南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
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Re: ずれてるなぁw
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 19:42 投稿番号: [20080 / 41162]
どうも
貴方は初級クラスで
勉強してね(笑)
クラスを間違ってますよ。
ずれてるのはあんた
それは
間違いの無い事実ですよ
(笑)
これは メッセージ 20072 (darekakotaetekudasaina さん)への返信です.
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Re: 死にたいよみ君の主張(その1)
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 19:39 投稿番号: [20079 / 41162]
>>貴方でしたね。
核シェルターでなくても地下鉄の中に入れば生き残れるって書いてたのも
貴方でしたね。
>そうです。が正確には、地下鉄に手を加えないとダメです。それは書いてありますよ。
別に地下鉄のコンクリートなど構造物の耐久性を論じた訳じゃないでしょ(笑)
地下鉄に潜って核兵爆弾投下に耐え
生き残ったとしても
果たして地下数百メートルか>それとも数十メートルか知らないが
そこから脱出出来るかどうかの保証は無いし、例え地上に出られたとしても、放射能汚染で
生き残れるか?
それとも地下鉄には食料が数年分保存されているとでも言うのか?
そして
数年分の食料を保存してあったとしてだ、ありゃせんのだがね。
生き残り
敵国兵士に救出される保証はあるのか?
ってことなんだよ。
敗戦後の鬼畜米英と知られたアメリカ兵のように
日本人を救出してくれる
保証はないぜ、、って言ってるのよ、、ここをあんたは逃げてるだけの話なんだよ(笑)
現代社会において核爆弾を投下するような国の兵士が日本人を一人残らず優しく
救助してくれるとは
とても
思えないんだよ(笑)
だから、自由を奪われ
食料も与えられず
強制労働させられてまで、生き抜くことは耐え難い事だと
それでも
守らなきゃならない人の為には極限までは我慢できるが
それ以上は
己の誇りの為に死を選択するってことだけなんだよ、、君
日本人か?
武士道は知ってるか?(笑)
武士は奴隷にはならんぜ(笑)
これは メッセージ 20068 (yousunwai さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 19:29 投稿番号: [20078 / 41162]
ありがとうね、、
筆者から感謝の手紙が届くこと
待ってるよ(笑)
これは メッセージ 20063 (kukukunoooku さん)への返信です.
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Re: 死にたいよみ君の主張(その3)
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 19:28 投稿番号: [20077 / 41162]
あはっはっは、、
君たちは
おもしろいね、、笑ってしまったよ。
>ですから、核戦争が起きないことを前提に核廃絶の主張なんてことをやっている人もいるんじゃないかと思います。
核戦争起きないのだったら
別に
核廃絶運動なんてしなくても良いんじゃないの?(笑)
自衛隊
あ〜〜今はも軍隊か?
戦争放棄した国の軍隊に
戦争反対
自衛隊に入るな
って叫んでも
むなしいだけ何じゃないの
?(笑)
自衛隊に入る人たちは国防の為に入隊してるのであって、
国際紛争解決の為の戦争が無いから
入ってる人が多いと思うよ。
そこで戦争反対って叫んでも
アホか〜〜て
思われないかしらね(笑)
戦争反対を叫んでるのは
憲法を蹂躙し
戦争に荷担しようとする自民党政府に対して
戦争反対を叫んでるんだけどね。
間違わないでね。
詐欺
国家政府に対して
憲法を守れ
って叫んでるんだと思うんだよ。
当然だね、、日本国民なんだからね。(笑)
>彼は、「核攻撃された場合は日本人は生きのころうなどと考えずにあきらめて死ね」と言ってるように私には読めました。
あのね、、ねつ造と改竄は
こうやって曲げて曲げて解釈するんだねって思ってますよ(笑)
あほらしい話してるようだけど、、興味湧かないね、、幼稚すぎて(笑)
これは メッセージ 20076 (yousunwai さん)への返信です.
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Re: 死にたいよみ君の主張(その3)
投稿者: yousunwai 投稿日時: 2007/07/14 19:13 投稿番号: [20076 / 41162]
>彼は、「核攻撃された場合は日本人は生きのころうなどと考えずにあきらめて死ね」と言ってるように私には読めました。
ええ、そうなんです。「尊厳ある死」というようなことを主張してましね。
しかしですねーこの考えはひょっとしたら、主張と祈りで核廃絶をしようとする人たちに案外共通する考え方ではないかと、疑ったりもしているんですよね。
そもそも、核廃絶の主張というのは、核廃絶がなってから、新たに核武装をしようとする場合には効力を発揮するかもしれないもので、核廃絶にいたるまでの過程で、核戦争が起きてしまえば全くの無力なんですよね。
ですから、核戦争が起きないことを前提に核廃絶の主張なんてことをやっている人もいるんじゃないかと思います。
もちろん、別の見方としては、ひょっとしたら、核廃絶運動というのは日本の核武装や核に対する対策を放棄させることだけを目的にやっているものなんじゃないかと、疑ったりしてます。
つまり、「日本人の命は核廃絶のために差し出せ運動」という言い方もできるのではないかと思います。
これは メッセージ 20075 (warazzu さん)への返信です.
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Re: 死にたいよみ君の主張(その3)
投稿者: warazzu 投稿日時: 2007/07/14 17:35 投稿番号: [20075 / 41162]
>核戦争が起きたらという問いに、よみ君は具体的な対案を示さず、相手の案の否定だけに終始していました。
ですね。
>核戦争が起きたら、
死ぬこと。
>これが彼の主張になると思います。
彼は、「核攻撃された場合は日本人は生きのころうなどと考えずにあきらめて死ね」と言ってるように私には読めました。
自身の生き方(死に方)としての話なら、核攻撃されたとき運良く近くにシェルターや地下鉄が存在しても彼自身が入らなければよいだけの話。同じ死生観を他人に押し付ける必要など皆無なわけで。
それとも皆には地下鉄なんかに逃げても全然意味無いよと言いふらしておいて自分だけは・・・ってのが狙いなのか。
これは メッセージ 20069 (yousunwai さん)への返信です.
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「呆れる人種差別」 恥ずかしい糞虫yomi
投稿者: sinnjitu_itiro 投稿日時: 2007/07/14 16:07 投稿番号: [20074 / 41162]
糞虫yomiも同類ですな。
自分の会社の同僚が会社に搾取されているのを知りながら、被害者救済にために何をするでもない。
ここで日本罵倒のネタにするだけ。
おそらく心の中では、、
「こいつら気の毒にねえ〜あはっはっは、よかったよ俺は、、こいつらみたいな事にならなくて」
と舌を出して笑ってた事は容易に想像できる。
偽善者の典型。
それでいて、、「おいらはほこり高い日本人だよ」なんてほざくんですから、、
まったく反吐が出ます(唾棄
これは メッセージ 20036 (koudousuru009 さん)への返信です.
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マンネリ教科書ネタ お前これで何回目だ?
投稿者: sinnjitu_itiro 投稿日時: 2007/07/14 15:57 投稿番号: [20073 / 41162]
いくら反論ネタに詰まっったからって、、出展すら怪しいこんなもん何十回も出すな。
無能(嘲笑
これは メッセージ 20026 (yominokuni56 さん)への返信です.
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ずれてるなぁw
投稿者: darekakotaetekudasaina 投稿日時: 2007/07/14 15:47 投稿番号: [20072 / 41162]
南京の話。
殺されたのはほとんどが非戦闘員。そう、それで間違いないよ。
非戦闘員とは戦闘員ではないということ
戦闘員とは戦闘中いわゆる「交戦者の資格」をちゃんと持っている人達
この人達は降伏すれば命は助けてもらえる(捕虜になれる)
一方、<戦闘に参加しつつ>「交戦者の資格」がないために戦闘員ではない
非戦闘員。平服であったり武器を隠したり司令官がいなかったり。
この人達は殺されてもしかたない。
突然起こった事件ではなく長い戦闘の一連の中、こんなやつらそりゃ殺すよ。だって危険だし殺していいんだもん。
非武装、非戦闘員=市民と勘違いしている人が多いようだが。
司令官が逃げてしまっていて幾ら残党がほとんど消えたからと言って降伏を受けてない拠点で兵民分離をしたことは感謝されても非難されることではない。
自国軍のおかげで疑われて殺された市民も少しはいたろうけどね。
ともかく「大虐殺」はなかった。
数も間違いね。中国側サイドの外人達ですら市民で20万と認識してたんでしょ。一人残らず殺されたのかね。そして一人残らず殺されたような土地に数ヶ月でその数以上の人が定住にくると。
作り話にしても無理がありすぎ。
これ終わらしてから、教科書だの核だの行こうよ。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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マンネリ教科書ネタ お前これで何回目だ?
投稿者: sinnjitu_itiro 投稿日時: 2007/07/14 15:47 投稿番号: [20071 / 41162]
いくら反論ネタに詰まっったからって、、出展すら怪しいこんなもん何十回も出すな。
無能(嘲笑
これは メッセージ 20026 (yominokuni56 さん)への返信です.
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死にたいよみ君の主張(その4)
投稿者: yousunwai 投稿日時: 2007/07/14 14:28 投稿番号: [20070 / 41162]
>心あるのかい?
っていうより心の話しはしてませんよ。
核戦争が起きて、その中で生き残るには?という話しですからね。
>貴方をやりこめて
喜ぶほど
単純な
おいらでは
ありません(笑)
と、いうか、そんなこと言われてもねー。意味不明です。この話と核戦争で生き残る対処の問題とどういう関係があるんですか?
これは メッセージ 20022 (yominokuni56 さん)への返信です.
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Re: 死にたいよみ君の主張(その3)
投稿者: yousunwai 投稿日時: 2007/07/14 14:24 投稿番号: [20069 / 41162]
ですよねー。
核戦争が起きたらという問いに、よみ君は具体的な対案を示さず、相手の案の否定だけに終始していました。
つまり、彼には案などないという考えもあります。
案がもしない場合、あえて彼の対案に匹敵する答えを探すとすれば、
核戦争が起きたら、
死ぬこと。
これが彼の主張になると思います。
これは メッセージ 20029 (warazzu さん)への返信です.
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Re: 死にたいよみ君の主張(その1)
投稿者: yousunwai 投稿日時: 2007/07/14 14:19 投稿番号: [20068 / 41162]
>いいですかい、、仮に核戦争が起こった場合に備えて
核シェルターが必要だから
作ろうって言ってたのは
貴方でしたね。
核シェルターでなくても地下鉄の中に入れば生き残れるって書いてたのも
貴方でしたね。
そうです。が正確には、地下鉄に手を加えないとダメです。それは書いてありますよ。
>誇りも名誉も捨ててまで
生き残りたいとは思わないって書いただけなのよ(笑)
それはおかしいですねー。あなたは、シェルターの対案としてこの話しを持ってきたんではないのですか?もし、これが対案でないとしたら、あなたの対案は何ですか?
お答え下さい。
これは メッセージ 20021 (yominokuni56 さん)への返信です.
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東南アジアの教科書にも韓国史歪曲
投稿者: kukukunoooku 投稿日時: 2007/07/14 13:12 投稿番号: [20067 / 41162]
朝鮮日報より
yomiちゃんの祖国の新聞です
◇日本植民支配の美化=フィリピン教科書は日本の「大東亜共栄圏」について
「このような構想の目的は、その地域を統合して日本の支配のもと、
西欧からアジアの国家を解放させるというもの」とし、
「日本は軍国主義化から自由な新しい秩序を樹立することで満州、韓国、内モンゴ
ル、
中国に平和と安全をもたらそうとした」と記述している。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/20067.html
支那にねつ造された南京事件
投稿者: chinese_nante 投稿日時: 2007/07/14 12:53 投稿番号: [20065 / 41162]
南京大虐殺は歴史的事実ではありません。
支那によりねつ造された嘘話です。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/20065.html
マレーシアの国定歴史教科書
投稿者: kukukunoooku 投稿日時: 2007/07/14 12:49 投稿番号: [20064 / 41162]
マレーシアの国定歴史教科書
http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page048.htmlどうもこれを観るとと是々非々で書かれてるようだが。
1. The Asia for Asians slogan was the influence on the
Asians.
2. Burma and Indonesia did cooperate with Japan for
the sake of getting independence.
3. Japan approved the formation of KRIS on Malaya-
Indonesia Orgarnisation.
The effects of Japanese occupation
* The rise of national struggle.
* The confident for self administration.
* Expand the communist ideology.
* The fall of the country's economy.
* The failure to upkeep the health staus
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/20064.html
Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
投稿者: kukukunoooku 投稿日時: 2007/07/14 12:46 投稿番号: [20063 / 41162]
yominokuniの基地外連投のソースは全部この人の著作からの引用
アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編 (単行本)
越田 稜 (著)
著作権侵害で違反メッセージ送っといてやったw
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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日本の教科書 世界平和を謳う(笑)
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 12:26 投稿番号: [20062 / 41162]
20新しい世界
昭和16年12月8日大東亜戦争の勃発以来、明るい大きな希望が湧き起こってきました。昭和の聖代に生まれて、今までの歴史にない大きな事業をなしとげるほこりが感じられて、たくましい力が盛り上がったのであります。
わが日本と志を同じくするドイツ、イタリア、両国もまた、新しい欧州を作ろうとしてい、地中海に、アフリカに、大西洋に、米英に対する戦いを繰り広げ、また、ソ連とも戦っています。世界をわがものにしようという野心によってつくられた古い世界が次第に崩れ始めたのであります。
すでに、満州国は輝かしい発展をとげました。国民政府もまた、シナで、着々とその基礎を固め、タイ国も、東部インドシナも、日本と密接な関係を結び、相,携えて大東亜建設の為に協力しています。
その上、わが戦果にかがやく南方の諸地方は新生の光にあふれ、マライや沼南島、ビルマやフィリピン,東インド諸島に響く建設の音が、耳もと近くに聞こえてきます。大東亜十億の力強い進軍が始まったのであります。日本は大きな胸を開いて、あらゆる東亜の住民へ、手をにぎりあうように呼びかけています。日本人は御稜威をかしこみ仰ぎ、世界に本当の平和をもたらそうとして、大東亜建設の先頭に立ち続けるのであります。
私達は豊かな資源を確保し、軍備を固めて、敵を圧迫し、おおしい心構えを以って、建設をなしとげなければなりません。この大事業のためには身をささげ、力を尽くす事が,大事であります。私達は希望に満ち溢れ必勝の信念を以って,立ち上がらなければなりません。
身命をなげうって、皇国のために奮闘努力しようとするこのおおしさこそ、いちばんたいせつなものであります。
私達は清く、明るく、公明正大でなければなりません。
男は正しくたくましく、女はすなおで強くあってこそ、日本の国はいよいよさかえて行く事ができるのであります。
日々の心構えが、そのまま大きくなっての心構えとなります。
このような心構えですすむ時新しい世界は、私達の手でできあがるのであります。私達こそ、という意気込みを以ってのぞむ時、大東亜の建設はみごとにないとげられ、正しい世界が開けて来ます。今、はっきりと私達の果たさなければならない使命についてわきまえ、それを果たすことの出来る日本人となるようつとめましょう。
国民を騙し
アジアの民衆から経済的人的搾取を行い
虐殺し、そして
戦犯は処罰され
日本は新しく生まれ変わった。
原爆投下により
降伏
敗戦し、
戦争放棄したため、戦後60数年間平和に経済的繁栄を遂げた、
決して先の大戦の英霊のお陰などではない、敗戦後
捕虜
抑留者
引き揚げ者
内地の生き残りの日本人が
この国を興したのであり
誇りに思う。
先の大戦を正当化しようとすることは
現在の平和と繁栄を否定することだと
改めて感じてほしいと
おもうのである(ジャン)
愚かな政治は、もう、、ゴメンだね。賢い国民となろうぜ(笑)
これは メッセージ 20061 (yominokuni56 さん)への返信です.
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日本の教科書 白馬の天皇陛下万歳
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 12:15 投稿番号: [20061 / 41162]
国定修身教科書(初等科6年生用)
「初等科修身4」
文部省編
1942年版
19戦争祝賀の日
難攻不落を誇っていたのも、きのうの夢と消えて、皇軍は昭和17年2月8日ジョホール水道を突破し,大激戦ののち、15日には敵将以下7万の大軍を無条件で降伏させました。シンガポール要塞はみごとに陥落したのであります。
太平洋とインド洋をつなぐ関門として,大東亜海の守りを固め、沼南島が新しく生まれました。ここは、今我が大日本が皇道を明らかにする政治上、軍事上また,経済上のきわめて大切な拠点となったのあります。爆撃機の轟音もまったく途絶えて、マライ人もインド人も,シナ人も朗らかに大東亜の建設の為に働いています。
この沼南島の誕生をことほぐ祝賀の日のことでありました。2月18日早春の日差しを受けた二重橋の上、深緑の中に清らかな御乗馬「白雪」の姿がくっきりと浮かび上がりました。
宮城前広場に、あとから、あとから続いてどよめいていた歓呼の声が、はたと消えて水を打ったようにしずまりかえります。この時、十数万の民草はみんなおなじように急にまなこをみはりました。
大元帥陛下には、馬上御豊かに、今,しずしずと側近のかたがたをおしたがえになって出御あらせられます。そうして橋の上で御馬首を広場の赤子へおむけになりました。御稜威さんとしてかがやく大元帥陛下は、今ここにあらせられる。たとえようのない感動に、胸はひきしまり、思わずこうべが低くたれます。
ああ,この時、指揮者はいなくても心は一つ、おのずから宝祚の無窮を祈る万歳の奉唱が湧き起こりました。広場に寄せてはかえす赤子の波、返すまもなく、まごころこめてうち続きます。
天皇陛下
万歳
万歳
しばらく静まり返ったかと思う間に,この声がおごそかな「君が代」の奉唱にかわりました。「君が代」の大きな斉唱はだんだんと高まり、熱を帯びてきました。そして、広場全体、老いも、若きも、男も、女も、感涙にむせんだのであります。制服の生徒も、産業戦士もひざまずいています。玉砂利にひざまずきながら、幼い愛児とともに拝んでいる母親もいます。
この「君が代」を奉唱する熱誠な民草に、恐れ多い事ながら、二度三度、白い御手袋もはっきりと、御挙手の礼をたまわりました。やがて、陛下にはしずしずと御馬首をおめぐらしになって、入御あらせられました。
しかも、広場の人たちの歓呼の声がなりやまないうち、皇后陛下、皇太子殿下、照宮、孝宮、順宮内親王殿下はおそろいで、橋上にお出ましになったのであります。
皇后陛下の御手にも、皇太子殿下の御手にも、あざやかに日の丸の旗が拝されました。
小旗は、ひらひらとして春浅い花かとも拝され、三内親王殿下もまた、御ともどもに広場のどよめきに相和せられて、力づよく国旗を御うち振りあそばれたのでありました。
大東亜に新しいよあけの光がさしたこの良い日、わが皇室の、喜びを民草とともにおわかちになったありがたさ、かたじけなさ、広場に拝した民草の感激はいうまでもなく、私達もまた、赤心奉公の忠誠を誓って、いつの世までもこの光栄の日を忘れる事が出来ないのであります。
これは メッセージ 20060 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書インドネシアの教科書4
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 12:13 投稿番号: [20060 / 41162]
地下活動を行う。
政党が解散させられた後、指導者達は地下活動を行った、勢力を結集し民族団結の地下活動を続けた。
反乱がインドネシア各地で勃発した。
1. アチェにおける反乱=1942年11月10日指導者はシャリル(日本軍に狙撃される)
2. 西部ジャワのシンガパルナでの反乱1944年2月25日指導者はザエナル・ムスタファ(逮捕
死刑)
3. 西部ジャワ
インドラマユでの反乱
カプロガン村の全民衆が蜂起他の村村に飛び火する。(日本軍の鎮圧)
4. 西部ジャワ
ロッベヌルでの反乱日本の残酷な行為を座視する事が出来ず武器を取って抵抗した、マドリャリアスの指導による。
5. 西部カリマンタン、ポンティアナックの反乱1943年10月16日に日本に対する反乱を計画する秘密会議が開かれた。がしかし、事前に情報が漏れ、多くの人々が逮捕され,殺害された。
6. 郷土防衛義勇軍による反乱
aフリタルにおける郷土防衛軍の反乱ショウーダンチュ(小隊長)のスプリヤディに指導された100人の兵士はカウィの山に立てこもり抵抗し、その後投降、逮捕、死刑に処せられた。
bアチェにおけるトゥウクハミドの反乱
ギユー軍の2小隊を指揮して日本に抵抗した。ハミドの家族全員が人質となりやむなく投降した。
cパンドラにおけるギユー軍兵士の反乱
日本軍が鎮圧
dチラチャップのグミリールでの郷土防衛義勇軍の反乱
この反乱はかなり強烈なものであった、スディルマン将軍、後にインドネシア独立後国軍大将となる
これらの反乱はいずれも日本軍に鎮圧されてはいるが、成果は、連合国軍の攻撃と戦っていた日本軍の力を削いだ事にある。
これは メッセージ 20059 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書インドネシアの教科書3
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 12:12 投稿番号: [20059 / 41162]
労組動力の搾取
社会の階層を問わず,いたるところで行われた、もっともひどい目にあったのは強制労働者(ロームシャ)にするために動員された人々であった.彼らは田舎の出身で,一般に文盲であった.そのロームシャ太刀は橋,幹線道路、飛行場、防空壕といった日本防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された.そのような壕が今でも残っている、カリウラン(ジョクジャカルタ)にあるのはその一つだ.。ジャワ島、の各地から集められた数千のロウムシャはマラヤ,やビルマ、インドシナなど、国外でも労働させられた、ロームシャの待遇はきわめて残酷であった、彼らが労働中にすこしでも不注意だったりすると、平手で叩かれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これに抵抗した者は殺された。
彼らの健康は配慮されなかった。衣服は満足に支給されず、食料は与えられはしたが、米の飯ではなく、タピオカの粉の粥であった、それも一日一回であり、量もきわめて限られたものであった。
その結果何千人ものロームシャは2度と故郷に戻ることは無かった。働かされていた森林でこの世を去ったのであった。
この事実を目のあたりにして、村の若者は姿を消した。これは地方の農業に悪い結果をもたらさざるを得なかった。
1943年以降、日本軍は行きずまり、連合国軍の攻撃に備えてインドネシアの青年を利用しようとした、日本は青年団をつくり、隊員は14歳から22歳までの青年から成っていた。目的は「自力で国土の防衛が出居るように青年達を教育,訓練する」ことであった。日本軍政府はこのように言っていた。しかし、本当の目的は来襲する国連軍に立ち向かわせようとする準備であった。
また、ケーボーダンあるいはボーゴダン(警察補助隊)フジンカイを作った。
ジャワ、ホコーカイ=1944年ジャワ民衆の動員を強化する為ジャワ忠誠会を作った。大東亜戦争の勝利のため民衆を駆り立て日本への全面的な献身をさせる事、会員は14歳以上で米、宝石、くず鉄などの物資を集める為民衆を動員する役割をさせられた、集めた物資は全て日本軍政府に引き渡された。
その他ヘイホ(日本補助兵)シュイシンタイなど1943年に設けられた。
国土義勇軍=1943年10月3日に結成された。インドネシア防衛のため、日本軍から軍事訓練をうけた。郷土防衛義勇軍の指揮官はインドネシア人であった。彼らは指揮官に就任する事を認められる前に士官候補生として教育を受けた。士官たちの教育はボゴールで行われた。インドネシア独立後、彼らの多くがインドネシア国軍の指導者となって活躍した。その中に故スディルマン将軍、カトッ・スブロフ将軍、アフマドヤニ将軍らがいる。
日本の占領政策は民族主義闘争に利用された。
インドネシア民族に対する日本の圧制は実に非人間的なものであった。
自然資源と労働力の搾取は徹底的に行われた、民衆はわが国の歴史に例のない苦難を体験した。
指導者たちは民衆の立場に立って闘い続け独立を達成するために民衆の闘争精神を育てたのである。民族主義者たちは表立っては日本軍政府と対立はしなかった、それは大変危険であり、闘争を有利にはしなかったからである。日本軍は抵抗する者は誰であろうと遠慮せず殺した。
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アジアの教科書インドネシアの教科書2
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 12:11 投稿番号: [20058 / 41162]
インドネシアは日本の戦争を支える為に資源および人力を提供させられた.
当初、日本軍到来はインドネシア民族に歓迎された.インドネシア民族は長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した.
どうして、このような期待をもったのだろうか?それは日本がやって来てまもなく次のような宣伝を展開したからである.
**日本民族はインドネシア民族の兄である.日本が来た目的はインドネシア民族を西洋の植民地支配から解放する事である.−日本は「大東亜共栄圏」のために開発を実施する.**
その実態はどうであったか、日本時代にインドネシアの民衆は肉体的にも精神的にも並外れた苦痛を体験した.日本は結局、独立を与えるどころかインドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ.その行為は強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった.資源とインドネシア民族の労働力は日本の戦争のために搾り取られた.
日本の占領時代のインドネシアでは軍政がしかれ,ジャワ島、スマトラ島は陸軍が,その他の地域は海軍に支配された.
*天然資源と食糧の搾取
原材料は戦争が必要とする工業材料を得るために使われた.食糧の供給は特に軍人による消費の為の備蓄に向けられた.価格も日本軍政府によって決定された.それはモルッカ諸島でのオランダ東インド会社による香料の独占と、変わりの無いものであった.
戦争にあまり役たたないものの栽培は制限されたり,完全にやめさせられた.
例えば
スマトラでの煙草の栽培は壊滅させられ、ヒマの栽培にかえさせられた.ヒマは飛行機の潤滑油の材料として非常に重要であった.
必要性があるため依然として耕作が続けられたものにはキニーネ、ゴム,砂糖きびがあった.
森林は農地として利用するという理由で伐採された.森林伐採はジャワ島だけで50万ヘクタールにおよんだ.
農地造成のための場当たり的な森林伐採は結局のところ食糧増産にはつながらずそれどころか逆に収穫は減少した.思慮を書いた森林伐採は土地の侵食と洪水の原因となった.侵食は土地の肥沃度を低下させ,灌漑に不可欠な水源を涸れさせた、洪水は稲作を破壊した.
日本軍政府は軍隊の消費の為家畜を大量に殺した、その結果家畜の数は次第に減少し、田畑を耕すための家畜が居なくなってしまった.
民主は各自の庭でヒマの栽培する事を義務付けられた、その収穫は日本軍政府に引き渡さねばならなかった.これはオランダ東インド政府時代の強制栽培とどこがちがうのだろうか.結果的に耕地は減少し,農地で働く時間が不足してきた.
多くの民衆がロームシャ(強制労働者)にされた.こうして田を耕す労働力が減少していった.農業生産は減少したにもかかわらす,収穫の80%を日本軍政府に引き渡すように強制された.この結果民衆の間では食糧が大変不足し,飢餓の危機がいたるところで発生した.栄養失調で腹ばかりが膨れた多くの人々が死んでいった.
その他の物資の搾取
くず鉄は古い鍬や鎌
庭の鉄柵まで取り壊して差し出さねばならなかった.
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アジアの教科書インドネシアの教科書1
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:42 投稿番号: [20057 / 41162]
インドネシア
中学校用
「社会科分野.歴史科第5分冊」
マルトノ著
ティガスランカイ社
3.日本占領時代
1939年ころヨーロッパの情勢は非常に緊張していた.その原因は次のようなものであった.
ドイツは第一次大戦で敗北した相手国、とりわけフランスに対して「レバンシェ」(報復)することを切望していた.
ドイツは第一次大戦で奪われた植民地を奪還する野望をもっていた.
ドイツはヨーロッパで強国になることを強く望んでいた.
イタリアもまた、大イタリアという意味である「リソルジメント」建設の理想を持っていたので植民地を拡大したいと思っていた、その動きの一環として北アフリカの国、アビシニア(エチオピア)を侵略した.
ヨーロッパ諸国は互いに軍備拡大を競っていた.
世界平和を脅かす大国の行動を国際連盟は抑えることが出来なかった.
同じころアジアでも緊張が発生していた.
先進的な近代国家に成長していた日本が拡張政策を実行する野望を抱いたのだ.すでに日本は満州と華北を侵していた.中国全土にも日本による侵略の危機が迫っていた.
植民地の拡大という目的を共有するドイツ、イタリア、日本は協力して、その敵に対抗する為の同盟を結んだ.
世界の諸地域ですでに長く植民地を所有してきた帝国主義諸国、特にイギリス、フランス、オランダ、アメリカはこれに脅威を感じ、そこでまた、共同の敵に対する為に連合を形作った..
1939年9月1日ドイツはポーランドに侵攻した.逆に9月3日にはいぎりす、フランスがドイツを攻撃した.すぐさま連合国はイギリス、フランスに追随した.ここに、第二次世界大戦が勃発した...
本質的には第二次世界大戦はドイツ,イタリア,日本対イギリス、フランスおよびその連合国との植民地獲得戦争であった.ポーランド侵攻は戦火を燃え上がらせる口実となったに過ぎなかった.
第二次世界大戦は2つの部分に分けることが出来る
ヨーロッパと北アフリカの戦場、太平洋の戦場である.
1941年12月8日日本はパールハーバーを攻撃した.日本の攻撃はきわめて突然であった、ワシントンで日米交渉中の事だった.日本に対抗するためアメリカはABDACOM連合軍をつくった.その総司令部はバンドンに近いレンバンに置かれた、その他ABCD戦線も組織された.
日本は中国大陸、東南アジアへの進撃さらには太平洋上のソロモン諸島に至る当方への侵攻を電撃的なすばやさで行った.
これは次のような結果をもたらした.
*中国大陸が日本に支配された.
*ビルマ、マラヤ、シンガポールにおけるイギリス帝国主義の支配が打倒された
*インドシナにおけるフランス帝国主義の支配が倒された.
*フィリピンにおけるアメリカ帝国主義の支配が打破された
オランダ東インド政府は日本の攻撃に対抗する力が無く、無条件に降伏した.
降伏文書はオランダ東インド総督トゥチャルダ.ファン.シュタルケンボルクスタショーウェルの立会いの下オランダ東インド軍司令官テル、ポールテン中将によって調印された.日本側は今村均将軍であった.(第16軍司令官)
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アジアの教科書フィリッピンの小学生教科
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:35 投稿番号: [20056 / 41162]
フィリピン
小学校4年生読本
「歴史」(タガログ語)
コンコルディア・C・フロレンチアB.バウティスタ編
レックス
フックストア発行
フィリピンの歴史におけるくらい時代は私達の国を日本国が占領した時です。
日本軍は来たばかりのころは自分達はフィリピン人の友達だといい、フィリピン人と日本人を結びつけるためアメリカを敵としました。
日本人はアメリカと関係のあるもの全てをとり除きました。英語の代わりに日本語にしました。
彼らは人々の食糧や家財道具をはじめ乗り物や大きな家々をも取り上げました。
多くの人々が生活に困り、お腹を空かせていました。しかし、フィリピン人はマッカーサー将軍が戻ってくるのを信じていました。将軍がそう約束したからです。ゲリラ活動をしていた人、日本人と一緒になるのを嫌がった人たちは山にこもりました。ゲリラはしばしば日本軍と戦い、人々の希望となりました。
日本人はスパイがゲリラとみなした人々にとても残忍でした。捕らえた者たちを拷問し、閉じ込め,仲間の名前を言わせました。罰せられ殺された人達の中にはアバド・サントス裁判官、ウェンセスラオ・Q・ビンソン氏、ホセファ・リャネス・エスコーダ夫人、ラモン・ラントス医師らがいます。
マッカーサー将軍は約束を守りました、戻って来て、私達の国を日本人から救ってくれました。
*今日でもハポン(日本)
サカン(蟹股)は「悪」の代名詞になっていることを認識しておくべきでしょう。
サマット山頂に戦争記念館がある。
バターン半島の突端に「死の行進」を示す記念碑がある。
これは メッセージ 20055 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 フィリッピンの教科書5
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:33 投稿番号: [20055 / 41162]
アメリカ軍の帰還
自由の道は長く険しかった、オーストラリアのアメリカ軍は日本軍の手に陥っていた島々を取り戻していった。1944年9月アメリカ軍はフィリピンにいた日本軍に対し容赦のない砲撃を加えた。10月レイテ島にアメリカ軍は上陸した。1945年2月3日マニラに進行
第8軍はバタンガスに上陸、カビテ、リサルへと進行した、日本軍は退却の途中村に火を放ち焼いた、マニラの町の半分は日本軍に焼かれ、残り半分はアメリカ軍に破壊された。4月完全な勝利を収めた。4月12日ルーズベルト大統領の死にフィリピン人やアメリカ人のみならず自由世界の全ての人々が彼の死を悼んだ。
日本の降伏
1945年7月26日連合国の3カ国
イギリス、アメリカ,ソ連、、は日本に無条件降伏を要求する最後通告を発表した。この際ご通告はアメリカ大統領、イギリス首相、ソ連書記長による、ドイツ,ポツダムでの会議期間中に書かれたため「ポツダム宣言」として知られている。日本はその最後通告を無視した。日本をついに降伏させたのは原子爆弾であった。戦争に初めて使われたこの爆弾は8月6日広島市に落され広島市の60%を破壊し、一瞬にして7万8千人の日本人を殺戮した。一万人以上の人が跡形もなく消えた。3万7千人の日本人が重い傷に苦しんだ。何千人もの人々が放射能による後遺症で病んだ。8月9日第二の被爆が長崎市にもたらされた。長崎市の40%が破壊され10万人の人が殺された。6日後の1945年8月15日日本は無条件降伏をした。日本に亡命していたラウレル大統領は1945年8月17日日本に支えられていた「フィリピン共和国」を解体した。
戦争の被害
東南アジア諸国のなかで、フィリピン人が一番激しく、長く戦ったので、フィリピンが戦争によってもっとも破壊された。フィリピン人全体で111万1938人が戦死した。この中には戦場や日本の捕虜収容所で死亡した兵士達、また、日本軍によって虐殺された市民(男性,女性、子供たち)が含まれている。
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アジアの教科書 フィリッピンの教科書4
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:32 投稿番号: [20054 / 41162]
フィリピン行政委員会
日本軍最高司令部はケソンが大マニラ市の市長に指名したホルヘ・B・バルハスに新政府を速やかに組織するように命じた。フィリピンはフサッフェが倒れ、日本の征服者のなすがままになっていた。
1942年1月23日バルハスと31人の協力者は日本軍最高司令部にあてて、「平和と秩序を維持し我が国民に幸福を推し進める為に」に日音軍の命令に従う決意をした
日本製フィリピン共和国
東条英機首相はフィリピン国民の好意を得るために、フィリピンの独立を認める約束をした。東京からの命令に従いフィリピン独立準備委員会(PCPI)がラウレル博士のもとで来るべき「共和国」の憲法を制定する為に設置された。
この憲法は1943年9月4日PCPIのメンバーによって署名された。
この憲法は「フィリピン共和国」の為に制定されたものであり行使するにあたり大統領がその執行権を有する、副大統領はいなかった。立法権は一院制国民会議に属した。司法権は最高裁判所および下級裁判所に属していた。権利の宣言はありはしたが市民の権利よりも、その義務が強調されていた。この憲法で関心を引くのは国語としてタガログ語を適用したことである。9月7日117名の代表者で構成された議会により「批准」された。
1943年10月14日「フィリピン共和国」がマニラで発足した。ラウレル博士が大統領として、その任務の宣誓をした。ベニグノ・アキノ議長が努める国民会議によって選出された。
フィリピン国民は彼らの新しい「共和国」を歓迎することには熱心ではなかった。それが本物ではないことを彼らは知っていた。あざけるようにPCPIを「どうぞ、フィリピンの独立を放棄してください」と叫んでいたくらいである。
宣伝活動機関
あらゆる手段を使ってフィリピン人を日本化するか、あるいは少なくとも彼らの同意を得ようと試みた。さまざまな講習会が国民に「精神的躍動」を与える為に設置された。これらの講習会のなかにはGETI(政府雇用訓練講習会)元ユサッフェの兵士のための講習会、新フィリピン文化講習会、政府留学生派遣準備講習会などがある。また、日本の隣組を真似た隣人協会が占領下のフィリピンの市町村に設置された。日本の指導的な宣伝機関はカピサナン・サパグリリンフコド・サ・バゴンゴ・ピリピナス(新生フィリピン奉仕団)婦人互助会、カリバピ指導者会、労働協会がある、カリバピは日本軍当局によって許されたフィリピンでただ一つの政治集団であった。
これは メッセージ 20053 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 フィリッピンの教科3
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:30 投稿番号: [20053 / 41162]
日本軍は何をしたのか
日本軍がマニラを占領した時にバルガスにフィリピン行政府の長になるように命令がきた。7つの省が設置されそのぞれの長にフィルピン人がなった。しかし、どの省にも日本人がいて、フィリピン人の一挙一動を監視していた。
1943年初頭
日本はフィリピンに「大東亜共栄圏」に参加するなら自由にするといった。そして、日本はフィリピンの憲法制定の為フィルピン独立準備委員会を作った。日本はフィリピン独立宣言以前に政党活動を全て禁止し、代わりにカリバピ(新生フィリピン奉仕団)を設け、新しいフィリピン大統領を選出した、がこれは日本の支持によるものだった。
1943年10月14日
ホセ・ラウレルは共和国大統領に就任した、同日、日本と軍事協定(日・比同盟)を結ぶことを強要された。この協定は無意味なものであった。なぜなら、フィリピンは日本に対してはもともと非協力的であったからである。フィリピン人は全国の学校で教えられたアメリカとその民主主義の価値観のほうに忠実であったからである。
ゲリラ
ユサッフェの残軍は山に登り、ゲリラ活動を開始した、ゲリラの数は町や市の市民が加わったりしたので増えつづけた。日本軍の残酷さ
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-特に地方での女性に対する邪悪な扱い
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-は多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。
ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍はフィリピン市民に対して残酷さを一層加えるようになった。有罪、無罪を問わず捕らえられ、サンティアゴ砦や日本軍が接収し刑務所とした他の施設に送られた。家に帰ることが出来た者にしても、不自由な身体となっていた。
一般市民はゲリラに全面協力し、食糧やお金を与え、また、日本軍の情報を伝えた。ゲリラ活動はルソンに集中しており多勢の指導者はここの出身者であった、有名な人物としてはウェンスラオ・Q・ビンソン、マルセロ・アッドル、テリー・アデボソ、マルコス・V・アグスティンである。
バターン死の行進
16人の将校を含む7万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士がバターンで武器を捨てた。降伏後彼らは勝利者である日本軍の残忍な扱いをうけた
。
飢え、渇き、病、疲労で極度に衰弱していたにもかかわらず、彼らはバターンのマリベレスからパンパンガのサン・フェルナンドまで約80kmの全工程を行進するよう強制された。この悪名高き「死の行進」中フィリピン人約1万人アメリカ人約1200人が路上で死亡した。サン・フェルナンドで生存者は有蓋貨車に詰め込まれ、ターラックのキャパスあったオドンネル、キャンプにつれて行かれ収容された。その結果、飢えや病気でほとんどが死亡した。最終的に家族の下に帰れたのはごく少数の人たちであった。
(バターンのマリベスから鉄道のあるサン・フェルナンドまで80kmの道のりで捕虜達はそこを5〜6日がかりで移動させられた。サン・フェルナンドからフタつきの貨車でカパスまで運ばれ、カパスから再びオドンネルキャンプまで12kmを歩かされた)
日本の軍政
日本軍マニラ侵入の翌日1942年1月2日
日本の軍事政権がフィリピンの政治,経済,文化活動を指揮するために設置された。第一主任将校にハヤシ・ヨシヒデ
第2.第3にタカギ・ワイチ各陸軍少将が就任した。
東京からの命令を実行して日本軍事政権はいくつかの規定を定め無力なフィリピン人はそれに従わざるを得なかった。夜間外出禁止令および灯火管制が全マニラに施行され、戒厳令がしかれた。火器、弾薬、その他の武器全てが没収され、日本軍に敵対するいかなる行動も処罰の対象になった。日本人一人を殺せば有力なフィリピン人を二人射殺するという軍の布告が出された。
全てが日本の支配下に置かれた。日本の「軍票」がフィリピン通貨に換わって配布された。
これは メッセージ 20052 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 フィリッピンの教科書2
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:15 投稿番号: [20052 / 41162]
マッカーサー
バターンへの退却
アパリとリンガエンに上陸した日本軍はマニラへ向かった。この軍事展開によってマッカーサーは一時バターンへ退却し、最後まで闘うことを決意した。彼の意図は戦争の被害から民間人を守り総力を集中して再び日本軍と戦うことにあった。
フィリピン軍は軍人と民間人との両者から組織されたものだったが、全員バターンへ退却するよう命じられた。従って日本軍は容易にマニラに侵入することが出来た。1942年1月2日マニラは制圧された。
フィリピンの敗北
日本軍はバターンを攻撃し、その総力を集中し、本間雅晴司令官ら日本軍の最高幹部は攻撃に幾たびもの失敗をした。ユサッフェには被弾して多数の死傷者が出たが降伏はしなかった。日本軍も死傷者は多くまた、マラリアに苦しむ者も多かった。本間はマッカーサーに降伏を勧告したがしかし、マッカーサーはそれを無視して戦い続けた。ルーズベルトはマッカーサーにオーストラリアに転戦するように命じた。バターンの防衛軍は食糧と武器不足のため弱体化し4月9日バターンは陥落した。
5月6日コレヒドール陥落、フィリピンは敗北した。
亡命政府
ケソンがワシントンに到着してすぐに亡命コモンウェルス政府(独立準備政府)が樹立された。
ケソンの閣僚のほとんどはフィリピンに残ったが彼についてきた者には重要なポストが与えられた。バシリオ・バルデス将軍は国防大臣、マヌエル・ニエト大佐は通商農業大臣、ハイメ・ヘルナンデスは大蔵大臣
住宅相にはホアキン・エリザルデが任命された。彼らは太平洋戦争会議のメンバーとなり、国際連合設立の為の文書に署名をした。
これは メッセージ 20051 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 フィリッピンの教科書1
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:13 投稿番号: [20051 / 41162]
高等学校用
「フィリピン国の歴史」(タガログ語)
テオドロ・A・アゴンシリオ著
ナショナル・ブックストア発行
第17章
太平洋戦争
マッカーサーと軍隊
1939年ヨーロッパで戦争が始まった時フィリピンの国情は必ずしも悪い状況では無かった。
しかし、マヌエル・ケソン(国民党党首)はフィリピンの美しい空に暗雲が立ち込めるのではないかと感じた。民族主義者で作家で知識人そして国会議員でもあるクラロ・M・レクトは日本が一番危険ではないかと考えた。
1930年代に日本と中国が戦争を始めたときから日本は極東アジアを征服したがっていたらしい。もし、アジアで戦争が起こったならばドイツが太平洋にある列強の植民地を奪ったように日本もアメリカからフィリピンを奪うのではないかという恐れを抱いた、ケソンは戦争が起こりそうな情報を受けていたので、マッカーサーにフィリピンを守るように要請した。つまり毎年4万人の兵隊を訓練することを提案した。5年間に20万人のフィリピン軍の動員を計画し,ルーズベルト大統領はフィリピンとアメリカの軍隊を合体して指揮官にマッカーサーを任命した、フィリピン軍13万とアメリカ軍隊の連合隊をユサフェ(アメリカ極東軍)といった。
宣戦布告
1940年9月日本はドイツ・イタリアと同盟関係を結んだ。これらの国を枢軸国という。1941年7月日本はインドシナ(ベトナム)に侵攻した。アメリカはその侵攻に脅威を感じ、フィリピンも危険と考えたアメリカは主権を持った国家同士であることで日本に対して相互に理解し合おうと提言した、しかし
日本はそれを拒否した。2国間の関係改善のため日本は来栖三郎を野村駐米大使の協力者としてアメリカに派遣した。しかし、両者がハル国務長官と交渉している間に日本はパールハーバーを攻撃した。日本は宣戦布告をしないでアメリカの軍事施設を奇襲したのである。奇襲の結果アメリカ海軍将校
兵士計5000名が死傷した。ここに太平洋戦争が始まった。
日本の侵略
真珠湾攻撃の数時間後、日本はフィリピンに侵攻した。それは1941年12月8日である。アバリ・ダバオ・バギオ・タルラ・タルラックなどを攻撃を仕掛けてきた。夜にはマニラが爆撃された。と同じくして日本はアパリ・リンガエン・アティモナン・ラモン湾に上陸した。
12月9日ルーズベルトの声をラジオで聞いた「我々は戦争のただ中にいる、この戦いは帝国主義的戦争への復讐のためにあるのではない、危険の無い世界をつくり、この国とその全てのものが、子供達のために自由であるようにするのだ」
12月26日「私はフィリピンの人々にフィリピンの自由を回復しその主権を守ることを誓う、アメリカはこの誓いを果たす為に人と物を使い力を尽くす」
これは メッセージ 20050 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 カンボジアの教科書4
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:11 投稿番号: [20050 / 41162]
親日傀儡政権の樹立
インドシナで湧き上がった民族独立運動に直面した日本帝国主義者は自分の侵略行為を隠す為、フランス植民地主義者を相手に共に闘おうとカンプチア人民に訴えるスローガンを出さざるを得なかった。1945年3月10日「ベトナム・カンプチア・ラオスを支配していたフランス植民地主義者の時代は終わった」と宣言する放送をした。
フランス植民地主義者に忠実であったシナヌーク、バオダイ、、のような国内の封建主義者は今度は日本を慕って召使になった。インドシナの国に独立をもたらすというコメディーを演じるためである。
同日、プノンペンにあるに日本領事館のクボタが宮殿に赴き「カンプチアの独立を支援する」と声明した。
3月12日
「今日からカンプチア王国は独立国である」新しい政権を樹立させた。
日本軍の敗北と8月のベトナム革命の勝利はカンプチア人民とラオス人民の政治的闘争に力を与えた。しかし。カンプチアでは日本の敗北直後からの革命と反革命の力の不均衡によってベトナムやラオスのように民族独立を獲得する為に立ち上がることがなかった。民族運動の消滅と一部は日本人に毒されてしまい、その結果国家権力の全てはシアヌーク王と日本の傀儡首相ソン・ゴク・タン・の手に握られた。
1945年9月23日フランス植民地主義者がベトナム南部に侵略してきた。
10月初め彼らは再びカンプチアへ侵略してきた。ソン・ゴク・タンの独立政権は抵抗できず10月16日崩壊した。そしてシアヌークは再びフランスの操り人形となった。
これは メッセージ 20049 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 カンボジアの教科書3
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:10 投稿番号: [20049 / 41162]
この他、1945年初め60万人いたインドシナ方面の日本軍への補給を責任をもって行うようフランスに強要した。
日本の指令はインドシナ銀行に次に示すような多額の金額を提供させるように仕向けるものであった。
1940年=600万リエル
1941年=5800万リエル
1942年=8660万リエル
1943年=1億1720万リエル
1944年=3億1600万リエル
を要求したが、当事のインドシナ全体の予算は2億1900万リエルであった。この金額を日本製品への代価として清算しなければならなかった。がしかし、実際には代価に見合うに日本製品などありはしなかった。これはインドシナ人民に対する新たな重荷であった。
さらに、日本はフランスに強制して、カンプチア農民に田畑を供出させ、ジュート、ヒマなど、日本軍需品のための工業用植物を植えさせた。これが元で1944年から1945年までの間にカンプチア人民の一部が餓死することとなった。
政策面では日本はタイの反動的政府(ピブン内閣)をそそのかしインドシナでフランスと戦争をさせた(1940年12月〜41年1月)そして
日本は戦争を収拾するために中立の立場をとり、バッタンバン州とシエムレアブ州、コンポントム州、ストゥレン州のそれぞれの一部をタイに割譲するように強要した。
日本は2つのごまかしのスローガンを掲げた。{大東亜共栄圏}「外国のくびきからの解放のための歴史的使命」である。「ユバン」という青年団を組織した、これはソン・ゴク・タンとポック・チューンの二人を利用して、フランスから権力を奪取する力を養成し、親日傾向の青年達に「大クメール」民族主義思想を鼓舞するものであった。
フランスと日本の帝国主義者たちはカンプチア人民の財産を奪いカンプチア人民に何も考えさせないようにごまかしておく為の策略を考え、また、互いに権力を奪い取る隙を覗っていた。
第二次世界大戦期のカンプチア人民の闘争運動
日本がカンプチアを支配しに来たとき声高に民族主義を掲げたのは知識階級の官吏、と僧侶だけであった、他の意図日とは日本軍の欺瞞の宣伝の罠に陥ってしまった。
ハエム・チアウ師
知識階級の代表者でありプノンペンの仏教研究所の教授で熱心な民族主義者である。師は国際状況において互いに平等な関係にあるべきであることを主張し、兄弟国の独立の闘争運動に理解を示そうとした。「黒い星の協会」を設立し、「土地
森林
海
寺院はカンプチア人民の所有物であるにもかかわらず、カンプチア人民はそれらのものの所有権を有してはいない。フランス植民地主義者がそれら全部を支配している、我々民族と自分達の利益を権利を守るために、固い連帯で結ばれなくてはならない」
シアヌーク王は事情を聞くという口実でハエム・チアウ師を宮殿に呼んで連れて来させ、持っている文書類を没収し、裏切り者として告発し還俗させていまった。(傘戦争)1943年メコットララーチ島(政治犯用の刑務所)に送られ虐待の末死亡した。
1945年3月9日夜
日本はフランスが戦う前に計画を実行に移さねばと考え、サイゴン市にいた日本の代表はドゥクー総督に通達を送り、インドシナのフランス軍を日本の監督下におくことを命令した。このときドゥクーの返事が送れたために日本はフランスが命令を拒否しているものと考え、深夜日本は分ランス軍全体に攻撃をかけた。そしてフランス軍は倒され、フランス総督ドゥクーとフランス高官は逮捕された。
これは メッセージ 20046 (yominokuni56 さん)への返信です.
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Re: アジアの教科書 カンボジアの教科書3
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:10 投稿番号: [20048 / 41162]
この他、1945年初め60万人いたインドシナ方面の日本軍への補給を責任をもって行うようフランスに強要した。
日本の指令はインドシナ銀行に次に示すような多額の金額を提供させるように仕向けるものであった。
1940年=600万リエル
1941年=5800万リエル
1942年=8660万リエル
1943年=1億1720万リエル
1944年=3億1600万リエル
を要求したが、当事のインドシナ全体の予算は2億1900万リエルであった。この金額を日本製品への代価として清算しなければならなかった。がしかし、実際には代価に見合うに日本製品などありはしなかった。これはインドシナ人民に対する新たな重荷であった。
さらに、日本はフランスに強制して、カンプチア農民に田畑を供出させ、ジュート、ヒマなど、日本軍需品のための工業用植物を植えさせた。これが元で1944年から1945年までの間にカンプチア人民の一部が餓死することとなった。
政策面では日本はタイの反動的政府(ピブン内閣)をそそのかしインドシナでフランスと戦争をさせた(1940年12月〜41年1月)そして
日本は戦争を収拾するために中立の立場をとり、バッタンバン州とシエムレアブ州、コンポントム州、ストゥレン州のそれぞれの一部をタイに割譲するように強要した。
日本は2つのごまかしのスローガンを掲げた。{大東亜共栄圏}「外国のくびきからの解放のための歴史的使命」である。「ユバン」という青年団を組織した、これはソン・ゴク・タンとポック・チューンの二人を利用して、フランスから権力を奪取する力を養成し、親日傾向の青年達に「大クメール」民族主義思想を鼓舞するものであった。
フランスと日本の帝国主義者たちはカンプチア人民の財産を奪いカンプチア人民に何も考えさせないようにごまかしておく為の策略を考え、また、互いに権力を奪い取る隙を覗っていた。
第二次世界大戦期のカンプチア人民の闘争運動
日本がカンプチアを支配しに来たとき声高に民族主義を掲げたのは知識階級の官吏、と僧侶だけであった、他の意図日とは日本軍の欺瞞の宣伝の罠に陥ってしまった。
ハエム・チアウ師
知識階級の代表者でありプノンペンの仏教研究所の教授で熱心な民族主義者である。師は国際状況において互いに平等な関係にあるべきであることを主張し、兄弟国の独立の闘争運動に理解を示そうとした。「黒い星の協会」を設立し、「土地
森林
海
寺院はカンプチア人民の所有物であるにもかかわらず、カンプチア人民はそれらのものの所有権を有してはいない。フランス植民地主義者がそれら全部を支配している、我々民族と自分達の利益を権利を守るために、固い連帯で結ばれなくてはならない」
シアヌーク王は事情を聞くという口実でハエム・チアウ師を宮殿に呼んで連れて来させ、持っている文書類を没収し、裏切り者として告発し還俗させていまった。(傘戦争)1943年メコットララーチ島(政治犯用の刑務所)に送られ虐待の末死亡した。
1945年3月9日夜
日本はフランスが戦う前に計画を実行に移さねばと考え、サイゴン市にいた日本の代表はドゥクー総督に通達を送り、インドシナのフランス軍を日本の監督下におくことを命令した。このときドゥクーの返事が送れたために日本はフランスが命令を拒否しているものと考え、深夜日本は分ランス軍全体に攻撃をかけた。そしてフランス軍は倒され、フランス総督ドゥクーとフランス高官は逮捕された。
これは メッセージ 20046 (yominokuni56 さん)への返信です.
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黄泉の国のあやしげなソースと違い
投稿者: kukukunoooku 投稿日時: 2007/07/14 11:03 投稿番号: [20047 / 41162]
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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アジアの教科書 カンボジアの教科書 2
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 10:52 投稿番号: [20046 / 41162]
初めフランス植民地主義者は経済指導政策というものを掲げたがその本質は隙をうかがって戦時の機会を捕らえカンプチアの経済を独占しさらに人民の財産を強奪する為の機会を捕らえカンプチアの経済を独占し、さらに任民の財産を強奪する為の戦略であった。
フランスの第二の政策は増税策であった。この政策によって1936年から1945年までにインドシナの歳費は、この姓策によって1936年〜1945年)までにインドシナの歳入は二倍になった。
残酷な戦略は人民から食料品、なかでも米を全くの安値で強制的に買い上げたことであった。これは日本軍に供給するとともに戦時ストックにする為であった。この政策のせいで飢餓状態が生じ1945年初めにはインドシナ人民が餓死しなければならなかった。(ベトナム人民共和国は餓死者は200万人と報告)
経済面での残酷な搾取と平行してフランス植民地主義者は王族間に内紛を生じさせようと、さらにごまかしの政策をとった。シーソワッテムニーポン王の死去(1941年10月)のあと
フランスはシアヌークを即位させ、本当の王位はシソワッテムニーオン王の長男であるシーソワッテムニーレートが継ぐべきであった。
カンプチア住民の沸き起こる愛国心(日本がフランスと戦うために煽った)に対してフランスは自己の指導方針で別の方向へ受けようとしていた。
日本のファシストの策力
日本の帝国主義者たちは昔からインドシナ進出の意図をもっていた。
日本経済に役立つ豊富な資源を持っているだけではない、その上に東南アジア諸国に対して日本帝国の拡大主義政策を進める為のもっとも重要な戦略上の位置をしめていたのである。
ヨーロッパ戦線において日本の同盟国ドイツにフランスが敗れた隙をついて、日本はフランスに強制して、先に述べたような条約を調印させたがこれはフランスをインドシナから少しづつ放逐するためであった。
インドシナ方面の日本軍はその侵略政策と拡大政策に利用する為フランス植民地政府を掌握した。経済面では日本はインドシナの全ての市場を独占する手段を手に入れようと努めた。日本製品のインドシナ市場への流入を図り日本はフランス植民地主義者達に関税法の廃止を強制した(1941年6月)
これは メッセージ 20045 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 カンボジアの教科書 1
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 10:52 投稿番号: [20045 / 41162]
8年生用
「カンプチアの歴史」(クメール語)
教育省編
ホーチンミン市出版
2課
第二次世界大戦期(1939〜45年)
一、フランス=日本の二重のくびきの下でのカンプチア
1939年9月第二次世界大戦が勃発した。
フランスは敗北した、フランスの反動資本家はドイツのファシストに対して1940年の敗北を受け入れペタン元帥を擁立して権力の座につけた。
このような状況のもとでドイツと同盟したファシスト日本はフランスを放逐し、インドシナ半島を日本の支配下におこうとして、直ちにインドシナに侵攻した。
フランスの植民地主義者たちと日本ファシストたちは互いに敵対し相手を追放する機会をうかがう段階に入った。
しかし、初めのうちはインドシナ人民の民族解放運動をつぶす為にフランスと日本は友好的関係にあるかのように見せかけていた。
フランスの植民地主義者は2つの危機に直面していた。フランスの駆逐を目的とする日本とインドシナ人民の民族解放革命の炎とである。
巧妙な策略によってフランス植民地主義者は自ら植民地支配制度を確固たる者とすることが出来た。
フランスは自身が支配する人民の全てを失わないようにしようとして日本に権益の一部を分け与えることで、日本と妥協する道を選んだ。
1940年8月には日本から強制があったわけでもないのに、インドシナにおける日本の軍事上経済上の権益を認める条約に署名した(松岡・アンリ協定)
1940年9月には日本軍はランソン地域に侵入し,支配した(北部仏印進駐)
フランス植民地軍は撤退し日本にインドシナ北部を譲渡する条約を結ばなければならなかった。(日・仏印軍事細目協定)
1941年9月インドシナ総督ドゥクーは新たに日本との間に「インドシナ地域共同保護条約」という降伏条約を結びカンプチアを含むインドシナ全土に日本軍が駐留することを承認した。
太平洋地域において、アメリカ、イギリス、と日本との間に戦争が勃発してから日本のファシストたちはドゥクーに一つの条約に署名するよう強制した。その条約(日・仏印軍事協定)はアメリカ、イギリスの2国が日本軍を攻撃する場合に備えてインドシナのフランス植民地政府を、日本と共同してアメリカ、イギリスを相手に戦わせることを目的とするものであった。
さらに、フランスはその条約で「日本軍の軍事行動を容易にする条件をつくり」「日本軍に食糧を供給し、兵舎を建設し日本軍の安全を保障する為にインドシナにおける社会秩序を維持」しなければならなかった。
この条約はビシー政府と日本の軍国主義者が連合国とインドシナ人民とを相手に戦うために結託していたことを証明している。
これは メッセージ 20044 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 ベトナムの教科書 3
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 10:47 投稿番号: [20044 / 41162]
第11課
8月総蜂起の成功、ベトナム民主共和国の誕生
1. 同盟軍に対するファシスト日本の降伏、総蜂起の機会の到来
1945年の3月9日以後、インドシナ共産党とべトミンは日本の対仏クーデターが勢力の衰えの兆候であり、日本の「解放」のスローガンが絵に描いたモチであり、親日裏切り一味の「独立」スローガンが人殺しの毒饅頭であることを我が人民に繰り返し明らかにした。
1945年5月ファシストドイツが完全に崩壊した。ファシスト日本は一層孤立を深め、殲滅される日が近づく。8月8日ソ連は対日宣戦を布告し、怒涛のごとく満州に進行して日本関東軍を掃討した。8月13日日本政府は降伏を宣言し、さらに15日同盟国に対する無条件降伏文書に署名した。
2. 総蜂起指令
タンチャオ国民大会
状況の急変にともない、1945年8月13日党は全国会議で政権奪取のための総蜂起指令を決定し蜂起委員会を創設した。そして、1945年8月13日夜蜂起委員会は第一号指令を発し全国民に政権奪取の蜂起を呼びかけた。
軍指令
全国民の兵士、民衆に告ぐ
1945年8月13日正午ファシスト日本は連合国軍に降伏し、日本軍は全ての戦線で崩壊した、われわれの主要敵は倒れた。
総蜂起の時は来た。1945年8月16日タンチアオ村でべトミン総司令部の召集により全国から代表60名が3地域より集まった。
初めて指導者ホーチミンが全国の代表の前に姿を現した。
全土の政権奪取とべトミン10大政策に関する歴史的決議を採択した、同時に全土解放民族委員会の樹立を決定した。
*
1945年8月日本降伏後
べトミンは「ベトナム民主共和国」建国を決議した。しかし、ベトナムは再び対仏。対米の「ベトナム戦争」の苦難を体験させられることになった。対米「ベトナム戦争」では大戦中日本の「捨石」となった沖縄が米軍の重要な基地となった。
これは メッセージ 20043 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 ベトナムの教科書 2
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 10:45 投稿番号: [20043 / 41162]
日仏の狡猾な手段
残虐な略奪行為と侵略の陰謀を隠すとともにインドシナにおける唯一の支配者の地位に踊り出る準備のため、ファシスト日本は進駐当初から数多くの邪悪な政策を弄した。まず、チャン・チョン・グエン・スアン・チューなど、フランス植民地主義になにがしかの不満を持つ知識人や名士あるいはグエン・テー・ギエップのようなフランスの古いスパイといった連中を秘密裡に集め親日組織つくりを手助けした「大越民正」「大越国社」「越南愛国」「復国」「大越国家連盟」などである。彼らは南部の「カオダイ」「ホアハオ」といった反仏傾向の宗教組織も利用した。
そして、これらのグループは「越南復興同盟会」という名の親日統一組織に糾合され、日本の傀儡政権の受け皿つくりをした。
と同時に日本は「大東亜共栄圏」なるペテンを謳い文句にして、彼らの文化や力の「無敵」性を宣伝する為、日本語教材を大量に出版したり、日本語学校を開設したり、展覧会や日本映画の上映会を開いたり、またインドシナと日本の留学生交換を行ったりした。
一方フランス植民地主義者は当事彼らを倒そうと狙う勢力、ファシスト日本とインドシナ各目に対処する為に二面政策をとった。
一方では我が革命戦士や愛国者に対するテロや逮捕を続行した。
インドシナ民主戦線期以来のいくつかの「議会」は全て解散させられた。
自分達は味方であって敵ではないと最高学歴を持つベトナム人の官吏・士官・査察警官への登用を図った。
2. 日本のフランス打倒クーデターと抗日救国運動の高揚
日本のフランス打倒クーデター(1945年3月9日)
1944年の後半以降ヨーロッパおよび太平洋戦線における日独ファシスト陣営の相次ぐ失敗とフランス国内の情勢変化(ペタン政府の崩壊,ドゴール政府の権力掌握)により、インドシナのフランス勢力は息を吹き返してきた。
密かなねらいは連合国軍が日本軍攻撃の為インドシナに侵攻する際日本を倒しかつての地位を回復することであった。
日本もこのねらいは察知していたがフランスの権限を奪うことはあえてしなかった。フランスが必ず抵抗し、この時期日本にとって望ましくない深刻な衝突が起きる可能性があると分かっていたからである。こうして日仏両敵国とも再び一時的和解を図ったのである。
しかし、1945年3月9日夜から10日にかけて日本軍はクーデターを決行し、インドシナのフランス勢力は屈辱的な全面降伏をした。
フランスを蹴散らしたのち、「インドシナの各民族の独立を助ける」と日本政府は声明し、親日裏切売国奴一派は「ベトナム独立」をさけんだ。
しかし、その後のあからさまな事実が声明のこけおどしで、ペテンの所以を明らかにしている。
クーデターの4日後10指に上る軍人や政客がフランスに代わってインドシナの総督・理事長官・知事などの地位をしめたのである。
日本は古い権力機構を廃止し、親日派のチャン・チョン・キムにべトナム傀儡政権を作らせ傀儡のバオダイに国王の名称を与えた。この一派も「愛国・愛民」を装うとしたが、次第に無力をされけだした。実際はインドシナの旧総督に代わって日本の「最高顧問」が全ての権限を握っていたからである。
彼らは日本が一層狡猾にかつより多く我が人民から搾取することを許した。
田畑への麻の強制植付けなどは依然として行われ、飢饉は一層深刻となった。
その上に日本の数限りない残虐行為はべトバックにおけるべトミン根拠地への攻撃・逮捕者の拷問・殴打・拘禁・銃殺・陵辱・強奪などにより民衆を恐怖に陥れた。こうして、瞬くうちにファシスト日本の偽りの恩情の姿が明らかとなり、親日傀儡一派の「独立」の仮面がすっかりはがれてしまった。我が人民は日増しに敵国日本を憎み、親日傀儡一派を嫌悪するようになった。
これは メッセージ 20042 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 ベトナムの教科書 1
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 10:43 投稿番号: [20042 / 41162]
ベトナムの教科書
12年生用
「歴史
第1巻」(ベトナム語)
教育省編
第10課
べトミン宣戦と8月総蜂起にいたる革命の高揚
1941〜45年
1. 日仏二重搾取下のインドシナ人民
フランスの実質的な対日降伏とインドシナ人民搾取の為の対日結託
フランスはランソンで日本に降伏して(1940年9月)から明らかに勢力が衰えた。日本はインドシナを植民地化し戦争の基地とするために引き続き地歩を固めた。(ランソン事件=日本軍が突然仏印の北部に侵攻した場所フランス兵300人を殺害したとされる)
1941年7月23日ドゥクー総督は日本と「日本・仏印共同防衛協定」と呼ばれる屈服協定を結びインドシナ全土にわたる日本軍の駐留権を認めた。(この協定により日本軍は南部仏印に進駐した)
1941年7月29日ペタン政府は直接日本と協定を結びインドシナのあらゆる空港と港の軍事目的利用を日本に認めた。(仏印共同防衛議定書)
日本は太平洋戦争を起こすとドゥクー総督にもう一つの協定を強要し以下の点について日本への全面協力を約束させた。つまり、日本軍の行軍を容易ならしめるよう協力すること、日本に食糧を供出し兵舎を建設すること、日本軍の後方基地として安全を保証するためにインドシナ社会の秩序を維持すること、などである。
それ以来、敵国日本とフランスは緊密に結託してインドシナ人民を搾取した。
日本資本主義の企業は日増しにインドシナへの投資を増大させ、商業や工業の多くの分野で活動した。インドシナ産業会社や大南公司などである。
1940年から43年の間に、日本企業の行った投資額は約1億1100万フランにのぼり、フランス企業のインドシナ総投資額の6分の1に達した。
米やトウモロコシなどの主食については、日本はフランス植民地政府に供出させた。
さらに、残酷非道にも日本は戦争に必要な原料を獲得する為に、田畑への麻やヒマの植付けを我が人民に強制した。
インドシナに足を踏み入れて以来、ファシスト日本のあらゆる経済活動は、直接的あるいはフランスを通じて間接的に略奪戦争を遂行する為、資源や食糧を出来る限り多く獲得することであった。
一方フランス植民地主義者は日本に脅迫を受けながらも最大の利益を得るため依然としてさまざまな狡猾な手段を弄した。
まず第一にフランス植民地主義政権はあらゆる「指導経済政策」をとった。これは戦争状態を利用し、インドシナ経済の独占を図り投機を盛んにして我が人民から一層の搾取する為のフランス植民地主義の一手段に過ぎなかった。2番目の手法は増税であった、このため1939年から1945年の間にフランスのインドシナ予算の総収入は倍増した。酒・塩・麻薬による税収入はその間3倍にも達した。
もう一つの非道な政策は、日本への供出用と戦争の備蓄用のための食糧とくに米の強制かつ廉価な買い付けをしたことである。この非道な政策こそ市場における深刻な食糧不足をもたらし、1945年の初頭数ヶ月間に、北部で200万人以上の我が同胞が餓死した直接の原因となった。(200万人はベトナム民主共和国が大戦後、発表した。日本政府は30万人の餓死者を発表)
これは メッセージ 20041 (yominokuni56 さん)への返信です.
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アジアの教科書 シンガポールの教科書2
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 10:27 投稿番号: [20041 / 41162]
5000万ドルの贈り物
日本に反抗した中国人に献金を出させるという罰を課した。
シンガポール、マラヤの中国人社会に対して献金の集金が強いられ、5000万ドルが日本に支払われた。彼らは金を集める為家を売りだしても誰もそれらを買おうとせず、2900万ドルしか集められず、残りは日本の銀行から借りねばならなかった。
ケンペイタイの恐怖
スパイによって日本軍に通報されたものはケンペイタイに連れて行かれ、拷問を受けた。一般的な拷問のひとつは「水責め」であった。とらわれた人は寝かせられ大量の水が鼻から口から流し込まれた、この仕打ちを数週間繰り返し行われた。
食料供給不足と闇市
日本軍がシンガポールを占領した時点では、都市周辺の倉庫には蓄えが二〜3年分は十分持ちこたえられるほど、多量にあった。しかし日本軍はこれらの貯えを取り上げ
、シンガポールの人々にはほとんど残らなかった。
米価格は1941年12月60kgにつき5ドルであったものが1944年3月には200ドル
1945年6月には5000ドルにまで高騰した。
日本人は何でも持っていた、なぜなら、当事使用されていた紙幣は「バナナ紙幣」と呼ばれる日本軍が発行した軍票(1941年12月12日決定の「南方経済対策要綱」に基ずき占領地通貨表示の軍票を発行=正貨準備なく事実上は無価値な紙幣)を好きなだけ印刷し流通させた。その結果シンガポールの外交貿易を行き詰まらせ諸外国との貿易は無に等しくなって行った。
食料不足にともなって、配給制が行われるようなり、米は男性一人につき4.8kg(月)女性は3.6kg子供は2.4kgだけが配給された。1944年初頭には減らされた。栄養不足から多くの人々はベイベリ(脚気)結核、マラリアで悩まされ、また、薬品の不足から死んでいった。
自由の制約
日本軍は英語で話される映画を観ることを禁止した。
新聞、ラジオ放送を監督下においた。
抗日グループ
多数の若者が日本と戦う為に反日ゲリラグループに加わった。
ゲリラグループの指導者リン、ポーセン(華僑抗日義勇隊長)
マレー人民抗日軍(MPAJA)=数千人の中国人、マレー人、インド人
、マラヤ共産党が指揮する。イギリス軍がゲリラの訓練をしていた、これは再度イギリスが再征服する為に準備していた。
日本の占領からの教訓
国家や国民は敵から国を守る為に常に十分な準備をしておくべきだと言う事を学んだ。
外国支配者の排除の必要性について、考える事を学んだ。
リークアンユー(初代首相)
「我が同僚(ともに働いた閣僚)たちは第2次世界大戦と日本の占領を体験した若い世代に属するものであり、だれもー日本人も、イギリス人もー我々を虐待したり酷使したりする権利は持っていないのだ。ということを決心するようになりました。自らの手で自らを治め、そして我々の子供を育てていくことが可能であると心に決めました。そのような国であってこそ、我々は自尊心ある国民であり得るのです」
「権力者はいつも、歴史を隠したがる。日本はアジア解放の為に南下したと言うが、日本人は本当に、そう思っていたのか?。いずれにしても、東南アジアの人々がそれを頼んだり、日本に望んだわけではない。日本が来なくても、我々自らの手で解放しただろう。」シンガポール在住教師
明白な「侵略」を意図して引き起こされた戦争が「結果」として東南アジア諸国の独立を「促進」したからと言って<侵略した側>の民族がこれを「評価」するということは大変おかしな話ではないか。この可笑しな「評価」を被害国から診て考える必要があるのではないだろうか。その必要からアジア諸国の教科書を検証し無ければならない
それが日本人へ課せられた義務なんだよ。ね。
戦争は結果
オ〜〜ライでは決してない
日本はアジアに泥棒に入られない為に
家に鍵をかける必要性を教えただけなのだから、、ね。
これは メッセージ 20040 (yominokuni56 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/20041.html
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