米国人が友達だと書いてあるのだから、子供たちは当然そう信じる」と話し、二年後に予定される教科書改訂に向け、内容刷新の必要性を訴え、世論を盛り上げたいとしている。
二十日、タクロバン南部パロのマッカーサー総司令官の上陸地「レッドビーチ」で行われる記念式典には連合軍の退役軍人など約千四百人が参加する。フィリピン政府は、六十年の節目を盛大に祝いたい意向だ。
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これは メッセージ 9268 (yominokuni56 さん)への返信です.
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インドネシアではこの様に教育されている
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/21 23:15 投稿番号: [9269 / 29399]
>マレー、インドネシア、インドシナに現地政権ができた。マレーではインドの代表的指導者、チャンドラ・ボース率いる自由インド臨時政府が樹立された。ボースは英国に宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍と共にインド進撃を目指した。
インドネシア
中学校用
「社会科分野.歴史科第5分冊」
マルトノ著
ティガスランカイ社
1943年以降、日本軍は行きずまり、連合国軍の攻撃に備えてインドネシアの青年を利用しようとした、日本は青年団をつくり、隊員は14歳から22歳までの青年から成っていた。目的は「自力で国土の防衛が出居るように青年達を教育,訓練する」ことであった。日本軍政府はこのように言っていた。しかし、本当の目的は来襲する国連軍に立ち向かわせようとする準備であった。
また、ケーボーダンあるいはボーゴダン(警察補助隊)フジンカイを作った。
ジャワ、ホコーカイ=1944年ジャワ民衆の動員を強化する為ジャワ忠誠会を作った。大東亜戦争の勝利のため民衆を駆り立て日本への全面的な献身をさせる事、会員は14歳以上で米、宝石、くず鉄などの物資を集める為民衆を動員する役割をさせられた、集めた物資は全て日本軍政府に引き渡された。
その他ヘイホ(日本補助兵)シュイシンタイなど1943年に設けられた。
国土義勇軍=1943年10月3日に結成された。インドネシア防衛のため、日本軍から軍事訓練をうけた。郷土防衛義勇軍の指揮官はインドネシア人であった。彼らは指揮官に就任する事を認められる前に士官候補生として教育を受けた。士官たちの教育はボゴールで行われた。インドネシア独立後、彼らの多くがインドネシア国軍の指導者となって活躍した。その中に故スディルマン将軍、カトッ・スブロフ将軍、アフマドヤニ将軍らがいる。
日本の占領政策は民族主義闘争に利用された。
インドネシア民族に対する日本の圧制は実に非人間的なものであった。
自然資源と労働力の搾取は徹底的に行われた、民衆はわが国の歴史に例のない苦難を体験した。
指導者たちは民衆の立場に立って闘い続け独立を達成するために民衆の闘争精神を育てたのである。民族主義者たちは表立っては日本軍政府と対立はしなかった、それは大変危険であり、闘争を有利にはしなかったからである。日本軍は抵抗する者は誰であろうと遠慮せず殺した。
地下活動を行う。
政党が解散させられた後、指導者達は地下活動を行った、勢力を結集し民族団結の地下活動を続けた。
反乱がインドネシア各地で勃発した。
1. アチェにおける反乱=1942年11月10日指導者はシャリル(日本軍に狙撃される)
2. 西部ジャワのシンガパルナでの反乱1944年2月25日指導者はザエナル・ムスタファ(逮捕
死刑)
3. 西部ジャワ
インドラマユでの反乱
カプロガン村の全民衆が蜂起他の村村に飛び火する。(日本軍の鎮圧)
4. 西部ジャワ
ロッベヌルでの反乱日本の残酷な行為を座視する事が出来ず武器を取って抵抗した、マドリャリアスの指導による。
5. 西部カリマンタン、ポンティアナックの反乱1943年10月16日に日本に対する反乱を計画する秘密会議が開かれた。がしかし、事前に情報が漏れ、多くの人々が逮捕され,殺害された。
6. 郷土防衛義勇軍による反乱
aフリタルにおける郷土防衛軍の反乱ショウーダンチュ(小隊長)のスプリヤディに指導された100人の兵士はカウィの山に立てこもり抵抗し、その後投降、逮捕、死刑に処せられた。
bアチェにおけるトゥウクハミドの反乱
ギユー軍の2小隊を指揮して日本に抵抗した。ハミドの家族全員が人質となりやむなく投降した。
cパンドラにおけるギユー軍兵士の反乱
日本軍が鎮圧
dチラチャップのグミリールでの郷土防衛義勇軍の反乱
この反乱はかなり強烈なものであった、スディルマン将軍、後にインドネシア独立後国軍大将となる
これらの反乱はいずれも日本軍に鎮圧されてはいるが、成果は、連合国軍の攻撃と戦っていた日本軍の力を削いだ事にある。
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でりちゃん、こっちに来る余裕はないだろ
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/21 23:10 投稿番号: [9268 / 29399]
>例えば、フィリピンは1943年10月14日に「独立」を獲得している。これは米国が二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。
そう??
フィリピンの小学校の教科書には、以下のように書かれてますけど、(笑)
フィリピン
小学校4年生読本
「歴史」(タガログ語)
コンコルディア・C・フロレンチアB.バウティスタ編
レックス
フックストア発行
フィリピンの歴史におけるくらい時代は私達の国を日本国が占領した時です。
日本軍は来たばかりのころは自分達はフィリピン人の友達だといい、フィリピン人と日本人を結びつけるためアメリカを敵としました。
日本人はアメリカと関係のあるもの全てをとり除きました。英語の代わりに日本語にしました。
彼らは人々の食糧や家財道具をはじめ乗り物や大きな家々をも取り上げました。
多くの人々が生活に困り、お腹を空かせていました。しかし、フィリピン人はマッカーサー将軍が戻ってくるのを信じていました。将軍がそう約束したからです。ゲリラ活動をしていた人、日本人と一緒になるのを嫌がった人たちは山にこもりました。ゲリラはしばしば日本軍と戦い、人々の希望となりました。
日本人はスパイがゲリラとみなした人々にとても残忍でした。捕らえた者たちを拷問し、閉じ込め,仲間の名前を言わせました。罰せられ殺された人達の中にはアバド・サントス裁判官、ウェンセスラオ・Q・ビンソン氏、ホセファ・リャネス・エスコーダ夫人、ラモン・ラントス医師らがいます。
マッカーサー将軍は約束を守りました、戻って来て、私達の国を日本人から救ってくれました。
*今日でもハポン(日本)
サカン(蟹股)は「悪」の代名詞になっていることを認識しておくべきでしょう。
サマット山頂に戦争記念館がある。
バターン半島の突端に「死の行進」を示す記念碑がある。
次はインドネシアか、マレーか、インドシナか、、
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それがどうした?
投稿者: chankoro_kirai 投稿日時: 2005/06/21 22:39 投稿番号: [9267 / 29399]
>南京大虐殺も従軍慰安婦強制連行も実際にあったのであり、これは世界の常識である<
世界の常識?
戦争だ、殺し合いもあるだろう。
それがどうした。
終わったことを嬉しそうに言うな。
バカ野郎。
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工作員引っ込め!
投稿者: hironomiya2003 投稿日時: 2005/06/21 22:03 投稿番号: [9266 / 29399]
>アジア諸国との友好と平和のためにもメディアや学校で事実を教える必要がある。
矢鱈に、アジア諸国等という言葉を使うな!
南京大虐殺とか従軍慰安婦強制連行などと事実捏造を言い募るのは、世界中で、シナ人、朝鮮人 の三馬鹿反日國家トリオのみ。
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大山中尉惨殺事件は蒋介石の命令
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/21 21:42 投稿番号: [9265 / 29399]
貴重な情報をありがとうございました。
とても参考になりました。
これは メッセージ 9262 (unhoo さん)への返信です.
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切れてしまった。(続き)
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/21 21:41 投稿番号: [9264 / 29399]
>シナ事変の終結など、、、、、?
>戦争拡大しておいて、終結目指したとは?何処に論理があるのでしょうか?
重慶の蒋介石に、英米が援蒋ルートを使って武器などを支援したため、なかなか支那事変は終結しなかった。
北部仏印に進駐して仏印経由の、南部仏印に進駐してビルマ経由の、援蒋ルートを遮断すればシナ事変が終結に向かうと考えたのは当然だ。
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>>死活求め、支那事変終結を目指した
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/21 21:39 投稿番号: [9263 / 29399]
>少しでも、日本政府がアジアの独立に貢献していれば、納得も出来ようが、アジアの独立を掲げた割に、独立を果たした国は無い、また、支援した国もない。
嘘ばかり吐くな。
―――――――――――――――――
日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返還した。大戦中日本は、実際に、占領した全ての地域に現地「独立」政府を樹立していった。
例えば、フィリピンは1943年10月14日に「独立」を獲得している。これは米国が二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。ビルマは1943年8月1日に独立した。マレー、インドネシア、インドシナに現地政権ができた。マレーではインドの代表的指導者、チャンドラ・ボース率いる自由インド臨時政府が樹立された。ボースは英国に宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍と共にインド進撃を目指した。今日、インドの代表的指導者の中には、英国の政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者の長く実りのない平和的手段ではなく、ボースの隠然たる脅威、「忠誠心のない」英印軍、そして日本軍だったという人もいる。
こうして各地で独立を宣言した植民地政権を、西洋列強は法的擬制と呼び傀儡と言う。しかし、フィリピンを例外として、これらの政府に参画した現地の人々が、戦争の最中でさえ、過去のどこの同じような現地政権より権威をもっていたことは事実である。
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著
―――――――――――――――――
日本軍は、占領の僅か2〜3年間にアジア諸民族に教育と軍事訓練を施した。
これにより、アジア諸民族は、数百年間自分達を支配していた白人と戦う勇気と方法を身に付けた。
もし日本が欧米と同じように植民地にするつもりなら、軍事演習まで施す筈がない。
2605年8月17日インドネシア独立秘話
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/indonesia.html(一部抜粋)
第一になされた事は「民心の安定」でした。それは、今村司令官の発した「布告第1号」に見る事が出来ます。
1.日本人とインドネシア人は同祖同族である
2.日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
3.同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する
当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものでした。なぜなら、欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。ところが日本軍は開口一番、「共存共栄」を唱えたのですから、住民が驚いたのも無理はありません。しかし、今村司令官の布告は終戦まで、決して破られる事はなかったのです。
ビルマ独立と日本軍
http://www.senyu-ren.jp/MAGO/23.HTM(一部抜粋)
大東亜戦争の始まる一年程前に、ビルマには「ビルマ独立三十人の志士」と呼ばれる青年達が居た。リーダーはオンサン――軍事政権に反対して現在軟禁されているスーチーさんのお父さんだ。これらの青年連は何とか祖国を独立させたいと思って、英国官憲の目を盗んでビルマを脱出し、日本の庇護を求めて来たんだ。
人物探訪:リカルテ将軍
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog156.html(一部抜粋)
昭和15(1940)年、ケソン大統領は訪米の帰途、横浜に立ち寄り、自らリカルテを訪ねて、帰国を求めた。リカルテはこう答えた。
「わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、その星条旗の下に帰ろうとは思わない。わしが祖国に帰る日は、祖国が完全に独立し、むかしわれわれが立てたあの革命旗が、堂々とだれはばかることなく立てられる日だ。」
その翌年、大東亜戦争が勃発し、リカルテは参謀本部の要請を受け、占領後の独立の約束をとりつけた後、75歳の老躯を駆って祖国に戻った。群衆は歓呼してリカルテ将軍を迎えた。
(参考)
私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです
http://www.geocities.co.jp/Bookend/9304/daitoua.htm>シナ事変の終結など、、、、、?
>戦争拡大しておいて、終結目指したとは?何処に論理があるのでしょ\xA4
これは メッセージ 9261 (yominokuni56 さん)への返信です.
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大山中尉ほか壹名の虐殺事件
投稿者: unhoo 投稿日時: 2005/06/21 12:18 投稿番号: [9262 / 29399]
筆名岳騫という香港のジャーナリストが、1982年8月23日の『中央日報』に書いた文章に、蒋介石が命令して上海で日本の軍人を殺害させたいきさつが書いてある。『中央日報』は国民党の機関紙で、今でも発行されている。
その文章の表題は「記
蒋公両項偉大戦略」、文の内容は、蒋介石が七・七事変を局部で解決しないように、上海で戦争を引き起こしたのは偉大なる戦略だったというのである。全文原稿紙に6〜7枚見当、それを全部翻訳するのは手数がかかりすぎる。第一、おもしろくない。よって、肝心の部分だけを摘訳することにする。
この記事の筆者岳騫氏が1937年の上海事変のことについて、当時上海の国府軍の指揮官だった張發奎と談話したときに、張發奎は「那両個日本兵是我下令打死的、上海戦事実在是我們挑起的(あの二人の日本兵は、わしが下令して殺させたのだ。上海の戦争は実は我方が引き起こしたのだ)」と云った。岳騫は、なぜそんなことをしたのかと聞いた。張發奎笑ってこたえるには「我是奉令、為什麼我也不知道(わしは命令を受けたのだ。何のためだか、わしも知らぬ)」。それからしばらく経って、岳騫は胡伯玉将軍に会った。胡伯玉は当時中華民国の駐ベトナム大使で、帰国の度に香港を通るので、香港に住む岳騫は彼と談話する機会があった。あるとき岳騫が上海の事件について話しをしたところ、胡伯玉は微笑して「ni問我、算是問對了、知道内情的人、老先生之外可能只有我一人(君がわしに質問したのは、適当な人に質問したと云えよう。内情を知っているのは老先生のほかには、わしだけらしいからな)」。老先生とは蒋介石のことである。
まあこれだけにしておく。あとは蒋介石が戦争を拡大したことは、偉大なる戦略であって、蒋介石は孔明よりも偉い戦略家だと、くどくどと書いてあるだけだ。
これは メッセージ 9255 (unhoo さん)への返信です.
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死活求め、?支那事変の終結
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/21 06:43 投稿番号: [9261 / 29399]
>この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。
アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
確かにアジアに与えた影響は大きいと言わざるを得ない、、がしかし、その全ては敗戦による結果論の域を出ることはない(笑)
少しでも、日本政府がアジアの独立に貢献していれば、納得も出来ようが、アジアの独立を掲げた割に、独立を果たした国は無い、また、支援した国もない。
全ては対米戦に利用しようとしただけで終わっている。
つまり、アジアの民衆は強盗にはいられて、鍵をかける習慣を身につけたと言うことでしょう。
過大の評価は日本軍の無責任な行動を誤って評価することになる。
>死活求め、支那事変の終結目指した仏印進駐
シナ事変の終結など、、、、、?
戦争拡大しておいて、終結目指したとは?何処に論理があるのでしょうか?
これも結果論か(笑)
火を消すのに水とガソリンを間違えてかけてしまった?と言うことのようです。(笑)
これは メッセージ 9260 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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死活求め、支那事変の終結目指した仏印進駐
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/20 23:22 投稿番号: [9260 / 29399]
>南仏印へ侵攻すればアメリカとの戦いは避けられないと、軍上層部は判断していながら、インドネシア、フィリッピンの石油など軍需物資獲得に動いたのでしたよね(笑)
●仏本国が独に降伏したので、仏領インドシナ総督は対日関係を好転させるために仏印経由の蒋介石支援ルートの遮断を日本側に申し入れた。
日本はシナ事変を早期に終結させるために援蒋ルートの遮断を要求していたので歓迎し、援蒋ルート遮断の実行を確認するためにフランスとの協定に基づいて仏印に進駐した。(1940年9月23日)
すると、米国は屑鉄の対日輸出を全面的に止めた。
●さらに、タイと仏印との間で国境紛争が起こると、日本は、間に立って停戦協定を成立させ、東京のタイ・仏印国境紛争調停会議で調停が成功し1941年年3月11日タイ・フランス平和条約が成立。
すると、米英は苦々しく思い、ますます経済制裁を強めようとした。
当時、日本が最も多く石油を買っていた相手先は米国だったが、米国は理不尽にも戦争を続けさせる支那を支援し日本へ制裁をしたため、日本は南部仏印に進駐する約1年前の1940年7月からから米国に代わる石油供給源を求めようとして蘭印政府と交渉を始めた。
ところが蘭印政府は、既に米国政府から対日圧迫の協力を求められており、日本へは強硬姿勢を貫いた。
米国は、日本と蘭印間で交渉が行われている最中に、日本軍侵入の際にはすべての油田を破壊する命令を現地米総領事が出し、米陸軍も80機の戦闘機を派遣した。
英・米・蘭の結託で日本にとって必要な資源が手に入らなくなり、その為、日本は南方に資源を確保する必要に迫られた。
日本は、戦略物資の豊富な南部仏印が、米英に占領される事態を予防するために南部仏印への進駐に踏み切った。(1941年7月28日)
日本の全面屈服か戦争かを求めていた米国は、石油の全面禁輸、日本資産の凍結という報復手段に出た。(1941年8月1日)
しかも、南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。
米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。
●日本の南部仏印進駐のもう一つの要因で、実は最大に目的は、「援蒋ルートを遮断してシナ事変を解決する」ことだった。
英国はビルマルートから支那に武器の輸送を盛んに行なっていた。
南部仏印進駐も英国によるビルマ経由の援蒋ルートを遮断してシナ事変を解決するために仏印政府と交渉して平和裏に行った。
〆
〆
〆
参謀本部の田中第一部長は手記に、「仏印、タイを我が軍事的結合圏内にすみやかに編入するため、取りあえず、仏印南部に所要の兵力を進駐させる必要がある。
その目的は全仏印の実質的把握…更にタイに、にらみを利かせ…情勢に応じてはビルマに進駐する為の基地とするにある。これによって対支封鎖の陣形は完成される」
と書いている。
〆
〆
〆
また御前会議の理由書にも
「…最近米国ヲ中心トスル英米蘭支ノ戦略態勢強化…若シ帝国トシテ速ヤカニ之ニ対抗スル措置ヲ執ルコトナク…
日ヲ閲スルニ於テハ…支那事変ノ
解決ハ更ニ遷延スヘク…帝国トシテハ此ノ際仏印・タイ全域ニ渉リ帝国ノ軍事的地歩ヲ先制確保スル要極メテ緊切ナリ…」
とある。
〆
〆
〆
つまり、真の目的は支那事変の解決だった。
ただその前に英米蘭の妨害があるわけで、日本が生きていくために必要な石油や鉱物資源などを止められ、売ってくれなきゃ、腕ずくでも取るしかなかった。
>ですから、なんら、文化的遺産など他国の植民地宗主国ほど現地には残してはおりません、ほとんど、破壊、経済疲弊と、人的搾取しかしていませんからね(笑)
日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。
アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
これは メッセージ 9258 (yominokuni56 さん)への返信です.
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>民間からの突き上げ
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/20 06:28 投稿番号: [9259 / 29399]
>政府が結んだ日露戦争講和条約が不満で、日比谷焼き討ち事件が発生したが、このことは欲が民間から起こったのだという感じをあたえる。
領土獲得不足、賠償金獲得不足をスローガンに日比谷公園へ集まった群衆は政府への大きな圧力となったようです。
司馬遼太郎氏によると、日露戦争の実態が世間に正しく、報道されていれば、この様な惨事は、、また、後の悲劇は防げてのではないかと、書かれています、また、TV放映でも言われています。
日露戦争は勝つには勝った戦争ですが、あと一歩、遅れていれば、大陸の日本軍は弾は無く、食料も無く、ほぼ全滅の状況の中での、海戦勝利により、起死回生の勝利を収めてのであって、ほっと胸をなで下ろしたにすぎない勝利だったのです、、と。
それを政府も、新聞も大々的に勝利を誇示し、報道したため、その後の戦争にも影響することとなりました。ということだそうですよ。
それから、日本人の武士道も日露戦争を境に失われたとも言われておりました。
失われたと言うよりも、その電流値がカナリ低くなったと、、
武士道とは己の責任の取り方ではないかと、、己で判断し、間違っていれば、腹を切る、、、これが武士道の規範であると、、。
日本人は武士道精神を少なからず、遺伝子として皆、持っている、、が、その数値が低くなっている、その数値を上げる努力が必要ではないか。
これは メッセージ 9255 (unhoo さん)への返信です.
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後始末が大変でしょうね(笑)
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/20 06:13 投稿番号: [9258 / 29399]
>>で、金も物資もなく、アメリカと戦わねばならず、その軍事物資を手に入れる為に、原産国を侵略し続けなければ、戦争遂行を維持できない状況においてしまったのでした。(笑)
>「原産国を侵略」とか言っているようじゃ全然分かっていないね。
当時、日本は軍事物資の80%以上を米英蘭の3カ国からの輸入に頼っていた。
3カ国が普通に売ってくれれば、何の問題もなかった。
対米戦争の為の軍需物資を調達している敵対国になんで、石油など、売らなきゃならないのでしょうかね?(笑)
南仏印へ侵攻すればアメリカとの戦いは避けられないと、軍上層部は判断していながら、インドネシア、フィリッピンの石油など軍需物資獲得に動いたのでしたよね(笑)
対米戦争の為の軍需物資獲得が日本軍の侵略行為でしたよね。
ですから、植民地政策とはカナリかけ離れた強奪政策じゃなかったかと思いますよ。ですから、なんら、文化的遺産など他国の植民地宗主国ほど現地には残してはおりません、ほとんど、破壊、経済疲弊と、人的搾取しかしていませんからね(笑)
だから、日本政府は謝罪するのですよ。
お分かりですね(笑)
これは メッセージ 9256 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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大山中尉惨殺事件は蒋介石の命令
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/20 00:48 投稿番号: [9257 / 29399]
>なお、上海で大山中尉と、随行の下士官が虐殺された事件は、その時期に国府軍の上海方面司令官だった張發奎が部下に命じてやらせたのであって、張發奎は蒋介石の直命を受けたのだそうだ。このことは蒋介石の死後、民国七十一年(1982)八月二十三日の『中央日報』に、記事がある。
これは、初めて知りました。
大変、勉強になりました。
これは メッセージ 9255 (unhoo さん)への返信です.
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後始末が大変なのは、yominokuni56
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/20 00:45 投稿番号: [9256 / 29399]
>デマカセばかりじゃ後始末が大変ですね(笑)
オマエにだけは言われたくない。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9
oa29ta4n13&sid=1143582&mid=6016>トラウトマン和平行作のことらしいが、南京攻略が成功したので、和平交渉は日本側が依頼しておきならば、キャンセルしたのですよね。南京が簡単に手にはいったから、、ね。
まったく意味不明。
オマエは、以前、11月2日に広田外相が仲介を依頼して日本側の和平条件を提示したことを「トラウトマン和平行作」と称していた。
「キャンセル」とか「南京が手に入った」とか、いったい何のこっちゃ?
>日本の農民が中国領土を耕していたのを保護するために戦争したと言われます。
>か?(笑)
>こういうのは一方的とは言わないんじゃないですかね(笑)
支那で畑を耕していた日本の農民を一方的に攻撃すれば、「一方的」と言うんだよ。
>あげくの果てに世界制覇、八紘一宇という大きな目標を掲げ、世界征服を目論だのでした。
偽書と判明済みの「田中上奏文」とソックリの言い分だな。
>で、金も物資もなく、アメリカと戦わねばならず、その軍事物資を手に入れる為に、原産国を侵略し続けなければ、戦争遂行を維持できない状況においてしまったのでした。(笑)
「原産国を侵略」とか言っているようじゃ全然分かっていないね。
当時、日本は軍事物資の80%以上を米英蘭の3カ国からの輸入に頼っていた。
3カ国が普通に売ってくれれば、何の問題もなかった。
これは メッセージ 9253 (yominokuni56 さん)への返信です.
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民間からの突き上げ
投稿者: unhoo 投稿日時: 2005/06/19 23:56 投稿番号: [9255 / 29399]
>その突き上げって具体的には?
___________________________________
具体的な例を挙げるほどには研究していない。「戦争開始のときに、日本の政府や軍部に領土拡張の計画がなかった」ことに気がついたばかりなのでね。
政府が結んだ日露戦争講和条約が不満で、日比谷焼き討ち事件が発生したが、このことは欲が民間から起こったのだという感じをあたえる。
「八紘一宇」という日本書紀の字句がスローガンになったのは、支那事変が始まってから一年たってからだ。「行け八紘を宇となし・・・」という愛国行進曲を、わしは昭和13年の夏休みに内地(日本)に旅行したときに、旅行中に初めて聞いた(註、わしは台湾に住む台湾人)。昭和12年7月7日以前にそんなスローガンはなかった。
蒋介石の次男の蒋緯国は、日本敗戦後、日本へ乗り込んで、日本の軍部に中国侵略の計画があったかどうか、証拠を探したが、全くないとわかった。このことを蒋緯国自身が台湾の新聞に寄稿している。蒋緯国がその文を書いた目的は「日本には戦争計画がなかったが、蒋公(蒋介石を指す)は始めから計画があった。だから勝てたのだ」と、蒋介石の偉大さを宣伝するためだった。
なお、上海で大山中尉と、随行の下士官が虐殺された事件は、その時期に国府軍の上海方面司令官だった張發奎が部下に命じてやらせたのであって、張發奎は蒋介石の直命を受けたのだそうだ。このことは蒋介石の死後、民国七十一年(1982)八月二十三日の『中央日報』に、記事がある。わしの手元にその記事の切り抜きがある。記事の筆者は岳騫という香港の論述家で、この記事もまた蒋介石がいかに偉大だったかを述べるために書かれた。
これは メッセージ 9251 (dodonnamonk さん)への返信です.
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ヨミさん、お尋ねします
投稿者: nigari1985 投稿日時: 2005/06/19 20:52 投稿番号: [9254 / 29399]
ヨミさんは、いつの時点が正しい最終の
国境とお考えですか?
ヨミさんのお考えをお願いします。
これは メッセージ 9253 (yominokuni56 さん)への返信です.
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教えます?。deliciousicecoffeeさん(笑)
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/19 17:56 投稿番号: [9253 / 29399]
あんた、こんな質問に答えてる暇無いのとチャウノ(笑)
かなり追いつめられているようですがね(笑)
デマカセばかりじゃ後始末が大変ですね(笑)
>上海戦の後(南京戦の前)の11月2日に広田外相が正式にドイツ大使に仲介を依頼して提示した日本側の条件にも、南京戦で勝利した後に提案した和平案にも、領土の要求なんてありませんでした
トラウトマン和平行作のことらしいが、南京攻略が成功したので、和平交渉は日本側が依頼しておきならば、キャンセルしたのですよね。南京が簡単に手にはいったから、、ね。
>支那事変は、支那軍が一方的に日本軍や日本人居留民や外国人や支那住民を攻撃して虐殺した戦争であり、日本軍は防衛のために戦っていただけです。
日本の農民が中国領土を耕していたのを保護するために戦争したと言われます。
か?(笑)
こういうのは一方的とは言わないんじゃないですかね(笑)
日本政府は自衛の為に、仮想敵国全てを占領する目的で戦っておりました。
あげくの果てに世界制覇、八紘一宇という大きな目標を掲げ、世界征服を目論だのでした。で、金も物資もなく、アメリカと戦わねばならず、その軍事物資を手に入れる為に、原産国を侵略し続けなければ、戦争遂行を維持できない状況においてしまったのでした。(笑)
ですから資源を求めて、東南アジア諸国へも手と足を伸ばさなければならなかったのです。イナゴの大量発生のごとく、侵略した国々を破壊、破滅させながら戦争を続けたのでした。、、ですよね(笑)
これは メッセージ 9252 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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教えます。dodonnamonkさん
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/19 15:26 投稿番号: [9252 / 29399]
>よく判らないのですが、日本が戦争したのは、日本という国を広げたかったから、ということですが、ナゼ広げたかったんですか?
日本は、上海戦が始まる前の1937年8月9日に予定されていた和平会談で提案するハズだった和平条件にも、上海戦の後(南京戦の前)の11月2日に広田外相が正式にドイツ大使に仲介を依頼して提示した日本側の条件にも、南京戦で勝利した後に提案した和平案にも、領土の要求なんてありませんでした。
戦闘には常に勝っており、勝った方から提案した和平案に領土の要求がなかったのですから、領土を目的に戦争をしなかったことは明白です。
支那事変は、支那軍が一方的に日本軍や日本人居留民や外国人や支那住民を攻撃して虐殺した戦争であり、日本軍は防衛のために戦っていただけです。
これは メッセージ 9248 (dodonnamonk さん)への返信です.
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>横レスへの横レス
投稿者: dodonnamonk 投稿日時: 2005/06/19 13:13 投稿番号: [9251 / 29399]
>>よく判らないのですが、日本が戦争したのは、日本という国を広げたかったから、ということですが、ナゼ広げたかったんですか?
___________________________________
>↑上の文を読んで気が付いたが、日本は領土を広めるために戦争したことはなかった。戦争が始まったときは、政府にも、大本営にも、領土獲得の計画は存在しなかった。ただ戦争に勝った後、欲が出てきたのだ。欲は民間から出た。「われわれの父、兄、息子を殺したのに、領土を取らないでは済むまい」と政府を突き上げたのだ。
民間から出た、というのはどういう資料を見ると、そう判断できるのでしょうか?
その突き上げって具体的には?
政府が、それで方針を決めたと判断する資料などは、どういうものでしょうか?
これは メッセージ 9250 (unhoo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/9251.html
横レスへの横レス
投稿者: unhoo 投稿日時: 2005/06/19 03:24 投稿番号: [9250 / 29399]
よく判らないのですが、日本が戦争したのは、日本という国を広げたかったから、ということですが、ナゼ広げたかったんですか?
___________________________________
↑上の文を読んで気が付いたが、日本は領土を広めるために戦争したことはなかった。戦争が始まったときは、政府にも、大本営にも、領土獲得の計画は存在しなかった。ただ戦争に勝った後、欲が出てきたのだ。欲は民間から出た。「われわれの父、兄、息子を殺したのに、領土を取らないでは済むまい」と政府を突き上げたのだ。
これは メッセージ 9248 (dodonnamonk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/9250.html
完成された歴史
投稿者: saihatenokunimade555 投稿日時: 2005/06/19 01:03 投稿番号: [9249 / 29399]
過去の歴史?
において捏造は、多々あった。それは、時間差、年代差を利用して価値観のその差を短縮し過去を現在に引っ張り込みあたかも現在の其の時々の思考を同一にもっていこうとするもの。それにより擬似的なものから体験的なものそして先験的なものによって思考が事実として認識しはじめる。
宗教などもそうであるように捏造が進めば進むほどその完成度は高くなる。
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/9249.html
横レスです。came_sennninnさん。
投稿者: dodonnamonk 投稿日時: 2005/06/18 15:46 投稿番号: [9248 / 29399]
教えてください。
よく判らないのですが、日本が戦争したのは、日本という国を広げたかったから、ということですが、ナゼ広げたかったんですか?
以下、came_sennninnさんの発言
*******************************
>「狭い日本、そんなに急いで・・」の言葉ある様に、そもそもは「領土」と言いますか、日本と言う国を広げたい為の事だったのでしょう。
>しかし、そんなんことは只の「自慰行為」でしかなかったのが現実なんですね
<日本は国土を広めたかったと言う為に戦争をしたのですかい。
>当然のことでしょ?
>国内の領土争い(戦国時代)の事だって同じレベルなのでは?
そういった考えと同じ様な人間が戦争を始めたのであり、その矛先が海外(中国や韓国を始めとする、今の言い方ではアジアグループ?)であったに過ぎない。
>どんな形であろうが、力で(戦争で)ねじ伏せる方法を取った日本のやり方が、結果的にどうであったのか?
>又、そういう行動に移行する基に成ったのが何なのか、その事を知る必要あるのでは?
>戦争に限らず、争いには何らかの理由を付けたがる(起こす側は)のですから、それを知らないまま、言い合っても・・・どうなのかなー・・?
*******************************
これは メッセージ 9233 (came_sennninn さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/9248.html
>渫水県の殺戮
投稿者: kintakunte2002 投稿日時: 2005/06/18 07:56 投稿番号: [9247 / 29399]
県誌についての記述を見つけましたので、
その内容をそのままコピーさせていただきます。
>県誌や中国側発行書籍からの引用、証拠としての引用提示が甚だ多いのですが、その資料の正体たるや以下
のような恐ろしいものなのです。
『高淳県誌』、高淳県地方誌編纂委員会縞、江蘇古籍出版社、一九八八年
『腥風血雨ーー侵華日軍江蘇暴行録』、江蘇文史資料編輯部、江蘇省政協文史資料委員会、一九九五年
『江寧県誌』、江寧県地方誌編纂委員会、档案出版社、一九八九年
『江補県誌』、江補県地方誌編纂委員会、河海大学出版社、一九九五年
『句容県誌』、句容県地方誌編纂委員会、江蘇人民出版社、一九九四年
「日軍侵占句容期間暴行緑」、句容市誌斑公室、一九九七年
『江涌抗日蜂火』、中共江補県党史資料収集弁公室、一九八六年
『{さんずいに栗}水県誌』、{さんずいに栗}水県地方誌弁公室、江蘇古籍出版社、一九八七年
旧字体を新字体に変更した部分有り。
すべて一九八〇年代後半から一九九〇年代のものです。いくらエセ学者でも学者という字が入っているのですからせめてもう一段ぐらいソースを追ったらどうなのでしょうか。あるいは「中国の旅」のように、どこの誰それの証言ぐらい書いたらどうなのでしょうか。
資料批判は全くなし、する能力もないのでしょうが、もうエセ学者とも言えない
単なる
中国傀儡宣伝売文屋
なので>はないですか。あきれ果てます。
笠原さんはこの資料を基に本を書かれていますので
資料自体が信憑性にかけるということですね。
なお、「牧原信夫上等兵の陣中日記」についてもはなはだ疑問点が多く検証なしに事実とするのはいかがなものかな。
これは メッセージ 9246 (yominokuni56 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/9247.html
渫水県の殺戮。(中国方面海軍作戦)
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/18 07:02 投稿番号: [9246 / 29399]
(渫水県の殺戮)
11月29日りっ水に中国軍総司令部があるという情報を得て、海軍航空隊の戦闘機、爆撃機計36機が相次いでりっ水市街を攻撃した。(中国方面海軍作戦)
昼食時の突然空襲に、県城は一瞬にして地獄絵と化し、投下爆弾により家屋の破壊、火災の発生、逃げ出した民衆の群れに爆弾が投下され、機銃掃射による殺戮が行われた。
防空壕にも爆弾は命中し避難していた100余名の命が失われている、一時間あまりの空襲で市民1200余名、倒壊家屋5000間(数千戸)が破壊された(県誌)
句容県における虐殺行為
12月4日午前8時40分丹陽を攻略した第16師団(京都師団長中島今朝吾中将)の先頭が句容(南京から約50km)の東方約15kmにある睨塘村に侵攻、南京戦区に突入した。(飯沼守日記)
句容は南京外囲防御陣地線の主要な県城であり、東部はトーチカで防御を固め、城内には砲兵学校があった。国民党軍が睨塘の西の句容に通じる橋を爆破したため侵攻を阻まれた第16師団所属の歩兵第30連隊はその日、睨塘村に宿営することになった。
そこで、村民虐殺事件が発生した。
村民の避難順序は、中国国内戦の経験から、殺害されるか連行される危険のある、青年男子が真っ先に遠くへ避難し、次に女、子供が避難し、殺害されるおそれの少ない老人が家と家畜、作物を守るために残るとうパターンを実行していた。
日本軍が睨塘村にやって来たとき、女や老人、子供はまだ、避難はしていなく、進入してきた日本軍の銃声を聞き、慌てて、女や子供は夕闇にまぎれて逃亡した。
日本軍は逃げ遅れた村民と他所から逃げてきた難民など40数名を捕らえ、睨安仁という村民の家に押し込めて、火をつけ、焼き殺してしまった。
翌朝9時頃
日本軍の部隊が国民党軍の捕虜も含めた他村の村人約80名を捕縛し、句容公路(丹陽〜句容)沿いに連行し、機関銃で全員を射殺した。
日本軍は村を去る前に村落に放火し、全村八〇余戸は全て焼失した。
睨塘村虐殺事件は120余名が殺害されたが多くは他村の農民で、睨塘村民は7人が犠牲となり、そのうち2名が女性であった。(句容県誌)(日本軍侵占句容期間暴行録)
12月5日朝9時頃
日本軍の一部隊が句容県城の北にある本湖村に食料徴発と部落掃蕩にやって来た。
これを遠くから見ていた村民は、てっきり国民党の軍隊と思いこみ、村の自衛団約30名に招集をかけ、槍や刀を持って、集合し、整列して歓迎しようとしたところ、全員捕縛されてしまった。
付近で捕らえられた青壮年男子も加えて40数名が村の酒醸造小屋に押し込められ、火をはなたれて、焼き殺されてしまった。
当時満16歳であった万仁勝だけがただ一人やけどを負いながらも生き延びている。
農村では通信手段が全く無かったので、街道から離れた村では日本軍の侵攻に全く、気づかず、このような悲劇が起きている。
これは メッセージ 9177 (yominokuni56 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/9246.html
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