日韓歴史論争

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>歴然

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/03/08 13:12 投稿番号: [1033 / 6952]
どこがどう歴然なんでしょ?

私にはとてもこの写真のみで歴然などとは見えません。
いや、世界中で歴然と見えるのは朝鮮人の目からのみではないでしょうか?

トレック氏はどうも理性は中立を保とうと努力しているようですが感情が大きくじゃまをしているように見えます。
同様なことは日本人にも当然私にもありますが...程度が違いすぎる気がします。

ご自分で客観的にもう一度写真を見直してはいかがでしょう?

顔の腫れ?

投稿者: buntyutaisi 投稿日時: 2004/03/08 12:15 投稿番号: [1032 / 6952]
http://japanese.joins.com/html/2004/0229/20040229211323400.html

梨花(イファ)学堂・普通科を卒業する当時の1918年3月末の姿とみられる写真が初めて公開された。

とあります。

この写真を見ても、彼女ははじめから太っていたのは明らかですね。

梨花を出たということからも、かなり裕福な家庭で食事に不自由のない生活を送っていたことは間違いのないようです。

>後列右端が柳寛順、これを拡大して精密に模写したのがその右の絵。

これは同じものに見えませんね。

ただ先に書いたとおり、拷問による衰弱死説を私はとります。

>>>拷問

投稿者: kusuo1 投稿日時: 2004/03/08 11:43 投稿番号: [1031 / 6952]
3.1事件の起こった年の1919年5月10日現在、朝鮮の全刑務所(監獄8・分監12)には定員を上回る8437名が収監されていた。
柳寛順が拷問を受けて死亡したとすると、他にも大勢の人が同じように拷問により獄中死しているはずだが?
それとも他の朝鮮人は腰抜けばかりだったのか?

>>拷問

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/03/08 11:00 投稿番号: [1030 / 6952]
拷問の証拠は歴然としている。
前にも紹介した写真だが、左上の獄中写真と逮捕される前の写真を比較すれば、一目瞭然。

http://metgol.netian.com/cmanhang1-yugansoon.htm

上から2番目の集合写真、後列右端が柳寛順、これを拡大して精密に模写したのがその右の絵。一番上の獄中写真と比べてみると、逮捕前はほっそりした顔立ちなのに、逮捕後は太ったようにも見える。しかし、獄中で太るわけはない。顔が膨れ上がり、ひん曲がっているのだ。目の周りも腫れ上がっている。拷問の後は歴然としている。恩赦前に殺されるほどの拷問を受けたのは、逮捕されても反省の色がなく、獄中で独立万歳を叫んだりし、屈服しなかったからだ。

>拷問

投稿者: buntyutaisi 投稿日時: 2004/03/08 10:19 投稿番号: [1029 / 6952]
小林多喜二などの”アカ”が特高(でしたっけ?)に拷問されて殺されたのは周知の話です。

当時の警察や憲兵がアカやテロリストである柳寛順を拷問したところでなんら不思議はないと私は考えます。

>凶悪犯でもない、年少の女性に拷問して情報が得られると思えないので、


俗に3.1運動といわれる暴動を扇動したのですから凶悪犯の扱いをされてもしかたがないのでは?

少女だからというのは現代の価値観だと考えます。


まあこれが中国の話だったら私も>獄中で病死したものを脚色して英雄に祭り上げた   を取るでしょうがね。

>>>柳寛順

投稿者: kusuo1 投稿日時: 2004/03/08 09:18 投稿番号: [1028 / 6952]
>拷問によって命を縮めたというのは信じてよいでしょう。

拷問による死ではなく、獄中で病死したものを脚色して英雄に祭り上げた(イラクでも同じような女性がいたが)と何かに書いてあった記憶がある。
凶悪犯でもない、年少の女性に拷問して情報が得られると思えないので、拷問をされたとは考えにくい。

>>柳寛順

投稿者: buntyutaisi 投稿日時: 2004/03/08 03:03 投稿番号: [1027 / 6952]
逮捕されてから拷問されたとありますが、その内容は知りません。

恩赦を2〜3日後に控えた日に死んだとあります。


そして四肢を切断の上樽に詰められて返されたという話を信じる韓国人も多いようですが、これは話を大げさにするための嘘であり、資料からも四肢を切断したというものはないとされているというのを何かで読んだ覚えがあります。


安重根の話もずいぶん大げさになっているものもありますし、ある程度差っぴいて見なければなりませんね。



小林多喜二の例もありますし、拷問によって命を縮めたというのは信じてよいでしょう。

>柳寛順

投稿者: nash_8242002 投稿日時: 2004/03/08 00:22 投稿番号: [1026 / 6952]
逮捕されてからの詳しい内容はどうして知れ渡ったんでしょうか。

日本の警察のなかで内通者がいたんでしょうか。

それとも生き返って告げることができたんでしょうか。

そのいきさつが知りたいな。

比較のまとめ

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/03/05 03:41 投稿番号: [1025 / 6952]
当時の極東アジアの勢力、過去レスから考え、過去レスにあった国、地域の力関係は

中国>日本>薩摩>琉球>朝鮮

これでよろしいですか?

あげときます

投稿者: agetai_topi_desu 投稿日時: 2004/03/04 17:17 投稿番号: [1024 / 6952]
良トピageます。

>結局

投稿者: kusuo1 投稿日時: 2004/02/29 19:11 投稿番号: [1023 / 6952]
整理すると
日本>薩摩>琉球
中国>琉球
中国>朝鮮
琉球>朝鮮   (中国の朝貢国の順位)
∴中国>琉球>朝鮮

結局

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/29 18:25 投稿番号: [1022 / 6952]
中国と朝鮮、日本と薩摩の比較論を
中国がどう思ってるか以外からの検証はないわけだね。

朝鮮が一地方領主とは言葉のアヤだろうが中国の属国と言う意味では薩摩の属国であった琉球とも比較対象になるのは避けがたいな。

整理すると
日本>薩摩>琉球
中国>琉球
中国>朝鮮
朝鮮=琉球   (中国から見ると)

算数で考えたら小学生でもわかりそうだが...

トレックは脳内電波がじゃましてるなら全てを変数に置き換えて解を求めてみるのも良いかも知れんな。

まあ、話題を変えようと必死みたいだから、追求するのもちょっと可哀想ではあるが。

柳寛順の写真

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/29 18:13 投稿番号: [1021 / 6952]
もっと鮮明な写真はこれ。

左上、西大門刑務所の受刑記録簿に残る柳寛順。

http://metgol.netian.com/cmanhang1-yugansoon.htm

ついでに韓国のジャンヌ・ダルク柳寛順烈士の略歴も。

http://www.geocities.com/seoul_ryojun/yugwansun.html

おっと

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/29 17:32 投稿番号: [1020 / 6952]
柳寛順(ユ・グァンス)だった。

柳順寛の卒業写真

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/29 17:27 投稿番号: [1019 / 6952]
明日は3・1節だが、柳順寛の梨花学堂卒業写真が見つかったとして公表された。

http://www.chosun.com/w21data/html/news/200402/200402290032.html

柳寛順烈士が梨花学堂普通科を卒業する当時の姿を撮ったと推定される写真が初めて公開された.
国家保勳処は29日3・1節85周年を迎え柳寛順烈士が物故1年前の1918年3月末撮影したと推定される写真を確保,学界と生存同窓生の確認を通して公開した.

この写真は柳寛順烈士の梨花学堂同窓生であるムン・ピルウォン女士(物故)の息子であると同時に2004年「6月の独立運動家」に選定されたムン・ヤンモク先生の外孫であるイ・ピルウン(73)翁が去年12月お母さんの遺品を整理していて発見,人物と撮影年代などを報勳処に問い合わせたところ日の目を見ることとなった.

>生存同窓生

いれば100歳を越えてるなあ。

薩摩と朝鮮

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/29 14:02 投稿番号: [1018 / 6952]
例え中国から見たとしても
明軍に「鬼石曼子」と恐れられた薩摩と戦わずに降伏してしまう朝鮮軍を比べれば答えは歴然としているな。

国の上下関係は軍事力。それは今も昔も変わらない。ゴミのような北朝鮮でさえ核をもてば米ソ中日と言う大国に相手にしてもらえる。
いわんやすぐ降伏する朝鮮の価値など認められてないのは簡単に想像できるな。琉球と同じとまでは思わんが、薩摩と同じか下だな。
まあ、朝鮮通信使なんかで日本の格下であることを自分たちから告白しているのではあるが。

ぎゃっはっは

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/29 13:45 投稿番号: [1017 / 6952]
トレックの脳内妄想では
-- ->WW2の日本の降伏と姜弘立の降伏を同じ次元に捏造
-- ->日本と薩摩、中国と朝鮮の比較関係が中国がどう思うかに曲解
-- ->極東アジアの国、地方の比較がいつのまにか宇宙を支配する話に飛躍

ぎゃっはっはっは..笑いが止まらん。

これじゃ歴史を論じるのは10年どころか半万年たっても無理だろ。

>朝鮮王は実質的に明の地方領主

投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/29 11:30 投稿番号: [1016 / 6952]
>>>>>>>>>朝鮮半島の集団は、元の一部になったり、明の一部になったり、後金(清)の一部になったり、日本の一部になったりという具合に独立国家というよりは、常に周辺の強国の一地方領主だったわけです。
>>>>>>>>中華帝国内の「地方領主」と外国の朝貢国は当時でもはっきり区別されています。中華帝国の地方行政は中央から派遣された官僚が行いますが、辺境の少数民族地区では例外的に世襲制の地方領主に官職を与え、自治を認める制度もあった。これを「土司」という。特に中国南部の苗族、壮族、イ族、タイ族などに多く、東北の女真族も「土司」の扱いです。ヌルハチはこの土司から身を起こして、明帝国に叛旗を翻した。したがってヌルハチの場合は明帝国の地方領主だったといえる。
>>>>>>>例えば薩摩が仕えた政権は、源氏→北条氏→足利氏→豊臣氏→徳川氏→薩長土肥が中心となって創られた明治政府。朝鮮半島の王朝が仕えた政権は、唐→契丹→金→元→明→清→薩長土肥が中心となって創られた明治政府。日本の一地方と朝鮮を比較してみると、非常に酷似していますね。朝鮮王は独立国の国王というよりは、実質的には巨大な地方領主だったのでしょう。
>>>>>>>薩摩といえば明代の初め頃に島津氏が中国に使節を派遣し、朝貢貿易をしたいと願い出たが、朝貢とは国君にのみ認められるもので、一地方の守臣ではダメだと相手にされなかった。一国の君主である朝鮮国王と薩摩の守では格が違うのは東アジアの外交世界では常識。日朝国交回復だって一対馬の守ではどうにもならず、朝鮮政府と家康の話し合いを待つしかなかった。
>>>>>>明帝国の支配下における国(朝鮮)にとっては明の格付けは重要だったのでしょう。しかし、日本は明の支配下にいないのでそんな格ずけは意味がありません。朝鮮は徳川に仕えていた訳ではく、明のみに仕えていたので明は対面が保てました。島津は徳川幕府の一地方領主だったので明は外交関係を結ぶと対面が保てませんでした。しかし明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。
>>>>>島津は明への朝貢をにべもなく断られても中国貿易がしたくてたまらなかった。戦国時代なら倭寇で荒らし回れたが、統一政権ができると海賊稼業はできない。それで中国の朝貢国だった琉球に目を付けてこれを征服し、中国には琉球は独立国のように見せかけ、琉球を中国貿易のダミーとして使ったのだ。明の使者が琉球にくると薩摩の番人はこそこそと目に付かない村に隠れたという。中国は薩摩の琉球支配を公然と認めていたのではないから、薩摩は隠れ支配者だった。こんなことをするから日本人は狡猾だといわれるんだ。だから
>>>>別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。
>>>こんなことは君の妄想電波でしかない。
>>ははは    都合の悪いことは電波になるんだね。明帝国のものの見方が全てじゃ無いんだよ。朝貢国ということでは朝鮮と琉球は同格!ということは琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上という見方も可能だ。島津の上にある江戸幕府は更に上。天皇はそのまた上。見方によっては朝鮮王は天皇の下の下のも一つ下って見方も可能だね。歴史を教科書道理の一方通行の見方と朝鮮に都合の良い歪曲の組み合わせしか見れないのだね。
>宇宙を支配する大日本超帝国ってとこか。妄想もここまでくれば、病院に行った方がいい。


歴史はいろんな見方(明の見方だけじゃない)が出来るって話をしてたのに、一部だけを抜き出して↓病院へ行けってか?呆れてものも言えないよ!

>>朝貢国ということでは朝鮮と琉球は同格!ということは琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上という見方も可能だ。島津の上にある江戸幕府は更に上。天皇はそのまた上。
>宇宙を支配する大日本超帝国ってとこか。妄想もここまでくれば、病院に行った方がいい。

妄想電波

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/29 10:28 投稿番号: [1015 / 6952]
>朝貢国ということでは朝鮮と琉球は同格!ということは琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上という見方も可能だ。島津の上にある江戸幕府は更に上。天皇はそのまた上。


宇宙を支配する大日本超帝国ってとこか。

妄想もここまでくれば、病院に行った方がいい。

れ:地方領主

投稿者: jaway 投稿日時: 2004/02/29 09:12 投稿番号: [1014 / 6952]
>アメリカにいわれていやいやイラクに出兵する韓国や日本もアメリカの属国となってしまいます。

情報/物流の早さが現在は早いですから地球の半分がアメリカの属国になっちゃってるかも知れませんね。

>外交関係のしがらみの中では嫌でも出兵せざるをえないこともあるのです。

自力で中立を保てない悲しい国では仕方が無いです。

朝鮮王は明の地方領主なのか?

投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/29 09:01 投稿番号: [1013 / 6952]
>>明帝国の支配下における国(朝鮮)にとっては明の格付けは重要だったのでしょう。しかし、日本は明の支配下にいないのでそんな格ずけは意味がありません。
朝鮮は徳川に仕えていた訳ではく、明のみに仕えていたので明は対面が保てました。島津は徳川幕府の一地方領主だったので明は外交関係を結ぶと対面が保てませんでした。
しかし明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。
別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。
>島津は明への朝貢をにべもなく断られても中国貿易がしたくてたまらなかった。戦国時代なら倭寇で荒らし回れたが、統一政権ができると海賊稼業はできない。それで中国の朝貢国だった琉球に目を付けてこれを征服し、中国には琉球は独立国のように見せかけ、琉球を中国貿易のダミーとして使ったのだ。明の使者が琉球にくると薩摩の番人はこそこそと目に付かない村に隠れたという。中国は薩摩の琉球支配を公然と認めていたのではないから、薩摩は隠れ支配者だった。こんなことをするから日本人は狡猾だといわれるんだ。だから
>>別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。
>こんなことは君の妄想電波でしかない。

ははは    都合の悪いことは電波になるんだね。明帝国のものの見方が全てじゃ無いんだよ。朝貢国ということでは朝鮮と琉球は同格!ということは琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上という見方も可能だ。島津の上にある江戸幕府は更に上。天皇はそのまた上。
見方によっては朝鮮王は天皇の下の下のも一つ下って見方も可能だね。歴史を教科書道理の一方通行の見方と朝鮮に都合の良い歪曲の組み合わせしか見れないのだね。


>満州族に抵抗する国姓爺・鄭成功が日本に出師を求めてきても断っている。海外など行く気はなかったんだ。まして朝鮮にまた戦争を仕掛けるなどなどありえない。

清と事を構えたくなかっただけだよ。「海外など行く気はなかったんだ。」なんて勝手に決め付けるな。


>>また、1637、8年にあった島原の乱が日本の鎖国と大きく関係しているのでは。
>全く日本史もわからんようだな。島原の乱以前からキリスト教禁教、日本人の海外渡航禁止、スペイン人の追放と鎖国体制は着々と進んでいた。島原の乱でポルトガル人が追放され、鎖国体制が完成したことくらい日本人なら高校生でも知っている。こりゃ高校生以下のレベルだな。歴史の議論など10年早いよ。

間違ったことをレスしてないよ。自分が不利になると逆切れか?そういうスタンスしかとれないのでは歴史の議論など10年早いよ。

朝鮮王は独立国の国王というよりも実質的には巨大な地方領主というに相応しい。
朝鮮王を巨大な地方領主と見ると、朝鮮王の取った外交、軍事等の多くのことで辻褄が合います。独立国家の国王として議論すること自体、見直す必要があります。

ええっ?

投稿者: jaway 投稿日時: 2004/02/29 01:28 投稿番号: [1012 / 6952]
>中国は薩摩の琉球支配を公然と認めていたのではないから、

中国ってそんな外交音痴だったの?

>琉球

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/29 00:39 投稿番号: [1011 / 6952]
>また、1637、8年にあった島原の乱が日本の鎖国と大きく関係しているのでは。

全く日本史もわからんようだな。島原の乱以前からキリスト教禁教、日本人の海外渡航禁止、スペイン人の追放と鎖国体制は着々と進んでいた。島原の乱でポルトガル人が追放され、鎖国体制が完成したことくらい日本人なら高校生でも知っている。こりゃ高校生以下のレベルだな。歴史の議論など10年早いよ。
家康は海外貿易促進派で英人ウィリアム・アダムスや蘭人ヤン・ヨーステンを幕臣に取り立て、朱印船を東南アジア各地に派遣するなど海外には積極的だった。朝鮮との善隣友好を掲げて国交回復に踏み切ったのもそうだ。しかし、秀次、家光はだんだん内向きになり、満州族に抵抗する国姓爺・鄭成功が日本に出師を求めてきても断っている。海外など行く気はなかったんだ。まして朝鮮にまた戦争を仕掛けるなどなどありえない。

>明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。

島津は明への朝貢をにべもなく断られても中国貿易がしたくてたまらなかった。戦国時代なら倭寇で荒らし回れたが、統一政権ができると海賊稼業はできない。それで中国の朝貢国だった琉球に目を付けてこれを征服し、中国には琉球は独立国のように見せかけ、琉球を中国貿易のダミーとして使ったのだ。明の使者が琉球にくると薩摩の番人はこそこそと目に付かない村に隠れたという。中国は薩摩の琉球支配を公然と認めていたのではないから、薩摩は隠れ支配者だった。こんなことをするから日本人は狡猾だといわれるんだ。だから

>別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。

こんなことは君の妄想電波でしかない。

琉球

投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/28 23:05 投稿番号: [1010 / 6952]
>>朝鮮にしてみれば、日本を再統一した徳川家の新将軍が、再び第三次朝鮮出兵を行うと言い出すかもしれないという不安も大きかったのでしょう。
>1604年伏見城で家康と会見させた。家康は善隣友好を打ち出し、朝鮮との国交回復を望んだので、1607年最初の通信使が来日して漸く日朝の国交回復が実現した。
>日朝関係の要になっている対馬はまた国交断絶になってはかなわないので、朝鮮に軍事的プレッシャーをかけることなどありえない。また1936年から7年といえば日本の鎖国制度が完成する寸前

また何やら歪曲臭いコピペですね。
対馬が何といおうが窓口でしかない。決めるのは江戸。
家康の豊臣との講和条件は大阪城の外堀を埋めることだったが一気に内堀まで埋めてしまった。家康の言うことをそんなに信じちゃっていいの?
いずれにしろ友好といった家康は死んじゃったしね。
また、1637、8年にあった島原の乱が日本の鎖国と大きく関係しているのでは。


>薩摩といえば明代の初め頃に島津氏が中国に使節を派遣し、朝貢貿易をしたいと願い出たが、朝貢とは国君にのみ認められるもので、一地方の守臣ではダメだと相手にされなかった。一国の君主である朝鮮国王と薩摩の守では格が違うのは東アジアの外交世界では常識。日朝国交回復だって一対馬の守ではどうにもならず、朝鮮政府と家康の話し合いを待つしかなかった。

明帝国の支配下における国(朝鮮)にとっては明の格付けは重要だったのでしょう。しかし、日本は明の支配下にいないのでそんな格ずけは意味がありません。
朝鮮は徳川に仕えていた訳ではく、明のみに仕えていたので明は対面が保てました。島津は徳川幕府の一地方領主だったので明は外交関係を結ぶと対面が保てませんでした。
しかし明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。
別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。

おやおや

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/28 23:01 投稿番号: [1009 / 6952]
>>例えば薩摩が仕えた政権は
bigboy_satan0 さんは日本と薩摩   中国と朝鮮の関係で論じてるのにいつもまにか中国がどう思うかに論点が変わってるぞ。
WW2の日本の降伏と姜弘立の降伏を同じ次元にしてしまう君らしいな。


>それでも背に腹は変えられないから、戦争で日本に捕まった朝鮮人を送還するなどして拝み倒し、ようやく朝鮮使節を来日させ、

なるほど、朝鮮は日本の一地方領主が拝めば国家使節を出すのはよくわかったよ。
さすがに戦わずに降伏する朝鮮らしいな。

日朝国交回復

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 21:18 投稿番号: [1008 / 6952]
>朝鮮にしてみれば、日本を再統一した徳川家の新将軍が、再び第三次朝鮮出兵を行うと言い出すかもしれないという不安も大きかったのでしょう。

朝鮮の役の後、日朝の国交が断絶して一番困ったのは対馬の宗氏。対馬は米なんかほとんど取れないから、昔から朝鮮との貿易で食べてきた。ところが戦争のあおりで国交が途絶し、貿易もだめ。なんとかしてくれと朝鮮に使者を送り込んだが、最初に行った使者は帰らず、その次の使者も、、、。朝鮮の役で日本軍の先兵となった宗氏を朝鮮が許すはずがない。それでも背に腹は変えられないから、戦争で日本に捕まった朝鮮人を送還するなどして拝み倒し、ようやく朝鮮使節を来日させ、1604年伏見城で家康と会見させた。家康は善隣友好を打ち出し、朝鮮との国交回復を望んだので、1607年最初の通信使が来日して漸く日朝の国交回復が実現した。対馬は釜山の豆毛浦に倭館の建設が許され、翌年から日朝貿易も始まった。貿易は中国製の生糸や絹織物、朝鮮の人参などを日本に輸出し、日本からは主に銀を朝鮮に輸出するというものだった。朝鮮は対馬から日本の情報は聞いていたから、将軍が変わってもまた攻めてくるとは考えていない。日朝関係の要になっている対馬はまた国交断絶になってはかなわないので、朝鮮に軍事的プレッシャーをかけることなどありえない。また1936年から7年といえば日本の鎖国制度が完成する寸前、中国のマカオから来るポルトガル人を長崎から追放すれば、中国製品の入手は困難になる。(オランダは中国に拠点をもっていない。)中国製品輸入のバイパス・ルートである釜山貿易の重要性はさらに増そうという時期だった。

>例えば薩摩が仕えた政権は

薩摩といえば明代の初め頃に島津氏が中国に使節を派遣し、朝貢貿易をしたいと願い出たが、朝貢とは国君にのみ認められるもので、一地方の守臣ではダメだと相手にされなかった。一国の君主である朝鮮国王と薩摩の守では格が違うのは東アジアの外交世界では常識。日朝国交回復だって一対馬の守ではどうにもならず、朝鮮政府と家康の話し合いを待つしかなかった。

一言で

投稿者: onbinni710 投稿日時: 2004/02/28 20:36 投稿番号: [1007 / 6952]
降伏といっても経緯によってだいぶ評価は違うと思うが
そんなことより日本降伏時のこといったら朝鮮には
勝ち馬に乗りたがって戦勝国だなんてほざいて周囲を呆れさせた
っていう名を惜しまず実もむさぼれないいっそう情けない評価がくっつきますが

 ビンラディン拘束

投稿者: ikasamaawor1dcup 投稿日時: 2004/02/28 20:16 投稿番号: [1006 / 6952]


      ビンラディン拘束


>地方領主

投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/28 20:16 投稿番号: [1005 / 6952]
>>朝鮮が独立国家で出兵がいやなら参戦を断れば済むことです。何故参戦を拒否できなかったのかといえば、朝鮮が独立国家というよりも明帝国内の一地方領主的性格が強かったからでしょう。
>そんなことを言えば、アメリカにいわれていやいやイラクに出兵する韓国や日本もアメリカの属国となってしまいます。外交関係のしがらみの中では嫌でも出兵せざるをえないこともあるのです。

1615年の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡して家康が完全に日本を統一。1616年家康没。同年ヌルハチは後金を建国。サルフの戦いは1619年という具合に短期間に東アジアの情勢は大きく変化しています。
朝鮮にしてみれば、日本を再統一した徳川家の新将軍が、再び第三次朝鮮出兵を行うと言い出すかもしれないという不安も大きかったのでしょう。
朝鮮にしてみれば新興の後金よりも、2度の朝鮮出兵で2回とも派兵してくれた実績のある明帝国との関係は非常に重要。そのことが後金につかずに明についた一因なのでしょう。

また、その後徳川政権が始めた参勤交代は、大名が力を蓄えないようにする為に生み出されたものでしたが、それは同時に諸藩の行軍訓練にもなります。大名行列の編成、装備、兵站線等を見直せば、行き先を江戸から朝鮮に変更すれば、いつでも朝鮮を攻撃することが可能であり、朝鮮は大きな軍事的プレッシャーを受けることになったのでしょう。
参勤交代の制度化は1635年。清の朝鮮侵攻が1636年で、朝鮮が清に服属したのが1637年。

日本は復興支援に行っているのであり、援助金欲しさにベトナム人を殺しまくった韓国軍とは異なります。


>>朝鮮半島の集団は、元の一部になったり、明の一部になったり、後金(清)の一部になったり、日本の一部になったりという具合に独立国家というよりは、常に周辺の強国の一地方領主だったわけです。
>中華帝国内の「地方領主」と外国の朝貢国は当時でもはっきり区別されています。中華帝国の地方行政は中央から派遣された官僚が行いますが、辺境の少数民族地区では例外的に世襲制の地方領主に官職を与え、自治を認める制度もあった。これを「土司」という。特に中国南部の苗族、壮族、イ族、タイ族などに多く、東北の女真族も「土司」の扱いです。ヌルハチはこの土司から身を起こして、明帝国に叛旗を翻した。したがってヌルハチの場合は明帝国の地方領主だったといえる。

例えば薩摩が仕えた政権は、源氏→北条氏→足利氏→豊臣氏→徳川氏→薩長土肥が中心となって創られた明治政府。
朝鮮半島の王朝が仕えた政権は、唐→契丹→金→元→明→清→薩長土肥が中心となって創られた明治政府。
日本の一地方と朝鮮を比較してみると、非常に酷似していますね。
朝鮮王は独立国の国王というよりは、実質的には巨大な地方領主だったのでしょう。

ヌルハチは明の撫順の長官でしたが独立を果たしました。

>朝鮮は越南などとともに外国の朝貢国の扱いで、「土司」とは全く異なるものです。日本も足利義満が明に朝貢して日本国王に冊封されたが、日本が明の「地方領主」だったといえるでしょうか。朝鮮、越南もおなじことです。

義満は将軍であり、その上に天皇がいます。国家のトップが明帝国から国王(実質的には巨大な世襲制地方領主)に任命された朝鮮やベトナムとは異なります。
列強の植民地化の嵐が吹き荒れた時代に、戦争もせずに植民地化された国が二つあります。それは朝鮮とベトナムです。
中国の外交は、周辺国を取り込んで骨抜きにすることに主眼が置かれていたのでは。

開戦の直前、永野軍令部長が

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2004/02/28 20:00 投稿番号: [1004 / 6952]
言ったが。

「戦わざれば、亡国。戦うもまた亡国。戦わざる亡国は魂まで失った真の亡国だが、戦っての亡国なら児孫は再起しよう」

同じようなことを特攻隊の生みの親、中西中将が言ってる。

「この特攻が出て、しかも万一負け戦になったとしても日本は亡国にはならない。これが出ないで負ければ真の亡国になる」

また国籍捏造

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 19:54 投稿番号: [1003 / 6952]
日本人が言ってるんだけどね。

朝鮮語わかるだけで、朝鮮人に国籍まで変更してしまうのか。

捏造屋はもう引っ込んでなさい。

どうせ下劣な冗談しか言えないんだろ。

あっはっは

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/28 19:45 投稿番号: [1002 / 6952]
全力で戦った後の降伏と同じ次元で話すところに朝鮮人の言い訳を感じてしまいますね。そんな反論しかできないとは...ちょっと同情。

5千年の歪曲を認めてるわけではないけどまあ、ジョークと受け取ってくださいな。

ははは

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 16:49 投稿番号: [1001 / 6952]
降伏するのが臆病者なら、日本史にもいるよ。

考えてみな。

1945年8月15日。

何か問題あるの?

>結局半万年前から今もって変わらない文化だね。

そんなら韓国史5千年という歪曲を認めるの?

なんだ

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/28 16:28 投稿番号: [1000 / 6952]
>官職を削奪されてから死んだ後復官した.

結局は復官したんだ。

朝鮮は名も惜しまず、一時の存続と言う実をむさぼるためには臆病者と思われてもなんら問題のない文化を持ってるわけだ。
結局半万年前から今もって変わらない文化だね。

土司

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 12:17 投稿番号: [999 / 6952]
土司を検索するといくつか出てきたので、参考までにリンクしておきます。

明史雲南度司伝の原文。

http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~maruha/kanseki/mingshi313.html

雲南のイ族(ロロ族)土司について論じた日本語サイト。

http://www.asahi-net.or.jp/~WC6T-OZK/010422a.pdf

地方領主

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 11:45 投稿番号: [998 / 6952]
>朝鮮が独立国家で出兵がいやなら参戦を断れば済むことです。何故参戦を拒否できなかったのかといえば、朝鮮が独立国家というよりも明帝国内の一地方領主的性格が強かったからでしょう。

そんなことを言えば、アメリカにいわれていやいやイラクに出兵する韓国や日本もアメリカの属国となってしまいます。外交関係のしがらみの中では嫌でも出兵せざるをえないこともあるのです。

>朝鮮半島の集団は、元の一部になったり、明の一部になったり、後金(清)の一部になったり、日本の一部になったりという具合に独立国家というよりは、常に周辺の強国の一地方領主だったわけです。

中華帝国内の「地方領主」と外国の朝貢国は当時でもはっきり区別されています。中華帝国の地方行政は中央から派遣された官僚が行いますが、辺境の少数民族地区では例外的に世襲制の地方領主に官職を与え、自治を認める制度もあった。これを「土司」という。特に中国南部の苗族、壮族、イ族、タイ族などに多く、東北の女真族も「土司」の扱いです。ヌルハチはこの土司から身を起こして、明帝国に叛旗を翻した。したがってヌルハチの場合は明帝国の地方領主だったといえる。
朝鮮は越南などとともに外国の朝貢国の扱いで、「土司」とは全く異なるものです。日本も足利義満が明に朝貢して日本国王に冊封されたが、日本が明の「地方領主」だったといえるでしょうか。朝鮮、越南もおなじことです。

独立国家なのか一地方領主なのか?

投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/28 10:55 投稿番号: [997 / 6952]
>実は朝鮮が出兵を決定する前に明だけでなく、後金からも朝鮮に明のために出兵しないよう莫大な贈り物をしてきた。朝鮮国王の光海君は慎重派だったが、壬申倭乱時の明の恩義に報いるべきだという議論に勝てず、形だけは明のために出兵することにした。

朝鮮はどちらの属国になるかを選んだというより、かつての北朝鮮がソ連と中国を天秤にかけて経済、軍事援助を多く出した方に組みしたように、朝鮮も明と後金を天秤にかけてやったといいたいのか?


>後金軍の総兵力は10500程度だったようです
>後金軍の総兵力は8万人いたが当然各地に分散していた。この数字はこの時戦場に現れたのが1万程度だったというに過ぎない。一方、明の総兵力は10万といっても、中国各地からの寄せ集めで弱兵も多かった。

後金と朝鮮は国境を接しています。戦場にやってきた朝鮮軍が1.3万というだけで、朝鮮の総兵力ももっといたんだろ。


>>火縄が発火せず降伏したなんて変だね。歪曲の臭いがします(著者の)。
>>それに対して朝鮮軍は13000。どうして戦わずして敗北したの?
>実は朝鮮軍は飢えていた。兵糧は自前で、劉挺の明軍には兵糧は届いていたが、朝鮮の兵站部隊は慣れない土地のためか前線部隊に追いつけず、食料が届いていなかったのだ。明軍は少し位なら貸してくれたが、自分たちも飢えるので全部は貸してくれなかった。朝鮮軍は飢えに苦しみながら戦場に向かっていたのだ。
>>サルホ山は鴨緑江から直線距離にして僅かに150キロ程しか離れていません。徹夜すれば3、4日で朝鮮国内に引き返せたのでは?
>甘い考えだ。直線距離で150キロでもそこは敵地だ。出発地へ引き返すとすれば、西の撫順に向かうしかないが、すでに退路は絶たれていた。

兵糧すら用意出来ないんだったら参戦するな。明軍の足でまといもいいとこだ。朝鮮軍は食料を後金に恵んでもらう為に降伏したようなもんじゃないか。
やはり火縄が発火せず降伏したってのは歪曲だったね。


>洞ヶ峠を決め込むことを中国語で坐山観虎というが、関が原ではこの手合いが多かった。南宮山に陣取った小早川秀秋は徳川に内奥を約束しながら、緒戦の西軍優勢を見て、また迷い動かなかった。痺れを切らした家康が威嚇射撃を加えると驚いてやっと東軍に寝返ったものである。強い方に付こうというのは日本人も同じ。
サルフの戦いにおける朝鮮軍は寝返って明軍を攻撃するほど背信行為をしたわけではない。敗北が明らかになれば降伏するのは古今東西正常な軍事行為だ。

小早川にしろ島津にしろ豊臣方の配下(日本)の一地方領主にすぎません。それに対して朝鮮の場合国家だったのでは?朝鮮が小早川や島津と同じことをしているということは、朝鮮が明帝国内の一地方領主にすぎないということになります。
何故、他国同士(明、後金)の戦争にいやいや借り出されなければならなかったのか?朝鮮が独立国家で出兵がいやなら参戦を断れば済むことです。何故参戦を拒否できなかったのかといえば、朝鮮が独立国家というよりも明帝国内の一地方領主的性格が強かったからでしょう。
東アジアには明があり日本がある。後金は両者の間に割り込んだ。しかし朝鮮半島の集団は、元の一部になったり、明の一部になったり、後金(清)の一部になったり、日本の一部になったりという具合に独立国家というよりは、常に周辺の強国の一地方領主だったわけです。

>姜弘立

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 09:19 投稿番号: [996 / 6952]
韓国サイトで見る限り、客観的な評価で、とくに非難するものはないようです。

http://kr.encycl.yahoo.com/final.html?id=5926

この年(1618年)明国が後金を撃つために朝鮮に援兵を求めた.ここに朝鮮朝廷は新興の後金が恐ろしかったが,明国が壬辰の乱の時援軍を送った事実のため仕方なく姜弘立を五道都元帥にして1万3,000人の軍事を与えて出征するようにした.

しかし朝鮮と明国の連合軍は富車で大敗し,姜弘立は朝鮮軍の出兵がやむを得なくて成り立った事実を敵陣に通告した後軍士を導いて後金に降伏した.これは現地での形勢を見て向背を決めなさいという光海君の密命によるもののだった.投降した翌年である1620年後金に抑留された朝鮮捕虜たちは釈放されて帰国したが,姜弘立は副元帥・金景瑞など10余名と一緒にずっと抑留された.

1627年(仁祖5年)丁卯胡乱の時後金軍の先導として入国して江華で和議を周旋した後国内に留まるようになったが,逆臣として退けられ、官職を削奪されてから死んだ後復官した.

姜弘立

投稿者: qitiandashen03 投稿日時: 2004/02/28 08:44 投稿番号: [995 / 6952]
>姜弘立は売国の将軍として非難されている。

この評価は現在も同じなのですか。

ふむふむ

投稿者: neoriver504 投稿日時: 2004/02/27 18:31 投稿番号: [994 / 6952]
なるほど、これが真実なんですね(私の読んだ雑誌程度では・・・・・)
総勢400人居なかったんだ!!
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