アジアの教科書 フィリッピンの教科3
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/07/14 11:30 投稿番号: [20053 / 41162]
日本軍は何をしたのか
日本軍がマニラを占領した時にバルガスにフィリピン行政府の長になるように命令がきた。7つの省が設置されそのぞれの長にフィルピン人がなった。しかし、どの省にも日本人がいて、フィリピン人の一挙一動を監視していた。
1943年初頭 日本はフィリピンに「大東亜共栄圏」に参加するなら自由にするといった。そして、日本はフィリピンの憲法制定の為フィルピン独立準備委員会を作った。日本はフィリピン独立宣言以前に政党活動を全て禁止し、代わりにカリバピ(新生フィリピン奉仕団)を設け、新しいフィリピン大統領を選出した、がこれは日本の支持によるものだった。
1943年10月14日
ホセ・ラウレルは共和国大統領に就任した、同日、日本と軍事協定(日・比同盟)を結ぶことを強要された。この協定は無意味なものであった。なぜなら、フィリピンは日本に対してはもともと非協力的であったからである。フィリピン人は全国の学校で教えられたアメリカとその民主主義の価値観のほうに忠実であったからである。
ゲリラ
ユサッフェの残軍は山に登り、ゲリラ活動を開始した、ゲリラの数は町や市の市民が加わったりしたので増えつづけた。日本軍の残酷さ ---- -特に地方での女性に対する邪悪な扱い -- -は多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。
ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍はフィリピン市民に対して残酷さを一層加えるようになった。有罪、無罪を問わず捕らえられ、サンティアゴ砦や日本軍が接収し刑務所とした他の施設に送られた。家に帰ることが出来た者にしても、不自由な身体となっていた。
一般市民はゲリラに全面協力し、食糧やお金を与え、また、日本軍の情報を伝えた。ゲリラ活動はルソンに集中しており多勢の指導者はここの出身者であった、有名な人物としてはウェンスラオ・Q・ビンソン、マルセロ・アッドル、テリー・アデボソ、マルコス・V・アグスティンである。
バターン死の行進
16人の将校を含む7万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士がバターンで武器を捨てた。降伏後彼らは勝利者である日本軍の残忍な扱いをうけた 。
飢え、渇き、病、疲労で極度に衰弱していたにもかかわらず、彼らはバターンのマリベレスからパンパンガのサン・フェルナンドまで約80kmの全工程を行進するよう強制された。この悪名高き「死の行進」中フィリピン人約1万人アメリカ人約1200人が路上で死亡した。サン・フェルナンドで生存者は有蓋貨車に詰め込まれ、ターラックのキャパスあったオドンネル、キャンプにつれて行かれ収容された。その結果、飢えや病気でほとんどが死亡した。最終的に家族の下に帰れたのはごく少数の人たちであった。
(バターンのマリベスから鉄道のあるサン・フェルナンドまで80kmの道のりで捕虜達はそこを5〜6日がかりで移動させられた。サン・フェルナンドからフタつきの貨車でカパスまで運ばれ、カパスから再びオドンネルキャンプまで12kmを歩かされた)
日本の軍政
日本軍マニラ侵入の翌日1942年1月2日 日本の軍事政権がフィリピンの政治,経済,文化活動を指揮するために設置された。第一主任将校にハヤシ・ヨシヒデ 第2.第3にタカギ・ワイチ各陸軍少将が就任した。
東京からの命令を実行して日本軍事政権はいくつかの規定を定め無力なフィリピン人はそれに従わざるを得なかった。夜間外出禁止令および灯火管制が全マニラに施行され、戒厳令がしかれた。火器、弾薬、その他の武器全てが没収され、日本軍に敵対するいかなる行動も処罰の対象になった。日本人一人を殺せば有力なフィリピン人を二人射殺するという軍の布告が出された。
全てが日本の支配下に置かれた。日本の「軍票」がフィリピン通貨に換わって配布された。
日本軍がマニラを占領した時にバルガスにフィリピン行政府の長になるように命令がきた。7つの省が設置されそのぞれの長にフィルピン人がなった。しかし、どの省にも日本人がいて、フィリピン人の一挙一動を監視していた。
1943年初頭 日本はフィリピンに「大東亜共栄圏」に参加するなら自由にするといった。そして、日本はフィリピンの憲法制定の為フィルピン独立準備委員会を作った。日本はフィリピン独立宣言以前に政党活動を全て禁止し、代わりにカリバピ(新生フィリピン奉仕団)を設け、新しいフィリピン大統領を選出した、がこれは日本の支持によるものだった。
1943年10月14日
ホセ・ラウレルは共和国大統領に就任した、同日、日本と軍事協定(日・比同盟)を結ぶことを強要された。この協定は無意味なものであった。なぜなら、フィリピンは日本に対してはもともと非協力的であったからである。フィリピン人は全国の学校で教えられたアメリカとその民主主義の価値観のほうに忠実であったからである。
ゲリラ
ユサッフェの残軍は山に登り、ゲリラ活動を開始した、ゲリラの数は町や市の市民が加わったりしたので増えつづけた。日本軍の残酷さ ---- -特に地方での女性に対する邪悪な扱い -- -は多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。
ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍はフィリピン市民に対して残酷さを一層加えるようになった。有罪、無罪を問わず捕らえられ、サンティアゴ砦や日本軍が接収し刑務所とした他の施設に送られた。家に帰ることが出来た者にしても、不自由な身体となっていた。
一般市民はゲリラに全面協力し、食糧やお金を与え、また、日本軍の情報を伝えた。ゲリラ活動はルソンに集中しており多勢の指導者はここの出身者であった、有名な人物としてはウェンスラオ・Q・ビンソン、マルセロ・アッドル、テリー・アデボソ、マルコス・V・アグスティンである。
バターン死の行進
16人の将校を含む7万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士がバターンで武器を捨てた。降伏後彼らは勝利者である日本軍の残忍な扱いをうけた 。
飢え、渇き、病、疲労で極度に衰弱していたにもかかわらず、彼らはバターンのマリベレスからパンパンガのサン・フェルナンドまで約80kmの全工程を行進するよう強制された。この悪名高き「死の行進」中フィリピン人約1万人アメリカ人約1200人が路上で死亡した。サン・フェルナンドで生存者は有蓋貨車に詰め込まれ、ターラックのキャパスあったオドンネル、キャンプにつれて行かれ収容された。その結果、飢えや病気でほとんどが死亡した。最終的に家族の下に帰れたのはごく少数の人たちであった。
(バターンのマリベスから鉄道のあるサン・フェルナンドまで80kmの道のりで捕虜達はそこを5〜6日がかりで移動させられた。サン・フェルナンドからフタつきの貨車でカパスまで運ばれ、カパスから再びオドンネルキャンプまで12kmを歩かされた)
日本の軍政
日本軍マニラ侵入の翌日1942年1月2日 日本の軍事政権がフィリピンの政治,経済,文化活動を指揮するために設置された。第一主任将校にハヤシ・ヨシヒデ 第2.第3にタカギ・ワイチ各陸軍少将が就任した。
東京からの命令を実行して日本軍事政権はいくつかの規定を定め無力なフィリピン人はそれに従わざるを得なかった。夜間外出禁止令および灯火管制が全マニラに施行され、戒厳令がしかれた。火器、弾薬、その他の武器全てが没収され、日本軍に敵対するいかなる行動も処罰の対象になった。日本人一人を殺せば有力なフィリピン人を二人射殺するという軍の布告が出された。
全てが日本の支配下に置かれた。日本の「軍票」がフィリピン通貨に換わって配布された。
これは メッセージ 20052 (yominokuni56 さん)への返信です.