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天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (3

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:40 投稿番号: [8513 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1965

  明治10年、漢那が生まれたこの年、政府は琉球使節の東京退去を命じた。そして、西村に内務省出張所(後の沖縄県庁)を開設。また、明治12年1月、内務官松田道之が再度来琉し、琉球王の上京を促すが王府は拒絶。このとき松田は止むなく引揚げるが、2ヵ月後、3度目の来県をするが、兵員・警官を伴っていた。狼狽した王府は首里城を明渡した。こうして明治12年(1879)3月25日、沖縄県が誕生。漢那が2歳のときである。

  明治11年、漢那の弟、憲英が誕生した。しかしこのとき、県内にはコレラが蔓延し、患者は1万2千人にも達している(実に当時の人口の3%にあたる)。そこで政府は急遽、内務省出張所にあった医局を拡張し、沖縄県医院(後の県立病院)を開設した。これが、沖縄県における西洋式医学治療の開始であった。従来の沖縄医療は、呪術的な色彩が強かった。そのため住民は、さまざまな風土病になすすべがなかったのである。

  医院開設後、県内人口は着実に増加した。明治12年31万人、明治21年37万人、そして明治35年には45万人にも達している。さらに、明治12年天皇は、皇室内幣金から衛生費として金2千円を下賜された。そして18年には、県下医師養成機関として医学講習所が開校されたのである(大正元年閉校、その間、172名の医師を養成)。これは、沖縄の衛生事情を政府に訴え、その救済を呼びかけた初代医局長、陸軍軍医補、脇屋端元の尽力によるところが大きい。

  ところで、このころ沖縄住民の生活はどうだっただろうか。

  琉球王朝の身分制度はたいへん厳しかった。

  王府、首里の士族が豊かな生活をしていたころ、農民はひたすら彼らに搾取されていた。そればかりか、王府は農民の土地所有を認めず、一定年限でその耕地さえ替えさせていたのである(地割制、後述「沖縄経済の破綻」、125P参照)。

  明治14年、沖縄県令(県知事)として赴任した上杉茂憲は、彼ら農民の生活をこう記している。

  「その家屋は小丸太を柱にし、茅ぶきで風雨を防ぐのに苦しみ、冬も夏も一枚の粗悪な芭蕉布を着て、食事はイモとソテツだけである。居るに席なく、食事の食器もなく、鶏豚牛羊は家中に雑居して、人と畜類と少しの区別もない。人々は生きているあいだ、ただひたすら男は畑を耕し、女は布を織るだけである」

  とりわけ、琉球王朝が離島農民に課した税制はひどかった。いわゆる「人頭税」である。

  青年男女が成長し、「ぶがい石」という石材に身長が達したら(約143センチ)、自動的に本島農民の3倍という税が課せられた。そして、搾取された離島農民の悲話は、今なお、さまざまな形で語り継がれている。

  まさに、沖縄農民にとって廃藩置県とは、これら圧制からの解放であったにちがいない。

  事実、明治26年(1893)、宮古農民代表は人頭税廃止請願のため上京、翌年、政府はこれを受諾し、沖縄の実情調査を開始した。また、明治34年(1901)、北条侍従が八重山列島を視察した。そして翌年、離島全域の人頭税が廃止されたのである。

  さらに、明治40年(1907)、八重山が暴風雨で壊滅的な打撃を受けた際、北条侍従が来島視察し、天皇からの救恤金を下賜した。そのとき、これを伝え聞いた農民は、感涙にむせんだという。

*   *   *

全然圧縮されていない。めぐみさん、ごめんちょ   m(_ _)m


それにしても・・・朝鮮の歴史を叙述しているかのような・・・
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