支那事変終結を目指し、戦線を拡大?
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/22 22:16 投稿番号: [9277 / 29399]
ビルマでの日本軍、
ビルマ教科書
>タキン、アウンサンは1941年初頭ひそかにビルマへ戻った。
30人の青年を4つのグループに分け、日本に送り出し、海南島および台湾でおよそ4ヶ月間の軍事訓練を受けさせた。
ビルマの歴史に名を残す,30人の志士である。
1941年12月7日 日本軍は宣戦布告なしに、アメリカの真珠湾を爆撃した。1939年以来の第2次世界大戦の戦火はアジアへも広がることになった。
1941年12月26日ビルマ独立義勇軍(BurumaIndependenceArmy)を結成した。
勢力はシャン族やビルマ族を含めて1500人程度だった。
アウンサン将軍(ボ、テーザ)率いるビルマ独立義勇軍本隊は日本軍とともに作戦行動を展開、1942年初頭にはビルマ国内へ侵攻した。
日本はモーラミャイン(ビルマ南部の都市)に入れば、ビルマ独立を宣言させると言う約束を反古にしたばかりか、ファシズムによる支配を実施し始めた。
1942年3月BIAはラングーンを占領し、その後インド国境までイギリス軍を追って掃討を行った。
イギリス植民地軍はビルマから完全に撤退したのである。
BIA指導者はタニンダリーを制圧した段階でビルマ独立を明確に宣言させるよう日本軍指導者に要求した
、しかし、日本側はラングーンを占領すれば独立を宣言させるとしか答えなかった。
ラングーンを占領すると、今度は上ビルマ(ビルマ北半分)を占領してからと、
、言を左右にした。
こうして、ビルマ人は徐徐に日本の策略に気づいていったのである。
ビルマに独立を与えたくなかった日本は、ビルマ全土を制圧し終えた
1942年7月に2万3千人近くの勢力になっていたBIA(ビルマ独立義勇軍)を解散させ、兵力3千人規模に過ぎないBDA(ビルマ防衛軍)に改編した。
このBDA時代に国防省やミンガラドン士官学校などが創設された。
1943年8月 日本はビルマに形ばかりの独立を与えた。
独立後バモオ博士が最高指導者の地位についた。
3. 反日、反ファシスト闘争(1942〜1945年)
状況、情勢
「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。
ファシスト日本が許容した権限があっただけである。
日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは日本軍のキンペイタイ(憲兵隊)である。一般の国民は憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。
こうした、ファシストの弾圧の結果反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。
タキン、テイペイ・タキン、ティンシュエら指導者は日本軍の侵攻直後からインドへ渡り、連合軍司令部と接触を保っていた。
1944年8月にはファシスト日本打倒連盟(AFO=AntiFascistOrganization)が結成され、ビルマ国軍、共産党、人民革命党がこれに加わった。その後 ライカ民族連盟、カレン中央本部、東アジア青年連盟なども加わってきた。
1944年連合軍指導部と合意に達し、1944年末から45年初めには武器援助を得るようになった。
アウンサン将軍の下で反ファシスト反乱の準備は着々と進められ、敵軍討伐の名を借りて、作戦行動を起こす許可を日本軍司令部に求めた。当事 インド・ビルマ国境地帯からの退却(1944年3月開始の「インパール作戦」は失敗に終わり,7月退却し始めていた)に移っていた日本軍は、この作戦行動の開始を認めた。
1945年3月17日ラングーンのトオフランイエ公園において、アウンサン将軍率いるビルマ国軍は閲兵式を挙行した。
4月2日に全国で一斉蜂起することが決められていたが、連合軍の前線部隊が国境を越えて、ビルマ国内に進撃してきた状況をみて、バトゥー少佐が3月8日に反乱を開始した。
そのため、反日ファシスト反乱決起の日時は予定より繰り上がり,3月27日となったのである。
ビルマ教科書
>タキン、アウンサンは1941年初頭ひそかにビルマへ戻った。
30人の青年を4つのグループに分け、日本に送り出し、海南島および台湾でおよそ4ヶ月間の軍事訓練を受けさせた。
ビルマの歴史に名を残す,30人の志士である。
1941年12月7日 日本軍は宣戦布告なしに、アメリカの真珠湾を爆撃した。1939年以来の第2次世界大戦の戦火はアジアへも広がることになった。
1941年12月26日ビルマ独立義勇軍(BurumaIndependenceArmy)を結成した。
勢力はシャン族やビルマ族を含めて1500人程度だった。
アウンサン将軍(ボ、テーザ)率いるビルマ独立義勇軍本隊は日本軍とともに作戦行動を展開、1942年初頭にはビルマ国内へ侵攻した。
日本はモーラミャイン(ビルマ南部の都市)に入れば、ビルマ独立を宣言させると言う約束を反古にしたばかりか、ファシズムによる支配を実施し始めた。
1942年3月BIAはラングーンを占領し、その後インド国境までイギリス軍を追って掃討を行った。
イギリス植民地軍はビルマから完全に撤退したのである。
BIA指導者はタニンダリーを制圧した段階でビルマ独立を明確に宣言させるよう日本軍指導者に要求した
、しかし、日本側はラングーンを占領すれば独立を宣言させるとしか答えなかった。
ラングーンを占領すると、今度は上ビルマ(ビルマ北半分)を占領してからと、
、言を左右にした。
こうして、ビルマ人は徐徐に日本の策略に気づいていったのである。
ビルマに独立を与えたくなかった日本は、ビルマ全土を制圧し終えた
1942年7月に2万3千人近くの勢力になっていたBIA(ビルマ独立義勇軍)を解散させ、兵力3千人規模に過ぎないBDA(ビルマ防衛軍)に改編した。
このBDA時代に国防省やミンガラドン士官学校などが創設された。
1943年8月 日本はビルマに形ばかりの独立を与えた。
独立後バモオ博士が最高指導者の地位についた。
3. 反日、反ファシスト闘争(1942〜1945年)
状況、情勢
「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。
ファシスト日本が許容した権限があっただけである。
日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは日本軍のキンペイタイ(憲兵隊)である。一般の国民は憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。
こうした、ファシストの弾圧の結果反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。
タキン、テイペイ・タキン、ティンシュエら指導者は日本軍の侵攻直後からインドへ渡り、連合軍司令部と接触を保っていた。
1944年8月にはファシスト日本打倒連盟(AFO=AntiFascistOrganization)が結成され、ビルマ国軍、共産党、人民革命党がこれに加わった。その後 ライカ民族連盟、カレン中央本部、東アジア青年連盟なども加わってきた。
1944年連合軍指導部と合意に達し、1944年末から45年初めには武器援助を得るようになった。
アウンサン将軍の下で反ファシスト反乱の準備は着々と進められ、敵軍討伐の名を借りて、作戦行動を起こす許可を日本軍司令部に求めた。当事 インド・ビルマ国境地帯からの退却(1944年3月開始の「インパール作戦」は失敗に終わり,7月退却し始めていた)に移っていた日本軍は、この作戦行動の開始を認めた。
1945年3月17日ラングーンのトオフランイエ公園において、アウンサン将軍率いるビルマ国軍は閲兵式を挙行した。
4月2日に全国で一斉蜂起することが決められていたが、連合軍の前線部隊が国境を越えて、ビルマ国内に進撃してきた状況をみて、バトゥー少佐が3月8日に反乱を開始した。
そのため、反日ファシスト反乱決起の日時は予定より繰り上がり,3月27日となったのである。
これは メッセージ 9263 (deliciousicecoffee さん)への返信です.