天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (2
投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:39 投稿番号: [8512 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1964
漢那が生まれた時代の沖縄を著者が叙述している箇所を、あっしの独断と偏見で圧縮します。
* * *
西欧列強のアジア進出に危機を抱いた青年志士が明治維新を断行、 明治4年(1871年)、廃藩置県の太政官令が沖縄にももたらされ、沖縄は当初鹿児島県の管轄となり、外務省管轄を経て明治7年、内務省の管轄にはいった。翌明治8年、松田内務官が沖縄に派遣され『琉球王の上京と冊封の禁止』を命じた。ちなみに冊封は1860年以来途絶していた。
このような情勢下で、開化党(日本派)と頑固党(支那派)が抗争を開始し日清戦争で頂点に達する。その部分を先の箇所から全文引用する。
明治24年(1891)、清国の北洋水師の大艦隊が品川港に入港した。この中には、「定遠」「鎮遠」という巨大艦があった。これは、第2次大戦時の「大和」「武蔵」にも匹敵する、当時の世界的な巨大艦である。日本国民は震撼した。 既に彼らは、明治19年(1886)にも長崎に寄港していた。そればかりか、このときには、清国水兵が長崎市民に暴行を加えたのである。(中略)日清戦争が勃発したとき、漢那は中学4年生で、沖縄は猛暑の真っ只中にあった。沖縄でもこのとき、日清両国の勝算をめぐって頑固党と開化党が衝突し、乱闘事件さえ起こしていた。頑固党は、「黄色い軍艦が沖縄へ救援に来る」といい、徒党を組んで神社仏閣に詣でて清国の勝利を祈った。このため、県庁職員や寄留商人は、外的に備えると同時に、この内敵にも備えなければならなかった。そして彼らは、自警団を組織し、子女を本島中部の多幸山に疎開までさせていたのである。
さて、時代を廃藩置県時代に戻す。
明治5年(1872)、王府は、伊江王子を明治維新の慶賀使として東京へ派遣。しかし、王府内は頑固党の勢力が圧倒的に強かった。琉球王も、この勢力に「絶対に明治政府につくな」と恫喝されていたのである(『松山王子尚順遺稿』より引用)。
明治8年、王府は陳情特使を政府に派遣、「現状維持」を嘆願。さらに、明治10年、在京の清国公使や、米、英、蘭の公使にも愁訴した。一方、明治6年、王府は進貢使を北平(現在の北京)に派遣、北平駐在の日本公使に叱責されていたのである。
明治4年、台湾に漂着した沖縄漁民54名が原住民に殺害されたが、清国はこの補償問題を解決しなかったため日本政府は台湾出兵を断行。補償金を清国に支払わせた。ちなみに、この出兵の際、日本軍には米の顧問がついていた。
台湾出兵の翌年、王府は今帰仁王子を謝恩使として東京に派遣、政府に感謝の意向を示した。
このような情況を筆者はこう断言する。『要するに、琉球は独立国とは名ばかりで、日清両国に隷従し、何ら外交力を有していなかったのである』。(この見解に私には異論がない。)
つづく(余り圧縮されていないことに懸念を抱きつつ
漢那が生まれた時代の沖縄を著者が叙述している箇所を、あっしの独断と偏見で圧縮します。
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西欧列強のアジア進出に危機を抱いた青年志士が明治維新を断行、 明治4年(1871年)、廃藩置県の太政官令が沖縄にももたらされ、沖縄は当初鹿児島県の管轄となり、外務省管轄を経て明治7年、内務省の管轄にはいった。翌明治8年、松田内務官が沖縄に派遣され『琉球王の上京と冊封の禁止』を命じた。ちなみに冊封は1860年以来途絶していた。
このような情勢下で、開化党(日本派)と頑固党(支那派)が抗争を開始し日清戦争で頂点に達する。その部分を先の箇所から全文引用する。
明治24年(1891)、清国の北洋水師の大艦隊が品川港に入港した。この中には、「定遠」「鎮遠」という巨大艦があった。これは、第2次大戦時の「大和」「武蔵」にも匹敵する、当時の世界的な巨大艦である。日本国民は震撼した。 既に彼らは、明治19年(1886)にも長崎に寄港していた。そればかりか、このときには、清国水兵が長崎市民に暴行を加えたのである。(中略)日清戦争が勃発したとき、漢那は中学4年生で、沖縄は猛暑の真っ只中にあった。沖縄でもこのとき、日清両国の勝算をめぐって頑固党と開化党が衝突し、乱闘事件さえ起こしていた。頑固党は、「黄色い軍艦が沖縄へ救援に来る」といい、徒党を組んで神社仏閣に詣でて清国の勝利を祈った。このため、県庁職員や寄留商人は、外的に備えると同時に、この内敵にも備えなければならなかった。そして彼らは、自警団を組織し、子女を本島中部の多幸山に疎開までさせていたのである。
さて、時代を廃藩置県時代に戻す。
明治5年(1872)、王府は、伊江王子を明治維新の慶賀使として東京へ派遣。しかし、王府内は頑固党の勢力が圧倒的に強かった。琉球王も、この勢力に「絶対に明治政府につくな」と恫喝されていたのである(『松山王子尚順遺稿』より引用)。
明治8年、王府は陳情特使を政府に派遣、「現状維持」を嘆願。さらに、明治10年、在京の清国公使や、米、英、蘭の公使にも愁訴した。一方、明治6年、王府は進貢使を北平(現在の北京)に派遣、北平駐在の日本公使に叱責されていたのである。
明治4年、台湾に漂着した沖縄漁民54名が原住民に殺害されたが、清国はこの補償問題を解決しなかったため日本政府は台湾出兵を断行。補償金を清国に支払わせた。ちなみに、この出兵の際、日本軍には米の顧問がついていた。
台湾出兵の翌年、王府は今帰仁王子を謝恩使として東京に派遣、政府に感謝の意向を示した。
このような情況を筆者はこう断言する。『要するに、琉球は独立国とは名ばかりで、日清両国に隷従し、何ら外交力を有していなかったのである』。(この見解に私には異論がない。)
つづく(余り圧縮されていないことに懸念を抱きつつ
これは メッセージ 8511 (u26699jp さん)への返信です.
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