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祝「台湾新幹線車両披露式」

投稿者: kenkan_hankan_iyabakaan 投稿日時: 2004/01/30 12:46 投稿番号: [8520 / 49973]
台湾の方々に喜んでいただき、事故のないことを祈っております。
また、これがかの国でなくてよかったとつくづく思います。

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2005年開通「台湾新幹線」車両、川崎重工が初公開
2004 年 1 月 30 日

2005年の開通を目指す「台湾新幹線」向けに開発した車両が完成し、30日、神戸市兵庫区の川崎重工業兵庫工場で披露された。「700系のぞみ」がベースで、白地を基調に、側面に黒とオレンジ色のラインが入るのが特徴だ。

日本の新幹線が海を渡るのは初めて。最高時速は「500系のぞみ」と同じ300キロで、現在4時間半かかる台北―高雄間(約345キロ・メートル)を1時間半で結ぶ。

総事業費約1兆6000億円のうち、日本の企業連合が線路や運転管理システムなどを含め3割程度を受注した。車両は、三井物産などの共同出資会社「台湾新幹線」(東京)が360両を一括受注し、川崎重工が製造していた。

披露式には、台湾から発注元の「台湾高速鉄路」の劉国治総経理、日本側は「台湾新幹線」の横田義之社長、扇千景・元国交相らが出席した。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040130ic04.htm

んなことぁ〜無いでしょう

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/30 00:27 投稿番号: [8519 / 49973]
>投稿意欲が前より増した

やはり継続して投稿していないと、ノリが悪くなってしまいますね。

>祖母の具合がよくない。

それは、ご心配で御座いますね。ご心痛お察し申し上げます。

>ま、天寿をまっとうしたといえる

そういえば、沖縄は日本一の長寿県ですよね。
亜熱帯の気候が、人間の生活には、最も適しているちゅうことでしょうか??
こちらは兎に角、今は寒〜〜い!!

>男の背広は、昔の武者の鎧兜と同じだよ。

なるほど、、、最も、あっしはいつもは、背広ではありませぬが、、
確かに出張などで、背広を着て出かけると、身が引き締まる感じがしますな。

>ある本の出版と店頭展示について

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/01/28 14:53 投稿番号: [8518 / 49973]
>ま、批判を批判するのはいいけど、批判を封じ込めるのは、封じ込めるものが自信がないからともいえますね。

それを止めたら、朝鮮人はどうなるのでしょう(わくわく

『朝鮮人が朝鮮人を止めた日』なんていう本が出るんでしょうか(わくわく


『真実を受け容れた朝鮮人』副題、歪曲をやめた朝鮮人は朝鮮人ではない

なんて本が(わくわく

>投稿制限

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/01/28 14:47 投稿番号: [8517 / 49973]
おそるべしですね   投稿制限。

zak師匠とたわむれすぎて、他にまともな相手にレスしようとする時、投稿制限に引っ掛かったりすると、zak師匠ではなくzak支障め!って思っちゃいますね。自爆ですが(笑

以前よりちょくちょく増えた・・・ふむ。。。あっしにはあまり実感がないです。もしや、uさんの投稿意欲が前より増したからではないですか。




もしかすると、あっしはしばらく投稿できない状態に陥るかも知れませぬ。祖母の具合がよくない。ま、天寿をまっとうしたといえる年齢ですから、一族郎党、覚悟はできていますが。

健在だった頃の祖母の名言も付記しておきます。

*   *   *   *   *

男の背広は、昔の武者の鎧兜と同じだよ。

*   *   *   *   *

昔の女性は働く男たちの姿を見て、そんな感慨を抱いたんでしょうね。

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (6

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:45 投稿番号: [8516 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1970

先ほど引用した箇所、

*   *   *   *   *

  「親孝行者でしたよ。学用品を買う10銭の金を貰うのにも10日前から告げ、残った金は1銭でも5厘でも返して、貧しい母親をいたわったものです」(『毎日新聞』、昭和14年1月21号より)。

*   *   *   *   *

のすぐ次の箇所をそのまま引用するが、そのまえに、先に引用した“『貧乏人が』云々と冷笑する者もいた”という部分を思い出しつつ次の下記引用部分を読んでいただきたい。



*   *   *   *   *

  当時、小学校高等科は4年制であった。そして2年生になると、中学校への入校準備が始まった。しかし、漢那の祖父憲敬が中学進学に反対した。

  「貧乏人は学問する必要はない。小学校で充分だ。県庁の給仕でもさせて、早く家を継がそう」

  こういって母オトに命令した。しかし、オトは反発した。

  「大和世(ヤマトユー)は、支那世(シナユー)とは違う。今からは学問の時代だ。どんなことがあっても、憲和を中学へ入れる」

  また、この話しを耳にした那覇尋常小学校校長の橘豊や、恩師の宮原一郎が憲敬を説得し、学資援助まで申し込んだのである。

  こうして漢那は、小学校高等科に在校すること2年、同年4年の卒業をまたずに、沖縄中学校へ進学した。ときに明治24年(1891)、漢那14歳の春であった。

  オトの気丈さと先見性は、歴史が作ったのであろう。

  彼女が生を受けた安政年間(1850年代)というのは、列強の艦隊が次々と沖縄に寄港し、武装した水兵たちが傍若無人に振舞っていたからである。少女オトの眼底には、この恐るべき西洋文明が、痛いほど焼きついていたに違いない。



*   *   *   *   *



著者は“気丈さと先見性”と形容しているが、その気丈さは後々大いに証明される。

それにしても、貧しいからといってめげるような人ではなかった。まさに賢母である。

著者はこの本を通じて、教育とは何ぞや、と強く訴えかけたいに違いない。


私事で恐縮ではあるが、私は例の『先の大戦で一木一草も残さず』云々という台詞が大嫌いである。ムシズが走る。

そのような言葉を吐く暇があるなら、ぶつぶつ言わずに植えればよい。

いつまでお涙頂戴の三文の値打ちもない女々しいことをホザクつもりか!

泣いている間に植えていれば、南部は今頃緑豊かな南国情緒溢れる森林が、素晴らしい景観を成していたであろう。ここは亜熱帯、さほど手を加えなくてもさっさと育つ。

繰返す、ぶつぶつ言って泣いている間に植えろ!



先の大戦で失ったのは数多の人命と数多くの文化財、その他に、漢那の母が持っていたような“気概”であろう。

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (5

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:45 投稿番号: [8515 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1969

先に引用したエピソードの次に、著者は下記のように当時の教育事情を記している。


*   *   *   *   *


  旧藩時代の教育機関には、「国学」というものがあった。これは、寛政10年(1798)、琉球王尚温によって首里に建てられたもので、教育の基本を朱子学に求めていた。そして「四書」や「五経」を教授する一方、シナの呈文や録文、論文等の作文も教授していたのである。しかし、ここの入学資格は、あくまで士族階級、特に門閥(トンチー)の子弟に限られていた。また、教育目的も、王府役人の養成のみにおかれていたのである。

  しかし、この「国学」で朱子学が講義されている頃、本土ではすでに陽明学などの朱子学に批判的な革新思想が誕生していた。また、蘭学などの西洋実証科学も普及しはじめていたのである。

  旧藩時代の教育制度をみると、「地方にも平等学校とか村学校などが設けてあった」とされているが、果たしてどの程度の教育がなされていたのだろうか。明治政府の官吏、河原田盛美は、廃藩置県直前の沖縄の教育状況を、その著『琉球備忘録』にこう記している。

  「従前コノ藩ノ学校ナルモノハ、首里ニ国学校、即チ、大学校ナルモノアレド、入学法、門閥ニアラザレバ、入ルヲ免サス、他首里ニ、24ケ所、那覇ニ、4ケ所、泊村ニ、3ケ所アリト雖モ、一字ヲモ学バザル慣習ナリ、故ニ、平民ト婦女ハ、読ムコト能ハズ、依テ、学校ノ方法ヲ改正シ、各校ニ、官有ノ書籍ヲ備ヘ、見聞ヲ博クナサシムルヲ以テ、第1トナスベシ」(原文のまま)

  ちなみに、本土では、旧藩時代、各地に「寺子屋」というものがあって、平民も読み書きを学ぶ機会があった。また、明治2年には、「四民平等」の太政官令が出され、5年には義務教育令が出されている。このため明治以降、平民の就学率は飛躍的に向上した。さらに近代化を急ぐ政府は、いち早く学校教育に算術、地理、物理などの実利的西洋科学教育を導入していたのである(明治8年、本土における就学率は男子50.8%)。

  しかし、沖縄は、この時流に乗り遅れた。

  明治12年(1879)3月、琉球王が藩籍を奉還したにも拘らず、旧王府役人の殆どが政府の施策に反抗し続けていた。そして人心は混乱し、従来の教育機関も一切、機能を停止していたのである。東恩名寛惇『尚泰候実録』には、当時の模様がこう記されている。

  人心の頽廃其極に達し、年少子弟、智徳の検束を脱して街路に放牧せらる。習終に性となるに至って、其害毒豈啻に刀筆の使役事を案上に見ざる如き比ならんや、県令此事を憂慮し、7月汎く訓令を発して鞭撻せしも俄に功なかりき」

  そこで政府はこの年の暮れ、緊急措置として旧藩時代の学校、国学などを復活させた。また、近代教育を実施すべく、翌13年、県下に師範学校、小中学校を開校した。さらに政府は同年2月、県庁内に会話伝習所を設け、旧国学の生徒の中から優秀な者を選抜して、標準語と小学校教科書を教授した。

  明治18年(1885)、沖縄教育史上、最初の女子教育が開始された。師範学校付属小学校に、女子3名が入校したのである。

  ちなみに、明治18年当時、本土における就学率は、男子65.8%、女子32%であった。しかし沖縄では、この就学率がなかなか伸びず、明治30年(1897)になって男子就学率がようやく30%に達した。


恵隆之介著『天皇の艦長』、第1章、23〜4Pより。


*   *   *   *   *



という具合に、なんともお粗末な教育事情だったようだ。


漢那家は父が亡くなり母は日本茶の行商で家計を支えている状態である。現代人の我々の感覚では、1日でも堪えられない状況だったであろう。

そんな状態の漢那家であったが、著者はこんなエピソードを紹介している。


*   *   *   *   *

  漢那兄弟には着物が2つしかなく、夜、洗って、交互に着ていたという。そして時には、半乾きのまま登校したこともあったようだ。またある時、夕食のイモをとりあって兄弟喧嘩してしまい、オトにこっぴどく叱られたこともあった。

  しかし、こうした日々の間も、漢那は、できるだけ母親に負担をかけないよう気を配っていた。たとえば、教科書代を節約するため、友人の教科書を手写ししたり、古本を先輩から求めていたという。

  そうした漢那を、母オトはこう回顧している。

  「親孝行者\xA4

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (4

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:41 投稿番号: [8514 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1968

漢那が幼少の頃、父が結核で亡くなり、母オトは日本茶の行商でなんとか生計を立てていたが、貧しいってもんじゃない生活であったことには容易に想像できるであろう。

だが、母オトは生活の苦しさに負けて、子供の教育を怠るような女性ではなかった。そんな母オトを著者は下記のようなエピソードをまじえて紹介している。


*   *   *   *   *

  漢那が6歳のときである。

  県庁のガラス窓が突然割れた。と同時に、付近で遊んでいた少年たちが、クモの子を散らすように逃げた。この中の誰かが石を投げたのである。

  運悪く、逃げ遅れた漢那が県庁職員に捕まってしまった。

  そこでオトは、漢那が犯人でないことを知りながら、高価なガラス代を弁償し、職員に丁重に誤ったのである。

  「自分はやっていないのに、なぜだ」

  漢那はくってかかった。

  母はそのとき、こう諭したのである。

  「自分のやったことに責任をもてない者は、男でない。まして、逃げるということは、もってのほかだ。しかし、そういう連中と遊んでいたオマエも同罪だ」

  悔しさのあまり、漢那は声をあげて泣いた。

  かつて沖縄では、イモを洗うとき、まとめて桶に入れ、足で洗うという習慣があった。しかしオトは、我が子の将来を祈って、1つ1つ丹念に手で洗ったという。

  昭和14年、漢那が平沼内閣の内務政務次官に就任したとき、オトは、毎日新聞の記者に当時をこう語っている。

  「モウサー(漢那の幼名)は、幼いころから賢く腕白者でした。那覇一番の腕白者と喧嘩して勝ったこともありましたよ。年上の者に負けるな、負けたら承知せぬ、しかし、年下の者と喧嘩するな、男の恥だ、というのが私の口癖でした」(同紙、昭和14年1月21日号)。

恵隆之介著『天皇の艦長』、第1章、20〜1Pより。


*   *

さらに、下記に引用する部分は母の教育に関連するものではないが、「貧乏人が勉強してなにをする」という部分が、後に母の賢母ぶりを強調することになるので引用しておく。そして、他のトピで教育関連の話しが出ているので、当時の教育者の心意気を示す1つのエピソードとして引用します。


*   *   *


  漢那の勉強ぶりを、西村で知らない者はなかった。

  「漢那の息子は、畳にヒザの跡がつくくらい勉強する」

  こういう風聞がたつようになってきた。しかし、中には、「貧乏人が勉強してなにをする」と冷笑する者もいた。

  尋常小学校4年の終り頃、全島の学校から生徒2名を選抜して、算術の競争試験が行われることになった。那覇2区からは漢那と照屋宏が選ばれた。しかしこのとき、2人とも2,3等賞に終わってしまったのである。そこで担任の家村教諭は2人を呼びつけた。

  「那覇の学校から2人も選抜されて、1人も1等になれないとは何事か。昔の武士なら切腹でもすべきところだ」

同掲書、22Pより。

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (3

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:40 投稿番号: [8513 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1965

  明治10年、漢那が生まれたこの年、政府は琉球使節の東京退去を命じた。そして、西村に内務省出張所(後の沖縄県庁)を開設。また、明治12年1月、内務官松田道之が再度来琉し、琉球王の上京を促すが王府は拒絶。このとき松田は止むなく引揚げるが、2ヵ月後、3度目の来県をするが、兵員・警官を伴っていた。狼狽した王府は首里城を明渡した。こうして明治12年(1879)3月25日、沖縄県が誕生。漢那が2歳のときである。

  明治11年、漢那の弟、憲英が誕生した。しかしこのとき、県内にはコレラが蔓延し、患者は1万2千人にも達している(実に当時の人口の3%にあたる)。そこで政府は急遽、内務省出張所にあった医局を拡張し、沖縄県医院(後の県立病院)を開設した。これが、沖縄県における西洋式医学治療の開始であった。従来の沖縄医療は、呪術的な色彩が強かった。そのため住民は、さまざまな風土病になすすべがなかったのである。

  医院開設後、県内人口は着実に増加した。明治12年31万人、明治21年37万人、そして明治35年には45万人にも達している。さらに、明治12年天皇は、皇室内幣金から衛生費として金2千円を下賜された。そして18年には、県下医師養成機関として医学講習所が開校されたのである(大正元年閉校、その間、172名の医師を養成)。これは、沖縄の衛生事情を政府に訴え、その救済を呼びかけた初代医局長、陸軍軍医補、脇屋端元の尽力によるところが大きい。

  ところで、このころ沖縄住民の生活はどうだっただろうか。

  琉球王朝の身分制度はたいへん厳しかった。

  王府、首里の士族が豊かな生活をしていたころ、農民はひたすら彼らに搾取されていた。そればかりか、王府は農民の土地所有を認めず、一定年限でその耕地さえ替えさせていたのである(地割制、後述「沖縄経済の破綻」、125P参照)。

  明治14年、沖縄県令(県知事)として赴任した上杉茂憲は、彼ら農民の生活をこう記している。

  「その家屋は小丸太を柱にし、茅ぶきで風雨を防ぐのに苦しみ、冬も夏も一枚の粗悪な芭蕉布を着て、食事はイモとソテツだけである。居るに席なく、食事の食器もなく、鶏豚牛羊は家中に雑居して、人と畜類と少しの区別もない。人々は生きているあいだ、ただひたすら男は畑を耕し、女は布を織るだけである」

  とりわけ、琉球王朝が離島農民に課した税制はひどかった。いわゆる「人頭税」である。

  青年男女が成長し、「ぶがい石」という石材に身長が達したら(約143センチ)、自動的に本島農民の3倍という税が課せられた。そして、搾取された離島農民の悲話は、今なお、さまざまな形で語り継がれている。

  まさに、沖縄農民にとって廃藩置県とは、これら圧制からの解放であったにちがいない。

  事実、明治26年(1893)、宮古農民代表は人頭税廃止請願のため上京、翌年、政府はこれを受諾し、沖縄の実情調査を開始した。また、明治34年(1901)、北条侍従が八重山列島を視察した。そして翌年、離島全域の人頭税が廃止されたのである。

  さらに、明治40年(1907)、八重山が暴風雨で壊滅的な打撃を受けた際、北条侍従が来島視察し、天皇からの救恤金を下賜した。そのとき、これを伝え聞いた農民は、感涙にむせんだという。

*   *   *

全然圧縮されていない。めぐみさん、ごめんちょ   m(_ _)m


それにしても・・・朝鮮の歴史を叙述しているかのような・・・

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (2

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:39 投稿番号: [8512 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1964

漢那が生まれた時代の沖縄を著者が叙述している箇所を、あっしの独断と偏見で圧縮します。

*   *   *

西欧列強のアジア進出に危機を抱いた青年志士が明治維新を断行、   明治4年(1871年)、廃藩置県の太政官令が沖縄にももたらされ、沖縄は当初鹿児島県の管轄となり、外務省管轄を経て明治7年、内務省の管轄にはいった。翌明治8年、松田内務官が沖縄に派遣され『琉球王の上京と冊封の禁止』を命じた。ちなみに冊封は1860年以来途絶していた。

このような情勢下で、開化党(日本派)と頑固党(支那派)が抗争を開始し日清戦争で頂点に達する。その部分を先の箇所から全文引用する。

  明治24年(1891)、清国の北洋水師の大艦隊が品川港に入港した。この中には、「定遠」「鎮遠」という巨大艦があった。これは、第2次大戦時の「大和」「武蔵」にも匹敵する、当時の世界的な巨大艦である。日本国民は震撼した。   既に彼らは、明治19年(1886)にも長崎に寄港していた。そればかりか、このときには、清国水兵が長崎市民に暴行を加えたのである。(中略)日清戦争が勃発したとき、漢那は中学4年生で、沖縄は猛暑の真っ只中にあった。沖縄でもこのとき、日清両国の勝算をめぐって頑固党と開化党が衝突し、乱闘事件さえ起こしていた。頑固党は、「黄色い軍艦が沖縄へ救援に来る」といい、徒党を組んで神社仏閣に詣でて清国の勝利を祈った。このため、県庁職員や寄留商人は、外的に備えると同時に、この内敵にも備えなければならなかった。そして彼らは、自警団を組織し、子女を本島中部の多幸山に疎開までさせていたのである。

さて、時代を廃藩置県時代に戻す。

  明治5年(1872)、王府は、伊江王子を明治維新の慶賀使として東京へ派遣。しかし、王府内は頑固党の勢力が圧倒的に強かった。琉球王も、この勢力に「絶対に明治政府につくな」と恫喝されていたのである(『松山王子尚順遺稿』より引用)。

  明治8年、王府は陳情特使を政府に派遣、「現状維持」を嘆願。さらに、明治10年、在京の清国公使や、米、英、蘭の公使にも愁訴した。一方、明治6年、王府は進貢使を北平(現在の北京)に派遣、北平駐在の日本公使に叱責されていたのである。

  明治4年、台湾に漂着した沖縄漁民54名が原住民に殺害されたが、清国はこの補償問題を解決しなかったため日本政府は台湾出兵を断行。補償金を清国に支払わせた。ちなみに、この出兵の際、日本軍には米の顧問がついていた。

  台湾出兵の翌年、王府は今帰仁王子を謝恩使として東京に派遣、政府に感謝の意向を示した。

このような情況を筆者はこう断言する。『要するに、琉球は独立国とは名ばかりで、日清両国に隷従し、何ら外交力を有していなかったのである』。(この見解に私には異論がない。)


つづく(余り圧縮されていないことに懸念を抱きつつ

>早速の転載

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:27 投稿番号: [8511 / 49973]
もっと、進む予定だったのですが、投稿制限に引っかかってしまいました。

以前より、ちょくちょく増えたような気がしますが、何かご存知で御座いますか??

保存版!?

投稿者: dylake2r5j1 投稿日時: 2004/01/27 15:48 投稿番号: [8510 / 49973]
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_16&nid=302257&work=list&st=&sw=&cp=3

他トピで見てあまりの自爆ぶりに思わず涙が・・・・・・・笑いすぎて。
やはり韓国は漢字教育を復活させた方が良いのでは?
せめてこんな恥をさらさないためにも。

> >くだらなすぎますが

投稿者: acura95_87 投稿日時: 2004/01/26 20:14 投稿番号: [8509 / 49973]
>>朝鮮で、柔道の「一本」のとき
>>「イルボン!」って審判は叫ぶのでしょうか?

>"ハンパン"と言います.

  ハン   チョッパリ   って言わないんだー。

>くだらなすぎますが

投稿者: juwan416jp 投稿日時: 2004/01/26 20:03 投稿番号: [8508 / 49973]
"ハンパン"と言います.

まったくのトピずれで恐縮ですが

投稿者: guiseinoyuu 投稿日時: 2004/01/26 19:45 投稿番号: [8507 / 49973]
朝鮮で、柔道の「一本」のとき

「イルボン!」って審判は叫ぶのでしょうか?

くだらなすぎますが、どなたかご存知の方よろしくお願いします。

ある本の出版と店頭展示について

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2004/01/26 18:16 投稿番号: [8506 / 49973]
「上巻刊行直前の2月上旬から、本書刊行にたいする抗議、妨害の行動が続発しました。なかんずく一部大手書店などが店頭販売を自粛したことは、言論・出版の自由に大きな汚点を残したと受け止めています。特に大手書店の場合は読者の多様なニーズに応えるという社会的使命を放棄したものといわねばなりません。すみやかに店頭販売を開始されるよう要望します」

訳者の五十嵐氏がなにものかに殺された「悪魔の詩」の帯より。これは、古書店で駆ったばかりでまだ読んでませんが。同時にかったものは、「アジアに生きる大東亜戦争」(アセアンセンター編・展転社)

ま、批判を批判するのはいいけど、批判を封じ込めるのは、封じ込めるものが自信がないからともいえますね。

うぉ!

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/01/26 17:52 投稿番号: [8505 / 49973]
早速の転載、ありがとうございまするする♪


韓国のように、テロリストが親分にならなかっただけ、このような著作が出版出来る状態だったことを嬉しく思いますよ♪

著者も、この本を広めることができて嬉しいと思いまっせ♪

・・・しかし、引用をもっと圧縮せねば(ひそひそ

>韓国の反日・克日

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/01/26 17:48 投稿番号: [8504 / 49973]
あちらさんのそれは、仰せの如く『国是』でしょうから、それを承知の上で付き合うことが肝要でしょうね。


>井戸端会議では、当事者で勝手にやってくれちゅう結論は目にみえておりますが。

でしょうね。儂ゃ知らん♪ってのが落ちでしょうね。



韓国は、日本のナショナリズムを警戒している筈なんですが、それを助長していることを知らないんですね。日本のそれは益々右傾化していくのは必至でしょうね。

天皇の艦長、漢那憲和 第1章

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/26 04:26 投稿番号: [8503 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1961

漢那憲和、明治10年(1877)9月6日、琉球藩、那覇区西村(今の西本町)にある漢那家の長男として誕生。父憲慎25歳、母オト18歳であった。

父憲慎の職業である税関吏の登用試験は王朝最大の難関を突破しなければなれない、憧れの職業だったようだ。光武帝に言わせれば、せめてなりたや執金吾ってとこか。兎も角、ちぶら〜の家系であるな。著者はこう記す。

*   *   *

  ところで、父親の職業である「フナテイヤクニン」は、琉球の科挙ともいわれ、その登用試験は王朝最大の難関であった。
  そもそも琉球王国は、中国大陸、薩摩との中継貿易で成り立っており、これを司る「フナテイヤクニン」は、当時、かなりの重職であった。また、王府の高職の中で唯一の試験登用制であったため、有能な士族青年にはかなりの魅力であった。
  「畳にヒザの跡がつくくらい勉強せねば、フナテイヤクニンにはなれない」
  首里、那覇の士族たちは、こうささやいていたのである。

*   *   *

著者は続ける。

*   *   *

  漢那の祖先は、もともと「山田」と称していた。
  ところが、この先祖が中国大陸、薩摩間を交易する船の船頭をつとめて財をなし、王府に32万貫を寄進して「士族」の位を受けた。そして、漢那(沖縄本島北部の地名)の地頭に任じられていたこともあって、漢那を名のるようになったのである。
  してみれば、漢那が小学、中学、そして海兵、海大と常に優等で進み、また、航海術の権威としてたたえられたのも、このような因縁があったからであろう。

*   *   *

ほれ、やはりちぶら〜家系ぢゃ。

しかし、遺伝だけでは人は育たぬ。廃藩置県で職を失ったお父君は、日本政府からの保証金は受けとらなかったようである。ちぶら〜且つ頑固。ま、このしぶとさで勉強を重ね難関を突破したのであろう。ちぶら〜の頑固はどうにもならない。さらに母オトが賢母の典型のような人である。憲和の父は、憲和が5歳の時に結核で亡くなった。当時の結核は死の宣告を受けたようなものであると著者は記している。

兎も角、5歳と4歳の男児を育て上げた母オトの生き様を記した箇所は、涙なくしては読めない箇所である。俊英なるお父君と、素晴らしいご母堂の愛情と厳しい教育の彫像物であるかのような漢那の人生は、この貧しいなかからうまれたのである。現代沖縄の父兄等にとって範とすべきものである。

忘れられた沖縄の偉人、漢那憲和 まえがき

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/26 04:24 投稿番号: [8502 / 49973]
まえがき

  漢那憲和は、明治10年、琉球藩、那覇区西村に生まれた。そして、沖縄県尋常中学校(後の県立第一中学)より海軍兵学校へと進み、海軍少将まで累進した沖縄県出身唯一人の提督である。また、予備役後は、衆議院議員として沖縄県出身初の内務政務次官をつとめ、終戦直前には衆議院議長候補にまで指名された、文字通り沖縄のパイオニア的存在であった。

  海軍時代は航海術の権威として多くの海軍士官を教育し、また、今上陛下が皇太子時代、欧州御外遊に際しての御召艦「香取」艦長に抜擢された。そしてこの途次、熱心な意見具申をもって殿下の沖縄御巡遊を実現し、県民を感激させたのである。

  海軍予備役後は政界に進出、沖縄の振興開発、人材育成、移民支援に奔走し(当時、日本移民の70%は沖縄出身者)、その政治力は、貧困に喘ぐ沖縄県民にとって大きな光明であった。しかも終戦直後、マッカーサー元帥へ沖縄復帰を訴える嘆願書を提出するなど、沖縄返還運動の先駆まで果たしていたのである。

  一方、あのファシズム化が進む昭和初期、「陸海軍大臣の文官制」(シビリアンコントロール)を主張する論説を公表、あるいは開戦前、反軍演説を行って官憲に講演中止を命ぜられるというリベラルな側面を持つ人物であった。

  漢那を知る者が異口同音にたたえることは、その清廉な人格であり、なによりも沖縄県人として堂々とふるまったことである。

  しかし、このように戦前、沖縄県人で最大の敬意をはらわれ、沖縄青少年が憧れてやまなかった漢那が、戦後ことごとく忘れ去られてしまった。また、こういう私も、最近まで漢那を余り知らなかった。

  昭和54年、私は江田島(旧海軍兵学校、現在、海上自衛隊幹部候補生学校)を卒業し、三代目「かとり」で世界一周するという好機を得た。その途次、ハワイであった沖縄2世たちがこの状況を慨嘆していたことに義憤を覚え、その生涯を研究するようになったのである。

  ところで、わが県民の多くは、過ぎし沖縄戦の惨禍を恨む余り、その原因となった第二次世界大戦の責任を、すべての軍人に結びつけて忘却しようとしている。

  しかし、歴史を感情論だけでかたづけてはならない。

  戦前沖縄の公刊資料を分析すると、マスコミも文化界も、さらに教育会も、そのほとんどが賛軍的な言辞をしている。信じ難い話しではあるが、現在、県内で「革新」と称して野党勢力にいる人たちでさえ、このころ大政翼賛会沖縄県支部の要職にあったのである。

  しかし、「日米戦」の国民的気運が高まる中で、命を狙われながら、断固開戦に反対した軍人もいた。

  海軍の米内光政、山本五十六、井上成美の提督たちである。

  ちなみに、米内は海兵29期で漢那の2期後輩、漢那が平沼内閣の内務政務次官をしていたころの海軍大臣(後、総理)である。また、このとき、海軍次官の山本は、漢那が海大の教官をしていたころの学生である。さらに、このころ、軍務局長をつとめていた井上は、兵学校で漢那から航海術を教わっている。

  さて、このような戦後の風潮の中で我が県民は、歴史の真実はおろか、誇るべき多くの先人さえ忘却の彼方に追いやってしまった。

  そこで私は、本書を極力、歴史に忠実に描くことにした。さらに、これをより明解にするため、巻末に「漢那憲和年譜および系統的沖縄史年表」を付記したのである。

  読者の皆様が、この年表と拙文とを対照して御一読下されば、より簡明に本書を御理解いただけるものと念ずる次第である。

  なお、本書ができあがった暁には、私は漢那先輩の墓前に捧げたいと念願している。しかし、己を語ることを嫌った先輩は「余計なことをしたな」とたしなめるかもしれない。そのとき私は「先輩、沖縄のためお許し下さい」と申し上げて御納得いただこうと思っている・

  ところで、本書の執筆を思いいたったとき、2つの不安があった。

  1つは、伝記作成に関する資料が沖縄戦でほとんど焼失し、また、関係者の多くが物故していて、資料をいかに収集するか、まったく見当がつかなかったことである。

  もう1つは、執筆を開始する直前の昭和57年7月、私は海上自衛隊を辞めており、本書完成までの数年間、生活の糧をどう得るかであった。

  そこで私は、上京して資料を収集するかたわら、県内外の方々に協力を求めた。そして、全国の心ある方々から賛同を得、懇切なる御教示と貴重な資料をいただいた。さらに、物心両面にわたる御支援をいただいたのである。

  その方々の御芳名を本文末に列記し、ここに厚く御礼申し上げる次第である。

    昭和60年1月                        恵隆之介


*   *   *

忘れられた沖縄の偉人、漢那憲和 序文

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/26 04:21 投稿番号: [8501 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1956


天皇の艦長   沖縄出身提督漢那憲和の生涯       恵隆之介

          序                                  沖縄県知事   西銘順治

  郷土沖縄にとって最大の悲劇であった第二次世界大戦が終了して、すでに40年の歳月が流れようとしている。

  この戦争と、それに先立つ時代の著述は数多く出されているが、とかく県内のそれは、感情やイデオロギーが先行して叙情の域を脱していないものが少なくない。

  しかし、本土や欧米の歴史家たちは、すでに多くの確実な史料を収集し、しかも、それらに内面的理解を以て接し、それによって歴史を冷厳に分析して未来に資そうとしている。そしてまた、時代を超えて変わらぬ人間の内面をも明らかにしているのである。

  歴史を創るものは常に人間である。戦前の歴史を伝えるものとして、公私の記録と共に個人の伝記は欠くべからざるものである。すでに、他府県では当時の政治家や軍人について確実な研究に基づく伝記が数多く著され、その出身地の青少年たちは先人に道を問うべくそれを耽読している。

  このたび、ここに戦前の沖縄の代表的人物であった漢那憲和先生の伝記が、恵隆之介君によって公刊されることになったのは、誠に喜ばしいことである。これは、漢那先生の高潔な人格を長く世に伝えるのみならず、その業績を通じて沖縄現代史の不透明な部分にも一つの光明を与えてくれることになるであろう。

  私が、この序文を書くにいたったのは、沖縄現代史から忘れ去られていた漢那憲和先生を、青年、恵隆之介君が苦心惨憺して史料を収集し、一冊の本にまとめあげた、その情熱に感服したからである。さらに私自身も、かつて海軍に奉職したことがあり、そのとき、著名な高級士官のほとんどが漢那先生の薫陶を受けていることを聞くに及んで、郷土の誇りを新にしていたのである。

  願わくは、本書の出版が郷土の文化界、そして青少年の未来に寄与できることを祈って止まない。

    昭和60年1月



*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

故西銘順治氏が県知事時代に寄せた序文である。

私如きがこれに論評を加えることはできない。

敢えて付言するならば、その結びの言葉に、1県のリーダーとしての切なる願いが凝縮されているように思えてならない。

忘れられた沖縄の偉人、漢那憲和

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/26 04:18 投稿番号: [8500 / 49973]
全くトピずれで御座いますが、このトピの住人でもいらっしゃるCさんの労作で御座います故、本土および韓国の方々にも、ご紹介致したく、アゲを兼ねてここに転載させて頂きやす。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1955

沖縄出身の提督、漢那憲和(カンナケンワ)の生涯を紹介した恵隆之介著『天皇の艦長』、副題、―沖縄出身提督漢那憲和の生涯―を紹介する。

著者は、防衛大学を経て江田島を卒業し、幸運にも3代目「かとり」で世界1周するという、よだれがどめどなく溢れてプールを作るような・・・なんちゅう形容ぢゃ、(`_´#)め

兎も角、素晴らしい好機を得て世界を周遊する途次、ハワイに寄港、その際、ハワイ在住の沖縄2世たちが、現在の沖縄の世情を知り慨嘆する情況を目の当たりにし、義憤に駆られて提督の生涯の研究に着手したとのことである。

これが大田前知事であれば、公務中に遁走するわ、式典会場でさえも泡盛を飲まず、スカッチ!スカッチを寄越せ!と本末転倒な痴態を演じたであろうが、人間としての義を通常以上に持ち合わせている著者は、本来あるべき後輩としての務めを、常人以上に発揮し、本書を著すに至った。

さらに余談であるが、現在、恵隆之介先生は、第二次大戦中の日英の美談を世に知らしめるために日夜勇躍奮起しておられる。

撃沈した英軍艦の乗組員を救助した日本海軍将兵の驚嘆すべき胆力(敵国潜水艦に撃沈される危険も顧みなかった)と、残虐非道と伝えられていた日本軍将兵の決死の救助活動に心打たれた英国海軍士官が、戦後、日本はそれほど残虐ではないと、本国で孤軍奮闘して日英の絆を繋ぎ続けていたという美談である。


現在、戦前のすべてを否定する風潮が蔓延し、兎に角日本は悪逆であったと喧伝する勢力が未だに健在である。その世情に在って孤軍奮闘しておられる著者に敬意を表すると共に、その労苦の作を少しでも世に知らしめることを目的とし、本著『天皇の艦長』を紹介したい。

なお、あっしも仕事の合間を縫っての作業になるので、調子よく掲載することは不可能であるということをご高承賜りたい。

>たくわん

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/26 04:17 投稿番号: [8499 / 49973]
沢庵和尚が改良した「蓄え漬」だから、たくわん(もしくは、たくあん)ちゅう事らしいですわ。。

http://www.h4.dion.ne.jp/~g-kokufu/4nen/tukemono.htm

##このページは国際理解教育の一環として本校4年生が作っています。##

>国家目標の喪失

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/26 04:17 投稿番号: [8498 / 49973]
そう云う意味においては、韓国の反日・克日ちゅうのも、あちらさんにとっては意義のある事なので御座いましょうなぁ、、

>ま、日本も泣きつけないでしょうから、自力で実力奪回するしかないでしょう。

まぁ、今日では国連安全保障理事会に提訴して、即時撤退の国連決議を取り付けるちゅうのが、手順で御座いましょうかな。。。ま、井戸端会議では、当事者で勝手にやってくれちゅう結論は目にみえておりますが。

あげを兼ねてレス

投稿者: j_ururu_xxx 投稿日時: 2004/01/25 01:43 投稿番号: [8497 / 49973]
たくわんと比較してますが、

梅干も漬物ですよね。

ラッキョウも

シバ漬け、福神漬け、

寿司に付いてくるがりも。

キムチ鍋なら、輸入キムチはダメだよ

投稿者: kitaneeyarouda007 投稿日時: 2004/01/21 21:51 投稿番号: [8496 / 49973]
韓国の輸入キムチは止めたほうが良い。

日本人を憎む韓国人の考えは想像を絶する。

「フケ」ならまだ良い、鼻○、鼻○、が入っていると思え。

素晴らしい指摘

投稿者: ncc_91502_exelion 投稿日時: 2004/01/21 18:43 投稿番号: [8495 / 49973]
グッジョブ!
ただこの一言に尽きる

NAVERネタで恐縮ですが

投稿者: guiseinoyuu 投稿日時: 2004/01/21 18:39 投稿番号: [8494 / 49973]
本日の傑作、この方の指摘がすばらしい。
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_8&nid=714196&work=list&st=&sw=&cp=1
日 : 何度も、注意しているのですが・・・

作成時刻 : 2004.01.21 18:23:36

「我々の世代が、宿敵日本を自らの力で打倒し、恨みを晴らす」
こう言い切った朝鮮人を未だに見たことがありません。

朝鮮人は常にこう言います。

①日本経済は崩壊して、朝鮮に追い越されますね〜puhahaha〜
(日本自身の問題による力の喪失に期待する態度)

②日本列島は沈没しますね〜puhahahaha〜
(自然災害という人間以外の力に期待する態度1)

③日本は地震で崩壊しますね〜puhahahaha〜
(自然災害という人間以外の力に期待する態度2)

④Atomic bombに当たりましたね〜puhahahaha〜
(朝鮮以外の他者の力に依存する態度1)

⑤北朝鮮のミサイルが落ちますね〜puhahahaha〜
(朝鮮以外の他者の力に依存する態度2)

⑥靖国参拝で中国が怒っていますね〜puhahahaha〜
(朝鮮以外の他者の力に依存する態度3)

おまえら、1910年から1945年までの朝鮮人と同様に、自分たちでは何もできないことを理解しているらしいね。
でも、上のどれ一つとして「朝鮮の勝利」ではない。

腰抜け



  ( ´H`)y-~~

誤字

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/01/21 17:55 投稿番号: [8493 / 49973]
×第1次大戦後のブロック経済化後は、生存権の確立。

          ↓


○第1次大戦後のブロック経済化後は、生存圏の確立。

そうそうサハフおいちゃん♪

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/01/21 17:31 投稿番号: [8492 / 49973]
おちゃめすぎて楽しかったっすね♪

再就職先は、是非!ぴょんやん放送に♪



>なにかと無関心で白けた世相が、蔓延してますからねぇ、、、これも、妙な教育のなせる業でしょうか?

その責任も部分的にあるとは思いますが、あっしとしては、国家目標の喪失がその主なる原因であると思っちょります。

開国期は兎に角、西洋に追いつけ。

第1次大戦後のブロック経済化後は、生存権の確立。

敗戦後は、復興。

んで現在。経済大国にまでのし上がったまでは良かったが、その先の目標の喪失。

スポーツ選手なんぞ特にそうでしょうね。金メダルを目標に突っ走っている内は、精進精進また精進。ひたすら精進。再度メダルを目指すならば、またまた精進。

しかし、メダル獲得後の目標を、或る時期に設定しなければ、例えば後進の指導なり、金満実業化なり、脱税指南の大御所(なんでぢゃ?)なり。兎角目標がなければ『ちゅうぶらりん』でろくなことはありますまい。

ま、アメリカを凌ぐ経済大国なり、独自の共栄圏の再興なりを目指さなければ、意味不明な地球市民などを多数輩出し、『癒されたい』とか『元気を貰う』などという反吐が出るような言語が飛び交うでしょう、って・・・既に飛び交いまくってますね。

教育云々の責任も確かにあるにはあるでしょうが、指導者が次の国家目標を設定できなければ、教育の方針も人権や平等や平和などという少女漫画の世界を描き続けるでしょうね。



>一応、日本の主張が正しいとすると、現状は韓国が竹島を侵略した状態となりますが、この場合、日米安保ではどうなるので御座いましょうか?

アメさんはこの点には関知しない筈ですよ。たぶん。きっと。

ま、日本も泣きつけないでしょうから、自力で実力奪回するしかないでしょう。

海軍旗をなびかせた大空母艦隊に、大スピーカー乗っけて軍艦マーチを鳴らしまくらねば、話し合いにも応じますまい。それでもいうことを聞かねば、再教育機関を50年と設定した再併合計画をぶち上げて、軍備拡張による内需拡大と、アメリカ製武器の購入によるアメリカの口封じを行いつつ・・・あわわわわ

>キムチ鍋

投稿者: kohshien21 投稿日時: 2004/01/21 16:55 投稿番号: [8491 / 49973]
を食べるくらいならば、

本場四川鍋の方が美味いですね。

マジではまります。

素朴な疑問が解消されました

投稿者: guiseinoyuu 投稿日時: 2004/01/21 16:13 投稿番号: [8490 / 49973]
>気軽に作れるきゅうりやなす・かぶの糠漬、浅漬けは

>家庭でも普通に作って食べていると思うので、


ほーー、蒙が啓かれました。
そうですよね、キムチなんかつけてるのは日本じゃ在日家庭くらいですもんね。

逆に糠漬・浅漬は家庭でつける方が多い。

いわゆるスーパーなどの店頭での売上比率でキムチが漬物を上回ったということですよね。

そうかそうか、素朴な疑問が解消されてすっきりしました(苦)

とか言いつつ

投稿者: j_ururu_xxx 投稿日時: 2004/01/21 00:24 投稿番号: [8489 / 49973]
先週の土曜は雪がちらついて寒かったので、ちげ鍋にしました。(笑

キムチを入れるとなんかただの甘い漬物になってしまいますね。

コチジャンを入れて作りました。

たくわんです。

投稿者: j_ururu_xxx 投稿日時: 2004/01/21 00:21 投稿番号: [8488 / 49973]
こんばんわ

書き間違えました。

子供の頃は父母の地方の呼び方で「がっこ」と言ってました。

粕漬けのものや、スモークの効いたいぶりがっこが好きです。

>毎度のことながら、

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/21 00:12 投稿番号: [8487 / 49973]
まぁ、自国の産品が外国に受け入れられて、嬉しく思うのは人情で御座いましょう。

確かにキムチは、ご飯が進むちゅうことは有りますよ。

しかし、キムチ鍋とか、キムチ・ラーメンはあまり食べる気にはなりませんなぁ、、鍋モノのスープはダシの旨みが命で御座いましょう。。

>たくあん

投稿者: t3taku 投稿日時: 2004/01/20 23:54 投稿番号: [8486 / 49973]
呼びましたか?(アダ名かよ爆

ところで

“たくわん”

“たくあん”

ドッチ?


ん?

たくあん

投稿者: j_ururu_xxx 投稿日時: 2004/01/20 23:33 投稿番号: [8485 / 49973]
漬物の消費量を詳しく調べたわけではないので厳密には言えませんが、

気軽に作れるきゅうりやなす・かぶの糠漬、浅漬けは

家庭でも普通に作って食べていると思うので、
そんなキムチが盛況なのかなって思います。

毎度のことながら、
まるで、キムチに愛国心を込めたような自意識過剰の報道を見ると

キムチが食べたくなくなりますね。

今日は投稿できる??

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/20 23:25 投稿番号: [8484 / 49973]
と、ここで上げてみる。

>>鳥ウイルス

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/18 00:35 投稿番号: [8483 / 49973]
>鳥ウイルスが伝染すると、人間にどんな症状がでるのでしょう。

なにやら、ベトナムや香港では死者が出ているようですぞ!

>昨年から朝日新聞を読まなくなってから、新聞というのは一切読まなくなった

産経を購読されては、、(笑
しかし、新聞は、読みなれているのを変えると、レイアウトやら馴染みの連載など、他紙に慣れるのに時間がかかりますね。

>「わさびと唐辛子」

わさびと唐辛子の話題は、スカートにも出てきますね。
しかし、韓国で唐辛子を常用するほど、日本ではわさびを常用しないのでは!?
日本の場合は、やはり味噌・醤油でしょうか?

ところで、キムチがたくあんを抜いたとか、、、そういえば、最近、たくあんは食っていないなぁ、、

http://japanese.joins.com/html/2004/0112/20040112160655300.html

あと、、、

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/18 00:34 投稿番号: [8482 / 49973]
関東では「うまかっちゃん」が見当たらないと云う意見もありますが、、、

>「ふく」は「福」に通じるという逸話,

似た話に、幸福行きの列車ちゅうのがありますね。。。こちらは、北海道と九州が張り合っているようです。(笑

http://www.purimura.com/koufuku-flame.html

http://www.amagaeru.com/go/sbt/jigsaw/lineup/y/500/05_786.html

確かサハフおじさんでは??

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/18 00:34 投稿番号: [8481 / 49973]
>そして私は、本名をド忘れしている♪

おちゃめなおっさんでしたね。

>マハティールおじさんがチョビット登場し、「日本人は一生懸命さをうしなってしまった」と、耳に痛い批判

なにかと無関心で白けた世相が、蔓延してますからねぇ、、、これも、妙な教育のなせる業でしょうか?

所で話は、またまたぶっ飛ぶんですが、切手問題は一応抗議したみたいでやんすね。

http://japanese.joins.com/html/2004/0116/20040116160824200.html

一応、日本の主張が正しいとすると、現状は韓国が竹島を侵略した状態となりますが、この場合、日米安保ではどうなるので御座いましょうか?
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