天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (5
投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:45 投稿番号: [8515 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1969
先に引用したエピソードの次に、著者は下記のように当時の教育事情を記している。
* * * * *
旧藩時代の教育機関には、「国学」というものがあった。これは、寛政10年(1798)、琉球王尚温によって首里に建てられたもので、教育の基本を朱子学に求めていた。そして「四書」や「五経」を教授する一方、シナの呈文や録文、論文等の作文も教授していたのである。しかし、ここの入学資格は、あくまで士族階級、特に門閥(トンチー)の子弟に限られていた。また、教育目的も、王府役人の養成のみにおかれていたのである。
しかし、この「国学」で朱子学が講義されている頃、本土ではすでに陽明学などの朱子学に批判的な革新思想が誕生していた。また、蘭学などの西洋実証科学も普及しはじめていたのである。
旧藩時代の教育制度をみると、「地方にも平等学校とか村学校などが設けてあった」とされているが、果たしてどの程度の教育がなされていたのだろうか。明治政府の官吏、河原田盛美は、廃藩置県直前の沖縄の教育状況を、その著『琉球備忘録』にこう記している。
「従前コノ藩ノ学校ナルモノハ、首里ニ国学校、即チ、大学校ナルモノアレド、入学法、門閥ニアラザレバ、入ルヲ免サス、他首里ニ、24ケ所、那覇ニ、4ケ所、泊村ニ、3ケ所アリト雖モ、一字ヲモ学バザル慣習ナリ、故ニ、平民ト婦女ハ、読ムコト能ハズ、依テ、学校ノ方法ヲ改正シ、各校ニ、官有ノ書籍ヲ備ヘ、見聞ヲ博クナサシムルヲ以テ、第1トナスベシ」(原文のまま)
ちなみに、本土では、旧藩時代、各地に「寺子屋」というものがあって、平民も読み書きを学ぶ機会があった。また、明治2年には、「四民平等」の太政官令が出され、5年には義務教育令が出されている。このため明治以降、平民の就学率は飛躍的に向上した。さらに近代化を急ぐ政府は、いち早く学校教育に算術、地理、物理などの実利的西洋科学教育を導入していたのである(明治8年、本土における就学率は男子50.8%)。
しかし、沖縄は、この時流に乗り遅れた。
明治12年(1879)3月、琉球王が藩籍を奉還したにも拘らず、旧王府役人の殆どが政府の施策に反抗し続けていた。そして人心は混乱し、従来の教育機関も一切、機能を停止していたのである。東恩名寛惇『尚泰候実録』には、当時の模様がこう記されている。
人心の頽廃其極に達し、年少子弟、智徳の検束を脱して街路に放牧せらる。習終に性となるに至って、其害毒豈啻に刀筆の使役事を案上に見ざる如き比ならんや、県令此事を憂慮し、7月汎く訓令を発して鞭撻せしも俄に功なかりき」
そこで政府はこの年の暮れ、緊急措置として旧藩時代の学校、国学などを復活させた。また、近代教育を実施すべく、翌13年、県下に師範学校、小中学校を開校した。さらに政府は同年2月、県庁内に会話伝習所を設け、旧国学の生徒の中から優秀な者を選抜して、標準語と小学校教科書を教授した。
明治18年(1885)、沖縄教育史上、最初の女子教育が開始された。師範学校付属小学校に、女子3名が入校したのである。
ちなみに、明治18年当時、本土における就学率は、男子65.8%、女子32%であった。しかし沖縄では、この就学率がなかなか伸びず、明治30年(1897)になって男子就学率がようやく30%に達した。
恵隆之介著『天皇の艦長』、第1章、23〜4Pより。
* * * * *
という具合に、なんともお粗末な教育事情だったようだ。
漢那家は父が亡くなり母は日本茶の行商で家計を支えている状態である。現代人の我々の感覚では、1日でも堪えられない状況だったであろう。
そんな状態の漢那家であったが、著者はこんなエピソードを紹介している。
* * * * *
漢那兄弟には着物が2つしかなく、夜、洗って、交互に着ていたという。そして時には、半乾きのまま登校したこともあったようだ。またある時、夕食のイモをとりあって兄弟喧嘩してしまい、オトにこっぴどく叱られたこともあった。
しかし、こうした日々の間も、漢那は、できるだけ母親に負担をかけないよう気を配っていた。たとえば、教科書代を節約するため、友人の教科書を手写ししたり、古本を先輩から求めていたという。
そうした漢那を、母オトはこう回顧している。
「親孝行者\xA4
先に引用したエピソードの次に、著者は下記のように当時の教育事情を記している。
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旧藩時代の教育機関には、「国学」というものがあった。これは、寛政10年(1798)、琉球王尚温によって首里に建てられたもので、教育の基本を朱子学に求めていた。そして「四書」や「五経」を教授する一方、シナの呈文や録文、論文等の作文も教授していたのである。しかし、ここの入学資格は、あくまで士族階級、特に門閥(トンチー)の子弟に限られていた。また、教育目的も、王府役人の養成のみにおかれていたのである。
しかし、この「国学」で朱子学が講義されている頃、本土ではすでに陽明学などの朱子学に批判的な革新思想が誕生していた。また、蘭学などの西洋実証科学も普及しはじめていたのである。
旧藩時代の教育制度をみると、「地方にも平等学校とか村学校などが設けてあった」とされているが、果たしてどの程度の教育がなされていたのだろうか。明治政府の官吏、河原田盛美は、廃藩置県直前の沖縄の教育状況を、その著『琉球備忘録』にこう記している。
「従前コノ藩ノ学校ナルモノハ、首里ニ国学校、即チ、大学校ナルモノアレド、入学法、門閥ニアラザレバ、入ルヲ免サス、他首里ニ、24ケ所、那覇ニ、4ケ所、泊村ニ、3ケ所アリト雖モ、一字ヲモ学バザル慣習ナリ、故ニ、平民ト婦女ハ、読ムコト能ハズ、依テ、学校ノ方法ヲ改正シ、各校ニ、官有ノ書籍ヲ備ヘ、見聞ヲ博クナサシムルヲ以テ、第1トナスベシ」(原文のまま)
ちなみに、本土では、旧藩時代、各地に「寺子屋」というものがあって、平民も読み書きを学ぶ機会があった。また、明治2年には、「四民平等」の太政官令が出され、5年には義務教育令が出されている。このため明治以降、平民の就学率は飛躍的に向上した。さらに近代化を急ぐ政府は、いち早く学校教育に算術、地理、物理などの実利的西洋科学教育を導入していたのである(明治8年、本土における就学率は男子50.8%)。
しかし、沖縄は、この時流に乗り遅れた。
明治12年(1879)3月、琉球王が藩籍を奉還したにも拘らず、旧王府役人の殆どが政府の施策に反抗し続けていた。そして人心は混乱し、従来の教育機関も一切、機能を停止していたのである。東恩名寛惇『尚泰候実録』には、当時の模様がこう記されている。
人心の頽廃其極に達し、年少子弟、智徳の検束を脱して街路に放牧せらる。習終に性となるに至って、其害毒豈啻に刀筆の使役事を案上に見ざる如き比ならんや、県令此事を憂慮し、7月汎く訓令を発して鞭撻せしも俄に功なかりき」
そこで政府はこの年の暮れ、緊急措置として旧藩時代の学校、国学などを復活させた。また、近代教育を実施すべく、翌13年、県下に師範学校、小中学校を開校した。さらに政府は同年2月、県庁内に会話伝習所を設け、旧国学の生徒の中から優秀な者を選抜して、標準語と小学校教科書を教授した。
明治18年(1885)、沖縄教育史上、最初の女子教育が開始された。師範学校付属小学校に、女子3名が入校したのである。
ちなみに、明治18年当時、本土における就学率は、男子65.8%、女子32%であった。しかし沖縄では、この就学率がなかなか伸びず、明治30年(1897)になって男子就学率がようやく30%に達した。
恵隆之介著『天皇の艦長』、第1章、23〜4Pより。
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という具合に、なんともお粗末な教育事情だったようだ。
漢那家は父が亡くなり母は日本茶の行商で家計を支えている状態である。現代人の我々の感覚では、1日でも堪えられない状況だったであろう。
そんな状態の漢那家であったが、著者はこんなエピソードを紹介している。
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漢那兄弟には着物が2つしかなく、夜、洗って、交互に着ていたという。そして時には、半乾きのまま登校したこともあったようだ。またある時、夕食のイモをとりあって兄弟喧嘩してしまい、オトにこっぴどく叱られたこともあった。
しかし、こうした日々の間も、漢那は、できるだけ母親に負担をかけないよう気を配っていた。たとえば、教科書代を節約するため、友人の教科書を手写ししたり、古本を先輩から求めていたという。
そうした漢那を、母オトはこう回顧している。
「親孝行者\xA4
これは メッセージ 8514 (u26699jp さん)への返信です.
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