「独立英雄」元日本兵だよ。
投稿者: heinz_bar 投稿日時: 2005/06/23 03:32 投稿番号: [9280 / 29399]
映画「ムルデカ17805」の舞台(カリバタ英雄墓地=ジャカルタ)
異国の独立ささげた命
かつて約350年の長きにわたりオランダの植民地支配下にあったインドネシアでは、12世紀ごろから伝わる「ジョヨボヨ王の予言」が広く信じられていた。
「我々は、欧州の民に支配される。しかし、やがて北から小柄で肌の黄色い民族がやって来て、白人を打ち負かすだろう。しかし彼らがここにいるのは、トウモロコシが実るまでの間だけだ。実りの時が過ぎれば彼らは母国に帰り、この国は我々の手に戻る」
1942年、太平洋戦争初頭に日本軍がオランダ領東インド(現インドネシア)に侵攻してオランダを駆逐した時、民衆は日本こそが「黄色い救世主」だと熱狂した。しかも予言の通り、日本軍は「トウモロコシが育つ」期間とされる約3年半だけ駐留し、45年の敗戦とともに姿を消した。
ただ、すべての「黄色い民族」が極東の島国に戻ったわけではなかった。またインドネシアの民衆も、すんなりと祖国を取り戻すことができたわけではない。
45年8月17日、インドネシアは日本がポツダム宣言を受諾した直後に独立を宣言したが、旧宗主国オランダはそれを認めず、インドネシア側は「ムルデカ」(インドネシア語で独立の意)を勝ち取るため、4年半にわたる対オランダ戦争になだれ込んだ。
ジャカルタ中心部からほど近い「カリバタ英雄墓地」は、この戦争に命をささげた将兵ら数千柱が眠る、この国で最も荘厳な「聖地」だ。辛くも生き永らえた元兵士らも、死後はここに「独立英雄」として埋葬される権利を保持していることを最高の栄誉と誇る。
根元に銀色の鉄かぶとが据えられた灰色の墓石を注意深く見てゆくと、ローマ字で日本人名が刻み込まれている墓があることに気付く。その数合わせて25柱。彼らこそ、日本が敗れた後も軍籍を離れてこの地にとどまり、オランダとの戦いに合流した、いわゆる「残留日本兵」だ。当時、インドネシア全土で1000人前後いたといわれる残留兵のうち、独立戦争を生き残ったのは300人程度。その中で現在もインドネシアで存命が確認されているのはわずか11人に過ぎない。
ジャカルタに住む宮原永治氏(84)も、そんな生き残りの1人だ。42年3月1日、今村均中将率いる第16軍の一員としジャワ島カラワンに敵前上陸。住民らの手厚い歓迎を前に、「この戦争は、有色人種を白人の支配から解放するための戦争なのだ」と確信したという。
日本は44年、独立運動指導者のスカルノらに対し、将来の独立を約束する。しかし、日本の敗戦で約束は守られなかった。「だからこそ、我々が約束した独立を助けるため、ここで戦おうと決意した」と宮原氏は言う。戦闘に不慣れなインドネシア人にとり、残留日本兵の存在は大きかった。何より、インドネシア人のみによる初の軍事組織「祖国防衛義勇軍」(ペタ)を日本軍政がすでに設置していたため、結果として組織的な軍事行動を可能にしたことが、勝利に大きく役立った。
歴史には、必ず「光」と「影」がある。太平洋戦争中の日本のインドネシア支配は、10万人にのぼる「労務者」の使役や食料徴発による飢餓のまん延など、負の側面抜きには語れない。しかし一方で、今まであまりに語られなさ過ぎた、インドネシア独立で日本人が果たした役割を知っておくことも、歴史を公平に理解する上では欠かせない。
(文と写真 黒瀬 悦成)
ムルデカ17805
2001年劇場公開。制作・浅野勝昭、監督・藤由紀夫。太平洋戦争敗戦後もインドネシアに残り、対オランダ独立戦争に身を投じた旧日本軍将兵らを主人公に据えた初の日本映画。17805とは、インドネシアの独立記念日である皇紀2605年(西暦1945年)8月17日の意。後に初代正副大統領となる独立運動指導者のスカルノとハッタは、独立宣言文にこの日付を書き入れ署名した。
(2004年11月22日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/world/abroad/20041122sc22.htm
異国の独立ささげた命
かつて約350年の長きにわたりオランダの植民地支配下にあったインドネシアでは、12世紀ごろから伝わる「ジョヨボヨ王の予言」が広く信じられていた。
「我々は、欧州の民に支配される。しかし、やがて北から小柄で肌の黄色い民族がやって来て、白人を打ち負かすだろう。しかし彼らがここにいるのは、トウモロコシが実るまでの間だけだ。実りの時が過ぎれば彼らは母国に帰り、この国は我々の手に戻る」
1942年、太平洋戦争初頭に日本軍がオランダ領東インド(現インドネシア)に侵攻してオランダを駆逐した時、民衆は日本こそが「黄色い救世主」だと熱狂した。しかも予言の通り、日本軍は「トウモロコシが育つ」期間とされる約3年半だけ駐留し、45年の敗戦とともに姿を消した。
ただ、すべての「黄色い民族」が極東の島国に戻ったわけではなかった。またインドネシアの民衆も、すんなりと祖国を取り戻すことができたわけではない。
45年8月17日、インドネシアは日本がポツダム宣言を受諾した直後に独立を宣言したが、旧宗主国オランダはそれを認めず、インドネシア側は「ムルデカ」(インドネシア語で独立の意)を勝ち取るため、4年半にわたる対オランダ戦争になだれ込んだ。
ジャカルタ中心部からほど近い「カリバタ英雄墓地」は、この戦争に命をささげた将兵ら数千柱が眠る、この国で最も荘厳な「聖地」だ。辛くも生き永らえた元兵士らも、死後はここに「独立英雄」として埋葬される権利を保持していることを最高の栄誉と誇る。
根元に銀色の鉄かぶとが据えられた灰色の墓石を注意深く見てゆくと、ローマ字で日本人名が刻み込まれている墓があることに気付く。その数合わせて25柱。彼らこそ、日本が敗れた後も軍籍を離れてこの地にとどまり、オランダとの戦いに合流した、いわゆる「残留日本兵」だ。当時、インドネシア全土で1000人前後いたといわれる残留兵のうち、独立戦争を生き残ったのは300人程度。その中で現在もインドネシアで存命が確認されているのはわずか11人に過ぎない。
ジャカルタに住む宮原永治氏(84)も、そんな生き残りの1人だ。42年3月1日、今村均中将率いる第16軍の一員としジャワ島カラワンに敵前上陸。住民らの手厚い歓迎を前に、「この戦争は、有色人種を白人の支配から解放するための戦争なのだ」と確信したという。
日本は44年、独立運動指導者のスカルノらに対し、将来の独立を約束する。しかし、日本の敗戦で約束は守られなかった。「だからこそ、我々が約束した独立を助けるため、ここで戦おうと決意した」と宮原氏は言う。戦闘に不慣れなインドネシア人にとり、残留日本兵の存在は大きかった。何より、インドネシア人のみによる初の軍事組織「祖国防衛義勇軍」(ペタ)を日本軍政がすでに設置していたため、結果として組織的な軍事行動を可能にしたことが、勝利に大きく役立った。
歴史には、必ず「光」と「影」がある。太平洋戦争中の日本のインドネシア支配は、10万人にのぼる「労務者」の使役や食料徴発による飢餓のまん延など、負の側面抜きには語れない。しかし一方で、今まであまりに語られなさ過ぎた、インドネシア独立で日本人が果たした役割を知っておくことも、歴史を公平に理解する上では欠かせない。
(文と写真 黒瀬 悦成)
ムルデカ17805
2001年劇場公開。制作・浅野勝昭、監督・藤由紀夫。太平洋戦争敗戦後もインドネシアに残り、対オランダ独立戦争に身を投じた旧日本軍将兵らを主人公に据えた初の日本映画。17805とは、インドネシアの独立記念日である皇紀2605年(西暦1945年)8月17日の意。後に初代正副大統領となる独立運動指導者のスカルノとハッタは、独立宣言文にこの日付を書き入れ署名した。
(2004年11月22日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/world/abroad/20041122sc22.htm
これは メッセージ 9275 (yominokuni56 さん)への返信です.