国立英雄墓地に祀られた日本人たち1
投稿者: heinz_bar 投稿日時: 2005/06/23 03:48 投稿番号: [9281 / 29399]
1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人■
ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、4年
5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、特別な功労
を立てて戦死した人々が祀られている。この中に11名の日本人が
一緒に手厚く葬られている。[1]
1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、インドネシア
独立義勇軍に身を投じた人々は、1〜2千人程度と推定されている。
400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に
祀られている。また独立50周年となった平成7年、残留日本兵
69名に対し、渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハ
ルト大統領は官邸に招いて、お礼を述べられた。[2,p109、3]
これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのだろうか。
■2.独立への願い■
インドネシアがオランダの植民地となったのは、1605年、それ以
来、3世紀半にわたって、人口わずか0.5%のオランダ人が全生
産額の65%を独占するという収奪が続く。
1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人もまた
西洋をうち負かすことができるほど強くなれるという信念を
強化させた。それ以降、インドネシア人は、大国として発展
する日本にいっそうの注目をそそぎはじめた。(インドネシ
アの歴史家サヌシ・パネ、[4,p242])
独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種が
やってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに(約3ヶ
月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれた。
■3.独立を戦いとれる実力を■
その予言は、1942年3月1日に現実のものとなった。今村均中将率
いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を敢行した。
攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたが、わずか1
0日後には、オランダ軍司令官は全面降伏した。予言を信じた現地
人が、オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、
積極的に日本軍の進撃を助けたからだ。
独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中
将は、次のように言って、彼らを支援した。
「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべ
きものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、
われわれの仕事だ、、、」[4,p263]
それから、独立国への準備が始まった。300近い言語をインド
ネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、州
や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、さらにイン
ドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成した。こ
れらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。
■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■
日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタは
すかさず独立宣言を行う。18日には、インドネシア共和国憲法を採
択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。
しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、「日本軍は
連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、治安を確保す
べし。そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、暴動は
必ず鎮圧すべし」と命令した。さらに「原住民の集会禁止、武器の
携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。これがためには、兵器の使
用も可である。」との命令が来た。降伏した日本軍を使って、独立
運動を阻止しようというのである。
一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、
何としても日本軍が保有している武器が必要であった。今まで日本
軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。
独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、日
本軍の施設を襲う事件も起きた。日本軍は断じて「撃つな、指導者
と話し合え」と厳命を下した。暴徒に銃殺された日本人のなかには、
「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した
人もおり、現地人に多大の感銘を与えて、今も記念として残されて
いるという。[4,p290]
ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、4年
5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、特別な功労
を立てて戦死した人々が祀られている。この中に11名の日本人が
一緒に手厚く葬られている。[1]
1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、インドネシア
独立義勇軍に身を投じた人々は、1〜2千人程度と推定されている。
400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に
祀られている。また独立50周年となった平成7年、残留日本兵
69名に対し、渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハ
ルト大統領は官邸に招いて、お礼を述べられた。[2,p109、3]
これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのだろうか。
■2.独立への願い■
インドネシアがオランダの植民地となったのは、1605年、それ以
来、3世紀半にわたって、人口わずか0.5%のオランダ人が全生
産額の65%を独占するという収奪が続く。
1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人もまた
西洋をうち負かすことができるほど強くなれるという信念を
強化させた。それ以降、インドネシア人は、大国として発展
する日本にいっそうの注目をそそぎはじめた。(インドネシ
アの歴史家サヌシ・パネ、[4,p242])
独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種が
やってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに(約3ヶ
月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれた。
■3.独立を戦いとれる実力を■
その予言は、1942年3月1日に現実のものとなった。今村均中将率
いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を敢行した。
攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたが、わずか1
0日後には、オランダ軍司令官は全面降伏した。予言を信じた現地
人が、オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、
積極的に日本軍の進撃を助けたからだ。
独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中
将は、次のように言って、彼らを支援した。
「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべ
きものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、
われわれの仕事だ、、、」[4,p263]
それから、独立国への準備が始まった。300近い言語をインド
ネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、州
や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、さらにイン
ドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成した。こ
れらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。
■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■
日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタは
すかさず独立宣言を行う。18日には、インドネシア共和国憲法を採
択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。
しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、「日本軍は
連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、治安を確保す
べし。そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、暴動は
必ず鎮圧すべし」と命令した。さらに「原住民の集会禁止、武器の
携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。これがためには、兵器の使
用も可である。」との命令が来た。降伏した日本軍を使って、独立
運動を阻止しようというのである。
一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、
何としても日本軍が保有している武器が必要であった。今まで日本
軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。
独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、日
本軍の施設を襲う事件も起きた。日本軍は断じて「撃つな、指導者
と話し合え」と厳命を下した。暴徒に銃殺された日本人のなかには、
「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した
人もおり、現地人に多大の感銘を与えて、今も記念として残されて
いるという。[4,p290]
これは メッセージ 9280 (heinz_bar さん)への返信です.