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天皇の艦長、漢那憲和 第1章

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/26 04:26 投稿番号: [8503 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1961

漢那憲和、明治10年(1877)9月6日、琉球藩、那覇区西村(今の西本町)にある漢那家の長男として誕生。父憲慎25歳、母オト18歳であった。

父憲慎の職業である税関吏の登用試験は王朝最大の難関を突破しなければなれない、憧れの職業だったようだ。光武帝に言わせれば、せめてなりたや執金吾ってとこか。兎も角、ちぶら〜の家系であるな。著者はこう記す。

*   *   *

  ところで、父親の職業である「フナテイヤクニン」は、琉球の科挙ともいわれ、その登用試験は王朝最大の難関であった。
  そもそも琉球王国は、中国大陸、薩摩との中継貿易で成り立っており、これを司る「フナテイヤクニン」は、当時、かなりの重職であった。また、王府の高職の中で唯一の試験登用制であったため、有能な士族青年にはかなりの魅力であった。
  「畳にヒザの跡がつくくらい勉強せねば、フナテイヤクニンにはなれない」
  首里、那覇の士族たちは、こうささやいていたのである。

*   *   *

著者は続ける。

*   *   *

  漢那の祖先は、もともと「山田」と称していた。
  ところが、この先祖が中国大陸、薩摩間を交易する船の船頭をつとめて財をなし、王府に32万貫を寄進して「士族」の位を受けた。そして、漢那(沖縄本島北部の地名)の地頭に任じられていたこともあって、漢那を名のるようになったのである。
  してみれば、漢那が小学、中学、そして海兵、海大と常に優等で進み、また、航海術の権威としてたたえられたのも、このような因縁があったからであろう。

*   *   *

ほれ、やはりちぶら〜家系ぢゃ。

しかし、遺伝だけでは人は育たぬ。廃藩置県で職を失ったお父君は、日本政府からの保証金は受けとらなかったようである。ちぶら〜且つ頑固。ま、このしぶとさで勉強を重ね難関を突破したのであろう。ちぶら〜の頑固はどうにもならない。さらに母オトが賢母の典型のような人である。憲和の父は、憲和が5歳の時に結核で亡くなった。当時の結核は死の宣告を受けたようなものであると著者は記している。

兎も角、5歳と4歳の男児を育て上げた母オトの生き様を記した箇所は、涙なくしては読めない箇所である。俊英なるお父君と、素晴らしいご母堂の愛情と厳しい教育の彫像物であるかのような漢那の人生は、この貧しいなかからうまれたのである。現代沖縄の父兄等にとって範とすべきものである。
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