清代になってから台湾島の西南部を領域に
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/07 21:15 投稿番号: [9107 / 9207]
☆
今(清代になって)、版図に入っているのは……台湾島の西南部のみ、
台湾通志は清末台湾にて編纂されたものである。清の官僚郭起元による「慎防守議」が収録されている。要約する
と「全台湾三千余里、版図に入っているのは二千余里近くでそれ以外は生蕃が雑居し、状態は予測を許さないもの
がある」と報告されている。日本側の認識と一致している。
鄭若曽の琉球国図をみてもわかるとおり、琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域と明はかつ
てみなしていた。ただ実際には当時も澎湖島や台湾島には琉球国の力は及んでいなかった。そこへ明代に進出して
じわじわと漢民族が領域を広げていったという形になっている。しかし東番はずっと存在していたのである。
台湾島の東部は、清国から東番と呼ばれ、長らく別の国であるとみなされていた。琉球と「台湾府」の間には東番
という国があったのである。だからこそ琉球と中国は接壌の状態にあるとは相互に認識されなかったのである。
しかし明代にも徐々に漢民族の居住地域が拡大しつつあった。
清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。そして次第に漢民族が
先住民族を圧迫し、あるいは同化し、その支配領域を拡大して行きつつあった。漠然と開拓が進んでいくのを清国政
府はむしろ長らく押しとどめようとしていた。蕃界への立入りを禁じたのであった。しかし開拓は進んでいった。花綵列
島のすべての地の分割がやがて完成するはずである。
だが十九世紀後期においても、まだかなり支配の及んでいない地域が東部に存在していた。台湾、東番、琉球と
いう「国」が花綵列島のこの地域に存在していたのである。清国が台湾島のこの曖昧な領域をなんとかしなければな
らないと思うようになったのは、勿論、列強の進出に対抗せねばならなくなったときである。そして東番の存在を否定
するようになった。明治新政府は、東番を存在するとみなした。西から手を伸そうとしたのである。清国と日本はこの
領域で争った。台湾島原住民居住地域の取合いが起きることになる。列強は日本を支持しなかった。大陸に列強が
勢力を拡大することを考慮してみると、日本の臺灣獲得は明らかに計画の邪魔となるからである。琉球諸島が日本
に帰属するのさえ、実はかなり邪魔であった。ましてそれ以上南に日本の力が伸びることは好ましくないのであっ
た。臺灣そのものにも列強は関心をもっていた。中国のものとしておけば、はいりこむ機会が将来あるかもしれない
のである。
明治初期はまだ先住民支配地域は確固として存在していた。だから周辺にある無人島の帰属も曖昧なままだっ
た。しかしやがてこの帰属曖昧な土地の帰属も完全に定るはずであった。清国と琉球は隣接することになるはずであ
る。だが清国と琉球は隣接することなく、終ったのである。両国の間にある帰属曖昧な土地は、分割されずじまいで
あった。間に先住民地域がある状態で、やがて日清戦争が起きる。
* 台湾島の東部は、清国から東番と呼ばれ、長らく別の国であるとみなされていた。清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。
台湾通志は清末台湾にて編纂されたものである。清の官僚郭起元による「慎防守議」が収録されている。要約する
と「全台湾三千余里、版図に入っているのは二千余里近くでそれ以外は生蕃が雑居し、状態は予測を許さないもの
がある」と報告されている。日本側の認識と一致している。
鄭若曽の琉球国図をみてもわかるとおり、琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域と明はかつ
てみなしていた。ただ実際には当時も澎湖島や台湾島には琉球国の力は及んでいなかった。そこへ明代に進出して
じわじわと漢民族が領域を広げていったという形になっている。しかし東番はずっと存在していたのである。
台湾島の東部は、清国から東番と呼ばれ、長らく別の国であるとみなされていた。琉球と「台湾府」の間には東番
という国があったのである。だからこそ琉球と中国は接壌の状態にあるとは相互に認識されなかったのである。
しかし明代にも徐々に漢民族の居住地域が拡大しつつあった。
清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。そして次第に漢民族が
先住民族を圧迫し、あるいは同化し、その支配領域を拡大して行きつつあった。漠然と開拓が進んでいくのを清国政
府はむしろ長らく押しとどめようとしていた。蕃界への立入りを禁じたのであった。しかし開拓は進んでいった。花綵列
島のすべての地の分割がやがて完成するはずである。
だが十九世紀後期においても、まだかなり支配の及んでいない地域が東部に存在していた。台湾、東番、琉球と
いう「国」が花綵列島のこの地域に存在していたのである。清国が台湾島のこの曖昧な領域をなんとかしなければな
らないと思うようになったのは、勿論、列強の進出に対抗せねばならなくなったときである。そして東番の存在を否定
するようになった。明治新政府は、東番を存在するとみなした。西から手を伸そうとしたのである。清国と日本はこの
領域で争った。台湾島原住民居住地域の取合いが起きることになる。列強は日本を支持しなかった。大陸に列強が
勢力を拡大することを考慮してみると、日本の臺灣獲得は明らかに計画の邪魔となるからである。琉球諸島が日本
に帰属するのさえ、実はかなり邪魔であった。ましてそれ以上南に日本の力が伸びることは好ましくないのであっ
た。臺灣そのものにも列強は関心をもっていた。中国のものとしておけば、はいりこむ機会が将来あるかもしれない
のである。
明治初期はまだ先住民支配地域は確固として存在していた。だから周辺にある無人島の帰属も曖昧なままだっ
た。しかしやがてこの帰属曖昧な土地の帰属も完全に定るはずであった。清国と琉球は隣接することになるはずであ
る。だが清国と琉球は隣接することなく、終ったのである。両国の間にある帰属曖昧な土地は、分割されずじまいで
あった。間に先住民地域がある状態で、やがて日清戦争が起きる。
* 台湾島の東部は、清国から東番と呼ばれ、長らく別の国であるとみなされていた。清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。
これは メッセージ 9106 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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