南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

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南京戦に於ける日本兵の志気5

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/11 12:36 投稿番号: [41079 / 41162]
連隊本部指揮機関
一.曽家門付近ノ戦闘ニ方リテハ連隊ハ旅団ノ右第一線トナリ当面ノ敵ヲ攻撃セリ曽家門付近台上ノハ「コンクリート」製建物ヲ利用シ尚数個ノ「トーチカ」及掩蓋銃座ヲ有スル約二大隊ノ敵ニシテ巾四米ノ鉄条網ヲ繞ラシ頑強ニ抵抗セルモ軍旗ヲ中心トシテ協力一致能ク二十数時間勇戦奮闘間各職責ヲ完シ或ハ進ンデ第一線ニ身ヲ挺シ連絡ニ任ジ或ハ敵情ノ視察ニ任ジ適時有利ナル意見具申ヲ為シ連隊長ヲ積極的ニ補佐シ戦闘指揮ヲ容易なラシメタリ
南京城雨下門ノ攻撃ニ方リテハ本部ハ自ラ敵ノ猛火ヲ冒シ第一線ニ進出シ工兵ノ突撃路開設及第一線戦闘指導ニ任ジ午後三時五十分突撃路完成スヤ突撃部隊ノ先頭ニ立チ敵ノ十字火ヲ冒シ突進本部諸官及伝令相続イテ傷ツキ斃レルモ屈スル事ナク特ニ濱曹長以下十三名ハ本部ノ先頭ニ挺身シ敵ノ逆襲及城壁城ノ守兵ヲ撃退シ午後四時七分遂ニ城頭高ク軍旗ヲ翻シ城壁上及城門内ノ一部ヲ占領シ数次ノ敵ノ逆襲ヲ撃退シ連隊本部戦闘ノ魁トナリ敵国首都占領ノ契機ヲナシタルモノニシテ其ノ武功特ニ抜群ナルモノト認ム

南京戦に於ける日本兵の志気4

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/11 12:36 投稿番号: [41078 / 41162]
通信班
一.曽家門付近ノ戦闘ニ方リテハ連隊ハ旅団ノ右第一線トナリ旅団ト約三千米ヲ離レテ展開セシモ銃砲弾ヲ冒シテ旅団及第一線両大隊ニ速ニ電話ヲ架設連絡セリ此ノ頃敵ノ銃砲撃ハ特ニ烈シク激シク伝令往復全ク不可能ナル状態トナリ所々電話線ヲ切断セラルルモ敵弾雨ヲ冒シ常ニ迅速ニ保線シ重要ナル連絡任務ヲ完フセリ第一線攻撃進捗スルヤ全ク敵ノ猛火ニ見ヲサラシ迂回線ノ撤収及架換ヲ適時実施シ能ク二十数時間ノ間昼夜敵弾雨下ニ連絡ヲ確保セリ銃砲兵連隊ニ協力スルヤ弾着ノ観測修正ヲ適時連絡シ歩砲ノ共同ヲ愈々緊密ナラシメタリ
南京城雨下門攻撃ニ当タリテハ敵ノ猛火ヲ冒シ第一線両大隊及旅団トノ連絡ニ任ジ城壁破壊射撃ノ為協力スル砲兵隊及配属砲兵中隊ニ適時弾着ヲ観測シ之ヲ通報シ常ニ有効ナル射撃ヲ実施セシメ第一線突入スルヤ之ニ跟随シ敵首都南京城ノ一角ヲ占領シ適時重要ナル連絡ヲ確保セリ此ノ機敏ニシテ勇敢適切ナル動作ハ常ニ連絡線ヲ確保シ連隊戦闘指導ヲ容易ナラシメタルモノニシテ其ノ功績ハ武功抜群ナルモノト認ム

南京戦に於ける日本兵の志気3

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/11 12:35 投稿番号: [41077 / 41162]
第三大隊
一. 南京江寧要塞曽家門付近ノ戦闘ニ方リテハ連隊ノ右第一線トナリ当面ノ敵ヲ攻撃セリ曽家門付近台上右側当大隊正面ニハ「コンクリート」製建物ヲ利用シ尚数個ノ「トーチカ」及掩蓋銃座ヲ有スル約五、六百ノ敵ニシテ深サ四米ノ鉄条網ヲ繞ラシ頑強ニ抵抗セルモ能ク二十数時間不眠不休勇戦奮闘二十数名ノ戦死傷者ヲ出スモ愈々旺盛ナル志気ヲ以テ敵ニ肉迫力攻同陣地ヲ突破シ江寧要塞ノ要点タル同高地ノ敵ヲ撃退シ敵陣地組織破壊ノ基ヲナセリ南京城雨下門攻撃ニ方リテハ予備トシテ第一線突撃部隊ノ援護射撃ニ任ジ尚一部ヲ以テ突撃部隊ヲ編成シ突撃ト開設スルヤ愈々的ノ側防火器ヲ制圧シ又城内外ヨリ我ガ第一線ニ逆襲シ来タル敵ヲ排除シ第一線突撃部隊ヲシテ能ク敵首都南京城ノ一角ヲ奪取セシメタリ其ノ功績ハ武功抜群ナルモノト認ム

南京戦に於ける日本兵の志気2

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/11 12:34 投稿番号: [41076 / 41162]
第一大隊
一.南京江寧要塞曽家門付近ノ戦闘ニ方リテハ十日師団直轄トシテ雨花台ノ敵陣地ヲ攻撃シアリタルモ夜ニ至リ連隊ニ復帰スルヤ直ニ連隊予備隊トシテ連隊ノ攻撃ヲ容易ナラシメ十二日ノ拂曉ヨリ連隊ハ兵力ヲ左ニ転用シ曽家門西南側ヨリ重点ヲ指向シ攻撃スルヤ第一線トナリ当面ノ敵ヲ攻撃シ先曽家門付近ノ敵陣據點タル堅塁ヲ一挙ニ突破シ連隊全般ノ攻撃ヲ容易ナラシメタリ南京城雨下門攻撃ニ方リテハ連隊ノ右第一線トナリ敵ノ猛火ヲ冒シ工兵架橋及城壁爆破作業ヲ掩護シ午後三時五十分突撃路完成スルヤ敵ノ側防火器一層猛威ヲ逞シュウセルモ之ヲ伊トスルコトナク午後四時十五分一挙城壁及城内ニ突入シ数次ノ敵ノ逆襲ヲ撃退シ遂次敵首都南京城ノ一角ヲ占領シ本戦捷ノ固ヲ為セルモノニシテ其ノ功績ハ殊勲ノ甲ニ該当スルモノト認ム

南京戦に於ける日本兵の志気1

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/11 12:33 投稿番号: [41075 / 41162]
特ニ功績顕著ナルモノ
第二大隊
一.南京城江寧要塞曽家門付近ノ戦闘ニ方リテハ連隊ノ左第一線トナリ当面ノ敵ヲ攻撃セリ曽家門付近ノ台上ノ敵ハ数個ノ「トーチカ」及掩蓋銃ヲ有スル約二大隊ニシテ正面ハ巾約四米ノ鉄条網ヲ繞ラシ頑強ニ抵抗セルモ能ク二十数時間不眠不休勇戦奮闘力攻シ江寧要塞ノ要点タル同高地ノ敵ヲ撃退シ敵陣地組織ノ破壊ノ基ヲナセリ南京雨下門攻撃ニ方リテハ的ノ猛火ヲ冒シ工兵ノ架橋及城壁爆破作業ヲ掩護シ十二日午後三時五十分突撃路完成スルヤ敵ノ側防火器一層猛威ヲ逞シウセルモ弾雨ヲ冒シ午後四時一挙城壁及城内ニ突入シ数次ノ敵ノ逆襲ヲ撃退シ遂ニ敵首都南京城ノ一角ヲ占領シ連隊戦捷ノ魁ヲ為セルモノニシテ其ノ功績ハ殊勲ノ甲ニ該当スルモノト認ム

硫黄島の日本兵

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/11 08:19 投稿番号: [41074 / 41162]
最後の生存者として、終戦から4年後の1949年(昭和24年)1月2日に潜伏していた元日本兵2名がアメリカ軍に投降した。海軍所属であった両名は千葉県出身の一等兵曹(38)と、岩手県出身の二等兵曹(25)であり、終戦後も島内の洞穴などに隠れて4年間にわたり硫黄島に暮らしてきたものであった。

↑4年間も生きることが出来たんだね。

硫黄島に対する輸送の情況

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/09 09:22 投稿番号: [41073 / 41162]
昭和19年12月4日
1530空襲警報発令味方機五機来島と解り解除なる

昭和19年12月12日
1700SB1隻入港

昭和19年12月22日
午後大型機6機(味方機)来島サイパン空襲に行く様子なり

昭和19年12月26日
本日も味方大型機来島

昭和20年1月27日
今朝SB2隻入港午前中に上陸あり正午迄に出航

昭和20年1月28日
早朝特設輸送船入港

『歴史通』2013年1月号

投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2013/01/09 00:42 投稿番号: [41072 / 41162]
先月から発売されている『歴史通』2013年1月号には、私の投稿が掲載されている。

今回の私(coffee=佐々木益荒男)の投稿は、支那事変における「支那の悪逆暴虐と卑怯な逆宣伝」について特集している。

1937年8月の支那軍による上海市街地爆撃、1938年6月の支那軍による黄河決壊事件、1938年11月の支那軍による長沙市焼き払いなどを中心に、支那事変当時の支那の悪逆暴虐と卑怯な逆宣伝について多数の写真を使用して詳しく解説している。

我ながら、内容も面白く、良い出来だと思っている。

是非、『歴史通』2013年1月号をご覧になり、支那事変の真相の一端を知って頂きたい。

『歴史通』2013年1月号
http://www.fujisan.co.jp/product/1281690614/
■H・Nアイスコーヒー   佐々木益荒男
反日宣伝を狙った人民虐殺   支那軍の空爆・火攻め・水攻め

十六師団が受けた命令4

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/08 09:04 投稿番号: [41071 / 41162]
上海派遣軍命令   十一月二十五日午後八時   於   滸浦鎮

一.軍は常州に向かい敵を追撃中なり

二.兵站は第一線兵団推進の為逐次補給点を滸浦鎮―常熟―常州道竝に常熟―江蔭―常州道に沿う地区に前進せしめんとす
   水路補給輸送は臨時碇泊場司令部之を担任す

三.滸浦鎮兵站司令官は先ず主力を以て滸浦鎮に一部を以て常熟に位置し主として集成騎兵隊第十三師団、重藤隊及第十六師団に対する補給に任ずべし
   警備区域は当分の間福山―常熟水路以東滸浦鎮南北の線に亘る間とし一部の兵力を以て碇泊場司令部の担任する水路輸送を直接警戒掩護すべし
   特に福山鎮は確実に占領するを要す

四.野戦道路構築隊は滸浦鎮―常熟道を自動車を通し得る如く応急補修すべし

五.兵站自動車第四十一中隊は主力を以て前任務を続行すべし

六.野戦予備病院第十五班は主力を以て大吉丸、雲陽丸にありて患者を収容すると共に一部を以て滸浦鎮に上陸し後送患者の受領保護に任ずべし
   野戦予備病院第二十七班は速やかに主力を以て常熟に開設し患者の収容に任ずべし

七.患者輸送師部は第一線兵団の患者後送に任ずべし
   特に第十三師団と密接に連繋するを要す

八.第三兵站病馬廠は先ず常熟に開設し病馬の収容に任ずべし

九.第六師団後備歩兵第一大隊は常熟付近の警備に任ずべし

一〇.第六師団後備野砲兵第一中隊竝に第二師団後備工兵第一中隊は滸浦鎮南側地区に集結待命すべし
   野砲兵中隊は直接福山及梅李鎮方向を射撃し得る如く準備しあるを要す
              軍司令官   松井石根
  下達法   印刷交付

十六師団が受けた命令3

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/08 08:45 投稿番号: [41070 / 41162]
滸浦鎮兵站部

司令官   織田歩兵大佐

第八師団第二兵站司令部(三分一欠)
上海派遣軍野砲兵廠支廠
同      野戦工兵廠支廠
同      野戦自動車廠支廠
同      野戦瓦斯廠支廠
同      野戦衣糧廠支廠
同      野戦衛生材料廠支廠
第九師団第九陸上輸卒隊
第十四師団第四陸上輸卒隊(半隊欠)
第三師団第二水上輸卒隊
第十一師団第二水上輸卒隊(一分隊(三班欠)欠)
第十一師団後備兵第一大隊
第十一師団後備兵第二大隊
第十一師団後備兵第二中隊の一小隊

上海派遣軍野戦道路構築隊

長   秋月工兵大佐
第五野戦道路構築隊
第十四師団第二陸上輸卒隊(一分隊欠)
第十一師団後備兵第一中隊(一小隊欠)

兵站自動車隊第四十一中隊(一小隊欠)
野戦予備病院第十五班(半部欠)
同       第二十七班
上海派遣軍患者輸送部支部
  長岡歩兵少尉
  患者輸送部第十二班
  患者輸送部第二十六班
  第十四師団第四陸上輸卒隊の一分隊(三班欠)
  第十一師団第二水上輸卒隊の一分隊(三班欠)
  兵站自動車第四十一中隊ノ一小隊
上海派遣軍第三兵站病馬廠
第六師団後備歩兵第二大隊(第二中隊欠)
第六師断行歩兵第一中隊
第二師団後備兵第一中隊

他部隊配属部隊
  第九師団第八陸上輸卒隊
  第十四師団第四陸上輸卒隊の一分隊
  第三師団第二水上輸卒隊(一部欠)
  第五師団第一水上輸卒隊

十六師団が受けた命令2

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/08 07:21 投稿番号: [41069 / 41162]
第五通信連絡

十六.通信連絡に関しては別冊通信連絡規定に拠る

第六休養、補給、救護

十七.各兵団は弾薬竝規定外糧秣を可成多数携行上陸するものとす

十八.各輸送船は船内予備糧秣十日分を積載するものとす

十九.上陸後に於ける糧秣及弾薬の第一回補給は十五日以後とする
   補給実施の細部に関しては別に示す

二十.上陸初期に於ける傷者収容の為揚陸作業隊より救護専用艇竝病院船を上陸點附近に準備す

第一次輸送兵団

   重藤支隊
    配属部隊
     永津部隊
      歩兵第二十二連隊
      第十一師団通信隊の一部
      山砲第十一連隊第一大隊
      同    連隊段列三分一
      工兵第十一連隊の一小隊
      輜重兵第十一連隊の一中隊
      第十一師団衛生隊の三分一
      独立機関銃第二大隊
      同      第七第隊
      独立野戦重砲兵第四第隊
      迫撃第一大隊
      同   第四大隊
      独立工兵第九連隊
      第一師団渡河材料中隊
      第十二師団後備兵第一中隊
      第十一師団後備山砲兵第一中隊

   軍直轄部隊
    独立工兵第十二連隊
    第三師団架橋材料中隊
    第十一師団後備兵第三大隊
    同      後備兵第四第隊
    第七師団後備兵第六第隊
    第六師団後備兵野砲兵第2中隊
    近衛師団第十野戦高射砲隊
    同     第二野戦照空隊
    野戦瓦斯第七小隊
    第五野戦気象隊の一部
    軍通信隊の一部
    兵站の一部

   第十六師団
    第四師団第一野戦高射砲隊
    第五師団第五及第六高射砲隊
    無線通信第二十六及第二十八小隊(車)
    同     第四十三小隊(駄)
    第一野戦瓦斯隊本部
    野戦瓦斯第五及第十三中隊
    野戦瓦斯第六中隊
    第九師団第一兵站司令部
    野戦予備病院第十七班
    患者輸送第二十六班
    野戦鑿井第二中隊
   
第二次輸送兵団
  
   第十一師団

    見除部隊
    永津部隊
    配属部隊
    野戦重砲兵第十二連隊第二大隊及同連隊段列半部
    近衛師団第七野戦高射砲隊

    軍直轄
    兵站の一部

↑上記のように第十六師団上陸から南京陥落まで約一月。

昭和十二年十一月十二日上陸、昭和十二年十二月十三日陥落。

この間の人糧補給量4800噸、弾薬1005屯。

十六師団が受けた命令1

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/08 07:20 投稿番号: [41068 / 41162]
上海派遣軍揚子江上流方面上陸計画案(十一月一日軍司令部第一課)

第一要領

一.軍は敵の抵抗を予期し十一月十二日未明より白茆口以西徐六芤口に亘る間に上陸したる後速かに常熟付近に進出して無錫に向かってする前進準備す

二.第三艦隊及海軍航空隊は軍の作戦に協力す
   第一次輸送兵団船隊区分竝護衛艦隊の護衛兵力別紙の如し

第二偵察輸送

三.偵察は海軍艦艇及陸軍機を以て行う企図秘匿の為上陸直前のものは実施せず

四.重藤支隊は月浦鎮成るべく付近に集結後十分訓練を実施す

五.輸送船碇泊場材料竝揚陸作業部隊は十一月八日までに逐次呉淞付近に到着す

六.重藤支隊は九、十日呉淞付近に於いて乗船十一日杭州湾方面に於いて陸海軍総合訓練を実施す其の実施の細部に関しては別に定む第十六師団輸送船隊は十二日馬鞍群島に到着し上陸準備す

七.第一次輸送兵団(第百六十五師団重藤支隊)は十一日午後三時馬鞍群島を出発し十二日午前三時泊地進入を完了す輸送船隊の船隊区分泊地及其の碇泊隊形附図の如し

第三上陸部署及同日日程

八.重藤部隊は白茆口以西徐六芤口に亘る間に上陸したる後常熟を急襲占領し無錫に向かい前進を準備す

九.第十六師団は重藤支隊戦列部隊に引続き上陸し常熟北方地区に進出し爾後の攻撃を準備す

十.第十一師団竝軍直轄部隊の一部は第一次輸送兵団に引続き白茆口、滸浦鎮に亘る間に上陸す
   状況に依り段山以西の江岸に敵前上陸を決行す

十一.上陸日程を左の如く概定す

   (1)第一次輸送梯団
      重藤支隊
       主力は第一日の午前
       一部は第二日

      第十六師団
       一部は第一日の午後
       主力は第二日以降

      軍直轄部隊
       一部は第一日
       主力は第二第三日

   (2)第二次輸送梯団

      第十一師団主力及軍直轄部隊到着に随い逐次上陸

十二.揚陸材料は重藤支隊戦闘部隊の大部の揚陸までは其の全部を之に充当し引続き第十六師団戦闘部隊上陸に使用し爾後の使用に関しては揚陸作業隊長之を区処す
   揚陸用材料は揚陸作業隊所属のものの外中支碇泊場の幹部は所要の人員資材を以て之に協力す

第四揚陸実施

十三.上陸は奇襲に依るを本則とし状況に依り強襲上陸を実施することあり

十四.海軍の行う上陸援護射撃は陸軍側の要求ある場合の外黎明後開始するものとす

十五.軍の上陸は十二日午前五時と予定す
   第一回上陸部隊の発進は重藤支隊張之を命令するものとす

散るぞ悲しき― 改ざんされた電報(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/08 00:24 投稿番号: [41067 / 41162]
栗林忠道中将の   辞世にある   「散るぞ悲しき」   という言葉。
兵士たちの死を、栗林は   「悲しき」   と表現した。
それは、率直にして   痛切な本心の   発露であったに   違いない。
しかし、当時の「皇軍」   にあっては、許されないことだった。

栗林中将は   わかっていたのかも   しれない。
「徒手空拳」   という言葉が、大本営の   お偉方の心情を
逆なでするであろうことも、また、部下の死を   「悲しき」と
嘆じることが、帝国軍人にあるまじき   タブーであることも。

しかし、勝利も   帰還も望めない戦場にあって、最後まで
死よりも苦しい持久戦を命じた自分の言葉を守った2万将兵のために、
どうしても、言わないわけには   いかなかったのではないだろうか。
この電文は、日本国民への   メッセージであり、戦争指導者たちへの
プロテストであり、歴史への証言であったのだ   と思う。

あらためて、栗林の   最後の電文が   日本軍上層部によって
改ざんされた   意味を、もういちど   考えるべきである   と思う。
戦争を知らない自分には、最初、栗原の   訣別電報の文言は、
一見すると、いかにも   軍人らしく、いさぎよい   美文に思えた。

しかし   その後、じつは   そうではないことに、気がつく。
改ざんされた   電文を知り、さらに   硫黄島戦の生存者の証言を聞き、
資料を調べていくうちに、訣別電報に込められたものが   見えてきた。
そこから、あの時代が見え、戦場が見え、   「皇軍」が   見えてくる。

「玉砕」という   美しい言葉、   「皇国の必勝と安泰」   という麗句、
「全員壮烈なる総攻撃」   などという   勇壮で華々しい   修辞。
大本営による   これら数々の用語からは、本当の戦場は   見えてこない。
いまなお、ヤスクニ神社が   流布し続ける   大本営そのままの美辞麗句も
これと   同じだ。   そこでは、兵士たちの   本当の苦しみや   悲しみは、
消去され、戦場の実相は   軍部にとって都合よく   改ざんされている。

ヤスクニ神社は、栗林の電文を改ざんした張本人の戦争指導部を含めて
「皇軍」   そのものを、「神」   として   麗々しく   祭りあげている。
そして、この施設に   展示されている、兵士が残した「言葉」   はすべて  
皇軍上層部が   細かく   検閲し、許可したものに   ほかならない。
当然、都合のよい改ざんが加えられている可能性は   きわめて高い。

家族に   戦地から41通もの手紙を書き、長文の戦訓電報をしたため、
こまめに感状を出して   部下の武勲が上聞に達するよう取り計らった
栗林は、最後まで   “伝える意志”を   持ち続けた   人物だった。
その意志は、訣別電報の、まさに   一字一句に   あらわれている。

いま、皇軍の大本営が改ざんしたものと   比較しながら、その原文を
読むとき、栗林が   現代に向けて   メッセージを送り続けているように
思えてならない。   いま   歳月をこえて、彼が伝えようとしたことを
真摯に   受け止めたい   と思う。

散るぞ悲しき― 改ざんされた電報(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/08 00:22 投稿番号: [41066 / 41162]
栗林忠道中将の   絶唱ともいえる   「訣別電報」   の電文は、
大本営によって   改ざんされ、新聞紙上に   発表された。
昭和20年3月22日付の新聞各紙は、大きく   硫黄島の陥落を報じ、
各紙とも一面で   栗林の   「訣別電報」   の電文を   掲載したが、
それは、次のような   文章となっていた。

   戦局最後の関頭に直面せり
   十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち
   皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ
   全員壮烈なる総攻撃を敢行す

改ざんされた電文が   強調したのは、「皇国の必勝と安泰」   だった。  
栗林中将が強調した   将兵たちの苦闘は、どこにも   示されていない。
続く   「壮烈なる総攻撃」   という言葉は、当時   さかんに使われた
常套句であり、栗林の   実際の電文には、どこにも   出てこない。
つまり   この文言は、大本営が   勝手に   付け加えたものだ。

さらに、この後に続く   部分にも、栗林が書いた電文にはない
「将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ」   という文言が
挿入されている。
逆に、栗林の電文には   あって、新聞発表では   削られた表現がある。
「宛然徒手空拳を以て」   という部分が   それだ。

武器もなく、補給も途絶えた中で   戦わねばならなかった兵士たちの
苦しみ、悔しさ、それを栗林は   「宛然(=まるっきり)徒手空拳」
という、はっきりした言葉で   表現した。
もちろん、大本営が   これを見逃すはずは   なかった。

栗林の電文が、まず   訴えたかったのは、補給も   援軍もなく、
桁違いの物量で攻めてくる敵に   「徒手空拳」   で立ち向かわされ、
「弾丸尽き水涸れ」て、斃れていく   兵士たちの姿であることは、
一読して   解る。   当時の指揮官としては   異色の、形式を越えて
言うべきことを   言おうとした電文   といってよいだろう。

栗林は、絶海の孤島に   屍を晒し、遺品も遺骨も   故郷に帰れない
部下たちの   悲しみを、せめて   本国の人々に   伝えることが、
指揮官の務めだ   と考えたのだろう   と思う。
しかし、大本営は、その伝言を   国民の目に   触れさせまいとした。

電文には   もうひとつ、決定的ともいえる改ざんが   加えられている。
「国の為重きつとめを果たし得で   矢弾尽き果て散るぞ悲しき」
これは、電文の最後に添えられた   栗林の   辞世の歌だ。
その末尾の   「散るぞ悲しき」   の言葉が、
新聞発表では   「散るぞ口惜し」   に変えられていた。

栗林家に   保管されている   電報の実物には、この歌の頭に  
朱筆で、大きく   丸印が   付けられている。
そして、「悲しき」   の部分が   黒い線で   消され、
右脇に   「口惜し」   と書き加えられていることが   分かる。

散るぞ悲しき― 改ざんされた電報(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/08 00:20 投稿番号: [41065 / 41162]
補給路の確保も増援の手立ても見通しが立たない状況にもかかわらず
最後まで   自軍に   撤退も降服も許さず、文字通り   「死守」   を命じ、
多くの将兵の命を奪い続けた日本軍部の   構造的欠陥を、明確に示す
例として、もう一つ   上げるとすれば、それは   硫黄島の戦いだろう。

硫黄島の攻防戦は、太平洋戦争における最大の激戦として   知られる。
当時、硫黄島守備隊の指揮をとった   栗林忠道中将は、もともと
海軍の   山本五十六長官と同様に、アメリカ滞在の   経験があった。
両国の戦力の差を   熟知しており、当時の日本軍の中でも   最後まで
開戦に否定的な   理性派として、貴重な存在だった。

攻撃開始前、米軍は   硫黄島が   5日程度で落ちる   と見込んでいた。
しかし、栗林は   徹底した持久戦によって、強大な敵を   迎え撃った。
守備隊は地下に潜り、劣悪な環境のなかで   36日間も   闘い続けた。
栗林が   昭和20年3月16日、最後の総突撃を前に   発した無電、
いわゆる   「訣別電報」の電文が、防衛省の資料に   記録されている。

訣別電報の実物は、現在も   遺族の手元に   大切に   保管されている。
大本営宛ての電文が、栗林家に   あるのは、硫黄島の「玉砕」が新聞で
報じられた   3月22日に、大本営陸軍部の大佐が   栗林の妻を訪ね、
「これをもって遺骨と思われるべし」   と言って、渡していったからだ。
電報には   「軍事極秘」   「警急」という赤いスタンプが押されている。
以下に、その電文の一部を   抜粋して、引用する。

    戦局最後の関頭に直面せり(中略)   宛然徒手空拳を以て
    克く健闘を続けたるは   小職自ら聊か悦びとする所なり
    然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ   為に御期待に反し
    此の要地を   敵手に委ぬる外なきに至りしは
    小職の誠に恐懼に堪へざる所にして   幾重にも御詫申し上ぐ
    今や弾丸尽き水涸れ   全員反撃し最後の敢闘を行はんとする

電文にある   「弾丸尽き水涸れ」   というのは、決して   修辞ではない。
大本営は   まともな補給路も確保せずに、孤島の守備を命じた   結果、
守備隊の砲弾は   尽きていた。   米軍戦車隊を撃破して進軍を阻止した
砲兵に対して感状が授与されることになったとき、当の   砲兵隊長が
「感状などより弾が欲しい」   と訴えて涙した、という話も   残っている。

砲は健在だが   弾薬はすでに無く、できることは肉迫攻撃しかなかった。
また、硫黄島の   水不足に関しては   よく知られている。
島には   一本の川もなく、井戸を掘っても   濁った塩水しか出てこない。
飲み水は   雨水に頼るほかなく、戦闘が始まると   貯水槽は   破壊され、
生命を支える最低限の水さえも   確保することが困難となっていたのだ。

戦場は   地獄というほかなく、勝利の可能性は   まったく   無かった。
大本営は、補給も援軍も送らず、守備隊の兵士を   撤退させることも、
敵に降服することも   最後まで許さず、全員を見殺しにしてしまった。
兵士たちが   地獄の中で、勝ち目のない戦闘に   身を投じているとき、
軍の統帥権を持つ   大元帥陛下は、臣下から和平工作を上奏されても、
いま一度戦果をあげてから交渉せよ   として、その進言を退けていた。

現場指揮官の証言

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/07 19:57 投稿番号: [41064 / 41162]
第十六師団の   現場指揮官たちが   どのような命令を
受けていたのかを、当事者の証言で   確認してみよう。

   【歩兵第三十八連隊副官の述懐古】   
   聯隊の第一線が京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り
   乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として
   「支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ」と電話で伝えらた。
   (中略)
   部隊としては   実に驚き、困却しましたが   命令やむを得ず、
   各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告は
   ありませんでした。
   激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。

   【独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長の証言】
   第一中隊(十五センチ加農砲)の任務は   太平門に突進する
   佐々木支隊に   協力することであったが、南京が   陥落した
   12月13日、仙鶴門鎮付近で首都防衛決死隊の夜襲をうけ、
   かつ   多数の投降捕虜を得たので、その状況を   略述します。
   (中略)
   その行動は   極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、
   取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。
   (中略)
   俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えており
   ませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速
   軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言って
   きましたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」
   と命令されました。
  
   【歩兵第十六師団司令部副官の遺稿】   
   私は   その時、“一万の捕虜をどのように収容するか”   を
   考えなければ   ならなかった。
   南京城内には刑務所があるだろうから、そこに入れるとしても
   食わせるものが   ない。   我々自身が   イカモノを食いつつ、
   その日を   過ごしているのに   如何とも   なし難い。
   しかし、人間は水さえ飲んでいれば十日や二十日は保つと
   いうから、食飼のことは   何とかなるだろう。
   参謀長に   指示をうけようとしたが、参謀長は   即座に
   「捕虜はつくらん」   と言われたので、後方参謀に話した。
  
いずれの事例でも、捕虜もしくは投降兵について、軍司令部なり
師団なり   参謀なりが、明確に「殺せ」という指示を出している。
この方針については、早くも1938年、石川達三氏が   中島師団長
麾下の   第十六師団に取材して書いた小説、「生きている兵隊」に
登場している。

  
   【石川達三著「生きている兵隊」より】
   こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。
   自分たちが   これから   必死な戦闘にかかるというのに  
   警備をしながら   捕虜を連れて歩くわけには   いかない。  
   最も簡単に   処置をつける方法は   殺すことである。
   しかし   一旦つれて来ると   殺すのにも気骨が折れてならない。
   「捕虜は捕えたらその場で殺せ」   それは特に命令というわけ
   ではなかったが、大体   そういう方針が   上部から示された。
   笠原伍長は   こういう場合にあって、勇敢に   それを実行した。
   彼は数珠つなぎにした十三人を片ぱしから順々に斬って行った。

 
南京事件を必死で否定し、その実態を隠そうと血眼になる連中は、
捕虜にしないとは   「釈放する」   という意味だ、壕を掘るのは
「収容監視する」   ためだ、などと   大マジメに   主張する。
勝手な憶測を前提に、捕虜の殺害はなかったと   主張してみせるが、
それは、まったく   説得力がない。   ただ   見苦しいだけなのだ。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(18)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/07 19:54 投稿番号: [41063 / 41162]
中国大陸に武力侵攻した日本軍が、南京などで   捕虜にした
多数の中国軍兵士を   組織的に   大量殺害した事件の背景に
補給線確保の軽視という   日本軍の特質があった。
自軍の食料さえ   確保困難な状況のうえに、予想を超える  
大量の捕虜が発生し、その給養に窮して   殺害に及んだのだ。
日本軍将兵の証言記録などが、それを   裏付けている。

日本軍の   補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において   略奪行為などが   多発する事態をも招いた。
太平洋の孤島や   南方の密林とは違って、多くの人々が住む
中国では、餓死者などはなかったと思われやすいが、敗戦前
2年間の中国戦場では   病死者は戦死者を   上回っていた。

長尾五一軍医中佐の遺著などが、その事実を   裏付けている。
中国戦線で   最後の作戦となった第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月〜6月の   3カ月間の死者数は   戦死が695人、
戦傷死322人、戦病死2184人、計3201人にのぼり、
「第二十軍の統帥発動以来終戦までの各種比率」については
「戦死、戦傷、戦病死   おおむね   4対5対9」   である。
(第二十軍軍医部の戦死・戦病死者別一覧表の注)

中国戦線でも、戦死・戦傷より   「戦病死」   が圧倒的だ。
負傷した後に、包帯所や   野戦病院で   死亡する者も多かった。
ことは、患者の給養がきわめて悪かったことと無関係ではない。
病死の大部分が   長期間の給養不足で、栄養失調状態にあって
病気に対する抵抗力を失っていたため、戦病死に至ったものだ。
これも   広い意味で   餓死の分類に入る。

中国戦線での   45万の戦没者の   過半数が戦病死、それも
給養不足に基づく   栄養失調や、それが原因での体力の消耗
による   広い意昧での餓死であった   ということだ。
日本軍が、補給らしい補給もなしに   現地調達する方針は、
明治以来   一貫していた。   日清戦争でも朝鮮出兵軍からの
補給困難の訴えに対し、参謀本部は次のように訓令している。

   「古昔、兵家の格言に因糧於敵(糧を敵に因る)の一句あり。
   爾来   内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものは
   この理由に外ならず。…糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、
   いわんやこれを運搬する人夫においてをや…」
   (明治27年6月29日、参謀総長熾仁親王から混成旅団長
   大島義昌あての訓令)

「因糧於敵」、これが   侵略軍としての   行為の根本にあった。
日本軍兵士の   戦地栄養失調症を含む   広い意味での餓死者は、
合計で   127万6240名に達し、全体の戦没者212万の
約60%   という割合になる。   靖国神社が「英霊」   として
誉め讃える戦死者のうちの半数以上が、華々しい戦いの中に
散ったのではなく、飢餓と衰弱死に   追いやられたのだ。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(17)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/07 19:52 投稿番号: [41062 / 41162]
大量餓死によって、夥しい数の「英霊」   が生み出された。
その原因の   第3は、日本軍隊の   特質にあった   と言える。
ひとつは、日露戦争後の   日本軍の   軍事思想の中心に、
精神主義への過信があった   という点にある。

もともと   日本軍は、天皇への忠誠と   死を恐れぬ勇気を
将兵に要求した。   日本軍兵士は、天皇のため戦い、死ぬ。
国民の権益を守るため国民自らが組織することを基本とする
欧米の近代軍とは異なり、前近代的な忠君報恩を基本とする
錦旗の下の「皇軍」   が、近代もなお   存在してしまった。

兵士に要求されたのが、忠義第一とする   武士道精神だった。
命を惜しまず   名を惜しめ、生き恥をさらすより   死を選べ、
という教育が、皇軍兵士に   徹底的に   施された。

武士道精神は   近代戦においては   何の役にも   立たない。
この事実は、陸軍の父・大村益次郎が   実証したはずだった
にもかかわらず、軍の規範には   「武士道」   がすえられた。
武士道を基調とする精神主義は   兵士を組織に絶対服従させ、
個人個人の自発性を   失わせるうえでも   威力を発揮した。

天皇への忠誠を柱とする   精神主義の強調は   軍人勅諭に
表され、日本軍兵士の行動を   縦横に   縛り付けていた。
日露戦争での勝利も、日本軍に   欧米の模倣から脱却して
独自の軍事思想を確立させる機会となった。   物量よりも
精神力を重視し、歩兵の銃剣による   白兵突撃戦が最後の
勝敗を決するものだという   白兵主義に   つながった。

日露戦争で、砲兵火力で勝るロシア軍に対して、日本軍は
銃剣突撃をもって   旅順、遼陽、奉天で   勝利を収めた。
この経験から、日本軍部には兵力の多寡、装備の優劣より、
精神力の差が   勝敗を分ける   という軍事思想が根付いた。
こうした精神主義は、補給の軽視を生み、敗因となった。

こうした   火力軽視、白兵主義は、火力装備の発達した
近代の軍隊に対しては、まったく   通用しなかったのだ。
日露戦争において   旅順要塞への白兵突撃を繰り返して、
屍体の山を築いた   教訓は、少しも   生かされなかった。
速射砲や機関銃の弾幕、十字砲火の中に   白兵で突入する、
そんな作戦を   繰り返し、無駄な犠牲が出ても、第一線の
実情さえ知らない参謀や高級指揮官は、突撃を命じ続けた。

ガダルカナルでの失敗も   生かされず、ソロモン諸島でも、
ニューギニアでも、フィリピンでも、ビルマでも、皇軍は
白兵主義を盲信して   米軍の火力の前に死体の山を築いた。
こうした   無能な作戦を強行した   軍上層部連中と一緒に、
十把一絡げにして、悲惨な餓死を強いられた犠牲者たちを
「護国の英霊」だ   などとして   祀りあげることは、
戦争犠牲者の冒涜であり、厚顔無恥も   はなはだしい。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(16)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/07 19:51 投稿番号: [41061 / 41162]
前述してきたように、日本軍戦没者の過半数が   餓死だった。
戦闘で   華々しく   戦い、玉のように砕け散ったのではなく、
飢えと   病気にさいなまれ、やせ衰えて   無念の涙を流し、
密林の中で   次々と倒れて   死んだのだ。
こうした   悲惨な結果をもたらした原因を   考察してみよう。

まず   第1に、補給無視の   作戦計画が   あげられる。
軍隊が行動し戦闘するためには   兵員と軍需品の輸送手段と、
弾薬、資材、食糧などの軍需品を供給する補給が欠かせない。
ところが、日本軍は   作戦を重視していたわりには、
補給確保、特に   食糧補給を   きわめて   軽視していた。
作戦目的ばかりを重視して補給を無視した無謀な作戦ばかりが
各地で実行され、結果として   多数の将兵を餓死に追いやった。

ガ島敗戦の際に、今村第八方面軍司令官が   第十七軍司令官に
対して、この敗戦は   「饑餓の自滅」   であり、その原因は
「全く   軍部中央部の   過誤による」   もので、これは
「補給と関連なしに、戦略戦術だけを研究し   教育していた
陸軍多年の弊風が累をなし」   たものだ、と語っているのは、
まさに   至言である   と思う。

第2に、兵站軽視の作戦指導にあった   と言えるだろう。
日本陸軍は、伝統的に   対露(ロシア革命後は対ソ連)戦争を
第一の目標として   編成され、訓練を続けてきた   経緯がある。
したがって、その予想戦場は   北満州やシベリアの広野だった。
軍需品や食糧の補給を担うのは   後方部隊の   輜重部隊であり、
その部隊は、戦時に特設する馬を   主な輸送力としていた。

陸軍は   農林省と共同して   全国の農家に馬の飼育を奨励し、
戦時には   この馬を徴発する計画を立てていた。
41年7月、日本軍部は   独ソ戦の推移いかんによっては
対ソ戦を始めようとし、陸軍は   大規模な動員を行なった。
これが   いわゆる   関東軍特殊演習(関特演)だった。

こうした満州への大動員を行なっておきながら、南方攻略へと
大きく国策が転換されたが、後方軽視という状況が現れた。
南方作戦を具体化にあたり、大本営の兵站に関する基本構想は
「原則として   満州の集積軍需品は抽出せず、中国大陸に対する
補給は最大限に削減して余裕を作り、必要な場合は中国方面から
さらに引き抜いて   南方用作戦資材を充足する」   だった。
(参考:防衛研究所所蔵『戦史叢書・マレー侵攻作戦』)

つまり、満州に動員して大量蓄積した軍需物資は、対ソ戦に備え
そのままとし、支那派遣軍から一部を引き抜いて間に合わせよう
という   甘い考えしか   持っていなかったのだ。
「極力内地ノ負担及船舶輸送力ノ軽減ヲ図リ、最小ノ軍需資材ヲ
最有効ニ活用シ現地ニ於テ創意自製自活シ得ルモノハ原則トシテ
之ニ據ルヲ旨トセリ」(南方軍参謀作戦資料)   という具合だ。

しかし、この方針には   欠点があった。
兵要地誌の調査不足による   現地自活主義の破綻は、
やがて明らかになり、大本営の見通しの甘さが   露呈する。
気の毒などは   第一線の   兵隊たちだった。
彼らは、情報収集力のない軍の失敗による   犠牲者だった。

Re: インパール作戦は日本の恥

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/07 07:56 投稿番号: [41060 / 41162]
>僕たち日本人の劣等性が世界にバレてしまった。

↑君の無知が明らかになったんだよ、世界的常識を知らんという、嘘吐く脳死君。

嗚呼恥ずかし、嘘吐く脳死君の様なのが日本の中に入ることが、そうだよね、嘘吐く脳死君。

Re: 牟田口だけが馬鹿だったわけでない

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/07 07:54 投稿番号: [41059 / 41162]
>日本陸軍全体が牟田口のような馬鹿揃いだったのだ

↑馬鹿であった証拠を示した方が良いのでは、そうで内と嘘吐きと言われるよ。


>人の命を道具のように考えて自分は危険なことをしない。

↑戦争では人間は道具だからね、今も昔も変わらない事実だよ、洋の東西に拘わらず。

>中国人が昔から「孫子の兵法」とかで日本人に戦いのノウハウを教えてやったのに馬鹿すぎて知恵を吸収できなかったらしい

↑孫子の兵法を知らなかった中国軍は、どうなったかを考えようね、賢そうなお馬鹿ちゃん。

Re: インパール作戦

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/07 07:50 投稿番号: [41058 / 41162]
>そのイギリス軍の「死傷」17,500   のうち、死者は何人だい?
そのイギリス軍の「戦病」のうち、「戦病死」は何人だい?イギリス軍
の「戦病死」が47,000ということは「あり得ない」。
その日本軍の「戦病」30,000以上というのは、ほぼ100%が「戦病死
(餓死および広義の餓死)」だよ。日本軍側の統計に、死ななかった「戦病」
が出てくることは「あり得ない」。そのWikiの数字は誰が書いたんだい?

↑間違いがあれば正しい数値を示すのが常識だよね、嘘吐く脳死君。

>深刻な歴史事実を冗談のネタにすることは許されないな。

↑英国の記録映画での証言ではそうなった居るよ、日本の勝利だと、嘘吐く脳死君。

英国軍は敗因を徹底的に究明したそうだよ、嘘吐く脳死君。

インパール作戦は日本の恥

投稿者: shoojouji 投稿日時: 2013/01/07 02:31 投稿番号: [41057 / 41162]
僕たち日本人の劣等性が世界にバレてしまった。

ああ恥ずかしい

牟田口だけが馬鹿だったわけでない

投稿者: shoojouji 投稿日時: 2013/01/07 02:29 投稿番号: [41056 / 41162]
日本陸軍全体が牟田口のような馬鹿揃いだったのだ


人の命を道具のように考えて自分は危険なことをしない。


中国人が昔から「孫子の兵法」とかで日本人に戦いのノウハウを教えてやったのに馬鹿すぎて知恵を吸収できなかったらしい

Re: インパール作戦

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2013/01/06 18:11 投稿番号: [41055 / 41162]
>イギリス軍、印度軍   総勢150,000人   損害   死傷   17,500   戦病47,000(第33軍のみで)
>日本軍   総勢92,000人   損害   戦死26,000人   戦病30,000以上

そのイギリス軍の「死傷」17,500   のうち、死者は何人だい?
そのイギリス軍の「戦病」のうち、「戦病死」は何人だい?イギリス軍
の「戦病死」が47,000ということは「あり得ない」。
その日本軍の「戦病」30,000以上というのは、ほぼ100%が「戦病死
(餓死および広義の餓死)」だよ。日本軍側の統計に、死ななかった「戦病」
が出てくることは「あり得ない」。そのWikiの数字は誰が書いたんだい?

>勝敗は一目瞭然だね。日本軍が勝ったんだよ。

深刻な歴史事実を冗談のネタにすることは許されないな。

インパール-さくせん 【―作戦】

1944年(昭和19)一〜七月、日本軍が北ビルマ(現ミャンマー)からインド
北東部インパールに進攻を企図した作戦。無謀な計画のため日本軍は大敗、
ガダルカナル以上の惨状を呈した。

&#8232;&#8232;後年聞き及んだわけですが、惨澹たる敗北で、無惨そのものの状態でした。
&#8232;勿論、当時も、これに関する新聞記事は連日のように出ていましたね。
ただ、切り抜いて張り付ける程のビジアルな写真など載っていなかったので、
記事として切り抜いた記憶はありません。&#8232;加えて、いつ頃からだったか、
ピタリと記事が出なくなりましたよ。おかしいとは思いましたが、それには
裏事情があったとは うすうす感じていたにしろ、これほど見事な負けイクサ
になっているとは信じてもいませんでした。
&#8232;http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/Imphal.html

インパール作戦

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/06 10:17 投稿番号: [41054 / 41162]
イギリス軍、印度軍   総勢150,000人   損害   死傷   17,500   戦病47,000(第33軍のみで)

日本軍   総勢92,000人   損害   戦死26,000人   戦病30,000以上

勝敗は一目瞭然だね。日本軍が勝ったんだよ。

南洋諸島の農業生産高3

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/06 09:08 投稿番号: [41053 / 41162]
ヤップ

玉蜀黍   967   甘藷   274065   薯   5482   タロイモ   140587   里芋類   38610   タピオカ   71906   西瓜10260   南瓜   37114   胡瓜   22721   越瓜   7650   甜瓜   900   茄子   7200   大根   18236   葱   337   漬菜   22511   其の他蔬菜   41340   マンゴー   14179   パイナップル   19875   蜜柑   60716   パパイヤ   3244   レモン   637   麺麭果   116344

南洋諸島の農業生産高2

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/06 09:01 投稿番号: [41052 / 41162]
ロタ

玉蜀黍   146250   甘藷   309375   薯   4875   里芋類   116250   タピオカ15000   西瓜   3000   南瓜   33750   胡瓜   6375   茄子   8437   大根   26250   葱   3750   浸菜   14625   其の他蔬菜   6375   パイナップル   5693   バナナ   323047   蜜柑   23430   パパイヤ   39750

南洋諸島の農業生産高

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/06 08:46 投稿番号: [41051 / 41162]
テニアン

甘藷   750000   薯   1316   里芋類   103129   西瓜103619   南瓜   1507241   胡瓜   94579   越瓜   47850   甜瓜   38625   茄子   98407   葱   97819   漬菜   188932   其の他の蔬菜   6375   パイナップル   3937   バナナ   27862   パパイア   21240

南洋諸島の産業別人口

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/06 08:37 投稿番号: [41050 / 41162]
括弧内は島民を示し、其れ以外は邦人を示す。

サイパン   農業5443(1464)   水産業635(−−)
テニアン   農業5689(−−)     水産業83(−−)
ロタ     農業1995(329)    水産業1995(−−)
ヤップ    農業41(3079)     水産業1190(−−)
パラオ    農業1213(2090)   水産業1190(53)
トラック   農業54(7857)     水産業944(4)
ポナペ    農業796(4596)    水産業316(−−)
ヤルート   農業2(2792)      水産業35(−−)

収穫高
サイパン   玉蜀黍   3750   甘藷   132664   藷   14156   タロイモ9000   里芋   38599   タピオカ11057628   西瓜   245730   南瓜277279   胡瓜   36262   越瓜   5047   甜瓜750   茄子17981   大根   20362

↑サイパンは可成の農業生産力が在ったんだね。

南方日本軍の戦死に関して

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/06 05:42 投稿番号: [41049 / 41162]
日本軍は俘虜になることを禁止していなかった。

之は日本軍全軍に通牒されていた。

日本軍兵士が大量餓死したという記録は何処にも無い。

米軍が占領した時に、日本兵が死者を目撃したという記録は無い。

日本軍と行動を共にした一般市民が餓死を目撃したという記録は無い。

ガダルカナルの撤退は大成功を収めたし、他の南洋諸島の撤退も成功した。

戦後日本の遺骨手集団の証言に依れば、遺骨の七割の頭蓋骨が無いことが判明している。

其の原因は米国人が首刈りを行っていたという、米国の資料に依り証明されている。

この事実を糊塗する為に、戦後米軍は日本軍餓死説をワザと流布したものである。

又同時に、南洋には首刈り族が居て、日本軍が首を刈られたという説を流布したこともある。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/06 05:33 投稿番号: [41048 / 41162]
自昭和十八年二月一日至昭和十八年二月二十八日 第八艦隊戦時日誌 第八艦隊司令部 目次 一、経過……一 二、人員ノ現状……一八 三、令達報告等……二〇 四、参考……八二 五、作戦経過概要……八三 自昭和十八年二月一日至同二月二十八日第八艦隊戦時日誌 一、経過 (イ)一般情勢 敵ノ「ガ」島強化ニ対シ我ハ陸海軍協同シテ「ガ」島ニ対スル戦力増強及補給並ニ「ソロモン」群島ノ防衛強化等所要ノ準備ラ整ヘタル後両軍ノ戦力ラ統合発揮シテ敵ラ制庄シ其成果ラ利用シテ概ネ二月上旬ニ在「ガ」島部隊ヲ「ソロモン」群島ノ要域ニ撤収スルニ決ス

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2013/01/05 22:11 投稿番号: [41047 / 41162]
シナ人て自国民を大虐殺遣っていたんだが〜。お前ウゼイ野朗だの〜。

半万年飢饉だらけのシナ大陸の歴史だがなぁ〜。人間食って来たシナ大陸。

今でも胎児スープ食ってるがなぁ〜。

欧米の価値観は、有る意味シナ畜生と同じ価値感よの〜。お前と似てるかもなぁ〜。欧米の救いは民主主義を育てた事だなぁ〜。そこが華夷秩序で、周辺民族を今現在でも、侵略当たり前の中華自大夜郎主義のシナ畜生と反日であれば何でも良いチョンとの違いだな〜。

お前も、ハヨ反日特亜民族に鞍替えしろい〜。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(15)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/05 20:31 投稿番号: [41046 / 41162]
太平洋の孤島や南方の密林とは違い、人口稠密で物資豊富な
中国戦線では、餓死者など   生じなかった   と思われやすい。
しかし、敗戦前2年間の   中国戦線では   戦死者数よりも
病死者数が上回っており、その死因は   栄養失調、もしくは
栄養失調と不可分の   マラリア、赤痢、脚気など   だった。

中国戦線でも、補給困難による飢餓と   栄養失調による体力
消耗で、病気が重症化して   多数の「英霊」   を発生させて
いったのだ。   ある軍医の記録を   以下に引用する。

  「酷熱多湿なるうえ敵機の跳梁、道路の破壊等により補給は
  予定の如く   行なわれず、敵味方の大軍により   現地物資は
  消費し尽され、将兵の疲労   言語に絶するものがあった」
  (長尾五一著『戦争と栄養』、西田書店1994年より抜粋)

中国戦線の「英霊」増加が   もっとも   集中したのは
最後の2年間であり、その多くが   戦死ではなく病死だった。
その状況は、45年に入って   さらに   深刻になっていた。
中国戦線で最後の作戦となった   第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月から6月の3ヶ月間の死者の内訳は次のとおりだ。

    戦   死      695人(22%)
    戦傷死      322人(10%)
    戦病死    2,184人(68%)
    合   計    3,201人(100%)

圧倒的に多い戦病死者の詳細な内訳は不明だが、その大部分が
長期間の不十分な給養で、栄養失調状態から病気への抵抗力を
失い、病死にいたったことは、軍医の記録から   判明している。
中国大陸では、45万の   戦没者が発生した。
その過半数が   戦病死、それも   給養不足による   栄養失調や、
それが原因での体力消耗による   広い意味での餓死だったのだ。

戦死者よりも   餓死した者が多い、これが   日本軍の特徴だ。
中国大陸でも   太平洋でも、その事態は   変わらない。
このような「近代軍」が   20世紀にも   存在したのだ。
しかし、その悲惨な実態は   「玉砕」や   「散華」という
大本営が作り出した   美しく勇ましい言葉で   覆い隠された。

第二次大戦における   日本軍の戦没者の総数、その中での
戦死・戦病死者などの   正確な割合は、残念ながら判らない。
日本軍の敗北に終わったこともあって、正確に数えることは
きわめて困難であり、多くの戦場が「玉砕」   つまり全滅し、
生存者の証言や記録が失われていることも   原因の一つだ。

また、降伏の直後に、戦争犯罪の追及を恐れて、組織的に
関連資料の大量焼却が実行され、陸海軍の各部隊、さらには
市町村役場の   兵事関係書類までが   焼かれてしまったのだ。
このため、戦後も日が経つにつれて   調査がすすみ
戦没者の数が   どんどん増えていく   という状況だった。
この点からみても、旧軍部の体質を窺い知ることができる。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(14)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/05 20:30 投稿番号: [41045 / 41162]
インパールから   敗退する道は、日本軍兵士たちによって
「靖国街道」、あるいは   「白骨街道」   と名づけられた。
悲惨な退却の様相について、前述した将兵とは別の
一人の   将校の証言を、以下に   引用してみたい。

    兵隊達の姿は   既に骸骨に   等しかった。
    げっそり窪んだ眼が、伸び放題の無精髭と   尖り立った
    頬骨の奥に空ろに光っていた。顔色は日灼けのした上に
    泥濘をまぶしつけて、それでいて、その底に澱む
    不透明な蒼白さが   浮いて見えた。

    手先きは   僅かに皮膚を冠ったばかりの骨が、一本一本
    浮き立ち、その上を通る静脈がどす黒く不気味であった。
    足先きは   靴が脱げない程   ふくらんでいた。
    雨にふやけたのだ。   まるで豆腐糠のように光沢のない
    白さに腫れ上がっていた。靴を穿き潰した者が大勢いた
    が、そんな者の   足先きは   一層ひどかった。

    被服は   いうまでもなく   泥にまみれ切って   臀や肘の
    あたりがべろべろに破れていても修理など出来なかった。
    それを   ひらひらさせながら   歩いていた。
    もう   その頃になると、脚気で全身むくみあがった者は
    いなかった。   とっくに   落伍したのだ。   したがって、
    兵隊達は   一様に枯れ切った細い枯木に   ひとしかった。
     (中略)
    その頃、誰言うことなく、この街道を靖国街道と言った。
    その儘歩き続ければ、靖国神社に通じるという意味である
    (村田平次『インパール作戦―烈兵団コヒマの死闘』より)

1952年に   厚生省援護局の調査したビルマ方面の作戦兵力と
戦没者の数は、次のとおりだ。
    兵   力    303,501
    戦没者    185,149
    帰還者    118,351
戦没者は、じつに   61%にも   達したことが分かる。
これは、陸軍の陸上部隊のみで   航空部隊は   含まれていない。
つまり、海軍と航空部隊を加えれば、犠牲者数は   もっと多い。
この戦没者の中で、餓死・病死者の割合が   どうであるかは、
正確には判明しないのだが、多くの将兵の証言や記録によると
戦死者よりも   餓死・病死者が   はるかに多かったことが判る。

補給を無視した   無謀な作戦に駆り出され、飢餓地獄のなかで
歩く体力を失い、助けてくれ、連れて行ってくれ   と泣き叫び
友軍兵士の脚に   すがりついていた   重病患者たちの   無念さ、
悲しみを   思うとき、「玉砕」などという粉飾された言葉を並べ
偽りの戦果ばかりを発表し続けた大本営、そして日本軍自体に
怒りと   情けなさを   感じざるを得ない。

同時に、その当時の軍部が   垂れ流した   戦争の大義名分や
美しく   粉飾された   武勇談などを、いまだに疑うことなく
賛美礼賛して憚らない   愚かなヤスクニ派が存在することも、
同じ日本人として   恥ずかしいことであり嘆かざるを得ない。
これでは、平和を生きる   日本国民としては   無責任であり、
無念の死を遂げた大勢の戦争犠牲者に対し本当に申し訳ない。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(13)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/05 20:29 投稿番号: [41044 / 41162]
惨憺たる敗北を喫し、おびただしい数の「英霊」を増産した
インパール作戦の実情について、もう少し   記述しておこう。
南方軍復員本部復員課が   1946年6月に作成した資料、
「ウ号作戦及次期態勢移行ノ作戦間ノ給與及衛生」を引用する。

    歩兵第六十七聯隊   大佐滝口一郎
    給與   終始後方補給皆無ニシテ主食米ハ現地物資ヲ利用
      セルモ、其他特ニ塩補給極メテ困難ニシテ全般的ニ
      極メテ不良ナリ
    衛生   給與ノ素悪、雨期、薬物補給ノ皆無等ニ依リ、
      栄養失調、マラリア、脚気多発シ、戦病死者多発
      スルノ止ムナキニ至リ、衛生状態極メテ不良ナリ

これは、報告の   ごく一部であり、他の聯隊長からの報告も
同様か、あるいは   それ以上に   悲惨な状況を報告している。
いずれも   作戦中は   糧秣の補給がなかったこと、
そのために   栄養失調やマラリア、脚気、赤痢などが多発し、
多数の死者が   出ていたことを   伝えている。

大本営が、作戦の失敗を   ようやく認めて、中止を命じたのは
7月3日のことだったが、ときすでに   遅かった。
兵士の体力は衰え、健康な者など   誰一人   いなかった。
兵士の命を第一に考えるなら、いさぎよく降伏すべきなのだが、
敵の捕虜になるなら死ぬべきだ   とする   皇軍においては
それは許されず、悲惨な退却が   試みられることになった。

飢餓に苦しみながら、雨期に入ったアラカン山系の密林の中を
退却中に力尽きた   将兵の死体が   退路を埋めた。
惨状は、生き残った兵士によって、次のように描かれている。

    遺棄された死体が横たわり、手榴弾で自決した負傷兵の
    屍があり、その数が   だんだん増えてきた。
    石ころの   難路を越え、湿地にかかると、動けぬ重症の
    兵たちが三々五々屯していた。水をくれ、連れていって
    くれと   泣き叫び、脚にしがみついて   放れないのだ。
    髪はのび放題のび、よくもこんなにやせたものだと
    思うほど、骨に皮をかけただけの、あわれな姿だ。
    息はついているが、さながら   幽霊だった。
    (中略)
    途中、潅木の中にひそんだ盗賊にやられた兵が、
    腹部を至近弾でやられ、雑嚢が散乱している姿を見た。
    戦争は生きることの全貌を一変させるものだ。
    生きるためには、味方さえ   殺しあうのだ。
    われわれも、恥もなく   屍についた雑嚢を探したのだが
    食い物はなにひとつはいっていなかった。   おぞましい
    非人の仕業もあきらめ、歩いては休み、休んでは歩き、
    体内に残る生命の焔をかきたて、生きようとする苦行だけは
    つづけた。   (志摩辰郎「地獄街道の戦い」より引用)

日本兵は、餓死寸前の状態で、インパールからの退却を続けた。
まさに   地獄であり、どこにも   美しい「散華」は存在しない。
このような   退却の様相は、ほかの将兵によっても語られている。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(12)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/05 20:28 投稿番号: [41043 / 41162]
ガダルカナル、ニューギニアなど   太平洋の島々のほかにも、
補給無視で   「英霊」   を大量に増産した作戦として   有名なのは、
1944年に   ビルマ方面軍が   強行した   インパール作戦だ。
戦力枯渇が目立つ44年になって、成算のないインド領への
大挙侵攻を実行するなど、無謀というほかない   作戦だった。
じつは、第十五軍司令官の   功名心から   実行されたものだ。

チンドウィン河を渡り、インド・ビルマ国境アラカン山脈を
越え、インド領内に侵入しようという   この作戦の経路には、
密林と   山脈があり、交通機関はなく、第十五軍の3個師団
10万の大軍の   兵站線確保の見込みは   最初からなかった。
すでに制空権は   連合国軍に移り、昼間の行動は   困難であり
道路を構築するための資材も土木機械も   日本軍にはなかった。

道路があっても、制空権がないため   物資を運ぶための
自動車を   走らせることはできず、また   走らせる自動車も、
ガソリンも欠乏していたのだから、土台   無理な計画だった。
なお、このときの   第十五軍   司令官は、盧溝橋事件の際の
支那駐屯歩兵第一聯隊長で、戦争のきっかけを作った人物だ。

軍司令官は、作戦に懸念を表明する補給担当の参謀を一喝し、
像や牛、馬、水牛の収集と   調教を命令した。
これらの動物に荷物を背負わせて運び、用が済んだら殺して
食べるのだといい、この作戦を   義経の「鵯越え」   や、
ハンニバルのアルプス越えに例えて得意になっていたという。

当時、大本営の作戦課長だった真田穣一郎大佐は、報告を受け
「第十五軍ノ案ハ徹底的ト云フヨリ寧ロ無茶苦茶ナ積極案ナリ」
と回想録に書いた。   (引用:『戦史叢書・インパール作戦』)
ところが、この“無茶苦茶な”作戦が、南方軍の認可を受けて
実行に移されてしまった。日本軍には構造的欠陥があったのだ。

3月上旬、携行食糧2週間分を持って、チンドウィン河を渡り、
攻撃を開始した   第十五軍の兵隊たちの運命は、悲惨だった。
左翼の第三十三師団は、3月下旬にインパール平地に達したが
食糧はなくなり、弾薬も不足して   攻撃続行が困難となった。
軍司令官は   これに憤って、師団長の柳田中将を罷免した。

中央を進んだ第十五師団も、インパール間近まで   迫ったが、
三十三師団と同様の状況から   攻撃が頓挫した。軍司令官は
消極的だとして、第十五師団長の山内中将も   罷免した。
右翼を進んだ第三十一師団の佐藤中将は、インパール北方に
進出していたが、「米一粒も補給がない」ため、独断で退却。

この佐藤中将の判断は当然であったが、日本軍という特殊な
組織では   許される行為ではなく、抗命の容疑で罷免のうえ、
軍法会議にかけられ、精神錯乱ということで   片付けられた。
軍司令官は   3人の部下師団長を全員罷免し、強引に攻撃を
督促したが、補給の途絶えた   部隊の状況は   地獄だった。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(11)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/05 20:26 投稿番号: [41042 / 41162]
補給無視の   無謀な作戦で   大量の餓死者を出した   例として
ガダルカナル戦と   ソロモン群島の   戦闘状況を   前述したが、
これらは、「英霊」   大量増産の   ごく   一例   にすぎない。

餓死・病死は、太平洋の   全戦域にわたって   多数発生した。
これは、日本軍の   近代軍にあるまじき欠陥に   要因があった

無謀な侵攻作戦の例は、ガ島やソロモン群島の他にも数多い。
たとえば、1942年の   ポートモレスビー攻略戦。
道なきジャングルを   踏破して、標高4千mの   山脈を越え、
ニューギニア東南岸を攻略するという無謀きわまりない作戦で
結果、日本軍は惨敗・退却したが、敗残兵の多くは補給もなく
餓死者を   大量に発生させて   全滅に近い状態   となった。

このときの様子を、歩兵第百四十四聯隊の小岩井第二大隊長が
次のように述べている。

    食糧の欠乏は、敵弾以上の徹底的損害を   我が軍に与える
    ようになって来た。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を
    消耗しきってしまい、頬は落ち   髪は伸び放題となり、
    眼球は深く   凹んで   底に異様な光が残った。
    そして顎はとび出し、首は一握りほどに細り、気力なく
    足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているものは破れ、
    跣足で棒のように痩せた腕に飯盒をぶら下げ、草を摘み
    水を汲んで歩く姿にはどこにも二、三十才の年齢は見られず
    老いさらばえた乞食といった様子だった。

    栄養失調の衰弱した体に   一たび下痢が始まりマラリアが
    頭を擡げると、血便をくだし、四十度前後の高熱に襲われ
    キニーネ等の微温的な投薬では解熱どころか却って下痢を
    悪化し、発病までは一粒の米でも貪り食った者が、今度は
    戦友の心尽くしの一滴の粥すら   欲しないようになり、水
    ばかり飲んで喘いでいるのだった。
     (中略)
    患者はたいてい一週間も発熱を続けると   脳症を起こして
    うわ言をいい始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉
    のように飽気なく死んで行った。
    三十才にもなろうかという男が   無意識に   母親の名を
    呼び続けて   死んで行くこともあった。
     (中略)
    この作戦の終ったあとで戦歿者の統計を調べると   三割が
    敵の弾による戦死、残る七割は病死だった。

戦場の実態は   このような惨状だったが、大本営はこれを「玉砕」
という   美しく華々しい戦闘死であったかのように   伝えている。
無謀な作戦に駆り出され、補給もないまま   やせ細って   死んだ
多くの犠牲者の無念、苦しみ、悲しみは   すべて覆い隠された。

Re: 大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2013/01/05 18:46 投稿番号: [41041 / 41162]
持久戦(じきゅうせん protracted warfare)とは敵の戦闘力の撃滅ではなく、自己保存を主な目的とした作戦・戦闘をいう。決戦の対義語。

蘘國神社には祖国の歴史が秘められている

投稿者: newdendenmaru2 投稿日時: 2013/01/05 18:03 投稿番号: [41040 / 41162]
開戦劈頭の真珠湾攻撃で散った英霊、マレー作戦で散華した将兵等、緒戦の華々しい作戦で国に殉じた御祭神は、往時の戦況篤と御存じである。更に戦争末期、南の島で玉砕した英霊、特攻隊として命捧げた御祭神は、言い残すこと多くお持ちであろう。遡れば日露戦争の橘中佐や広瀬中佐と、多くの御祭神にも後世に伝える事があろう。

  遠く遡り安政の大獄で刑死した志士達。このように一世紀に亘り国に殉じた神々を祀る社。額突けば、そこに祖国の歴史がある。

  祖国の歴史を忘れた民族は滅びる。国史学の泰斗平泉澄先生は言われる。

「歴史は、歴史を尊敬する人に属し、その門を開き、その手を執る。之に反して、無視し軽視する者に対しては、当然その面を蓋い、袂を分つ。先人の情感、意志、努力を尊敬し、その教訓を親愛し、その志業を継承せんとする者に対して、歴史は無限の喜と力を与える。若し一定の公式にあてはめ、物の支配する所として把握しようとすれば、先人に声無く、歴史は影をうつさぬであろう。」父祖の足跡という著書の序文にある言葉であり、一汎論として共鳴するが、前述の蘘國御祭神の秘めたる歴史は、祖国存亡に係わるもので、もっと深刻な史実である。

  撒き餌をもって民衆を釣り政権の座についた民主党は、蘘國神社に参拝せず、「どなたもわだかまりなく戦没者を追悼できる国立の施設を作る」という。わだかまりなくとは、中国に文句言われないことであろう。歴代政府は何故内政干渉をはねつけなかったのか。

  国内にもわだかまりが無い訳ではない。東京裁判でA級戦犯として処刑された東條元首相以下が祀られているからだとする。しかしこれは神社が勝手にやったことではない。国の議会が決めたことである。それにも増して、怪しからんのは、戦死したら蘘國神社に祀り祭祀は国が行うと約束しておきながら、それが行われないことである。確かに合祀は行われた。しかし春秋の大祭に天皇陛下は勅使を御差し遣わしになるが、政府は知らん顔、鳩山首相は参拝しない。閣僚にも自粛するよう求めている。

  政府の態度がどうあろうと、蘘國神社に対する国民の尊崇は変わらない。年間の参拝者は六百万人に及ぶという。しかしマスコミはこのことを取り上げない。情ないことだ。

  蘘國神社に替わる追悼施設を創るというがどんな物を創るのか。蘘國神社の尊厳は、そこに戦死者の魂が祀られているからである。代替え施設に魂がある筈がない。戦死者はそんな施設は知らなかったからだ。

  もう一つ、蘘國神社(初めは東京招魂社と称した)は明治天皇の思召しで創られ、安政の大獄以来国事に殉じた人を祀ってあるが、今度創ろうとする施設はどうするのか。政府当事者の考えを聞きたいものだ。

  そんな愚かな考えは下から盛り上がる力で打ち砕き、総理大臣の蘘國参拝を定着化し、やがては天皇陛下の御親拝が出来るようにしなければならない。

  藤田束湖はいう「天地正大の気粋然として神州に鍾る」と。春秋の筆法を借りれば、憂国の至情粋然として蘘國に鍾ると言うべきか。

  今次大戦の御祭神悉く吾人と志を共にせし者なれば、社頭に額突けば亡き戦友数多脳裏をよぎる。

  拝殿に合掌する若き人々、霊感に結ばれるか、御祭神のみ霊とうつし世の心、帰一する処ぞ蘘國の宮

  遠つ御祖の御祭神、吉田松陰あり橋本左内あり、藤田東湖をして言わしむれば、「人亡ぶと雖も英霊未だ嘗て泯びず。長へに天地の間に在りて、隠然彝倫を叙ずるを」と。神社創設せられし明治天皇の宸襟知るべし。

『英霊にこたえる会だより』第45号掲載
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