竹島渡海一件 松島へ行くという口実で
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/12 12:07 投稿番号: [9116 / 9207]
当時の浜田藩は財政がひっ迫していました。そのことを知った八右衛門は浜田藩勘定方橋本三兵衛に、「竹島に渡って自然のまま放置されている竹木を伐採し、海産物を持ちかえれば藩の利益になります」、「私が今まで見た地図には竹島は白のままで朝鮮国の色も塗ってないので、島の所属はないと思われます」、「お国のためと思ってした事で命がなくなるのなら、喜んで死にましょう」と語ったと、森須和男氏はその著『八右衛門とその時代』に書かれています。この計画には、さらに浜田藩家老岡田頼母(おかだたのも)や年寄役松井図書(まついずしょ)も加わり、最終的には藩主松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)の決裁を仰ぐことになりました。康任は当時幕府の筆頭老中という要職にあり、江戸住まいでした。まもなく江戸屋敷から「竹島は日の出の土地(日本)とは定め難いが松島なら良い」、「持ち帰った物は大坂以東へ流出させてはならない」と渡海を許可しているともとれる含みのある回答がありました。
喜んだ八右衛門等は、松島へ行くという口実で実際には竹島へ行く計画を練り上げ、八右衛門と資金提供の淡路屋善兵衛、重助、新兵衛、久米蔵、音五郎、安吉、新作という水主の8人で、浜田を天保4(1833)年6月15日出港しました。直接竹島を目指しましたが、強風と悪天候で長州の見島へ流されてしまいました。やむを得ず海岸沿いに東上し、隠岐へ渡って大谷・村川家が70余年にわたって竹島渡海の基地にしていた福浦に到着しました。順風を待って7月17日福浦を出港、まず松島が見えてきましたが、岩礁だけの島であることを知っていましたので、上陸せず直接竹島を目指し同月21日到着しました。
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「竹島は日の出の土地(日本)とは定め難いが松島なら良い。喜んだ八右衛門等は、松島へ行くという口実で実際には竹島へ行く計画を練り上げ、
これは メッセージ 9115 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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